GINAと共に
第223回(2025年1月) 鈴木真実さんはもう「いない」のか
私がタイのエイズ患者やエイズ孤児支援に携わり始めて20年以上経過します。これまでに大勢の心優しい献身的な人たちと関わってきましたが、そんななかでもひときわ高い人格を持ち合わせ、そして大勢の患者さんから慕われていたのが鈴木真実さんです。ですが、その鈴木真実さんはもうこの世に存在しないのかもしれません......。
私が鈴木真実さんと初めて出会ったのは2011年の8月、このサイトで紹介しているタイ・ロッブリー県にある通称「エイズホスピス」のパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)です。この寺に私が初めて訪れたのは2002年の10月で、当時のタイではまだ抗HIV薬が使えず、この寺に入所することは「死へのモラトリアム」を意味していました。あるいは、やっとのことでたどり着いたその日に他界する人や、HIVに感染した赤ちゃんが寺の前に捨てられていて寺の職員が気付いたときにはすでに死亡していた、といったことも頻繁に起こっていました。
その当時から世界の多くの国からこの寺にボランティアや単なる見学でやってくる人たちがいて、日本人も次第に増え始めていました。私自身は2004年に数か月ボランティア医師として働き、その後NPO法人GINAを立ち上げ、タイのエイズ事情を大勢の人に知ってもらうことに努めました。パバナプ寺にはその後、コロナ禍が始まるまでは年に1~2回は訪れていました。訪問の目的は寄付金や薬を届けることや治療に難渋している患者さんを診察することなどでしたが、寺でボランティアをしている日本人と話をすることも楽しみのひとつでした。
「楽しみ」といってもボランティアなら誰でも話していて楽しいわけではなく、「この人、何のためにここに来ているのだろう......」と感じてしまう人も少なくなく、例えば"自分探し"の一環でこの寺にたどり着いた、という感じの人もいました。なかには怪しげな健康食品の販売を目的にはるばるやってきた風変わりな日本人の自称大学講師もいました。そんななか、他のボランティア達とは異なる雰囲気で患者さんたちに手厚いケアをしていたのが鈴木真実さんでした。
日本の病院には患者さんたちからすごく人気のある看護師がいることがあって、彼女たちは例外なく患者さんの話をしっかり聞いて、ケアも丁寧なのですが、鈴木真実さんの場合はそういう日本でよくみる看護師とはちょっと違います。鈴木さんが看護師でないから私の目にはそう映ったのかもしれませんが、私がまず驚いたのは鈴木さんが患者さんたちのベッドに近づいただけで患者さんに笑顔が戻ることでした。流暢なタイ語で語り掛け、ときには共に笑い、ときには共に涙を流し、丁寧に身体を拭くこともあります。
どこでそんなに上手なタイ語を学んだのかが気になって尋ねてみると、なんと「ここに来てから」と言います。患者さんの何割かは身体が弱り、まともな発声ができないこともあります。しかし鈴木真実さんは、テキストも使わず、ただ患者さんとの会話だけでタイ語を覚えたと言うのです。患者さんにジョークを連発することもある、と言えばその実力が分かるでしょう。驚くべきことに鈴木さんはタイ語の読み書きは一切できないそうです。私は2011年のその当時にはタイ語はある程度読み書きができるようになっていましたが、とても鈴木さんのように流暢に話すことはできません。困窮している患者さんに笑顔をもたらすことなどとてもできません。
GINAとしても私個人としても鈴木真実さんの活動を支援することにしました。その後、鈴木さんは支援の幅を広げ、タイ国内の他の施設にもボランティア活動に出向いていました。「HUG & SMILE Foundation」という財団法人をつくり、さらに活動を広げ、賛同する仲間も増えていました。
そんな矢先、2014年の7月、タイ滞在中の鈴木真実さんから突然メールが届きました。出血が止まらないことを不思議に思い、タイの医療機関を受診すると「再生不良性貧血」の診断が付けられたというのです。この疾患はかなりの難病であり、進行すると血液がつくられなくなります。病名には「貧血」とついていますが、生じるのは貧血だけでなく血小板も低下します。ですから少しの衝撃で出血が止まらなくなるのです。白血球も低下しますから感染症に対して防御できなくなります。治療薬はなくはありませんが、極めて高価で、また効くかどうか分かりません。当面の間は最低月に一度は輸血をせざるを得ません。また、免疫能がままならない状態ですから他人との至近距離の接触は控えるべきであり、結核やカリニ肺炎などを発症しているかもしれないエイズ患者に近づくなど医学的にはご法度です。
しかし鈴木真実さんはそれまで通りエイズ患者や孤児を支援し続けることを決意しました。日本で輸血を受けるとすぐに渡タイし、体力が続くギリギリまで複数の施設で支援活動を続け、その後身体をひきずるように帰国するというサイクルを繰り返していました。私は一度、鈴木さんが入院する千葉県の病院に見舞いに行ったことがあります。輸血を受けた直後だったこともあり、そのときは元気でしたが、タイ滞在中に次第に輸血の効果が切れて来て、成田に帰国したときは立ちあがることすら困難になるそうです。「日本の空港は車椅子をすぐに用意してくれるから助かります」と言っていたシーンが今も私の脳裏をよぎります。
その後コロナ禍が始まりました。体調もすぐれない鈴木真実さんはついにタイ渡航をいったん中止することにし、日本での治療に専念し始めました。しかし、今度は新たな疾患が見つかりました(再生不良性貧血を発症したことについて、ウェブサイトなどで公開することには鈴木さん本人から許可を得ていますが、新たな疾患については確認していませんのでここでは病名を伏せておきます。尚、再生不良性貧血と闘病している姿を私の毎日新聞の連載で紹介したことがあります)。
2022年1月6日に届いたメールが最後でした。このときに薬疹が出たことや、体調がすぐれないことを書かれていたのですが、再生不良性貧血自体は落ち着いているとのことでした。私はそれに対する返信をしただけで、それ以来音信が途絶えていました。もちろんときどき気になっていたのですが、いつもしばらくすると鈴木さんの方から連絡をくれていたので、「またそのうちにメールが届くだろう」と楽観視してしまっていました。
そしていつの間にか3年も経過し、そろそろ連絡しなければと考え私の方からメールを送信したのですが返信がきません。慌てて携帯電話に電話をすると「おかけになった電話番号は現在......」のメッセージが。この時点で絶望的な気持ちになりましたが、もしかするとすっかり元気になって日本の携帯電話を解約して今はタイで再び活動をしているのでは、とかすかな希望を抱き、鈴木さんと共通の知り合いのタイ人に連絡をとることを試みました。ところがそのタイ人からも返事が来ません。私の知り合いのタイ人のほとんどはここ数年でメールを使わなくなりSNSに移行しています。その共通の知人のSNSのアカウントを知らないために連絡がとれません。
鈴木真実さんは幅広く活動されていましたから、2014年頃には「鈴木真実」と検索すれば多くのページが表示されました。上述の「HUG & SMILE Foundation」のサイトや、「HUG & SMILE Foundation」を紹介したサイトも多数ヒットしていたのですが、今検索をかけてみるとほとんど表示されません。唯一、鈴木さんを紹介している健康関連のサイトが見つかりましたが、鈴木さんと「HUG & SMILE Foundation」に触れたそのコラムは2013年のものでした。
おそらく鈴木真実さんはこの世にもう「いない」のでしょう。ですが、私が死ぬまでは私の心の中に残り続けます。そういう意味では「いない」わけではありません。それに、鈴木さんの貢献の様子や写真は今も誰でも無料で見ることができるのです。このコラムを読まれた方は、是非(上述した)私が毎日新聞に書いたコラムを読んでみてください。鈴木真実さんの素敵な笑顔をご覧ください。
R.I.P....
