GINAと共に

第173回(2020年11月) 「性暴力」が日本でこれだけ蔓延るのはなぜか

 過去のコラム「レイプに関する3つの問題」で、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)で、性暴力(レイプ)の被害の男女(女性が多いのですが男性もそれなりにあります)から相談を受けることについて述べました。性暴力の被害者は初めからそれを言うことはあまりなく、たいていはある程度通院し、我々医療者との関係が構築されてからようやく話してくれるようになります。

 そのコラムを書いてから7年以上が経ちました。7年で日本の性暴力の実情が改善されたかといえば、おそらくほとんど変わっていません。そして最近、私が以前から気になっていたことが調査され公表されたので、今回はまずはその調査を紹介したいと思います。

 一般社団法人Springという性被害当事者たちが中心となった団体があります。Springは2020年8~9月にかけて、ウェブサイトを通して性被害の実態調査をおこないました。その結果が2020年11月20日、「5899件の性暴力被害から見えた実態」と題した報告会で発表されました。

 その内容を毎日新聞の報道から抜粋します。まず、報告のタイトルにあるようにアンケート調査に回答したのが5,899人、回答者の96.4%が女性です。被害内容は下記の通りです。

「衣服の上から身体を触られた」63.9%
「衣服の下の身体を触られた」34.6%
「性器などを見せられた」31.3%
「口や肛門、膣(ちつ)への挿入を伴う被害」21.5%
「その他」14.7%(「精液をかけられる」「キスされる」「そばで自慰行為をされる」など)

 加害者の属性については「親や親の恋人・親族、見知った人」が34%です。先述の7年前のコラムで紹介した調査報告でも、こういった「身内」が加害者となるケースが少なくない結果となっていました。興味深いことに、今回発表されたspringの調査では、「男性器などの挿入を伴う被害」つまり、より深刻な被害に限定すれば、「身内」からの被害が59%を占めています。さらに、「親や親の恋人・親族」から挿入を伴う性暴力を受けた回答者の8割以上が12歳以下(被害を受けたのが12歳以下という意味だと思います)だったそうです。

 興味深いのはここからです。「それが性被害であることにいつ気付いたか」が質問されています。「被害に遭った直後」と回答したのは47.9%で、52%が「直後には認識できなかった」と答えているのです。

 では「直後に認識できなかった人」はいつ認識できるようになるのでしょうか。調査では平均7年という結果がでています。34.8%の人たちは8年以上かかったそうです。

 もうひとつ興味深いデータが示されています。被害にあった人で「専門家や支援機関に相談した人」は10.9%、「警察に相談した人」は15.1%に過ぎません。さらに、警察に相談しても被害が受理されにくいことが浮き彫りとなりました。「警察に相談して被害届が受理された」のは全体の7%(報道から、分母は「相談した人」ではなく「回答者全員」だと思われます)、「加害者が起訴され裁判で有罪になった」のはわずか0.7%しかないのです。

 Springのウェブサイトには「性被害の実態に即した刑法性犯罪の改正を目指して、アドボカシー活動をしています」とあります。つまり、現在の刑法がおかしい(罪が軽すぎる)のでそれを改正すべきだと考えているわけです。私も全面的に賛成で、先述した過去のコラムでも、日本の性被害の最大の問題のひとつが「罪が軽すぎること」だと指摘しました。

 法に訴えようと思っても罪が軽すぎることが分かっていますから「どうせ訴えても......」という気持ちが被害者だけでなく被害者をサポートする人の間にも生じるかもしれません。また、今回の調査結果でも示されたように「相談」自体のハードルも高いのです。実際、谷口医院で相談を受けるケースでも警察に専用のダイヤルがあることや、サポートしてくれる団体があることを知っていた人はそう多くありません。

 もちろん、性被害に遭って苦しんでいる人がその胸のうちを谷口医院のスタッフ(私も含めて)にいつも話してくれるわけではありません。何か月も、あるいは何年もたってから話してくれることもありますが、きっと今も話せないまま通院を続けている人もいるに違いありません。

 さらにspringの調査が明らかにしたように、被害に遭った被害者自身がそれを性被害と気づいていないことも多々あるのです。

 ではどうすればいいのでしょう。なぜ日本では性被害がこれだけ深刻なのにもかかわらずまともな議論が起こらないのでしょうか。過去のコラム「レイプ事件にみる日本の男女不平等」では、その理由が「女性蔑視にあるのではないか」という私見を述べました。そのコラムで紹介した「ジェンダー・ギャップ指数2015」では日本は145か国中101位でした。

