GINAと共に
第165回(2020年3月) 新型コロナ騒動で分かったタイ人の変化
新型コロナウイルス(以下「COVID-19」)の世界的流行を受けて、タイ政府は2020年3月26日、感染の蔓延を防ぐため、タイ全土に非常事態を宣言しました。外国人(もちろん日本人を含む)の入国を原則禁止し、高齢者らの自宅待機や県境を越える移動の自粛などが求められることになるそうです。
非常事態宣言が出されるだろうという話はすでに3月中旬から盛んに噂されるようになっていました。また、タイ航空を始めとするタイの航空会社は比較的早い段階で「健康であることを示す証明書」を求めるようになっていました。当初は「新型コロナウイルスに感染していないことを証明するもの」が必要と言われていたのですが、日本では今もごく限られた人にしか検査(PCR)を受けることが許されていないためこれは不可能です。
一部、中国などで使われている簡易キットを取り入れている医療機関があるようですが、この検査は精度が高いとは言えず、検査で陰性であっても感染していないとは言えません。そこで結局、陰性という検査結果がなくても医師が健康であることを証明すればいいということになりました。これをタイ(領事館及び航空会社)は「fit to fly health certificate」と呼んでいます。
その証明書を求めて3月中旬から、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)に大勢のタイ人が来院しています。谷口医院では、オープンした2007年からタイ人の患者さんがコンスタントに受診していますが、これだけ大勢のタイ人が短期間にやってきたのは開院以来初めてです。多い日は1日10人以上のタイ人が来ています。
ここ数年間は繁華街でタイ語を耳にする機会が増えていましたから、観光で訪れるタイ人が増えているなという実感はあったのですが、日本で1日に10人以上のタイ人と会話することなどこれまでありませんでした。そして、あらためてタイという国が、そしてタイ人が変わったなと思わずにはいられません。
2006年のある日、タイのある大学の公衆衛生学の助教授からメールが入りました。「翌年(2007年)に京都で開催される国際学会で発表することが決まったのだけれどビザがおりない。そこで保証人になってもらえないか」という内容でした。偶然にも私自身もその国際学会で発表する予定があったこともあり、二つ返事で引き受けました。そして、何枚もの複雑な書類を作成することになりました。私が医師であることを証明する書類や、私自身の経歴の詳細を記載した書類の提出も求められました。率直に言うと、二度とやりたくない面倒くさい手続きでした。
なぜここまでやらないといけなかったのか。おそらく「素行のよくない」タイ人を入国させることを日本が嫌っていたからでしょう。しかし、この助教授はタイの由緒ある大学で教鞭をとっており、来日の目的は国際学会での発表なのです。
さらに驚いたのは、助教授が宿泊したホテルです。京都の路地裏にある一応ビジネスホテルとは呼べますが、狭くて決して清潔とは言えないようなおそらく一泊3千円くらいのホテルなのです。谷口医院を開院する前の2005年から2006年頃、私は繰り返しタイに渡航しエイズ施設を訪れ、また一般のタイ人からも取材をしていました。当時よくタイ人から「普通のタイ人は一生の間、日本のような国に行けることはない」と聞いていました。
ところがそれからおよそ15年がたった2020年、タイ人はまるで週末に近場に旅行に行くような感覚で日本に来ています。この1~2週間で谷口医院にやってきた数十人のタイ人を私なりに3つのグループに分類すると次のようになります。
#1 日本の大学、大学院、専門学校で学んで卒業したタイ人。または日本の企業で数年間働いていたタイ人。
彼(女)らのなかには驚くほど日本語ができる人もいます。しかも、多くのタイ人が苦手な「shi」や「tsu」の発音をスムーズにできる人も少なくありません。日本人の日本語と区別がつかないような人すらいます。さらに驚かされるのが、日本人と変わらないレベルで日本語のメールを送ってくるタイ人もいたことです。漢字はもちろん助詞も正確に使っているのです。
日本語があまりできないという人もなかにはいますが、そういう人たちは例外なく英語ができます。その英語はきちんとした英語で、「セイム・セイム」(タイに詳しい人なら分かってもらえると思います)のようなタイ人独特の英語ではありません。彼(女)らをみていると、タイは日本よりもはるかにグローバル化が進んだ先進国のようにすら思えます。
#2 いわゆる「就労生」
東南アジアからの「就労生」といえば、(関西では)ここ数年はベトナムからやってくる若者が圧倒的に多く、私自身はタイ人の就労生が存在することすら知りませんでした。谷口医院を受診したタイ人で言えば、全員が男性で英語ができたタイ人はひとりもいません。日本語のレベルは様々で、ある程度の日常会話ができる人がいる一方で、ほとんど話せない人もいました。日本語も英語もできずによくやってこれたなと思いますが、ベトナムからの就労生もこういう若者が少なくありません。ちなみに、日本語も英語もできない若いタイ人に「タムガーン・アライ(仕事は何?)」と聞くと「ゲンバ・チ(シ)ゴト」という言葉が返って来てこれが彼の話した唯一の日本語でした。
この若い男性、始終ニコニコして人なつっこい印象(つまり典型的なタイ人の印象)があり、たまたまそのときは少し時間に余裕があったこともあり「ペン・コン・ジャンワット・アライ(出身県はどこですか?」と尋ねると「サコンナコーン(県)」という答えが返ってきたので、「イヌを食べたことある?」と聞くと、大爆笑していました。イサーン地方にある同県は犬を食べることで有名だからです。ただし私はこれまで同県出身者に何度か尋ねたことがありますが「食べたことがある」という人にお目にかかったことがありません。「私のおじさんが食べていた」という話ならあります。ちなみに、「犬を食べたことがあるか」というこの質問、女性にはすべきではありません。私は一度タイである女性に冗談で言ったところ気分を害されてしまいました......。
#3 短期の旅行客
カップルでの旅行、友達との旅行、家族旅行といろんなパターンがありました。彼(女)らは日本語はほとんどできず、英語もいわゆるタイ人の英語、つまり、時制なし、冠詞なし、発音はタイ語のイントネーションの英語です。ホテルや訪問先を事細かく尋ねるようなことはできませんが、高級ホテルに宿泊している若者が多いことに驚かされました。
上記#1、#2、#3のいずれのパターンも、時間があれば出身県とニックネーム(チュー・レン)を聞いてみました。このようなことを聞かれるとは彼(女)らは思っていないので、とても驚かれますがその後のコミュニケーションがスムーズになります。これは医師患者関係でなくとも、タイ人と仲良くなる時の基本だと私は思っています。
今月診察した数十人を振り返ると、出身は南部、中央部、北部、イサーン地方のいずれの地域もありました(南部は少なかった)。出身地で見る目を変えてはいけないのはポリティカル・コレクトネスとしては正しいわけですが、(以前の)タイをある程度知った者からすれば、イサーン地方出身の若者が短期旅行で日本を訪れ、しかも高級ホテルに泊まっているという事実は俄かには信じがたいことです。
15年近く前のこととはいえ、先述した大学の助教授のビザ申請のために私の医師免許が必要だったことが嘘のようです。日本とタイの「差」などもはやほとんどないのかもしれません。
GINAが支援しているタイのいくつかのエイズ施設の現状はそう大きく変わっていないように思えるのですが、将来的には支援の矛先を変更すべきかもしれない......。短期間に数十人のタイ人と話してそのように感じました。
非常事態宣言が出されるだろうという話はすでに3月中旬から盛んに噂されるようになっていました。また、タイ航空を始めとするタイの航空会社は比較的早い段階で「健康であることを示す証明書」を求めるようになっていました。当初は「新型コロナウイルスに感染していないことを証明するもの」が必要と言われていたのですが、日本では今もごく限られた人にしか検査(PCR)を受けることが許されていないためこれは不可能です。
一部、中国などで使われている簡易キットを取り入れている医療機関があるようですが、この検査は精度が高いとは言えず、検査で陰性であっても感染していないとは言えません。そこで結局、陰性という検査結果がなくても医師が健康であることを証明すればいいということになりました。これをタイ(領事館及び航空会社)は「fit to fly health certificate」と呼んでいます。
その証明書を求めて3月中旬から、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)に大勢のタイ人が来院しています。谷口医院では、オープンした2007年からタイ人の患者さんがコンスタントに受診していますが、これだけ大勢のタイ人が短期間にやってきたのは開院以来初めてです。多い日は1日10人以上のタイ人が来ています。
ここ数年間は繁華街でタイ語を耳にする機会が増えていましたから、観光で訪れるタイ人が増えているなという実感はあったのですが、日本で1日に10人以上のタイ人と会話することなどこれまでありませんでした。そして、あらためてタイという国が、そしてタイ人が変わったなと思わずにはいられません。
2006年のある日、タイのある大学の公衆衛生学の助教授からメールが入りました。「翌年(2007年)に京都で開催される国際学会で発表することが決まったのだけれどビザがおりない。そこで保証人になってもらえないか」という内容でした。偶然にも私自身もその国際学会で発表する予定があったこともあり、二つ返事で引き受けました。そして、何枚もの複雑な書類を作成することになりました。私が医師であることを証明する書類や、私自身の経歴の詳細を記載した書類の提出も求められました。率直に言うと、二度とやりたくない面倒くさい手続きでした。
