GINAと共に
第168回(2020年6月) 差別が生まれる二つの条件
最近見た映像で頭にこびりついて離れないものが2つあります。ひとつは2020年5月25日、白人の警官に首を踏みつけられて窒息死した黒人男性ジョージ・フロイド氏の息が絶えるシーンです。この事件が撮影された動画は瞬く間に世界中に拡散され、世界各地でデモがおこなわれました。
この事件に比べると規模は比較にならないほど小さいものですが、私にはもうひとつ頭から離れない動画があります。その事件のあらましは、「Washington Post」の姉妹誌「The Lily」2020年5月26日号の記事「黒人のバードウォッチャーの撮影に対し、警官を呼んだ白人女性。"日常的なありふれた"アメリカの人種差別(White woman calling cops on black birdwatcher puts on display the'everyday, run-of-the-mill racism'of America)」で紹介され、記事のなかに動画があります。
5月のある日、ニューヨークのセントラルパークでバードウォッチングをしていた57歳の黒人男性が、飼い犬と一緒にいた白人女性に「犬をリードにつないでほしい」とお願いしました。セントラルパークではリードなしでの犬の散歩が禁止されているからです。
するとその女性は「警察に電話する」と言い出しました。なんと「アフリカ系アメリカ人の男性に脅かされていると通報します」と言うのです。当然と言えば当然ですが、男性は「どうぞ電話してください」と返答しました。
女性は実際に警察に電話をかけ「私と私の犬がアフリカ系アメリカ人男性に脅かされています。すぐに来てください!」と訴えました。「アフリカ系アメリカ人(African American)」という言葉を何度も繰り返して、です。
この一連の流れを撮影していた男性は、この画像を妹(か姉、原文はsister)に送ったところ、その妹(か姉)がツイッターに投稿しました。すると、なんと翌日の午後までに再生回数が3000万回を超えたのです。
The Lilyの記事によると、この動画に衝撃を受けた人も多いものの、このような"事件"はアメリカの黒人にとっては日常的にありふれたシーンだそうです。記事のなかで当事者の黒人男性は「アフリカ系アメリカ人で同じような経験をしたことのない人はいないでしょう」とコメントしています。
では、なぜこの動画がこれほどに短期間に拡散され多くの人から注目を浴びたのでしょうか。そして、私自身がこの動画が頭から離れないのはなぜなのでしょうか。
それは、この女性の言動が「差別」というものの最も醜い部分を露呈しているからだと思います。私はこの女性のふるまい、取り乱しながらも自分は白人女性であることを誇示しようとするその様子、自分がいかにか弱く守られるべき存在であるかを必死に訴えるその姿に抑えようのない嫌悪感を覚えます。「悲劇のヒロイン」になりきって自己陶酔しているのです。もしも私が英語をまったく解さなかったとしたら、女性の放つ言葉はこんなふうに聞こえたと思います。
私は休日のセントラルパークで愛犬と散歩を楽しんでいる白人女性よ! あなたみたいな黒人男性とは生きる世界が違うの! そのあなたがこの私に注意するって、どういうことか分かっているの?! あなたは私に口を聞ける立場の人間じゃないのよ! 早く去ってよ! さもないと警察を呼んであなたを逮捕させるわよ! あんた、何? 私を撮影するのやめなさいよ! そんなことしてただで済むと思ってるの?! さっさと去りなさい。さもないと私を守ってくれる警察があなたを逮捕するわよ......
このサイトで繰り返し述べているように、私にとって「差別」とはタイのHIV/AIDS問題に関わりだしてからの一貫したテーマです。なぜHIVに感染したことで不当な差別を受けなければならないのか。なぜセクシャルマイノリティやセックスワーカーは差別されるのか。こういった問題に対する答えを見つけたいという気持ちがGINA設立のきっかけのひとつです。
私は医学部入学前に関西の私立大学の社会学部を卒業しています。そこで差別について学んだ経験があります。部落差別、女性差別、外国人差別など、です。その頃にはあまり差別というものが理解できておらず、関心はあったものの、単に単位をとるために勉強した記憶しかありません。しかし、タイのHIV/AIDS問題に関わりだしてから、感染者への差別のみならず、セックスワーカーへの差別(職業差別)、セクシャルマイノリティへの差別、犯罪者(薬物など)への差別、さらにタイ特有の差別としてバンコク人によるイサーン人(東北地方の人)への差別(参考:GINAと共に第31回(2009年1月)「バンコク人 対 イサーン人」)などに強い関心を持つようになりました。
もちろん日本にも差別はあります。HIV感染者への差別は現在では日本の方がタイよりも深刻ですし、部落差別は今も根強くありますし、外国人差別もあります。最近では新型コロナの感染者への差別も無視できません。
これら差別のほぼすべてに共通して存在するのは、「自分の世界との境界の確保」と「自分が他者より優位であることの確保」です。つまり、「私とあなたは生きている世界が違います。私はあなたより優れているんです」という思いが脅かされるときに差別が生まれるのです。
私は過去のコラム(「GINAと共に第109回(2015年7月)「日本のおじさんが同性愛者を嫌う理由」)で、ストレートの人たちがセクシャルマイノリティを差別するのは、「セクシャルマイノリティが羨ましいからだ」という私見を述べました。これは今も間違っていないと思っています。もしもセクシャルマイノリティの人たち全員がとても弱々しく、なおかつ"不幸"な存在であれば、おそらく差別は生まれず「気の毒な人たち」とみられるだけでしょう。しかし実際には、セクシャルマイノリティの人たちは、おしなべて言えば、平均年収が高く、芸術の才能があり、ファッションセンスも高く、生涯のセックスパートナーの人数も多いわけです。それが許せないが故にストレートの人たちはセクシャルマイノリティを差別するのではないかと思うのです。
他の差別をみてみましょう。黒人は明らかに自分とは違う存在であり、その黒人がこの高貴な白人の私に意見を言うことが許せない(先述の白人女性)。黒人が白人と同じように街で暮らしているのが癪(しゃく)に障る。白人の警官の言うことにはすべて文句を言わず従って当然だ(ジョージ・フロイド事件)。HIVや新型コロナの感染者と自分は違う。あなた達は"別世界"の人間なんだから私たちの暮らしに入って来ないで。そして私をあなた達の世界に引き込まないで(病気の差別)。部落の人間が俺たちが出入りする店で俺たちと同じように飲み食いして楽しむのが許せない(部落差別)。月経時に体調を崩し妊娠して出産する女性が我々男性と同じような出世街道に乗るのが許せない(女性差別)。自分の身体を売って生活している人たちは私たちとは別世界。そんな人たちに私たちと同じ権利はいらない(セックスワーカーへの差別)。
このように考えると、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」を脅かすときに起こると考えられます。自分自身も感染する可能性がある感染症は「境界」が脅かされることが差別につながりやすく、「性」「肌の色」「出身地」など生涯変わらないもの(セクシャルアイデンティティは変わり得ますが)については「他者より優位」が脅かされることが差別につながります。
自分と他者との「境界線」は考え方次第でいくらでも引くことができます。自分が他者より優位に立ちたいというのは、人間を動物と考えると「自然な欲求=本能」と言えるかもしれません。ならば差別はなくならないのでしょうか。そんなことはありません。差別をなくす方法はあると私は思っています。次回紹介します。
この事件に比べると規模は比較にならないほど小さいものですが、私にはもうひとつ頭から離れない動画があります。その事件のあらましは、「Washington Post」の姉妹誌「The Lily」2020年5月26日号の記事「黒人のバードウォッチャーの撮影に対し、警官を呼んだ白人女性。"日常的なありふれた"アメリカの人種差別(White woman calling cops on black birdwatcher puts on display the'everyday, run-of-the-mill racism'of America)」で紹介され、記事のなかに動画があります。
5月のある日、ニューヨークのセントラルパークでバードウォッチングをしていた57歳の黒人男性が、飼い犬と一緒にいた白人女性に「犬をリードにつないでほしい」とお願いしました。セントラルパークではリードなしでの犬の散歩が禁止されているからです。
するとその女性は「警察に電話する」と言い出しました。なんと「アフリカ系アメリカ人の男性に脅かされていると通報します」と言うのです。当然と言えば当然ですが、男性は「どうぞ電話してください」と返答しました。
女性は実際に警察に電話をかけ「私と私の犬がアフリカ系アメリカ人男性に脅かされています。すぐに来てください!」と訴えました。「アフリカ系アメリカ人(African American)」という言葉を何度も繰り返して、です。
この一連の流れを撮影していた男性は、この画像を妹(か姉、原文はsister)に送ったところ、その妹(か姉)がツイッターに投稿しました。すると、なんと翌日の午後までに再生回数が3000万回を超えたのです。
The Lilyの記事によると、この動画に衝撃を受けた人も多いものの、このような"事件"はアメリカの黒人にとっては日常的にありふれたシーンだそうです。記事のなかで当事者の黒人男性は「アフリカ系アメリカ人で同じような経験をしたことのない人はいないでしょう」とコメントしています。
では、なぜこの動画がこれほどに短期間に拡散され多くの人から注目を浴びたのでしょうか。そして、私自身がこの動画が頭から離れないのはなぜなのでしょうか。
それは、この女性の言動が「差別」というものの最も醜い部分を露呈しているからだと思います。私はこの女性のふるまい、取り乱しながらも自分は白人女性であることを誇示しようとするその様子、自分がいかにか弱く守られるべき存在であるかを必死に訴えるその姿に抑えようのない嫌悪感を覚えます。「悲劇のヒロイン」になりきって自己陶酔しているのです。もしも私が英語をまったく解さなかったとしたら、女性の放つ言葉はこんなふうに聞こえたと思います。
私は休日のセントラルパークで愛犬と散歩を楽しんでいる白人女性よ! あなたみたいな黒人男性とは生きる世界が違うの! そのあなたがこの私に注意するって、どういうことか分かっているの?! あなたは私に口を聞ける立場の人間じゃないのよ! 早く去ってよ! さもないと警察を呼んであなたを逮捕させるわよ! あんた、何? 私を撮影するのやめなさいよ! そんなことしてただで済むと思ってるの?! さっさと去りなさい。さもないと私を守ってくれる警察があなたを逮捕するわよ......