 この指数は5年ごとに発表されます。2020年版では日本はさらにランクを落とし、153か国中121位です。ちなみに、他国を少し紹介しておくと、トップ3はアイスランド、ノルウェイ、フィンランド。アジアでの最高ランクはフィリピンで16位。タイは75位、中国106位、韓国108位、インド112位です。(これは私見ですが)もっとも性被害が深刻な国はインドではないかと私は思っています(参考:「インド女性の2つの「惨状」」)。日本はそのインドよりもさらにランクが低いのです。

 日本は国際的にみて女性の地位が低すぎるから向上させねばならない、という議論は少なくとも1980年代には存在していました。「女性学」なる学問もすでに80年代後半には登場していました。それから30年以上が経過した現在、いくらかの進展はあるのでしょうか。ちなみに、2020年春に発足した新型コロナウイルス感染症対策本部の集合写真が全員男性だったことが世界中に知れ渡り「日本の女性はコロナで絶命したのか」というジョークが広がりました。

 女性の地位向上はすぐには実現しないでしょうし、性暴力の被害者が積極的に相談するようになるのもそう簡単ではないと思います(注1)。「社会」や「慣習」はそう簡単に変わらないからです。おそらく「変わる」きっかけとなりうるのは社会に重大な影響を与えるような事件です。そういう意味で私はジャーナリストの伊藤詩織さんの裁判に注目しています。

 報道によれば、伊藤詩織さんは2015年、当時TBSテレビの記者山口敬之氏から性暴力の被害を受け警察に届け出ました。山口氏の逮捕は免れないと噂されていたものの直前になり東京地方検察庁は嫌疑不十分で不起訴としました。しかし、民事では2019年12月、伊藤さんが勝利し330万円の支払いが山口氏に命じられました(山口氏は控訴したと報じられていますがその後の動向は不明です)。そして、2020年9月、伊藤さんは米国のニュース誌「TIME」が選定する「世界で最も影響力のある100人」に選ばれました。ちなみに「TIME」のサイトでは伊藤さんが「勝訴」の文字を掲げている写真が掲載されています。

 新型コロナ流行のあおりも受け、伊藤さんが選定されたことはメディアではあまり大きく報じられませんでしたが、私は世界でますます注目されるようになっている伊藤さんの存在は大きいと思います。伊藤さんの行動が、診察室で「ようやく話せてよかったです......」と涙を流す女性たちを勇気づけ、次の被害の予防につながることを期待します。

 同時に、springの行動を支持したいと考えています。性暴力の加害者への罪を重くしてほしいからです。このサイトで「性依存症は治らない」ということを述べましたが(参照:「欺瞞と恐喝と性依存症」)、性暴力の欲求も簡単には治りません。罪を重くするのが最も現実的な方法だと思います。

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注1:性暴力やDVの相談窓口には次にようなものがあります。

DV相談プラス 0120-279-889 
(DVに伴う家庭内の性被害の相談にも応じています)

Cure time
(チャットで性被害の相談を受け付けています)

・#8008(DVに関する最寄りの相談窓口につながります。全国共通です)

・#8891(最寄りの性暴力被害ワンストップ支援センターにつながります。全国共通です)

・#8103(警察の性被害専門相談窓口につながります。全国共通です)

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第172回(2020年10月) タイ王国の"崩壊"

 現在のタイはもはや私が知っているタイではなくなってしまったのかもしれません。

 新型コロナで経済が停滞し観光客が入国できなくなったことを言っているわけではありません。新型コロナは世界を大きく変えましたが、タイはたかがコロナにやられてしまうような国ではありません。実際、厳しい外出制限がおこなわれても、マスクが供給不足になったとしても、人々は「和」を乱すことなく助け合っていると聞きます。

 では何がタイを変えてしまったのか。連日報道されている若い世代が中心となって引き起こしている「デモ」です。

 しかし、デモはタイにはよくある"光景"です。2000年代後半以降も数多くのデモが再三起こっていたこと、特に「赤シャツ」と「黄シャツ」の対立についてはこのサイトで繰り返し述べてきました。ここで簡単に振り返っておきましょう。

 2000年代前半、東北地方(イサーン地方)及び北部の多数の層からの支持を得、圧倒的な強さを誇っていた当時のタクシン首相は、いくつかの不正を指摘され、特にバンコクに住む知識階級の層からは批判が相次いでいました。そして「反タクシン」の流れを汲む人たちが民主市民連合(PAD)を立ち上げて各地でデモを始めました。参加者は黄色のシャツを着るようになり次第に大きな組織となっていきました。そして、2008年11月、デモはスワンナプーム空港のターミナルビルを占拠し空港が閉鎖され、一時は9万人が足止めとなりました。