なぜここまでやらないといけなかったのか。おそらく「素行のよくない」タイ人を入国させることを日本が嫌っていたからでしょう。しかし、この助教授はタイの由緒ある大学で教鞭をとっており、来日の目的は国際学会での発表なのです。
さらに驚いたのは、助教授が宿泊したホテルです。京都の路地裏にある一応ビジネスホテルとは呼べますが、狭くて決して清潔とは言えないようなおそらく一泊3千円くらいのホテルなのです。谷口医院を開院する前の2005年から2006年頃、私は繰り返しタイに渡航しエイズ施設を訪れ、また一般のタイ人からも取材をしていました。当時よくタイ人から「普通のタイ人は一生の間、日本のような国に行けることはない」と聞いていました。
ところがそれからおよそ15年がたった2020年、タイ人はまるで週末に近場に旅行に行くような感覚で日本に来ています。この1~2週間で谷口医院にやってきた数十人のタイ人を私なりに3つのグループに分類すると次のようになります。
#1 日本の大学、大学院、専門学校で学んで卒業したタイ人。または日本の企業で数年間働いていたタイ人。
彼(女)らのなかには驚くほど日本語ができる人もいます。しかも、多くのタイ人が苦手な「shi」や「tsu」の発音をスムーズにできる人も少なくありません。日本人の日本語と区別がつかないような人すらいます。さらに驚かされるのが、日本人と変わらないレベルで日本語のメールを送ってくるタイ人もいたことです。漢字はもちろん助詞も正確に使っているのです。
日本語があまりできないという人もなかにはいますが、そういう人たちは例外なく英語ができます。その英語はきちんとした英語で、「セイム・セイム」(タイに詳しい人なら分かってもらえると思います)のようなタイ人独特の英語ではありません。彼(女)らをみていると、タイは日本よりもはるかにグローバル化が進んだ先進国のようにすら思えます。
#2 いわゆる「就労生」
東南アジアからの「就労生」といえば、(関西では)ここ数年はベトナムからやってくる若者が圧倒的に多く、私自身はタイ人の就労生が存在することすら知りませんでした。谷口医院を受診したタイ人で言えば、全員が男性で英語ができたタイ人はひとりもいません。日本語のレベルは様々で、ある程度の日常会話ができる人がいる一方で、ほとんど話せない人もいました。日本語も英語もできずによくやってこれたなと思いますが、ベトナムからの就労生もこういう若者が少なくありません。ちなみに、日本語も英語もできない若いタイ人に「タムガーン・アライ(仕事は何?)」と聞くと「ゲンバ・チ(シ)ゴト」という言葉が返って来てこれが彼の話した唯一の日本語でした。
この若い男性、始終ニコニコして人なつっこい印象(つまり典型的なタイ人の印象)があり、たまたまそのときは少し時間に余裕があったこともあり「ペン・コン・ジャンワット・アライ(出身県はどこですか?」と尋ねると「サコンナコーン(県)」という答えが返ってきたので、「イヌを食べたことある?」と聞くと、大爆笑していました。イサーン地方にある同県は犬を食べることで有名だからです。ただし私はこれまで同県出身者に何度か尋ねたことがありますが「食べたことがある」という人にお目にかかったことがありません。「私のおじさんが食べていた」という話ならあります。ちなみに、「犬を食べたことがあるか」というこの質問、女性にはすべきではありません。私は一度タイである女性に冗談で言ったところ気分を害されてしまいました......。
#3 短期の旅行客
カップルでの旅行、友達との旅行、家族旅行といろんなパターンがありました。彼(女)らは日本語はほとんどできず、英語もいわゆるタイ人の英語、つまり、時制なし、冠詞なし、発音はタイ語のイントネーションの英語です。ホテルや訪問先を事細かく尋ねるようなことはできませんが、高級ホテルに宿泊している若者が多いことに驚かされました。
上記#1、#2、#3のいずれのパターンも、時間があれば出身県とニックネーム(チュー・レン)を聞いてみました。このようなことを聞かれるとは彼(女)らは思っていないので、とても驚かれますがその後のコミュニケーションがスムーズになります。これは医師患者関係でなくとも、タイ人と仲良くなる時の基本だと私は思っています。
今月診察した数十人を振り返ると、出身は南部、中央部、北部、イサーン地方のいずれの地域もありました(南部は少なかった)。出身地で見る目を変えてはいけないのはポリティカル・コレクトネスとしては正しいわけですが、(以前の)タイをある程度知った者からすれば、イサーン地方出身の若者が短期旅行で日本を訪れ、しかも高級ホテルに泊まっているという事実は俄かには信じがたいことです。
15年近く前のこととはいえ、先述した大学の助教授のビザ申請のために私の医師免許が必要だったことが嘘のようです。日本とタイの「差」などもはやほとんどないのかもしれません。
GINAが支援しているタイのいくつかのエイズ施設の現状はそう大きく変わっていないように思えるのですが、将来的には支援の矛先を変更すべきかもしれない......。短期間に数十人のタイ人と話してそのように感じました。
第164回(2020年2月) エロティシズムを克服する方法
抑えられない性欲はどうすればいいのか。つまり身体の奥から湧き出てくるエロティシズムにはどう向き合うべきなのか。まず初めに、前回述べたことをまとめておきましょう。
・特定のパートナーとの間に「愛情」は長く続いたとしても「エロティシズム」はやがて色あせていく
・エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に比例する
・非日常の極限は「死」である。よって澁澤龍彦が指摘したように「情死」は最高のエロティシズムである。
・非日常的な体験のなかで最も現実的なもののひとつが「不倫」である。不倫の初期は極めて高度なエロティシズムが体験できる。しかし、やがて色あせていく。
同じ刺激でエロティシズムが長続きしないのは分子生物学的にもある程度あきらかになっています。恋愛初期のドキドキ感を自覚しているときには脳内にドーパミンやノルアドレナリンといった「興奮系」の神経伝達物質の分泌量が増えます。数か月たてばこういった物質が減少しますが、代わってオキシトシンを中心としたいわば「安心系」の物質が多量に分泌されるようになります。こういうとき人は穏やかで平和的な気持ちになり幸福感に包まれます。まだこの時期においては多少の"誘惑"があったとしてもその幸福感の強度の方が大きいために「浮気」へ進行する可能性が低いのです。
初めてこういった「恋愛の分子生物学」をまとめ上げたのが米国の人類学者ヘレン・フィッシャーで、1993年の著書『Anatomy of Love』(邦題『愛はなぜ終わるのか』)は世界中でベストセラーとなりました。世界の多くの地域で「人間は4年で離婚する」という共通点があることを明らかにし、さらに分子生物学的な観点から神経伝達物質の分泌との関連に言及したこの著作は世界中の大勢の人々を魅了しました。
前回からのテーマは「抑えられない性欲=エロティシズムにはどう対処すればいいのか」ということでした。今までの議論では不倫も含めた恋愛の初期、あるいは恋愛ではなくとも異性(または同性)と出会ったばかりの時点で感じるエロティシズムについて述べてきました。では、人は自分の好みの異性(または同性)と出会えばいつもエロティシズムを感じるのでしょうか。
2019年12月、中国の武漢市で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に日本を含む世界中に広がりました。SARSやMERSほどではないにせよ、中国では若い医師が犠牲になっていることからも分かるように、決してあなどってはいけない感染症です。実際、新型コロナウイルスのせいで入国制限、入国拒否、各種イベントの中止などが起こり、現在も終息する様子はありません。
さて、このような情勢のなか、出会ったばかりの他人と性行為が持てるでしょうか。新型コロナウイルスは軽症者からも重症者と同じ程度の量のウイルスが検出されることがわかっています。つまり、キスをしただけでも無症状の相手からあなたにこの病原体が感染する可能性があるわけです。
運命と出会えるような人と出会ったならば気にならない、という人もいるかもしれません。では、感染力が新型コロナウイルスと同様で、やはり軽症もしくは無症状の人もいて、しかし致死率がMERSと同様30%にもなる感染症が仮に流行していたとしましょう。それでも、あなたは出会ったばかりの他人と性交渉を持つでしょうか。
現在新型コロナウイルス対策として、出勤を禁止しテレワークのみとしている企業が増えてきています。電車に乗ること自体がリスクになるからです。すでに出会ってしまったのならともかく、このような時期に新たなセックスの相手を探そうと街に繰り出す人はほとんどいないのではないでしょうか。つまり、私が言いたいのは「エロティシズムは安全が担保された状態でなければ生まれない」ということです。
マズローの欲求段階説によると、新型コロナウイルスから身を守りたいという欲求は第2段階の「安全への欲求」に相当します。エロティシズムがどの欲求にカテゴライズされるかは議論が分かれるかもしれません。第1段階の「生理的欲求」に入るとする意見があるかもしれませんが、私はこれを否定します。マズローの言う生理的欲求というのは、食欲や睡眠欲、排尿・排便の欲求といったもっと原始的なものであり、パートナーと別れるつもりはないのに他人にエロティシズムを見出すのは、少なくとも「安全」が確保されていることが前提となります。よってエロティシズムは第2段階の安全への欲求よりは後に生じる欲求ということになります。
マズローの欲求段階説の第3の欲求は「社会的欲求」(他人とつながっていたい欲求)、第4がいわゆる「承認欲求」(目立ちたい、認められたい)、そして第5が「自己実現の欲求」です。エロティシズムはどこにも該当しないように思えます。マズローの欲求段階説は半世紀以上に渡り支持されており、もはや「社会学の基本」のような扱いを受けていますが、誰もが襲われることのある抑えがたいエロティシズムはマズローの欲求段階説のいわば「圏外」にあるというのが私の考えです。
