GINAと共に

第221回(2024年11月) PrEPは気軽に始めてはいけない

 過去2ヶ月連続でHIVのPrEPを取り上げましたが、今回もPrEPをクローズアップします。最近、ある意味でPrEPが"危機的な"状態になっています。あまりにも気軽に始める人が増加し、そして次々にトラブルが起こっています。GINAとしても「この事態は看過できない」と考え、今月(2024年11月)末に東京で開催される第38回日本エイズ学会で報告をすることにしました。今回は、HIVのPrEPによくみられる「間違い」「誤解」について改めてまとめてみたいと思います。

 まず、HIVのPrEPの基本事項をおさえておきましょう。

・U=Uの概念があるわけだから、パートナーがHIV陽性という理由ではPrEPは不要

・PrEPが必要なのはsexual activityが高い人、複数のsex partnerを持つ人、sex workerまたはsex workerの顧客など

・PrEPで防げるのはHIVのみ(HBVは必ずしも予防できるとは限らない)

・PrEPでHCV感染が増えたという報告がある

・PrEPを継続すれば腎機能低下、骨密度低下のリスクが上昇する

・HBV既感染の人がPrEPを開始すると、de novo肝炎が生じるリスクがある

・on demand PrEPは100%成功するわけではない

 と、こんな感じです。ではHIVを予防するのにPrEPはどれくらい有効なのでしょうか。この問いに対する答えは誰を"主語"にするかによって変わってきます。もしも「社会」を主語にすると、すなわち「HIVのPrEPが普及することによって社会が利益を得るか」という問いであれば「イエス」です。実際、PrEPが普及すればするほどHIVの新規感染者は減少し、結果として医療費を抑制することができます。

 では主語を「あなた」とすればどうでしょう。あなたにとって大切なのは「あなたがHIVに感染しない」であって、「社会全体での感染率を減らす」ではないはずです。例えば、「PrEPをしていない集団では人口千人あたり10人が感染して、PrEPをしている集団では1人しか感染しなかった」として、「しかしあなた自身がその1人だった」という結果であれば、あなたにはとってはPrEPの意味がないわけです。

 一般に「予防」を考えるときにこの視点は極めて重要です。ここを曖昧にすると、誤解、対立、さらに分断が生じます。「その予防法についての話は"誰"が主語なのか」をはっきりさせないことには話が噛み合わなくなってくるのです。

 例えば、新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)のワクチンを考えたとき、主語を「社会」とすれば、コロナワクチンは極めて有効です。もしもワクチンがなければ世界の1千万人以上が亡くなっていた(ワクチンは1千万人以上の命を救った)とする報告は多数あります。しかし、主語が「あなた」または「あなたにとって大切な人」だったとき、いくらワクチンのおかげで何千万人の命が救われたと言われようが、もしもあなたやあなたにとって大切な人がワクチンのせいで重篤な後遺症が出たり死んでしまったりすればワクチンの有効性にはまったく意味がなくなるわけです。

 HIVのPrEPも同様です。そして、HIVの場合、コロナやインフルエンザよりも"厳格に"考えなければなりません。コロナやインフルエンザは「感染してもワクチンのおかげで軽症で済む」という利点があります。他方、HIVの場合は"軽症"はありません。「いったん感染すると生涯にわたりウイルスは消えず、感染には軽症も重症もない」のです。つまり、HIVのPrEPの有効率を「あなた」を主語に考えるときには「100%成功しなければ意味がない」のです。

 副作用についても同様です。「社会」を主語にすれば「HIVのPrEPが普及した結果、重篤な腎機能障害を起こした人が1%、骨粗しょう症を発症した人が2%いた」であれば、この程度ならOKなのです。なぜなら、HIV感染を大きく防ぐことができてHIV感染にかかる社会全体の医療費が大幅に抑えられるからです。生活に大きく支障のでる腎機能障害や骨粗しょう症の患者が少々現れたくらいでは、HIVの医療費抑制のメリットの方がはるかに大きいわけです。

 しかしながら、やはり主語を「あなた」とした場合、HIV感染は防げたけれど、重篤な腎機能障害が起こり生涯にわたり人工透析が必要になった、とすればどうでしょう。あるいは骨粗鬆症を患い転倒して股関節を骨折しそのまま寝たきりになった、とすればどうでしょう。それでも「PrEPのおかげでHIVに感染しなかった。自分は幸せだ!」と言えるでしょうか。

 私が院長を務める谷口医院では2012年からHIVのPrEPに関する相談が増え始めました。最初の頃は、「パートナーがHIV陽性」、または「自身がHIV陽性でパートナーにPrEPを考えている」という人がほとんどで、過半数は外国人でした。2015年9月にWHOがPrEPのガイドラインを発表し、その頃からパートナーが、または自身がHIVという人以外の希望者が増えました。2018年7月20日にUNAIDSがU=Uを発表し、谷口医院では「PrEPはもう不要ですよ」と伝えていたのですが、2019年あたりから「東京のクリニックでは希望すればPrEPが処方してもらえるのになんで谷口医院ではできないの?」という"クレーム"が増え始めました。結局、その"クレーム"に押し切られるようなかたちで2021年から海外後発品を用いたPrEPを始めました。