 一方、タクシン派も黙っていませんでした。黄シャツに対抗し赤シャツを身に纏い各地でデモをおこないました。タクシン派は選挙ではいつも圧勝するのですが、タイ国軍はタクシンを失脚させ、その後も何かとタクシン派をつぶしにかかっていました。そんな軍に抗議することを主な目的として「赤シャツ」が各地でデモを繰り広げたのです。そして、2010年4月10日、加速化するデモの勢いを静観してられないと判断した軍は弾圧にかかりました。犠牲となった赤シャツの人たちは2千人を超えると言われています。

 これらを振り返ると、デモ隊が空港を占拠、軍がデモ隊を弾圧し2千人以上が犠牲と、民主主義国家では到底起こりえないような事態が生じています。しかし、私は、そしてタイをよく知る大勢の外国人は「それでもタイは変わらない」と考えていました。

 なぜでしょうか。その答えは「王の存在」です。

 私がタイと深く関わるようになって驚いたことのひとつが「国民の誰もが国王を心から尊敬している」ことです。日本でも皇室は人気があり、皇室の番組は常に高視聴率を稼ぐと聞きますが、皇室を批判するジャーナリストはいくらでもいますし、一般市民が日常会話のなかで皇室に対してネガティブな発言をすることも珍しくありません。

 ところがタイはまったく異なるのです。まず、私が知る限り、ほとんど誰の家を訪問しても国王の写真が壁に掲げられています。家だけではなく、食堂、クリーニング屋、自転車の修理屋など、小さな店舗でも壁にかかった国王の写真を目にしないことはほとんどありません。都心部では街の至るところで国王の大きな写真を見ることができます。

 タイでは午前8時と午後6時に各地で国歌が流れます。この光景を始めてみたとき、私はいったい何が起こったのか分からずに恐怖すら感じました。ちょうどその時、フォアランポーン駅にたどり着いた私は、そこにいるすべての人がピタッと動きを止めたことに驚き、何が起こったのか分からずに立ちすくんでしまったのです。駅の構内に大音量で流れていたのが国歌であること、国歌が終わるまで国王に敬意を払うために動いてはいけないことをその場にいたタイ人から学びました。

 それからしばらくして、タイで映画を観に行く機会がありました。タイではすべての映画館ですべての映画が始まる前に国王賛歌が流されます。そして、その賛歌が流れている間は起立していなければなりません。郷に入っては郷に従え、という諺を持ち出すまでもなく、その場にいれば全員が起立しますから、たいていの外国人は雰囲気につられて自然に起立します。ところが、たまに起立しない外国人がいて不敬罪で逮捕されます。タイの現地新聞でときどき報道されています。

 タイの国王がほとんどの国民から敬愛されていることが安定の理由であるという私の意見は過去のコラム「タイの平和度指数が低い理由と現代史」でも指摘しました。そして、そのコラムで私は、「2016年にプミポン国王が崩御され、新たに王となったワチラーロンコーン王(ラーマ10世)は国民から支持されておらず今後のタイが不安」と述べました。

 そして、現在バンコクを中心に連日おこなわれているデモはまさに私が懸念していたことです。大学生を中心とするデモ参加者は現在の国王を不満に思っています。では、国王はなぜ国民から慕われないのでしょうか。

 まず、女性関係が派手であることが以前から指摘されていました。三度の離婚歴があり、常に多数の愛人がいると言われています。王室でも自由恋愛を認めるべきという考えは支持されるかもしれませんが、3番目の妻シーラット妃はナイトクラブの元ダンサー(ストリッパーという噂もあります)で、結婚後に素っ裸で踊っているところを撮影され、その場に国王もいたことが報じられています。

 国王は数年前から大半の時間をドイツの別荘で過ごしています。これ自体にタイ国民の大多数が不満を感じているわけですが、さらに"奇行"が世界中のメディアで報道されています。なかでも、クロップトップを着て偽タトゥーを入れた格好でモールを歩いている姿が報じられたときには信頼度が大きく低下しました。最近も、陸軍の看護師に「高貴な配偶者」の称号を与えたり、愛犬のプードルに「空軍大将」を任命したりと、奇行が目立ちます。

 ここまでくれば私が過去のコラムで「国王の交代が不安」と述べた理由を分かってもらえると思います。他国の国王を批判するようなことは慎むべきですが、タイ人の気持ちになって考えると、プミポン前国王とはまったく異なる性格で奇行を繰り返すワチラーロンコーン国王を前国王と同じように崇拝できるでしょうか。

 とうてい民主主義とは呼べない軍事政権に対して、新型コロナウイルスに対する厳しい行動制限に対して、経済の停滞化に対して、など、いろんな理由で国民の不満は高まっているわけですが、もしもプミポン前国王がご健在ならこのようなかたちのデモは起こっていなかったでしょう。たとえ、起こったとしても、心のどこかで「いざとなれば国王がなんとかしてくれる」という安心感があったのではないかと思えます。