話を戻しましょう。確認しておきたいのは、エロティシズムが生まれるのはマズローの欲求段階説で言えば、少なくとも生理的欲求と安全の欲求が満たされていなければならず、さらにたいていは社会的欲求の方が先にきます。エロティシズムを追求するよりも、パートナーや友達が欲しいと思う人の方が多いのではないでしょうか。いずれにしても私が主張したいことは、「エロティシズムを求めたくなるのは基本的な欲求が満たされているときのみ」ということです。したがって、そのエロティシズムを追求することで、"安全"を失うリスクがある可能性は初めから考えておくべきでしょう。例えば不倫で社会的地位や家族を失い、仕事もなくし......、といったことです。
次に発想を180度転換してマズローの欲求段階説を逆からみてみましょう。マズローが最高とした自己実現の欲求が満たされている人もエロティシズムを追求するでしょうか。日本のエロティシズムの大家である澁澤龍彦は(少なくとも初期には)「イエス」と言ったでしょうし、自己実現を達成した人のなかには強烈なエロティシズムを求めている人もいるかもしれません。
ですが、私個人の意見としては、マズロー説が正しいかどうかは別にして、自己実現の欲求(のようなもの)が満たされていれば強烈なエロティシズムは起こらない、つまり非生産的な性欲に捉われないことがあると考えています。実際、前回も述べたように、澁澤龍彦でさえも女性と結婚し"普通の"人生をまっとうされたわけです。では、なぜあれほどまでにエロティシズムにこだわった澁澤龍彦は、そのエロティシズムを追求し自らが「究極のエロティシズム」と称した情死を目指さなかったのでしょうか。
この理由として私はこう考えています。澁澤龍彦の場合、エロティシズムに関する文献を集め、自身の著作を多数発表し、エロティシズムの第一人者と呼ばれることで自らのエロティシズムを満たしていたのではないか、と。
私自身のことにも少し触れておきましょう。実は私自身もいつの頃からかエロティシズムというものにはほとんど興味が湧きません。おそらくその最大の理由がこのサイトをつくるきっかけにもなったタイでのエイズ施設でのボランティアの経験です。当時タイには治療薬がなく、HIVに感染すれば死を待つしかありませんでした。感染者はいわれなき差別を受け、死へのモラトリアムを静かに過ごしていました。感染経路は、薬物の静脈注射や売買春が多数です。親に売られて売春をさせられて感染した幼い男女もみてきました。何人もの元薬物常用者や元セックスワーカーの話を聞くことになりました。
なぜ私はエロティシズムに興味が湧かないか。それはエロティシズム以上に非日常的な現実を経験したからではないかと思っています。エイズという病の奥深さ、悲惨さをみて、死がすぐそこにある世界に身を置いていたその頃の体験を振り返ると、エロティシズムがなんだかつまらないものに思えてくるのです。
ところで、芸術家は性的に奔放だと言われることがあります。たしかにそのような人も大勢いるのでしょうし、性的な経験が作品につながるということもあるでしょう。ですが、私はすべての芸術家がそうではないと思っています。芸術の世界も非日常です。それがなくても生きていく上ではまったく困らないわけですから。その「非日常」に没頭している人のいくらかはエロティシズムに興味を持っていないのではないかと私には思えるのです。
完全な私見であり説得力がないかもしれませんが、性欲がおさえられない=エロティシズムに心が奪われている、という人に私が助言するとすれば、「芸術や、私が体験したようなボランティアといった非日常的なもので、なおかつ他人に迷惑をかけないもの(社会に貢献できる可能性があるものであれば尚よい)を見つけてみませんか」、ということです。
これが現時点で私が考えるエロティシズムを克服する方法です。ただし、エロティシズムの追求が病的なところまで進んでいる場合には今私が述べたことなどまったく役に立たないでしょう。近いうちにそのことを述べたいと思います。
・特定のパートナーとの間に「愛情」は長く続いたとしても「エロティシズム」はやがて色あせていく
・エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に比例する
・非日常の極限は「死」である。よって澁澤龍彦が指摘したように「情死」は最高のエロティシズムである。
・非日常的な体験のなかで最も現実的なもののひとつが「不倫」である。不倫の初期は極めて高度なエロティシズムが体験できる。しかし、やがて色あせていく。
同じ刺激でエロティシズムが長続きしないのは分子生物学的にもある程度あきらかになっています。恋愛初期のドキドキ感を自覚しているときには脳内にドーパミンやノルアドレナリンといった「興奮系」の神経伝達物質の分泌量が増えます。数か月たてばこういった物質が減少しますが、代わってオキシトシンを中心としたいわば「安心系」の物質が多量に分泌されるようになります。こういうとき人は穏やかで平和的な気持ちになり幸福感に包まれます。まだこの時期においては多少の"誘惑"があったとしてもその幸福感の強度の方が大きいために「浮気」へ進行する可能性が低いのです。
初めてこういった「恋愛の分子生物学」をまとめ上げたのが米国の人類学者ヘレン・フィッシャーで、1993年の著書『Anatomy of Love』(邦題『愛はなぜ終わるのか』)は世界中でベストセラーとなりました。世界の多くの地域で「人間は4年で離婚する」という共通点があることを明らかにし、さらに分子生物学的な観点から神経伝達物質の分泌との関連に言及したこの著作は世界中の大勢の人々を魅了しました。
前回からのテーマは「抑えられない性欲=エロティシズムにはどう対処すればいいのか」ということでした。今までの議論では不倫も含めた恋愛の初期、あるいは恋愛ではなくとも異性(または同性)と出会ったばかりの時点で感じるエロティシズムについて述べてきました。では、人は自分の好みの異性(または同性)と出会えばいつもエロティシズムを感じるのでしょうか。
2019年12月、中国の武漢市で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に日本を含む世界中に広がりました。SARSやMERSほどではないにせよ、中国では若い医師が犠牲になっていることからも分かるように、決してあなどってはいけない感染症です。実際、新型コロナウイルスのせいで入国制限、入国拒否、各種イベントの中止などが起こり、現在も終息する様子はありません。
さて、このような情勢のなか、出会ったばかりの他人と性行為が持てるでしょうか。新型コロナウイルスは軽症者からも重症者と同じ程度の量のウイルスが検出されることがわかっています。つまり、キスをしただけでも無症状の相手からあなたにこの病原体が感染する可能性があるわけです。
運命と出会えるような人と出会ったならば気にならない、という人もいるかもしれません。では、感染力が新型コロナウイルスと同様で、やはり軽症もしくは無症状の人もいて、しかし致死率がMERSと同様30%にもなる感染症が仮に流行していたとしましょう。それでも、あなたは出会ったばかりの他人と性交渉を持つでしょうか。
現在新型コロナウイルス対策として、出勤を禁止しテレワークのみとしている企業が増えてきています。電車に乗ること自体がリスクになるからです。すでに出会ってしまったのならともかく、このような時期に新たなセックスの相手を探そうと街に繰り出す人はほとんどいないのではないでしょうか。つまり、私が言いたいのは「エロティシズムは安全が担保された状態でなければ生まれない」ということです。
マズローの欲求段階説によると、新型コロナウイルスから身を守りたいという欲求は第2段階の「安全への欲求」に相当します。エロティシズムがどの欲求にカテゴライズされるかは議論が分かれるかもしれません。第1段階の「生理的欲求」に入るとする意見があるかもしれませんが、私はこれを否定します。マズローの言う生理的欲求というのは、食欲や睡眠欲、排尿・排便の欲求といったもっと原始的なものであり、パートナーと別れるつもりはないのに他人にエロティシズムを見出すのは、少なくとも「安全」が確保されていることが前提となります。よってエロティシズムは第2段階の安全への欲求よりは後に生じる欲求ということになります。
マズローの欲求段階説の第3の欲求は「社会的欲求」(他人とつながっていたい欲求)、第4がいわゆる「承認欲求」(目立ちたい、認められたい)、そして第5が「自己実現の欲求」です。エロティシズムはどこにも該当しないように思えます。マズローの欲求段階説は半世紀以上に渡り支持されており、もはや「社会学の基本」のような扱いを受けていますが、誰もが襲われることのある抑えがたいエロティシズムはマズローの欲求段階説のいわば「圏外」にあるというのが私の考えです。
話を戻しましょう。確認しておきたいのは、エロティシズムが生まれるのはマズローの欲求段階説で言えば、少なくとも生理的欲求と安全の欲求が満たされていなければならず、さらにたいていは社会的欲求の方が先にきます。エロティシズムを追求するよりも、パートナーや友達が欲しいと思う人の方が多いのではないでしょうか。いずれにしても私が主張したいことは、「エロティシズムを求めたくなるのは基本的な欲求が満たされているときのみ」ということです。したがって、そのエロティシズムを追求することで、"安全"を失うリスクがある可能性は初めから考えておくべきでしょう。例えば不倫で社会的地位や家族を失い、仕事もなくし......、といったことです。
次に発想を180度転換してマズローの欲求段階説を逆からみてみましょう。マズローが最高とした自己実現の欲求が満たされている人もエロティシズムを追求するでしょうか。日本のエロティシズムの大家である澁澤龍彦は(少なくとも初期には)「イエス」と言ったでしょうし、自己実現を達成した人のなかには強烈なエロティシズムを求めている人もいるかもしれません。