 しかし、上述したような、あるいはこれまでこのGINAのサイトで述べてきたようなPrEPの注意点を説明すると、「見合わせます」という結論を出す人も少なくありません。ところが、昨年(2023年)あたりから、「他院でPrEPを処方されたけれど不安になって......」と訴えて谷口医院を受診する人が増え始めました。詳しく話を聞いてみると、彼(女)らはきちんと説明を聞いていないままPrEPを処方されているのです。

 例えば「骨が脆くなるなんて一度も聞いたことがありません」と言う人は非常に多く驚かされます。PrEPによる骨密度低下は特に体重の少ない人は注意しなければなりません。「PrEP実施の7,698人の3%に骨減少症/骨粗鬆症が起こり、やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べてリスクは3.95倍にもなる」とする報告もあります。

 他にも、HBV既感染者のde novo肝炎(いったんおさまっていたウイルスが再び活性化すること)のリスクを知らされていなかったり、HCV感染のリスクがPrEPによって上昇することを知らされていなかったり、腎機能低下についてはなんとなく知っていてもどの程度のリスクがあるのかを聞いていなかったり(1年間ツルバダでPrEPを実施すれば腎機能障害のリスクが5%上昇するという報告があります)、と枚挙に暇がありません。

 最も問題だと思われるのが「on demand PrEPの失敗例」についての話がほとんどされていないことです。ツルバダ(TDF/FTC)によるon demand PrEPはきちんと服用しても失敗することがあり、正式に報告されています。こういう報告があることを隠して(あるいは知らずに)「on demand PrEPでも100%成功します」などと医師が言ったとすればこれは問題です。

 さらに驚かされるのが、「デシコビ(TAF/FTC)のon demand PrEPでも成功する」と言われた、という人が過去に数人いたことです。繰り返しますが、on demand PrEPの成功率は100%ではありません。ツルバダを使用してさえ失敗例があるのです。デシコビのon demand PrEPとなると、推奨している国は世界のどこにもなくエビデンスも皆無です。にもかかわらずデシコビ(TAF/FTC)でon demand PrEPがこの国ではおこなわれているのはもはや異常事態とも言える魔訶不思議な現象です。もっとも、理論的にはツルバダで防げるならデシコビでも大丈夫だろうと考えたくなります。しかし、医療の世界では理論と実際は異なります。エビデンスがなく世界のどの国もどの機関も勧めていないものを推奨するのは極めて危険です。

 HIVのPrEPを始めるのなら、そのリスクについてしっかりと理解しなければならないのです。


参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」
第220回(2024年10月)「新しいPrEPと世界から取り残される日本」


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第220回(2024年10月) 新しいPrEPと世界から取り残される日本

 前回に引き続き今回もPrEPの話をします。今年の8月、日本でもようやくツルバダ(TDF/FTC)の先発品がPrEPとして使用できることが認められたわけですが、価格は1錠2,442円(税抜き)もしますから、ほとんどの日本人には現実的ではないという話を前回しました。他方、世界ではツルバダはもう古くて、年に2回注射するだけでほぼ100%の感染を防げる、つまりツルバダなどよりも極めて良質なPrEPが実施されつつあり話題を呼んでいます。いわば、日本は周回遅れどころか、5周回ほどの遅れをとっているわけです。今回は、世界で広がり始めたPrEPの新しい方法を紹介し、日本の実情と比較してみましょう。

 まずは世界のPrEPの歴史を振り返ってみましょう(一部は前回のコラムと重なりますが重要な点は再度記します)。

★2011年7月17日 医学誌The LANCETに「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」が掲載され、ツルバダによるPrEPの有用性が紹介された

★2012年7月16日 米国FDAがツルバダをPrEPとして承認。対象は「ハイリスクの成人(adults at high risk)」とされ性自認・性指向に関わらず推奨された

★2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表し、ツルバダによるPrEPの有効性と安全性が確立された

★2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これによりunprocted sexでも治療を受けているHIV陽性者からの感染は起こらないことへのコンセンサスが得られた(しかし、PrEPは廃れなかった)

★2019年10月3日 米国FDAがデシコビ(TAF/FTC)をPrEPとしての使用を承認した。ただし対象は(生物学的)男性のみで、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)には推奨されなかった。これにより、(生物学的)男性はツルバダ、デシコビの双方を服用できる一方で、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)はツルバダのみが使えることになった。

★2021年12月20日 米国FDAがボカブリア(=カボテグラビル=CAB)をPrEPとして承認した。ボカブリアの有用性を示した下記の2つの試験が紹介された

〇試験1:男性と性行為をするシスジェンダーの男性(≒MSM)とトランス女性4,566人がボカブリアまたはツルバダを用いてPrEPを実施。結果、グループA(ボカブリアのグループ)はグループB(ツルバダ内服グループ)よりもHIV感染リスクが69%低下していた

