GINAと共に

第117回(2016年3月) HIVに伴う認知症をどうやって予防するか

 最近物忘れがひどくなってきたように思います。他人の名前がすぐに思い出せなかったり、友達と会う予定の日を1日間違えたりすることがあるんです。認知症でしょうか・・・。

 これは50代男性のHIV陽性の患者さんから最近受けた質問です。この患者さんがHIV陽性であることが分かって9年が経過します。比較的早い段階で抗HIV薬を開始することになり、服薬を開始して6年以上が経過しています。(抗HIV薬の処方については、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではおこなっておらず、エイズ拠点病院にお願いしています。谷口医院では、この患者さんのように抗HIV薬の処方以外のことで症状や悩みを聞いています)

 他人の名前がすぐに思い出せない。予定を勘違いする。こういったことは誰にでもあり、このようなエピソードが少々増えてきたからといって認知症の診断がつくわけではありません。しかしながら、HIV陽性の人に対しては、エイズを発症しておらず、またCD4を代表とする免疫系の数値が安定化していたとしても、認知症の可能性を考慮しなければならなくなってきました。

 HIVに感染してもきちんと薬を飲んでいればエイズを発症しない。もはやHIVは「死に至る病」ではなく高血圧や糖尿病と同じような慢性疾患だ・・・

 このようなことが、すぐれた抗HIV薬が複数登場しだした2000年代半ばあたりから盛んに言われるようになりました。飲み忘れれば薬が効かなくなるが、きちんと内服を続けてさえいれば免疫力は下がらない。だから寿命はまっとうできるんだ、という理屈です。

 実際、HIV陽性者の死因がエイズであったのは遠い過去の話で、現在は心筋梗塞など生活習慣病が原因の心血管系の疾病か悪性腫瘍(がん)であることが多く、これらに気をつけることが抗HIV薬の服薬遵守の次に重要である、と言われています。HIV陽性者は感染していない人に比べて喫煙率が高く、またHIVに感染したこと及び抗HIV薬の影響で中性脂肪が増加するなどで心血管系疾患のリスクが高いのは事実です。

 では、HIV陽性者は薬の服薬を忘れないようにして、生活習慣病に気をつけていればそれで充分なのか・・・。ここ数年の研究はそれでは不十分であることを物語っています。それは、HIVに感染すれば、認知症を含むなんらかの認知機能障害が高頻度で起こりうることが分かってきたからです。

 HIVに関連する認知機能障害はHAND(HIV-associated neurocognitive disorders、HIV関連神経認知障害)と呼ばれます(そのまま「ハンド」と読みます)。

 HANDは3つに分類できます。最重症は、HIV認知症(HIV-associated dementia, HAD)で、これはとてもひとりでは生活ができないほどの認知症です。家族の顔が分からなかったり、徘徊したりする人もいます。HIV陽性者に対する介護の問題は最近よく話題になります。何が問題かというと、きちんとケアできる訪問看護師や介護士の数が圧倒的に少なく、またHADを発症しているHIV陽性者には終日ケアできる家族やパートナーがいないことなどもあり、現実として、現在日本でHADを発症している人の多くは入院しています。

 2つめは、軽度神経認知障害(mild neurocognitive disorder, MND)と呼ばれるものです。「軽度」とついていますが、自立は困難であり、日常生活に何らかの支障がでていることが多く支援が必要となります。医療者に加え、家族やパートナーの協力が必要になりますが、適切な支援が得られず孤立することがあり、この問題は今後さらにクローズアップされるでしょう。

 3つめは無症候性神経認知障害(asymptomatic neurocognitive impairment, ANI)と呼ばれるもので、日常生活上ではあまり症状が見られず自覚もないものの「神経心理試験」という認知症の初期におこなう試験で異常がみつかります。

 では、HIV陽性者のどの程度がHANDと呼ばれる状態になっているのでしょうか。現在よく引き合いに出されるのが、2010年に米国で実施された「CHARTER」と呼ばれる大規模研究です。この研究の対象者はHIV陽性者合計1,555人です。結果は、HAND全体では47%。最重症のHADは2%、MNDが12%、軽症のANIが33%です。