ですが、私個人の意見としては、マズロー説が正しいかどうかは別にして、自己実現の欲求(のようなもの)が満たされていれば強烈なエロティシズムは起こらない、つまり非生産的な性欲に捉われないことがあると考えています。実際、前回も述べたように、澁澤龍彦でさえも女性と結婚し"普通の"人生をまっとうされたわけです。では、なぜあれほどまでにエロティシズムにこだわった澁澤龍彦は、そのエロティシズムを追求し自らが「究極のエロティシズム」と称した情死を目指さなかったのでしょうか。
この理由として私はこう考えています。澁澤龍彦の場合、エロティシズムに関する文献を集め、自身の著作を多数発表し、エロティシズムの第一人者と呼ばれることで自らのエロティシズムを満たしていたのではないか、と。
私自身のことにも少し触れておきましょう。実は私自身もいつの頃からかエロティシズムというものにはほとんど興味が湧きません。おそらくその最大の理由がこのサイトをつくるきっかけにもなったタイでのエイズ施設でのボランティアの経験です。当時タイには治療薬がなく、HIVに感染すれば死を待つしかありませんでした。感染者はいわれなき差別を受け、死へのモラトリアムを静かに過ごしていました。感染経路は、薬物の静脈注射や売買春が多数です。親に売られて売春をさせられて感染した幼い男女もみてきました。何人もの元薬物常用者や元セックスワーカーの話を聞くことになりました。
なぜ私はエロティシズムに興味が湧かないか。それはエロティシズム以上に非日常的な現実を経験したからではないかと思っています。エイズという病の奥深さ、悲惨さをみて、死がすぐそこにある世界に身を置いていたその頃の体験を振り返ると、エロティシズムがなんだかつまらないものに思えてくるのです。
ところで、芸術家は性的に奔放だと言われることがあります。たしかにそのような人も大勢いるのでしょうし、性的な経験が作品につながるということもあるでしょう。ですが、私はすべての芸術家がそうではないと思っています。芸術の世界も非日常です。それがなくても生きていく上ではまったく困らないわけですから。その「非日常」に没頭している人のいくらかはエロティシズムに興味を持っていないのではないかと私には思えるのです。
完全な私見であり説得力がないかもしれませんが、性欲がおさえられない=エロティシズムに心が奪われている、という人に私が助言するとすれば、「芸術や、私が体験したようなボランティアといった非日常的なもので、なおかつ他人に迷惑をかけないもの(社会に貢献できる可能性があるものであれば尚よい)を見つけてみませんか」、ということです。
これが現時点で私が考えるエロティシズムを克服する方法です。ただし、エロティシズムの追求が病的なところまで進んでいる場合には今私が述べたことなどまったく役に立たないでしょう。近いうちにそのことを述べたいと思います。
第163回(2020年1月) エロティシズムにどう向き合うべきか
GINAのこのサイトを公開したのは2006年の7月ですから今年で14年たつことになります。この間にいろんな立場の人たちからいろんな内容の質問をいただきました。そのなかでコンスタントに寄せられるのが「性欲を抑えられない」という悩みです。
病的に抑えがたい場合は「性依存症」かもしれないという話をしたことがあります(下記コラム参照)。ですが、性依存症の定義にははっきりとしたものがなく、犯罪行為につながるようなあきらかな性依存症がある一方で、「それってちょっと性欲が強いだけじゃないの?」と感じるだけのものもあります。例えば、クリントン元大統領が性依存症と呼べるのか、個人的には疑問に感じています。
「性的指向は特定のパートナーのみにすべきだ」という意見を書いたこともあります(下記コラム参照)。特定のパートナーだけと性行為を持つことは、性感染症の最強の予防法であるだけでなく、最も幸せに近づく方法であると私は考えています。ですが、この単純なことが理解できたとしても、「それは分かっているけれど、それでも性欲を抑えられない」というメール相談が寄せられるわけですから、やはりもう少し踏み込んで検討すべきだと思います。
愛し合うパートナーとの性交渉に勝るものはない、というのが事実であり、パートナーとの性交渉が「最も幸せ」であることには変わりないとしても、性交渉で得られる「エロティシズム」も最高かと問われればこの答えは「NO」でしょう。
なぜなら、エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に相関するからです。セックスのシチュエーションが非日常的であればあるほど興奮度、つまりエロティシズムの度合いが上昇するのは少し想像してみれば明らかです。もちろん性的嗜好には個人差が大きいわけですが、ポルノビデオのタイトルやコピーをみてみればこれは自明です。例えば、教師と生徒、レイプ、痴漢、乱交など、現実の世界ではあり得ないような設定のものが目立ちます。
セックスのシチュエーションが非日常であればあるほど興奮度が高くエロティシズムが強くなるわけで、これを極限までつきつめたもの、つまり非日常の極みは「死」です。ですから「情死」が最高であると考える人は少なくなく、学問としてのエロティシズムを確立させた澁澤龍彦も著書のなかで「情死が理想」というようなことを述べています。
実際、セックスでエクスタシーに達するときに使われる「イク」という言葉は「逝く」から来ているという説もあります(これはたしか栗本慎一郎氏がどこかで書かれていました)。澁澤によれば、かつて吉原の遊女は、客を歓ばすために、行為中、「死にんす、死にんす」ともらしたそうです。英語ではエクスタシーに達するときに「イク(go)」ではなく「come」を用います。これも同じことです。なぜなら、英語では「そちらに向かっている」というときには「go」ではなく「come」を使うからです。例えば電話で「今そちらに向かっています」というときに「I'm coming.」と言います。
ですから、想像のなかでとにかく強い興奮を求めたいということであれば、現実社会ではまずありえないような状況を思い浮かべればいいわけです。先に述べたレイプや乱交など以外にも、各人それぞれ考えてみればそのような想像はできるはずです。
このサイトに「性的衝動が抑えられない」という相談をしてくる人のなかには「パートナーがいて(あるいは結婚していて)、それはとても幸せなんだけれども、パートナーには性欲が湧かず、他人とのセックスがしたくてたまらない」という人がいます(というよりこういう人の方がずっと多いようです)。こういった相談を受けたときに、私が回答しているのは、「出会ったころのワクワク感は薄れているかもしれないが、平和的で安心できる時空間を持てることの方が幸せではないですか」とか「もしも愛する気持ちが薄れてきているのなら、<愛する>という行動をとるチャンスですよ。<好き>とか<セックスしたい>は受動的な心の状態ですが、<愛する>というのは積極的な言動が求められる能動的な行為です」というような内容です。
ですが、そういった方法をいくら述べたところで「死を覚悟した究極のエロティシズム」の"魅力"にはある意味ではかなうはずがありません。例えば、阿部定に殺された不倫相手の男性は定に死ぬまで紐を緩めないように頼んでいたと言われています。おそらくこの男性は窒息死する直前に最高のエクスタシーを感じていたのではないでしょうか。また、不倫相手を窒息させた上、切り取ったペニスを持ち歩いていた定は一見猟奇殺人犯のようですが、出所後は各地で人気者となり大勢のファンがいました。私はこの理由として「愛する者を殺してペニスを持ち歩くことができる定となら最高のエロティシズムが得られる」と無意識的に考えた男性が多かったからではないかとみています。
おそらく「ありそうであり得ない、でもあるかもしれない」エロティシズムを実現しやすいのが「不倫」でしょう。人は不倫を非難しながらもどこかで「最高のエロティシズムが得られるに違いない」と感じているのではないでしょうか。そして、澁澤龍彦が指摘しているように「情死」が究極のエロティシズムなのはおそらく間違いありません。情死には、長年寄り添っていた夫婦の情死というものもあるのかもしれませんが、話題になるのは「不倫など、あってはいけない関係の情死」です。口にする人は少ないでしょうが、不倫相手との性交中の情死、もしくは「失楽園」のような心中がある意味では「究極の愛のかたち」なのかもしれません。
けれども「性欲が抑えられない」と悩んでいる大半の人(相談は男性からの方が多い)のほとんどは情死(心中)を求めているわけではなく、現在のパートナーとの関係も維持したいと考えています。ここで指摘したいのは、パートナーでない新しい相手とのセックスの方が、興奮度が高くなるのは当然であり、それも通常はあり得ないような関係の方がその程度も増すことを理解しなければならないということです。
次に言いたいのは、仮にその関係を手に入れてパートナーとの関係からは得られないエロティシズムを体感できたとしても、やがて時間がたてば色あせていくわけですから、さらなる強い刺激を求めるようになるということです。欲望には際限がないのです。そして、同時にパートナーとの関係を維持しようとすれば無理がでてきます。気が付けばパートナーを失い、社会的信用もなくし、新しい相手との間にあったはずのエロティシズムも色あせてしまっていた、というのがよくある顛末です。
そもそも人間はやりたいことを抑えて生きていかなければならない生き物ではなかったでしょうか。情死を最高の愛の形と断言し、数々のエロティシズムに関する著作を発表し、他界された後もこのジャンルで不動の地位を維持している澁澤龍彦ですら、結婚し"普通の"夫婦生活をされていたわけです。
「性欲が抑えられない」という人に対する解決策はないのか。エロティシズムという観点で考えれば残念ながら決定的なものはありません。なぜならエロティシズムには耐性があるからです。どれだけ非日常な体験であったとしても日がたつにつれてそれは日常化していきます。そして、日常化はエロティシズムから遠ざかることを意味します。
