GINAと共に

第218回(2024年8月) トランスジェンダーと性分化疾患の混乱

 パリオリンピックの2人の"女性"のボクシング選手に対し「女性の資格がない」とする声が上がり、女子1,500メートルで活躍した米国のNikki Hiltz選手に「男ではないのか」という疑惑が浮上し、また、予選の段階で"女性"なのにオリンピック資格を得られなかったLia Thomas選手に同情の声が寄せられるなど、「女性か否かはどうやって決めるのだ?」という問題が世界で盛り上がっています。しかし、日本のメディアはなぜかあまり取り上げないので、今回は誤解を解く意味もこめてオリンピックの歴史を振り返りながらこの問題に立ち入りたいと思います。

 トランス女性(出生時には男性で女性に変わった"女性")がオリンピックに出場できるか否かは以前から問題として取り上げられていましたが、なかなか認められず、IOC(国際オリンピック委員会)がトランスジェンダーのアスリートをオリンピックに参加することを許可したのは今から20年前の2004年です。

 しかし、厳しい基準があり出場資格を得る選手はなかなか現れませんでした。2015年の規定では、トランス女性のアスリートが手術をせずに出場資格を得るには、少なくとも過去4年間は性自認が女性であると宣言していたことを証明せねばならず、少なくとも12か月間は血中テストステロン値を10nmol/L未満に保っていることが条件でした。また、個々の競技について、IOCは各連盟が独自のガイドラインを設定することを許可しました。例えばWorld Athletics(世界陸上競技連盟)はテストステロンの基準を5nmol/Lとしました(後述するように後にさらに厳格化されます)。

 一般に、男性の血中テストステロン値は10~30nmol/L(年齢や計測時間により差がでます)で、若くて健康な男性は通常20~30nmol/Lの範囲です。女性の基準値は0.7~2.8nmol/Lですから定型男性、定型女性では10倍以上の差があります。これは(ポリティカルコレクトネス的には都合が悪くても)男性が女性よりもフィジカル面では極めて有利であることを示しています。尚、出場の条件として求められるのはテストステロン値のみで、女性ホルモンなど他の項目は不問です。

 世界初のトランス女性がオリンピックに出場したのは2021年、東京オリンピックでした。ニュージーランドの重量挙げ選手Laurel Hubbard選手です。Hubbard選手は過去に国内「男子」大会で合計300kgを持ち上げた記録を保持し、2001年に23歳で引退しています。そして2012年に33歳でトランスジェンダー女性としてカミングアウトし、スポーツ選手としてのキャリアを再開しました。東京オリンピックでは上記のIOCの基準を満たすためテストステロンを抑える薬物を服用していたと報道されています。

 東京オリンピックに出場できず話題になったのが、2012年と2016年のオリンピックで金メダルを獲得した南アフリカの中距離ランナーCaster Semenya選手です。Semenya選手はトランス女性ではなく、DSD(性分化疾患=Differences in sex development)のひとつである5α還元酵素欠損症(以下「5ARD」)という疾患を持っています。この疾患があれば血中テストステロン値が標準的な女性よりも高くなります。重量挙げのHubbard選手が出生時には男性だったのに対し、Semenya選手は出生時に女性です。女性として生まれたのにもかかわらず女性選手としての資格を得られないのはおかしいではないかという意見は当然でてきます。

 ここでDSDについて解説しておきましょう。以前は半陰陽とかインターセックスとか呼ばれていた「性染色体や性ホルモンの代謝などが定型でない状態」のことを指します。DSDには多数の種類があり、ある程度の生物学の知識がないと理解するのが困難で、またインターセックスという表現は医学界では使われなくなってきているものの当事者の間ではアイデンティティを表現するために好んで用いられることもあり、DSDの話を始めるとかなり複雑になってしまいます。

 上述したようにSemenya選手の疾患は5ARDで、冒頭で述べた2人のボクシング選手も水泳のLia Thomas選手も5ARDを有しているのではないかと報道されています。よって、ここではDSDの詳細に立ち入らず「現在スポーツ界で問題になっているDSDの大半が5ARD」と理解すれば十分でしょう。尚、DSD全体ではおそらく先天性副腎皮質過形成(CAH)が最多ではないかと思われるのですが、CAHの女性がオリンピックに出場したという話は聞いたことがありません。

 5ARDを少し詳しく説明します。出生時には外性器のかたちから「女性」と診断されますが、染色体はXY、つまり定型男性型です。テストステロンは定型男性と同じように分泌されます。ところがテストステロンをジヒドロテストステロンと呼ばれる別の男性ホルモンに代謝するときの酵素(5α還元酵素)が欠落し、結果ジヒドロテストステロンが合成されないために陰茎が形成されません。しかし、テストステロンの分泌量は定型男性と同じですから思春期を迎える頃には、声が低くなり、筋肉量が増えます。つまり肉体的には定型男性と同じように成長するのです。また、性自認も男性になることが多いとされています。

 2016年のリオデジャネイロオリンピックの女子800メートル走で金メダルを獲得したのがSemenya選手で、銀メダルはブルンジのFrancine Niyonsaba選手、銅メダルはケニヤのMargaret Wambui選手です。その3名全員が5ARDだと報じられています。また、東京オリンピックを目指していたナミビアの18歳の女性アスリートで当時の20歳未満の世界記録保持者のChristine Mboma選手も5ARDを持っていると言われています。

