GINAと共に
第183回(2021年9月) 「クラトム」の大流行がやってくる!
クラトムという物質をご存知でしょうか。物質というよりはタイの伝統的な「葉」です。つまり、タイでクラトムと言えば「クラトムの葉」のことを指します。クラトムとは、一言でいえば麻薬に似た成分と覚醒剤に似た成分の双方が含まれている物質で、クラトムの葉はタイを含むアジアで伝統的に、例えば肉体労働の後など、鎮痛目的、疲労回復目的で何世紀にもわたり使われてきたものです。
依存性や中毒性については科学的な文献が見当たらないのでよく分かりませんが、社会的には「違法薬物」の扱いでした。実際、販売(もしくは使用)すると罪になり収監されました。「でした」「ました」と過去形なのは、最近法律が変更されクラトムが合法化されたからです。
2021年8月24日、タイでクラトムが正式に合法化されました。今回は、このクラトムについて今後どのように使用されるのかを検討したいと思います。しかし、その前に過去数年間の世界の動きを振り返っておきましょう。
クラトムは国立研究開発法人の「医薬基盤・健康・栄養研究所」にも情報が掲載されています。トップページの検索欄に「クラトム」と入力すれば記事が表示されます。
2017年11月15日には「米国FDAがクラトムの使用に関する声明を公表」というタイトルの記事が公開されています。米国の中毒事故管理センターに寄せられるクラトム使用に関する事例は2010年から2015年までに10倍となり、年数百件にのぼっているそうです。FDAはこれまでにクラトム含有製品と関連する死亡事例の報告を36件受け取っているとのことです。FDAはクラトムの治療目的での利用を承認していません。
2021年5月21日、「米国FDAがkratom (クラトム) を含む製品の押収を公表」というタイトルで、FDAがクラトムを含む207,000点以上のサプリメント及びその原料を押収したことを発表しました。
要するに、米国ではクラトムは現在も販売及び使用が禁止されている違法薬物に分類されているのです。医薬基盤・健康・栄養研究所は、クラトムにより痙攣や肝障害が生じることを指摘しています。厚労省はクラトムをいわゆる「指定薬物」に分類しています
では、日米では共に違法で、厳しく取り締まられるクラトムがなぜタイでは合法化されたのでしょうか。実は、その理由ははっきりしません。少なくとも「これまではあるとされていた依存性が実はなかった」とか「医薬品としてすぐれた効果があることが実証された」とかそういった医学的なエビデンスが見つかったわけではありません。
おそらく、タイで大麻が合法化されたその"流れ"ではないかと私は考えています。過去のコラム「これからの「大麻」の話をしよう~その4~」で述べたように、タイは2019年2月18日に医療用大麻が合法化され、これはアジアで一番乗りです。
Bangkok Postを読む限り、クラトムの合法化は医療用のみで完全に誰もが何の制約もなく使用できるわけではなさそうですが、記事によればクラトム関連の犯罪で収監されている12,000人以上に恩赦が与えられます。
クラトムについて、私は過去にイサーン(東北地方)に行ったときに現地のタイ人に尋ねたことがあります。私の仕入れていた知識では「クラトムはタイ全域どこででも栽培されている」というものだったのですが、この質問をした男性は「このあたりにはない。南部の農民が嗜むものだ」と言っていました。まあ、「違法薬物を育てていますか」というような失礼なことを聞いたわけで、本当のことを話してくれたかどうかは分かりません。しかし、タイではクラトムが伝統的に使用されていることは間違いなさそうでした。
他方、タイに長期滞在しているドラッグ好きの日本人に聞いてみるとクラトムの経験者はほとんどいませんでした。大麻や、通称「ヤーバー」と呼ばれる覚醒剤が数百円で手に入るわけですからクラトムには需要がなくディーラーが扱っていなかったのかもしれません。
先述のBangkok Postの記事によれば、クラトムの葉は現在1枚1~1.5バーツ(3~5円程度)程度で入手できます。この葉を直接噛んで嗜むようです。ちょうど東アフリカのカートと似たような感じかもしれません(尚、私自身は双方とも試したことがありません)。記事によれば、疲労回復の他、胃痛、咳、糖尿病にも効果があるそうです。
日米では厳しく取り締まられる一方、タイでは1枚5円以下で入手できるクラトム。Bangkok Post以外の英文の記事も複数読んでみましたが、どうもクラトムが医療用として行政や医療機関で厳しく管理されているわけではなさそうです。私のこれまでのタイ滞在やタイ人との付き合いの経験から言って、まず間違いなく医療用・嗜好用の区別なく誰もが簡単に入手できます。おそらく外国人でも入手可能でしょう。新型コロナウイルスの流行が終わり、再び以前のように誰もが簡単に入国できるようになれば、ビールを買うくらいの感覚で入手可能となるでしょう(ただし、「コロナ前の世界に戻れるか」は別の話です)
日本ではクラトムがこれからも厳しく取り締まられるのは間違いないでしょうが、米国では変化が出てきています。科学誌「Scientific American」は2021年8月12日(ちなみに、この日はシリキット王太后の誕生日です。この日を狙ってこの記事が公開されたのかどうかは不明)、「FDAはクラトムの禁止を支持すべきではない (The FDA Shouldn't Support a Ban on Kratom)」というタイトルの記事を公開しました。
興味深いことに、この記事によれば、クラトムは「健康補助食品(原文はhealth supplements)」の名のもとに米国で合法的に販売できるとのことです。これは上述したFDAの見解と異なります。Scientific Americanの記事でははっきりと合法的に(legally)と書かれていて、一方ではFDAは違法とし実際に摘発しているわけですから、いわゆる「グレーゾーン」の扱いとなっているのでしょう。
Scientific Americanの記事はクラトムの安全性を強調するためにCDCの研究を引き合いに出しています。CDCが実施した2016年から2017年の間に報告されたクラトムの過剰摂取約27,000例のうち死亡者は全体の1%未満で、しかも死亡した152人の約3分の2は、フェンタニル(強力な麻薬)やその類似物質も摂取していました。さらに、クラトムのみが検出された7例も、他の物質を摂取していた可能性が否定できないそうです。