 ワチラーロンコーン国王が大きく変わらない限り、タイの社会や文化が大きく変わってしまうのではないかと私はみています。おそらく、国王という"共同幻想"をなくした国民はバラバラになっていきます。南部では独立の動きが強まるでしょう。信じるものをなくした国民は非道徳的・非倫理的な行動をとりやすくなるでしょう。そういった国民をまとめるためにポピュリズムの政党が誕生するかもしれません。人は他人を信用しなくなり、困っている人に手を差し伸べることをしなくなっていくかもしれません。

 私がもどかしいのはそういった変化が起こりつつある空気を直接感じられないことです。現在、ビジネス渡航や配偶者がタイ人といった理由を除けばタイへの入国許可がおりません。GINAが支援しているタイ人の患者さんが気がかりです。

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第171回(2020年9月) ポストコロナのボランティア

 新型コロナウイルスが流行しだしてからGINAに寄せられる問い合わせで大きく減少したのが「ボランティアについて」です。

 これまでは、「タイで(あるいは他国で)ボランティアをしたいのですが......」という問い合わせがそれなりにあったのですが、新型コロナが流行しだした2020年2月以降、ピタッとなくなりました。それは当然ですし、現在も日本では「新型コロナ実は軽症説」が"流行"しているようですが、世界的にはまったく気を緩められる状態ではありません。「医療者のなかにも軽症説を唱える者がいるではないか」と言われることもありますが、急激に症状が悪化する患者さんを経験した医師はそのようなことは言いません。

 話を戻します。新型コロナが登場してから海外に医療ボランティアに行くことはほぼできなくなりました。もうしばらくすると医療者が新型コロナの流行している他国にボランティアに出向くという動きが出てくるようになると思いますが、一般の人が例えばタイのエイズ施設にボランティアに行くというようなことは当分の間できません。

 では、医療者でない人が医療ボランティアに行くことができる時代は再び訪れるのでしょうか。新型コロナが完全に収束すれば可能となるのでしょうか。私の考えは「以前と同じかたちには戻らないしまた戻すべきでない」です。

 その理由のひとつは「新型コロナは収束しない」からです。いい薬があるんじゃないの?、ワクチンができれば解決するのでは?、といった意見があるでしょうが、私は薬やワクチンができたとしても完全に収束することはないと考えています。その理由を述べます。まず、新型コロナにあなたが感染してすぐれた薬で治療できたとしましょう。しかし、薬はすべての人に効くとは限りません。新型コロナの最たるハイリスク者は高齢者です。そして、医療ボランティアとしてケアするのは高齢者が多いのです。

 HIVについては、私がタイのエイズ施設にかかわりだした2000年代前半は、HIVは若い人の病でした。ですが、それから20年近くがたち、高齢者の疾患に変わりつつあります。日本でも私が日々みているHIV陽性の患者さんの平均年齢はどんどんと上がっています。これからますますHIV陽性者に対するケアが高齢者に対するケアとなっていきます。

 では、小児の施設へのボランティアは問題ないのでしょうか。施設にもよりますが、例えば腎不全や白血病のある小児は新型コロナが非常に危険です。精神疾患の場合なら大丈夫かというと、自身の感染予防策が適切にとれない小児と接するのは危険です。

 ここでよくある質問に答えておきましょう。それは「けど、それはコロナじゃなくてもインフルエンザでも同じですよね」というものです。答えは「全然違います」。インフルエンザと新型コロナの違いは多数ありますが、最たるもののひとつが「新型コロナは、半数近くが自身が無症状のときに感染させる」ことです。まったくの無症状、つまり感染してからウイルスが消えるまで「無症状」(これをasymptomaticと呼びます)が本当に感染させるのか、については議論があるのですが、発症までの「無症状」(これをpre-symptomaticと呼びます)に感染させることが多いのは確実です。例えば、2日後に頭痛、味覚障害、倦怠感などが絶対に起こらないと断言できる人はいるでしょうか。つまり、いくらいい薬ができたとしてもそれが100%効くものでなければ、自身が無症状でも接し方によっては他人を死に追いやる可能性があるわけです。

 次にワクチンをみてみましょう。ワクチン開発には多くの国、そして多くの企業がしのぎを削っていますが、有効性と安全性が担保されたものはまだまだ登場しません。私はワクチンが逆効果となる可能性すら考えています(参照:「新型コロナ ワクチンが逆効果になる心配」)。ちなみに、医療系ポータルサイトMedPeerが2020年9月12日に3,000人の医師を対象とした「新型コロナのワクチンが供給されたら接種しますか」というアンケートでは、「接種しない」と「有効性と安全性が証明されるまで接種しない」を合わせると81%となり、「積極的に接種する」(19.0%)を大きく上回っています。何年かたってからすぐれたワクチンができたとしても、全員に100%有効でしかも効果が持続するようなものはまずできません。