〇試験2:シスジェンダーの女性(性自認と生物学的性のいずれも女性)3,224人を対象に、グループ毎にHIV感染の有無が調べられた。結果、グループAはグループBに比べ、HIVに感染するリスクが90%低いことがわかった

・グループA:ボカブリアの内服(注:ボカブリアは注射と内服の双方がある)を4週間毎日服用し、その後2か月毎にボカブリアの注射を実施

・グループB:毎日ツルバダを内服

★2024年6月20日 ギリアド社が同社製のレナカパビル(=シュンレンカ=LEN)の臨床試験「PURPOSE1」の結果を発表。南アフリカの25か所とウガンダの3か所で、16~25歳のシスジェンダーの女性と少女5,338人を対象に有効性が検証された

・年2回のレナカパビル皮下注射 → HIVに感染したのは0人

・1日1回のデシコビ内服 → 1年間で100人あたり2.02人が感染した

・1日1回のツルバダ内服 → 1年間で100人あたり1.69人が感染した

★2024年10月7日 ギリアド社がレナカパビルの臨床試験「PURPOSE2」の結果を発表。対象者は米国、南アフリカ、ペルー、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、タイのいずれかに在住の「生物学的性及び性自認のいずれもが男性の男性と性行為をもつ人(≒MSM)」、トランス女性、トランス男性、ノンバイナリーのいずれか。結果、レナカパビルはツルバダより89%有効性が高いという結果が得られた

・年2回のレナカパビル皮下注射:2,179人の参加者のうち2人が感染

・1日1回のツルバダ内服:1,086人中9人が感染

★2024年8月28日 日本でツルバダがPrEPとして承認された

 PrEPとしてのレナカパビルの使用は現時点ではまだFDAから承認されているわけではありませんが、2025年中には実現化するのではないかとみられています。臨床試験はPURPOSE5まで続けられる予定です。

 このように世界の流れを振り返れば「日本のPrEPは周回どころか5周回ほど遅れている」ことがよく分かると思います。世界的には「内服PrEPはもう古い。これからは2ヶ月または半年に一度の注射の時代だ!」という流れに以降しつつあるのに、日本ではようやくツルバダが承認されたばかり。米国では2012年7月16日に起こった出来事が、日本では12年以上遅れた2024年8月28日にようやく実現した、かにみえます。これから遅れを取り戻すことができるのでしょうか。

 それは絶望的です。なぜなら、12年遅れで承認されたといっても、日本の対策ではほとんど誰も処方を希望しないからです。米国も日本と同様ツルバダの先発品は高価で、そのままの値段ならほとんどの人が恩恵を受けられません。そこで政府や保険会社などが費用を負担し、事実上無料から1日1ドル程度でPrEPの処方を受けることができるのです。日本は承認されたのはいいのですが、費用を誰が負担するかということに関しては議論が始まってさえいません。いったい誰が1日2,700円もの費用を捻出し続けることができるというのでしょう。

 ついこの間まで、谷口医院ではツルバダの輸入後発品を扱っていましたから、希望する人(特に女性)には処方していました。ですが、すでに在庫をつき、現在処方できるのはデシコビ(TAF/FTC)の後発品だけとなりました。しかし、上記にもあるように米国FDAはデシコビのPrEPとしての女性への使用を承認していませんから、失敗のリスクを考えると女性にデシコビは処方しにくいのです。

 尚、谷口医院では希望者がいればツルバダの先発品(月額80,600円)、ボカブリア(1回307,160円)、シュンレンカ(1回3,530,000円)も処方できますが、現時点で希望者はいません。他方、デシコビ(TAF/FTC)は希望者は次第に増加し、輸入の仕入れ量が増えたおかげで値段はどんどん下がってきています。次回の仕入れからは月額5,500円で処方できそうです。しかし、あるべき姿は廉価な国内品が承認・発売されることに他なりません。



参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」



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第219回(2024年9月) ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった

 2024年8月28日、ギリアド・サイエンシズ株式会社(以下「ギリアド」)は同社の抗HIV薬ツルバダ配合錠(以下「ツルバダ」)をPrEP(曝露前予防)として使用できるよう承認取得しました。ツルバダはこれまでも私が院長を務める谷口医院では先発品もしくは海外製の後発品をPrEPとして処方していました。

 では承認されたことで何が違ってくるのでしょうか。ひとつには承認されたことで、副作用が生じたときに救済制度の対象となることが挙げられます。しかし、救済の対象となるような大きな副作用はめったにないことですから(過去に繰り返し述べたように救済制度の対象外となるであろう副作用は多数ありますが)、これだけだとさほどインパクトがありません。では、何が大きく変わるのでしょうか。