これらから、処方薬のオピオイド(モルヒネなどの合法麻薬)に比べ、クラトムにより死亡する可能性は千分の1以下だそうです。尚、これは私の私見ですが、タイで伝統的に嗜まれているような方法、つまり「葉を噛む」という摂取方式で過剰摂取になることはまずあり得ません。
記事では、バイデン大統領がハームリダクション(harm reduction)の政策を取り入れるべきだという意見にも触れられています。ハームリダクションとは「よくないもの」をいきなりすべて禁止するわけではなく、「よくない程度が低いもの」に切り替えていく治療のことを言います。麻薬依存症のメサドン療法がその代表です。私が院長を務める太融寺町谷口医院で実施している治療でいえば、ベンゾジアゼピン依存症に対しての「セルシンへの置き換え療法」が相当します。ニコチン依存症のニコチン貼付薬もハームリダクションと言えるでしょう。
クラトムが麻薬や他の違法薬物のハームリダクションとなるかどうかは今後の研究を待たねばなりません。ですが、(薬物依存があるかどうかに関係なく)何らかの疾患に悩まされている場合は(タイ渡航が可能ならすぐにでも)試してみてもいいかもしれません。ただし、個人的には大麻のときに述べたように若い人には勧めません。難治性神経疾患やがん(あるいはHIV)を患った人たちが症状緩和の目的に、つまり大麻の場合と同じように希望者に協力していくことを考えています。
依存性や中毒性については科学的な文献が見当たらないのでよく分かりませんが、社会的には「違法薬物」の扱いでした。実際、販売(もしくは使用)すると罪になり収監されました。「でした」「ました」と過去形なのは、最近法律が変更されクラトムが合法化されたからです。
2021年8月24日、タイでクラトムが正式に合法化されました。今回は、このクラトムについて今後どのように使用されるのかを検討したいと思います。しかし、その前に過去数年間の世界の動きを振り返っておきましょう。
クラトムは国立研究開発法人の「医薬基盤・健康・栄養研究所」にも情報が掲載されています。トップページの検索欄に「クラトム」と入力すれば記事が表示されます。
2017年11月15日には「米国FDAがクラトムの使用に関する声明を公表」というタイトルの記事が公開されています。米国の中毒事故管理センターに寄せられるクラトム使用に関する事例は2010年から2015年までに10倍となり、年数百件にのぼっているそうです。FDAはこれまでにクラトム含有製品と関連する死亡事例の報告を36件受け取っているとのことです。FDAはクラトムの治療目的での利用を承認していません。
2021年5月21日、「米国FDAがkratom (クラトム) を含む製品の押収を公表」というタイトルで、FDAがクラトムを含む207,000点以上のサプリメント及びその原料を押収したことを発表しました。
要するに、米国ではクラトムは現在も販売及び使用が禁止されている違法薬物に分類されているのです。医薬基盤・健康・栄養研究所は、クラトムにより痙攣や肝障害が生じることを指摘しています。厚労省はクラトムをいわゆる「指定薬物」に分類しています
では、日米では共に違法で、厳しく取り締まられるクラトムがなぜタイでは合法化されたのでしょうか。実は、その理由ははっきりしません。少なくとも「これまではあるとされていた依存性が実はなかった」とか「医薬品としてすぐれた効果があることが実証された」とかそういった医学的なエビデンスが見つかったわけではありません。
おそらく、タイで大麻が合法化されたその"流れ"ではないかと私は考えています。過去のコラム「これからの「大麻」の話をしよう~その4~」で述べたように、タイは2019年2月18日に医療用大麻が合法化され、これはアジアで一番乗りです。
Bangkok Postを読む限り、クラトムの合法化は医療用のみで完全に誰もが何の制約もなく使用できるわけではなさそうですが、記事によればクラトム関連の犯罪で収監されている12,000人以上に恩赦が与えられます。
クラトムについて、私は過去にイサーン(東北地方)に行ったときに現地のタイ人に尋ねたことがあります。私の仕入れていた知識では「クラトムはタイ全域どこででも栽培されている」というものだったのですが、この質問をした男性は「このあたりにはない。南部の農民が嗜むものだ」と言っていました。まあ、「違法薬物を育てていますか」というような失礼なことを聞いたわけで、本当のことを話してくれたかどうかは分かりません。しかし、タイではクラトムが伝統的に使用されていることは間違いなさそうでした。
他方、タイに長期滞在しているドラッグ好きの日本人に聞いてみるとクラトムの経験者はほとんどいませんでした。大麻や、通称「ヤーバー」と呼ばれる覚醒剤が数百円で手に入るわけですからクラトムには需要がなくディーラーが扱っていなかったのかもしれません。
先述のBangkok Postの記事によれば、クラトムの葉は現在1枚1~1.5バーツ(3~5円程度)程度で入手できます。この葉を直接噛んで嗜むようです。ちょうど東アフリカのカートと似たような感じかもしれません(尚、私自身は双方とも試したことがありません)。記事によれば、疲労回復の他、胃痛、咳、糖尿病にも効果があるそうです。
日米では厳しく取り締まられる一方、タイでは1枚5円以下で入手できるクラトム。Bangkok Post以外の英文の記事も複数読んでみましたが、どうもクラトムが医療用として行政や医療機関で厳しく管理されているわけではなさそうです。私のこれまでのタイ滞在やタイ人との付き合いの経験から言って、まず間違いなく医療用・嗜好用の区別なく誰もが簡単に入手できます。おそらく外国人でも入手可能でしょう。新型コロナウイルスの流行が終わり、再び以前のように誰もが簡単に入国できるようになれば、ビールを買うくらいの感覚で入手可能となるでしょう(ただし、「コロナ前の世界に戻れるか」は別の話です)
日本ではクラトムがこれからも厳しく取り締まられるのは間違いないでしょうが、米国では変化が出てきています。科学誌「Scientific American」は2021年8月12日(ちなみに、この日はシリキット王太后の誕生日です。この日を狙ってこの記事が公開されたのかどうかは不明)、「FDAはクラトムの禁止を支持すべきではない (The FDA Shouldn't Support a Ban on Kratom)」というタイトルの記事を公開しました。