 新型コロナを侮ってはいけません。完全なワクチンができる見込みはなく、いい薬が登場したとしても万人に効くわけではありません。そして無症状者からも感染し、高齢者のみならず若年者の命を奪うこともあり、さらに後遺症を残す可能性すらあるのです。可能な限り他人に感染させるリスクを取り除かねばなりません。

 そんな新型コロナを考えたときに従来のボランティアはできません。ではどうすればいいか。その前に「なぜ人はボランティアをやりたがるのか」を考えてみましょう。ボランティアをするととても気持ちがいいことを以前コラム(GINAと共に第103回(2015年1月)「ボランティアを嫌う人とボランティアが「気持ちいい」理由」) で述べました。そのコラムでは、ボランティアを通しての「貢献」が人間の原則にしたがっているということにも触れました。そして、「感謝の言葉を求めてはいけない」と言及しました。

 もうプレコロナ時代には戻れませんから「一度体験すれば分かります」とは言えず説得力に欠けるかもしれませんが、ボランティアでは人の絆を感じることができ、人が人である理由を実感することができます。「気持ちよさ」を求めてはいけませんが「気持ちいい」のは事実です。私が初めてタイのエイズ施設で患者さんの手に触れたとき、暗くどんよりした表情のその患者さんが突然笑顔になり目に涙を浮かべました。当時のタイではエイズについての知識が周知されておらず皮膚に触ることで感染すると思っている人もいたのです。そんななか、はるばる遠いところからやって来た見知らぬ日本人がエイズを発症している自分の手を握っているということに感動されたのです。

 おそらく、素直な気持ちで人が人に触れたときに絆を感じ安らぎが得られるのは人の特徴のひとつなのでしょう。私がタイのエイズ施設でボランティアをしていた頃は、できるだけ患者さんに触れるようにしていました。それだけで笑顔が戻る人も少なくないのです。そして、私の知る限り、ボランティアを長期で続けている人は例外なく患者さんに触れることに長けています。「触れること」は重要なケアのひとつなのです。

 話を新型コロナに戻しましょう。もうお分かりいただいたと思いますが、ポストコロナ(ウイズコロナ)の時代には、患者さんに触れることが困難です。また、触れなくても感染させる可能性があります。マスクをしていたとしても近づき方によっては感染する・させるリスクが出てきます。それに外国人の場合、言葉の壁がありますから、表情自体が重要なコミュニケーションとなります。その表情がマスクで隠れるわけですから適切なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。

 ではどうすればいいのか。マスクを外せないというのは大きなハンディではありますが、それでも医療ボランティアができないわけではありません。まずすべきことは「正しい知識を持つこと」です。新型コロナはワクチンがなくとも(ほぼ)感染しない方法はあります。実際、私は4月以降、新型コロナに感染しない自信を持っています(興味のある方は別のところで書いたコラム「新型コロナ 感染防止に自信が持てる知識と習慣」を参照してください)。

 それに、これまでのボランティアがあまりにも無防備というか、タイでは眼を覆いたくなるシーンも随分と見てきました。例えば、結核、B型肝炎、疥癬といった感染症の知識がまるでなく予防が全然できていないボランティアもいるのです。私は彼(女)らを非難したくはありませんが、最低限の知識を身に着けてから医療ボランティアを始めてほしいと思っています。新型コロナの流行がそのきっかけになれば、と今は考えています。

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第170回(2020年8月) コロナ禍で消えたタイの「沈没組」

 新型コロナウイルスの対策にタイは成功しています。一人目の感染者が見つかったのは2020年1月13日で、中国以外では最初の感染者だっただけに、タイは中国に次いでパンデミックを起こすのではないかと言われていましたが、その後、強力な政策をとったことにより見事に感染抑制に成功しています。8月下旬の現在で、総感染者数はわずか3千人程度、死亡者も50人程度です。

 タイが見事だったのは、いわゆるロックダウンを実施し、夜間外出禁止令を発令し、県境をまたぐことを禁止したものの、それでも大きな暴動や犯罪が起こることもなく、住民たちは協力しあい、感染を抑制することに成功しているからです。もっとも、そのために払った犠牲も大きく、事実上の"鎖国"となりましたから経済は大きなダメージを受けています。観光業界は(それは"闇の観光"も含めて)大打撃です。

 本来なら私自身もGINA関連の施設を訪れるために今月渡タイする予定でしたが、キャンセルせざるを得ませんでした。しかもチケットをとっていたのはエアアジア。あまりこのサイトで一般企業の悪口を言いたくはありませんが、結論からいえばチケット代が戻ってくる見込みはほぼゼロです。