 日本の研究もあります。「J-HAND研究」と呼ばれるもので現在も継続されています。最終的な数値はまだ出ていませんが、これまでの状況から日本でのHAND有病率は約25%と推定されています。日本の有病率が米国の半分である理由についてはよく分かっていませんが、私の私見を述べると、日本人は米国人に比べてHIV感染が早期発見されていることが多く、きちんと服薬できているからではないかと考えています。

 HANDの最大のリスクは、長期間免疫状態が悪化していることです。つまり、HIVに感染していることに気づかず、無治療でいた期間が長ければ長いほどHANDのリスクも上がるのです。そういう意味では、将来のHANDのリスクを下げるためにも一層の早期発見に努めることが重要と言えるでしょう。

 しかし、早期発見できたとしてもHANDを完全に防ぐことができるわけではありません。なぜきちんと治療を受けていてもHANDが生じるのか。この理由ははっきりとは分かっていませんが、おそらく「HIVに感染した脳神経細胞の機能不全」だと思われます。ですから、脳細胞に多くのウイルスが浸入することを防ぐためにも可能な限りの早期発見・早期治療が必要なのです。

 2015年9月30日、WHO(世界保健機関)が「どのような状態であれHIV陽性者は可及的速やかに投薬を開始すべきである」という声明を発表しました(注1)。「無症状だし、CD4レベルを含めて免疫状態が安定しているんだからまだ薬を開始したくない」、という人もいますが、HANDのことを考えるとやはり早期の服薬を検討した方がいいでしょう(注2)。

 先にも述べたように2000年代の中頃には「HIVは慢性疾患のひとつだ」とよく言われていました。私自身も、HIVは毎日薬を飲むのが大変・・、という人に対して、「あなたの周りに高血圧や糖尿病の人はいないですか。彼(女)らと同じように毎日薬を飲むのと同じことですよ。いえ、むしろ糖尿病の人のように1日に何度も注射をするよりずっと簡単じゃないですか」と言ってきました。

 ところで高血圧や糖尿病の人も、重症化しなければ、あるいは重症化しても服薬でコントロールできるようになれば、自覚症状が生じるわけではありません。ではなぜ薬を飲まなければならないのかというと、動脈硬化を予防して心筋梗塞や脳梗塞といった心血管系の疾患を予防するためです。そして、動脈硬化が進行すれば認知症が生じることが分かっています。認知症で最も多いのはアルツハイマー病ですが、動脈硬化に起因する認知症はその次に多いのです。

 ということは、高血圧や糖尿病、あるいは高脂血症といった生活習慣病のある人は、心血管の疾患だけでなく認知症を予防するためにも、きっちりと薬を飲み、さらに食事療法や運動療法にも取り組まなければならないわけです。禁煙も当然おこなわなければなりません。

 これを読まれている人がHIV陽性の人なら、私の言わんとしていることはもうお分かりでしょう。私は日頃、HIV陽性の人に、「HIVに感染すると中性脂肪が高くなるなどで動脈硬化のリスクが上がり、抗HIV薬の服薬を開始すると今度は薬の影響で動脈硬化が起こりやすくなる。HIVに感染すると、感染していない人よりも動脈硬化のリスクが上昇するのは間違いない。HIV陽性者の死因がエイズでなく心疾患系疾患が多くなったのは、すぐれた薬のおかげでエイズを発症しなくなったということもあるが、心血管系疾患が増えているというのも事実である。だから動脈硬化を予防するために、運動、食事に気をつけましょう。タバコなどもってのほかです!」という話をよくします。

 そして、動脈硬化を予防することがそのままHANDの予防につながるのもまた事実なのです。ということは、将来起こりうるかもしれないHANDに対する不安に悩まされるのではなく、認知症のリスクを少しでも下げるために、規則正しい生活や運動、禁煙をしっかりとおこなうことが現時点でおこなうべき最善のことなのです。



注1:注1:詳しくは下記を参照ください。

GINAと共に第112回(2015年10月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~前編」

注2:ただし日本では更生医療の制度上の問題があります。現在の制度では、CD4が500/uL以上あれば更生医療が適応されず、その場合3割負担で抗HIV薬の処方を受けねばならないため服薬開始になかなか踏み切れないのです。