私が鈴木真実さんと初めて出会ったのは2011年の8月、このサイトで紹介しているタイ・ロッブリー県にある通称「エイズホスピス」のパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)です。この寺に私が初めて訪れたのは2002年の10月で、当時のタイではまだ抗HIV薬が使えず、この寺に入所することは「死へのモラトリアム」を意味していました。あるいは、やっとのことでたどり着いたその日に他界する人や、HIVに感染した赤ちゃんが寺の前に捨てられていて寺の職員が気付いたときにはすでに死亡していた、といったことも頻繁に起こっていました。
その当時から世界の多くの国からこの寺にボランティアや単なる見学でやってくる人たちがいて、日本人も次第に増え始めていました。私自身は2004年に数か月ボランティア医師として働き、その後NPO法人GINAを立ち上げ、タイのエイズ事情を大勢の人に知ってもらうことに努めました。パバナプ寺にはその後、コロナ禍が始まるまでは年に1~2回は訪れていました。訪問の目的は寄付金や薬を届けることや治療に難渋している患者さんを診察することなどでしたが、寺でボランティアをしている日本人と話をすることも楽しみのひとつでした。
「楽しみ」といってもボランティアなら誰でも話していて楽しいわけではなく、「この人、何のためにここに来ているのだろう......」と感じてしまう人も少なくなく、例えば"自分探し"の一環でこの寺にたどり着いた、という感じの人もいました。なかには怪しげな健康食品の販売を目的にはるばるやってきた風変わりな日本人の自称大学講師もいました。そんななか、他のボランティア達とは異なる雰囲気で患者さんたちに手厚いケアをしていたのが鈴木真実さんでした。
日本の病院には患者さんたちからすごく人気のある看護師がいることがあって、彼女たちは例外なく患者さんの話をしっかり聞いて、ケアも丁寧なのですが、鈴木真実さんの場合はそういう日本でよくみる看護師とはちょっと違います。鈴木さんが看護師でないから私の目にはそう映ったのかもしれませんが、私がまず驚いたのは鈴木さんが患者さんたちのベッドに近づいただけで患者さんに笑顔が戻ることでした。流暢なタイ語で語り掛け、ときには共に笑い、ときには共に涙を流し、丁寧に身体を拭くこともあります。
どこでそんなに上手なタイ語を学んだのかが気になって尋ねてみると、なんと「ここに来てから」と言います。患者さんの何割かは身体が弱り、まともな発声ができないこともあります。しかし鈴木真実さんは、テキストも使わず、ただ患者さんとの会話だけでタイ語を覚えたと言うのです。患者さんにジョークを連発することもある、と言えばその実力が分かるでしょう。驚くべきことに鈴木さんはタイ語の読み書きは一切できないそうです。私は2011年のその当時にはタイ語はある程度読み書きができるようになっていましたが、とても鈴木さんのように流暢に話すことはできません。困窮している患者さんに笑顔をもたらすことなどとてもできません。
GINAとしても私個人としても鈴木真実さんの活動を支援することにしました。その後、鈴木さんは支援の幅を広げ、タイ国内の他の施設にもボランティア活動に出向いていました。「HUG & SMILE Foundation」という財団法人をつくり、さらに活動を広げ、賛同する仲間も増えていました。
そんな矢先、2014年の7月、タイ滞在中の鈴木真実さんから突然メールが届きました。出血が止まらないことを不思議に思い、タイの医療機関を受診すると「再生不良性貧血」の診断が付けられたというのです。この疾患はかなりの難病であり、進行すると血液がつくられなくなります。病名には「貧血」とついていますが、生じるのは貧血だけでなく血小板も低下します。ですから少しの衝撃で出血が止まらなくなるのです。白血球も低下しますから感染症に対して防御できなくなります。治療薬はなくはありませんが、極めて高価で、また効くかどうか分かりません。当面の間は最低月に一度は輸血をせざるを得ません。また、免疫能がままならない状態ですから他人との至近距離の接触は控えるべきであり、結核やカリニ肺炎などを発症しているかもしれないエイズ患者に近づくなど医学的にはご法度です。
しかし鈴木真実さんはそれまで通りエイズ患者や孤児を支援し続けることを決意しました。日本で輸血を受けるとすぐに渡タイし、体力が続くギリギリまで複数の施設で支援活動を続け、その後身体をひきずるように帰国するというサイクルを繰り返していました。私は一度、鈴木さんが入院する千葉県の病院に見舞いに行ったことがあります。輸血を受けた直後だったこともあり、そのときは元気でしたが、タイ滞在中に次第に輸血の効果が切れて来て、成田に帰国したときは立ちあがることすら困難になるそうです。「日本の空港は車椅子をすぐに用意してくれるから助かります」と言っていたシーンが今も私の脳裏をよぎります。
その後コロナ禍が始まりました。体調もすぐれない鈴木真実さんはついにタイ渡航をいったん中止することにし、日本での治療に専念し始めました。しかし、今度は新たな疾患が見つかりました(再生不良性貧血を発症したことについて、ウェブサイトなどで公開することには鈴木さん本人から許可を得ていますが、新たな疾患については確認していませんのでここでは病名を伏せておきます。尚、再生不良性貧血と闘病している姿を私の毎日新聞の連載で紹介したことがあります)。
2022年1月6日に届いたメールが最後でした。このときに薬疹が出たことや、体調がすぐれないことを書かれていたのですが、再生不良性貧血自体は落ち着いているとのことでした。私はそれに対する返信をしただけで、それ以来音信が途絶えていました。もちろんときどき気になっていたのですが、いつもしばらくすると鈴木さんの方から連絡をくれていたので、「またそのうちにメールが届くだろう」と楽観視してしまっていました。
そしていつの間にか3年も経過し、そろそろ連絡しなければと考え私の方からメールを送信したのですが返信がきません。慌てて携帯電話に電話をすると「おかけになった電話番号は現在......」のメッセージが。この時点で絶望的な気持ちになりましたが、もしかするとすっかり元気になって日本の携帯電話を解約して今はタイで再び活動をしているのでは、とかすかな希望を抱き、鈴木さんと共通の知り合いのタイ人に連絡をとることを試みました。ところがそのタイ人からも返事が来ません。私の知り合いのタイ人のほとんどはここ数年でメールを使わなくなりSNSに移行しています。その共通の知人のSNSのアカウントを知らないために連絡がとれません。
鈴木真実さんは幅広く活動されていましたから、2014年頃には「鈴木真実」と検索すれば多くのページが表示されました。上述の「HUG & SMILE Foundation」のサイトや、「HUG & SMILE Foundation」を紹介したサイトも多数ヒットしていたのですが、今検索をかけてみるとほとんど表示されません。唯一、鈴木さんを紹介している健康関連のサイトが見つかりましたが、鈴木さんと「HUG & SMILE Foundation」に触れたそのコラムは2013年のものでした。
おそらく鈴木真実さんはこの世にもう「いない」のでしょう。ですが、私が死ぬまでは私の心の中に残り続けます。そういう意味では「いない」わけではありません。それに、鈴木さんの貢献の様子や写真は今も誰でも無料で見ることができるのです。このコラムを読まれた方は、是非(上述した)私が毎日新聞に書いたコラムを読んでみてください。鈴木真実さんの素敵な笑顔をご覧ください。
R.I.P....