このサイトで繰り返し述べているように、私にとって「差別」とはタイのHIV/AIDS問題に関わりだしてからの一貫したテーマです。なぜHIVに感染したことで不当な差別を受けなければならないのか。なぜセクシャルマイノリティやセックスワーカーは差別されるのか。こういった問題に対する答えを見つけたいという気持ちがGINA設立のきっかけのひとつです。
私は医学部入学前に関西の私立大学の社会学部を卒業しています。そこで差別について学んだ経験があります。部落差別、女性差別、外国人差別など、です。その頃にはあまり差別というものが理解できておらず、関心はあったものの、単に単位をとるために勉強した記憶しかありません。しかし、タイのHIV/AIDS問題に関わりだしてから、感染者への差別のみならず、セックスワーカーへの差別(職業差別)、セクシャルマイノリティへの差別、犯罪者(薬物など)への差別、さらにタイ特有の差別としてバンコク人によるイサーン人(東北地方の人)への差別(参考:GINAと共に第31回(2009年1月)「バンコク人 対 イサーン人」)などに強い関心を持つようになりました。
もちろん日本にも差別はあります。HIV感染者への差別は現在では日本の方がタイよりも深刻ですし、部落差別は今も根強くありますし、外国人差別もあります。最近では新型コロナの感染者への差別も無視できません。
これら差別のほぼすべてに共通して存在するのは、「自分の世界との境界の確保」と「自分が他者より優位であることの確保」です。つまり、「私とあなたは生きている世界が違います。私はあなたより優れているんです」という思いが脅かされるときに差別が生まれるのです。
私は過去のコラム(「GINAと共に第109回(2015年7月)「日本のおじさんが同性愛者を嫌う理由」)で、ストレートの人たちがセクシャルマイノリティを差別するのは、「セクシャルマイノリティが羨ましいからだ」という私見を述べました。これは今も間違っていないと思っています。もしもセクシャルマイノリティの人たち全員がとても弱々しく、なおかつ"不幸"な存在であれば、おそらく差別は生まれず「気の毒な人たち」とみられるだけでしょう。しかし実際には、セクシャルマイノリティの人たちは、おしなべて言えば、平均年収が高く、芸術の才能があり、ファッションセンスも高く、生涯のセックスパートナーの人数も多いわけです。それが許せないが故にストレートの人たちはセクシャルマイノリティを差別するのではないかと思うのです。
他の差別をみてみましょう。黒人は明らかに自分とは違う存在であり、その黒人がこの高貴な白人の私に意見を言うことが許せない(先述の白人女性)。黒人が白人と同じように街で暮らしているのが癪(しゃく)に障る。白人の警官の言うことにはすべて文句を言わず従って当然だ(ジョージ・フロイド事件)。HIVや新型コロナの感染者と自分は違う。あなた達は"別世界"の人間なんだから私たちの暮らしに入って来ないで。そして私をあなた達の世界に引き込まないで(病気の差別)。部落の人間が俺たちが出入りする店で俺たちと同じように飲み食いして楽しむのが許せない(部落差別)。月経時に体調を崩し妊娠して出産する女性が我々男性と同じような出世街道に乗るのが許せない(女性差別)。自分の身体を売って生活している人たちは私たちとは別世界。そんな人たちに私たちと同じ権利はいらない(セックスワーカーへの差別)。
このように考えると、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」を脅かすときに起こると考えられます。自分自身も感染する可能性がある感染症は「境界」が脅かされることが差別につながりやすく、「性」「肌の色」「出身地」など生涯変わらないもの(セクシャルアイデンティティは変わり得ますが)については「他者より優位」が脅かされることが差別につながります。
自分と他者との「境界線」は考え方次第でいくらでも引くことができます。自分が他者より優位に立ちたいというのは、人間を動物と考えると「自然な欲求=本能」と言えるかもしれません。ならば差別はなくならないのでしょうか。そんなことはありません。差別をなくす方法はあると私は思っています。次回紹介します。
第167回(2020年5月) 「差別」と「承認欲求」は根源が同じ
新型コロナが流行りだしてメディアの取材を受ける機会が増えてきました。特定の治療や薬の宣伝につながるような取材は以前から断っているのですが、コロナの場合はむしろ世間が誤解していることを解きたいという思いもあり、半分くらいは受けるようにしています。
そのなかで印象に残ったテレビ番組のことを紹介しましょう。その番組は全国放送で、しかも視聴率が高いそうです。担当の記者から「新型コロナに関する差別について意見を聞かせてほしい」という依頼を受けました。そこで、実際に経験した差別があった事例、例えば「他院で熱があるだけで受診拒否された」「明らかに新型コロナの疑いがあったのに保健所では検査を拒否され病院でも門前払いされた(そして結局陽性だった)」「中国帰りというだけで受診を拒否された」といった事例などを患者のプライバシーを確保した上で話しました。
当然私としては「新型コロナに伴う差別は許しがたい」という内容の番組をつくってもらえるものと思っていました。ところが、です。完成した番組を見てみると、たしかに差別を取り上げてくれてはいたのですが、「差別する気持ちもわかる」というコメントが繰り返し入っていたのです。
なぜ差別する者をかばうのか......。私にはこれが理解できずその記者に尋ねてみました。「差別する者も理解しないと解決しない」というのがその答えでした。
しかし私にはその答えでは納得ができません。あきらかに間違った差別をする者を許す理由はありません。今回は新型コロナに伴う差別問題をひとつひとつ取り上げるのではなく、「人はなぜ差別をするのか」という根本的な問題を考えてみたいと思います。しかし、この切り口で考えると学問的なつまらないものになりそうなので、「なぜ私自身が差別を許せないのか」という自分自身のことに対して私見を述べたいと思います。
私が生涯をかけてでもHIV/AIDSに伴う差別を解消したいと"考えた"のは2002年。初めてタイのエイズ施設を訪れたときでした。当時のタイはまだ抗HIV薬がなく誤解がはびこっていて、家族から、地域社会から、そして病院からも追い出されて行き場をなくした人たちが大勢いました。食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられた、バスから引きずり降ろされたといったエピソードは掃いて捨てるほどあり、両親がHIVの赤ちゃんがそのあたりに捨てられていて......、という話も珍しくありませんでした。
私は今、差別を解消したいと"考えた"と言いましたが、正確には理性的に考えたのではなく、身体の奥からメラメラと燃え上がるような衝動を抑えられなかったというのが本当のところです。しかし、よく考えてみると、こういった悲惨な差別の状況を私と同じように知ったとしても何の行動もしない人もいるわけです。というより、そういう人の方が圧倒的に多いわけで、私のように「生涯をかけてでも......」と思う方が奇特なのです。
私がかつて出版した本に『医学部6年間の真実』というものがあります。そのなかで、学生時代に研究から臨床に転向した私が取り組みたいと考えたのが(私は医学部入学当時、医師になるつもりはなく研究者を目指していました)、「病気で差別されている人たちの力になること」と書いてあります。どうも私は「差別」というものに人生を左右されているようです。
そういうわけで、昔から「自分の考えが正しいかどうかは別にして、なぜ私は差別というものにこれほど心を揺さぶられるのか」というのが不思議でした。「差別解消に立ち向かう」と言えば聞こえはいいですし、間違ってはいないでしょうが、本当に差別されている人のためだけなのか、もしかすると単なる自己満足ではないのか、という気持ちは今もあります。
そんな私が差別以外のことで「自分は世間からズレているかもしれない」と昔から気になっているのが「出世や名誉にまるで興味が持てない」ということです。出世を求める会社の上司に幻滅したエピソードは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のコラム「競争しない、という生き方~その2~」で述べました。そもそも、私は就職時(1991年)に空前の好景気であったにも関わらず、有名企業への就職などは初めから眼中になく、非上場の無名な会社に就職しました。ゼミの仲間は私の行動を不思議がっていましたが、そもそも私は彼(女)らと異なり、会社名をまるでブランドのようにとらえるそういうセンスが理解できませんでしたし、大企業で競争にさらされる人生が楽しいとは到底思えなかったのです。
もうひとつ私が「世間からズレているかもしれない」と以前から気になっているのは「お金儲けに興味が持てない」ということです。今述べた就職活動でも、会社が無名というだけでなく、おそらく年収も大企業に比べれば相当低いところに就職しました。その会社をやめた理由も企業人としてのステップアップではなく「大学院進学を目指す」というものでした。結局、医学部受験に方向転換しましたが、当初は社会学部の大学院を目指していたのです。しかし、医学部に入学したのはいいものの、研究の道は(センスも能力もないことを思い知らされ)臨床に変更せざるを得ませんでした。
医師になってからも大病院に就職したり、大学に戻って教授を目指したりすることには一切の興味がありませんでした。そして、自分のやりたい医療を実践するために開業することにしました。「開業すると最初はお金がかかるけどいずれお金持ちになれますね」といったことを過去に100回以上聞きましたが、私はクリニックを開業するときもお金をかけていませんし(用意したのは300万円だけです)、今も収入は多くありません(おそらく医師のなかでは下位10%に入っていると思います)。利益を追求すればできるのかもしれませんが、そういうことにはまるで興味が持てないのです。そもそも医療で利益を得るのはおかしい(患者さんの中には貧困で苦しんでいる人も少なくない)というのが私の考えです。
