GINAと共に

第216回(2024年6月) フーゾク嬢に恋しなくなった男性たち

 前回のGINAと共に「セックスワーカーは変遷した」では、過去20年間でタイと日本のセックスワーカーがどのように変化してきたのかを、GINAの活動や私自身が診察室で見聞きしてきたことから考察しました。両国ともに、以前にように「貧困からやむを得ず春を鬻(ひさ)ぐことになり......」というケースは大きく減少し、セックスワークが気軽なものとなり、さらに手っ取り早く大金を稼ぐ手段と考えられていることについても述べました。日本のメディアでは、海外でセックスワークをする日本人女性は「ホストクラブで借金を背負わされた挙句に......」というステレオタイプのストーリーで語られますが、実際には「月収2千万円」(「年収」ではなく「月収」)につられて海外に渡るケースも少なくないことを紹介しました。

 今回はその続編で、「セックスワーカーと顧客のロマンスがなくなってきている」ことを述べたいと思います。しかし、これは私の印象にすぎず、実際にはそのような「恋愛」は今も珍しくはないのかもしれません。特にタイについては、最近はさほどその手の情報が入って来なくなったために実際のところはよく分かりません。ですが、私の知る範囲で言えば、セックスワーカーと顧客が交際、さらには結婚に至る話はほとんど聞かなくなりました。その反対に、「セックスは短時間で済ませるのが一番」という、いわば「セックスのファストフード化」が進んでいるような印象があります。具体例を挙げましょう。

 私がタイを頻繁に訪れていた2004年から2006年の3年間で、「元々はセックスワーカーと顧客の関係、今は仲睦まじいカップル」を何十組とみてきました。取材というほどのものではありませんが、私はこのケースにいたった何人もの男性(最多は日本人で、英国人、ベルギー人、米国人、ドイツ人などもいました)から話を聞きました。たいていはパートナーの女性はタイの東北地方(イサーン)か北タイの貧しい家庭の出身でした。最初は、美しさに惹かれ、次いでその境遇に同情し、そして「自分が守らねばならない」という気持になったと言います。

 「自分が守らねば......」というのは男側からみた勝手な理屈というか、そういう"言い訳"が必要なのでは?と感じなかったわけではないのですが、美しい話に釘を刺すようなことはしたくありませんから、「いい話ですね」などと言いながら聞くことになります(ちなみに「相手を否定しない」は私が他人から話を聞くときのポリシーです)。

 日本人の場合、タイ人女性を日本に連れて帰る予定という話もありましたし、二人でタイ国内で日本人向けのタイ料理屋をオープンさせたカップルもいました。西洋人の場合は、すでにそれなりの貯蓄を蓄えて引退している50代以上が多く、パートナーの名義で家を買って(タイは外国人が家を買えない)、若いタイ人女性と共に暮らしているケースがそこそこありました。私が知る範囲では、タイ人女性にそのままセックスワークをさせて自分はいわゆる「ヒモ」になる、というケースは皆無でした。

 タイではセックスワーカーと顧客が容易に恋に落ちてロマンスが生まれるというのは私一人だけが主張しているわけではありません。2006年にはこのサイトで「なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか」というレポートを書き、西洋人がタイでHIVに感染するのは、西洋人の男性がタイ人の女性セックスワーカーをセックスワーカーではなく"intimate friends(親密な友達)"とみなしているとする医学誌「BMJ」の論文「Sex, Sun, Sea, and STIs」を紹介しました。ちなみに、2006年の私のこのレポートは英語版も作成し、意外にも18年が経過した現在でも海外から感想メールが届きます。

 では、タイではこのような現象、タイの女性セックスワーカーと外国人男性の顧客が恋に落ちるというストーリーはすっかり鳴りを潜めているのでしょうか。タイに住む私の知人からの情報によると、こういう"ロマンス"は今もあるものの、二人で女性の故郷を訪れて親族に挨拶をしたり、実際に結婚に至ったりという話はほとんど聞かなくなったそうです。ただ、互いに割り切った「1週間のみの疑似恋人」のような関係は今でも少なくないとか。

 日本をみていきましょう。前回のコラムでも述べたように、谷口医院を開院した最初の頃は、セックスワーカーの患者さんというのは自分がその仕事をしていることを隠して受診していました。何回か通ううちに、性感染症の検査を続けて希望するのは不自然ですから、「実は、フーゾクの仕事をしていて......」と言いにくそうにカミングアウトするというのが一般的なパターンでした。

 そして、当時の男性患者のパターンとして、「フーゾク通いがやめられない」がありました。これは正確に言えば今も「あります」。このサイトで何度も取り上げているいわゆる性依存症です(参考:第135回(2017年9月)「性風俗がやめられない人たち」)。性依存症を患う人は世間で思われているよりもずっと多く、私の印象でいえば以前よりも増加しています。ですから、最近よく言われる「最近の若い男性は草食系で性欲が減少している」には私は同意できません(これについては後述します)。

