2015年11月25日 水曜日

第113回(2015年11月)HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編

 前回は、WHOの新しいガイドラインで、HIV感染が判れば直ちに抗HIV薬の内服を開始すべきとなった、ということを述べました。このような改訂がおこなわれた最大の理由は、HIVに対して高い効果があり副作用の少ない理想的な薬が相次いで登場したということです。費用は決して安くありませんが、医療保険や他の公的扶助を使うことにより実際にはさほど金銭的な負担を負うことなく薬の恩恵に預かれるようになったのです。

 そして、すぐれたHIVの薬というのはHIVの「治療」に使えるだけではありません。一部の薬はHIVの「予防」にも使えるのです。それが、今回お伝えする「PEP」と「PrEP」です。

 まずはPEPからみていきましょう。PEPの正式名称は「Post-Exposure Prophylaxis」。日本語にすると「暴露後予防」となります。つまり、「あなたの身体がHIVに暴露された後からおこなう予防」、もっと簡単に言うと「HIVが体内に入ってから感染を防ぐ方法」です。

 たとえば、医療従事者がHIV陽性の人の採血や手術をおこなうときに誤って血液のついた針を自分の皮膚に刺してしまったときや、HIV陽性のパートナーとの性交渉でコンドームが破れてしまったとき、あるいはレイプの被害にあったときなどにこの方法を用います。

 感染したかもしれない機会があったとしてもPEPをおこなえばかなりの確率で感染を防げます。どれくらいでPEPを開始すべきかというと、一応の目安は36時間以内、あるいは72時間以内でも感染を防げる可能性があるとされています。ただし、PEPの成功率は100%ではありません。「開始が早ければ早いほど成功する」ということは言えますがそれ以上のことは言えないのです。また、たとえ感染したかもしれない時点で直ちに内服を開始したとしても成功が100%保証されるものではありません。とはいえ、適切なタイミングでPEPを開始して感染した事例というのはほとんどないようです。

 医療の現場では「針刺し」は完全に避けることはできず、患者さんがHIV陽性者であったり、その可能性が否定できないときはPEPをおこなうことになります。(当たり前ですが)HIVに感染しているかどうかは見た目では分かりませんし、いくら元気な人でこれまで健康診断で一度も異状を言われたことがないという人も、HIVそのものの検査をしない限りは感染していないとはいえません。そこで医師や看護師は針刺しをしたときに、患者さんに「HIVの検査をさせてもらってもいいですか」と聞くわけですが、ここで不快感を表明する人は少なくありません。「針刺ししたのはそっちのせいやろ! しかもなんでこっちがHIVの疑いをかけられやなあかんのや!」とクレームになることもあります。

 そこで、我々医療従事者は「この人は感染しているかもしれない」と判断しPEPを開始することもあります。なにしろ、PEPの開始は早ければ早いほどいいのです。もたもたしていて開始が遅くなると助かった命が助からなくなるかもしれません。つまり、不快感を示している患者さんを説得する時間的余裕はないのです。すでに採取してある血液を使ってHIV感染の有無を調べればいいではないか、と思う人もいるでしょうが、一般に感染症の検査というのは例外的な場合を除いて(注1)患者さんの許可なしにはできません。

 PEPの最大の欠点は「費用」です。PEPは30日間薬を飲み続けなければなりません。日本では保険適用はなく、費用は合計25~30万円くらいかかります。医療機関での針刺しであれば通常は医療機関が負担し、針刺しをした医師や看護師に負担を求めることはありませんが、レイプの被害やアバンチュールの後から気になって・・・、という場合は誰も負担してくれません。副作用もないわけではありません。25万円以上の費用を負担し、副作用のリスクに怯えながら4週間を過ごさなければならないのです。(後述するように米国では保険適用があります)

 ですから、「危険な性交渉があってもPEPがあるからもう安心!」というのは完全に誤りです。HIVを含む性感染症の予防で最も大切なことは「正しい知識を持ってリスクを下げる。自分の身は自分で守る」ということです。