 さて、このコロナ禍で私が心配したのはGINAがサポートしているHIV陽性者よりも、むしろ長期滞在している日本人です。日本人といっても現地駐在の人たちは何も心配いりませんし、現地採用の人たちもいったん帰国してしまうと再びタイに戻れるかどうかわからないというリスクはありますが解雇されなければ問題ないでしょう。問題が多いにあるのがいわゆる「沈没組」の人たちです。

 「沈没組」については過去のコラム「悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~」でも述べましたので、そちらも参照いただきたいのですが、簡単に言えば日本社会からドロップアウトし、仕事もせずにタイで長期滞在し薬物や買春に耽溺している人たちのことを指します。

 そのコラムで述べたように、全員がいかにもドロップアウトしそうな人たちかというと、そういうわけでもなく、高学歴者も少なくなく、前職が大手企業や学校の先生という人たちもいます。薬物や買春の良し悪しは置いておいて、魅力的な人たちも少なくありません。

 彼らがビザも持っていないのにタイに長期滞在できるのは、定期的に一時隣国に抜け出して再入国するからです。ラオスやカンボジアあたりにいったん入国し、そしてまたタイに戻ってくるという方法を繰り返すのです。しかし、新型コロナの流行で隣国への行き来はできなくなりましたからこの方法は使えません。ビザを持っていない彼らはタイに長期滞在することはできません。他国に入国するにもほぼすべての国は入国制限を引いています。つまり、沈没組の彼らは帰国するしかないわけです。

 私が初めてこういった沈没組(この呼び方が失礼なのは承知していますが便宜上このまま続けさせてもらいます)の人たちと仲良くなったのは2004年で、それから知人を紹介してもらうなどで次第にこういった人たちの知り合いが増えていきました。しかし、消えていく人、つまり連絡が取れなくなる人も増えていきます。というのは、薬物にどっぷりとつかっている人は突然連絡が取れなくなることがよくあるのです。2年くらいしてから突然連絡が来ることもあるのですが、こちらからメールや電話をしても一向に連絡がつかないこともあります。

 ここ数年は新しい沈没組の人と知り合うこともなくどんどんと知り合いが減っている状態でした。それでも数人は連絡がつくはずなので3月以降連絡先のわかる全員にコンタクトをとったのですが、返答はゼロです。つまり、誰とも連絡がとれなくなったのです。

 彼らは今どこにいるのでしょうか。失礼ながら想像させてもらうと次のいずれかに該当するはずです。

#1 他界している

 率直に言って何人かは他界していると思います。コロナ流行前から「〇〇は死んだよ」という話を沈没組の人たちから聞くことは珍しくありませんでした。実際にはほとんどは薬物の中毒死だと思うのですが、タイでは外国人が死んでもきちんと死体の検証がされているとは言えません。心臓が止まっているという理由で"心不全"という死因にされていたり原因不明の死亡ということで片付けられていることが多いと聞きます。また、自殺というケースもあります。こういったことを私は警察や検察から聞いたわけではなく、沈没組の人たちの噂に過ぎませんが、死亡している人がいるのは事実だと思います。

#2 日本に帰国している

 これを望みたいですし、何人かは日本で生きていると思います。だから彼らから連絡が来ることを私はまだ期待しています。沈没組の人たちは、こちらから連絡しても何の音沙汰もなく忘れた頃に連絡してくることがよくあるからです。しかし、長年タイで耽溺していた人が日本で仕事をするのはとてつもなく困難です。社会復帰は極めて難しく、おそらく日本で薬物に手を出して、命を落とすこともあると思います。

#3 タイ、またはラオスやカンボジアで生きている

 現在のタイで許可なし(ビザなし)で滞在するのは困難ですが、捕まらなければ不法滞在者として生きている可能性があります。また、ラオスやカンボジアでもいったん入国してしまえば不法滞在ができるかもしれません。特にここ数年のラオスは薬物が入手しやすく物価も安いために沈没組がタイから"移住"しているという話も聞きます。しかし、健康な暮らしをしているとは考えにくく、いずれ命を危険にさらすことになるでしょう。

 さて、ここまで読まれて不快な気持ちになった人も少なくないのではないでしょうか。「あんた医者なら何とかしろよ」と思う人が大半でしょう。しかし、薬物依存症の場合(大麻は除きます)、医者が正論を述べることで薬物をやめられる人など皆無です。有効な治療法があるわけでもありません。(狭義の)麻薬、つまりヘロインやモルヒネの場合はメサドン療法という治療法がありますが(これも必ず成功するわけではありません)、日本人の場合、摂取する薬物にたいてい覚醒剤(メタンフェタミンまたはアンフェタミン)が入ります(注1)。これまで、日本でもタイでも覚醒剤依存症の人たちを(それは日本人も外国人も)数多くみてきましたが、私の知る範囲で言えば社会復帰できた人はごく少数です。ですから、私個人が考える「最も有効な覚醒剤対策」は、このサイトで繰り返し述べているように「初めから手を出さない」です。