 話を戻すと、2000年代当時の「フーゾク通いがやめられない」男性のひとつの特徴に「彼女(セックスワーカー)に恋をしている」があったのです。彼らはひとりのセックスワーカーの元にマメに通い出します。給料の大半をそのお金、さらには女性へのプレゼント代に費やします。そこまでやっても恋は実らないケースも多いわけですが、なかには女性がセックスワークをやめて正式に交際を始めることになったカップルもいました。さらに、結婚にまでいたった二人も何組かいました。つまり、私がタイでみてきたタイ人の女性セックスワーカーと男性顧客と同じ事象が、タイよりもずっと頻度は低いとはいえ日本にもあったのです。ところが、2010年代の半ばあたりからこのような話はほぼ聞かなくなりました。

 これは何を意味するのか。私の分析では、その原因は「ロマンスには関心を持たなくなり単純なセックスに重きを置く男性の増加」です。あきらかに性依存症を患ったある男性患者は「セックスは短くていい。その前の会話など余計なことに時間を使いたくない」と言います。彼の理想は「出会った瞬間に始まるセックス」だそうで、言葉もいらないと言うのです。従来の(という表現もおかしいかもしれませんが)気に入った女性がいれば、なんとか話をする機会をみつけて、電話番号を聞き出して、デートに誘って、事前にレストランを調べて......、などというようなことは面倒くさくてやる気が起こらないと言います。フーゾクは必ずしも満足度が高くないため、出会い系アプリをどんどんスクロールして、とにかく「すぐにヤレる」女性を探すのだそうです。私の印象に過ぎませんが、最近このような考えをもつ男性が急増しています。

 では女性はどうか。おそらく女性も同様です。診察室で「セフレは定期的に変える必要があって......」などと発言する女性は過去には皆無でした。現在でもここまであけっぴろげに「性」を語る女性は少数ではありますが、それでも確実に増えています。つまり、男女とも「セックスのファストフード化」が進んでいる、あるいは「インスタントセックスが普及」しているのです。私は以前から性感染症の最大の予防法は「信頼できるパートナーを見つけること」と言ってきたわけですが、こんな主張は虚しく響くだけになってしまいました......。

 セックスに関して、医師として私が社会から求められていることは、そしてこれはGINAのミッションでもあるのですが、「性感染症の予防」です。ですが、セックスのファストフード化が進行すれば性感染症はどんどんと増えるでしょう。ファストフードが流行したせいで、伝統的な栄養ある食事を摂らなくなり肥満や生活習慣病が増えている現象とどこか似ているように思えてきます。

 では、セックスのファストフード化が止まらないなかで性感染症を防ぐにはどうすればいいか。決してベストの解決法ではありませんが、私が提唱する対策は「いわゆるラブドール(かつて「ダッチワイフ」と呼ばれていたもの)に頼る」です。このことについては2016年のコラム「既存の『性風俗』に替わるもの」にも書いたのですが、そのコラムでは「(ラブドール相手にセックスをするなどということは)突拍子もない考えなのでしょうか」という言葉で締めました。

 しかし、AIの発展でこれがいよいよ本格的になってきました。実物の人間とあまり差がないAIロボットがすでに誕生しています。カタール航空が発表したAIのフライトアテンダントをみれば、人間と区別のつかないほどに洗練されたラブドールの誕生まであと少しという気がします。そして、これが普及すれば性感染症の罹患率は激減するでしょう。それが人類にとっていいことなのかどうかはまた別の話ですが......。

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第215回(2024年5月) セックスワーカーは変遷した

 GINAを立ち上げたのは今から20年前の2004年で、法人化したのは2006年です。当時は取り組まねばならない課題がたくさんありました。その課題のひとつが、セックスワーカーに対する偏見や差別で、彼(女)らが社会的な不利益を被っていたのは明らかでした。ところが、GINAの活動を開始しておよそ20年が経過した今、セックスワーカーの社会的な"地位"は随分と"向上"しています。今回は私が経験してきたことを振り返りながら、セックスワーカーの変遷について述べてみたいと思います。

 セックスワーカーはタイにも日本にも昔から多数いますが、いずれの国においてもその"背景"が大きく変わりました。2000年代のタイでセックスワーカーと言えば、大半はイサーン地方(東北地方)や北タイの貧困な家庭の出身で、親が娘(息子)を売り飛ばすケースがまったく珍しくありませんでした。10代なかば(ときには前半、ときにはさらに若いことも)でセックスワークを強いられ、運がよければ(と言っていいのかどうか分かりませんが)純情な彼女らの一部は欧米や日本の中年男性に見初められ、雇用主にそれなりの大金(これを日本語では「水揚げ料」と呼ぶそうです)が支払われ、自由になった彼女らは妾、あるいは本妻として迎えられることもありました。

 しかし、私が(当時の)GINAのタイ人スタッフと共に調査した結果、私にはタイのセックスワーカーに明るい印象は持てませんでした。2000年代当時はセックスワーカーという言葉も日本語としては定着しておらず、「売春婦」の方が一般的でした。そのため、GINAのサイトや他の場所でも学術的な場面を除き、私は「売春婦」を使っていました。