私には自分のためにお金を稼ごうという意欲がまるで湧きません。ただ、念のために付記しておくと「お金がいらない」とか「お金がなくても幸せ」と言っているわけではありません。タイで「その日に食べるものの確保ができない人たち」を大勢みてきたからです。お金は必要ですが、ある程度の収入で楽しく暮らすことはできます(このあたりは太融寺町谷口医院の過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」でも述べました)。
ここ数年よく聞く言葉に「承認欲求」というものがあります。これも谷口医院の過去のコラム「「承認欲求」から逃れる方法」で述べたことがあります。私が言いたいのは「承認欲求なんて捨ててしまえばいい。変わらざる自己があればそんなものは不要」ということです。
さて、これまで述べてきたように、私が他人と感覚がズレているかもしれないと感じているのは「差別が許せない」「出世や名誉に興味がない」「お金にも興味がない」「承認欲求がない」ということなどです。そして、最近は、これらはすべてがつながっているのではないか、と思うようになってきています。それぞれの言葉を、角度を変えてみてみると次のようになります。
差別が許せない → 自分が上の立場にいたいという気持ちが理解できない
出世や名誉に興味がない → 上の立場になることや他人から尊敬されることに興味がない
お金に興味がない → お金で他人より優位に立つことに興味がない
承認欲求がない → 他人からどう思われるかということに興味がない
完全な平等主義を支持しているわけではありませんが、私は「自分が他人より優れている」と考える人を理解できません。自分を卑下する必要はありませんが、他人より優れているはずとする理由はどこにもありません。これを私が最も強く実感したのが初めてタイのエイズ施設を訪れたときです。実際に患者さんに会うまでは「かわいそうな人たち」という気持ちがどこかにあったのですが、患者さん達と話しているうちにそのような気持ちは吹っ飛びました。代わりに出てきた感情は「自分が医師であなたが患者なのは単に運によるものだ」というものです。つまり、"たまたま"私が医師であなたが患者であるだけの話で、この役割が正しくて逆が正しくないことは自明でない、ということです。
これには反論があるでしょう。例えば、努力して出世するのはいいことではないか、という考えです。私はそうは思いません。努力を否定するわけではありませんし、私自身は努力を生涯続けるつもりです。しかしながら、生まれつき努力が苦手という人もいますし、小学校にも行かせてもらえなかった(当時のタイの患者さんにはそういう人たちが多かった)人たちに「努力せよ」などと言えるでしょうか。
私は「他人より自分が優れている」と考える人に我慢がなりません。そして、おそらく私のこの"感覚"は生まれ持ってのものであり、これからも変わることはないでしょう。ということは、私は生涯を通して差別に対して立ち向かっていくということになります。
そのなかで印象に残ったテレビ番組のことを紹介しましょう。その番組は全国放送で、しかも視聴率が高いそうです。担当の記者から「新型コロナに関する差別について意見を聞かせてほしい」という依頼を受けました。そこで、実際に経験した差別があった事例、例えば「他院で熱があるだけで受診拒否された」「明らかに新型コロナの疑いがあったのに保健所では検査を拒否され病院でも門前払いされた(そして結局陽性だった)」「中国帰りというだけで受診を拒否された」といった事例などを患者のプライバシーを確保した上で話しました。
当然私としては「新型コロナに伴う差別は許しがたい」という内容の番組をつくってもらえるものと思っていました。ところが、です。完成した番組を見てみると、たしかに差別を取り上げてくれてはいたのですが、「差別する気持ちもわかる」というコメントが繰り返し入っていたのです。
なぜ差別する者をかばうのか......。私にはこれが理解できずその記者に尋ねてみました。「差別する者も理解しないと解決しない」というのがその答えでした。
しかし私にはその答えでは納得ができません。あきらかに間違った差別をする者を許す理由はありません。今回は新型コロナに伴う差別問題をひとつひとつ取り上げるのではなく、「人はなぜ差別をするのか」という根本的な問題を考えてみたいと思います。しかし、この切り口で考えると学問的なつまらないものになりそうなので、「なぜ私自身が差別を許せないのか」という自分自身のことに対して私見を述べたいと思います。
私が生涯をかけてでもHIV/AIDSに伴う差別を解消したいと"考えた"のは2002年。初めてタイのエイズ施設を訪れたときでした。当時のタイはまだ抗HIV薬がなく誤解がはびこっていて、家族から、地域社会から、そして病院からも追い出されて行き場をなくした人たちが大勢いました。食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられた、バスから引きずり降ろされたといったエピソードは掃いて捨てるほどあり、両親がHIVの赤ちゃんがそのあたりに捨てられていて......、という話も珍しくありませんでした。
私は今、差別を解消したいと"考えた"と言いましたが、正確には理性的に考えたのではなく、身体の奥からメラメラと燃え上がるような衝動を抑えられなかったというのが本当のところです。しかし、よく考えてみると、こういった悲惨な差別の状況を私と同じように知ったとしても何の行動もしない人もいるわけです。というより、そういう人の方が圧倒的に多いわけで、私のように「生涯をかけてでも......」と思う方が奇特なのです。
私がかつて出版した本に『医学部6年間の真実』というものがあります。そのなかで、学生時代に研究から臨床に転向した私が取り組みたいと考えたのが(私は医学部入学当時、医師になるつもりはなく研究者を目指していました)、「病気で差別されている人たちの力になること」と書いてあります。どうも私は「差別」というものに人生を左右されているようです。
そういうわけで、昔から「自分の考えが正しいかどうかは別にして、なぜ私は差別というものにこれほど心を揺さぶられるのか」というのが不思議でした。「差別解消に立ち向かう」と言えば聞こえはいいですし、間違ってはいないでしょうが、本当に差別されている人のためだけなのか、もしかすると単なる自己満足ではないのか、という気持ちは今もあります。
そんな私が差別以外のことで「自分は世間からズレているかもしれない」と昔から気になっているのが「出世や名誉にまるで興味が持てない」ということです。出世を求める会社の上司に幻滅したエピソードは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のコラム「競争しない、という生き方~その2~」で述べました。そもそも、私は就職時(1991年)に空前の好景気であったにも関わらず、有名企業への就職などは初めから眼中になく、非上場の無名な会社に就職しました。ゼミの仲間は私の行動を不思議がっていましたが、そもそも私は彼(女)らと異なり、会社名をまるでブランドのようにとらえるそういうセンスが理解できませんでしたし、大企業で競争にさらされる人生が楽しいとは到底思えなかったのです。
もうひとつ私が「世間からズレているかもしれない」と以前から気になっているのは「お金儲けに興味が持てない」ということです。今述べた就職活動でも、会社が無名というだけでなく、おそらく年収も大企業に比べれば相当低いところに就職しました。その会社をやめた理由も企業人としてのステップアップではなく「大学院進学を目指す」というものでした。結局、医学部受験に方向転換しましたが、当初は社会学部の大学院を目指していたのです。しかし、医学部に入学したのはいいものの、研究の道は(センスも能力もないことを思い知らされ)臨床に変更せざるを得ませんでした。
医師になってからも大病院に就職したり、大学に戻って教授を目指したりすることには一切の興味がありませんでした。そして、自分のやりたい医療を実践するために開業することにしました。「開業すると最初はお金がかかるけどいずれお金持ちになれますね」といったことを過去に100回以上聞きましたが、私はクリニックを開業するときもお金をかけていませんし(用意したのは300万円だけです)、今も収入は多くありません(おそらく医師のなかでは下位10%に入っていると思います)。利益を追求すればできるのかもしれませんが、そういうことにはまるで興味が持てないのです。そもそも医療で利益を得るのはおかしい(患者さんの中には貧困で苦しんでいる人も少なくない)というのが私の考えです。
私には自分のためにお金を稼ごうという意欲がまるで湧きません。ただ、念のために付記しておくと「お金がいらない」とか「お金がなくても幸せ」と言っているわけではありません。タイで「その日に食べるものの確保ができない人たち」を大勢みてきたからです。お金は必要ですが、ある程度の収入で楽しく暮らすことはできます(このあたりは太融寺町谷口医院の過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」でも述べました)。
ここ数年よく聞く言葉に「承認欲求」というものがあります。これも谷口医院の過去のコラム「「承認欲求」から逃れる方法」で述べたことがあります。私が言いたいのは「承認欲求なんて捨ててしまえばいい。変わらざる自己があればそんなものは不要」ということです。
さて、これまで述べてきたように、私が他人と感覚がズレているかもしれないと感じているのは「差別が許せない」「出世や名誉に興味がない」「お金にも興味がない」「承認欲求がない」ということなどです。そして、最近は、これらはすべてがつながっているのではないか、と思うようになってきています。それぞれの言葉を、角度を変えてみてみると次のようになります。
差別が許せない → 自分が上の立場にいたいという気持ちが理解できない
出世や名誉に興味がない → 上の立場になることや他人から尊敬されることに興味がない
