GINAと共に

第184回(2021年10月) PrEPについての2つの誤解

 GINAと共に第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」で、「日本でも今後HIVのPrEPが急速に広がっていくであろう。その最大の理由は医療機関で後発品を輸入することが認められるようになったからだ」と述べました。

 実際、その通りとなり、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)でも、PrEP希望で受診(オンライン診療を含む)される人が次第に増えてきています。しかしながら、私が当初予想していなかった「誤解」をしている人が目立つようになってきました。今回はよくある2つの誤解について述べたいとと思いますが、まずはPrEPの概略を確認しておきましょう。

 PrEPとは曝露前予防(Pre-Exposure Prophylaxis)のことで、HIVが体内に侵入する前に抗HIV薬合計4錠のみを内服して感染を予防する方法です。「PrEP」という言葉はHIVの専売特許ではなく、他の感染症でも用います。代表的なものにマラリアがあります。マラリアにはまだ広く普及しているワクチンがなく、マラリア浸淫地を訪れる際は予防薬を飲まねばならないことがあり、予防薬を内服することをPrEPと呼びます。介護施設などでインフエンザが発生したときは職員や患者さんの家族への感染を防ぐために抗インフルエンザ薬を内服(または吸入)することがあり、これもPrEPです。

 感染症を予防するためのワクチンはすべてPrEPと言えます。実際、狂犬病のように曝露後(犬などに咬まれた後)にでも使えるワクチンは、曝露後に使うときはPEP(Post-Exposure prophylaxis)と呼び、曝露前に使うとき(要するに通常のワクチンとして使うとき)はPrEPといいます。(例えばインドなどで)狂犬病を頻繁に診ている医師であればPEP/PrEPと言えば、おそらくHIVよりも先に狂犬病を思い出すでしょう。

 冒頭のコラムでもHIVのPrEPに関してよくある誤解について言及しました。それらはC型肝炎ウイルス(HCV)に関することと、オンデマンドPrEPについてです(オンデマンドPrEPについては今回も後で述べます)。しかし、PrEPが普及した今、「もっと大きな誤解」があることがわかりました。

 そのコラムで私は「PrEPの相談をされる人は性感染症に詳しいことが多く、B型肝炎ウイルス(HBV)のワクチンはすでに接種し抗体形成を確認していることが多い」と述べました。実際、昨年(2020年)までにPrEPの問合せをされてきた人のほぼ全員(日本人も外国人も)が、HBVのワクチン接種を完了し抗体形成を確認しているか、ワクチン接種の途中、または先にワクチンを受けるので抗体ができたことを確認してからHIVのPrEPを開始したい、という人でした。

 これは当然と言えば当然で、HIVのPrEPはHIVを防ぐものであり、他の感染症を防ぐことはできません。ただ、ちょっとややこしいことに、実はHIVのPrEPで用いる抗HIV薬はHBVにも効果があります。しかし、このためにHBVに感染したことのある人はPrEPを気軽に始められないという問題もあり、たしかにこのあたりは複雑です(HBVに感染したことがある人のPrEPは少し専門的すぎるので今回は触れないでおきます)。今回は「HBVに感染したことがなくてワクチンを受けていない人」の場合に限っての話を進めます。

 HIVのPrEPで用いる薬がHBVにも効果があるのなら、別にHBVのワクチンをしなくてもいいのではないか、という疑問が当然でてきます。しかし、これはまずいのです。その最大の理由はそれを検証した研究がないからです。そして、この研究を欧米諸国で実施するのは困難なのです。なぜなら、欧米諸国では90年代中頃から、すべての国民が生まれてすぐにHBVワクチンを受けるようになり、その上の世代も受けている人が多いために、大半の人はHIVのPrEPを開始する時点で、HBVの心配をしなくていいからです。「HIVの前にHBVの予防を」というのは、ワクチンを受けていない人の話です。そして、残念ながら日本人でHBVワクチンを済ませて抗体形成を確認している人はそう多くはありません。

 もうひとつ、HIVのPrEPでHBVを予防するのが危険なのは、感染力の強さの違いです。HIVはHBVほど感染力が強くありません。他方、HBVの場合、感染者の血中ウイルス量にもよりますが、血中ウイルス量が多い場合、精液のみならず、唾液や他の体液にも含まれていることがあります。2002年には佐賀県の保育所で24人が集団感染しました。この事件だけでHBVの感染力の強さが分かるでしょう。HIVのPrEPで"理論上は"HBV感染を防げるのは事実ですが、この感染力の強さを考えるとやはりワクチンは必須となります。つまり、HBVのワクチン接種及び抗体形成確認をすることなく、HIVのPrEPを実施するのは特別な場合(例えば、パートナーがHIV未治療+HBV陰性の場合)を除いてあり得ないのです。尚、HBVのワクチンはせっかく接種しても抗体がつきにくい人がいますが、最終的には抗体形成できる人がほとんどです。

 もうひとつ、PrEPで多い誤解を紹介しましょう。それはオンデマンドPrEPに関するものです。冒頭のコラムでも、「オンデマンドPrEPは欧州では効果が高いと考えられているけれども、米国では必ずしも有効性が認められているわけではなくFDAはデイリーPrEPしか承認していない」ことを紹介しました。そして、これはゲイ男性に限ってのことです。女性やストレートの男性は初めからオンデマンドPrEPは推奨されていません。

 にもかかわらず、ストレートの男性からのオンデマンドPrEPに対する問い合わせが非常に多いのです。これだけ多いことには何か理由がありそうです。おそらく「ストレートでも有効」と書いてあるウェブサイトが存在するか(未確認ですが)、SNSを通してそういった情報が流れているのでしょう。20代から上は70代まで幅広い年齢層のストレート男性からの問い合わせがあります。

 改めて確認しておくと、ストレートの男性や女性(ストレートもレズビアンも)のオンデマンドPrEPの適応はありませんし、有効性を示したエビデンスレベルの高い研究もありません。「性交渉の前後で合計4錠飲むだけでHIVが予防できる」というのは大変魅力的ではありますが、これは仕方がありません。尚、なぜゲイ男性はオンデマンドPrEPが有効(FDAは承認していませんが)と考えられているかというと、肛門粘膜に分布する血管へは薬が移行しやすいからです。

 ここでよくある質問が「女性はオンデマンドPrEPが無効なのは分かるが、ストレートの男性は有効なのではないか。なぜならゲイのタチ(top)が防げるのなら、ストレートの男性も防げるはずだ」というものです。また、「膣を使わずに肛門しか使わない女性ならOKでは?」という質問もあります。たしかにこれらの理屈は一見正しそうです。そして、実際正しいかもしれません。ですが、これらを実証した研究がないのです。医学の世界では、理論と実際は必ずしも一致しません。なんらかの未知の理由によって、男性の肛門粘膜→陰茎は感染を防げるけれど、女性の膣壁(または肛門粘膜)→陰茎は防げない、といったことがあるかもしれません。

 ところで、HIVのPrEP目的で谷口医院を受診(オンライン診療含む)またはメール相談した人のどれくらいの割合の人が実際にPrEPを開始しているかというと、ゲイの男性で8~9割(オンデマンドPrEPを含む)、ストレートの男性で2~3割、女性で3~4割といったところです。

 やはり我々の経験でいうと、ストレートの男女よりゲイ男性の方が性感染症に関する知識は豊富です。ただし、知らないことは恥ずべきことではありません。こんなことどこでも習いませんから、むしろ知らないのが当然です。最近は、HIVのPrEPに詳しい医師や看護師も増えてきました。興味のある方は医療機関に相談し、分からないことは何でも尋ねるようにしてください。