第222回(2024年12月) 「50人の男に妻をレイプさせた事件」が仏国のあの場所で起こった"因縁"
長年に渡り自身の妻を睡眠薬で眠らせて自宅に招いた50人以上の男にレイプさせていたフランスの事件は、日本のメディアではあまり見かけないのですが、海外メディアでは2021年頃より衝撃的な事件として報道されてきました。このおぞましい事件の報道は、加害者たちへの非難と法廷で証拠のビデオを流すことに同意した被害者の勇気に焦点が注がれていますが、私自身はこの土地でこの事件が起こったことに対し、因縁めいたものを感じずにはいられません。
まずは事件を振り返っておきましょう。
事件の主犯格の男は現在72歳のDominique Pelicot(以下「ドミニク・ぺリコ」)、フランス南東部のマザン(Mazan)という名の小さな村の住人です。マザンの人口はわずか6,300人ですから村民の多くが顔見知りでしょう。ドミニク・ぺリコはかつては不動産の代理店を営み営業をしていたと報道されています。尚、ドミニク・ペリコは、1991年に23歳の女性を強姦して殺害した容疑と、1999年に19歳の女性を強姦しようとした容疑でも捜査を受けています。
「妻を大勢の男性にレイプさせた事件」が発覚したのは「小さな犯罪」がきっかけでした。2020年、ドミニク・ぺリコがスーパーマーケットで3人の女性のスカートの中を盗撮しようとしていたことが女性らにバレて通報されました。警察がドミニク・ぺリコの捜査を開始し、パソコンやその他の電子機器を調べると、レイプや性的虐待を示唆する数千枚の写真や動画が発見されました。動画や写真の多くには、現在72歳のドミニク・ぺリコの妻Gisele Pelicotさん(以下「ペリコ夫人」)が意識を失い、複数の男に性的に弄ばれている姿が映し出されていました。結婚して50年になる夫のドミニク・ぺリコが密かにペリコ夫人を薬物で眠らせ、その後、ドミニク・ぺリコが自宅に招き入れた数十人の男性とともに夫人をレイプするという異常事態が10年近くも続いていたことが明らかとなりました。
地元警察は本格的な捜査を開始し、2020年11月にドミニク・ぺリコは起訴されました。誰がレイプに関わったのかを特定し、起訴するのにはほぼ2年の月日が費やされました。告発された男性のほとんどは「ウェブサイトを通してドミニク・ぺリコと知り合った」と法廷で述べています。
2024年12月19日、仏国プロヴァンス地方の都市アヴィニョン(Avignon)の法廷で、ドミニク・ぺリコに懲役20年の実刑判決が言い渡されました。
他の50人の容疑者全員にも大半は6年から9年程度の有罪判決が下されました。50人は26歳から74歳で、14人は定職に就いておらず、残り(36人)は職業を持っています。トラック運転手、大工、貿易労働者、看守、看護師、消防士、銀行で働くIT専門家、地元のジャーナリストなどです。50人のうち約15人は有罪を認めています。残りの被告は性交したことは認めたものの、レイプするつもりはなかったと主張しました。しかし、捜査で押収されたビデオには、薬物で眠らされ反応のないペリコ夫人に男たちが"侵入"(penetrating)する様子が映っていました。尚、このビデオを証拠として法廷で流すことをペリコ夫人が同意した勇気に対し、世界中から賞賛の声が上がっています。
50のうち3人は実名で報道されていますので簡単に紹介しておきましょう。
Charly Arbo: 初めてドミニク・ぺリコの自宅を訪れたのは2016年。当時は22歳だった。合計6回ドミニク・ぺリコの自宅に行っている。懲役13年の判決
Jean-Pierre Marechal: ドミニク・ペリコに教唆され、自分の妻に薬物を投与しドミニク・ペリコを誘ってレイプした。懲役12年の判決
Joseph Cocco: ペリコ夫人に謝罪した数少ない被告の1人。懲役4年の判決
匿名(実名は報道されず):ドミニク・ぺリコの自宅に6回訪れた。HIV陽性を隠し、さらにコンドームを使わなかった。懲役15年の判決(ドミニク・ペリコを除く加害者で最も重い判決)
さて、フランス中を震撼させたこの事件、フランスという国だからこそ起こったのでしょうか。「そんなはずはない」と答える人が大半でしょうが、誤解を恐れずに言えば、私はこの事件の報道を初めて読んだとき「なるほど、そういうことか......」と思わずにはいられませんでした。非科学的な話になりますが、私の心に浮かんだことを正直に告白しておきましょう。
私がこの事件を初めて知ったのは2021年の英国紙「Daily Mail Online」の記事で、ドミニク・ぺリコはまだ68歳と報じられていました。事件の場所を解説する地図に書かれていた「Mazan」という文字を目にした瞬間、私はハッとしました。私にとって「マザン(Mazan)と言えば、マルキ・ド・サド」なのです。
私が医学部受験をまだ考えていなかった90年代前半、社会学を本格的に学ぶためにフランスの思想や哲学に没入していた時期がありました。そのときに出会ったのが「性」の問題でした。ミシェル・フーコーから同性愛を学び、ジョルジュ・バタイユを読んで性的倒錯の世界を知り、そしてマルキ・ド・サドの異常な性への執着に関心が深まっていったのです。
マルキ・ド・サドの文学的な評価についてはここでは論じませんが、「性」を考える上では避けて通れない文学者であると私は今も考えています。いつしか、マルキ・ド・サドが避難していた邸宅を訪れたいと思うようになっていました。なぜなら、その邸宅は現在ホテルとして営業しているからです。そして、そのホテル「Le Château de Mazan」がマザンにあるのです。ちなみに、このホテルのウェブサイトにはマルキ・ド・サドが避難していた史実についても書かれています。
薬物を使い抵抗できない女性を凌辱し、それを文学作品へと昇華させ、その作品は200年以上たっても世界中で読み続けられ、他界するまで精神病院に隔離(投獄)されていたマルキ・ド・サドが居住していたその土地で、200年後に似たような事件が起こったことを単なる偶然だと片付けられないのは私だけでしょうか......。
貴族としてマルキ・ド・サドが世間からどのように見られていたのかについては諸説あるようですが、ドミニク・ぺリコは3人の子供たちから「理想の父親」とみなされていたようです。報道によると、ドミニク・ぺリコは子どもたちのために素晴らしい誕生日パーティーを主催し、スポーツイベントに一緒に参加し、娘がパーティーから無事に帰宅するのを見届け......、いつもそばにいてくれる愛情深い家族の柱だと思われていたそうです。
マルキ・ド・サドの再臨、などと言えば完全にオカルトの世界に入ってしまいますが、ついついそんなことを妄想してしまいます。ドミニク・ぺリコが起こしたこのおぞましい事件を解明するためには、もう一度マルキ・ド・サドに戻って「人間の性の本質」を掘り下げて考える必要があるのではないか。私にはそう思えてなりません。
まずは事件を振り返っておきましょう。
事件の主犯格の男は現在72歳のDominique Pelicot(以下「ドミニク・ぺリコ」)、フランス南東部のマザン(Mazan)という名の小さな村の住人です。マザンの人口はわずか6,300人ですから村民の多くが顔見知りでしょう。ドミニク・ぺリコはかつては不動産の代理店を営み営業をしていたと報道されています。尚、ドミニク・ペリコは、1991年に23歳の女性を強姦して殺害した容疑と、1999年に19歳の女性を強姦しようとした容疑でも捜査を受けています。
「妻を大勢の男性にレイプさせた事件」が発覚したのは「小さな犯罪」がきっかけでした。2020年、ドミニク・ぺリコがスーパーマーケットで3人の女性のスカートの中を盗撮しようとしていたことが女性らにバレて通報されました。警察がドミニク・ぺリコの捜査を開始し、パソコンやその他の電子機器を調べると、レイプや性的虐待を示唆する数千枚の写真や動画が発見されました。動画や写真の多くには、現在72歳のドミニク・ぺリコの妻Gisele Pelicotさん(以下「ペリコ夫人」)が意識を失い、複数の男に性的に弄ばれている姿が映し出されていました。結婚して50年になる夫のドミニク・ぺリコが密かにペリコ夫人を薬物で眠らせ、その後、ドミニク・ぺリコが自宅に招き入れた数十人の男性とともに夫人をレイプするという異常事態が10年近くも続いていたことが明らかとなりました。
地元警察は本格的な捜査を開始し、2020年11月にドミニク・ぺリコは起訴されました。誰がレイプに関わったのかを特定し、起訴するのにはほぼ2年の月日が費やされました。告発された男性のほとんどは「ウェブサイトを通してドミニク・ぺリコと知り合った」と法廷で述べています。
2024年12月19日、仏国プロヴァンス地方の都市アヴィニョン(Avignon)の法廷で、ドミニク・ぺリコに懲役20年の実刑判決が言い渡されました。
他の50人の容疑者全員にも大半は6年から9年程度の有罪判決が下されました。50人は26歳から74歳で、14人は定職に就いておらず、残り(36人)は職業を持っています。トラック運転手、大工、貿易労働者、看守、看護師、消防士、銀行で働くIT専門家、地元のジャーナリストなどです。50人のうち約15人は有罪を認めています。残りの被告は性交したことは認めたものの、レイプするつもりはなかったと主張しました。しかし、捜査で押収されたビデオには、薬物で眠らされ反応のないペリコ夫人に男たちが"侵入"(penetrating)する様子が映っていました。尚、このビデオを証拠として法廷で流すことをペリコ夫人が同意した勇気に対し、世界中から賞賛の声が上がっています。
50のうち3人は実名で報道されていますので簡単に紹介しておきましょう。
Charly Arbo: 初めてドミニク・ぺリコの自宅を訪れたのは2016年。当時は22歳だった。合計6回ドミニク・ぺリコの自宅に行っている。懲役13年の判決
Jean-Pierre Marechal: ドミニク・ペリコに教唆され、自分の妻に薬物を投与しドミニク・ペリコを誘ってレイプした。懲役12年の判決
Joseph Cocco: ペリコ夫人に謝罪した数少ない被告の1人。懲役4年の判決
匿名(実名は報道されず):ドミニク・ぺリコの自宅に6回訪れた。HIV陽性を隠し、さらにコンドームを使わなかった。懲役15年の判決(ドミニク・ペリコを除く加害者で最も重い判決)