 2019年、5ARDをもつ女性アスリートに対して、World Athletics(世界陸上競技連盟)は、400メートル、800メートル、1500メートルの女子競技に参加するにはテストステロン値を抑制する薬の服用を義務付けるとする新しい規則をつくりました。そして、IOCはWorld Athleticsのこの基準を採用することにしました。

 Semenya選手はそのような治療を受けることを拒否しました。奇妙なことに、400メートル、800メートル、1500メートルはSemenya選手が得意とする種目であり、200メートルや5000メートルでは薬の服用の義務がありません。
Semenya選手東京オリンピックでこれら種目に出場することを希望していましたがタイムが伸びずにかないませんでした。またパリオリンピックにも出場できませんでした。

 尚、報道によると、Semenya選手はテストステロン値を下げるために2010年から2015年まで経口避妊薬を服用したものの、体重増加、発熱、絶え間ない吐き気や腹痛など、数え切れないほどの望ましくない副作用を引き起こしたそうです。

 パリオリンピックでは、東京オリンピックのときから比べてトランス女性の出場資格が厳格化されました。性転換手術は12歳までに完了しなければならないという制限が設けられたのです。これにより、先述のニュージーランドのHubbard選手は(性転換をしたのは30代ですから)自動的に出場資格をなくしました。

 パリオリンピックで話題となったボクシングの2人はウエルター級のアルジェリアのImane Khelif選手、もう1人はフェザー級の台湾のLin Yu-ting選手でやはり共に5ARDがあると報じられています。ややこしいのはIBA(国際ボクシング協会)が昨年(2023年)、両選手を世界女子選手権の出場資格の検査に不合格としているからです。IOCは「パスポートが女性だから」という単純な理由で女性枠での出場を認めました。IBAはIOCを記者会見で非難しました。

 2021年の東京オリンピック以降、 World Athleticsは5ARDを持つ女性選手の資格規則を厳格化しました。2023年3月から、競技に参加するには、ホルモン抑制治療を実施して、6か月間テストステロン値を2.5nmol/L未満に抑えることを求めています。これは、400から1500メートルで競技する選手に対して2015年に提案された5nmol/Lの半分のレベルです。

 World Aquatics(世界水泳連盟)は男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則をつくり、さらに男性思春期の恩恵を受けていないトランス女性(思春期を迎える前に性転換手術を完了している女性)の選手も、テストステロン値を2.5nmol/L未満に維持する必要があるとしています。

 米国の水泳選手Lia Thomas選手は、スポーツ仲裁裁判所にWorld Aquaticsに対し女性選手の資格を認めるよう訴訟を起こしました。結果、「薬物療法でテストステロン値を減らした後でも、男性思春期を経験したことで、持久力、パワー、スピード、筋力、肺活量など、身体的にかなりの優位性を維持している」との理由から敗訴し、パリオリンピック出場はかないませんでした。

 現在World AthleticsもWorld Aquaticsと同様、男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則を設けています。さらに、The International Cycling Union(国際自転車競技連合)も同じ措置をとっています。

 一方、パリオリンピックに出場できたセクシャルマイノリティの選手で有名なのが1994年生まれの米国人、中距離ランナーNikki Hiltz選手です。Hiltz選手はパリオリンピックの女子1500メートル決勝で7位に入りました。
Hiltz選手には「男性ではないのか」という疑惑が挙がりましたが、Reuterによると、トランスジェンダーでかつノンバイナリーです。そして5ARDなどの疾患はありません。

 「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が分かりにくいかもしれません。トランスジェンダーとは「性自認が出生証明書に記載されている『男性』『女性』と異なる場合」で、ノンバイナリーとは「性自認が男性・女性という二元的な性別に当てはまらない場合」を指します。ノンバイナリーだけでじゅうぶんな気がしますが、「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が好まれることが多いようです。

 以上みてきたように、5ARDを始めとするDSDとトランスジェンダーはまったく異なる概念です。これらをしっかりと理解していなければ話はまったく噛み合いません。


参考:GINAと共に
第201回(2023年3月)「トランス女性を巡る複雑な事情~前編~」
第202回(2023年4月)「トランス女性を巡る複雑な事情~後編~」


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第217回(2024年7月) 「ゲイは無料」のHIV検査は不平等ではないのか

 私が院長を務める谷口医院を開院したのは2007年の1月で、はや17年半が過ぎました。途中、三度も名称変更をし、2023年の夏からは新しい地に移転しましたが、診療内容はまったく変わっておらず「総合診療」のクリニックを続けています。「どのような方のどのような悩みもお聞きします」と言い続けていますから、実にいろんな訴えで様々な患者さんが受診されています。

 私が総合診療医を目指したきっかけは、研修医1年目のときに訪れたタイのエイズホスピスです。その施設でボランティアとして働いていたベルギー人の総合診療医(general practitioner)の診療する姿勢に感銘を受けたのです。日本では「それはうちの科ではありませんから」「専門外ですから」などと言って診療を断る医師が多いことに違和感を覚えていた私は、総合診療という臨床スタイルに魅せられました。
 
 2年後に再びタイのそのホスピスを訪れた私は、今度は米国人の総合診療医から約半年間総合診療の基礎を学びました。この頃の体験が現在の医師としての私の礎となっています。私、そして谷口医院は一貫して「どのような症状でも断らない。自分よりも専門医の診療が適しているときは速やかに紹介する。そして必要なら専門医の治療後再び自分で診る」という方針を維持しています。