 一方、日本では私はセックスワーカーの存在をほとんど知りませんでしたが(個人的に知っているセックスワーカーはほぼ皆無でしたが)、2007年に大阪市北区に私が院長を務める谷口医院を開院してから、少しずつセックスワーカーを診察する機会が増えていきました。開院当初からHIV陽性者を積極的に診察していましたから、HIVを心配して性感染症の検査を希望する女性(一部は男性)がいたのです。

 この当時、自らがセックスワーカーであることを初診時にカミングアウトする女性はごく少数で、たいていは何度か通院するうちに、「実は......」と話してくれるというパターンでした。彼女らはたとえ表面上は明るく振舞っていても、どこか心に闇を抱えているというか、瞳の奥にはもの悲しさが漂っているようでした。

 その当時から「最近のフーゾク嬢には悲壮感なんかない。楽しんどる女も多い」という声はありましたが、私にはそのようには思えませんでした。その逆に、たとえ性感染症の検査や治療の目的の受診であったとしても、そのうちに心に抱えた苦しみを聞く役割を私が担うようになっていきました。

 そんな状況が変わり始めたのはおそらく2010年代初頭です。リーマンショックが完全に終焉し、世界は好景気に向かいました。タイは日本を凌ぐ勢いで発展し、もはや貧困から女衒に売り飛ばされる少女の話など、2010年代の中頃には遠い過去の時代のものとなったかのようでした。2000年代には大学生のセックスワーカーなどあり得ず、高校どころか中学も卒業していない女子も少なくありませんでした。そのため、タイ語が書けないセックスワーカーもいたほどです。これは2005年にGINAがタイのセックスワーカー200人に聞き取り調査をおこなったときに知ることになり大変驚きました。

 ところがタイ滞在の長い日本人によると、現在のタイでは大学生が小遣い稼ぎにセックスワークをすることがまったく珍しくないと言います。彼らによると、2000年代当時の私が「こんな残酷な環境に置かれている彼女たちを助けなければ......」と感じた境遇にいるようなセックスワーカーは"絶滅"したそうです。

 一方、日本でも世間の女性のセックスワーカーに対する考えは2010年代初頭から確実に変わってきました。診察室では、堂々と「私はフーゾクで働いてます」と言う女性もいるほどです。もちろん彼女らは誰にでもそのようなカミングアウトをしているわけではないでしょうが、セックスワークの敷居が下がっているのは間違いありません。この頃に谷口医院に通い始めた30代のある女性は「フツーの子らってこんなに稼げないでしょ」と、上から目線であくせくする同世代の女性を蔑んだような発言をしていました。

 「オーストラリアに行けば月収2千万は稼げるらしいんですけど、やめた方がいいですかね......」と元セックスワーカーの女性から相談されたのは昨年(2023年)の秋でした。以前セックスワークで荒稼ぎし、現在は事務職をしているこの女性、昔の仲間から「月収2千万円」と聞いて心が揺れたそうです。年収でなくて「月収」が2千万円なのですからセックスワークの経験がなくても考える女性がいるかもしれません。その後、複数の女性からセックスワーカーとしての海外"勤務"の相談を受けました。彼女らの情報をまとめると、現在、"斡旋業者"が、日本人女性がセックスワーカーとして働ける勤務地を紹介していて、オーストラリア、カナダ、マカオ、タイ、韓国がポピュラーで、もっとも稼げるのがオーストラリアとカナダで月収2千万円も難しくはないそうです。

 この問題というか、この現象をメディアが報じていることを私が知ったのは今年(2024年)の3月でした。出処は忘れてしまいましたが、その記事では「日本人の女性が騙されて海外に売られている。そして危険な目に遭っている」という、女性たちを悲劇のヒロインにするようなニュアンスで書かれていました。もちろん危険な目に遭う女性もいるでしょうが、この記事から受けるイメージは私の印象とは異なります。

 その記事では、ホストクラブで多額の借金を背負わされた若い女子が借金返済のために身を売られるという悲劇が述べられていて、もちろんそのようなケースもあるのでしょうが、私に相談してくる女性からの話を聞くとそういう事例ばかりではありません。マカオやタイに出稼ぎにいくとなると、まるで「令和版からゆきさん」ですが、おそらく彼女らの何割かは「からゆきさん」の存在などつゆ知らず(参考「からゆきさんを忘るべからず」)、もしかすると稼いだ上に観光も楽しむつもりなのではないか、とすら思えてきます。

 日本人女性が韓国にセックスワーカーで出稼ぎ、となると慰安婦問題で社会活動をしている韓国人が放っておくはずがありません。おそらく「現在の日本社会からドロップアウトして貧困に喘ぐ若い女性を日本社会は見捨てた。弱い者から搾取する日本人の薄汚い根性は昔から変わっていない」という議論に持っていき、その"不幸"(彼女らが不幸とは限らないわけですが)を戦中日本人に蹂躙された自国の慰安婦のイメージと重ね合わせようとするでしょう。もしかすると、「日本から見捨てられた日本人の女性を救おう!」と謳うデモを従軍慰安婦の像の前でおこなうかもしれません。