興味深いことに、この記事によれば、クラトムは「健康補助食品(原文はhealth supplements)」の名のもとに米国で合法的に販売できるとのことです。これは上述したFDAの見解と異なります。Scientific Americanの記事でははっきりと合法的に(legally)と書かれていて、一方ではFDAは違法とし実際に摘発しているわけですから、いわゆる「グレーゾーン」の扱いとなっているのでしょう。
Scientific Americanの記事はクラトムの安全性を強調するためにCDCの研究を引き合いに出しています。CDCが実施した2016年から2017年の間に報告されたクラトムの過剰摂取約27,000例のうち死亡者は全体の1%未満で、しかも死亡した152人の約3分の2は、フェンタニル(強力な麻薬)やその類似物質も摂取していました。さらに、クラトムのみが検出された7例も、他の物質を摂取していた可能性が否定できないそうです。
これらから、処方薬のオピオイド(モルヒネなどの合法麻薬)に比べ、クラトムにより死亡する可能性は千分の1以下だそうです。尚、これは私の私見ですが、タイで伝統的に嗜まれているような方法、つまり「葉を噛む」という摂取方式で過剰摂取になることはまずあり得ません。
記事では、バイデン大統領がハームリダクション(harm reduction)の政策を取り入れるべきだという意見にも触れられています。ハームリダクションとは「よくないもの」をいきなりすべて禁止するわけではなく、「よくない程度が低いもの」に切り替えていく治療のことを言います。麻薬依存症のメサドン療法がその代表です。私が院長を務める太融寺町谷口医院で実施している治療でいえば、ベンゾジアゼピン依存症に対しての「セルシンへの置き換え療法」が相当します。ニコチン依存症のニコチン貼付薬もハームリダクションと言えるでしょう。
クラトムが麻薬や他の違法薬物のハームリダクションとなるかどうかは今後の研究を待たねばなりません。ですが、(薬物依存があるかどうかに関係なく)何らかの疾患に悩まされている場合は(タイ渡航が可能ならすぐにでも)試してみてもいいかもしれません。ただし、個人的には大麻のときに述べたように若い人には勧めません。難治性神経疾患やがん(あるいはHIV)を患った人たちが症状緩和の目的に、つまり大麻の場合と同じように希望者に協力していくことを考えています。
第182回(2021年8月) 「利己的な利他」は「利他」ではないのか
私がタイのエイズ問題に始めて関わったのは2002年の10月、研修医1年目の頃、当時お世話になっていた教授のご厚意で1週間の夏休みを認めてもらい、パバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)に赴いたときでした。
このときに滞在したのはわずか1週間足らずでしたが、受けた衝撃はとてつもなく大きく、実際、それからすでに19年の年月が経ちましたが、今もこれまでの人生で最も大きな出来事のひとつだと言えます。
なにしろ、どこの医療機関でも診てもらえずにその施設にやっとのことでたどり着いた、という患者さんがほぼ全員なのです。なかには、施設の入り口に捨てられていた乳児や、はるか遠い県からその施設の噂を聞いてかなりの長距離を歩いてやって来たという人もいました。そして、2002年のその当時、タイではまだ抗HIV薬がなかったのです。つまり、その施設に入っても元気で施設を出られる見込みはゼロで、「死へのモラトリウム」を過ごすだけだったわけです。
エイズは全身に症状が出る疾患です。息苦しくなり、下痢がとまらず、様々な皮疹に悩まされ、そのうち食事が摂れなくなり、やがて亡くなっていきます。毎日何名もの人が他界されていました。
その時の経験を通して、私は「この病に生涯関わっていきたい」と考えるようになったのですが、2021年の現在、タイでも日本でもHIV感染はすでに「死に至る病」ではなくなっています。むしろ、薬を飲んでさえいれば、寿命を全うできる疾患になりました。よく指摘されるように、他の慢性疾患、例えば高血圧や高脂血症とあまり変わらなくなってきていると言えなくもないわけです。
社会的な差別は今も残っていますが、タイでは以前のように、食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられるとか、バスに乗ろうとすると引きずり落とされるとか、家族から追い出されるとか、そういったことはもはやありません。それどころか、地方によっては、職場で堂々とカムアウトして仕事をしている人も少なくありません。
日本では、差別についてはタイよりもひどい状況となっていますが、それでも公的扶助が充実していますから、治療を受けられないということはあり得ませんし、感染を黙っていれば社会的差別を受けることはそう多くはなく、医療機関での差別も以前に比べると大きく減少しています。
他方、世の中には治療法のない疾患がたくさんあります。貧しい国に生まれたが故に治療を受けられないという人も大勢います。政治が不安定なために命を脅かされる国や、政府が暴力によって統治しようとしている国もあります。クーデターで大統領が失脚させられた国もありますし、いわゆる難民と呼ばれる人たちは世界的に増加しています。
GINAは、そして私は、2002年以降今もタイのHIV陽性者を支援しているわけですが、これを「公正な」支援と呼んでいいのでしょうか。そして、これは「利他」と呼べるものなのでしょうか。
タイのエイズ問題に関わり始め、お金を集めて寄付をして、時間の許す限りタイに渡航しボランティアをしていた私は、当初から「これは利他なのか」というテーマについて考えてきました。「エイズ患者さんからの感謝の言葉がない」と不満を口にする日本人のボランティアをみて幻滅したことがあります。「タイでボランティアをしたい」と連絡のあった若い大学生とメールのやりとりをしているうちに、「この女性(男性)は心から患者さんを助けたいと思っているのではなく自己満足じゃないか」と感じたことも、あるいは「単なる自分探しのためにエイズ問題に関わるのをやめてほしい」と思ったこともあります。
では、私が否定的に感じた若者と私自身には明確な違いがあるのでしょうか。私には彼(女)らを批判する資格があるのでしょうか。私がやっていることもひとりよがりの自己満足ではないでしょうか。あるいは、利他と呼んでもいいものなのでしょうか。
2005年に『TIME』の「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれたオーストラリア出身の哲学者ピーター・シンガーは、「効果的な利他主義」という概念を提唱しています。シンガーは「幸福の数値化」をおこない、利他主義は最も効果的に実践しなければならないと言います。寄付をするなら、どの団体に寄付すれば最も多くの善になるのかを数値で評価しなければならない、と言うのです。