 私も含めて関係者が期待したのは「費用」です。ツルバダの薬価は年々下がっていますが、それでも今でも1錠2,442.4円もします。日本では予防治療に保険適用はありませんから、承認されたといっても治療費は自費診療になります。医療機関の利益をゼロとしたとしても、1日2,442.4円+消費税≒2,700円もかかるわけで、この費用を捻出できる人はほとんどいないでしょう。ですから、ギリアドがPrEPとして承認取得したということは、治療用の薬価はそのままだったとしてもPrEP用には安い値段を設定するに違いないと我々は期待したわけです。

 そこでこの1カ月間、卸業者が
いったいいくらで見積りを出してくるのかと期待していたのですが、待てど暮らせど話がきません。そこで、これ以上待てないと考えた私は複数の卸業者に尋ねてみました。すると、なんと「PrEP用の卸値も治療薬のものと同じ」と言うではないですか。

 あまり知られていないかもしれませんが、実は医療機関が卸業者から仕入れる費用は薬価とほとんど差がありません。つまり、ほとんどの薬はいくら処方しても医療機関の利益にはならないのです。それでも、以前は谷口医院は院内処方にしていましたから(つまり購入量が多かったですから)、いくらかは値引きが期待できたのですが、現在は院外処方にしていますから日頃薬は仕入れていません。PrEPのツルバダは自費診療になるので例外的に院内処方にすることを検討していて、もちろん薬の利益など初めから求めるつもりはありませんが、さすがに処方すればするほど赤字というのは避けなければならず、となるとどうしても上記の1日2,700円はかかってしまうことになります。

 では、これまでどおりツルバダの輸入後発品を仕入れればいいではないか、と考えたくなりますが、これができなくなったのです。元々、日本で流通している薬と同じ成分のものは医療機関で輸入できないのです。しかし、谷口医院ではこれまで輸入を続けてきました......。これは非常にややこしい話で、谷口医院は過去12年に渡り厚生局と様々な"攻防"を繰り広げています。過去にもいくらかは紹介しましたが、ここで改めて谷口医院におけるHIVのPrEPの歴史を振り返っておきます。

2011年7月 GINAと共に第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」で、HIVのPrEPについて、LANCETの論文「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」を引き合いに出して紹介

2012年 外国人から「日本でもPrEPを処方してほしい」という要望が増え始めた。そこで近畿厚生局に問い合わせ、抗HIV薬のクリニックでの輸入の可否を尋ねると「できない」と言われた(詳細は後述します)

2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表した。同時に、豪州人や米国人などから(外国人はPrEPが母国の保険でカバーされるため)「高くても問題ないから先発品のPrEPを処方してほしい」という声が増え、先発品の(高額な)ツルバダをPrEPとして処方開始した。日本人には個人輸入か、バンコクのAnonymous Clinicで処方を受けるよう助言を開始した(同クリニックではツルバダ1錠45円程度だった)

2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これで多くの人にとってPrEPが不要になるのではないかと予想した。ところがそうはならず......

2019年 「東京のクリニックではPrEPの処方ができるのになんで谷口医院ではできないんですか」という質問(クレーム?)が増加

2020年 そこで、関東信越厚生局にクリニックで輸入ができるかを尋ねると「OK」とのこと。しかし近畿厚生局に改めて尋ねるとやはり「NG」だと言う。関東信越厚生局に「なぜ厚生局で考えが異なるのか」と尋ねると「調べて連絡する」と言われたが返答なし

2021年 そこで、東京の輸入業者を使って谷口医院で輸入後発品を用いたPrEPを開始

2023年3月 東京の輸入代行業者から「抗HIV薬は輸入できなくなるかもしれない」と連絡があり、関東信越厚生局に問い合わせると「できない」と言われた。ところが、後に代行業者から「できるようになった」と連絡があり輸入再開できるようになった

2024年8月 ギリアドが先発品のツルバダをPrEPとして承認取得。これを受けて後発品の輸入がまったくできなくなった

 随分ややこしい話です。そもそも近畿厚生局はツルバダの海外製後発品を医療機関で「輸入できない」と言い、関東信越厚生局は「できる」とまったく正反対の見解なのです。厚生局で方針が違うのは奇妙な話です。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか。

 近畿厚生局によると、医療機関が海外製の薬を輸入できるのは「治療上緊急性があり、国内に代替品が流通していない場合」です。ツルバダをPrEPに用いるのは「予防」ですから緊急性があるとは言えないでしょうし(曝露後予防/PEPなら緊急性はありますが)、国内に先発品があるわけですから代替品があるのはあきらかです。よって近畿厚生局の言い分は理解できます。では、関東信越厚生局はなぜOKと判断したのか。おそらく「国内で流通しているツルバダはHIV陽性者への治療用であり、PrEP用ではない」と解釈したのでしょう。これは矛盾があるような気がしますが、ここで食い下がるとやぶへびになり輸入できなくなるかもしれません。そこで私はこの件には触れないようにして、東京の輸入業者を使ってツルバダ後発(及びデシコビ後発)の輸入を開始しました。

