GINAと共に

第163回(2020年1月) エロティシズムにどう向き合うべきか

 GINAのこのサイトを公開したのは2006年の7月ですから今年で14年たつことになります。この間にいろんな立場の人たちからいろんな内容の質問をいただきました。そのなかでコンスタントに寄せられるのが「性欲を抑えられない」という悩みです。

 病的に抑えがたい場合は「性依存症」かもしれないという話をしたことがあります(下記コラム参照)。ですが、性依存症の定義にははっきりとしたものがなく、犯罪行為につながるようなあきらかな性依存症がある一方で、「それってちょっと性欲が強いだけじゃないの?」と感じるだけのものもあります。例えば、クリントン元大統領が性依存症と呼べるのか、個人的には疑問に感じています。

 「性的指向は特定のパートナーのみにすべきだ」という意見を書いたこともあります(下記コラム参照)。特定のパートナーだけと性行為を持つことは、性感染症の最強の予防法であるだけでなく、最も幸せに近づく方法であると私は考えています。ですが、この単純なことが理解できたとしても、「それは分かっているけれど、それでも性欲を抑えられない」というメール相談が寄せられるわけですから、やはりもう少し踏み込んで検討すべきだと思います。

 愛し合うパートナーとの性交渉に勝るものはない、というのが事実であり、パートナーとの性交渉が「最も幸せ」であることには変わりないとしても、性交渉で得られる「エロティシズム」も最高かと問われればこの答えは「NO」でしょう。

 なぜなら、エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に相関するからです。セックスのシチュエーションが非日常的であればあるほど興奮度、つまりエロティシズムの度合いが上昇するのは少し想像してみれば明らかです。もちろん性的嗜好には個人差が大きいわけですが、ポルノビデオのタイトルやコピーをみてみればこれは自明です。例えば、教師と生徒、レイプ、痴漢、乱交など、現実の世界ではあり得ないような設定のものが目立ちます。

 セックスのシチュエーションが非日常であればあるほど興奮度が高くエロティシズムが強くなるわけで、これを極限までつきつめたもの、つまり非日常の極みは「死」です。ですから「情死」が最高であると考える人は少なくなく、学問としてのエロティシズムを確立させた澁澤龍彦も著書のなかで「情死が理想」というようなことを述べています。

 実際、セックスでエクスタシーに達するときに使われる「イク」という言葉は「逝く」から来ているという説もあります(これはたしか栗本慎一郎氏がどこかで書かれていました)。澁澤によれば、かつて吉原の遊女は、客を歓ばすために、行為中、「死にんす、死にんす」ともらしたそうです。英語ではエクスタシーに達するときに「イク(go)」ではなく「come」を用います。これも同じことです。なぜなら、英語では「そちらに向かっている」というときには「go」ではなく「come」を使うからです。例えば電話で「今そちらに向かっています」というときに「I'm coming.」と言います。

 ですから、想像のなかでとにかく強い興奮を求めたいということであれば、現実社会ではまずありえないような状況を思い浮かべればいいわけです。先に述べたレイプや乱交など以外にも、各人それぞれ考えてみればそのような想像はできるはずです。

 このサイトに「性的衝動が抑えられない」という相談をしてくる人のなかには「パートナーがいて(あるいは結婚していて)、それはとても幸せなんだけれども、パートナーには性欲が湧かず、他人とのセックスがしたくてたまらない」という人がいます(というよりこういう人の方がずっと多いようです)。こういった相談を受けたときに、私が回答しているのは、「出会ったころのワクワク感は薄れているかもしれないが、平和的で安心できる時空間を持てることの方が幸せではないですか」とか「もしも愛する気持ちが薄れてきているのなら、<愛する>という行動をとるチャンスですよ。<好き>とか<セックスしたい>は受動的な心の状態ですが、<愛する>というのは積極的な言動が求められる能動的な行為です」という話をしています。

 ですが、そういった方法をいくら述べたところで「死を覚悟した究極のエロティシズム」の"魅力"にはある意味ではかなうはずがありません。例えば、阿部定に殺された不倫相手の男性は定に死ぬまで紐を緩めないように頼んでいたと言われています。おそらくこの男性は窒息死する直前に最高のエクスタシーを感じていたのではないでしょうか。また、不倫相手を窒息させた上、切り取ったペニスを持ち歩いていた定は一見猟奇殺人犯のようですが、出所後は各地で人気者となり大勢のファンがいました。私はこの理由として「愛する者を殺してペニスを持ち歩くことができる定となら最高のエロティシズムが得られる」と無意識的に考えた男性が多かったからではないかとみています。

 おそらく「ありそうであり得ない、でもあるかもしれない」エロティシズムを実現しやすいのが「不倫」でしょう。人は不倫を非難しながらもどこかで「最高のエロティシズムが得られるに違いない」と感じているのではないでしょうか。そして、澁澤龍彦が指摘しているように「情死」が究極のエロティシズムなのはおそらく間違いありません。情死には、長年寄り添っていた夫婦の情死というものもあるのかもしれませんが、話題になるのは「不倫など、あってはいけない関係の情死」です。口にする人は少ないでしょうが、不倫相手との性交中の情死、もしくは「失楽園」のような心中がある意味では「究極の愛のかたち」なのかもしれません。

 けれども「性欲が抑えられない」と悩んでいる大半の人(相談は男性からの方が多い)のほとんどは情死(心中)を求めているわけではなく、現在のパートナーとの関係も維持したいと考えています。ここで指摘したいのは、パートナーでない新しい相手とのセックスの方が、興奮度が高くなるのは当然であり、それも通常はあり得ないような関係の方がその程度も増すことを理解しなければならないということです。

 次に言いたいのは、仮にその関係を手に入れてパートナーとの関係からは得られないエロティシズムを体感できたとしても、やがて時間がたてば色あせていくわけですから、さらなる強い刺激を求めるようになるということです。欲望には際限がないのです。そして、同時にパートナーとの関係を維持しようとすれば無理がでてきます。気が付けばパートナーを失い、社会的信用もなくし、新しい相手との間にあったはずのエロティシズムも色あせてしまっていた、というのがよくある顛末です。

 そもそも人間はやりたいことを抑えて生きていかなければならない生き物ではなかったでしょうか。情死を最高の愛の形と断言し、数々のエロティシズムに関する著作を発表し、他界された後もこのジャンルで不動の地位を維持している澁澤龍彦ですら、結婚し"普通の"夫婦生活をされていたわけです。

 「性欲が抑えられない」という人に対する解決策はないのか。エロティシズムという観点で考えれば残念ながら決定的なものはありません。なぜならエロティシズムには耐性があるからです。どれだけ非日常な体験であったとしても日がたつにつれてそれは日常化していきます。そして、日常化はエロティシズムから遠ざかることを意味します。

 ではどうすればいいのでしょうか。「性欲が抑えられない」という人に対して「性感染症のリスクを知ってもらう」のはいい方法です。ですが、これは積極的に性欲を対処する方法ではありません。「特定のパートナーをもっと愛する」というのは私が最も勧めている方法ではありますが、「それは分かっているけども......」という声をこれまで多数いただいてきました。

 ではどうすればいいのか。次回に続きます。

参考:
第89回(2013年11月)「性依存症という病」
第114回(2015年12月)「欺瞞と恐喝と性依存症」
第135回(2017年9月)「性風俗がやめられない人たち」
セイフティ・セックス講座「エピローグ~そして私が一番言いたかったこと~」