ではどうすればいいのでしょうか。「性欲が抑えられない」という人に対して「性感染症のリスクを知ってもらう」のはいい方法です。ですが、これは積極的に性欲を対処する方法ではありません。「特定のパートナーをもっと愛する」というのは私が最も勧めている方法ではありますが、「それは分かっているけども......」という声をこれまで多数いただいてきました。
ではどうすればいいのか。次回に続きます。
参考:
第89回(2013年11月)「性依存症という病」
第114回(2015年12月)「欺瞞と恐喝と性依存症」
第135回(2017年9月)「性風俗がやめられない人たち」
セイフティ・セックス講座「エピローグ~そして私が一番言いたかったこと~」
病的に抑えがたい場合は「性依存症」かもしれないという話をしたことがあります(下記コラム参照)。ですが、性依存症の定義にははっきりとしたものがなく、犯罪行為につながるようなあきらかな性依存症がある一方で、「それってちょっと性欲が強いだけじゃないの?」と感じるだけのものもあります。例えば、クリントン元大統領が性依存症と呼べるのか、個人的には疑問に感じています。
「性的指向は特定のパートナーのみにすべきだ」という意見を書いたこともあります(下記コラム参照)。特定のパートナーだけと性行為を持つことは、性感染症の最強の予防法であるだけでなく、最も幸せに近づく方法であると私は考えています。ですが、この単純なことが理解できたとしても、「それは分かっているけれど、それでも性欲を抑えられない」というメール相談が寄せられるわけですから、やはりもう少し踏み込んで検討すべきだと思います。
愛し合うパートナーとの性交渉に勝るものはない、というのが事実であり、パートナーとの性交渉が「最も幸せ」であることには変わりないとしても、性交渉で得られる「エロティシズム」も最高かと問われればこの答えは「NO」でしょう。
なぜなら、エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に相関するからです。セックスのシチュエーションが非日常的であればあるほど興奮度、つまりエロティシズムの度合いが上昇するのは少し想像してみれば明らかです。もちろん性的嗜好には個人差が大きいわけですが、ポルノビデオのタイトルやコピーをみてみればこれは自明です。例えば、教師と生徒、レイプ、痴漢、乱交など、現実の世界ではあり得ないような設定のものが目立ちます。
セックスのシチュエーションが非日常であればあるほど興奮度が高くエロティシズムが強くなるわけで、これを極限までつきつめたもの、つまり非日常の極みは「死」です。ですから「情死」が最高であると考える人は少なくなく、学問としてのエロティシズムを確立させた澁澤龍彦も著書のなかで「情死が理想」というようなことを述べています。
実際、セックスでエクスタシーに達するときに使われる「イク」という言葉は「逝く」から来ているという説もあります(これはたしか栗本慎一郎氏がどこかで書かれていました)。澁澤によれば、かつて吉原の遊女は、客を歓ばすために、行為中、「死にんす、死にんす」ともらしたそうです。英語ではエクスタシーに達するときに「イク(go)」ではなく「come」を用います。これも同じことです。なぜなら、英語では「そちらに向かっている」というときには「go」ではなく「come」を使うからです。例えば電話で「今そちらに向かっています」というときに「I'm coming.」と言います。
ですから、想像のなかでとにかく強い興奮を求めたいということであれば、現実社会ではまずありえないような状況を思い浮かべればいいわけです。先に述べたレイプや乱交など以外にも、各人それぞれ考えてみればそのような想像はできるはずです。
このサイトに「性的衝動が抑えられない」という相談をしてくる人のなかには「パートナーがいて(あるいは結婚していて)、それはとても幸せなんだけれども、パートナーには性欲が湧かず、他人とのセックスがしたくてたまらない」という人がいます(というよりこういう人の方がずっと多いようです)。こういった相談を受けたときに、私が回答しているのは、「出会ったころのワクワク感は薄れているかもしれないが、平和的で安心できる時空間を持てることの方が幸せではないですか」とか「もしも愛する気持ちが薄れてきているのなら、<愛する>という行動をとるチャンスですよ。<好き>とか<セックスしたい>は受動的な心の状態ですが、<愛する>というのは積極的な言動が求められる能動的な行為です」というような内容です。
ですが、そういった方法をいくら述べたところで「死を覚悟した究極のエロティシズム」の"魅力"にはある意味ではかなうはずがありません。例えば、阿部定に殺された不倫相手の男性は定に死ぬまで紐を緩めないように頼んでいたと言われています。おそらくこの男性は窒息死する直前に最高のエクスタシーを感じていたのではないでしょうか。また、不倫相手を窒息させた上、切り取ったペニスを持ち歩いていた定は一見猟奇殺人犯のようですが、出所後は各地で人気者となり大勢のファンがいました。私はこの理由として「愛する者を殺してペニスを持ち歩くことができる定となら最高のエロティシズムが得られる」と無意識的に考えた男性が多かったからではないかとみています。
おそらく「ありそうであり得ない、でもあるかもしれない」エロティシズムを実現しやすいのが「不倫」でしょう。人は不倫を非難しながらもどこかで「最高のエロティシズムが得られるに違いない」と感じているのではないでしょうか。そして、澁澤龍彦が指摘しているように「情死」が究極のエロティシズムなのはおそらく間違いありません。情死には、長年寄り添っていた夫婦の情死というものもあるのかもしれませんが、話題になるのは「不倫など、あってはいけない関係の情死」です。口にする人は少ないでしょうが、不倫相手との性交中の情死、もしくは「失楽園」のような心中がある意味では「究極の愛のかたち」なのかもしれません。
けれども「性欲が抑えられない」と悩んでいる大半の人(相談は男性からの方が多い)のほとんどは情死(心中)を求めているわけではなく、現在のパートナーとの関係も維持したいと考えています。ここで指摘したいのは、パートナーでない新しい相手とのセックスの方が、興奮度が高くなるのは当然であり、それも通常はあり得ないような関係の方がその程度も増すことを理解しなければならないということです。
次に言いたいのは、仮にその関係を手に入れてパートナーとの関係からは得られないエロティシズムを体感できたとしても、やがて時間がたてば色あせていくわけですから、さらなる強い刺激を求めるようになるということです。欲望には際限がないのです。そして、同時にパートナーとの関係を維持しようとすれば無理がでてきます。気が付けばパートナーを失い、社会的信用もなくし、新しい相手との間にあったはずのエロティシズムも色あせてしまっていた、というのがよくある顛末です。
そもそも人間はやりたいことを抑えて生きていかなければならない生き物ではなかったでしょうか。情死を最高の愛の形と断言し、数々のエロティシズムに関する著作を発表し、他界された後もこのジャンルで不動の地位を維持している澁澤龍彦ですら、結婚し"普通の"夫婦生活をされていたわけです。
「性欲が抑えられない」という人に対する解決策はないのか。エロティシズムという観点で考えれば残念ながら決定的なものはありません。なぜならエロティシズムには耐性があるからです。どれだけ非日常な体験であったとしても日がたつにつれてそれは日常化していきます。そして、日常化はエロティシズムから遠ざかることを意味します。
ではどうすればいいのでしょうか。「性欲が抑えられない」という人に対して「性感染症のリスクを知ってもらう」のはいい方法です。ですが、これは積極的に性欲を対処する方法ではありません。「特定のパートナーをもっと愛する」というのは私が最も勧めている方法ではありますが、「それは分かっているけども......」という声をこれまで多数いただいてきました。
ではどうすればいいのか。次回に続きます。
参考:
第89回(2013年11月)「性依存症という病」
第114回(2015年12月)「欺瞞と恐喝と性依存症」
第135回(2017年9月)「性風俗がやめられない人たち」
セイフティ・セックス講座「エピローグ~そして私が一番言いたかったこと~」
第162回(2019年12月) 日本エイズ学会に行こう
2019年11月28日、熊本市で開催された日本エイズ学会の学術大会で私は12年ぶりに同学会での発表をおこないました。医師であれば、定期的に何らかの学会発表をする義務があるわけですが、「忙しい」という言い訳をしながら最小限の発表しかしていないのが私の実情です......。
そんななか、日本エイズ学会で重い腰を上げて発表しようと思った理由が「HIV/AIDSという疾患は一般社会で理解されていなだけでなく、我々医療者のなかでも十分に知られていない」という思いがあり、それが次第に強くなってきているからです。苛立たしいというか腹立たしいというか、「今さら何を言っているの?」「なんでそんなこと言うの?」と、一般社会に対してだけでなく医療者にさえ感じざるをえないことがHIV/AIDSについては多数あるわけです。
今回我々が伝えたかったのは「HIVはとても身近な疾患であり、エイズ専門医でなく医療者なら誰もが診なければならない」ということであり、ポイントを2つに絞って発表しました。1つは「HIV感染を見つけるのはエイズ拠点病院ではなくクリニックであること」、もうひとつは「エイズ専門医がおこなう治療は抗HIV薬の選定や重症化したときのフォローが中心であり、日ごろのプライマリ・ケア(総合診療)はクリニックがおこなうべきであること」です。
こういったことはエイズ学会よりも他の学会で発表すべき(実際、そういう発表もしています)なのですが、まずは"同志"であるエイズ学会に参加している人たちに我々が取り組んでいることを知ってもらいたかったというわけです。