さて、フランス中を震撼させたこの事件、フランスという国だからこそ起こったのでしょうか。「そんなはずはない」と答える人が大半でしょうが、誤解を恐れずに言えば、私はこの事件の報道を初めて読んだとき「なるほど、そういうことか......」と思わずにはいられませんでした。非科学的な話になりますが、私の心に浮かんだことを正直に告白しておきましょう。
私がこの事件を初めて知ったのは2021年の英国紙「Daily Mail Online」の記事で、ドミニク・ぺリコはまだ68歳と報じられていました。事件の場所を解説する地図に書かれていた「Mazan」という文字を目にした瞬間、私はハッとしました。私にとって「マザン(Mazan)と言えば、マルキ・ド・サド」なのです。
私が医学部受験をまだ考えていなかった90年代前半、社会学を本格的に学ぶためにフランスの思想や哲学に没入していた時期がありました。そのときに出会ったのが「性」の問題でした。ミシェル・フーコーから同性愛を学び、ジョルジュ・バタイユを読んで性的倒錯の世界を知り、そしてマルキ・ド・サドの異常な性への執着に関心が深まっていったのです。
マルキ・ド・サドの文学的な評価についてはここでは論じませんが、「性」を考える上では避けて通れない文学者であると私は今も考えています。いつしか、マルキ・ド・サドが避難していた邸宅を訪れたいと思うようになっていました。なぜなら、その邸宅は現在ホテルとして営業しているからです。そして、そのホテル「Le Château de Mazan」がマザンにあるのです。ちなみに、このホテルのウェブサイトにはマルキ・ド・サドが避難していた史実についても書かれています。
薬物を使い抵抗できない女性を凌辱し、それを文学作品へと昇華させ、その作品は200年以上たっても世界中で読み続けられ、他界するまで精神病院に隔離(投獄)されていたマルキ・ド・サドが居住していたその土地で、200年後に似たような事件が起こったことを単なる偶然だと片付けられないのは私だけでしょうか......。
貴族としてマルキ・ド・サドが世間からどのように見られていたのかについては諸説あるようですが、ドミニク・ぺリコは3人の子供たちから「理想の父親」とみなされていたようです。報道によると、ドミニク・ぺリコは子どもたちのために素晴らしい誕生日パーティーを主催し、スポーツイベントに一緒に参加し、娘がパーティーから無事に帰宅するのを見届け......、いつもそばにいてくれる愛情深い家族の柱だと思われていたそうです。
マルキ・ド・サドの再臨、などと言えば完全にオカルトの世界に入ってしまいますが、ついついそんなことを妄想してしまいます。ドミニク・ぺリコが起こしたこのおぞましい事件を解明するためには、もう一度マルキ・ド・サドに戻って「人間の性の本質」を掘り下げて考える必要があるのではないか。私にはそう思えてなりません。
第221回(2024年11月) PrEPは気軽に始めてはいけない
過去2ヶ月連続でHIVのPrEPを取り上げましたが、今回もPrEPをクローズアップします。最近、ある意味でPrEPが"危機的な"状態になっています。あまりにも気軽に始める人が増加し、そして次々にトラブルが起こっています。GINAとしても「この事態は看過できない」と考え、今月(2024年11月)末に東京で開催される第38回日本エイズ学会で報告をすることにしました。今回は、HIVのPrEPによくみられる「間違い」「誤解」について改めてまとめてみたいと思います。
まず、HIVのPrEPの基本事項をおさえておきましょう。
・U=Uの概念があるわけだから、パートナーがHIV陽性という理由ではPrEPは不要
・PrEPが必要なのはsexual activityが高い人、複数のsex partnerを持つ人、sex workerまたはsex workerの顧客など
・PrEPで防げるのはHIVのみ(HBVは必ずしも予防できるとは限らない)
・PrEPでHCV感染が増えたという報告がある
・PrEPを継続すれば腎機能低下、骨密度低下のリスクが上昇する
・HBV既感染の人がPrEPを開始すると、de novo肝炎が生じるリスクがある
・on demand PrEPは100%成功するわけではない
と、こんな感じです。ではHIVを予防するのにPrEPはどれくらい有効なのでしょうか。この問いに対する答えは誰を"主語"にするかによって変わってきます。もしも「社会」を主語にすると、すなわち「HIVのPrEPが普及することによって社会が利益を得るか」という問いであれば「イエス」です。実際、PrEPが普及すればするほどHIVの新規感染者は減少し、結果として医療費を抑制することができます。
では主語を「あなた」とすればどうでしょう。あなたにとって大切なのは「あなたがHIVに感染しない」であって、「社会全体での感染率を減らす」ではないはずです。例えば、「PrEPをしていない集団では人口千人あたり10人が感染して、PrEPをしている集団では1人しか感染しなかった」として、「しかしあなた自身がその1人だった」という結果であれば、あなたにはとってはPrEPの意味がないわけです。
一般に「予防」を考えるときにこの視点は極めて重要です。ここを曖昧にすると、誤解、対立、さらに分断が生じます。「その予防法についての話は"誰"が主語なのか」をはっきりさせないことには話が噛み合わなくなってくるのです。
例えば、新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)のワクチンを考えたとき、主語を「社会」とすれば、コロナワクチンは極めて有効です。もしもワクチンがなければ世界の1千万人以上が亡くなっていた(ワクチンは1千万人以上の命を救った)とする報告は多数あります。しかし、主語が「あなた」または「あなたにとって大切な人」だったとき、いくらワクチンのおかげで何千万人の命が救われたと言われようが、もしもあなたやあなたにとって大切な人がワクチンのせいで重篤な後遺症が出たり死んでしまったりすればワクチンの有効性にはまったく意味がなくなるわけです。
HIVのPrEPも同様です。そして、HIVの場合、コロナやインフルエンザよりも"厳格に"考えなければなりません。コロナやインフルエンザは「感染してもワクチンのおかげで軽症で済む」という利点があります。他方、HIVの場合は"軽症"はありません。「いったん感染すると生涯にわたりウイルスは消えず、感染には軽症も重症もない」のです。つまり、HIVのPrEPの有効率を「あなた」を主語に考えるときには「100%成功しなければ意味がない」のです。
副作用についても同様です。「社会」を主語にすれば「HIVのPrEPが普及した結果、重篤な腎機能障害を起こした人が1%、骨粗しょう症を発症した人が2%いた」であれば、この程度ならOKなのです。なぜなら、HIV感染を大きく防ぐことができてHIV感染にかかる社会全体の医療費が大幅に抑えられるからです。生活に大きく支障のでる腎機能障害や骨粗しょう症の患者が少々現れたくらいでは、HIVの医療費抑制のメリットの方がはるかに大きいわけです。
しかしながら、やはり主語を「あなた」とした場合、HIV感染は防げたけれど、重篤な腎機能障害が起こり生涯にわたり人工透析が必要になった、とすればどうでしょう。あるいは骨粗鬆症を患い転倒して股関節を骨折しそのまま寝たきりになった、とすればどうでしょう。それでも「PrEPのおかげでHIVに感染しなかった。自分は幸せだ!」と言えるでしょうか。
私が院長を務める谷口医院では2012年からHIVのPrEPに関する相談が増え始めました。最初の頃は、「パートナーがHIV陽性」、または「自身がHIV陽性でパートナーにPrEPを考えている」という人がほとんどで、過半数は外国人でした。2015年9月にWHOがPrEPのガイドラインを発表し、その頃からパートナーが、または自身がHIVという人以外の希望者が増えました。2018年7月20日にUNAIDSがU=Uを発表し、谷口医院では「PrEPはもう不要ですよ」と伝えていたのですが、2019年あたりから「東京のクリニックでは希望すればPrEPが処方してもらえるのになんで谷口医院ではできないの?」という"クレーム"が増え始めました。結局、その"クレーム"に押し切られるようなかたちで2021年から海外後発品を用いたPrEPを始めました。
しかし、上述したような、あるいはこれまでこのGINAのサイトで述べてきたようなPrEPの注意点を説明すると、「見合わせます」という結論を出す人も少なくありません。ところが、昨年(2023年)あたりから、「他院でPrEPを処方されたけれど不安になって......」と訴えて谷口医院を受診する人が増え始めました。詳しく話を聞いてみると、彼(女)らはきちんと説明を聞いていないままPrEPを処方されているのです。
例えば「骨が脆くなるなんて一度も聞いたことがありません」と言う人は非常に多く驚かされます。PrEPによる骨密度低下は特に体重の少ない人は注意しなければなりません。「PrEP実施の7,698人の3%に骨減少症/骨粗鬆症が起こり、やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べてリスクは3.95倍にもなる」とする報告もあります。
他にも、HBV既感染者のde novo肝炎(いったんおさまっていたウイルスが再び活性化すること)のリスクを知らされていなかったり、HCV感染のリスクがPrEPによって上昇することを知らされていなかったり、腎機能低下についてはなんとなく知っていてもどの程度のリスクがあるのかを聞いていなかったり(1年間ツルバダでPrEPを実施すれば腎機能障害のリスクが5%上昇するという報告があります)、と枚挙に暇がありません。
最も問題だと思われるのが「on demand PrEPの失敗例」についての話がほとんどされていないことです。ツルバダ(TDF/FTC)によるon demand PrEPはきちんと服用しても失敗することがあり、正式に報告されています。こういう報告があることを隠して(あるいは知らずに)「on demand PrEPでも100%成功します」などと医師が言ったとすればこれは問題です。