お金に興味がない → お金で他人より優位に立つことに興味がない
承認欲求がない → 他人からどう思われるかということに興味がない
完全な平等主義を支持しているわけではありませんが、私は「自分が他人より優れている」と考える人を理解できません。自分を卑下する必要はありませんが、他人より優れているはずとする理由はどこにもありません。これを私が最も強く実感したのが初めてタイのエイズ施設を訪れたときです。実際に患者さんに会うまでは「かわいそうな人たち」という気持ちがどこかにあったのですが、患者さん達と話しているうちにそのような気持ちは吹っ飛びました。代わりに出てきた感情は「自分が医師であなたが患者なのは単に運によるものだ」というものです。つまり、"たまたま"私が医師であなたが患者であるだけの話で、この役割が正しくて逆が正しくないことは自明でない、ということです。
これには反論があるでしょう。例えば、努力して出世するのはいいことではないか、という考えです。私はそうは思いません。努力を否定するわけではありませんし、私自身は努力を生涯続けるつもりです。しかしながら、生まれつき努力が苦手という人もいますし、小学校にも行かせてもらえなかった(当時のタイの患者さんにはそういう人たちが多かった)人たちに「努力せよ」などと言えるでしょうか。
私は「他人より自分が優れている」と考える人に我慢がなりません。そして、おそらく私のこの"感覚"は生まれ持ってのものであり、これからも変わることはないでしょう。ということは、私は生涯を通して差別に対して立ち向かっていくということになります。
第166回(2020年4月) もう以前のタイには戻らない
新型コロナが猛威を振るい、3月26日から外国人はタイに入国できなくなっています。GINAのサイトを長年見てくれている人のみならず、私が院長を務める太融寺町谷口医院の患者さんのなかにも「タイ好き」は多く、ゴールデンウィークや夏季休暇の度にタイを訪れるという人も少なくありません。
しかし今年のゴールデンウィークに入国できないのはほぼ確実ですし、夏休みもどうなるか分かりません。では、いずれ昔のように(と言っても、つい最近のことですが)気軽に訪タイし、タイを楽しむ、あるいはタイに癒されることができるようになるのでしょうか。
私の考えは悲観的です。もう以前のタイには戻らないと思います。これはタイが新型コロナの被害を大きく受けて国家が衰退するからではありません。むしろその逆で、タイは日本よりも上手く新型コロナをコントロールし、「日常」を早く取り戻すでしょう。日本の中途半端な緊急事態宣言とは異なり、タイの非常事態宣言(英語では日タイともに新聞上ではstate of emergencyですが、日本では緊急事態宣言、タイでは非常事態宣言とされます)の方がはるかに厳しく、また効果的だからです。ただしその「日常」は、私たちがつい最近まで知っていたタイのあの日常とは異なるはずです。今回はこの新しい日常について私見をふんだんに取り入れながら話したいと思います。
私がタイに関わりだしたのは2002年です。このときのHIV/AIDSの状況は極めて悲惨なもので、まだ抗HIV薬も使われておらず「HIV感染=死」でした。その筆舌に尽くしがたい状態を見聞きし、家族からも村からも追い出され、そして医療機関からも差別を受けていた人たちの力になりたいという気持ちがその後のGINA設立へとつながりました。2004年から本格的にタイを往復するようになり、HIV関連で大勢の人から話を聞きました。タイ人のみならず欧米人や日本人からもインタビューを重ねました。
そのときに気づいたのが、タイという国に人気があるのは文化・歴史・風俗(性風俗ではない元々の意味の風俗)よりも「色」と「薬物」が魅力的だからだ、ということです。特に日本人の男性は、私と話し始めた最初のうちは「タイが好きな理由は、文化とか食べ物とか、それに物価が安いでしょ」などと言うのですが、そのうちにタイの女性(あるいは男性)の虜になっていることを教えてくれます。欧米人も同じですし、女性も大多数とまでは言いませんが、ロマンスやセックスを求めて訪タイしている人がいかに多いか。
ごく稀にそういうわけではなく純粋にタイの文化や歴史に興味を持っている人もいましたが、非常に少数です(特に男性は)。ただ、私はそれを悪いことと言っているわけではなく、直接、あるいは間接的に聞くロマンスには感動を覚えるものも少なくありません。結婚に至った例も珍しくはありません。もっとも、私の知る範囲で言えば、たいていは数年後には離婚しているのですが。
はじめはそういうつもりがなくても、日本にいた頃が嘘みたいに「よくモテる」という声も何度も聞きました。日本人というだけでモテるというのです。最初こういう話を聞いたときは、日本人はお金があるからだろう、と思っていたのですが、どうもそういうわけではなく、たしかにお金は日本人が出すことがほとんどですが、決して「お金があるから」というわけでもないことを何人もの日本人の男女から聞いて納得しました。
さて、新型コロナです。現在のタイで発令されている非常事態宣言は日本よりも厳しいのですが、私のもとに届く情報では動乱や混乱はなく国民の大半がおだやかに秩序を保っているようです。外出禁止令には罰金を伴いますし、屋台はテイクアウトのみで、ほとんどの人が外出時にはマスクをしています。マスクや消毒液などは不足していますが、日本のような殺伐とした雰囲気にはなっていないようです。これがタイの良き文化なのか、非常時にはみんなが協力しあうという空気が自然に生まれているのかもしれません。
そして、当然のことながら夜の街は壊滅状態のようです。タニヤもパッポンもナナもソイカウボーイもほとんど人がいないと聞きます。パタヤの情報は直接は入ってきませんが、ネット上の情報では閑散としているようです。我々外国人がついこの間までよく知っていたタイではなく、多くの外国人が生気を失っているかのようだそうです。
では、やがて非常事態宣言が解除され新型コロナの感染者が大きく減少すれば「元のタイ」に戻るのでしょうか。私の答えは「ノー」です。その理由は2つあります。1つは「タイはすでにそれなりに裕福になったこと」です。これは新型コロナが流行する前から、しばしば聞いていたことですが、以前のように、親に売られて春を鬻ぐといった女子はもはや皆無で、イサーンや北部の田舎に行っても中学生がスマホを持っていると言います。中学に行かせてもらえず農作業を手伝う男女もほとんどいないと聞きます。
つまり、お金を持っているという理由で(日本人を含む)外国人に憧れるような空気はすでにないわけです。それどころか、新型コロナは外国から入ってくるわけですから、これからは外国人というだけでむしろ避けられる可能性すらあると思います。昔のように、日本人というだけで「コボリ、コボリ」と言ってタイ人に囲まれるといったことはないでしょう(2000年代中頃、日本人がほとんど訪れたことのないイサーン地方のへき地などに行くとこういうことがしばしばありました。参照:GINAと共に第75回「恥ずべき北タイのロングステイヤー達」)。
もうひとつの「元のタイには戻らない」と考える理由は、新型コロナの影響で人々の考えがドラスティックに変わる可能性があるからです。ここで過去のコラム「エロティシズムを克服する方法」でも取り上げた「マズローの欲求段階説」を再び考えてみましょう。マズローによれば、人間の欲求には「順番」があり、先に生じるものから並べると、①生理的欲求、②安全の欲求、③社会的欲求(友達や恋人がほしい)、④承認欲求、⑤自己実現の欲求です。
先述したように、タイの非常事態宣言は日本よりも厳しく、しかもそれを不満に感じている人もおらずみんなが政府の指導に従っていると聞きます。罰則が厳しいからというのも理由のひとつでしょうが、他の違反(例えば交通違反)のように「違反をしても警官に賄賂を渡せばいい」と考える人もほとんどいないと聞きます。おそらく非常事態宣言を厳密に守っている最大の理由は「新型コロナへの恐怖」ではないでしょうか。
周知のように、新型コロナは発症している人からのみならず、発症前の無症状の時期に感染しやすいことが分かっています。例えばある研究によれば家族内感染などの二次感染の44%は、感染者が発症する前の数日間に感染していることが分かりました。これが意味することは小さくありません。なぜなら、数日後に風邪をひくかどうかはその時点では誰にも分からないからです。
目の前の男性(女性)がどれだけ魅力的で、もちろん風邪症状がなかったとしても、数日後にその人が風邪をひかない保証はどこにもありません。ということは、他人と緊密な距離(それはもちろんキスや性行為のことを指すわけですが)をとるのならば新型コロナに自分自身が感染するかもしれないリスクを抱えなければならない、ということを意味します。
もちろんこれはタイに限ったことではなく世界中の誰もが考えなければならないとてもむつかしい問題です。いくらかの人は「そんなこと気にしない」と言うでしょうが、世界中で若年者も含めて重症化したり死亡したりする例が報告されているわけです。新型コロナ流行以前とは他人との距離の取り方を大きく変える人が増えるのは間違いありません。
私はセックスツーリズムに批判的な立場で、単純にセックスを求めてタイを訪れる外国人には好意が持てません。ですが、その結果、タイに活気があふれ、さらにその活気がタイの経済を発展させ、また単純なセックス以外のロマンスが数多く生まれているのは事実です。マズローの欲求段階説が正しいとすれば、②安全の欲求、を確保するためにセックスやロマンスはかつてのような勢いにはならないはずです。タイだけが変わるわけではありませんが、世界のなかでも特にセックス・ロマンスで活気づいていた国のひとつがタイであることに異論はないでしょう。
もはやタイは昔の状態には戻りません。そして、個人的にはその新しいタイを早く見てみたいと思っています。
しかし今年のゴールデンウィークに入国できないのはほぼ確実ですし、夏休みもどうなるか分かりません。では、いずれ昔のように(と言っても、つい最近のことですが)気軽に訪タイし、タイを楽しむ、あるいはタイに癒されることができるようになるのでしょうか。