 日本でのセックスワーカーの"地位"が"向上"したと感じるのは彼女らが堂々としているからだけではありません。医療機関の態度をみてもそれはあきらかです。谷口医院を開院した2007年当時、セックスワーカーの女性たち(男性も)の大半は「他に診てもらえるところがない」あるいは「フーゾクをしていることを前の病院で告白すると医者や看護師からイヤなことを言われた」と嘆いていたのですが、いつのまにかこのようなことを口にする女性は皆無となりました。

 それどころか、「性病検査はカネになる」と考えたのか、性感染症の自費の検査を積極的に実施するクリニックがいつのまにか増えているようなのです。今や谷口医院に性感染症の検査を主目的として初診で受診する患者さんのほとんどは「前のクリニックの診断に不信をもっている」というもので、以前のように「前のクリニックではイヤなことを言われて、もう二度と行きたくありません......」と訴える女性は皆無となりました。

 私が「性感染症を診なければならない」と考えたのはタイのエイズ施設でのボランティアの経験がきっかけですが、日本で影響を受けた先生もいます。故・大国剛先生です。大国先生は性感染症の他に、昔からハンセン病の患者さんを積極的に診察し、亡くなる直前までハンセン病を患った人たちの悩みを聞いていました。私自身もタイ及び日本のハンセン病の施設に何度も訪れています。私は「社会からだけでなく医療機関からも差別される病」として、ハンセン病と同じカテゴリーにHIVや他の性感染症を捉えています。そして、この私の思いが大国先生の考えに重なっていたのです。

 個人的には大国先生や私と同じ考えを持った医師に性感染症を診てもらいたいと思うのですが、もはやそういう時代ではないのかもしれません。今の私は、セックスワークや性感染症に関するこれまでの経験に縛られることを避け、先入観をもたないように注意しながら、他の疾患と同じように「前のクリニック/病院では診てもらえなかった」という患者さんの力になることを考えるようにしています。




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第214回(2024年4月) HIVのPrEPの失敗例

 HIVのPrEPは公衆衛生学的には極めて優れた予防法であるけれど、個々のレベルでみれば必ずしも全員に勧められるわけではない、ということを何度か訴えてきました(例えば第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」、第197回(2022年11月)「HIVのPrEP(曝露前予防)を安易に始めてはいけない」)。

 その後PrEPの知名度が上がるにつれて、私が院長を務める谷口医院には「PrEP希望」という人が増えてきています。ですが、過去に繰り返し述べているようにPrEP実施にはいくつか理解しなければならないことがあり、そして「すでに(他院で処方されて)始めているけれどこれからは谷口医院での処方を希望」という人に確認してみると、PrEPの危険性を知らされていないケースが目立ちます。

 まず、「感染症の予防」全般についていえることとして、「公衆衛生学的視点と個々の視点は別のもの」という原則があります。これは新型コロナウイルスのワクチン(以下「コロナワクチン」)を例にとれば分かりやすいと思います。

 コロナワクチンは副作用が明らかになってきたことやその副作用で被害者の遺族らが国を提訴したことなどから最近は人気がなくなってきましたが、非常に高い実績があるのは事実です。なにしろ、医学誌「The Lancet」の論文によると、世界ではワクチンのおかげで1440万人の命が救われたのですから。日本でも、京都大学の研究によると「もしもワクチンがなければ364,000人が死亡していた」と推計されています。

 「副作用で大勢の命が失われたではないか」というワクチン反対派の意見があります。重篤な副作用が生じ犠牲となった人が少なくないのは事実です。国が健康被害を認めた事例は2024年1月31日時点で6000件以上に上ります。

 ではコロナワクチンはどのように評価されるべきなのでしょう。ここで「〇か×か」で考えると議論がかみ合わなくなります。公衆衛生学的に考えれば、日本の場合、「6000件以上のそれなりに重篤な副作用が生じたけれど、364,000人の命が救えた」わけですから、コロナワクチンは公衆衛生学的には大成功なわけです。

 しかし、もしもあなた自身やあなたの大切な人がコロナワクチンの犠牲になっていたとすればもちろん成功であるはずがありません。「安全だから大丈夫と言っていたではないか。『
集団免疫ができるから』、『他人のために』、とか言って、うたないことがまるで犯罪であるかのように煽っていたのは誰だった?」と言いたくなるでしょう。ですから個々でみたときにはコロナワクチンの是非は「その個々で異なる」となります。予防医学というのはそういうものです。

 HIVのPrEPの場合、公衆衛生学的には極めて優れた予防法です。なにしろ、これまで世界のおよそ100万人が使用して、失敗例は20例に満たないくらいなのですから。100万人に20人ですから、5万人に1人です。つまり、甲子園球場がいっぱいになるほどの人で1人だけが失敗する程度なのです。ある意味、どんなワクチンよりも優れた予防法と言えるかもしれません。

 しかしながら、世界中のおよそ100万人がPrEPの存在に感謝していたとしても、自分自身が失敗したその20人に入ってしまいHIVに感染していたとすれば、とても優れた予防法などとは言えないわけです。そもそも、HIV感染症というのは「絶対にかかりたくない感染症」ではなかったでしょうか。新型コロナのように「できれば避けたいけれど絶対に防がねばならないわけではない感染症」ではありません。であるならば、5万人に1人が失敗するというこの事実はどのように受け止めるべきでしょうか。