 HIVについては、感染すると実に様々な症状がでますから、感染者は総合診療医にかかるのが賢明です。より専門的な治療が必要な場合は信頼できる専門医を総合診療医から紹介してもらえます。総合診療医の存在は日本のHIV陽性者にも役に立つようで、大勢のHIV陽性の患者さんから「健康のことで気になることがあれば谷口医院に相談すればよい」と考えてもらえるようになりました。

 抗HIV薬の処方については、「自立支援医療」という複雑な事務手続きが必要になるため、当初は自費診療の外国人のみを対象としていたのですが、現在ではその複雑な手続きも事務員を増員したおかげでできるようになり、今ではどのような抗HIV薬の処方も谷口医院でできるようになっています。

 このように、谷口医院は総合診療科のクリニックとして、HIV診療にも17年半携わり、そしてこれからも続ける予定です。しかし、2007年の開院当初からHIVに関して疑問に感じていたことがあります。「HIVに感染しているかどうかを調べる検査」です。

 私の個人的見解としては、HIVの検査については、他諸国がそうであるように、「保健所などの公的機関が無料で実施すべき」です。タイでも無料で受けられるところが多数あります。これは行政側からみても、「HIVを早期発見できれば結果として大勢に広がることを阻止できて医療費も安くなる」わけですからお金を使うことに意義があるはずです。

 ところが日本のシステムはそうはなっていません。たしかに各地域の保健所でも無料検査は受けられるのですが、時間が制限されていたり、他の感染症が同時に受けられなかったり、と何かと不便です。そこで、保健所などの検査では満足できない人たちが谷口医院のようなクリニックを受診するわけですが、彼(女)らの多くは「保健所では十分な相談ができない」「保健所の職員に知識がない」、あるいは「保健所ではプライバシーが確保されない」などと言います。

 ならば、まず保健所での検査を受け付ける時間を増やし、職員を増員し、職員に受検者に伝える知識を増やしてもらうのがあるべき姿のはずです。しかし、そうはならず、大阪府の方針は「保健所では限界があるから医療機関での検査を充実させよう」となってしまっているのです。

 そこで大阪府が開始したプログラムの1つが「ゲイだけを対象としたクリニックでの無料検査」です。私が大阪府の公的機関からこのキャンペーンに参加してもらえないかと依頼されたのは開院した初年の2007年です。大阪府がお金を出すから検査をしてほしいと依頼されたのです。日頃お世話になっている機関からの依頼ですから検討はしましたが、「お断り」しました。その理由はいくつかありますが、最大の理由は「ゲイだけを逆差別するようなキャンペーンは不平等だ。女性やストレートの人たちは受けられないのは差別ではないか」と考えたからです。以降、毎年のように「今年こそお願いできないか」と依頼され続けていたのですが、その都度お断りしてきました。

 しかし2024年のこの夏、ついに当院もこのキャンペーンに参加することにしました。最大の理由は、府の担当者から「今までこのキャンペーンの中心的な役割を担っていたクリニックが閉院することになった。谷口医院は参加しないという意思表示を続けていることは知っているが再検討してもらえないか」とお願いされたからです。

 私は、一人で叫んだところで微力であることを認識しながらも「行政が主導するHIVの無料検査を充実させるべきだ」と17年以上に渡り言い続けてきました。しかし、現実には何も変わっていません。ならばこれから変わることもないでしょう。ということは、いつまでも理想論を口にするだけでは何の意味もなく、自分が動くしかありません。

 ここで、なぜ行政は「税金を使ってでもゲイを対象としたHIV検査の特別なキャンペーンを実施すべきと考えているのか」を考えてみましょう。我々医師の役割は「目の前の
困っている患者さんを助ける」ですが、行政の視点は異なります。行政は公衆衛生学的な観点から「社会全体としてHIVが蔓延することを防ぐ。そのために早期発見につとめる」をミッションとしています。すでに感染したひとりひとりの患者さんには目を向けていません。つまり、私のような医師と行政は別の方向を向いているわけです。

 けれども、谷口医院も私も行政の考えが理解できないわけではありません。目の前の患者さんに尽力することには変わりはないけれど、「公衆衛生学的な早期発見のために(保健所の現在の体制では不十分なのだから)我々も協力する」という考えは成り立ちます。

 しかし、ここに矛盾が生まれます。「ゲイのみを対象」とするのは「(日本では)ゲイにHIV陽性者が多いから」で、これは理解できるのですが、検査を受ける側の立場からみれば「なんでゲイは無料で受けられるのに、あたしたち(ストレートの男性や女性、あるいはゲイ以外のセクシャルマイノリティ)は有料なの?」という声が当然出てきますし、この疑問に納得できる答えを用意できる人はいないでしょう。

 ではどうすべきか。谷口医院では次のように案内する予定です。

・ゲイだけ無料なのはたしかに「逆差別」に他ならないことは我々も認識している

・行政がゲイだけを対象とするのは公衆衛生学的に有効と考えられる対策だからであり、行政側の視点に立てば理解できる。これを(ゲイ以外の)一般市民に理解してほしいと言っても無理があるのは承知しているが、理解いただけるとありがたい