さらに驚かされるのが、「デシコビ(TAF/FTC)のon demand PrEPでも成功する」と言われた、という人が過去に数人いたことです。繰り返しますが、on demand PrEPの成功率は100%ではありません。ツルバダを使用してさえ失敗例があるのです。デシコビのon demand PrEPとなると、推奨している国は世界のどこにもなくエビデンスも皆無です。にもかかわらずデシコビ(TAF/FTC)でon demand PrEPがこの国ではおこなわれているのはもはや異常事態とも言える魔訶不思議な現象です。もっとも、理論的にはツルバダで防げるならデシコビでも大丈夫だろうと考えたくなります。しかし、医療の世界では理論と実際は異なります。エビデンスがなく世界のどの国もどの機関も勧めていないものを推奨するのは極めて危険です。
HIVのPrEPを始めるのなら、そのリスクについてしっかりと理解しなければならないのです。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」
第220回(2024年10月)「新しいPrEPと世界から取り残される日本」
まず、HIVのPrEPの基本事項をおさえておきましょう。
・U=Uの概念があるわけだから、パートナーがHIV陽性という理由ではPrEPは不要
・PrEPが必要なのはsexual activityが高い人、複数のsex partnerを持つ人、sex workerまたはsex workerの顧客など
・PrEPで防げるのはHIVのみ(HBVは必ずしも予防できるとは限らない)
・PrEPでHCV感染が増えたという報告がある
・PrEPを継続すれば腎機能低下、骨密度低下のリスクが上昇する
・HBV既感染の人がPrEPを開始すると、de novo肝炎が生じるリスクがある
・on demand PrEPは100%成功するわけではない
と、こんな感じです。ではHIVを予防するのにPrEPはどれくらい有効なのでしょうか。この問いに対する答えは誰を"主語"にするかによって変わってきます。もしも「社会」を主語にすると、すなわち「HIVのPrEPが普及することによって社会が利益を得るか」という問いであれば「イエス」です。実際、PrEPが普及すればするほどHIVの新規感染者は減少し、結果として医療費を抑制することができます。
では主語を「あなた」とすればどうでしょう。あなたにとって大切なのは「あなたがHIVに感染しない」であって、「社会全体での感染率を減らす」ではないはずです。例えば、「PrEPをしていない集団では人口千人あたり10人が感染して、PrEPをしている集団では1人しか感染しなかった」として、「しかしあなた自身がその1人だった」という結果であれば、あなたにはとってはPrEPの意味がないわけです。
一般に「予防」を考えるときにこの視点は極めて重要です。ここを曖昧にすると、誤解、対立、さらに分断が生じます。「その予防法についての話は"誰"が主語なのか」をはっきりさせないことには話が噛み合わなくなってくるのです。
例えば、新型コロナウイルス(以下、単に「コロナ」)のワクチンを考えたとき、主語を「社会」とすれば、コロナワクチンは極めて有効です。もしもワクチンがなければ世界の1千万人以上が亡くなっていた(ワクチンは1千万人以上の命を救った)とする報告は多数あります。しかし、主語が「あなた」または「あなたにとって大切な人」だったとき、いくらワクチンのおかげで何千万人の命が救われたと言われようが、もしもあなたやあなたにとって大切な人がワクチンのせいで重篤な後遺症が出たり死んでしまったりすればワクチンの有効性にはまったく意味がなくなるわけです。
HIVのPrEPも同様です。そして、HIVの場合、コロナやインフルエンザよりも"厳格に"考えなければなりません。コロナやインフルエンザは「感染してもワクチンのおかげで軽症で済む」という利点があります。他方、HIVの場合は"軽症"はありません。「いったん感染すると生涯にわたりウイルスは消えず、感染には軽症も重症もない」のです。つまり、HIVのPrEPの有効率を「あなた」を主語に考えるときには「100%成功しなければ意味がない」のです。
副作用についても同様です。「社会」を主語にすれば「HIVのPrEPが普及した結果、重篤な腎機能障害を起こした人が1%、骨粗しょう症を発症した人が2%いた」であれば、この程度ならOKなのです。なぜなら、HIV感染を大きく防ぐことができてHIV感染にかかる社会全体の医療費が大幅に抑えられるからです。生活に大きく支障のでる腎機能障害や骨粗しょう症の患者が少々現れたくらいでは、HIVの医療費抑制のメリットの方がはるかに大きいわけです。
しかしながら、やはり主語を「あなた」とした場合、HIV感染は防げたけれど、重篤な腎機能障害が起こり生涯にわたり人工透析が必要になった、とすればどうでしょう。あるいは骨粗鬆症を患い転倒して股関節を骨折しそのまま寝たきりになった、とすればどうでしょう。それでも「PrEPのおかげでHIVに感染しなかった。自分は幸せだ!」と言えるでしょうか。
私が院長を務める谷口医院では2012年からHIVのPrEPに関する相談が増え始めました。最初の頃は、「パートナーがHIV陽性」、または「自身がHIV陽性でパートナーにPrEPを考えている」という人がほとんどで、過半数は外国人でした。2015年9月にWHOがPrEPのガイドラインを発表し、その頃からパートナーが、または自身がHIVという人以外の希望者が増えました。2018年7月20日にUNAIDSがU=Uを発表し、谷口医院では「PrEPはもう不要ですよ」と伝えていたのですが、2019年あたりから「東京のクリニックでは希望すればPrEPが処方してもらえるのになんで谷口医院ではできないの?」という"クレーム"が増え始めました。結局、その"クレーム"に押し切られるようなかたちで2021年から海外後発品を用いたPrEPを始めました。
しかし、上述したような、あるいはこれまでこのGINAのサイトで述べてきたようなPrEPの注意点を説明すると、「見合わせます」という結論を出す人も少なくありません。ところが、昨年(2023年)あたりから、「他院でPrEPを処方されたけれど不安になって......」と訴えて谷口医院を受診する人が増え始めました。詳しく話を聞いてみると、彼(女)らはきちんと説明を聞いていないままPrEPを処方されているのです。
例えば「骨が脆くなるなんて一度も聞いたことがありません」と言う人は非常に多く驚かされます。PrEPによる骨密度低下は特に体重の少ない人は注意しなければなりません。「PrEP実施の7,698人の3%に骨減少症/骨粗鬆症が起こり、やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べてリスクは3.95倍にもなる」とする報告もあります。
他にも、HBV既感染者のde novo肝炎(いったんおさまっていたウイルスが再び活性化すること)のリスクを知らされていなかったり、HCV感染のリスクがPrEPによって上昇することを知らされていなかったり、腎機能低下についてはなんとなく知っていてもどの程度のリスクがあるのかを聞いていなかったり(1年間ツルバダでPrEPを実施すれば腎機能障害のリスクが5%上昇するという報告があります)、と枚挙に暇がありません。
最も問題だと思われるのが「on demand PrEPの失敗例」についての話がほとんどされていないことです。ツルバダ(TDF/FTC)によるon demand PrEPはきちんと服用しても失敗することがあり、正式に報告されています。こういう報告があることを隠して(あるいは知らずに)「on demand PrEPでも100%成功します」などと医師が言ったとすればこれは問題です。
さらに驚かされるのが、「デシコビ(TAF/FTC)のon demand PrEPでも成功する」と言われた、という人が過去に数人いたことです。繰り返しますが、on demand PrEPの成功率は100%ではありません。ツルバダを使用してさえ失敗例があるのです。デシコビのon demand PrEPとなると、推奨している国は世界のどこにもなくエビデンスも皆無です。にもかかわらずデシコビ(TAF/FTC)でon demand PrEPがこの国ではおこなわれているのはもはや異常事態とも言える魔訶不思議な現象です。もっとも、理論的にはツルバダで防げるならデシコビでも大丈夫だろうと考えたくなります。しかし、医療の世界では理論と実際は異なります。エビデンスがなく世界のどの国もどの機関も勧めていないものを推奨するのは極めて危険です。
HIVのPrEPを始めるのなら、そのリスクについてしっかりと理解しなければならないのです。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」
第220回(2024年10月)「新しいPrEPと世界から取り残される日本」
第220回(2024年10月) 新しいPrEPと世界から取り残される日本
前回に引き続き今回もPrEPの話をします。今年の8月、日本でもようやくツルバダ(TDF/FTC)の先発品がPrEPとして使用できることが認められたわけですが、価格は1錠2,442円(税抜き)もしますから、ほとんどの日本人には現実的ではないという話を前回しました。他方、世界ではツルバダはもう古くて、年に2回注射するだけでほぼ100%の感染を防げる、つまりツルバダなどよりも極めて良質なPrEPが実施されつつあり話題を呼んでいます。いわば、日本は周回遅れどころか、5周回ほどの遅れをとっているわけです。今回は、世界で広がり始めたPrEPの新しい方法を紹介し、日本の実情と比較してみましょう。
まずは世界のPrEPの歴史を振り返ってみましょう(一部は前回のコラムと重なりますが重要な点は再度記します)。
★2011年7月17日 医学誌The LANCETに「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」が掲載され、ツルバダによるPrEPの有用性が紹介された
★2012年7月16日 米国FDAがツルバダをPrEPとして承認。対象は「ハイリスクの成人(adults at high risk)」とされ性自認・性指向に関わらず推奨された