 特に(デイリーPrEPではなく)「オンデマンドPrEP」には要注意です。昨年(2023年)12月、シンガポールでのオンデマンドPrEPの4つの失敗例が報告されました。次の4つの事例で、使用していたPrEPは全例でTDF/FTC(先発品の名前は「ツルバダ」)です。尚、オンデマンドPrEPの正しい使用法は「性行為の2~24時間前に2錠、最初の服用の24時間後に1錠、2回目の服用の24時間後に1錠、合計4錠服用」です。

ケース1:30代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒、C型肝炎ウイルス
ケース2:50代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒
ケース3:40代男性 性行為前2錠+最初の服用の24時間後に2錠 合併症:梅毒、B型肝炎ウイルス
ケース4:30代男性 性行為前1錠+性行為後1錠 合併症:梅毒

 ケース4は性行為の前後で1錠ずつしか飲んでいないわけですから感染しても無理はありません。ケース3については、使用法を正確に順守していないとはいえ、内服の総量(合計4錠)は変わりがないわけですし、3回内服すべきスケジュールの最後がいわば前倒しになった(遅れたわけではない)だけですから、この程度の時間のずれで失敗してしまうリスクが浮き彫りになったと言えるでしょう。

 また、ケース1とケース2は服用の仕方が間違っていたわけではありません。つまり、オンデマンドPrEPの成功率は決して高くないと考えるべきなのです。正確にいえば数字で示される成功率はそれなりに高いでしょうが、「絶対に感染したくない感染症」という前提で考えれば安心できる予防法とは必ずしも言えないでしょう。実際、米国FDAは昔も今も「デイリーPrEPがFDAの承認する唯一の予防法」としているのです。

 次に「合併症」について考えてみましょう。HIVのPrEPは当然のごとくHIVしか防げません。理論的にはツルバダの成分でHBV(B型肝炎ウイルス)も予防できる可能性がありますが、HIVに比べて感染力が桁違いに強いHBVに対してどこまで有効かは分かりません。セクシャルアクティビティが高い人たちはたいていHBVのワクチン接種を済ませて抗体形成を確認していますが、ときどき未接種の人(または抗体形成を確認していない人)がいます。

 ケース1~4の全員が梅毒に感染していました。梅毒は簡単に治療できる感染症ですし、ワクチンがなくコンドームでも防げませんから「感染すれば治す」を徹底していればあまり問題にはなりません。問題はケース1の男性が感染したC型肝炎ウイルス(以下HCV)です。現在DAA(直接作用型抗ウィルス剤)と呼ばれる飲み薬が開発され、HCVは「治る病気」となりました。しかし、治療費は総額700万円くらいはかかる大変高価なものです(所得に応じて補助が出ますから日本の保険証を持っている限り治療を受けることはできますが)。それに治療失敗の可能性がゼロではありませんし、再感染もあります(谷口医院の患者さんにも再感染した人がいます)。そして、HIVとは別の感染症ですから、当然HIVのPrEPで予防できるわけではありません。「PrEP実施者はHIVには感染しなかったがHCV感染が増えた」とする欧州からの報告もあります。

 HIVのPrEPには当然副作用もあります。そして、長期で内服すればするほどその副作用のリスクが上昇します。「他院で処方されていたけれどこれからは谷口医院でPrEPを希望する」という人に尋ねてみると、興味深いことに「腎臓が悪くなるかもしれないんですよね」とは言われるのですが、骨量低下については知っている人がほとんどいません。

 PrEP(の特に長期服用)による骨量低下は侮ってはいけません。「米国のPrEP服用者の3%に骨粗鬆症が起こっていた」とする論文もあります。3%を甘くみてはいけません。なぜならこの研究は米国人が対象だからです。一般に骨粗鬆症はやせている人に起こりやすいのです。米国人と日本人では体重がまったく異なります。実際、この研究では、「やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べて骨粗鬆症のリスクが3.95倍に上昇」していたことが分かったのです。

 最後に、私が考えるPrEPの最大の注意点を述べておきたいと思います。それは「PrEPはHIV陽性者を傷つける」ということです。U=U(ユー・イコールズ・ユーと読みます)が次第に広く知れ渡るようになり、「抗HIV薬を飲んでいればコンドームなしでも他人に感染させない」が常識になりました。以前は、HIV陽性者のパートナーにPrEPが推奨されていましたが、U=Uが正しいことが分かっている現在ではPrEPはすでに不要のはずです。にもかかわらず、PrEPを社会が推奨すれば、HIV陽性者は「じゃあU=Uって何なんだ? コンドームなしでもうつさないのになんで社会はPrEPを勧めるんだ?!」と感じるわけです。

 これらをすべて踏まえた上でPrEPを検討すべきなのです。

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第213回(2024年3月) 性は「認める」ものではなく、性加害の"冤罪"は簡単に生まれる