・ゲイのみならず他のセクシャルマイノリティ(バイセクシャル、レズビアン、トランス男性、トランス女性、ノンバイナリーなど)も当院では無料の対象とする(これについては府に了解をとっています)(注1)

・男性から性被害を受けたストレートの男性(や生物学的に男性のノンバイナリーやエイセクシャル)も対象とする(これも府に了解を得ています)

・上記に当てはまらない人(ストレートの男女など)は無料では受けられないが、クリニックが補填した「格安検査」を提供する
http://www.stellamate-clinic.org/STI/

 上記の「格安検査」は格安といってもそれなりにしますが(HIV抗原抗体検査は2,200円)、谷口医院ではこれを恒常的に続けていく予定です。無料にはなりませんが、やはり早期発見は重要であり、この値段なら受けたいと考える人もいると思われるからです。ただし、我々が重要だと考えるのは「社会全体での感染者を増やさない」ではなく、もしもHIVに感染しているかもしれないと不安に感じている人がいるのだとすれば「その人にとって」発見は早い方がいいからです。

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注1(2024年8月10日追記):大阪府が「レズビアンは無料検査を受けられない」と通達してきました。納得いきませんが、府の意向には従うしかありません。

注2(2024年8月17日追記):上記「
府に了解をとっています」という表現を削除するよう大阪府から抗議がありました。現在、その理由を確認しているところです。

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第216回(2024年6月) フーゾク嬢に恋しなくなった男性たち

 前回のGINAと共に「セックスワーカーは変遷した」では、過去20年間でタイと日本のセックスワーカーがどのように変化してきたのかを、GINAの活動や私自身が診察室で見聞きしてきたことから考察しました。両国ともに、以前にように「貧困からやむを得ず春を鬻(ひさ)ぐことになり......」というケースは大きく減少し、セックスワークが気軽なものとなり、さらに手っ取り早く大金を稼ぐ手段と考えられていることについても述べました。日本のメディアでは、海外でセックスワークをする日本人女性は「ホストクラブで借金を背負わされた挙句に......」というステレオタイプのストーリーで語られますが、実際には「月収2千万円」(「年収」ではなく「月収」)につられて海外に渡るケースも少なくないことを紹介しました。

 今回はその続編で、「セックスワーカーと顧客のロマンスがなくなってきている」ことを述べたいと思います。しかし、これは私の印象にすぎず、実際にはそのような「恋愛」は今も珍しくはないのかもしれません。特にタイについては、最近はさほどその手の情報が入って来なくなったために実際のところはよく分かりません。ですが、私の知る範囲で言えば、セックスワーカーと顧客が交際、さらには結婚に至る話はほとんど聞かなくなりました。その反対に、「セックスは短時間で済ませるのが一番」という、いわば「セックスのファストフード化」が進んでいるような印象があります。具体例を挙げましょう。

 私がタイを頻繁に訪れていた2004年から2006年の3年間で、「元々はセックスワーカーと顧客の関係、今は仲睦まじいカップル」を何十組とみてきました。取材というほどのものではありませんが、私はこのケースにいたった何人もの男性(最多は日本人で、英国人、ベルギー人、米国人、ドイツ人などもいました)から話を聞きました。たいていはパートナーの女性はタイの東北地方(イサーン)か北タイの貧しい家庭の出身でした。最初は、美しさに惹かれ、次いでその境遇に同情し、そして「自分が守らねばならない」という気持になったと言います。

 「自分が守らねば......」というのは男側からみた勝手な理屈というか、そういう"言い訳"が必要なのでは?と感じなかったわけではないのですが、美しい話に釘を刺すようなことはしたくありませんから、「いい話ですね」などと言いながら聞くことになります(ちなみに「相手を否定しない」は私が他人から話を聞くときのポリシーです)。

 日本人の場合、タイ人女性を日本に連れて帰る予定という話もありましたし、二人でタイ国内で日本人向けのタイ料理屋をオープンさせたカップルもいました。西洋人の場合は、すでにそれなりの貯蓄を蓄えて引退している50代以上が多く、パートナーの名義で家を買って(タイは外国人が家を買えない)、若いタイ人女性と共に暮らしているケースがそこそこありました。私が知る範囲では、タイ人女性にそのままセックスワークをさせて自分はいわゆる「ヒモ」になる、というケースは皆無でした。

 タイではセックスワーカーと顧客が容易に恋に落ちてロマンスが生まれるというのは私一人だけが主張しているわけではありません。2006年にはこのサイトで「なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか」というレポートを書き、西洋人がタイでHIVに感染するのは、西洋人の男性がタイ人の女性セックスワーカーをセックスワーカーではなく"intimate friends(親密な友達)"とみなしているとする医学誌「BMJ」の論文「Sex, Sun, Sea, and STIs」を紹介しました。ちなみに、2006年の私のこのレポートは英語版も作成し、意外にも18年が経過した現在でも海外から感想メールが届きます。

 では、タイではこのような現象、タイの女性セックスワーカーと外国人男性の顧客が恋に落ちるというストーリーはすっかり鳴りを潜めているのでしょうか。タイに住む私の知人からの情報によると、こういう"ロマンス"は今もあるものの、二人で女性の故郷を訪れて親族に挨拶をしたり、実際に結婚に至ったりという話はほとんど聞かなくなったそうです。ただ、互いに割り切った「1週間のみの疑似恋人」のような関係は今でも少なくないとか。

