GINAと共に

第214回(2024年4月) HIVのPrEPの失敗例

 HIVのPrEPは公衆衛生学的には極めて優れた予防法であるけれど、個々のレベルでみれば必ずしも全員に勧められるわけではない、ということを何度か訴えてきました(例えば第184回(2021年10月)「PrEPについての2つの誤解」、第197回(2022年11月)「HIVのPrEP(曝露前予防)を安易に始めてはいけない」)。

 その後PrEPの知名度が上がるにつれて、私が院長を務める谷口医院には「PrEP希望」という人が増えてきています。ですが、過去に繰り返し述べているようにPrEP実施にはいくつか理解しなければならないことがあり、そして「すでに(他院で処方されて)始めているけれどこれからは谷口医院での処方を希望」という人に確認してみると、PrEPの危険性を知らされていないケースが目立ちます。

 まず、「感染症の予防」全般についていえることとして、「公衆衛生学的視点と個々の視点は別のもの」という原則があります。これは新型コロナウイルスのワクチン(以下「コロナワクチン」)を例にとれば分かりやすいと思います。

 コロナワクチンは副作用が明らかになってきたことやその副作用で被害者の遺族らが国を提訴したことなどから最近は人気がなくなってきましたが、非常に高い実績があるのは事実です。なにしろ、医学誌「The Lancet」の論文によると、世界ではワクチンのおかげで1440万人の命が救われたのですから。日本でも、京都大学の研究によると「もしもワクチンがなければ364,000人が死亡していた」と推計されています。

 「副作用で大勢の命が失われたではないか」というワクチン反対派の意見があります。重篤な副作用が生じ犠牲となった人が少なくないのは事実です。国が健康被害を認めた事例は2024年1月31日時点で6000件以上に上ります。

 ではコロナワクチンはどのように評価されるべきなのでしょう。ここで「〇か×か」で考えると議論がかみ合わなくなります。公衆衛生学的に考えれば、日本の場合、「6000件以上のそれなりに重篤な副作用が生じたけれど、364,000人の命が救えた」わけですから、コロナワクチンは公衆衛生学的には大成功なわけです。

 しかし、もしもあなた自身やあなたの大切な人がコロナワクチンの犠牲になっていたとすればもちろん成功なはずがありません。「安全だから大丈夫と言っていたではないか。集団免疫ができるから、他人のために、とか言って、うたないことがまるで犯罪であるかのように煽っていたのは誰だった?」と言いたくなるでしょう。ですから個々でみたときにはコロナワクチンの是非は「その個々で異なる」となります。予防医学というのはそういうものです。

 HIVのPrEPの場合、公衆衛生学的には極めて優れた予防法です。なにしろ、これまで世界のおよそ100万人が使用して、失敗例は20例に満たないくらいなのですから。100万人に20人ですから、5万人に1人です。つまり、甲子園球場がいっぱいになるほどの人で1人だけが失敗する程度なのです。ある意味、どんなワクチンよりも優れた予防法と言えるかもしれません。

 しかしながら、世界中のおよそ100万人がPrEPの存在に感謝していたとしても、自分自身が失敗したその20人に入ってしまいHIVに感染していたとすれば、とても優れた予防法などとは言えないわけです。そもそも、HIV感染症というのは「絶対にかかりたくない感染症」ではなかったでしょうか。新型コロナのように「できれば避けたいけれど絶対に防がねばならないわけではない感染症」ではありません。であるならば、5万人に1人が失敗するというこの事実はどのように受け止めるべきでしょうか。

 特に(デイリーPrEPではなく)「オンデマンドPrEP」には要注意です。昨年(2023年)12月、シンガポールでのオンデマンドPrEPの4つの失敗例が報告されました。次の4つの事例で、使用していたPrEPは全例でTDF/FTC(先発品の名前は「ツルバダ」)です。尚、オンデマンドPrEPの正しい使用法は「性行為の2~24時間前に2錠、最初の服用の24時間後に1錠、2回目の服用の24時間後に1錠、合計4錠服用」です。