 大阪の十三(じゅうそう)というディープな街に、通称「ナナゲイ」と呼ばれているミニシアターがあります。正式名は「第七藝術劇場」で、商店街のなかほどに位置する「サンポードシティ」という雑居ビルの6階にあります。一つ下の5階は「シアターセブン」と呼ばれるミニシアターで運営会社は同じ(だと思います)。ウェブサイトも同じです。(少なくとも私の周囲の)大阪人はこれら映画館を指すときには2つを区別せず「ナナゲイ」と呼んでいます。ナナゲイは歴史のある映画館で過去何度か閉館しているそうなのですが、現在はセンスのいい映画が連日上映されています。

 そのナナゲイ(正確にはシアターセブン)で現在リバイバル上映されているのが、京都のショーパブを舞台にしたコメディ映画『Moonlight Club』で、2人のドラァグクイーンとそば屋のおかみの3人が主役。3人は「はふひのか」という言わばミニ劇団のようなユニットです。ドラァグクイーンは当然ゲイですが、その2人のゲイを演じる「はふひのか」のメンバーは実生活ではゲイでない(つまりストレート)だそうです。私自身は、ストレートがセクシャルマイノリティを演じても構わないと思っているのですが、最近はそれに反対する意見が大きくなってきています。しかし、今回取り上げたいのはそのことではありません。順を追って説明していきましょう(尚、私はこの映画をまだみていません。気になる報道があったので取り上げることにしました)。

 『Moonlight Club』のナナゲイでの上映が決まったことは関西ローカルメディアでは報道されていました(例えば、毎日新聞の地方版)が、全国的に話題になったのは米国での上映が決まったからでしょう。3月28日にはニューヨークのコロンビア大学内で上映されるとDAILYSUN NEW YORKが報道しています。日本のメディアでは2月12日にFNNプライムオンライン(以下FNN)が記事を出しました。

 この記事、公開されたときには私は読んでいなかったのですが、後に能町みね子さんが週刊文春で痛烈に批判していたのでネット検索してみました。能町さんのこの連載は毎回有名人が放った問題のある発言をタイトルにしています。このときのタイトルは「世界平和につながっていくんちゃうかな」で、当事者でない(ゲイでない)ストレートの男性がこのような言葉を「のんきに言っている」と批判し、「偏見をコテンパンに批判されてほしいと思う」と厳たる言葉で酷評しています。

 FNNの記事を読んでみたところ、私自身は「世界平和に......」という言葉にそれほど違和感を覚えませんでした。「はふひのか」のメンバーがセクシャルマイノリティを批判しているようには思えないからです。(私は映画を観たわけではありませんが)FNNの記事を読む限り、映画のなかでマイノリティを差別しているわけでもなく、悪意がないことは明らかです。

 ですが、能町さんが批判しているもうひとつのことについては、私は能町さんに完全に同意します。「はふひのか」のメンバーの一人である原田博行氏のコメントです。原田氏は俳優の傍ら現在も京都市内のキリスト教系の高校(おそらく同志社高校)で30年近く教鞭をとっているそうです。ここからはFNNの記事をコピーします。

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原田さんは授業の中でLGBTQに対する意見を生徒に聞いてきたという。

「授業で認めるかどうか手を挙げさせるんですけど、今年認めないという生徒はほぼゼロでした。20年前は3割から4割くらいは認めないに手を挙げていました。もう今では認めないと言っちゃダメだというのが常識になったんだなと思いますし、生徒たちは自然に、素直に性の多様性を受け入れていますね」
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 目を疑わないでしょうか。「認める」ってどういうことでしょう。通常「認める」というのは上の立場の者が下の者に使う言葉です。「当社としては無断欠勤の多い社員の雇用継続を認めることはできない」とか「試験会場に従来の腕時計を持ち込むことは認めるが、スマートウォッチは認めない」などです。そもそも「認める」は人の「行為」に対する判断であって、人の「存在」に対して使う言葉ではありません。

 能町さんは文春の記事のなかで「『黒人を認めるかどうか手を挙げさせる』がマズイのはふつう分かりますよね?」と分かりやすい例を挙げて批評しています。FNNの記事の内容が正しくて原田氏が本当にそんなことを生徒の前で言ったのだとしたら、原田氏自身がセクシャルマイノリティはストレートよりも"下"の存在だと考えていることを物語っています。さらに、「人(の存在)を認めるかどうか」という論調が人間の倫理に反していることに気付いていなことを晒しています。「人が人を裁いてはいけない」のは人類普遍の真理ではなかったでしょうか。私の理解が間違っていなければ、キリスト教では「人を裁くことができるのは、その人の心を熟知している神だけ」です。

 もうひとつ別の「事件」を取り上げたいと思います。今度はセクシャルマイノリティがストレートを"誤解"したと思われる事件です。

 浅沼智也さんというトランスジェンダー(FTM)がいます(念のために付記しておくと「FTM」とは生まれたときに生物学的に"女性"で、その後社会的に"男性"に転じたトランスジェンダーのこと)。私は浅沼氏と面識がありませんが、浅沼氏は看護師であることもあり、何度か名前を聞いたことがあります。たしか自助グループを主催し、ラジオのパーソナリティも務め、自ら映画を監督し出演したこともあったはずです。