 日本をみていきましょう。前回のコラムでも述べたように、谷口医院を開院した最初の頃は、セックスワーカーの患者さんというのは自分がその仕事をしていることを隠して受診していました。何回か通ううちに、性感染症の検査を続けて希望するのは不自然ですから、「実は、フーゾクの仕事をしていて......」と言いにくそうにカミングアウトするというのが一般的なパターンでした。

 そして、当時の男性患者のパターンとして、「フーゾク通いがやめられない」がありました。これは正確に言えば今も「あります」。このサイトで何度も取り上げているいわゆる性依存症です(参考:第135回(2017年9月)「性風俗がやめられない人たち」)。性依存症を患う人は世間で思われているよりもずっと多く、私の印象でいえば以前よりも増加しています。ですから、最近よく言われる「最近の若い男性は草食系で性欲が減少している」には私は同意できません(これについては後述します)。

 話を戻すと、2000年代当時の「フーゾク通いがやめられない」男性のひとつの特徴に「彼女(セックスワーカー)に恋をしている」があったのです。彼らはひとりのセックスワーカーの元にマメに通い出します。給料の大半をそのお金、さらには女性へのプレゼント代に費やします。そこまでやっても恋は実らないケースも多いわけですが、なかには女性がセックスワークをやめて正式に交際を始めることになったカップルもいました。さらに、結婚にまでいたった二人も何組かいました。つまり、私がタイでみてきたタイ人の女性セックスワーカーと男性顧客と同じ事象が、タイよりもずっと頻度は低いとはいえ日本にもあったのです。ところが、2010年代の半ばあたりからこのような話はほぼ聞かなくなりました。

 これは何を意味するのか。私の分析では、その原因は「ロマンスには関心を持たなくなり単純なセックスに重きを置く男性の増加」です。あきらかに性依存症を患ったある男性患者は「セックスは短くていい。その前の会話など余計なことに時間を使いたくない」と言います。彼の理想は「出会った瞬間に始まるセックス」だそうで、言葉もいらないと言うのです。従来の(という表現もおかしいかもしれませんが)気に入った女性がいれば、なんとか話をする機会をみつけて、電話番号を聞き出して、デートに誘って、事前にレストランを調べて......、などというようなことは面倒くさくてやる気が起こらないと言います。フーゾクは必ずしも満足度が高くないため、出会い系アプリをどんどんスクロールして、とにかく「すぐにヤレる」女性を探すのだそうです。私の印象に過ぎませんが、最近このような考えをもつ男性が急増しています。

 では女性はどうか。おそらく女性も同様です。診察室で「セフレは定期的に変える必要があって......」などと発言する女性は過去には皆無でした。現在でもここまであけっぴろげに「性」を語る女性は少数ではありますが、それでも確実に増えています。つまり、男女とも「セックスのファストフード化」が進んでいる、あるいは「インスタントセックスが普及」しているのです。私は以前から性感染症の最大の予防法は「信頼できるパートナーを見つけること」と言ってきたわけですが、こんな主張は虚しく響くだけになってしまいました......。

 セックスに関して、医師として私が社会から求められていることは、そしてこれはGINAのミッションでもあるのですが、「性感染症の予防」です。ですが、セックスのファストフード化が進行すれば性感染症はどんどんと増えるでしょう。ファストフードが流行したせいで、伝統的な栄養ある食事を摂らなくなり肥満や生活習慣病が増えている現象とどこか似ているように思えてきます。

 では、セックスのファストフード化が止まらないなかで性感染症を防ぐにはどうすればいいか。決してベストの解決法ではありませんが、私が提唱する対策は「いわゆるラブドール(かつて「ダッチワイフ」と呼ばれていたもの)に頼る」です。このことについては2016年のコラム「既存の『性風俗』に替わるもの」にも書いたのですが、そのコラムでは「(ラブドール相手にセックスをするなどということは)突拍子もない考えなのでしょうか」という言葉で締めました。

 しかし、AIの発展でこれがいよいよ本格的になってきました。実物の人間とあまり差がないAIロボットがすでに誕生しています。カタール航空が発表したAIのフライトアテンダントをみれば、人間と区別のつかないほどに洗練されたラブドールの誕生まであと少しという気がします。そして、これが普及すれば性感染症の罹患率は激減するでしょう。それが人類にとっていいことなのかどうかはまた別の話ですが......。

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第215回(2024年5月) セックスワーカーは変遷した

 GINAを立ち上げたのは今から20年前の2004年で、法人化したのは2006年です。当時は取り組まねばならない課題がたくさんありました。その課題のひとつが、セックスワーカーに対する偏見や差別で、彼(女)らが社会的な不利益を被っていたのは明らかでした。ところが、GINAの活動を開始しておよそ20年が経過した今、セックスワーカーの社会的な"地位"は随分と"向上"しています。今回は私が経験してきたことを振り返りながら、セックスワーカーの変遷について述べてみたいと思います。