私の考えは悲観的です。もう以前のタイには戻らないと思います。これはタイが新型コロナの被害を大きく受けて国家が衰退するからではありません。むしろその逆で、タイは日本よりも上手く新型コロナをコントロールし、「日常」を早く取り戻すでしょう。日本の中途半端な緊急事態宣言とは異なり、タイの非常事態宣言(英語では日タイともに新聞上ではstate of emergencyですが、日本では緊急事態宣言、タイでは非常事態宣言とされます)の方がはるかに厳しく、また効果的だからです。ただしその「日常」は、私たちがつい最近まで知っていたタイのあの日常とは異なるはずです。今回はこの新しい日常について私見をふんだんに取り入れながら話したいと思います。
私がタイに関わりだしたのは2002年です。このときのHIV/AIDSの状況は極めて悲惨なもので、まだ抗HIV薬も使われておらず「HIV感染=死」でした。その筆舌に尽くしがたい状態を見聞きし、家族からも村からも追い出され、そして医療機関からも差別を受けていた人たちの力になりたいという気持ちがその後のGINA設立へとつながりました。2004年から本格的にタイを往復するようになり、HIV関連で大勢の人から話を聞きました。タイ人のみならず欧米人や日本人からもインタビューを重ねました。
そのときに気づいたのが、タイという国に人気があるのは文化・歴史・風俗(性風俗ではない元々の意味の風俗)よりも「色」と「薬物」が魅力的だからだ、ということです。特に日本人の男性は、私と話し始めた最初のうちは「タイが好きな理由は、文化とか食べ物とか、それに物価が安いでしょ」などと言うのですが、そのうちにタイの女性(あるいは男性)の虜になっていることを教えてくれます。欧米人も同じですし、女性も大多数とまでは言いませんが、ロマンスやセックスを求めて訪タイしている人がいかに多いか。
ごく稀にそういうわけではなく純粋にタイの文化や歴史に興味を持っている人もいましたが、非常に少数です(特に男性は)。ただ、私はそれを悪いことと言っているわけではなく、直接、あるいは間接的に聞くロマンスには感動を覚えるものも少なくありません。結婚に至った例も珍しくはありません。もっとも、私の知る範囲で言えば、たいていは数年後には離婚しているのですが。
はじめはそういうつもりがなくても、日本にいた頃が嘘みたいに「よくモテる」という声も何度も聞きました。日本人というだけでモテるというのです。最初こういう話を聞いたときは、日本人はお金があるからだろう、と思っていたのですが、どうもそういうわけではなく、たしかにお金は日本人が出すことがほとんどですが、決して「お金があるから」というわけでもないことを何人もの日本人の男女から聞いて納得しました。
さて、新型コロナです。現在のタイで発令されている非常事態宣言は日本よりも厳しいのですが、私のもとに届く情報では動乱や混乱はなく国民の大半がおだやかに秩序を保っているようです。外出禁止令には罰金を伴いますし、屋台はテイクアウトのみで、ほとんどの人が外出時にはマスクをしています。マスクや消毒液などは不足していますが、日本のような殺伐とした雰囲気にはなっていないようです。これがタイの良き文化なのか、非常時にはみんなが協力しあうという空気が自然に生まれているのかもしれません。
そして、当然のことながら夜の街は壊滅状態のようです。タニヤもパッポンもナナもソイカウボーイもほとんど人がいないと聞きます。パタヤの情報は直接は入ってきませんが、ネット上の情報では閑散としているようです。我々外国人がついこの間までよく知っていたタイではなく、多くの外国人が生気を失っているかのようだそうです。
では、やがて非常事態宣言が解除され新型コロナの感染者が大きく減少すれば「元のタイ」に戻るのでしょうか。私の答えは「ノー」です。その理由は2つあります。1つは「タイはすでにそれなりに裕福になったこと」です。これは新型コロナが流行する前から、しばしば聞いていたことですが、以前のように、親に売られて春を鬻ぐといった女子はもはや皆無で、イサーンや北部の田舎に行っても中学生がスマホを持っていると言います。中学に行かせてもらえず農作業を手伝う男女もほとんどいないと聞きます。
つまり、お金を持っているという理由で(日本人を含む)外国人に憧れるような空気はすでにないわけです。それどころか、新型コロナは外国から入ってくるわけですから、これからは外国人というだけでむしろ避けられる可能性すらあると思います。昔のように、日本人というだけで「コボリ、コボリ」と言ってタイ人に囲まれるといったことはないでしょう(2000年代中頃、日本人がほとんど訪れたことのないイサーン地方のへき地などに行くとこういうことがしばしばありました。参照:GINAと共に第75回「恥ずべき北タイのロングステイヤー達」)。
もうひとつの「元のタイには戻らない」と考える理由は、新型コロナの影響で人々の考えがドラスティックに変わる可能性があるからです。ここで過去のコラム「エロティシズムを克服する方法」でも取り上げた「マズローの欲求段階説」を再び考えてみましょう。マズローによれば、人間の欲求には「順番」があり、先に生じるものから並べると、①生理的欲求、②安全の欲求、③社会的欲求(友達や恋人がほしい)、④承認欲求、⑤自己実現の欲求です。
先述したように、タイの非常事態宣言は日本よりも厳しく、しかもそれを不満に感じている人もおらずみんなが政府の指導に従っていると聞きます。罰則が厳しいからというのも理由のひとつでしょうが、他の違反(例えば交通違反)のように「違反をしても警官に賄賂を渡せばいい」と考える人もほとんどいないと聞きます。おそらく非常事態宣言を厳密に守っている最大の理由は「新型コロナへの恐怖」ではないでしょうか。
周知のように、新型コロナは発症している人からのみならず、発症前の無症状の時期に感染しやすいことが分かっています。例えばある研究によれば家族内感染などの二次感染の44%は、感染者が発症する前の数日間に感染していることが分かりました。これが意味することは小さくありません。なぜなら、数日後に風邪をひくかどうかはその時点では誰にも分からないからです。
目の前の男性(女性)がどれだけ魅力的で、もちろん風邪症状がなかったとしても、数日後にその人が風邪をひかない保証はどこにもありません。ということは、他人と緊密な距離(それはもちろんキスや性行為のことを指すわけですが)をとるのならば新型コロナに自分自身が感染するかもしれないリスクを抱えなければならない、ということを意味します。
もちろんこれはタイに限ったことではなく世界中の誰もが考えなければならないとてもむつかしい問題です。いくらかの人は「そんなこと気にしない」と言うでしょうが、世界中で若年者も含めて重症化したり死亡したりする例が報告されているわけです。新型コロナ流行以前とは他人との距離の取り方を大きく変える人が増えるのは間違いありません。
私はセックスツーリズムに批判的な立場で、単純にセックスを求めてタイを訪れる外国人には好意が持てません。ですが、その結果、タイに活気があふれ、さらにその活気がタイの経済を発展させ、また単純なセックス以外のロマンスが数多く生まれているのは事実です。マズローの欲求段階説が正しいとすれば、②安全の欲求、を確保するためにセックスやロマンスはかつてのような勢いにはならないはずです。タイだけが変わるわけではありませんが、世界のなかでも特にセックス・ロマンスで活気づいていた国のひとつがタイであることに異論はないでしょう。
もはやタイは昔の状態には戻りません。そして、個人的にはその新しいタイを早く見てみたいと思っています。
第165回(2020年3月) 新型コロナ騒動で分かったタイ人の変化
新型コロナウイルス(以下「COVID-19」)の世界的流行を受けて、タイ政府は2020年3月26日、感染の蔓延を防ぐため、タイ全土に非常事態を宣言しました。外国人(もちろん日本人を含む)の入国を原則禁止し、高齢者らの自宅待機や県境を越える移動の自粛などが求められることになるそうです。
非常事態宣言が出されるだろうという話はすでに3月中旬から盛んに噂されるようになっていました。また、タイ航空を始めとするタイの航空会社は比較的早い段階で「健康であることを示す証明書」を求めるようになっていました。当初は「新型コロナウイルスに感染していないことを証明するもの」が必要と言われていたのですが、日本では今もごく限られた人にしか検査(PCR)を受けることが許されていないためこれは不可能です。
一部、中国などで使われている簡易キットを取り入れている医療機関があるようですが、この検査は精度が高いとは言えず、検査で陰性であっても感染していないとは言えません。そこで結局、陰性という検査結果がなくても医師が健康であることを証明すればいいということになりました。これをタイ(領事館及び航空会社)は「fit to fly health certificate」と呼んでいます。
その証明書を求めて3月中旬から、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)に大勢のタイ人が来院しています。谷口医院では、オープンした2007年からタイ人の患者さんがコンスタントに受診していますが、これだけ大勢のタイ人が短期間にやってきたのは開院以来初めてです。多い日は1日10人以上のタイ人が来ています。
ここ数年間は繁華街でタイ語を耳にする機会が増えていましたから、観光で訪れるタイ人が増えているなという実感はあったのですが、日本で1日に10人以上のタイ人と会話することなどこれまでありませんでした。そして、あらためてタイという国が、そしてタイ人が変わったなと思わずにはいられません。
2006年のある日、タイのある大学の公衆衛生学の助教授からメールが入りました。「翌年(2007年)に京都で開催される国際学会で発表することが決まったのだけれどビザがおりない。そこで保証人になってもらえないか」という内容でした。偶然にも私自身もその国際学会で発表する予定があったこともあり、二つ返事で引き受けました。そして、何枚もの複雑な書類を作成することになりました。私が医師であることを証明する書類や、私自身の経歴の詳細を記載した書類の提出も求められました。率直に言うと、二度とやりたくない面倒くさい手続きでした。