★2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表し、ツルバダによるPrEPの有効性と安全性が確立された
★2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これによりunprocted sexでも治療を受けているHIV陽性者からの感染は起こらないことへのコンセンサスが得られた(しかし、PrEPは廃れなかった)
★2019年10月3日 米国FDAがデシコビ(TAF/FTC)をPrEPとしての使用を承認した。ただし対象は(生物学的)男性のみで、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)には推奨されなかった。これにより、(生物学的)男性はツルバダ、デシコビの双方を服用できる一方で、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)はツルバダのみが使えることになった。
★2021年12月20日 米国FDAがボカブリア(=カボテグラビル=CAB)をPrEPとして承認した。ボカブリアの有用性を示した下記の2つの試験が紹介された
〇試験1:男性と性行為をするシスジェンダーの男性(≒MSM)とトランス女性4,566人がボカブリアまたはツルバダを用いてPrEPを実施。結果、グループA(ボカブリアのグループ)はグループB(ツルバダ内服グループ)よりもHIV感染リスクが69%低下していた
〇試験2:シスジェンダーの女性(性自認と生物学的性のいずれも女性)3,224人を対象に、グループ毎にHIV感染の有無が調べられた。結果、グループAはグループBに比べ、HIVに感染するリスクが90%低いことがわかった
・グループA:ボカブリアの内服(注:ボカブリアは注射と内服の双方がある)を4週間毎日服用し、その後2か月毎にボカブリアの注射を実施
・グループB:毎日ツルバダを内服
★2024年6月20日 ギリアド社が同社製のレナカパビル(=シュンレンカ=LEN)の臨床試験「PURPOSE1」の結果を発表。南アフリカの25か所とウガンダの3か所で、16~25歳のシスジェンダーの女性と少女5,338人を対象に有効性が検証された
・年2回のレナカパビル皮下注射 → HIVに感染したのは0人
・1日1回のデシコビ内服 → 1年間で100人あたり2.02人が感染した
・1日1回のツルバダ内服 → 1年間で100人あたり1.69人が感染した
★2024年10月7日 ギリアド社がレナカパビルの臨床試験「PURPOSE2」の結果を発表。対象者は米国、南アフリカ、ペルー、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、タイのいずれかに在住の「生物学的性及び性自認のいずれもが男性の男性と性行為をもつ人(≒MSM)」、トランス女性、トランス男性、ノンバイナリーのいずれか。結果、レナカパビルはツルバダより89%有効性が高いという結果が得られた
・年2回のレナカパビル皮下注射:2,179人の参加者のうち2人が感染
・1日1回のツルバダ内服:1,086人中9人が感染
★2024年8月28日 日本でツルバダがPrEPとして承認された
PrEPとしてのレナカパビルの使用は現時点ではまだFDAから承認されているわけではありませんが、2025年中には実現化するのではないかとみられています。臨床試験はPURPOSE5まで続けられる予定です。
このように世界の流れを振り返れば「日本のPrEPは周回どころか5周回ほど遅れている」ことがよく分かると思います。世界的には「内服PrEPはもう古い。これからは2ヶ月または半年に一度の注射の時代だ!」という流れに以降しつつあるのに、日本ではようやくツルバダが承認されたばかり。米国では2012年7月16日に起こった出来事が、日本では12年以上遅れた2024年8月28日にようやく実現した、かにみえます。これから遅れを取り戻すことができるのでしょうか。
それは絶望的です。なぜなら、12年遅れで承認されたといっても、日本の対策ではほとんど誰も処方を希望しないからです。米国も日本と同様ツルバダの先発品は高価で、そのままの値段ならほとんどの人が恩恵を受けられません。そこで政府や保険会社などが費用を負担し、事実上無料から1日1ドル程度でPrEPの処方を受けることができるのです。日本は承認されたのはいいのですが、費用を誰が負担するかということに関しては議論が始まってさえいません。いったい誰が1日2,700円もの費用を捻出し続けることができるというのでしょう。
ついこの間まで、谷口医院ではツルバダの輸入後発品を扱っていましたから、希望する人(特に女性)には処方していました。ですが、すでに在庫をつき、現在処方できるのはデシコビ(TAF/FTC)の後発品だけとなりました。しかし、上記にもあるように米国FDAはデシコビのPrEPとしての女性への使用を承認していませんから、失敗のリスクを考えると女性にデシコビは処方しにくいのです。
尚、谷口医院では希望者がいればツルバダの先発品(月額80,600円)、ボカブリア(1回307,160円)、シュンレンカ(1回3,530,000円)も処方できますが、現時点で希望者はいません。他方、デシコビ(TAF/FTC)は希望者は次第に増加し、輸入の仕入れ量が増えたおかげで値段はどんどん下がってきています。次回の仕入れからは月額5,500円で処方できそうです。しかし、あるべき姿は廉価な国内品が承認・発売されることに他なりません。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」
まずは世界のPrEPの歴史を振り返ってみましょう(一部は前回のコラムと重なりますが重要な点は再度記します)。
★2011年7月17日 医学誌The LANCETに「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」が掲載され、ツルバダによるPrEPの有用性が紹介された
★2012年7月16日 米国FDAがツルバダをPrEPとして承認。対象は「ハイリスクの成人(adults at high risk)」とされ性自認・性指向に関わらず推奨された
★2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表し、ツルバダによるPrEPの有効性と安全性が確立された
★2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これによりunprocted sexでも治療を受けているHIV陽性者からの感染は起こらないことへのコンセンサスが得られた(しかし、PrEPは廃れなかった)
★2019年10月3日 米国FDAがデシコビ(TAF/FTC)をPrEPとしての使用を承認した。ただし対象は(生物学的)男性のみで、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)には推奨されなかった。これにより、(生物学的)男性はツルバダ、デシコビの双方を服用できる一方で、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)はツルバダのみが使えることになった。
★2021年12月20日 米国FDAがボカブリア(=カボテグラビル=CAB)をPrEPとして承認した。ボカブリアの有用性を示した下記の2つの試験が紹介された
〇試験1:男性と性行為をするシスジェンダーの男性(≒MSM)とトランス女性4,566人がボカブリアまたはツルバダを用いてPrEPを実施。結果、グループA(ボカブリアのグループ)はグループB(ツルバダ内服グループ)よりもHIV感染リスクが69%低下していた
〇試験2:シスジェンダーの女性(性自認と生物学的性のいずれも女性)3,224人を対象に、グループ毎にHIV感染の有無が調べられた。結果、グループAはグループBに比べ、HIVに感染するリスクが90%低いことがわかった
・グループA:ボカブリアの内服(注:ボカブリアは注射と内服の双方がある)を4週間毎日服用し、その後2か月毎にボカブリアの注射を実施
・グループB:毎日ツルバダを内服
★2024年6月20日 ギリアド社が同社製のレナカパビル(=シュンレンカ=LEN)の臨床試験「PURPOSE1」の結果を発表。南アフリカの25か所とウガンダの3か所で、16~25歳のシスジェンダーの女性と少女5,338人を対象に有効性が検証された
・年2回のレナカパビル皮下注射 → HIVに感染したのは0人
・1日1回のデシコビ内服 → 1年間で100人あたり2.02人が感染した
・1日1回のツルバダ内服 → 1年間で100人あたり1.69人が感染した
★2024年10月7日 ギリアド社がレナカパビルの臨床試験「PURPOSE2」の結果を発表。対象者は米国、南アフリカ、ペルー、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、タイのいずれかに在住の「生物学的性及び性自認のいずれもが男性の男性と性行為をもつ人(≒MSM)」、トランス女性、トランス男性、ノンバイナリーのいずれか。結果、レナカパビルはツルバダより89%有効性が高いという結果が得られた
・年2回のレナカパビル皮下注射:2,179人の参加者のうち2人が感染
・1日1回のツルバダ内服:1,086人中9人が感染
★2024年8月28日 日本でツルバダがPrEPとして承認された
PrEPとしてのレナカパビルの使用は現時点ではまだFDAから承認されているわけではありませんが、2025年中には実現化するのではないかとみられています。臨床試験はPURPOSE5まで続けられる予定です。
このように世界の流れを振り返れば「日本のPrEPは周回どころか5周回ほど遅れている」ことがよく分かると思います。世界的には「内服PrEPはもう古い。これからは2ヶ月または半年に一度の注射の時代だ!」という流れに以降しつつあるのに、日本ではようやくツルバダが承認されたばかり。米国では2012年7月16日に起こった出来事が、日本では12年以上遅れた2024年8月28日にようやく実現した、かにみえます。これから遅れを取り戻すことができるのでしょうか。