 セックスワーカーはタイにも日本にも昔から多数いますが、いずれの国においてもその"背景"が大きく変わりました。2000年代のタイでセックスワーカーと言えば、大半はイサーン地方(東北地方)や北タイの貧困な家庭の出身で、親が娘(息子)を売り飛ばすケースがまったく珍しくありませんでした。10代なかば(ときには前半、ときにはさらに若いことも)でセックスワークを強いられ、運がよければ(と言っていいのかどうか分かりませんが)純情な彼女らの一部は欧米や日本の中年男性に見初められ、雇用主にそれなりの大金(これを日本語では「水揚げ料」と呼ぶそうです)が支払われ、自由になった彼女らは妾、あるいは本妻として迎えられることもありました。

 しかし、私が(当時の)GINAのタイ人スタッフと共に調査した結果、私にはタイのセックスワーカーに明るい印象は持てませんでした。2000年代当時はセックスワーカーという言葉も日本語としては定着しておらず、「売春婦」の方が一般的でした。そのため、GINAのサイトや他の場所でも学術的な場面を除き、私は「売春婦」を使っていました。

 一方、日本では私はセックスワーカーの存在をほとんど知りませんでしたが(個人的に知っているセックスワーカーはほぼ皆無でしたが)、2007年に大阪市北区に私が院長を務める谷口医院を開院してから、少しずつセックスワーカーを診察する機会が増えていきました。開院当初からHIV陽性者を積極的に診察していましたから、HIVを心配して性感染症の検査を希望する女性(一部は男性)がいたのです。

 この当時、自らがセックスワーカーであることを初診時にカミングアウトする女性はごく少数で、たいていは何度か通院するうちに、「実は......」と話してくれるというパターンでした。彼女らはたとえ表面上は明るく振舞っていても、どこか心に闇を抱えているというか、瞳の奥にはもの悲しさが漂っているようでした。

 その当時から「最近のフーゾク嬢には悲壮感なんかない。楽しんどる女も多い」という声はありましたが、私にはそのようには思えませんでした。その逆に、たとえ性感染症の検査や治療の目的の受診であったとしても、そのうちに心に抱えた苦しみを聞く役割を私が担うようになっていきました。

 そんな状況が変わり始めたのはおそらく2010年代初頭です。リーマンショックが完全に終焉し、世界は好景気に向かいました。タイは日本を凌ぐ勢いで発展し、もはや貧困から女衒に売り飛ばされる少女の話など、2010年代の中頃には遠い過去の時代のものとなったかのようでした。2000年代には大学生のセックスワーカーなどあり得ず、高校どころか中学も卒業していない女子も少なくありませんでした。そのため、タイ語が書けないセックスワーカーもいたほどです。これは2005年にGINAがタイのセックスワーカー200人に聞き取り調査をおこなったときに知ることになり大変驚きました。

 ところがタイ滞在の長い日本人によると、現在のタイでは大学生が小遣い稼ぎにセックスワークをすることがまったく珍しくないと言います。彼らによると、2000年代当時の私が「こんな残酷な環境に置かれている彼女たちを助けなければ......」と感じた境遇にいるようなセックスワーカーは"絶滅"したそうです。

 一方、日本でも世間の女性のセックスワーカーに対する考えは2010年代初頭から確実に変わってきました。診察室では、堂々と「私はフーゾクで働いてます」と言う女性もいるほどです。もちろん彼女らは誰にでもそのようなカミングアウトをしているわけではないでしょうが、セックスワークの敷居が下がっているのは間違いありません。この頃に谷口医院に通い始めた30代のある女性は「フツーの子らってこんなに稼げないでしょ」と、上から目線であくせくする同世代の女性を蔑んだような発言をしていました。

 「オーストラリアに行けば月収2千万は稼げるらしいんですけど、やめた方がいいですかね......」と元セックスワーカーの女性から相談されたのは昨年(2023年)の秋でした。以前セックスワークで荒稼ぎし、現在は事務職をしているこの女性、昔の仲間から「月収2千万円」と聞いて心が揺れたそうです。年収でなくて「月収」が2千万円なのですからセックスワークの経験がなくても考える女性がいるかもしれません。その後、複数の女性からセックスワーカーとしての海外"勤務"の相談を受けました。彼女らの情報をまとめると、現在、"斡旋業者"が、日本人女性がセックスワーカーとして働ける勤務地を紹介していて、オーストラリア、カナダ、マカオ、タイ、韓国がポピュラーで、もっとも稼げるのがオーストラリアとカナダで月収2千万円も難しくはないそうです。

 この問題というか、この現象をメディアが報じていることを私が知ったのは今年(2024年)の3月でした。出処は忘れてしまいましたが、その記事では「日本人の女性が騙されて海外に売られている。そして危険な目に遭っている」という、女性たちを悲劇のヒロインにするようなニュアンスで書かれていました。もちろん危険な目に遭う女性もいるでしょうが、この記事から受けるイメージは私の印象とは異なります。

 その記事では、ホストクラブで多額の借金を背負わされた若い女子が借金返済のために身を売られるという悲劇が述べられていて、もちろんそのようなケースもあるのでしょうが、私に相談してくる女性からの話を聞くとそういう事例ばかりではありません。マカオやタイに出稼ぎにいくとなると、まるで「令和版からゆきさん」ですが、おそらく彼女らの何割かは「からゆきさん」の存在などつゆ知らず(参考「からゆきさんを忘るべからず」)、もしかすると稼いだ上に観光も楽しむつもりなのではないか、とすら思えてきます。