例えば、米国で一頭の盲導犬を養成するのに4万ドルが必要となる一方で、その金額で発展途上国のトラコーマ(目の病気)を患っている子供400~2,000人の治療ができることが分かっている場合、シンガーによれば、発展途上国に寄付する方がより多くのいいことができるために「より価値がある」となるそうです。
話をタイに戻します。私がタイのエイズ問題に関わり始めた2002年からすでに19年が経過しました。時代は大きく変わり、HIVに感染しても長生きできる時代になりました。とはいえ、HIV感染が原因で、寝たきりになったり、身寄りがなかったりといった事情で人間らしい生活ができていない人も大勢います。そして、そういった人たちを支援している人たちもいます。GINAと私はそういった人たちを金銭的に支援しているわけですが、世界に目を向けてそのお金を別のところに使えば、もっと大勢の人たちを助けることができます。
特に「命を救う」という意味においては、タイのHIV陽性者よりも、隣国のミャンマーで政府軍に抑圧されている人たち、そのミャンマーから追い出されてバングラデシュのコックスバザールの難民キャンプで生活しているロヒンギャの人たち、あるいはそのキャンプから2,500km西に位置するアフガニスタンでタリバンに怯えて暮らしている人たちを支援する方が(ピーター・シンガー的に)効率が高いのは間違いありません。
ピーター・シンガーの基本的な立場は「功利主義」です。功利主義の観点に立てば、いかに効率よく人命を救えるか、となるでしょうから、私がやっているようなことは2000年代前半のタイでは意味があったとしても、今おこなっている支援活動は非常に非効率であり、功利主義の精神に反する、ということになるでしょう。
ではGINAと私は立場を変えて、タイでの支援を終了させ、ミャンマーやロヒンギャの難民キャンプやアフガニスタンに矛先を変えるべきなのでしょうか。あるいはアフリカのエイズ孤児のための支援を開始すべきなのでしょうか。
実は過去に似たようなことを考えたこともあります。一時、国軍のクーデターが起こる随分前のミャンマーで、北部の少数民族が迫害されているという話を聞き、そちらにより多くの支援をすべきではないかと思案したことがあるのです。また、ラオスやカンボジアのエイズ事情がタイよりも悪化しているという話を聞いて、支援する施設を全面的に変えようと思ったこともあります。
ですが、新しいことをするための時間が確保できないということもありますが、「この人たちの力になりたい」と2002年のタイで感じた気持ちがそういった考えを妨げます。私には、たとえ効率が悪かったとしても、また、たとえ不公平であったとしても、依然タイで日常生活もままならない人たちや、そういう患者さんを支援している人たちを知っている限りは別のところに行けないのです。
私の考えが矛盾していることも分かっています。日本の困っている人たちを放っておけないと考えて、日本で働く道を選んだわけですが、その日本人全員に支援ができているわけではありませんし、結局、日本でもタイでも、自分の近くにいる人や知り合った人に対して少しばかりのお手伝いをしているに過ぎません。これを利他と呼ぶのはおこがましいですし、もしも呼んでいいのだとしても、その利他は極めて「利己的な利他」であることを承知しています。
ピーター・シンガー的な視点で言えば、私がやっていることは単なるままごと程度に過ぎないのかもしれません。ですが、私にはこれからもそのやり方を変えることはできません。
他人よりも家族が大切なのと同じ意味で、まったく知らない人よりも、これまで知り合った人たちとの縁を大切にし、支援を広げることが可能ならその縁を起点に考えていくつもりです。
このときに滞在したのはわずか1週間足らずでしたが、受けた衝撃はとてつもなく大きく、実際、それからすでに19年の年月が経ちましたが、今もこれまでの人生で最も大きな出来事のひとつだと言えます。
なにしろ、どこの医療機関でも診てもらえずにその施設にやっとのことでたどり着いた、という患者さんがほぼ全員なのです。なかには、施設の入り口に捨てられていた乳児や、はるか遠い県からその施設の噂を聞いてかなりの長距離を歩いてやって来たという人もいました。そして、2002年のその当時、タイではまだ抗HIV薬がなかったのです。つまり、その施設に入っても元気で施設を出られる見込みはゼロで、「死へのモラトリウム」を過ごすだけだったわけです。
エイズは全身に症状が出る疾患です。息苦しくなり、下痢がとまらず、様々な皮疹に悩まされ、そのうち食事が摂れなくなり、やがて亡くなっていきます。毎日何名もの人が他界されていました。
その時の経験を通して、私は「この病に生涯関わっていきたい」と考えるようになったのですが、2021年の現在、タイでも日本でもHIV感染はすでに「死に至る病」ではなくなっています。むしろ、薬を飲んでさえいれば、寿命を全うできる疾患になりました。よく指摘されるように、他の慢性疾患、例えば高血圧や高脂血症とあまり変わらなくなってきていると言えなくもないわけです。
社会的な差別は今も残っていますが、タイでは以前のように、食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられるとか、バスに乗ろうとすると引きずり落とされるとか、家族から追い出されるとか、そういったことはもはやありません。それどころか、地方によっては、職場で堂々とカムアウトして仕事をしている人も少なくありません。
日本では、差別についてはタイよりもひどい状況となっていますが、それでも公的扶助が充実していますから、治療を受けられないということはあり得ませんし、感染を黙っていれば社会的差別を受けることはそう多くはなく、医療機関での差別も以前に比べると大きく減少しています。
他方、世の中には治療法のない疾患がたくさんあります。貧しい国に生まれたが故に治療を受けられないという人も大勢います。政治が不安定なために命を脅かされる国や、政府が暴力によって統治しようとしている国もあります。クーデターで大統領が失脚させられた国もありますし、いわゆる難民と呼ばれる人たちは世界的に増加しています。
GINAは、そして私は、2002年以降今もタイのHIV陽性者を支援しているわけですが、これを「公正な」支援と呼んでいいのでしょうか。そして、これは「利他」と呼べるものなのでしょうか。