それは絶望的です。なぜなら、12年遅れで承認されたといっても、日本の対策ではほとんど誰も処方を希望しないからです。米国も日本と同様ツルバダの先発品は高価で、そのままの値段ならほとんどの人が恩恵を受けられません。そこで政府や保険会社などが費用を負担し、事実上無料から1日1ドル程度でPrEPの処方を受けることができるのです。日本は承認されたのはいいのですが、費用を誰が負担するかということに関しては議論が始まってさえいません。いったい誰が1日2,700円もの費用を捻出し続けることができるというのでしょう。
ついこの間まで、谷口医院ではツルバダの輸入後発品を扱っていましたから、希望する人(特に女性)には処方していました。ですが、すでに在庫をつき、現在処方できるのはデシコビ(TAF/FTC)の後発品だけとなりました。しかし、上記にもあるように米国FDAはデシコビのPrEPとしての女性への使用を承認していませんから、失敗のリスクを考えると女性にデシコビは処方しにくいのです。
尚、谷口医院では希望者がいればツルバダの先発品(月額80,600円)、ボカブリア(1回307,160円)、シュンレンカ(1回3,530,000円)も処方できますが、現時点で希望者はいません。他方、デシコビ(TAF/FTC)は希望者は次第に増加し、輸入の仕入れ量が増えたおかげで値段はどんどん下がってきています。次回の仕入れからは月額5,500円で処方できそうです。しかし、あるべき姿は廉価な国内品が承認・発売されることに他なりません。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「HIVのPrEPの失敗例」
第219回(2024年9月)「ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった」
第219回(2024年9月) ツルバダのPrEP認可でPrEPはかえって普及しなくなった
2024年8月28日、ギリアド・サイエンシズ株式会社(以下「ギリアド」)は同社の抗HIV薬ツルバダ配合錠(以下「ツルバダ」)をPrEP(曝露前予防)として使用できるよう承認取得しました。ツルバダはこれまでも私が院長を務める谷口医院では先発品もしくは海外製の後発品をPrEPとして処方していました。
では承認されたことで何が違ってくるのでしょうか。ひとつには承認されたことで、副作用が生じたときに救済制度の対象となることが挙げられます。しかし、救済の対象となるような大きな副作用はめったにないことですから(過去に繰り返し述べたように救済制度の対象外となるであろう副作用は多数ありますが)、これだけだとさほどインパクトがありません。では、何が大きく変わるのでしょうか。
私も含めて関係者が期待したのは「費用」です。ツルバダの薬価は年々下がっていますが、それでも今でも1錠2,442.4円もします。日本では予防治療に保険適用はありませんから、承認されたといっても治療費は自費診療になります。医療機関の利益をゼロとしたとしても、1日2,442.4円+消費税≒2,700円もかかるわけで、この費用を捻出できる人はほとんどいないでしょう。ですから、ギリアドがPrEPとして承認取得したということは、治療用の薬価はそのままだったとしてもPrEP用には安い値段を設定するに違いないと我々は期待したわけです。
そこでこの1カ月間、卸業者がいったいいくらで見積りを出してくるのかと期待していたのですが、待てど暮らせど話がきません。そこで、これ以上待てないと考えた私は複数の卸業者に尋ねてみました。すると、なんと「PrEP用の卸値も治療薬のものと同じ」と言うではないですか。
あまり知られていないかもしれませんが、実は医療機関が卸業者から仕入れる費用は薬価とほとんど差がありません。つまり、ほとんどの薬はいくら処方しても医療機関の利益にはならないのです。それでも、以前は谷口医院は院内処方にしていましたから(つまり購入量が多かったですから)、いくらかは値引きが期待できたのですが、現在は院外処方にしていますから日頃薬は仕入れていません。PrEPのツルバダは自費診療になるので例外的に院内処方にすることを検討していて、もちろん薬の利益など初めから求めるつもりはありませんが、さすがに処方すればするほど赤字というのは避けなければならず、となるとどうしても上記の1日2,700円はかかってしまうことになります。
では、これまでどおりツルバダの輸入後発品を仕入れればいいではないか、と考えたくなりますが、これができなくなったのです。元々、日本で流通している薬と同じ成分のものは医療機関で輸入できないのです。しかし、谷口医院ではこれまで輸入を続けてきました......。これは非常にややこしい話で、谷口医院は過去12年に渡り厚生局と様々な"攻防"を繰り広げています。過去にもいくらかは紹介しましたが、ここで改めて谷口医院におけるHIVのPrEPの歴史を振り返っておきます。
2011年7月 GINAと共に第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」で、HIVのPrEPについて、LANCETの論文「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」を引き合いに出して紹介
2012年 外国人から「日本でもPrEPを処方してほしい」という要望が増え始めた。そこで近畿厚生局に問い合わせ、抗HIV薬のクリニックでの輸入の可否を尋ねると「できない」と言われた(詳細は後述します)
2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表した。同時に、豪州人や米国人などから(外国人はPrEPが母国の保険でカバーされるため)「高くても問題ないから先発品のPrEPを処方してほしい」という声が増え、先発品の(高額な)ツルバダをPrEPとして処方開始した。日本人には個人輸入か、バンコクのAnonymous Clinicで処方を受けるよう助言を開始した(同クリニックではツルバダ1錠45円程度だった)
2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これで多くの人にとってPrEPが不要になるのではないかと予想した。ところがそうはならず......
2019年 「東京のクリニックではPrEPの処方ができるのになんで谷口医院ではできないんですか」という質問(クレーム?)が増加
2020年 そこで、関東信越厚生局にクリニックで輸入ができるかを尋ねると「OK」とのこと。しかし近畿厚生局に改めて尋ねるとやはり「NG」だと言う。関東信越厚生局に「なぜ厚生局で考えが異なるのか」と尋ねると「調べて連絡する」と言われたが返答なし
2021年 そこで、東京の輸入業者を使って谷口医院で輸入後発品を用いたPrEPを開始
2023年3月 東京の輸入代行業者から「抗HIV薬は輸入できなくなるかもしれない」と連絡があり、関東信越厚生局に問い合わせると「できない」と言われた。ところが、後に代行業者から「できるようになった」と連絡があり輸入再開できるようになった
2024年8月 ギリアドが先発品のツルバダをPrEPとして承認取得。これを受けて後発品の輸入がまったくできなくなった
随分ややこしい話です。そもそも近畿厚生局はツルバダの海外製後発品を医療機関で「輸入できない」と言い、関東信越厚生局は「できる」とまったく正反対の見解なのです。厚生局で方針が違うのは奇妙な話です。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか。
近畿厚生局によると、医療機関が海外製の薬を輸入できるのは「治療上緊急性があり、国内に代替品が流通していない場合」です。ツルバダをPrEPに用いるのは「予防」ですから緊急性があるとは言えないでしょうし(曝露後予防/PEPなら緊急性はありますが)、国内に先発品があるわけですから代替品があるのはあきらかです。よって近畿厚生局の言い分は理解できます。では、関東信越厚生局はなぜOKと判断したのか。おそらく「国内で流通しているツルバダはHIV陽性者への治療用であり、PrEP用ではない」と解釈したのでしょう。これは矛盾があるような気がしますが、ここで食い下がるとやぶへびになり輸入できなくなるかもしれません。そこで私はこの件には触れないようにして、東京の輸入業者を使ってツルバダ後発(及びデシコビ後発)の輸入を開始しました。
これまで(私を含む)HIVの関係者は「国内でPrEPを承認してほしい」と強く希望してきました。安定供給が求められるからです。2つの厚生局で考え方が違うような薬をいつまでも使い続けるわけにはいきません。実際、以前は関東信越厚生局が輸入を認めていた他の抗HIV薬のRAL(先発はアイセントレス)、DTG(先発はテビケイ)はすでに禁止されています。現在同じような抗HIV薬であるBIC/TAF/FTC(先発はビクタルビ)は(なぜか)認められているのですが、これもいつ中止されるか分かりません(注:谷口医院ではこれら3種をいずれもPEPとして用いています)。信頼できる品質のものが安定供給される体制が必要なのです。そして、1日2,700円はあきらかに非現実的ですから、ギリアドがPrEPの承認を取得するときには安い値段で卸すだろうと期待しました。
ところが、蓋を開けてみれば、承認されたことで後発品の輸入ができなくなるという皮肉としかいいようのない現実が待っていたのです。これで、ツルバダを入手するには個々がリスクをかかえて個人輸入しなければならなくなりました。上述のバンコクのAnonymous Clinicを訪ねるという選択肢は残っていますが、円安バーツ高に加え、タイの物価高、航空運賃の値上げなどで、以前ほどは魅力がなくなってきています。といっても、最近同クリニックに直接確認してみると、一番安いツルバダ後発品が今も1錠15バーツでしたから、個人的にはこの方法を勧めています。個人輸入よりも直接医師の問診を受けるAnonymous clinic受診の方がはるかに安心できるからです。