 これまで(私を含む)HIVの関係者は「国内でPrEPを承認してほしい」と強く希望してきました。安定供給が求められるからです。2つの厚生局で考え方が違うような薬をいつまでも使い続けるわけにはいきません。実際、以前は関東信越厚生局が輸入を認めていた他の抗HIV薬のRAL(先発はアイセントレス)、DTG(先発はテビケイ)はすでに禁止されています。現在同じような抗HIV薬であるBIC/TAF/FTC(先発はビクタルビ)は(なぜか)認められているのですが、これもいつ中止されるか分かりません(注:谷口医院ではこれら3種をいずれもPEPとして用いています)。信頼できる品質のものが安定供給される体制が必要なのです。そして、1日2,700円はあきらかに非現実的ですから、ギリアドがPrEPの承認を取得するときには安い値段で卸すだろうと期待しました。

 ところが、蓋を開けてみれば、承認されたことで後発品の輸入ができなくなるという皮肉としかいいようのない現実が待っていたのです。これで、ツルバダを入手するには個々がリスクをかかえて個人輸入しなければならなくなりました。上述のバンコクのAnonymous Clinicを訪ねるという選択肢は残っていますが、円安バーツ高に加え、タイの物価高、航空運賃の値上げなどで、以前ほどは魅力がなくなってきています。といっても、最近同クリニックに直接確認してみると、一番安いツルバダ後発品が今も1錠15バーツでしたから、個人的にはこの方法を勧めています。個人輸入よりも直接医師の問診を受けるAnonymous clinic受診の方がはるかに安心できるからです。

 さて、男性は(ストレートでもゲイでも)ツルバダが使えなくてもデシコビ(TAF/FTC)の輸入後発品がありますが、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)は米国FDAがデシコビを推奨していないことからツルバダを使うしかないのですが、ギリアドがPrEPとして承認取得したために今後入手が難しくなります。また、on demand PrEPはセクシャリティに関わりなくデシコビは使えずにツルバダに頼るしかありませんから、今後on demand PrEPは困難になります(ただし、on demand PrEPは米国FDAが推奨していないことや必ずしも成功するわけではないことからGINAとしても谷口医院としても勧めていませんが)。

 こんなことになるのなら、ギリアドは承認取得など余計なことをしてほしくなかった、という声が次第に増えてきています。

参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>​
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「 HIVのPrEPの失敗例」

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第218回(2024年8月) トランスジェンダーと性分化疾患の混乱

 パリオリンピックの2人の"女性"のボクシング選手に対し「女性の資格がない」とする声が上がり、女子1,500メートルで活躍した米国のNikki Hiltz選手に「男ではないのか」という疑惑が浮上し、また、予選の段階で"女性"なのにオリンピック資格を得られなかったLia Thomas選手に同情の声が寄せられるなど、「女性か否かはどうやって決めるのだ?」という問題が世界で盛り上がっています。しかし、日本のメディアはなぜかあまり取り上げないので、今回は誤解を解く意味もこめてオリンピックの歴史を振り返りながらこの問題に立ち入りたいと思います。

 トランス女性(出生時には男性で女性に変わった"女性")がオリンピックに出場できるか否かは以前から問題として取り上げられていましたが、なかなか認められず、IOC(国際オリンピック委員会)がトランスジェンダーのアスリートをオリンピックに参加することを許可したのは今から20年前の2004年です。

 しかし、厳しい基準があり出場資格を得る選手はなかなか現れませんでした。2015年の規定では、トランス女性のアスリートが手術をせずに出場資格を得るには、少なくとも過去4年間は性自認が女性であると宣言していたことを証明せねばならず、少なくとも12か月間は血中テストステロン値を10nmol/L未満に保っていることが条件でした。また、個々の競技について、IOCは各連盟が独自のガイドラインを設定することを許可しました。例えばWorld Athletics(世界陸上競技連盟)はテストステロンの基準を5nmol/Lとしました(後述するように後にさらに厳格化されます)。

 一般に、男性の血中テストステロン値は10~30nmol/L(年齢や計測時間により差がでます)で、若くて健康な男性は通常20~30nmol/Lの範囲です。女性の基準値は0.7~2.8nmol/Lですから定型男性、定型女性では10倍以上の差があります。これは(ポリティカルコレクトネス的には都合が悪くても)男性が女性よりもフィジカル面では極めて有利であることを示しています。尚、出場の条件として求められるのはテストステロン値のみで、女性ホルモンなど他の項目は不問です。

 世界初のトランス女性がオリンピックに出場したのは2021年、東京オリンピックでした。ニュージーランドの重量挙げ選手Laurel Hubbard選手です。Hubbard選手は過去に国内「男子」大会で合計300kgを持ち上げた記録を保持し、2001年に23歳で引退しています。そして2012年に33歳でトランスジェンダー女性としてカミングアウトし、スポーツ選手としてのキャリアを再開しました。東京オリンピックでは上記のIOCの基準を満たすためテストステロンを抑える薬物を服用していたと報道されています。

