GINAと共に

第156回(2019年6月) なぜかくも馬鹿げた裁判がおこなわれたのか

 この"事件"がまさか本当に裁判になるなどとは微塵も考えていませんでした。

 まずは事件の概要をまとめてみましょう。

 2017年12月、北海道在住30代男性(Aさんとします)は社会福祉法人北海道社会事業協会が運営する病院(病院Xとします)の求人に応募しソーシャルワーカーとして採用が内定しました。

 Aさんは病院Xに応募する前に患者として受診したことがあり、HIV陽性であることがカルテに書かれていました。2018年1月、病院Xはそのカルテを見つけAさんがHIV陽性であることを知り、Aさんに電話をし「HIV陽性を告げなかったこと」を理由に内定取り消しを告げました。Aさんは「就労に問題はなく、業務で他者に感染する心配はない」とする主治医の診断書を病院側に送りましたが内定取り消しは覆りませんでした。2018年7月、Aさんは病院Xに対し慰謝料の支払いなどを求めて札幌地裁に提訴しました(報道は2019年6月12日の北海道新聞)。

 こんな裁判が本当に行われれば病院Xは世間に恥をさらすだけでなく全国(あるいは全世界)から糾弾されますから、さっさと「内定取り消し」を取り消してAさんに慰謝料を払う以外の選択肢はありません。なぜなら、そもそもHIV陽性という理由でソーシャルワーカーの仕事ができないわけがありませんし、HIV感染を理由に解雇することは厚生労働省のガイドラインで禁じられています。過去におこなわれた同じような裁判では全例で雇用側が敗訴しています。

 日本看護協会はウェブサイトの「HIVに感染した看護職の人権を守りましょう」で見解を表明し、「感染者の就業制限はありません。引き続き看護職としての就業が可能です。感染を理由とする解雇・退職勧奨は違法行為です」と明記しています。

 ここで過去の事例をまとめてみましょう。まずは、看護師が解雇された事件で、このサイトでも過去に取り上げています(第87回「HIV陽性の医療従事者は仕事を続けられるか」)。ソーシャルワーカーと看護師では業務内容が異なりますが、少し詳しく振り返ってみたいと思います。

・福岡看護師解雇事件: 2011年8月、福岡県のZ病院に勤務していた看護師がZ病院を患者として受診。Z病院では診断がつかずY病院を受診することになりY病院でHIV感染が判明。看護師を診察したY病院の担当医は「患者への感染リスクは小さく、上司に報告する必要もない」と伝えた。ところが、Y病院の別の医師がその看護師の許可をとらずに、看護師が勤務するZ病院の医師にHIV感染をメールで通知。看護師はZ病院の上司から「患者に感染させるリスクがあるので休んでほしい。90日以上休職すると退職扱いになるがやむを得ない」と告げられ、休職後の2011年11月末に退職させられた。2012年1月11日、看護師は「診療情報が患者の同意なく伝えられたのは医師の守秘義務に違反する。休職の強要も働く権利を侵害するものだ」という理由で、Z病院、Y病院の双方を提訴。2013年4月、福岡県地裁支部にて原告(看護師)とY病院の間で和解が成立。守秘義務違反で提訴していた原告の主張をY病院が認めた。一方、看護師が勤務していたZ病院は、「わずかでも患者にHIV感染の危険がある以上、看護業務から離れてもらうのは医療機関として当然だ」などとして看護師と争った。2014年8月8日、福岡県の地裁支部はZ病院による看護師のプライバシー侵害と就労制限の不当性を認定した。

 医療者以外の事件も復習しておきましょう。
 
・千葉HIV解雇事件: 千葉県市川市の会社が定期健康診断で社員のHIVの検査を無断で実施。ひとりの従業員の陽性が判明し検査を請け負った病院は従業員の許可を得ず会社に通達した。会社はHIV感染を理由に解雇。千葉地裁は「解雇は不当」とし、会社と病院長に計660万円の支払いを命じた(千葉地判平12.6.12労判785-10)。

・派遣HIV解雇事件: 派遣先企業で労働者のHIV感染が発覚し、派遣先企業が派遣元企業へ労働者の感染事実を連絡し労働者が解雇された。東京地裁の判決は「HIV感染を理由とした解雇は許されず、出向先が感染を本社に報告したのもプライバシー侵害」として計1500万円の支払いを命じた。会社側は控訴したが、東京高裁で実質的に原告側全面勝訴の内容で和解が成立(東京地判平7.3.30労判667-14)。

・警視庁退職勧奨事件: 警視庁に採用が決まった男性が、採用後に同意なくHIV検査が実施され陽性であることが判明し、これを理由に警視庁が退職勧奨。東京地裁は「HIV感染者だからといって、警察官に適しないとは言えないから、検査に必要性はない」と述べ、東京都などに440万円を支払うよう言い渡した(東京地判平15.5.28労判852-11)。 

 過去のコラム(第87回「HIV陽性の医療従事者は仕事を続けられるか」)では、血中ウイルス濃度が検出される可能性がある状態でのHIV陽性の医療者が医療行為を続けていいかどうかは難しい問題であることを海外での制度も紹介して述べました。現在はすぐれた抗HIV薬のおかげでガイドライン通りの治療を継続していれば血中ウイルス量が検出されることはまずありません。このような状態であればたとえ針刺し事故を起こしても医療者が患者に感染させる確率はほぼゼロです。

 そして、このことは医学的にというだけでなく司法的にも決着がついています。先述したように福岡の事件では、病院側が「わずかでも患者にHIV感染の危険がある以上、看護業務から離れてもらうのは医療機関として当然だ」と主張しましたが、司法は「就労制限の不当性」を認定したのです。

 北海道のAさんは看護師でも医師でもなく「ソーシャルワーカー」です。他人に感染させる可能性が事実上ゼロなのは、医療者なら誰にでもわかります。もしも、本気で病院XがAさんが院内感染させる可能性を考えていたのだとしたら、「看護学生でもわかる基本的知識させ持ち合わせていない無知の集団」ということになります。私がその地域に住んでいたとしたら、病院Xには絶対に受診しません。基本的知識のない医療者にまともな診察ができるはずがないからです。

 もちろん、実際には病院Xで働く医療者はAさんの内定を取り消すことがどれだけ馬鹿げているかに気付いているはずです。おそらく内定取り消しをしたのは医療のことを何も知らない事務方の人間なのでしょう。だとすると、なぜ病院Xの医療者たちは、この不当な内定取り消しに抗議の声を挙げないのでしょうか。私にはそれが不思議でなりません。

 もうひとり、私がどうしても理解できない人物がいます。それは病院X側の弁護士です。この弁護士は先述したいくつかの事件のことを知らないのでしょうか。あるいはこれらを知った上で弁護を引き受けているのでしょうか。私にはまったく理解不能です。

 最後に、北海道新聞が報じたAさんの言葉を紹介しておきます。

「病気を最も理解しているはずの医療機関から差別的な扱いを受け、がくぜんとした。地元で就職し、家族と暮らす人生設計を諦めざるを得なくなった」

参考:GINAと共に
第65回(2011年11月)「HIV陽性者に対する就職差別」
第80回(2013年2月)「HIV陽性者に対する就職差別 その2」
第87回(2013年9月)「HIV陽性の医療従事者は仕事を続けられるか」