私が発表したポイントを掘り下げてここで紹介してもいいのですが、今回このコラムでお伝えしたいのはその内容ではなく、日本エイズ学会という学会の「特徴」です。
私は現在10以上の学会に所属していて、時間が許せば年に一度開催される「学術大会」に参加しています。また、小さな学会や研究会も全国各地で開催されるので月に2~3回はいろんな学会(学術大会)に参加しています。そして、それらいろんな学会の特徴を比較してみると日本エイズ学会は"異色"なのです。たいていの学会は参加者は医師だけであり、他職種や医学生が参加することはあまりありません。若い医師も参加しますが、発表するのはたいていベテランの中高齢の、そして大半は男性の医師です。
ところが日本エイズ学会の学術大会に参加しているのは、職種でみればおそらく医師が最多であるとは思うのですが、歯科医師、看護師、薬剤師、理学療法士、臨床工学技士など他職種も多く、ソーシャルワーカーもかなり大勢来ています。看護学生や医学生も参加しています(学生の参加は以前よりは減っているような気もしますが)。社会活動をしている人やNPO・NGOの参加も目立ちます。sex workerの団体が発表をし、sex workerがフロアから質問や意見を述べる光景というのは他の学会ではまずありません。(これは私見ですが)この点、同じようなテーマを扱う日本性感染症学会の参加者の大半は医師であり、日本エイズ学会とは雰囲気が異なります。
また、日本エイズ学会では患者が登壇し話をします。これは(個人的には)この学会の最大の特徴だと思います。そして、このセッションが(これも私見ですが)一番盛り上がり感動するのです(学会に「感動を求めるな」という声はあるでしょうが)。
私は医学生や研修医から学会参加について意見を求められると、「最もお勧めなのは日本エイズ学会」と話しています。これだけワクワクする学会は他にはないからです。もっとも、すべての医師が私と同じように考えているわけではなく「あんなのは学会とは呼ばない。学会はもっと厳粛であるべきだ」と話す医師がいるのも事実です。
このあたりは医師の考えによると思いますし、私はそのような医師に反論するつもりはありません。ただ、日本エイズ学会のように、医師以外の医療者のみならず、非医療者や患者の参加者も多く、患者が話すセッションが注目される学会もあるんだ、ということは多くの人に知ってもらいたいと考えています。
このサイトを開設したのは2006年ですからはや13年以上がたちます。この間に千人近くの方々からメールをいただきました。比較的多いのがHIV陽性の人たちを支援している人、あるいはこれから支援やボランティアをしようとしている人たちからの相談や質問のメールです。HIV陽性の人からの相談メールも少なくありません。なかには「HIVに感染したかもしれないがどうしたらいいか」という相談も寄せられます。医療者からのメールもあります。GINAを運営していて感じるのは「様々な立場の人が様々なことを考え悩んでいる」ということです。
そして、エイズ学会が他の学会にない盛り上がりを見せる最大の理由がここにあるのではないか、つまり「異なる立場の人々が同じ思いを持っているから」ではないかと私は考えています。医師、歯科医師、看護師、介護師、ソーシャルワーカー、支援団体、ボランティア、sex worker、HIV陽性者では立場がまったく異なり、考えていること、悩んでいることもバラバラです。ですが、HIV感染を減らさなければならない、感染者が差別を受けてはならない、世間にはびこっている偏見やスティグマに立ち向かっていかねばならない、という気持ちは共通しています。こういった共通している思いがあるからこそ他の学会にはない盛り上がりがあるのだと思います。
ところでこれを読まれているあなたはどのような立場の方でしょうか。医療者であったとしてもなかったとしても、HIV陽性であったとしてもなかったとしても、あるいは単に自分自身が「HIVにかかっていたらどうしよう」と考えているだけの人も、エイズ学会への参加を考えてみてはどうでしょうか。参加費は事前登録でも一般(学生以外全員)10,000円、学生5,000円(2019年の場合)と決して安くはありませんし、宿泊費や交通費も用意せねばなりませんから気軽に参加とはいかないかもしれませんが、そのお金と時間に見合うものがきっと得られると思います。ちなみに、私が院長を務める太融寺町谷口医院では慰安旅行も兼ねて今年は熊本に2泊3日で学会に参加しました。
来年(2020年)の日本エイズ学会は11月27~28日(金・土)に幕張で開催されると聞いています(確定かどうかは未確認)。興味のある方は是非とも検討してみてください。
そして、もうひとつHIV/AIDSに興味のある方にお勧めしたいものがあります。それはメーリングリストです。学会と同じように、医療のメーリングリストというのもたいていは医師のみあるいは医療者のみが参加するものなのですが、HIV/AIDSのメーリングリストは特に参加資格が設けられていません。このメーリングリストは医師である高田昇先生が管理されています。関心のある方はこちらを参照してみてください。
改めて考えてみると、医療の主役は患者であるべきであり、最近は多くの疾患でこのことが強調されています。患者を中心に、医師、看護師、薬剤師、理学療法士、作業療法士などがいわばひとつのチームのようになり疾患に向き合っていこうとする考えです。しかし、そうは言っても医師以外の医療者が、まして患者や患者を支援する団体が参加している学会というのは稀です。
先述したように「こんなの学会じゃない」という医師がいるのは事実ですが、日本エイズ学会のこの雰囲気と感動を多くの医師のみならず医師以外の医療者にも、HIV陽性者や陽性者を支援する人たちにも、さらにHIV/AIDSに少しでも関心のある人たちにも伝えていきたい、と考えています。
そんななか、日本エイズ学会で重い腰を上げて発表しようと思った理由が「HIV/AIDSという疾患は一般社会で理解されていなだけでなく、我々医療者のなかでも十分に知られていない」という思いがあり、それが次第に強くなってきているからです。苛立たしいというか腹立たしいというか、「今さら何を言っているの?」「なんでそんなこと言うの?」と、一般社会に対してだけでなく医療者にさえ感じざるをえないことがHIV/AIDSについては多数あるわけです。
今回我々が伝えたかったのは「HIVはとても身近な疾患であり、エイズ専門医でなく医療者なら誰もが診なければならない」ということであり、ポイントを2つに絞って発表しました。1つは「HIV感染を見つけるのはエイズ拠点病院ではなくクリニックであること」、もうひとつは「エイズ専門医がおこなう治療は抗HIV薬の選定や重症化したときのフォローが中心であり、日ごろのプライマリ・ケア(総合診療)はクリニックがおこなうべきであること」です。
こういったことはエイズ学会よりも他の学会で発表すべき(実際、そういう発表もしています)なのですが、まずは"同志"であるエイズ学会に参加している人たちに我々が取り組んでいることを知ってもらいたかったというわけです。
私が発表したポイントを掘り下げてここで紹介してもいいのですが、今回このコラムでお伝えしたいのはその内容ではなく、日本エイズ学会という学会の「特徴」です。
私は現在10以上の学会に所属していて、時間が許せば年に一度開催される「学術大会」に参加しています。また、小さな学会や研究会も全国各地で開催されるので月に2~3回はいろんな学会(学術大会)に参加しています。そして、それらいろんな学会の特徴を比較してみると日本エイズ学会は"異色"なのです。たいていの学会は参加者は医師だけであり、他職種や医学生が参加することはあまりありません。若い医師も参加しますが、発表するのはたいていベテランの中高齢の、そして大半は男性の医師です。
ところが日本エイズ学会の学術大会に参加しているのは、職種でみればおそらく医師が最多であるとは思うのですが、歯科医師、看護師、薬剤師、理学療法士、臨床工学技士など他職種も多く、ソーシャルワーカーもかなり大勢来ています。看護学生や医学生も参加しています(学生の参加は以前よりは減っているような気もしますが)。社会活動をしている人やNPO・NGOの参加も目立ちます。sex workerの団体が発表をし、sex workerがフロアから質問や意見を述べる光景というのは他の学会ではまずありません。(これは私見ですが)この点、同じようなテーマを扱う日本性感染症学会の参加者の大半は医師であり、日本エイズ学会とは雰囲気が異なります。
また、日本エイズ学会では患者が登壇し話をします。これは(個人的には)この学会の最大の特徴だと思います。そして、このセッションが(これも私見ですが)一番盛り上がり感動するのです(学会に「感動を求めるな」という声はあるでしょうが)。
私は医学生や研修医から学会参加について意見を求められると、「最もお勧めなのは日本エイズ学会」と話しています。これだけワクワクする学会は他にはないからです。もっとも、すべての医師が私と同じように考えているわけではなく「あんなのは学会とは呼ばない。学会はもっと厳粛であるべきだ」と話す医師がいるのも事実です。
このあたりは医師の考えによると思いますし、私はそのような医師に反論するつもりはありません。ただ、日本エイズ学会のように、医師以外の医療者のみならず、非医療者や患者の参加者も多く、患者が話すセッションが注目される学会もあるんだ、ということは多くの人に知ってもらいたいと考えています。
このサイトを開設したのは2006年ですからはや13年以上がたちます。この間に千人近くの方々からメールをいただきました。比較的多いのがHIV陽性の人たちを支援している人、あるいはこれから支援やボランティアをしようとしている人たちからの相談や質問のメールです。HIV陽性の人からの相談メールも少なくありません。なかには「HIVに感染したかもしれないがどうしたらいいか」という相談も寄せられます。医療者からのメールもあります。GINAを運営していて感じるのは「様々な立場の人が様々なことを考え悩んでいる」ということです。