 東京オリンピックに出場できず話題になったのが、2012年と2016年のオリンピックで金メダルを獲得した南アフリカの中距離ランナーCaster Semenya選手です。Semenya選手はトランス女性ではなく、DSD(性分化疾患=Differences in sex development)のひとつである5α還元酵素欠損症(以下「5ARD」)という疾患を持っています。この疾患があれば血中テストステロン値が標準的な女性よりも高くなります。重量挙げのHubbard選手が出生時には男性だったのに対し、Semenya選手は出生時に女性です。女性として生まれたのにもかかわらず女性選手としての資格を得られないのはおかしいではないかという意見は当然でてきます。

 ここでDSDについて解説しておきましょう。以前は半陰陽とかインターセックスとか呼ばれていた「性染色体や性ホルモンの代謝などが定型でない状態」のことを指します。DSDには多数の種類があり、ある程度の生物学の知識がないと理解するのが困難で、またインターセックスという表現は医学界では使われなくなってきているものの当事者の間ではアイデンティティを表現するために好んで用いられることもあり、DSDの話を始めるとかなり複雑になってしまいます。

 上述したようにSemenya選手の疾患は5ARDで、冒頭で述べた2人のボクシング選手も水泳のLia Thomas選手も5ARDを有しているのではないかと報道されています。よって、ここではDSDの詳細に立ち入らず「現在スポーツ界で問題になっているDSDの大半が5ARD」と理解すれば十分でしょう。尚、DSD全体ではおそらく先天性副腎皮質過形成(CAH)が最多ではないかと思われるのですが、CAHの女性がオリンピックに出場したという話は聞いたことがありません。

 5ARDを少し詳しく説明します。出生時には外性器のかたちから「女性」と診断されますが、染色体はXY、つまり定型男性型です。テストステロンは定型男性と同じように分泌されます。ところがテストステロンをジヒドロテストステロンと呼ばれる別の男性ホルモンに代謝するときの酵素(5α還元酵素)が欠落し、結果ジヒドロテストステロンが合成されないために陰茎が形成されません。しかし、テストステロンの分泌量は定型男性と同じですから思春期を迎える頃には、声が低くなり、筋肉量が増えます。つまり肉体的には定型男性と同じように成長するのです。また、性自認も男性になることが多いとされています。

 2016年のリオデジャネイロオリンピックの女子800メートル走で金メダルを獲得したのがSemenya選手で、銀メダルはブルンジのFrancine Niyonsaba選手、銅メダルはケニヤのMargaret Wambui選手です。その3名全員が5ARDだと報じられています。また、東京オリンピックを目指していたナミビアの18歳の女性アスリートで当時の20歳未満の世界記録保持者のChristine Mboma選手も5ARDを持っていると言われています。

 2019年、5ARDをもつ女性アスリートに対して、World Athletics(世界陸上競技連盟)は、400メートル、800メートル、1500メートルの女子競技に参加するにはテストステロン値を抑制する薬の服用を義務付けるとする新しい規則をつくりました。そして、IOCはWorld Athleticsのこの基準を採用することにしました。

 Semenya選手はそのような治療を受けることを拒否しました。奇妙なことに、400メートル、800メートル、1500メートルはSemenya選手が得意とする種目であり、200メートルや5000メートルでは薬の服用の義務がありません。
Semenya選手東京オリンピックでこれら種目に出場することを希望していましたがタイムが伸びずにかないませんでした。またパリオリンピックにも出場できませんでした。

 尚、報道によると、Semenya選手はテストステロン値を下げるために2010年から2015年まで経口避妊薬を服用したものの、体重増加、発熱、絶え間ない吐き気や腹痛など、数え切れないほどの望ましくない副作用を引き起こしたそうです。

 パリオリンピックでは、東京オリンピックのときから比べてトランス女性の出場資格が厳格化されました。性転換手術は12歳までに完了しなければならないという制限が設けられたのです。これにより、先述のニュージーランドのHubbard選手は(性転換をしたのは30代ですから)自動的に出場資格をなくしました。

 パリオリンピックで話題となったボクシングの2人はウエルター級のアルジェリアのImane Khelif選手、もう1人はフェザー級の台湾のLin Yu-ting選手でやはり共に5ARDがあると報じられています。ややこしいのはIBA(国際ボクシング協会)が昨年(2023年)、両選手を世界女子選手権の出場資格の検査に不合格としているからです。IOCは「パスポートが女性だから」という単純な理由で女性枠での出場を認めました。IBAはIOCを記者会見で非難しました。

 2021年の東京オリンピック以降、 World Athleticsは5ARDを持つ女性選手の資格規則を厳格化しました。2023年3月から、競技に参加するには、ホルモン抑制治療を実施して、6か月間テストステロン値を2.5nmol/L未満に抑えることを求めています。これは、400から1500メートルで競技する選手に対して2015年に提案された5nmol/Lの半分のレベルです。