 しかし私のこの考えはあまり支持されません。「初めから手を出さない」を強調しすぎると、依存症で苦しんでいる人たちが患者ではなく犯罪者になってしまうからです。たしかに、苦しんでいる人が犯罪者のようにみなされることは避けねばならず、依存症になった人たちの立場に立って治療を考えていかねばならないのは自明です。そういった治療に尽力している医療者も少なくなく、そして実際に実績をあげています(注2)。

 ただ、私個人の印象でいえば、そこまでたどりつける人はいわば「エリートの患者」です。タイで沈没していた人たちに、日本に帰国して治療を受けようと説得することは私には無理でした......。

 一方、私自身がこれまでの人生で、それは10代の頃のことや医学部入学前のことも含めて、度重なる違法薬物の誘惑を断ち切ってこられたのは、子供の頃にみた「覚醒剤やめますか。それとも人間やめますか」のCMです。子供の頃に植え付けられた恐怖がその後の人生を正しく導いてくれることもあるのです。

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注1:このサイトで繰り返し述べているようにタイでは覚醒剤がものすごく簡単に入手できます。タクシン政権の頃は取締が厳しくなり、日本の方が簡単、と言われていましたがその後は再びタイの方が入手しやすくなっています。品質のよくない「ヤーバー」(「馬鹿の薬」という意味)はもちろん、純度の高いアイス(タイ人は「アイ」と発音します)もほとんど誰でも入手できます。タイの政治はいつから狂ったのか、過去のコラムでも紹介したように法務大臣が「覚醒剤の依存性はアルコールやタバコよりも低いから合法にすべき」と発言しています。

注2:SMARPP(Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program)と呼ばれる治療プログラムが有名です。精神科医の松本俊彦医師が考案した治療法で認知療法に基づいています。松本医師は大変熱心な先生で私は講演を聞きに行ったこともあります。私は松本医師の考えに賛同しますが、本文で述べたようにタイで沈没しているような人たちにSMARPPに参加してもらうのは極めて困難だと思っています。

参考:GINAと共に
第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~
第116回(2016年2月) 「盗聴」に苦しむ覚醒剤中毒者
第13回(2007年7月号)「恐怖のCM」

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第169回(2020年7月) 差別をなくす2つの方法

 前回のコラムでは、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」が脅かされるときに起こると述べました。「差別はなくならない」は現実であったとしても、この差別のメカニズムを考えれば、差別をなくすには2つ方法があることが自ずと分かります。

 1つは「自分の世界との境界を変える」です。これを説明するために有名な心理学の実験を紹介しましょう。それは泥棒洞窟(ロバーズ・ケーブ)実験という1960年代に米国で行われた実験です。

 11歳から12歳の22名の少年を集め2つのグループに分け、それぞれのグループで社会生活をさせました。最初は別のグループがあることを隠しておき、1週間後、別のグループがいることをそれぞれに伝え、野球の試合をおこなわせました。すると自分たちのグループでの結束が固まり、相手のグループに対しては敵対心が生まれたのです。その後、グループ間で花火や食事などをさせましたが、相手グループのメンバーへの敵対心は変わりませんでした。しかし、2つのグループが共同して取り組まねば解決しない課題を与えると敵対心が友好関係に変わっていったのです。

 前回は白人の警官に踏みつぶされ窒息した米国の黒人ラッパー(ジョージ・フロイド氏)のことを取り上げました。米国の黒人差別は深刻と聞きますが、差別が絶対におこらない「組織」もあります。例えば、自分が所属するアメリカンフットボールのチームがリーグ優勝を狙っていたとして同じチームの黒人選手を差別することはありません。このチームのファンの心理も同様です。

 オリンピックに出場する米国の黒人選手を応援しない白人の米国人はほぼ皆無でしょう。泥棒洞窟実験から明らかなように、スポーツは最もわかりやい例のひとつであり、"敵"をつくれば同じ世界に所属するメンバーとは友好関係が築けるのです。

 泥棒洞窟実験の後半は差別解消のヒントを示しています。共に協力しなければならない課題が与えられたときに敵対心は友好関係へと変わります。これが現実社会で生じている例に科学の世界があります。例えば、現在新型コロナウイルスが猛威を振るい世界を大きく変えてしまいました。現時点で有効なワクチンや特効薬があるとは言えず、また後遺症を残すことも明らかになりつつあり、外出制限を強いられる国や地域もあります。