 日本人女性が韓国にセックスワーカーで出稼ぎ、となると慰安婦問題で社会活動をしている韓国人が放っておくはずがありません。おそらく「現在の日本社会からドロップアウトして貧困に喘ぐ若い女性を日本社会は見捨てた。弱い者から搾取する日本人の薄汚い根性は昔から変わっていない」という議論に持っていき、その"不幸"(彼女らが不幸とは限らないわけですが)を戦中日本人に蹂躙された自国の慰安婦のイメージと重ね合わせようとするでしょう。もしかすると、「日本から見捨てられた日本人の女性を救おう!」と謳うデモを従軍慰安婦の像の前でおこなうかもしれません。

 日本でのセックスワーカーの"地位"が"向上"したと感じるのは彼女らが堂々としているからだけではありません。医療機関の態度をみてもそれはあきらかです。谷口医院を開院した2007年当時、セックスワーカーの女性たち(男性も)の大半は「他に診てもらえるところがない」あるいは「フーゾクをしていることを前の病院で告白すると医者や看護師からイヤなことを言われた」と嘆いていたのですが、いつのまにかこのようなことを口にする女性は皆無となりました。

 それどころか、「性病検査はカネになる」と考えたのか、性感染症の自費の検査を積極的に実施するクリニックがいつのまにか増えているようなのです。今や谷口医院に性感染症の検査を主目的として初診で受診する患者さんのほとんどは「前のクリニックの診断に不信をもっている」というもので、以前のように「前のクリニックではイヤなことを言われて、もう二度と行きたくありません......」と訴える女性は皆無となりました。

 私が「性感染症を診なければならない」と考えたのはタイのエイズ施設でのボランティアの経験がきっかけですが、日本で影響を受けた先生もいます。故・大国剛先生です。大国先生は性感染症の他に、昔からハンセン病の患者さんを積極的に診察し、亡くなる直前までハンセン病を患った人たちの悩みを聞いていました。私自身もタイ及び日本のハンセン病の施設に何度も訪れています。私は「社会からだけでなく医療機関からも差別される病」として、ハンセン病と同じカテゴリーにHIVや他の性感染症を捉えています。そして、この私の思いが大国先生の考えに重なっていたのです。

 個人的には大国先生や私と同じ考えを持った医師に性感染症を診てもらいたいと思うのですが、もはやそういう時代ではないのかもしれません。今の私は、セックスワークや性感染症に関するこれまでの経験に縛られることを避け、先入観をもたないように注意しながら、他の疾患と同じように「前のクリニック/病院では診てもらえなかった」という患者さんの力になることを考えるようにしています。




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第214回(2024年4月) HIVのPrEPの失敗例

 HIVのPrEPは公衆衛生学的には極めて優れた予防法であるけれど、個々のレベルでみれば必ずしも全員に勧められるわけではない、ということを何度か訴えてきました(例えば第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」、第197回(2022年11月)「HIVのPrEP(曝露前予防)を安易に始めてはいけない」)。

 その後PrEPの知名度が上がるにつれて、私が院長を務める谷口医院には「PrEP希望」という人が増えてきています。ですが、過去に繰り返し述べているようにPrEP実施にはいくつか理解しなければならないことがあり、そして「すでに(他院で処方されて)始めているけれどこれからは谷口医院での処方を希望」という人に確認してみると、PrEPの危険性を知らされていないケースが目立ちます。

 まず、「感染症の予防」全般についていえることとして、「公衆衛生学的視点と個々の視点は別のもの」という原則があります。これは新型コロナウイルスのワクチン(以下「コロナワクチン」)を例にとれば分かりやすいと思います。

 コロナワクチンは副作用が明らかになってきたことやその副作用で被害者の遺族らが国を提訴したことなどから最近は人気がなくなってきましたが、非常に高い実績があるのは事実です。なにしろ、医学誌「The Lancet」の論文によると、世界ではワクチンのおかげで1440万人の命が救われたのですから。日本でも、京都大学の研究によると「もしもワクチンがなければ364,000人が死亡していた」と推計されています。

 「副作用で大勢の命が失われたではないか」というワクチン反対派の意見があります。重篤な副作用が生じ犠牲となった人が少なくないのは事実です。国が健康被害を認めた事例は2024年1月31日時点で6000件以上に上ります。

 ではコロナワクチンはどのように評価されるべきなのでしょう。ここで「〇か×か」で考えると議論がかみ合わなくなります。公衆衛生学的に考えれば、日本の場合、「6000件以上のそれなりに重篤な副作用が生じたけれど、364,000人の命が救えた」わけですから、コロナワクチンは公衆衛生学的には大成功なわけです。

 しかし、もしもあなた自身やあなたの大切な人がコロナワクチンの犠牲になっていたとすればもちろん成功であるはずがありません。「安全だから大丈夫と言っていたではないか。『
集団免疫ができるから』、『他人のために』、とか言って、うたないことがまるで犯罪であるかのように煽っていたのは誰だった?」と言いたくなるでしょう。ですから個々でみたときにはコロナワクチンの是非は「その個々で異なる」となります。予防医学というのはそういうものです。

 HIVのPrEPの場合、公衆衛生学的には極めて優れた予防法です。なにしろ、これまで世界のおよそ100万人が使用して、失敗例は20例に満たないくらいなのですから。100万人に20人ですから、5万人に1人です。つまり、甲子園球場がいっぱいになるほどの人で1人だけが失敗する程度なのです。ある意味、どんなワクチンよりも優れた予防法と言えるかもしれません。