 World Aquatics(世界水泳連盟)は男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則をつくり、さらに男性思春期の恩恵を受けていないトランス女性(思春期を迎える前に性転換手術を完了している女性)の選手も、テストステロン値を2.5nmol/L未満に維持する必要があるとしています。

 米国の水泳選手Lia Thomas選手は、スポーツ仲裁裁判所にWorld Aquaticsに対し女性選手の資格を認めるよう訴訟を起こしました。結果、「薬物療法でテストステロン値を減らした後でも、男性思春期を経験したことで、持久力、パワー、スピード、筋力、肺活量など、身体的にかなりの優位性を維持している」との理由から敗訴し、パリオリンピック出場はかないませんでした。

 現在World AthleticsもWorld Aquaticsと同様、男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則を設けています。さらに、The International Cycling Union(国際自転車競技連合)も同じ措置をとっています。

 一方、パリオリンピックに出場できたセクシャルマイノリティの選手で有名なのが1994年生まれの米国人、中距離ランナーNikki Hiltz選手です。Hiltz選手はパリオリンピックの女子1500メートル決勝で7位に入りました。
Hiltz選手には「男性ではないのか」という疑惑が挙がりましたが、Reuterによると、トランスジェンダーでかつノンバイナリーです。そして5ARDなどの疾患はありません。

 「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が分かりにくいかもしれません。トランスジェンダーとは「性自認が出生証明書に記載されている『男性』『女性』と異なる場合」で、ノンバイナリーとは「性自認が男性・女性という二元的な性別に当てはまらない場合」を指します。ノンバイナリーだけでじゅうぶんな気がしますが、「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が好まれることが多いようです。

 以上みてきたように、5ARDを始めとするDSDとトランスジェンダーはまったく異なる概念です。これらをしっかりと理解していなければ話はまったく噛み合いません。


参考:GINAと共に
第201回(2023年3月)「トランス女性を巡る複雑な事情~前編~」
第202回(2023年4月)「トランス女性を巡る複雑な事情~後編~」


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第217回(2024年7月) 「ゲイは無料」のHIV検査は不平等ではないのか

 私が院長を務める谷口医院を開院したのは2007年の1月で、はや17年半が過ぎました。途中、三度も名称変更をし、2023年の夏からは新しい地に移転しましたが、診療内容はまったく変わっておらず「総合診療」のクリニックを続けています。「どのような方のどのような悩みもお聞きします」と言い続けていますから、実にいろんな訴えで様々な患者さんが受診されています。

 私が総合診療医を目指したきっかけは、研修医1年目のときに訪れたタイのエイズホスピスです。その施設でボランティアとして働いていたベルギー人の総合診療医(general practitioner)の診療する姿勢に感銘を受けたのです。日本では「それはうちの科ではありませんから」「専門外ですから」などと言って診療を断る医師が多いことに違和感を覚えていた私は、総合診療という臨床スタイルに魅せられました。
 
 2年後に再びタイのそのホスピスを訪れた私は、今度は米国人の総合診療医から約半年間総合診療の基礎を学びました。この頃の体験が現在の医師としての私の礎となっています。私、そして谷口医院は一貫して「どのような症状でも断らない。自分よりも専門医の診療が適しているときは速やかに紹介する。そして必要なら専門医の治療後再び自分で診る」という方針を維持しています。

 HIVについては、感染すると実に様々な症状がでますから、感染者は総合診療医にかかるのが賢明です。より専門的な治療が必要な場合は信頼できる専門医を総合診療医から紹介してもらえます。総合診療医の存在は日本のHIV陽性者にも役に立つようで、大勢のHIV陽性の患者さんから「健康のことで気になることがあれば谷口医院に相談すればよい」と考えてもらえるようになりました。

 抗HIV薬の処方については、「自立支援医療」という複雑な事務手続きが必要になるため、当初は自費診療の外国人のみを対象としていたのですが、現在ではその複雑な手続きも事務員を増員したおかげでできるようになり、今ではどのような抗HIV薬の処方も谷口医院でできるようになっています。

 このように、谷口医院は総合診療科のクリニックとして、HIV診療にも17年半携わり、そしてこれからも続ける予定です。しかし、2007年の開院当初からHIVに関して疑問に感じていたことがあります。「HIVに感染しているかどうかを調べる検査」です。

 私の個人的見解としては、HIVの検査については、他諸国がそうであるように、「保健所などの公的機関が無料で実施すべき」です。タイでも無料で受けられるところが多数あります。これは行政側からみても、「HIVを早期発見できれば結果として大勢に広がることを阻止できて医療費も安くなる」わけですからお金を使うことに意義があるはずです。

 ところが日本のシステムはそうはなっていません。たしかに各地域の保健所でも無料検査は受けられるのですが、時間が制限されていたり、他の感染症が同時に受けられなかったり、と何かと不便です。そこで、保健所などの検査では満足できない人たちが谷口医院のようなクリニックを受診するわけですが、彼(女)らの多くは「保健所では十分な相談ができない」「保健所の職員に知識がない」、あるいは「保健所ではプライバシーが確保されない」などと言います。