 このような状況で、例えば黒人の科学者が画期的なワクチンを開発したとして、「黒人のつくったワクチンはいらない」と言う白人は皆無でしょう。世界が一丸となって新しい感染症に立ち向かうシーンでは、その感染症が深刻であればあるほど人が人を差別することはなくなっていくわけです。
 
 ですから、すぐに世界中の差別をなくそうと思えば、例えば宇宙人に攻めて来てもらえばいいわけです。地球上に住む人間全員が協力しなければ皆殺しにされてしまう敵が攻めてくるなら、人種や国籍、性別に関係なく我々が一丸となれるのは間違いありません。そこに差別が生まれる余裕はないのです。

 ですが、実際にこんな方法で差別をなくすことはできません。新型コロナは脅威ですが、外出制限をして密なところに行かなければ自身は感染しません。この程度の脅威であれば差別がなくなるほどの影響はありません。何もしなければ地球に住む人間全員が殺されてしまうような状況にならなければ人間社会から差別はなくならないでしょう。

 そこで、差別が生まれるもうひとつの条件を考えてみましょう。「自分が他者より優位であることの確保」の方です。2つのグループがあったとして、自分たちがマジョリティであり、相手よりも偉いんだ、という気持ちが差別を生み出します。女性差別、人種差別、部落差別などを思い出せば明らかでしょう。ここには「相手よりも自分たちが優位となって当然だ」という気持ちがあります。

 では、なぜ自分たちが相手よりも優位とならなければならないのでしょう。これはおそらく動物的な"本能"だと思います。弱肉強食という言葉が示すように、動物の世界では貴重な食糧を得るには相手に勝たねばなりません。つまり、動物というのは元々見ず知らずの相手を警戒するものであり、常に自分が優位でいなければ殺される、食料にありつけない、あるいは伴侶に巡り合えないといったリスクがあるわけです。

 実際、人間社会でもこういった動物的な"競争"が存在しています。ビジネス界で生き残れなければ、失業し食べるものがなくなりパートナーを得られるチャンスは激減します。だから、他人よりも偉くなり優位に立たなければならないと考えるのには一理あります。もしもすべての人間がこのような考えに捉われて「人生は競争だ」と考えたとすれば、差別は永遠になくならないでしょう。

 ですが、人間は社会的動物です。競争しなくても生きていけるのです。競争社会に身を投じ身体をボロボロにするよりも、そんな競争社会から降りてしまって気楽に生きるという選択肢もあるのです。そして、そういう考えを持てば自然に「差別がばからしい」と思えるようになります。

 実は私自身は若い頃にはそれを意識していたわけではないのですが、初めから競争社会には興味がありませんでした。それをコラム(「競争しない、という生き方」)に書いたこともあります。私には、同じ会社の同期と競争するとか、店を経営してライバル店と競争するとか、そういったことがものすごく馬鹿らしいのです。そんなことを考える人たちこそを"差別"したくなってくるのです。

 そもそも他人と自分を比較することにどれほどの意味があるのでしょう。サバンナで生きる動物のようにライバルを殺さなければ自分が殺されるのでしょうか。そして、元々そういう考えを持っていた私が、他人と自分を比較することがまったく馬鹿げていることを確信するに至ったのがタイのエイズ施設での経験です。死期のせまったエイズの患者さんと接していると、次第に「なんで自分は医師で、彼(女)らは患者なんだろう」という気持ちが強くなってきました。

 このことは最近別のところ(「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」)にも書きました。私が日本に生まれ、恵まれた家庭ではなかったとしても大学までいかせてもらい、その後就職して貯金をつくり医学部受験ができたのは、仮に私の努力が報われた側面があったのだとしても、それはわずかなものであり、今の私がある最大の理由は「運」に他なりません。タイのイサーン地方の村で生まれ、小学校にも行かせてもらえず、大人たちから繰り返し性的虐待を受け、HIVに感染しエイズを発症した少年は努力を怠ったからそうなったわけではないのです。

 つまるところ、人生のほとんどは「運」で決まるのです。黒人として生まれるのも、性的嗜好がストレートでないのも、被差別地域で生まれるのも、震災の被害に遭うのも、あるいは新型コロナウイルスに感染するのも「運」なのです。それが理解できれば、自分及び自分たちのグループが相手のグループよりも優れているなどと考えること自体が馬鹿げていることに気付くのではないでしょうか。

 私はなぜ差別を許せないのか、これはGINA設立当時から考え続けていることです。今、その問いに答えを出すとすれば「差別する側の人間が運の有難みに気付いていないその無神経さに苛立たされるから」となります。

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