 その浅沼氏が「強制わいせつ罪容疑で逮捕」というニュースが報道されました。報道によると、2023年2月、東京都内のホテルで、青森県内に住む40代の知人女性に、抱きつくなどのわいせつな行為をした疑いがあり、青森県警が2024年3月14日に強制わいせつの疑いで逮捕し、翌日に青森地検に送検しました。

 これだけを聞くと、さほど違和感を覚えない人の方が多いでしょう。現在は"男性"なんだから女性へのわいせつ行為はありうる、と考えられるからです。しかし、浅沼氏の性的指向は女性でなく男性です。つまりロマンスやセックスの対象は男性なのです。彼はそれを公言しています。中野区のウェブサイトに掲載された座談会で「自分は現在戸籍上は男性で、好きになるのも男性です」と発言していますからそれは間違いないでしょう。

 だからこの事件はいわゆる「冤罪」の可能性がでてきます。しかし、浅沼氏が「自分の性的指向は男性だ」と主張したところでそれを証明するものがありません。上述の中野区のウェブサイトはある程度の証拠として扱われるかもしれませんが、被害者から「浅沼氏はバイセクシャルだ」と言われればこれに反論するのは困難です。そう考えて検索してみると、浅沼氏は「僕がセクシュアリティの自覚が遅かったのは、今思えば性的指向が両方だったからなんですよ」とコメントしている記事がありました。これは浅沼氏にとって不利な証拠となります。

 おそらくこの裁判は長引くでしょう。そして冤罪の判決が下される可能性もあると思います(念のために補足しておくと私は浅沼氏に非がないと言っているわけではありません。あくまでもその可能性の話です)。

 この事件から言えることは「マイノリティの人は常に性加害者につるし上げられる可能性がある」ということです。ゲイ好きな女性のなかにはゲイの友達とかなり密なスキンシップをとる人がいます。例えば頬にキスしたりハグしたりです。そしてゲイの男性もそれに応えることがあります。仲が良いときは問題ないでしょうが、いったん何らかの理由で仲違いをしてしまうと、ゲイ男性は「あれは性加害だった」と女性から訴えられるかもしれません。

 ここからもう一歩話を進めると、ストレートの男性がストレートの男性に、それが冗談であったとしても過剰なスキンシップをとることで「性被害に遭った」と訴えられるようになるかもしれません。訴えられたとき「自分はストレートの男性で......」と反論しても、「ではバイセクシャルでないことを証明してください」と問われたときに答えるのは簡単ではありません。

 これからの時代、余計な心配をなくすためにも、相手の性自認・性指向に関わらず性的なスキンシップには充分に注意した方がいいでしょう。同時に、他人の存在を"認めない"ような発言は(心で思うのは自由ですが)、絶対に口にしてはいけません。

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第212回(2024年2月) 依存症に陥る人たちはなぜ魅力的なのか

 私がHIV/AIDSという疾患に深く関わりたいと初めて思ったのは2002年の夏、このサイトで何度も紹介しているタイのロッブリー県にあるエイズホスピス「Wat Phrabhatnamphu」を訪れたときでした。このときに、家族や地域社会、そして医療機関からも差別され、行き場を失くした人たちに接して、「こんなことが許されていいはずがない。誰からも見放されたとしても僕はこの人たちの力になろう」と誓ったのです。

 HIV感染の主なリスクは性交渉と(覚醒剤などの)注射針の使いまわしです。タイのHIV陽性者からは、「両親に売られてセックスワークを強制させられた(男女とも)」とか、「幼い子供を育てるにはセックスワークしかない(こちらは女性)」といった話をよく聞きました。今もそういう話はタイでは、そして日本でもあるのですが、必ずしも「セックスワークを強いられて......」というケースばかりではないことにそのうちに気付きました。

 セックスワーカーでいえば、稼いだ金で豪華なブランド品を買い漁るとか、ホストクラブに通って「推し」のホストに貢ぐとか、課金ゲームに有り金をはたいたとか、そういう話も日本では昔からよくありますし、タイでも最近はそういう話を聞きます。

 もちろんセックスを金のためでなくセックスそのものを目的とする人は大勢います。常に複数のパートナーを必要とする人、パートナーを求めているのではなく単に刹那的なセックスを欲する人もいます。行き過ぎると「性依存症」の診断がつけられますが、自身がセックスに依存しているなどとは思ってみたこともないという人も少なくありません。

 こうしてみてみると、人間はいかに何かに依存しやすいかということを思い知らされます。HIV/AIDSに直接関係する依存症は、性依存と薬物依存ということになるでしょうが、生涯にわたりこれらにまったく依存しないという人はどれくらいいるでしょう。

 性依存を広義で考えたとき、セックスあるいはロマンスに夢中になることは生涯のうちに一度くらいはほとんど誰にでもあるでしょう。薬物依存という言葉は重たく響きますが、アルコールやタバコ、あるいは大麻などを考えてみると、これらはHIVからはほど遠いとしても多くの人が何らかの薬物依存に生涯に一度くらいは陥ることが分かるでしょう。

