GINAと共に

第119回(2016年5月) PEP、PrEPは日本で普及するか

 ここ半年の間に、PEPやPrEPに対する関心が高まっているようで私の元にも多くの問い合わせがきます。おそらくこの最大の理由は、この「GINAと共に」の2015年11月号でこれらのことを紹介したからだと思いますがそれだけではありません。なぜなら、私が院長をつとめる(医)太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の英語サイトから問い合わせてくる外国人も増えているからです。(ほとんどの外国人は日本語で「GINAと共に」を読むことはできません)

 話を進める前にPEPとPrEPについてごく簡単に振り返っておきましょう。PEP(Post-Exposure Prophylaxis)は日本語では「曝露後予防」と呼ばれています。HIVが体内に入ってから72時間に薬を飲めば感染が成立しなくなるという治療法で、原則1ヶ月の内服を続けます。PrEP(Pre-Exposure Prophylaxis)は「曝露前予防」と呼ばれる予防法で、パートナーがHIV陽性者である場合におこなわれます。こちらは期限なしで毎日抗HIV薬を内服します。PrEPについての問い合わせは9割以上が外国人から、PEPは日本人からが7割くらいです。興味深いのは、日本人のPEPの問い合わせの3割程度が外国に居住している日本人ということです。

 では、GINAや谷口医院に「PEP、PrEPを検討したい」と相談を寄せた人のなかでどれくらいの人が実際にこれら治療を開始したかというと、大半の人は結局おこなっていません(注1)。この最大の理由は「高すぎる費用」です。今回のコラムでその打開策となるかもしれない方法を紹介したいと思いますが、その前にPEP、PrEPで問い合わせをする人たちの特徴をみていきましょう。

 一番多いのは「日本国内で危険な性交渉を持ってしまった」というケースです。たいていは「HIV感染の可能性があるからPEPを始めたい」と最初は言われるのですが、費用を聞いて諦める人がほとんどです。1ヶ月間内服を続ける必要があり、合計でおよそ25~30万円もかかります。レイプあるいはそれに近いケースでは、特に不安が強く、可能性があるならPEPを実施すべきと思われるケースも少なくないのですが、この費用を捻出できる人というのはそう多くありません。

 レイプの被害者のことを考えると「レイプ被害者のためのPEP基金」というものがあればいいのですが、実際には困難でしょう。どこからをレイプとすべきかという問題があり、同意のもとの性交渉なのに、後からHIV感染が気になって「あれはレイプだった。だから基金のお金でPEPを受けさせてほしい」という人が必ず出てくるからです。警察に届け出てレイプと認定されたケースだけを対象にすればいいではないか、という意見があるかもしれませんが、認定の基準がありませんし、そもそもPEPは少しでも早く始めなければなりません。誰かの「認定」など待っている余裕はありません。

 ただ、レイプ被害者をサポートするための社会的な活動は必要です。大阪には「性暴力救援センター・大阪(SACHICO)」という組織があり被害者の支えになっています。しかしこういった組織を知らない人も多いですし、知っていてもなかなか相談できないものです。また、最近は警察の「ウーマンライン」も充実していて、GINAに相談してきた人にこういったサービスの利用を勧めることも多いのですが、利用に躊躇する人も少なくありません。

 また、これはあまり指摘されないことですが、男性のレイプ被害者に対する支援も必要でありながら、実際にはほぼおこなわれていません。男性のレイプ被害者には3つのケースがあります。1つは男性同性愛者で、いわゆるハッテンバに行き望まない性交渉を無理矢理おこなわれた、というもの。2つめは、ストレートの男性がサウナなどに行き、そのサウナがハッテンバであることを知らず、その場にいた男性に襲われるというケース。3つめが頻度は少ないですが、通常のマッサージのつもりで入った店で、マッサージ師が外国人(ほとんどアジア人)で言葉があまり通じず、望んでいないのに性サービスを受けさせられた(ゲイ、ストレート共に)、というものです。

 最近は日本滞在中の外国人からの問い合わせが増えています。日本に来てハメを外してしまい、出会ったばかりの日本人女性とアバンチュールをもってしまった・・・というケースです。しかし、先に述べたように日本の薬の高さは想定外であるようで「1か月で30万円近く」というと全員が躊躇します。ただし、「帰国までの5日間のみ処方してほしい。あとは帰国後かかりつけ医に相談する」というケースが今後出てくるのではないか、と私はみています。