タイのエイズ問題に関わり始め、お金を集めて寄付をして、時間の許す限りタイに渡航しボランティアをしていた私は、当初から「これは利他なのか」というテーマについて考えてきました。「エイズ患者さんからの感謝の言葉がない」と不満を口にする日本人のボランティアをみて幻滅したことがあります。「タイでボランティアをしたい」と連絡のあった若い大学生とメールのやりとりをしているうちに、「この女性(男性)は心から患者さんを助けたいと思っているのではなく自己満足じゃないか」と感じたことも、あるいは「単なる自分探しのためにエイズ問題に関わるのをやめてほしい」と思ったこともあります。
では、私が否定的に感じた若者と私自身には明確な違いがあるのでしょうか。私には彼(女)らを批判する資格があるのでしょうか。私がやっていることもひとりよがりの自己満足ではないでしょうか。あるいは、利他と呼んでもいいものなのでしょうか。
2005年に『TIME』の「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれたオーストラリア出身の哲学者ピーター・シンガーは、「効果的な利他主義」という概念を提唱しています。シンガーは「幸福の数値化」をおこない、利他主義は最も効果的に実践しなければならないと言います。寄付をするなら、どの団体に寄付すれば最も多くの善になるのかを数値で評価しなければならない、と言うのです。
例えば、米国で一頭の盲導犬を養成するのに4万ドルが必要となる一方で、その金額で発展途上国のトラコーマ(目の病気)を患っている子供400~2,000人の治療ができることが分かっている場合、シンガーによれば、発展途上国に寄付する方がより多くのいいことができるために「より価値がある」となるそうです。
話をタイに戻します。私がタイのエイズ問題に関わり始めた2002年からすでに19年が経過しました。時代は大きく変わり、HIVに感染しても長生きできる時代になりました。とはいえ、HIV感染が原因で、寝たきりになったり、身寄りがなかったりといった事情で人間らしい生活ができていない人も大勢います。そして、そういった人たちを支援している人たちもいます。GINAと私はそういった人たちを金銭的に支援しているわけですが、世界に目を向けてそのお金を別のところに使えば、もっと大勢の人たちを助けることができます。
特に「命を救う」という意味においては、タイのHIV陽性者よりも、隣国のミャンマーで政府軍に抑圧されている人たち、そのミャンマーから追い出されてバングラデシュのコックスバザールの難民キャンプで生活しているロヒンギャの人たち、あるいはそのキャンプから2,500km西に位置するアフガニスタンでタリバンに怯えて暮らしている人たちを支援する方が(ピーター・シンガー的に)効率が高いのは間違いありません。
ピーター・シンガーの基本的な立場は「功利主義」です。功利主義の観点に立てば、いかに効率よく人命を救えるか、となるでしょうから、私がやっているようなことは2000年代前半のタイでは意味があったとしても、今おこなっている支援活動は非常に非効率であり、功利主義の精神に反する、ということになるでしょう。
ではGINAと私は立場を変えて、タイでの支援を終了させ、ミャンマーやロヒンギャの難民キャンプやアフガニスタンに矛先を変えるべきなのでしょうか。あるいはアフリカのエイズ孤児のための支援を開始すべきなのでしょうか。
実は過去に似たようなことを考えたこともあります。一時、国軍のクーデターが起こる随分前のミャンマーで、北部の少数民族が迫害されているという話を聞き、そちらにより多くの支援をすべきではないかと思案したことがあるのです。また、ラオスやカンボジアのエイズ事情がタイよりも悪化しているという話を聞いて、支援する施設を全面的に変えようと思ったこともあります。
ですが、新しいことをするための時間が確保できないということもありますが、「この人たちの力になりたい」と2002年のタイで感じた気持ちがそういった考えを妨げます。私には、たとえ効率が悪かったとしても、また、たとえ不公平であったとしても、依然タイで日常生活もままならない人たちや、そういう患者さんを支援している人たちを知っている限りは別のところに行けないのです。
私の考えが矛盾していることも分かっています。日本の困っている人たちを放っておけないと考えて、日本で働く道を選んだわけですが、その日本人全員に支援ができているわけではありませんし、結局、日本でもタイでも、自分の近くにいる人や知り合った人に対して少しばかりのお手伝いをしているに過ぎません。これを利他と呼ぶのはおこがましいですし、もしも呼んでいいのだとしても、その利他は極めて「利己的な利他」であることを承知しています。
ピーター・シンガー的な視点で言えば、私がやっていることは単なるままごと程度に過ぎないのかもしれません。ですが、私にはこれからもそのやり方を変えることはできません。
他人よりも家族が大切なのと同じ意味で、まったく知らない人よりも、これまで知り合った人たちとの縁を大切にし、支援を広げることが可能ならその縁を起点に考えていくつもりです。
第181回(2021年7月) 急増するノンバイナリー
「ノンバイナリー」という言葉が日本で一気にメジャーになったのは宇多田ヒカルさんの影響でしょう。報道によれば、6月26日のインスタライブ中に自身がノンバイナリーであることを宣言したそうです。この「カミングアウト」を巡って、ネット上では様々な意見が飛び交いました。好意的な声が多いなか、「いちいち言わなくてもいい」などといった否定的な意見もあるようです。
性の多様性を表す言葉でもっとも人口に膾炙しているのは「LGBT」でしょうが、過去にも述べたように、私自身は「セクシャルマイノリティ」が一番いいと思っています。その理由についてはいろんなところで繰り返し述べていますが、今回は「ノンバイナリー」についての話になりますから、もう一度触れておきたいと思います。
LGBTという表現が不適切だと私が考える最大の理由は、ストレートの人以外全員がLかGかBかTのいずれかに「分類」され、しかも「固定」されているという誤解を与えかねないからです。実際には、ストレート→レズビアン→バイセクシャル→ストレートのように自身の性自認が入れ替わる人も珍しくありません。これらのどこにも分類されない人もいますし、そもそも分からない人だって少なくありません。また、エイセクシャル(なぜかネットではアセクシャルと書かれていることが多いのですが、asexualを素直に発音すればエイセクシャルになると思います。少なくとも私は英語ネイティブの人からアセクシャルと聞いたことは一度もありません)の人たちもいます。