さて、男性は(ストレートでもゲイでも)ツルバダが使えなくてもデシコビ(TAF/FTC)の輸入後発品がありますが、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)は米国FDAがデシコビを推奨していないことからツルバダを使うしかないのですが、ギリアドがPrEPとして承認取得したために今後入手が難しくなります。また、on demand PrEPはセクシャリティに関わりなくデシコビは使えずにツルバダに頼るしかありませんから、今後on demand PrEPは困難になります(ただし、on demand PrEPは米国FDAが推奨していないことや必ずしも成功するわけではないことからGINAとしても谷口医院としても勧めていませんが)。
こんなことになるのなら、ギリアドは承認取得など余計なことをしてほしくなかった、という声が次第に増えてきています。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「 HIVのPrEPの失敗例」
では承認されたことで何が違ってくるのでしょうか。ひとつには承認されたことで、副作用が生じたときに救済制度の対象となることが挙げられます。しかし、救済の対象となるような大きな副作用はめったにないことですから(過去に繰り返し述べたように救済制度の対象外となるであろう副作用は多数ありますが)、これだけだとさほどインパクトがありません。では、何が大きく変わるのでしょうか。
私も含めて関係者が期待したのは「費用」です。ツルバダの薬価は年々下がっていますが、それでも今でも1錠2,442.4円もします。日本では予防治療に保険適用はありませんから、承認されたといっても治療費は自費診療になります。医療機関の利益をゼロとしたとしても、1日2,442.4円+消費税≒2,700円もかかるわけで、この費用を捻出できる人はほとんどいないでしょう。ですから、ギリアドがPrEPとして承認取得したということは、治療用の薬価はそのままだったとしてもPrEP用には安い値段を設定するに違いないと我々は期待したわけです。
そこでこの1カ月間、卸業者がいったいいくらで見積りを出してくるのかと期待していたのですが、待てど暮らせど話がきません。そこで、これ以上待てないと考えた私は複数の卸業者に尋ねてみました。すると、なんと「PrEP用の卸値も治療薬のものと同じ」と言うではないですか。
あまり知られていないかもしれませんが、実は医療機関が卸業者から仕入れる費用は薬価とほとんど差がありません。つまり、ほとんどの薬はいくら処方しても医療機関の利益にはならないのです。それでも、以前は谷口医院は院内処方にしていましたから(つまり購入量が多かったですから)、いくらかは値引きが期待できたのですが、現在は院外処方にしていますから日頃薬は仕入れていません。PrEPのツルバダは自費診療になるので例外的に院内処方にすることを検討していて、もちろん薬の利益など初めから求めるつもりはありませんが、さすがに処方すればするほど赤字というのは避けなければならず、となるとどうしても上記の1日2,700円はかかってしまうことになります。
では、これまでどおりツルバダの輸入後発品を仕入れればいいではないか、と考えたくなりますが、これができなくなったのです。元々、日本で流通している薬と同じ成分のものは医療機関で輸入できないのです。しかし、谷口医院ではこれまで輸入を続けてきました......。これは非常にややこしい話で、谷口医院は過去12年に渡り厚生局と様々な"攻防"を繰り広げています。過去にもいくらかは紹介しましたが、ここで改めて谷口医院におけるHIVのPrEPの歴史を振り返っておきます。
2011年7月 GINAと共に第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」で、HIVのPrEPについて、LANCETの論文「抗レトロウイルス予防法:HIVのコントロールの決定的瞬間(Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control)」を引き合いに出して紹介
2012年 外国人から「日本でもPrEPを処方してほしい」という要望が増え始めた。そこで近畿厚生局に問い合わせ、抗HIV薬のクリニックでの輸入の可否を尋ねると「できない」と言われた(詳細は後述します)
2015年9月1日 WHOがPrEPのガイドラインを発表した。同時に、豪州人や米国人などから(外国人はPrEPが母国の保険でカバーされるため)「高くても問題ないから先発品のPrEPを処方してほしい」という声が増え、先発品の(高額な)ツルバダをPrEPとして処方開始した。日本人には個人輸入か、バンコクのAnonymous Clinicで処方を受けるよう助言を開始した(同クリニックではツルバダ1錠45円程度だった)
2018年7月20日 UNAIDSがU=Uを発表。これで多くの人にとってPrEPが不要になるのではないかと予想した。ところがそうはならず......
2019年 「東京のクリニックではPrEPの処方ができるのになんで谷口医院ではできないんですか」という質問(クレーム?)が増加
2020年 そこで、関東信越厚生局にクリニックで輸入ができるかを尋ねると「OK」とのこと。しかし近畿厚生局に改めて尋ねるとやはり「NG」だと言う。関東信越厚生局に「なぜ厚生局で考えが異なるのか」と尋ねると「調べて連絡する」と言われたが返答なし
2021年 そこで、東京の輸入業者を使って谷口医院で輸入後発品を用いたPrEPを開始
2023年3月 東京の輸入代行業者から「抗HIV薬は輸入できなくなるかもしれない」と連絡があり、関東信越厚生局に問い合わせると「できない」と言われた。ところが、後に代行業者から「できるようになった」と連絡があり輸入再開できるようになった
2024年8月 ギリアドが先発品のツルバダをPrEPとして承認取得。これを受けて後発品の輸入がまったくできなくなった
随分ややこしい話です。そもそも近畿厚生局はツルバダの海外製後発品を医療機関で「輸入できない」と言い、関東信越厚生局は「できる」とまったく正反対の見解なのです。厚生局で方針が違うのは奇妙な話です。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか。
近畿厚生局によると、医療機関が海外製の薬を輸入できるのは「治療上緊急性があり、国内に代替品が流通していない場合」です。ツルバダをPrEPに用いるのは「予防」ですから緊急性があるとは言えないでしょうし(曝露後予防/PEPなら緊急性はありますが)、国内に先発品があるわけですから代替品があるのはあきらかです。よって近畿厚生局の言い分は理解できます。では、関東信越厚生局はなぜOKと判断したのか。おそらく「国内で流通しているツルバダはHIV陽性者への治療用であり、PrEP用ではない」と解釈したのでしょう。これは矛盾があるような気がしますが、ここで食い下がるとやぶへびになり輸入できなくなるかもしれません。そこで私はこの件には触れないようにして、東京の輸入業者を使ってツルバダ後発(及びデシコビ後発)の輸入を開始しました。
これまで(私を含む)HIVの関係者は「国内でPrEPを承認してほしい」と強く希望してきました。安定供給が求められるからです。2つの厚生局で考え方が違うような薬をいつまでも使い続けるわけにはいきません。実際、以前は関東信越厚生局が輸入を認めていた他の抗HIV薬のRAL(先発はアイセントレス)、DTG(先発はテビケイ)はすでに禁止されています。現在同じような抗HIV薬であるBIC/TAF/FTC(先発はビクタルビ)は(なぜか)認められているのですが、これもいつ中止されるか分かりません(注:谷口医院ではこれら3種をいずれもPEPとして用いています)。信頼できる品質のものが安定供給される体制が必要なのです。そして、1日2,700円はあきらかに非現実的ですから、ギリアドがPrEPの承認を取得するときには安い値段で卸すだろうと期待しました。
ところが、蓋を開けてみれば、承認されたことで後発品の輸入ができなくなるという皮肉としかいいようのない現実が待っていたのです。これで、ツルバダを入手するには個々がリスクをかかえて個人輸入しなければならなくなりました。上述のバンコクのAnonymous Clinicを訪ねるという選択肢は残っていますが、円安バーツ高に加え、タイの物価高、航空運賃の値上げなどで、以前ほどは魅力がなくなってきています。といっても、最近同クリニックに直接確認してみると、一番安いツルバダ後発品が今も1錠15バーツでしたから、個人的にはこの方法を勧めています。個人輸入よりも直接医師の問診を受けるAnonymous clinic受診の方がはるかに安心できるからです。
さて、男性は(ストレートでもゲイでも)ツルバダが使えなくてもデシコビ(TAF/FTC)の輸入後発品がありますが、女性(及び自身の膣を用いた性交渉をする人)は米国FDAがデシコビを推奨していないことからツルバダを使うしかないのですが、ギリアドがPrEPとして承認取得したために今後入手が難しくなります。また、on demand PrEPはセクシャリティに関わりなくデシコビは使えずにツルバダに頼るしかありませんから、今後on demand PrEPは困難になります(ただし、on demand PrEPは米国FDAが推奨していないことや必ずしも成功するわけではないことからGINAとしても谷口医院としても勧めていませんが)。
こんなことになるのなら、ギリアドは承認取得など余計なことをしてほしくなかった、という声が次第に増えてきています。
参考:
TIC谷口医院の<PrEP(曝露前予防)について>
GINAと共に
第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
第113回(2015年11月)HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」
第174回(2020年12月)「PrEPとU=Uは矛盾するのか」
第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」
第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」
第214回(2024年4月)「 HIVのPrEPの失敗例」