 次にPrEPについてみていきましょう。PrEPの正式名称は「Pre-Exposure Prophylaxis」。日本語では「暴露前予防」となります。これは以前このコラムで紹介したことがあるもので(注2)、たとえばパートナーがHIV陽性で自身は陰性という人が「HIVの薬を予防的に毎日飲む」という方法です。
 
 PrEPが優れた予防法であることは大規模調査で実証されており、2011年に医学誌『LANCET』でその報告がされて以来、世界的に随分と普及してきています。アメリカではほとんどの医療保険でカバーされていますし、低所得者向けの公的保険メディケイドでも、州にもよりますが保険でPrEPがおこなえます。

 多くの日本人は「医療保険は国民皆保険の日本が進んでいて、保険に入れない人も多いアメリカ人は気の毒」と思っていますが、これは必ずしも正しくありません。アメリカの医療保険制度は大変複雑で、ここで解説する余裕はありませんが、ひとつだけ特徴を述べておくと、それは「予防医療は個人負担ゼロが多い」ということです。たとえば年に一度の健康診断や予防接種についてはたいてい全額が保険でカバーされます。

 HIVに関して言えば、先に述べたようにPrEPは保険でカバーされますし、PEPも保険適用となるのです。つまり、日本でレイプの被害にあえば10万円以上の金額を自己負担するしかありませんが、アメリカでは保険でPEPがおこなえるというわけです。PrEPについては、全額個人負担だと年に100~150万円はかかります。この金額を毎年負担できる人はそんなに多くないでしょう。こういったことを考えると、日本とアメリカの医療保険のどちらが優れているかについて簡単には答えが出ません。

 しかし、アメリカには保険に入っていない人が大勢いるのも事実です。低所得者にはメディケイドがありますし、富裕層は高額の保険に入っています。問題となるのはその中間の層の人たちです。こういう人たちはメディケイドに入れませんから自身で民間の保険会社と契約するしかありません。このコストが大変高く、そんなにかかるなら無保険にする、という選択をする人たちが少なくないのです。

 では、このような人たちが、PEPやPrEPを必要とした場合にはどうするのでしょうか。実は、アメリカでは、無保険の人がPEPやPrEPを利用できるプログラムやサービスがいくつも用意されています。HIVの予防や感染したかもしれない人たちを救うのは社会全体で、という考え方なのです。

 と、このような言い方をするとアメリカを絶賛しているように聞こえるでしょうが、こうしてでも感染者を防ぐ方がアメリカの国益になると政府が判断しているというのが本当のところでしょう。HIV陽性者をひとり生み出すと必要な医療費は軽く1億円を超えます。これをPEPやPrEPといった予防的治療で防げるなら、トータルで見ればそちらの方が安くつく、という計算があるはずです。

 日本ではどうでしょう。今のところ、私の知る限り、PEPやPrEPに保険適用を!という市民からの声は聞きません。市民だけでなく、患者会や医療者からもほとんど聞いたことがありません。これはなぜなのでしょうか。パートナーがHIVという人たちはPrEPを保険適用にしてほしいと切に願っているはずです。(私がその立場ならそう思います) では、なぜ当事者からその声が上がらないのかというと、それを口にすれば自分のパートナーがHIV陽性であることを世間にカムアウトすることになるからです。

 現在のところ、PEP、PrEPを保険適用にすべき、という声はどこからも聞こえてきません。しかし、感染者が増加傾向にある日本ではこれらを保険でカバーすべきという意見が当然出てくるべきですし、2012年に横浜で起こったHIV陽性の男性による連続レイプ事件と同じような事件が今後起こらないとも限らないわけですから(注3)、HIVに携わる医療者や社会活動をおこなう者たちが声を上げていく必要があるのではないかと私は考えています。もちろん私自身もGINAとしてもそのために何をすべきかを考えていくつもりです。


注1:「例外的な場合」というのはたとえば意識障害で救急搬送されてきたような場合です。診察からHIV脳症による意識障害が疑われたような場合は、患者さんの許可無く調べることもあります。

注2:下記を参照ください。

GINAと共に第61回(2011年7月)「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」

注3:この事件の詳細は下記を参照ください。

GINAと共に第101回(2014年11月)「HIV陽性者による連続強姦事件に対する意見のズレ」

投稿者 医療法人太融寺町谷口医院