なぜここまでやらないといけなかったのか。おそらく「素行のよくない」タイ人を入国させることを日本が嫌っていたからでしょう。しかし、この助教授はタイの由緒ある大学で教鞭をとっており、来日の目的は国際学会での発表なのです。
さらに驚いたのは、助教授が宿泊したホテルです。京都の路地裏にある一応ビジネスホテルとは呼べますが、狭くて決して清潔とは言えないようなおそらく一泊3千円くらいのホテルなのです。谷口医院を開院する前の2005年から2006年頃、私は繰り返しタイに渡航しエイズ施設を訪れ、また一般のタイ人からも取材をしていました。当時よくタイ人から「普通のタイ人は一生の間、日本のような国に行けることはない」と聞いていました。
ところがそれからおよそ15年がたった2020年、タイ人はまるで週末に近場に旅行に行くような感覚で日本に来ています。この1~2週間で谷口医院にやってきた数十人のタイ人を私なりに3つのグループに分類すると次のようになります。
#1 日本の大学、大学院、専門学校で学んで卒業したタイ人。または日本の企業で数年間働いていたタイ人。
彼(女)らのなかには驚くほど日本語ができる人もいます。しかも、多くのタイ人が苦手な「shi」や「tsu」の発音をスムーズにできる人も少なくありません。日本人の日本語と区別がつかないような人すらいます。さらに驚かされるのが、日本人と変わらないレベルで日本語のメールを送ってくるタイ人もいたことです。漢字はもちろん助詞も正確に使っているのです。
日本語があまりできないという人もなかにはいますが、そういう人たちは例外なく英語ができます。その英語はきちんとした英語で、「セイム・セイム」(タイに詳しい人なら分かってもらえると思います)のようなタイ人独特の英語ではありません。彼(女)らをみていると、タイは日本よりもはるかにグローバル化が進んだ先進国のようにすら思えます。
#2 いわゆる「就労生」
東南アジアからの「就労生」といえば、(関西では)ここ数年はベトナムからやってくる若者が圧倒的に多く、私自身はタイ人の就労生が存在することすら知りませんでした。谷口医院を受診したタイ人で言えば、全員が男性で英語ができたタイ人はひとりもいません。日本語のレベルは様々で、ある程度の日常会話ができる人がいる一方で、ほとんど話せない人もいました。日本語も英語もできずによくやってこれたなと思いますが、ベトナムからの就労生もこういう若者が少なくありません。ちなみに、日本語も英語もできない若いタイ人に「タムガーン・アライ(仕事は何?)」と聞くと「ゲンバ・チ(シ)ゴト」という言葉が返って来てこれが彼の話した唯一の日本語でした。
この若い男性、始終ニコニコして人なつっこい印象(つまり典型的なタイ人の印象)があり、たまたまそのときは少し時間に余裕があったこともあり「ペン・コン・ジャンワット・アライ(出身県はどこですか?」と尋ねると「サコンナコーン(県)」という答えが返ってきたので、「イヌを食べたことある?」と聞くと、大爆笑していました。イサーン地方にある同県は犬を食べることで有名だからです。ただし私はこれまで同県出身者に何度か尋ねたことがありますが「食べたことがある」という人にお目にかかったことがありません。「私のおじさんが食べていた」という話ならあります。ちなみに、「犬を食べたことがあるか」というこの質問、女性にはすべきではありません。私は一度タイである女性に冗談で言ったところ気分を害されてしまいました......。
#3 短期の旅行客
カップルでの旅行、友達との旅行、家族旅行といろんなパターンがありました。彼(女)らは日本語はほとんどできず、英語もいわゆるタイ人の英語、つまり、時制なし、冠詞なし、発音はタイ語のイントネーションの英語です。ホテルや訪問先を事細かく尋ねるようなことはできませんが、高級ホテルに宿泊している若者が多いことに驚かされました。
上記#1、#2、#3のいずれのパターンも、時間があれば出身県とニックネーム(チュー・レン)を聞いてみました。このようなことを聞かれるとは彼(女)らは思っていないので、とても驚かれますがその後のコミュニケーションがスムーズになります。これは医師患者関係でなくとも、タイ人と仲良くなる時の基本だと私は思っています。
今月診察した数十人を振り返ると、出身は南部、中央部、北部、イサーン地方のいずれの地域もありました(南部は少なかった)。出身地で見る目を変えてはいけないのはポリティカル・コレクトネスとしては正しいわけですが、(以前の)タイをある程度知った者からすれば、イサーン地方出身の若者が短期旅行で日本を訪れ、しかも高級ホテルに泊まっているという事実は俄かには信じがたいことです。
15年近く前のこととはいえ、先述した大学の助教授のビザ申請のために私の医師免許が必要だったことが嘘のようです。日本とタイの「差」などもはやほとんどないのかもしれません。
GINAが支援しているタイのいくつかのエイズ施設の現状はそう大きく変わっていないように思えるのですが、将来的には支援の矛先を変更すべきかもしれない......。短期間に数十人のタイ人と話してそのように感じました。
非常事態宣言が出されるだろうという話はすでに3月中旬から盛んに噂されるようになっていました。また、タイ航空を始めとするタイの航空会社は比較的早い段階で「健康であることを示す証明書」を求めるようになっていました。当初は「新型コロナウイルスに感染していないことを証明するもの」が必要と言われていたのですが、日本では今もごく限られた人にしか検査(PCR)を受けることが許されていないためこれは不可能です。
一部、中国などで使われている簡易キットを取り入れている医療機関があるようですが、この検査は精度が高いとは言えず、検査で陰性であっても感染していないとは言えません。そこで結局、陰性という検査結果がなくても医師が健康であることを証明すればいいということになりました。これをタイ(領事館及び航空会社)は「fit to fly health certificate」と呼んでいます。
その証明書を求めて3月中旬から、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)に大勢のタイ人が来院しています。谷口医院では、オープンした2007年からタイ人の患者さんがコンスタントに受診していますが、これだけ大勢のタイ人が短期間にやってきたのは開院以来初めてです。多い日は1日10人以上のタイ人が来ています。
ここ数年間は繁華街でタイ語を耳にする機会が増えていましたから、観光で訪れるタイ人が増えているなという実感はあったのですが、日本で1日に10人以上のタイ人と会話することなどこれまでありませんでした。そして、あらためてタイという国が、そしてタイ人が変わったなと思わずにはいられません。
2006年のある日、タイのある大学の公衆衛生学の助教授からメールが入りました。「翌年(2007年)に京都で開催される国際学会で発表することが決まったのだけれどビザがおりない。そこで保証人になってもらえないか」という内容でした。偶然にも私自身もその国際学会で発表する予定があったこともあり、二つ返事で引き受けました。そして、何枚もの複雑な書類を作成することになりました。私が医師であることを証明する書類や、私自身の経歴の詳細を記載した書類の提出も求められました。率直に言うと、二度とやりたくない面倒くさい手続きでした。
なぜここまでやらないといけなかったのか。おそらく「素行のよくない」タイ人を入国させることを日本が嫌っていたからでしょう。しかし、この助教授はタイの由緒ある大学で教鞭をとっており、来日の目的は国際学会での発表なのです。
さらに驚いたのは、助教授が宿泊したホテルです。京都の路地裏にある一応ビジネスホテルとは呼べますが、狭くて決して清潔とは言えないようなおそらく一泊3千円くらいのホテルなのです。谷口医院を開院する前の2005年から2006年頃、私は繰り返しタイに渡航しエイズ施設を訪れ、また一般のタイ人からも取材をしていました。当時よくタイ人から「普通のタイ人は一生の間、日本のような国に行けることはない」と聞いていました。
ところがそれからおよそ15年がたった2020年、タイ人はまるで週末に近場に旅行に行くような感覚で日本に来ています。この1~2週間で谷口医院にやってきた数十人のタイ人を私なりに3つのグループに分類すると次のようになります。
#1 日本の大学、大学院、専門学校で学んで卒業したタイ人。または日本の企業で数年間働いていたタイ人。
彼(女)らのなかには驚くほど日本語ができる人もいます。しかも、多くのタイ人が苦手な「shi」や「tsu」の発音をスムーズにできる人も少なくありません。日本人の日本語と区別がつかないような人すらいます。さらに驚かされるのが、日本人と変わらないレベルで日本語のメールを送ってくるタイ人もいたことです。漢字はもちろん助詞も正確に使っているのです。
日本語があまりできないという人もなかにはいますが、そういう人たちは例外なく英語ができます。その英語はきちんとした英語で、「セイム・セイム」(タイに詳しい人なら分かってもらえると思います)のようなタイ人独特の英語ではありません。彼(女)らをみていると、タイは日本よりもはるかにグローバル化が進んだ先進国のようにすら思えます。
#2 いわゆる「就労生」
東南アジアからの「就労生」といえば、(関西では)ここ数年はベトナムからやってくる若者が圧倒的に多く、私自身はタイ人の就労生が存在することすら知りませんでした。谷口医院を受診したタイ人で言えば、全員が男性で英語ができたタイ人はひとりもいません。日本語のレベルは様々で、ある程度の日常会話ができる人がいる一方で、ほとんど話せない人もいました。日本語も英語もできずによくやってこれたなと思いますが、ベトナムからの就労生もこういう若者が少なくありません。ちなみに、日本語も英語もできない若いタイ人に「タムガーン・アライ(仕事は何?)」と聞くと「ゲンバ・チ(シ)ゴト」という言葉が返って来てこれが彼の話した唯一の日本語でした。