ですから、まだ自分の性自認あるいは性的指向が決まっていない(分からない)人たちやエイセクシャルの人たちもひっくるめてセクシャルマイノリティと呼べばいいのではないか、というのが私の考えです。
今回述べる「ノンバイナリー」もまさに、自身の性自認が決まっていない人たちのことを指します。似たような言葉に「Xジェンダー」と呼ばれるものもあり、これら2つは異なるとする意見もあるようですが、実際にはさほど区別しなくてもいいのではないかと個人的には考えています。また、Xジェンダーという表現は日本特有のものとする話を聞いたことがありますが、英語ネイティブの人にも通じます(少なくとも通じることも少なくありません)。ただ、海外ではノンバイナリー(nonbinary)の方が普及しているのは事実です。
他に似た表現としてジェンダーレスというものもありますが、これは性自認を示すときには使いません。「わたしはノンバイナリーです」と言うことはできますが、「わたしはジェンダーレスです」は言いません。「わたしはジェンダーレスなファッションが好きです」はOKです。
ノンバイナリーとは性自認を表す表現であり、性的指向については様々なパターンがあります。例えば、生物学的に男性のノンバイナリーの性的指向が男性であることも女性であることも、双方である場合もあります。生物学的に女性のノンバイナリーでも同じです。
ではノンバイナリーは、日本中に、あるいはあなたの周りにはどれくらいいるでしょうか。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんでいえば、私にカミングアウトしてくれる人は年に数人です。もっとも、わざわざ私に言う必要もないと考えている人の方がずっと多いでしょうから、それなりの人がノンバイナリーなのかもしれません。また、自身がノンバイナリーであることに気付いていない人もいるでしょう。宇多田ヒカルさんも、デビューした10代の頃にはそう思っていなかったかもしれません。
ここで問題提起をしたいと思います。もしもノンバイナリーをカミングアウトしても不利益を被るようなことがなく、さらに自身がノンバイナリーであることに気付く人が増えたときにどのようなことが起こるでしょうか。
そうなれば、「そもそも男性・女性と区別する意味があるのか」という問題がでてきます。役所に届ける書類やパスポートに性別を記載する意味があるのか、という議論にもつながるでしょう。そもそも、書類作成時に男性と女性しかないことで様々な問題が生じているわけです。ちなみに谷口医院の問診表は「男・女・その他( )」としています。
男女の区別がなくなったときに、スポーツの世界では確実に問題が起こります。ジェンダーの区別がなくなれば、多くの競技でほとんどの選手が男性(シス男性)だけとなるに違いありません。ちなみに、「トランス男性」というのは生物学的な性は女性で性自認が男性のトランスジェンダーのことで、「シス男性」は生物学的な性、性自認共に男性のことです。
現在開催中の東京オリンピックに出場が決まっているニュージーランドの重量挙げ選手Laurel Hubbardさんはトランス女性です。トランス女性が重量挙げに女性選手として出場するのは生物学的に有利で不公平だという声があります。他方、Hubbardさんの権利を擁護する人たちは、定期的にテストステロン(男性ホルモン)の数値を計測しており、一定以下であるから問題がないと主張します。しかし、その数値が妥当なのかといった意見もあり、現在も決着がついているとはいえません。いくらノンバイナリーの人が増えたとしてもスポーツの世界で男女の区別が完全になくなることはないでしょう。
ちなみに、今回のコラムの趣旨から外れますが、セクシャルマイノリティのオリンピックと呼ばれている「ゲイゲームズ」が非常事態となっています。2022年に香港で開催予定なのですが、報道によれば、昨今の中国との関係による政情不安から開催が危ぶまれています。
芸能の世界はどうでしょうか。音楽の世界ではすでにジェンダーの区別がなくなる方向に進んでいます。グラミー賞は2012年からジェンダーの区別を撤廃しています。その5年後の2017年、MTVも男女の区別をなくしました。
一方、映画演劇界はそこまで進んでいません。オスカー(アカデミー賞)もバフタ賞(英国アカデミー章)もトニー賞も従来の男女別のままです。他方、2021年3月に発表されたベルリン国際映画祭の演技賞は「ジェンダーニュートラルな演技賞(gender-neutral acting prize)」と呼ばれるようになりました(授賞はドイツのMaren Eggert)。
エミー賞では、今年の授賞式から、演技部門にエントリーすると「男」「女」だけでなく、男女の区別のない「パフォーマー」という表記も選択できるようになりました。これは、2017年、ノンバイナリーであることをカミングアウトしている俳優のAsia Kate Dillonが、エミー賞に異議を唱えたことがきっかけと言われています。しかし、2021年の時点でも男女で分ける方針には変わりなく、エミー賞も「女優賞」「男優賞」のままです。
しかし、New York Timesによると、オビー賞では男女の区別をすでに撤廃しており、過去数年では、フィラデルフィア、サンフランシスコ、シアトル、シカゴなどの劇場が主催する賞(アワード)でも、ジェンダーの区分を撤廃しているようです。
どうやら音楽業界のみならず映画・演劇の世界でもジェンダーの区別をなくす方向に進んでいるようです。では、一般社会ではどうでしょうか。ひとつ言えることは、完全に性の区別がなくなることはないということです。例えば、トイレや銭湯、あるいは更衣室に男女の区別がなくなることはあり得ません。それに、ノンバイナリーであることを宣言すれば男女どちらのトイレを使ってもいいということにはなりません。
しかしながら、トイレ、銭湯、更衣室などを除けば、一般社会でジェンダーの区別が必要なのは体育の時間くらいではないでしょうか。つまり、これら以外ではジェンダーを区別する意味がなくなり、誰もがノンバイナリーである可能性があることを前提とした社会になっていくのではないかと私はみています。
ちなみに、UCLAによると、米国ではノンバイナリーはセクシャルマイノリティ(成人のLGBTQ)の11%に相当し、人数では120万人に昇るそうです。