 今のところ、私のところに問い合わせをしてくる外国人の全員が西欧の男性です。女性はこれまで皆無であり、これは、西欧人の女性が日本に来て日本人男性と性交渉の機会を持つことがその逆のパターンに比べて少ないからだと予想されます。またアジア人からの問い合わせは男女とも少数です。この理由は、アジアでは西洋ほどPEPが一般に知られていないことと、いくら円安とはいえ薬代は日本の方が遙かに高いことが原因ではないかと思われます。(ですから、予定を変更してすぐに帰国しPEPを始めているアジア人はいるかもしれません)

 私が相談を受けるケースで、実際にPEPを開始することになるのは2つのパターンがあります。1つは医療従事者の針刺し事故です。針刺し事故の場合「労災」の適応になりますから費用はゼロで済みます。しかし副作用のリスクを抱えることになり、この点で躊躇する人は少なくありません。また、針刺しをした患者がHIVでない可能性が高いと判断した場合は必ずしも実施に至りません。実際にPEPを開始するのは、針刺しした患者がHIV陽性であることが判っている場合が大半です。

 もうひとつ、実際にPEPを開始するのは、外国に住んでいる日本人です。海外からの問い合わせは圧倒的にタイからが多く、この理由はGINAがタイの支援をしていることだけではなく、それだけタイで性交渉をもつ日本人の男女が多いからでしょう。タイでは、全例ではありませんが、私に相談してきた人たちの多くがPEPを始めています。この理由はいくつかあり、タイの方が日本よりもHIV陽性者が多いこともありますが、やはり最大の理由は「費用が安い」ということです。病院にもよるようですが、外国人はまず利用しない地元のタイ人が訪れる病院であれば日本円で2~3万円で1ヶ月分の薬を処方してもらえるようです。

 ここ数年、「医療ツーリズム」が流行しており、タイも力を入れています。全室個室で料理は複数から選べお酒のサービスまであるホテル並みの待遇が人気の理由で、欧米人やアラブ人がよく利用しています。日本人の場合は、保険を使って日本国内で治療を受けることを選択しますからあまりタイでこのような贅沢な医療サービスを利用する人は多くありませんが、保険の効かない分野、具体的には性転換手術や美容外科ではタイに渡航する日本人は大勢います。

 今後安いPEPを求めてタイの病院、それは医療ツーリズムの代名詞のような豪華な病院ではなく、タイ人しか行かないような地域の病院を訪れる人が増えるかもしれません。LCCを利用して渡航し、1ヶ月分の薬をもらって一泊もせずにすぐに帰国すれば、飛行機代、薬代を入れて10万円でお釣りがくることもあるでしょう。日本で治療を受けたときの3分の1の費用で済むというわけです。

 タイにはそれだけ安い抗HIV薬があるなら、それを日本の医療機関が輸入して日本の患者に処方すればいいではないか、という意見をときどき聞きます。結論を言えばこれは規則上できません。厚労省の通達に、医療機関が薬を輸入できるのは「国内に代替品が流通していない場合」とあるからです。つまり、国内に抗HIV薬がある以上は安い海外製品を取り扱うことはできないのです。
 
 先に述べたようにPrEPについての問い合わせはほとんどが外国人からです。日本でPrEPをおこなうと年間150万円くらいと伝えると、全員が「そんな余裕はない」と言います。では彼(女)らは結局どうしているかというと、母国に帰国したときに大量に処方してもらうか、母国の病院から日本に送ってもらっているようです。海外では高くないのか、と疑問に思いますが、私の知る範囲では、特にアメリカではPrEPも保険適用になり非常に安い価格で購入できているようです。日本人はこの保険を利用できませんが、先に述べたタイの病院を使うという方法は考えてもいいかもしれません。私の知る限り、これを実践している人は現時点ではひとりもいませんが、今後タイに渡航しPrEP用に大量に抗HIV薬を購入する日本人が増えてくるかもしれません。

 もちろん一番いいのは、日本でもPEPやPrEPを保険診療でおこなえるようにすることなのですが、これに反対意見が出るのは明らかです。日本では予防医療を保険適用にするという発想がありませんし、最近は次々と高価な薬(がんの免疫チェックポイント阻害薬やC型肝炎の薬)が登場したおかげで医療費が底をつき「国が滅びる」とまで言われています。このような情勢のなか、PEP、PrEPを保険で、というのはなかなか賛同が得られません。やはり「タイの地元病院への医療ツーリズム」が現実化するのでしょうか・・・。


参考:GINAと共に
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第81回(2013年3月)「レイプに関する3つの問題」

注1(2016年10月16日付記):
これを書いた時点(2016年5月)には、たしかに「大半の人」は実施に至らなかったのですが、その後数か月で実施する人が大きく増えてきています。これはPEPに対する安全性及び有効性が社会に広く知れ渡るようになったことが最大の原因でしょう。しかし大切なのは、「PEPに頼るのではなく、危険な行為を避けること」であることは言うまでもありません。