 しかしながら、世界中のおよそ100万人がPrEPの存在に感謝していたとしても、自分自身が失敗したその20人に入ってしまいHIVに感染していたとすれば、とても優れた予防法などとは言えないわけです。そもそも、HIV感染症というのは「絶対にかかりたくない感染症」ではなかったでしょうか。新型コロナのように「できれば避けたいけれど絶対に防がねばならないわけではない感染症」ではありません。であるならば、5万人に1人が失敗するというこの事実はどのように受け止めるべきでしょうか。

 特に(デイリーPrEPではなく)「オンデマンドPrEP」には要注意です。昨年(2023年)12月、シンガポールでのオンデマンドPrEPの4つの失敗例が報告されました。次の4つの事例で、使用していたPrEPは全例でTDF/FTC(先発品の名前は「ツルバダ」)です。尚、オンデマンドPrEPの正しい使用法は「性行為の2~24時間前に2錠、最初の服用の24時間後に1錠、2回目の服用の24時間後に1錠、合計4錠服用」です。

ケース1:30代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒、C型肝炎ウイルス
ケース2:50代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒
ケース3:40代男性 性行為前2錠+最初の服用の24時間後に2錠 合併症:梅毒、B型肝炎ウイルス
ケース4:30代男性 性行為前1錠+性行為後1錠 合併症:梅毒

 ケース4は性行為の前後で1錠ずつしか飲んでいないわけですから感染しても無理はありません。ケース3については、使用法を正確に順守していないとはいえ、内服の総量(合計4錠)は変わりがないわけですし、3回内服すべきスケジュールの最後がいわば前倒しになった(遅れたわけではない)だけですから、この程度の時間のずれで失敗してしまうリスクが浮き彫りになったと言えるでしょう。

 また、ケース1とケース2は服用の仕方が間違っていたわけではありません。つまり、オンデマンドPrEPの成功率は決して高くないと考えるべきなのです。正確にいえば数字で示される成功率はそれなりに高いでしょうが、「絶対に感染したくない感染症」という前提で考えれば安心できる予防法とは必ずしも言えないでしょう。実際、米国FDAは昔も今も「デイリーPrEPがFDAの承認する唯一の予防法」としているのです。

 次に「合併症」について考えてみましょう。HIVのPrEPは当然のごとくHIVしか防げません。理論的にはツルバダの成分でHBV(B型肝炎ウイルス)も予防できる可能性がありますが、HIVに比べて感染力が桁違いに強いHBVに対してどこまで有効かは分かりません。セクシャルアクティビティが高い人たちはたいていHBVのワクチン接種を済ませて抗体形成を確認していますが、ときどき未接種の人(または抗体形成を確認していない人)がいます。

 ケース1~4の全員が梅毒に感染していました。梅毒は簡単に治療できる感染症ですし、ワクチンがなくコンドームでも防げませんから「感染すれば治す」を徹底していればあまり問題にはなりません。問題はケース1の男性が感染したC型肝炎ウイルス(以下HCV)です。現在DAA(直接作用型抗ウィルス剤)と呼ばれる飲み薬が開発され、HCVは「治る病気」となりました。しかし、治療費は総額700万円くらいはかかる大変高価なものです(所得に応じて補助が出ますから日本の保険証を持っている限り治療を受けることはできますが)。それに治療失敗の可能性がゼロではありませんし、再感染もあります(谷口医院の患者さんにも再感染した人がいます)。そして、HIVとは別の感染症ですから、当然HIVのPrEPで予防できるわけではありません。「PrEP実施者はHIVには感染しなかったがHCV感染が増えた」とする欧州からの報告もあります。

 HIVのPrEPには当然副作用もあります。そして、長期で内服すればするほどその副作用のリスクが上昇します。「他院で処方されていたけれどこれからは谷口医院でPrEPを希望する」という人に尋ねてみると、興味深いことに「腎臓が悪くなるかもしれないんですよね」とは言われるのですが、骨量低下については知っている人がほとんどいません。

 PrEP(の特に長期服用)による骨量低下は侮ってはいけません。「米国のPrEP服用者の3%に骨粗鬆症が起こっていた」とする論文もあります。3%を甘くみてはいけません。なぜならこの研究は米国人が対象だからです。一般に骨粗鬆症はやせている人に起こりやすいのです。米国人と日本人では体重がまったく異なります。実際、この研究では、「やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べて骨粗鬆症のリスクが3.95倍に上昇」していたことが分かったのです。

 最後に、私が考えるPrEPの最大の注意点を述べておきたいと思います。それは「PrEPはHIV陽性者を傷つける」ということです。U=U(ユー・イコールズ・ユーと読みます)が次第に広く知れ渡るようになり、「抗HIV薬を飲んでいればコンドームなしでも他人に感染させない」が常識になりました。以前は、HIV陽性者のパートナーにPrEPが推奨されていましたが、U=Uが正しいことが分かっている現在ではPrEPはすでに不要のはずです。にもかかわらず、PrEPを社会が推奨すれば、HIV陽性者は「じゃあU=Uって何なんだ? コンドームなしでもうつさないのになんで社会はPrEPを勧めるんだ?!」と感じるわけです。

 これらをすべて踏まえた上でPrEPを検討すべきなのです。

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