この若い男性、始終ニコニコして人なつっこい印象(つまり典型的なタイ人の印象)があり、たまたまそのときは少し時間に余裕があったこともあり「ペン・コン・ジャンワット・アライ(出身県はどこですか?」と尋ねると「サコンナコーン(県)」という答えが返ってきたので、「イヌを食べたことある?」と聞くと、大爆笑していました。イサーン地方にある同県は犬を食べることで有名だからです。ただし私はこれまで同県出身者に何度か尋ねたことがありますが「食べたことがある」という人にお目にかかったことがありません。「私のおじさんが食べていた」という話ならあります。ちなみに、「犬を食べたことがあるか」というこの質問、女性にはすべきではありません。私は一度タイである女性に冗談で言ったところ気分を害されてしまいました......。
#3 短期の旅行客
カップルでの旅行、友達との旅行、家族旅行といろんなパターンがありました。彼(女)らは日本語はほとんどできず、英語もいわゆるタイ人の英語、つまり、時制なし、冠詞なし、発音はタイ語のイントネーションの英語です。ホテルや訪問先を事細かく尋ねるようなことはできませんが、高級ホテルに宿泊している若者が多いことに驚かされました。
上記#1、#2、#3のいずれのパターンも、時間があれば出身県とニックネーム(チュー・レン)を聞いてみました。このようなことを聞かれるとは彼(女)らは思っていないので、とても驚かれますがその後のコミュニケーションがスムーズになります。これは医師患者関係でなくとも、タイ人と仲良くなる時の基本だと私は思っています。
今月診察した数十人を振り返ると、出身は南部、中央部、北部、イサーン地方のいずれの地域もありました(南部は少なかった)。出身地で見る目を変えてはいけないのはポリティカル・コレクトネスとしては正しいわけですが、(以前の)タイをある程度知った者からすれば、イサーン地方出身の若者が短期旅行で日本を訪れ、しかも高級ホテルに泊まっているという事実は俄かには信じがたいことです。
15年近く前のこととはいえ、先述した大学の助教授のビザ申請のために私の医師免許が必要だったことが嘘のようです。日本とタイの「差」などもはやほとんどないのかもしれません。
GINAが支援しているタイのいくつかのエイズ施設の現状はそう大きく変わっていないように思えるのですが、将来的には支援の矛先を変更すべきかもしれない......。短期間に数十人のタイ人と話してそのように感じました。
第164回(2020年2月) エロティシズムを克服する方法
抑えられない性欲はどうすればいいのか。つまり身体の奥から湧き出てくるエロティシズムにはどう向き合うべきなのか。まず初めに、前回述べたことをまとめておきましょう。
・特定のパートナーとの間に「愛情」は長く続いたとしても「エロティシズム」はやがて色あせていく
・エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に比例する
・非日常の極限は「死」である。よって澁澤龍彦が指摘したように「情死」は最高のエロティシズムである。
・非日常的な体験のなかで最も現実的なもののひとつが「不倫」である。不倫の初期は極めて高度なエロティシズムが体験できる。しかし、やがて色あせていく。
同じ刺激でエロティシズムが長続きしないのは分子生物学的にもある程度あきらかになっています。恋愛初期のドキドキ感を自覚しているときには脳内にドーパミンやノルアドレナリンといった「興奮系」の神経伝達物質の分泌量が増えます。数か月たてばこういった物質が減少しますが、代わってオキシトシンを中心としたいわば「安心系」の物質が多量に分泌されるようになります。こういうとき人は穏やかで平和的な気持ちになり幸福感に包まれます。まだこの時期においては多少の"誘惑"があったとしてもその幸福感の強度の方が大きいために「浮気」へ進行する可能性が低いのです。
初めてこういった「恋愛の分子生物学」をまとめ上げたのが米国の人類学者ヘレン・フィッシャーで、1993年の著書『Anatomy of Love』(邦題『愛はなぜ終わるのか』)は世界中でベストセラーとなりました。世界の多くの地域で「人間は4年で離婚する」という共通点があることを明らかにし、さらに分子生物学的な観点から神経伝達物質の分泌との関連に言及したこの著作は世界中の大勢の人々を魅了しました。
前回からのテーマは「抑えられない性欲=エロティシズムにはどう対処すればいいのか」ということでした。今までの議論では不倫も含めた恋愛の初期、あるいは恋愛ではなくとも異性(または同性)と出会ったばかりの時点で感じるエロティシズムについて述べてきました。では、人は自分の好みの異性(または同性)と出会えばいつもエロティシズムを感じるのでしょうか。
2019年12月、中国の武漢市で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に日本を含む世界中に広がりました。SARSやMERSほどではないにせよ、中国では若い医師が犠牲になっていることからも分かるように、決してあなどってはいけない感染症です。実際、新型コロナウイルスのせいで入国制限、入国拒否、各種イベントの中止などが起こり、現在も終息する様子はありません。
さて、このような情勢のなか、出会ったばかりの他人と性行為が持てるでしょうか。新型コロナウイルスは軽症者からも重症者と同じ程度の量のウイルスが検出されることがわかっています。つまり、キスをしただけでも無症状の相手からあなたにこの病原体が感染する可能性があるわけです。
運命と出会えるような人と出会ったならば気にならない、という人もいるかもしれません。では、感染力が新型コロナウイルスと同様で、やはり軽症もしくは無症状の人もいて、しかし致死率がMERSと同様30%にもなる感染症が仮に流行していたとしましょう。それでも、あなたは出会ったばかりの他人と性交渉を持つでしょうか。
現在新型コロナウイルス対策として、出勤を禁止しテレワークのみとしている企業が増えてきています。電車に乗ること自体がリスクになるからです。すでに出会ってしまったのならともかく、このような時期に新たなセックスの相手を探そうと街に繰り出す人はほとんどいないのではないでしょうか。つまり、私が言いたいのは「エロティシズムは安全が担保された状態でなければ生まれない」ということです。
マズローの欲求段階説によると、新型コロナウイルスから身を守りたいという欲求は第2段階の「安全への欲求」に相当します。エロティシズムがどの欲求にカテゴライズされるかは議論が分かれるかもしれません。第1段階の「生理的欲求」に入るとする意見があるかもしれませんが、私はこれを否定します。マズローの言う生理的欲求というのは、食欲や睡眠欲、排尿・排便の欲求といったもっと原始的なものであり、パートナーと別れるつもりはないのに他人にエロティシズムを見出すのは、少なくとも「安全」が確保されていることが前提となります。よってエロティシズムは第2段階の安全への欲求よりは後に生じる欲求ということになります。
マズローの欲求段階説の第3の欲求は「社会的欲求」(他人とつながっていたい欲求)、第4がいわゆる「承認欲求」(目立ちたい、認められたい)、そして第5が「自己実現の欲求」です。エロティシズムはどこにも該当しないように思えます。マズローの欲求段階説は半世紀以上に渡り支持されており、もはや「社会学の基本」のような扱いを受けていますが、誰もが襲われることのある抑えがたいエロティシズムはマズローの欲求段階説のいわば「圏外」にあるというのが私の考えです。
話を戻しましょう。確認しておきたいのは、エロティシズムが生まれるのはマズローの欲求段階説で言えば、少なくとも生理的欲求と安全の欲求が満たされていなければならず、さらにたいていは社会的欲求の方が先にきます。エロティシズムを追求するよりも、パートナーや友達が欲しいと思う人の方が多いのではないでしょうか。いずれにしても私が主張したいことは、「エロティシズムを求めたくなるのは基本的な欲求が満たされているときのみ」ということです。したがって、そのエロティシズムを追求することで、"安全"を失うリスクがある可能性は初めから考えておくべきでしょう。例えば不倫で社会的地位や家族を失い、仕事もなくし......、といったことです。
次に発想を180度転換してマズローの欲求段階説を逆からみてみましょう。マズローが最高とした自己実現の欲求が満たされている人もエロティシズムを追求するでしょうか。日本のエロティシズムの大家である澁澤龍彦は(少なくとも初期には)「イエス」と言ったでしょうし、自己実現を達成した人のなかには強烈なエロティシズムを求めている人もいるかもしれません。
ですが、私個人の意見としては、マズロー説が正しいかどうかは別にして、自己実現の欲求(のようなもの)が満たされていれば強烈なエロティシズムは起こらない、つまり非生産的な性欲に捉われないことがあると考えています。実際、前回も述べたように、澁澤龍彦でさえも女性と結婚し"普通の"人生をまっとうされたわけです。では、なぜあれほどまでにエロティシズムにこだわった澁澤龍彦は、そのエロティシズムを追求し自らが「究極のエロティシズム」と称した情死を目指さなかったのでしょうか。
この理由として私はこう考えています。澁澤龍彦の場合、エロティシズムに関する文献を集め、自身の著作を多数発表し、エロティシズムの第一人者と呼ばれることで自らのエロティシズムを満たしていたのではないか、と。
私自身のことにも少し触れておきましょう。実は私自身もいつの頃からかエロティシズムというものにはほとんど興味が湧きません。おそらくその最大の理由がこのサイトをつくるきっかけにもなったタイでのエイズ施設でのボランティアの経験です。当時タイには治療薬がなく、HIVに感染すれば死を待つしかありませんでした。感染者はいわれなき差別を受け、死へのモラトリアムを静かに過ごしていました。感染経路は、薬物の静脈注射や売買春が多数です。親に売られて売春をさせられて感染した幼い男女もみてきました。何人もの元薬物常用者や元セックスワーカーの話を聞くことになりました。