ケース1:30代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒、C型肝炎ウイルス
ケース2:50代男性 正確な使用法順守 合併症:梅毒
ケース3:40代男性 性行為前2錠+最初の服用の24時間後に2錠 合併症:梅毒、B型肝炎ウイルス
ケース4:30代男性 性行為前1錠+性行為後1錠 合併症:梅毒

 ケース4は性行為の前後で1錠ずつしか飲んでいないわけですから感染しても無理はありません。ケース3については、使用法を正確に順守していないとはいえ、内服の総量(合計4錠)は変わりがないわけですし、3回内服すべきスケジュールの最後がいわば前倒しになった(遅れたわけではない)だけですから、この程度の時間のずれで失敗してしまうリスクが浮き彫りになったと言えるでしょう。

 また、ケース1トケース2は服用の仕方が間違っていたわけではありません。つまり、オンデマンドPrEPの成功率は決して高くないと考えるべきなのです。正確にいえば数字で示される成功率はそれなりに高いでしょうが、「絶対に感染したくない感染症」という前提で考えれば安心できる予防法とは必ずしも言えないでしょう。実際、米国FDAは昔も今も「デイリーPrEPがFDAの承認する唯一の予防法」としているのです。

 次に「合併症」について考えてみましょう。HIVのPrEPは当然のごとくHIVしか防げません。理論的にはツルバダの成分でHBV(B型肝炎ウイルス)も予防できる可能性がありますが、HIVに比べて感染力が桁違いに強いHBVに対してどこまで有効かは分かりません。セクシャルアクティビティが高い人たちはたいていHBVのワクチン接種を済ませて抗体形成を確認していますが、ときどき未接種の人(または抗体形成を確認していない人)がいます。

 ケース1~4の全員が梅毒に感染していました。梅毒は簡単に治療できる感染症ですし、ワクチンがなくコンドームでも防げませんから「感染すれば治す」を徹底していればあまり問題にはなりません。問題はケース1の男性が感染したC型肝炎ウイルス(以下HCV)です。現在DAA(直接作用型抗ウィルス剤)と呼ばれる飲み薬が開発され、HCVは「治る病気」となりました。しかし、治療費は総額700万円くらいはかかる大変高価なものです(所得に応じて補助が出ますから日本の保険証を持っている限り治療を受けることはできますが)。それに治療失敗の可能性がゼロではありませんし、再感染もあります(谷口医院の患者さんにも再感染した人がいます)。そして、HIVとは別の感染症ですから、当然HIVのPrEPで予防できるわけではありません。「PrEP実施者はHIVには感染しなかったがHCV感染が増えた」とする欧州からの報告もあります。

 HIVのPrEPには当然副作用もあります。そして、長期で内服すればするほどその副作用のリスクが上昇します。「他院で処方されていたけれどこれからは谷口医院でPrEPを希望する」という人に尋ねてみると、興味深いことに「腎臓が悪くなるかもしれないんですよね」とは言われるのですが、骨量低下については知っている人がほとんどいません。

 PrEP(の特に長期服用)による骨量低下は侮ってはいけません。「米国のPrEP服用者の3%に骨粗鬆症が起こっていた」とする論文もあります。3%を甘くみてはいけません。なぜならこの研究は米国人が対象だからです。一般に骨粗鬆症はやせている人に起こりやすいのです。米国人と日本人では体重がまったく異なります。実際、この研究では、「やせ型(BMI<18.5)の場合、標準体重に比べて骨粗鬆症のリスクが3.95倍に上昇」していたことが分かったのです。

 最後に、私が考えるPrEPの最大の注意点を述べておきたいと思います。それは「PrEPはHIV陽性者を傷つける」ということです。U=U(ユー・イコールズ・ユーと読みます)が次第に広く知れ渡るようになり、「抗HIV薬を飲んでいればコンドームなしでも他人に感染させない」が常識になりました。以前は、HIV陽性者のパートナーはPrEPが推奨されていましたが、U=Uが正しいことが分かっている現在ではPrEPはすでに不要のはずです。にもかかわらず、PrEPを社会が推奨すれば、HIV陽性者は「じゃあU=Uって何なんだ? コンドームなしでもうつさないのになんで社会はPrEPを勧めるんだ?!」と感じるわけです。

 これらをすべて踏まえた上でPrEPを検討すべきなのです。