************
注:本サイトではこれまで、自身の秘密を打ち明けることを「カムアウト」と表現してきましたが、「カミングアウト」の方が一般的だというご意見を複数いただいたこともあり、今後は「カミングアウト」で統一していきます。
性の多様性を表す言葉でもっとも人口に膾炙しているのは「LGBT」でしょうが、過去にも述べたように、私自身は「セクシャルマイノリティ」が一番いいと思っています。その理由についてはいろんなところで繰り返し述べていますが、今回は「ノンバイナリー」についての話になりますから、もう一度触れておきたいと思います。
LGBTという表現が不適切だと私が考える最大の理由は、ストレートの人以外全員がLかGかBかTのいずれかに「分類」され、しかも「固定」されているという誤解を与えかねないからです。実際には、ストレート→レズビアン→バイセクシャル→ストレートのように自身の性自認が入れ替わる人も珍しくありません。これらのどこにも分類されない人もいますし、そもそも分からない人だって少なくありません。また、エイセクシャル(なぜかネットではアセクシャルと書かれていることが多いのですが、asexualを素直に発音すればエイセクシャルになると思います。少なくとも私は英語ネイティブの人からアセクシャルと聞いたことは一度もありません)の人たちもいます。
ですから、まだ自分の性自認あるいは性的指向が決まっていない(分からない)人たちやエイセクシャルの人たちもひっくるめてセクシャルマイノリティと呼べばいいのではないか、というのが私の考えです。
今回述べる「ノンバイナリー」もまさに、自身の性自認が決まっていない人たちのことを指します。似たような言葉に「Xジェンダー」と呼ばれるものもあり、これら2つは異なるとする意見もあるようですが、実際にはさほど区別しなくてもいいのではないかと個人的には考えています。また、Xジェンダーという表現は日本特有のものとする話を聞いたことがありますが、英語ネイティブの人にも通じます(少なくとも通じることも少なくありません)。ただ、海外ではノンバイナリー(nonbinary)の方が普及しているのは事実です。
他に似た表現としてジェンダーレスというものもありますが、これは性自認を示すときには使いません。「わたしはノンバイナリーです」と言うことはできますが、「わたしはジェンダーレスです」は言いません。「わたしはジェンダーレスなファッションが好きです」はOKです。
ノンバイナリーとは性自認を表す表現であり、性的指向については様々なパターンがあります。例えば、生物学的に男性のノンバイナリーの性的指向が男性であることも女性であることも、双方である場合もあります。生物学的に女性のノンバイナリーでも同じです。
ではノンバイナリーは、日本中に、あるいはあなたの周りにはどれくらいいるでしょうか。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の患者さんでいえば、私にカミングアウトしてくれる人は年に数人です。もっとも、わざわざ私に言う必要もないと考えている人の方がずっと多いでしょうから、それなりの人がノンバイナリーなのかもしれません。また、自身がノンバイナリーであることに気付いていない人もいるでしょう。宇多田ヒカルさんも、デビューした10代の頃にはそう思っていなかったかもしれません。
ここで問題提起をしたいと思います。もしもノンバイナリーをカミングアウトしても不利益を被るようなことがなく、さらに自身がノンバイナリーであることに気付く人が増えたときにどのようなことが起こるでしょうか。
そうなれば、「そもそも男性・女性と区別する意味があるのか」という問題がでてきます。役所に届ける書類やパスポートに性別を記載する意味があるのか、という議論にもつながるでしょう。そもそも、書類作成時に男性と女性しかないことで様々な問題が生じているわけです。ちなみに谷口医院の問診表は「男・女・その他( )」としています。
男女の区別がなくなったときに、スポーツの世界では確実に問題が起こります。ジェンダーの区別がなくなれば、多くの競技でほとんどの選手が男性(シス男性)だけとなるに違いありません。ちなみに、「トランス男性」というのは生物学的な性は女性で性自認が男性のトランスジェンダーのことで、「シス男性」は生物学的な性、性自認共に男性のことです。
現在開催中の東京オリンピックに出場が決まっているニュージーランドの重量挙げ選手Laurel Hubbardさんはトランス女性です。トランス女性が重量挙げに女性選手として出場するのは生物学的に有利で不公平だという声があります。他方、Hubbardさんの権利を擁護する人たちは、定期的にテストステロン(男性ホルモン)の数値を計測しており、一定以下であるから問題がないと主張します。しかし、その数値が妥当なのかといった意見もあり、現在も決着がついているとはいえません。いくらノンバイナリーの人が増えたとしてもスポーツの世界で男女の区別が完全になくなることはないでしょう。
ちなみに、今回のコラムの趣旨から外れますが、セクシャルマイノリティのオリンピックと呼ばれている「ゲイゲームズ」が非常事態となっています。2022年に香港で開催予定なのですが、報道によれば、昨今の中国との関係による政情不安から開催が危ぶまれています。
芸能の世界はどうでしょうか。音楽の世界ではすでにジェンダーの区別がなくなる方向に進んでいます。グラミー賞は2012年からジェンダーの区別を撤廃しています。その5年後の2017年、MTVも男女の区別をなくしました。
一方、映画演劇界はそこまで進んでいません。オスカー(アカデミー賞)もバフタ賞(英国アカデミー章)もトニー賞も従来の男女別のままです。他方、2021年3月に発表されたベルリン国際映画祭の演技賞は「ジェンダーニュートラルな演技賞(gender-neutral acting prize)」と呼ばれるようになりました(授賞はドイツのMaren Eggert)。
エミー賞では、今年の授賞式から、演技部門にエントリーすると「男」「女」だけでなく、男女の区別のない「パフォーマー」という表記も選択できるようになりました。これは、2017年、ノンバイナリーであることをカミングアウトしている俳優のAsia Kate Dillonが、エミー賞に異議を唱えたことがきっかけと言われています。しかし、2021年の時点でも男女で分ける方針には変わりなく、エミー賞も「女優賞」「男優賞」のままです。
しかし、New York Timesによると、オビー賞では男女の区別をすでに撤廃しており、過去数年では、フィラデルフィア、サンフランシスコ、シアトル、シカゴなどの劇場が主催する賞(アワード)でも、ジェンダーの区分を撤廃しているようです。