 最近はHIV/AIDS関連で講演を頼まれることが随分と減りましたが、かつて大学生や一般の人たちにエイズについて話すとき、私は「この感染症は他人事と思ってはいけません。感染している人の多くは『まさか自分が感染することはない』と思っていたのです。ということは、今ここにいるあなた方も感染する可能性があると考えるべきです」と強調していました。今も講演の機会があれば同じことを訴えます。

 実際、私が院長をつとめる谷口医院に定期的に通院しているHIV陽性の患者さんのほとんどが「自分が感染することはないと思っていた」と話されます。

 では、なぜ自分は大丈夫と思っていた人たちが感染するのか。一般的には無防備な性行為や針の使いまわしと言われますが、私は問題の本質は別にあると思っています。ではHIV感染の本当のリスクは何なのか。それが「依存症」だと思うのです。

 リスクがあると分かっているのについついセックスの相手を求めて行動を起こしてしまう、ハイリスクなことは承知しているのにその場に針と"冷たいやつ"を置かれると手を出してしまう、という行動はときに理性では抑えられません。脳内の報酬系が爆走してしまっているからで、これが依存症の"正体"です。では、これらは理性が保てない劣った人が取る行動なのでしょうか。私にはそうは思えません。

 誤解を恐れずに言えば、依存症は誰にでも生じることに加え、依存の対象に夢中になっている人はどこか魅力的でさえあるのです。その反対に、常に理性的で冷静な優等生タイプには私は人間的な魅力を感じません。

 ホストクラブに大金をつぎこむ若い女性がいます。「儲かっている会社の社長などお金がある女性がホストクラブで遊ぶなら好きにすればいいけど、貧乏な若い女性がホストにはまり、挙句の果てにフーゾクで働くことになるなんて信じられない」というようなことを言う人がいます。そう感じる人はそれでいいと思いますが、私にはそんな常識的なことを言う人よりも、いずれ身を滅ぼすことがどこかで分かっていながらそれでもホストに大金を注ぎ泥沼にはまっていく女性の方が素敵に映ります。

 なぜか。そこに人間の本質があるからではないでしょうか。あとさきのことを考えずホストに夢中になっている女性、実は谷口医院にもこういう女性がときどき受診するのですが、彼女らからは美しい「生のオーラ」が出ていて、その瞳は輝いています。

 もうひとつ例を挙げましょう。大王製紙の前会長、井川意高氏がカジノで借金をつくり合計106億8000万円の負債を追った話は有名です。東大卒の頭脳を持ちながらこのような罪を犯し、会社法違反(特別背任)で執行猶予なしの実刑4年の判決を受けたことに対し呆れた人も多かったでしょうが、私には井川氏がとても魅力的にうつりました。

 氏は著作『熔ける』のなかで、次のように述べています。

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地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦げるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。脳内に特別な快感物質があふれ返っているせいだろう、バカラに興じていると食欲は消え失せ、丸一日半何も食事を口にしなくても腹が減らない。
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 バカラに大金を賭けているときの井川氏の瞳はきっとキラキラと輝いていたに違いありません。

 覚醒剤を摂取すると、生理的な反応で瞳孔は散大しテンションが上がるわけですが、覚醒剤を摂取していないときでも、覚醒剤に夢中になっている人から話を聞くと、いかに覚醒剤が人生を幸せにしてくれるかという話を瞳を輝かせながら延々と続けます。

 ホスト、バカラ、覚醒剤のいずれもまったく魅力が分からないという人もいるでしょう。では、「恋愛」、それも「初期の恋愛」いわゆる「ハネムーン期の恋愛」ならどうでしょう。「この人のためなら何もかも失ってもいい」「この人と一緒にいられるなら世界中を敵に回してもいい」と感じたことのある人も少なくないのではないでしょうか。

 ハネムーン期の脳内の様子がホストにハマる女性の脳内とほぼ同じであろうことは想像に難くありませんが、おそらくギャンブルに夢中になっている人の脳内も、覚醒剤を至上の喜びと考えている人の脳内も同じような状態になっているはずです。いわゆる脳内の報酬系が活性化している状態です。

 ということは、人間が生を渇望する活力となっているのは脳の報酬系であり、その報酬系を活性化させるのは何らかの依存を生み出す物質や行動ということになります。きれいごとを言いたい人は言えばいいですが、私には身を滅ぼすことが分かっていても、自らの欲望に逆らえず不合理な行動に走る人の方に好感が持てます。なぜって、それが人間の本質だからです。

 我々は社会を維持しなければなりませんから、その依存の対象が猟奇殺人、強姦、痴漢、盗撮、小児愛などに向いてしまった場合はこの社会では生きていくことができません。しかし、そういった行動を取らざるを得ないのは脳内の神経伝達物質の爆走であり、これらも広い意味での依存症だと考えればそういう行動も理解できなくはありません。

 いずれにしても人間とは何らかの物質や行動への依存から逃れられない、ある意味ではとても悲しい生き物ではないかと思います。しかし逃れられないのならその条件で生きていくしかありません。生きることへの欲求が脳内の報酬系に支配されているというこの人間の弱さと悲しさを理解することにより、人は人に優しくなれるのではないだろうか。長らくHIV/AIDSに関わってきた私は最近そのようなことを考えています。

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