なぜ私はエロティシズムに興味が湧かないか。それはエロティシズム以上に非日常的な現実を経験したからではないかと思っています。エイズという病の奥深さ、悲惨さをみて、死がすぐそこにある世界に身を置いていたその頃の体験を振り返ると、エロティシズムがなんだかつまらないものに思えてくるのです。
ところで、芸術家は性的に奔放だと言われることがあります。たしかにそのような人も大勢いるのでしょうし、性的な経験が作品につながるということもあるでしょう。ですが、私はすべての芸術家がそうではないと思っています。芸術の世界も非日常です。それがなくても生きていく上ではまったく困らないわけですから。その「非日常」に没頭している人のいくらかはエロティシズムに興味を持っていないのではないかと私には思えるのです。
完全な私見であり説得力がないかもしれませんが、性欲がおさえられない=エロティシズムに心が奪われている、という人に私が助言するとすれば、「芸術や、私が体験したようなボランティアといった非日常的なもので、なおかつ他人に迷惑をかけないもの(社会に貢献できる可能性があるものであれば尚よい)を見つけてみませんか」、ということです。
これが現時点で私が考えるエロティシズムを克服する方法です。ただし、エロティシズムの追求が病的なところまで進んでいる場合には今私が述べたことなどまったく役に立たないでしょう。近いうちにそのことを述べたいと思います。
・特定のパートナーとの間に「愛情」は長く続いたとしても「エロティシズム」はやがて色あせていく
・エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に比例する
・非日常の極限は「死」である。よって澁澤龍彦が指摘したように「情死」は最高のエロティシズムである。
・非日常的な体験のなかで最も現実的なもののひとつが「不倫」である。不倫の初期は極めて高度なエロティシズムが体験できる。しかし、やがて色あせていく。
同じ刺激でエロティシズムが長続きしないのは分子生物学的にもある程度あきらかになっています。恋愛初期のドキドキ感を自覚しているときには脳内にドーパミンやノルアドレナリンといった「興奮系」の神経伝達物質の分泌量が増えます。数か月たてばこういった物質が減少しますが、代わってオキシトシンを中心としたいわば「安心系」の物質が多量に分泌されるようになります。こういうとき人は穏やかで平和的な気持ちになり幸福感に包まれます。まだこの時期においては多少の"誘惑"があったとしてもその幸福感の強度の方が大きいために「浮気」へ進行する可能性が低いのです。
初めてこういった「恋愛の分子生物学」をまとめ上げたのが米国の人類学者ヘレン・フィッシャーで、1993年の著書『Anatomy of Love』(邦題『愛はなぜ終わるのか』)は世界中でベストセラーとなりました。世界の多くの地域で「人間は4年で離婚する」という共通点があることを明らかにし、さらに分子生物学的な観点から神経伝達物質の分泌との関連に言及したこの著作は世界中の大勢の人々を魅了しました。
前回からのテーマは「抑えられない性欲=エロティシズムにはどう対処すればいいのか」ということでした。今までの議論では不倫も含めた恋愛の初期、あるいは恋愛ではなくとも異性(または同性)と出会ったばかりの時点で感じるエロティシズムについて述べてきました。では、人は自分の好みの異性(または同性)と出会えばいつもエロティシズムを感じるのでしょうか。
2019年12月、中国の武漢市で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に日本を含む世界中に広がりました。SARSやMERSほどではないにせよ、中国では若い医師が犠牲になっていることからも分かるように、決してあなどってはいけない感染症です。実際、新型コロナウイルスのせいで入国制限、入国拒否、各種イベントの中止などが起こり、現在も終息する様子はありません。
さて、このような情勢のなか、出会ったばかりの他人と性行為が持てるでしょうか。新型コロナウイルスは軽症者からも重症者と同じ程度の量のウイルスが検出されることがわかっています。つまり、キスをしただけでも無症状の相手からあなたにこの病原体が感染する可能性があるわけです。
運命と出会えるような人と出会ったならば気にならない、という人もいるかもしれません。では、感染力が新型コロナウイルスと同様で、やはり軽症もしくは無症状の人もいて、しかし致死率がMERSと同様30%にもなる感染症が仮に流行していたとしましょう。それでも、あなたは出会ったばかりの他人と性交渉を持つでしょうか。
現在新型コロナウイルス対策として、出勤を禁止しテレワークのみとしている企業が増えてきています。電車に乗ること自体がリスクになるからです。すでに出会ってしまったのならともかく、このような時期に新たなセックスの相手を探そうと街に繰り出す人はほとんどいないのではないでしょうか。つまり、私が言いたいのは「エロティシズムは安全が担保された状態でなければ生まれない」ということです。
マズローの欲求段階説によると、新型コロナウイルスから身を守りたいという欲求は第2段階の「安全への欲求」に相当します。エロティシズムがどの欲求にカテゴライズされるかは議論が分かれるかもしれません。第1段階の「生理的欲求」に入るとする意見があるかもしれませんが、私はこれを否定します。マズローの言う生理的欲求というのは、食欲や睡眠欲、排尿・排便の欲求といったもっと原始的なものであり、パートナーと別れるつもりはないのに他人にエロティシズムを見出すのは、少なくとも「安全」が確保されていることが前提となります。よってエロティシズムは第2段階の安全への欲求よりは後に生じる欲求ということになります。
マズローの欲求段階説の第3の欲求は「社会的欲求」(他人とつながっていたい欲求)、第4がいわゆる「承認欲求」(目立ちたい、認められたい)、そして第5が「自己実現の欲求」です。エロティシズムはどこにも該当しないように思えます。マズローの欲求段階説は半世紀以上に渡り支持されており、もはや「社会学の基本」のような扱いを受けていますが、誰もが襲われることのある抑えがたいエロティシズムはマズローの欲求段階説のいわば「圏外」にあるというのが私の考えです。
話を戻しましょう。確認しておきたいのは、エロティシズムが生まれるのはマズローの欲求段階説で言えば、少なくとも生理的欲求と安全の欲求が満たされていなければならず、さらにたいていは社会的欲求の方が先にきます。エロティシズムを追求するよりも、パートナーや友達が欲しいと思う人の方が多いのではないでしょうか。いずれにしても私が主張したいことは、「エロティシズムを求めたくなるのは基本的な欲求が満たされているときのみ」ということです。したがって、そのエロティシズムを追求することで、"安全"を失うリスクがある可能性は初めから考えておくべきでしょう。例えば不倫で社会的地位や家族を失い、仕事もなくし......、といったことです。
次に発想を180度転換してマズローの欲求段階説を逆からみてみましょう。マズローが最高とした自己実現の欲求が満たされている人もエロティシズムを追求するでしょうか。日本のエロティシズムの大家である澁澤龍彦は(少なくとも初期には)「イエス」と言ったでしょうし、自己実現を達成した人のなかには強烈なエロティシズムを求めている人もいるかもしれません。
ですが、私個人の意見としては、マズロー説が正しいかどうかは別にして、自己実現の欲求(のようなもの)が満たされていれば強烈なエロティシズムは起こらない、つまり非生産的な性欲に捉われないことがあると考えています。実際、前回も述べたように、澁澤龍彦でさえも女性と結婚し"普通の"人生をまっとうされたわけです。では、なぜあれほどまでにエロティシズムにこだわった澁澤龍彦は、そのエロティシズムを追求し自らが「究極のエロティシズム」と称した情死を目指さなかったのでしょうか。
この理由として私はこう考えています。澁澤龍彦の場合、エロティシズムに関する文献を集め、自身の著作を多数発表し、エロティシズムの第一人者と呼ばれることで自らのエロティシズムを満たしていたのではないか、と。
私自身のことにも少し触れておきましょう。実は私自身もいつの頃からかエロティシズムというものにはほとんど興味が湧きません。おそらくその最大の理由がこのサイトをつくるきっかけにもなったタイでのエイズ施設でのボランティアの経験です。当時タイには治療薬がなく、HIVに感染すれば死を待つしかありませんでした。感染者はいわれなき差別を受け、死へのモラトリアムを静かに過ごしていました。感染経路は、薬物の静脈注射や売買春が多数です。親に売られて売春をさせられて感染した幼い男女もみてきました。何人もの元薬物常用者や元セックスワーカーの話を聞くことになりました。
なぜ私はエロティシズムに興味が湧かないか。それはエロティシズム以上に非日常的な現実を経験したからではないかと思っています。エイズという病の奥深さ、悲惨さをみて、死がすぐそこにある世界に身を置いていたその頃の体験を振り返ると、エロティシズムがなんだかつまらないものに思えてくるのです。
ところで、芸術家は性的に奔放だと言われることがあります。たしかにそのような人も大勢いるのでしょうし、性的な経験が作品につながるということもあるでしょう。ですが、私はすべての芸術家がそうではないと思っています。芸術の世界も非日常です。それがなくても生きていく上ではまったく困らないわけですから。その「非日常」に没頭している人のいくらかはエロティシズムに興味を持っていないのではないかと私には思えるのです。
完全な私見であり説得力がないかもしれませんが、性欲がおさえられない=エロティシズムに心が奪われている、という人に私が助言するとすれば、「芸術や、私が体験したようなボランティアといった非日常的なもので、なおかつ他人に迷惑をかけないもの(社会に貢献できる可能性があるものであれば尚よい)を見つけてみませんか」、ということです。
これが現時点で私が考えるエロティシズムを克服する方法です。ただし、エロティシズムの追求が病的なところまで進んでいる場合には今私が述べたことなどまったく役に立たないでしょう。近いうちにそのことを述べたいと思います。