そして、エイズ学会が他の学会にない盛り上がりを見せる最大の理由がここにあるのではないか、つまり「異なる立場の人々が同じ思いを持っているから」ではないかと私は考えています。医師、歯科医師、看護師、介護師、ソーシャルワーカー、支援団体、ボランティア、sex worker、HIV陽性者では立場がまったく異なり、考えていること、悩んでいることもバラバラです。ですが、HIV感染を減らさなければならない、感染者が差別を受けてはならない、世間にはびこっている偏見やスティグマに立ち向かっていかねばならない、という気持ちは共通しています。こういった共通している思いがあるからこそ他の学会にはない盛り上がりがあるのだと思います。
ところでこれを読まれているあなたはどのような立場の方でしょうか。医療者であったとしてもなかったとしても、HIV陽性であったとしてもなかったとしても、あるいは単に自分自身が「HIVにかかっていたらどうしよう」と考えているだけの人も、エイズ学会への参加を考えてみてはどうでしょうか。参加費は事前登録でも一般(学生以外全員)10,000円、学生5,000円(2019年の場合)と決して安くはありませんし、宿泊費や交通費も用意せねばなりませんから気軽に参加とはいかないかもしれませんが、そのお金と時間に見合うものがきっと得られると思います。ちなみに、私が院長を務める太融寺町谷口医院では慰安旅行も兼ねて今年は熊本に2泊3日で学会に参加しました。
来年(2020年)の日本エイズ学会は11月27~28日(金・土)に幕張で開催されると聞いています(確定かどうかは未確認)。興味のある方は是非とも検討してみてください。
そして、もうひとつHIV/AIDSに興味のある方にお勧めしたいものがあります。それはメーリングリストです。学会と同じように、医療のメーリングリストというのもたいていは医師のみあるいは医療者のみが参加するものなのですが、HIV/AIDSのメーリングリストは特に参加資格が設けられていません。このメーリングリストは医師である高田昇先生が管理されています。関心のある方はこちらを参照してみてください。
改めて考えてみると、医療の主役は患者であるべきであり、最近は多くの疾患でこのことが強調されています。患者を中心に、医師、看護師、薬剤師、理学療法士、作業療法士などがいわばひとつのチームのようになり疾患に向き合っていこうとする考えです。しかし、そうは言っても医師以外の医療者が、まして患者や患者を支援する団体が参加している学会というのは稀です。
先述したように「こんなの学会じゃない」という医師がいるのは事実ですが、日本エイズ学会のこの雰囲気と感動を多くの医師のみならず医師以外の医療者にも、HIV陽性者や陽性者を支援する人たちにも、さらにHIV/AIDSに少しでも関心のある人たちにも伝えていきたい、と考えています。
第161回(2019年11月) パーデュー社の破産と医師の責任
過去の「GINAと共に」(第137回(2017年11月)「痛み止めから始まるHIV」)で、現在の米国では麻薬汚染が深刻化しており、その結果としてHIV感染者が急増している状況についてお伝えしました。
その諸悪の根源のひとつが製薬会社であり、なかでもパーデュー・ファーマ(Purdue Pharma)社(以下「パーデュー社)が、いかに悪質な方法で麻薬を広めていったかについて紹介しました。「ロサンジェルス・タイムズ」の報道によれば、パーデュー社は自社が販売する麻薬性鎮痛薬「オキシコンチン」を"夢のクスリ"のように謳い、売り上げを急増させ、1996年の販売開始以来、米史上最大規模の700万人超という薬物乱用者を発生させたのです。
こんなことが許されていいはずがありません。案の定、パーデュー社は大勢の患者や患者団体から訴訟を起こされついに破産することになりました。Reuterによれば、1999年から2017年の間に約40万人の命がオキシコンチンによって奪われており、同社は2,600以上の訴訟を抱えています。そして2019年9月15日、ついに破産が決まりました。Reuterによれば、パーデュー社は和解に100億ドル(約1兆1000億円)を充当する予定で、さらに事実上の同社のトップであるSacklers氏は30億ドルの現金を提供し、さらに15億ドル以上を追加するようです。パーデュー社のウェブサイトにも概要が掲載されています。
麻薬性鎮痛薬で破産したのはパーデュー社だけですが、パーデュー社と同様麻薬性鎮痛薬を販売していたテバ社(Teva Pharmaceutical)は、被害者への「和解」として230億ドルのオピオイド依存症治療薬の寄付及び10年間で2億5000万ドルを支払うことが決まっています(報道はCNBCの記事)。
また日本でも有名なジョンソン・エンド・ジョンソン(Johnson & Johnson)も麻薬性鎮痛薬を販売しており、米国オハイオ州の2つの郡から訴訟を起こされており2,040万ドル支払う和解案に同意しました(報道はBBCの記事)。
麻薬依存になれば最悪の帰結は「死」であり、死に至らなくても依存症を克服するのは非常に困難です。被害者の人たちは「パーデュー社に(テバ社に、ジョンソン・エンド・ジョンソンに)人生を返してほしい」と思っているに違いありません。いくらかのお金をもらえばそれで解決するわけではないのです。
改めて考えてみると、このようにたくさんの麻薬の被害者を生み出した諸悪の根源である製薬会社が責任を取るのは当然なのですが、それで済ませてしまっていいのでしょうか。私は一連の報道をみていて感じる疑問が3つあります。
まず製薬会社の従業員には「良心」がないのか、という点です。ある程度の薬学の知識があれば、こんな鎮痛薬を売り続けていればやがてこのような事態になることは予測できたはずです。おそらく従業員は、自分の身内が慢性の痛みに悩んでいたとしても(末期がんなどを除けば)自社製品を使わせなかったはずです。それを"夢のクスリ"のように謳い患者を"騙した"わけです。
「ロサンジェルス・タイムズ」の報道によれば、オキシコンチンの謳い文句は「12時間効く」です。つまり「1日2回の服用で痛みが完全にコントロールできる」といってセールスしたのです。しかし麻薬には「耐性」があります。製薬会社の従業員がこんな常識を知らないはずがありません。耐性ができればどうなるか。まずは医師に増量を求めるでしょう。それができなければ闇で入手しようとし、そのうちに内服から注射にうつっていきます。そして、針の入手が困難なため使いまわしをするようになりHIV感染、という事態が実際に起こっているわけです。
ところで「麻薬の耐性」というのは専門家しか知らない難易度の高い知識なのでしょうか。自慢になるはずもありませんが、私は医師を目指すはるか昔、小学生の頃から知っていました。なぜなら「ヘロインで身を滅ぼしていく若い男女」が登場する刑事ドラマを何度か見ていたからです。こんな小学生でもわかる常識がなぜ顧みられなかったのでしょう。
この常識が周知されていれば製薬会社が金に目がくらんだとしても製品を認可する行政(米国の場合FDA)でストップがかかったはずです。これが私の2つめの「疑問」です。例えば私がFDAの担当者なら「麻薬を継続すればいずれ耐性がでる。よって1日2回で有効と断言したいのなら長期の安全性を示すデータを提出せよ」と製薬会社に要求します。もちろん耐性が生じれば効果が低下しますから有効性・安全性を兼ね揃えたデータが出せるはずがありません。よって認可されることはありません。まったく証拠はありませんが、製薬会社から何らかの賄賂が行政側に渡ったのではないかと疑わずにはいられません。
私が感じる3つめの「疑問」は医師です。製薬会社の者は薬を売るのがミッションですから多少の(時に多少でない)誇張は日常茶飯時です。自社製品を売らねば会社に在籍できないわけですから何とか医師に処方してもらおうとあの手この手を尽くしてきます。しかし、一方で医師はそんなことは百も承知ですから、たとえ何かのプレゼントをもらったとしても(現在はこのようなことは禁じられていますが)、患者にとって有益でない薬は処方できないのです。薬の処方にはいつもリスクとベネフィットを天秤にかけているのです。
例えば末期がんなら耐え難い痛みに対し麻薬を使うのは理にかなっています。そして「末期」ですから、麻薬に耐性ができることがあったとしても依存症になる前に他界します。私にはなぜ米国の医師たちが慢性疼痛を有する(末期がんでない)若者にこのような麻薬を処方し続けたのかが理解できません。世論は麻薬を"夢のクスリ"のように謳って販売した製薬会社が悪いと言っていますし、先述のReuterの記事にも「製薬会社が医師を誤らせた(misleading doctors)」と書かれているのですが、私には医師にも同じかそれ以上の責任があると考えています。
この私の意見には反論がでてきます。「では、耐え難い痛みを持つ患者を見殺しにするのか!」というものです。もちろん、「耐え難い痛み」があれば処方はやむをえないでしょう。ですが、必ず耐性ができてくること、どれだけ麻薬が欲しくなっても決して闇で入手しないこと、絶対に使いまわしの注射針を使ってはいけないことなどを本当に説明しているのでしょうか。
賭けてもいいですが、このような説明を米国のすべての医師がしているわけではありません。なぜそのようなことが言えるかというと、実は日本でも同じ事態が起こっているからです。たしかに現在の日本では米国のように700万人もの麻薬依存症の患者がいませんし40万人もの命が奪われたわけではありません。
ですが、日本ではある意味でもっと巧妙な手口で麻薬が広がっているのです。これについては冒頭で紹介したコラム及び太融寺町谷口医院のサイトで述べたので詳しくはそちらを読んでほしいのですが、重要なポイントを繰り返しておきます。米国では初めから「麻薬」として認可されていますが、日本では添付文書やPR用の文書にわざわざ「オピオイド(非麻薬)」と書いてあるのです(例えばこちら)。しかし、日本で販売されているオピオイドもれっきとした麻薬です。そもそもオピオイドとは麻薬のことです。オキシコンチンのような強力な麻薬と比べると日本で広く使われている麻薬はたしかにその作用は弱いのですが、耐性や依存を引き起こすことには変わりありません。日本ペインクリニック学会のウェブサイトでは「強オピオイド」「弱オピオイド」と区別されており、これなら理解しやすいと言えます。