 ならば、まず保健所での検査を受け付ける時間を増やし、職員を増員し、職員に受検者に伝える知識を増やしてもらうのがあるべき姿のはずです。しかし、そうはならず、大阪府の方針は「保健所では限界があるから医療機関での検査を充実させよう」となってしまっているのです。

 そこで大阪府が開始したプログラムの1つが「ゲイだけを対象としたクリニックでの無料検査」です。私が大阪府の公的機関からこのキャンペーンに参加してもらえないかと依頼されたのは開院した初年の2007年です。大阪府がお金を出すから検査をしてほしいと依頼されたのです。日頃お世話になっている機関からの依頼ですから検討はしましたが、「お断り」しました。その理由はいくつかありますが、最大の理由は「ゲイだけを逆差別するようなキャンペーンは不平等だ。女性やストレートの人たちは受けられないのは差別ではないか」と考えたからです。以降、毎年のように「今年こそお願いできないか」と依頼され続けていたのですが、その都度お断りしてきました。

 しかし2024年のこの夏、ついに当院もこのキャンペーンに参加することにしました。最大の理由は、府の担当者から「今までこのキャンペーンの中心的な役割を担っていたクリニックが閉院することになった。谷口医院は参加しないという意思表示を続けていることは知っているが再検討してもらえないか」とお願いされたからです。

 私は、一人で叫んだところで微力であることを認識しながらも「行政が主導するHIVの無料検査を充実させるべきだ」と17年以上に渡り言い続けてきました。しかし、現実には何も変わっていません。ならばこれから変わることもないでしょう。ということは、いつまでも理想論を口にするだけでは何の意味もなく、自分が動くしかありません。

 ここで、なぜ行政は「税金を使ってでもゲイを対象としたHIV検査の特別なキャンペーンを実施すべきと考えているのか」を考えてみましょう。我々医師の役割は「目の前の
困っている患者さんを助ける」ですが、行政の視点は異なります。行政は公衆衛生学的な観点から「社会全体としてHIVが蔓延することを防ぐ。そのために早期発見につとめる」をミッションとしています。すでに感染したひとりひとりの患者さんには目を向けていません。つまり、私のような医師と行政は別の方向を向いているわけです。

 けれども、谷口医院も私も行政の考えが理解できないわけではありません。目の前の患者さんに尽力することには変わりはないけれど、「公衆衛生学的な早期発見のために(保健所の現在の体制では不十分なのだから)我々も協力する」という考えは成り立ちます。

 しかし、ここに矛盾が生まれます。「ゲイのみを対象」とするのは「(日本では)ゲイにHIV陽性者が多いから」で、これは理解できるのですが、検査を受ける側の立場からみれば「なんでゲイは無料で受けられるのに、あたしたち(ストレートの男性や女性、あるいはゲイ以外のセクシャルマイノリティ)は有料なの?」という声が当然出てきますし、この疑問に納得できる答えを用意できる人はいないでしょう。

 ではどうすべきか。谷口医院では次のように案内する予定です。

・ゲイだけ無料なのはたしかに「逆差別」に他ならないことは我々も認識している

・行政がゲイだけを対象とするのは公衆衛生学的に有効と考えられる対策だからであり、行政側の視点に立てば理解できる。これを(ゲイ以外の)一般市民に理解してほしいと言っても無理があるのは承知しているが、理解いただけるとありがたい

・ゲイのみならず他のセクシャルマイノリティ(バイセクシャル、レズビアン、トランス男性、トランス女性、ノンバイナリーなど)も当院では無料の対象とする(これについては府に了解をとっています)(注1)

・男性から性被害を受けたストレートの男性(や生物学的に男性のノンバイナリーやエイセクシャル)も対象とする(これも府に了解を得ています)

・上記に当てはまらない人(ストレートの男女など)は無料では受けられないが、クリニックが補填した「格安検査」を提供する
http://www.stellamate-clinic.org/STI/

 上記の「格安検査」は格安といってもそれなりにしますが(HIV抗原抗体検査は2,200円)、谷口医院ではこれを恒常的に続けていく予定です。無料にはなりませんが、やはり早期発見は重要であり、この値段なら受けたいと考える人もいると思われるからです。ただし、我々が重要だと考えるのは「社会全体での感染者を増やさない」ではなく、もしもHIVに感染しているかもしれないと不安に感じている人がいるのだとすれば「その人にとって」発見は早い方がいいからです。

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注1(2024年8月10日追記):大阪府が「レズビアンは無料検査を受けられない」と通達してきました。納得いきませんが、府の意向には従うしかありません。

注2(2024年8月17日追記):上記「
府に了解をとっています」という表現を削除するよう大阪府から抗議がありました。現在、その理由を確認しているところです。

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