話を戻すと、現在の日本ではこのわざわざ「非麻薬」と強調された麻薬(オピオイド)が危険性の説明もなく処方されているのです。最近私が太融寺町谷口医院で経験した症例を紹介しておきましょう。
【症例】30代男性
背中に「できもの」ができて近くの医療機関で手術がおこなわれた。「できもの」は1cm未満の良性腫瘍で傷はごく小さい。術後に痛み止めとして処方された薬が「トラマール」だった。このサイトを読んでいて「これは麻薬ではないのか」と思い太融寺町谷口医院を受診。患者によれば痛みはさほど強くなく手持ちのロキソプロフェンで充分コントロールできるとのこと。「トラマールの注意点について何か聞きましたか」という私の質問に対しこの男性が答えたのは「よく効く薬としか聞いてません」...。
これが日本の現実なのです。
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参考:
GINAと共に
第151回(2019年1月)「本当に危険な麻薬(オピオイド)」
第137回(2017年11月)「痛み止めから始まるHIV」
はやりの病気
第189回(2019年5月)「 麻薬中毒者が急増する!」
その諸悪の根源のひとつが製薬会社であり、なかでもパーデュー・ファーマ(Purdue Pharma)社(以下「パーデュー社)が、いかに悪質な方法で麻薬を広めていったかについて紹介しました。「ロサンジェルス・タイムズ」の報道によれば、パーデュー社は自社が販売する麻薬性鎮痛薬「オキシコンチン」を"夢のクスリ"のように謳い、売り上げを急増させ、1996年の販売開始以来、米史上最大規模の700万人超という薬物乱用者を発生させたのです。
こんなことが許されていいはずがありません。案の定、パーデュー社は大勢の患者や患者団体から訴訟を起こされついに破産することになりました。Reuterによれば、1999年から2017年の間に約40万人の命がオキシコンチンによって奪われており、同社は2,600以上の訴訟を抱えています。そして2019年9月15日、ついに破産が決まりました。Reuterによれば、パーデュー社は和解に100億ドル(約1兆1000億円)を充当する予定で、さらに事実上の同社のトップであるSacklers氏は30億ドルの現金を提供し、さらに15億ドル以上を追加するようです。パーデュー社のウェブサイトにも概要が掲載されています。
麻薬性鎮痛薬で破産したのはパーデュー社だけですが、パーデュー社と同様麻薬性鎮痛薬を販売していたテバ社(Teva Pharmaceutical)は、被害者への「和解」として230億ドルのオピオイド依存症治療薬の寄付及び10年間で2億5000万ドルを支払うことが決まっています(報道はCNBCの記事)。
また日本でも有名なジョンソン・エンド・ジョンソン(Johnson & Johnson)も麻薬性鎮痛薬を販売しており、米国オハイオ州の2つの郡から訴訟を起こされており2,040万ドル支払う和解案に同意しました(報道はBBCの記事)。
麻薬依存になれば最悪の帰結は「死」であり、死に至らなくても依存症を克服するのは非常に困難です。被害者の人たちは「パーデュー社に(テバ社に、ジョンソン・エンド・ジョンソンに)人生を返してほしい」と思っているに違いありません。いくらかのお金をもらえばそれで解決するわけではないのです。
改めて考えてみると、このようにたくさんの麻薬の被害者を生み出した諸悪の根源である製薬会社が責任を取るのは当然なのですが、それで済ませてしまっていいのでしょうか。私は一連の報道をみていて感じる疑問が3つあります。
まず製薬会社の従業員には「良心」がないのか、という点です。ある程度の薬学の知識があれば、こんな鎮痛薬を売り続けていればやがてこのような事態になることは予測できたはずです。おそらく従業員は、自分の身内が慢性の痛みに悩んでいたとしても(末期がんなどを除けば)自社製品を使わせなかったはずです。それを"夢のクスリ"のように謳い患者を"騙した"わけです。
「ロサンジェルス・タイムズ」の報道によれば、オキシコンチンの謳い文句は「12時間効く」です。つまり「1日2回の服用で痛みが完全にコントロールできる」といってセールスしたのです。しかし麻薬には「耐性」があります。製薬会社の従業員がこんな常識を知らないはずがありません。耐性ができればどうなるか。まずは医師に増量を求めるでしょう。それができなければ闇で入手しようとし、そのうちに内服から注射にうつっていきます。そして、針の入手が困難なため使いまわしをするようになりHIV感染、という事態が実際に起こっているわけです。
ところで「麻薬の耐性」というのは専門家しか知らない難易度の高い知識なのでしょうか。自慢になるはずもありませんが、私は医師を目指すはるか昔、小学生の頃から知っていました。なぜなら「ヘロインで身を滅ぼしていく若い男女」が登場する刑事ドラマを何度か見ていたからです。こんな小学生でもわかる常識がなぜ顧みられなかったのでしょう。
この常識が周知されていれば製薬会社が金に目がくらんだとしても製品を認可する行政(米国の場合FDA)でストップがかかったはずです。これが私の2つめの「疑問」です。例えば私がFDAの担当者なら「麻薬を継続すればいずれ耐性がでる。よって1日2回で有効と断言したいのなら長期の安全性を示すデータを提出せよ」と製薬会社に要求します。もちろん耐性が生じれば効果が低下しますから有効性・安全性を兼ね揃えたデータが出せるはずがありません。よって認可されることはありません。まったく証拠はありませんが、製薬会社から何らかの賄賂が行政側に渡ったのではないかと疑わずにはいられません。
私が感じる3つめの「疑問」は医師です。製薬会社の者は薬を売るのがミッションですから多少の(時に多少でない)誇張は日常茶飯時です。自社製品を売らねば会社に在籍できないわけですから何とか医師に処方してもらおうとあの手この手を尽くしてきます。しかし、一方で医師はそんなことは百も承知ですから、たとえ何かのプレゼントをもらったとしても(現在はこのようなことは禁じられていますが)、患者にとって有益でない薬は処方できないのです。薬の処方にはいつもリスクとベネフィットを天秤にかけているのです。
例えば末期がんなら耐え難い痛みに対し麻薬を使うのは理にかなっています。そして「末期」ですから、麻薬に耐性ができることがあったとしても依存症になる前に他界します。私にはなぜ米国の医師たちが慢性疼痛を有する(末期がんでない)若者にこのような麻薬を処方し続けたのかが理解できません。世論は麻薬を"夢のクスリ"のように謳って販売した製薬会社が悪いと言っていますし、先述のReuterの記事にも「製薬会社が医師を誤らせた(misleading doctors)」と書かれているのですが、私には医師にも同じかそれ以上の責任があると考えています。
この私の意見には反論がでてきます。「では、耐え難い痛みを持つ患者を見殺しにするのか!」というものです。もちろん、「耐え難い痛み」があれば処方はやむをえないでしょう。ですが、必ず耐性ができてくること、どれだけ麻薬が欲しくなっても決して闇で入手しないこと、絶対に使いまわしの注射針を使ってはいけないことなどを本当に説明しているのでしょうか。
賭けてもいいですが、このような説明を米国のすべての医師がしているわけではありません。なぜそのようなことが言えるかというと、実は日本でも同じ事態が起こっているからです。たしかに現在の日本では米国のように700万人もの麻薬依存症の患者がいませんし40万人もの命が奪われたわけではありません。
ですが、日本ではある意味でもっと巧妙な手口で麻薬が広がっているのです。これについては冒頭で紹介したコラム及び太融寺町谷口医院のサイトで述べたので詳しくはそちらを読んでほしいのですが、重要なポイントを繰り返しておきます。米国では初めから「麻薬」として認可されていますが、日本では添付文書やPR用の文書にわざわざ「オピオイド(非麻薬)」と書いてあるのです(例えばこちら)。しかし、日本で販売されているオピオイドもれっきとした麻薬です。そもそもオピオイドとは麻薬のことです。オキシコンチンのような強力な麻薬と比べると日本で広く使われている麻薬はたしかにその作用は弱いのですが、耐性や依存を引き起こすことには変わりありません。日本ペインクリニック学会のウェブサイトでは「強オピオイド」「弱オピオイド」と区別されており、これなら理解しやすいと言えます。
話を戻すと、現在の日本ではこのわざわざ「非麻薬」と強調された麻薬(オピオイド)が危険性の説明もなく処方されているのです。最近私が太融寺町谷口医院で経験した症例を紹介しておきましょう。
【症例】30代男性
背中に「できもの」ができて近くの医療機関で手術がおこなわれた。「できもの」は1cm未満の良性腫瘍で傷はごく小さい。術後に痛み止めとして処方された薬が「トラマール」だった。このサイトを読んでいて「これは麻薬ではないのか」と思い太融寺町谷口医院を受診。患者によれば痛みはさほど強くなく手持ちのロキソプロフェンで充分コントロールできるとのこと。「トラマールの注意点について何か聞きましたか」という私の質問に対しこの男性が答えたのは「よく効く薬としか聞いてません」...。
これが日本の現実なのです。
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参考:
GINAと共に
第151回(2019年1月)「本当に危険な麻薬(オピオイド)」
第137回(2017年11月)「痛み止めから始まるHIV」
はやりの病気
第189回(2019年5月)「 麻薬中毒者が急増する!」