どうやら音楽業界のみならず映画・演劇の世界でもジェンダーの区別をなくす方向に進んでいるようです。では、一般社会ではどうでしょうか。ひとつ言えることは、完全に性の区別がなくなることはないということです。例えば、トイレや銭湯、あるいは更衣室に男女の区別がなくなることはあり得ません。それに、ノンバイナリーであることを宣言すれば男女どちらのトイレを使ってもいいということにはなりません。
しかしながら、トイレ、銭湯、更衣室などを除けば、一般社会でジェンダーの区別が必要なのは体育の時間くらいではないでしょうか。つまり、これら以外ではジェンダーを区別する意味がなくなり、誰もがノンバイナリーである可能性があることを前提とした社会になっていくのではないかと私はみています。
ちなみに、UCLAによると、米国ではノンバイナリーはセクシャルマイノリティ(成人のLGBTQ)の11%に相当し、人数では120万人に昇るそうです。
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注:本サイトではこれまで、自身の秘密を打ち明けることを「カムアウト」と表現してきましたが、「カミングアウト」の方が一般的だというご意見を複数いただいたこともあり、今後は「カミングアウト」で統一していきます。
第180回(2021年6月) 「差別」についての初歩的な勘違い
2021年5月31日、与野党を超えた超党派で合意したはずのセクシャルマイノリティの課題に関する「理解増進法案」が、自民党保守派から反対意見が出て見送られることになりました。
その理由として、「差別は許されない」という表現が自民党保守派の人たちに受け入れられなかったから、と報じられています。報道を何度読んでも私にはこの内容がよく理解できません。
「差別は許されない」が許されないなら、「差別は許される」のでしょうか。もちろん、そういうわけではないでしょう。例えば、被差別部落出身者には大学受験の資格がない、などといった差別が許されるはずがありません。
では、自民党保守派の人たちからみて「差別は許されない」の何がいけないのでしょうか。各紙の報道をよく読むと、「行き過ぎた差別禁止の政治運動につながる」から「差別は許されない」そうです。「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
私には、皆目見当がつきません。差別は禁止しなければならないものであり、許されないものです。おっと(この言葉、文章のなかでは使いたくなかったのですが他に適当な表現がみあたりませんでした......)、思わず「差別は許されない」と言ってしまいました。
「差別は許されない」が許されないとは何を意味するのかを理解するには、まずは自民党保守派の人たちの立場に立つのがいいでしょう。「差別が許されない」という表現を認めないということは、自民党保守派にとっては「許される差別」があるはずです。まず、それについて考えてみましょう。
ん?(この言葉も使いたくなかったのですが......、以下同文)「許される差別」とはどのようなものなのでしょう。「許された差別」なら分かります。男女雇用機会均等法の前の男女差別、黒人に選挙権がなかった頃の人種差別、あるいは江戸時代の身分差別なども該当するでしょう。しかし、それらは現在の基本的な人権の視点からみて「あってはならない差別」であり、過去には「許された」のだとしても、現在では許されません。
2021年のこの時代においても「許される差別」にはどのようなものがあるのでしょう。そして、「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
これは皮肉で言っているのではなく、いったいどんな「差別」が「許される差別」になるのか私にはまるで見当がつきません。そこで、ネット検索してみました。しかし、どれだけ調べても「許される差別」が何なのかがまったく分からず、ただひとつの例も見つかりません。
「許される差別」の定義がはっきりしない以上は、「許されない差別」の定義も定めることができません。「差別=すべて許されない」なら筋が通りますが、論理的に「許されない差別」の存在を認めるには「許される差別」の存在を証明しなければならないからです。
「許される差別」......、いったいそんな差別がどこにあるのでしょうか。もしかすると自民党保守派の人たちが読むメディアを読めば分かるかも。そう考えて調べてみると、見つかりました!
「週刊新潮」2021年6月10日号に「マイノリティ擁護のあまり「不寛容」を招く「LGBT法案」」というタイトルの記事がありました。執筆したのは自民党保守派の西田昌司氏です。この記事で西田氏は「許される差別」について2つの例を挙げて示しています。それらを紹介しましょう。
1例目:ある男性国会議員の話
学生の頃、同姓の同級生から「好きだ」と恋愛感情を打ち明けられた男性。彼は戸惑って、その同級生と少し距離ができた。「差別は許されない」と法律で縛ると、この違和感を覚えたことがダメとなりかねない。(違和感を覚えるのは「許される差別」だ)
2例目:女性トイレに先に入っていた女性の話
見た目が男性の(トランスジェンダー女性の)人が女性トイレに入って来たとき、先にトイレに入っていた女性はその人を見て「えっ」を不安に感じるかもしれない。もしも「差別は許されない」という法律ができたら、この「不安」が許されないことになる恐れが出てくる。(不安を感じるのは「許される差別」だ)
「週刊新潮」という週刊誌、歴史のある超一流の雑誌だと私は思っています。私は、この雑誌の記事自体はあまり読まないのですが、いくつかの連載コラムや小説を楽しみにしています。いくつかのコラムは超一流のコラムニストたちによるものでとても読み応えがあります。ちなみに、知人のジャーナリストによると、週刊誌の読者は大きく2つの層に分かれるそうです。私のように連載コラムを中心に読む層と、特集記事を楽しみにしている層です。
話を戻しましょう。日本を代表する週刊誌にこんな記事が載せられたことが私には残念でなりません。この文章、少し読めば理論的におかしいことがすぐに分かります。
西田議員が言っている「差別」とは、その人が「何を感じたか」に過ぎません。1例目の男性が男性から告白されて違和感を覚えるのはその男性にとって「自然なこと」です。同じようにトイレに先に入っていた女性がトランスジェンダーの人をみて「不安」に思うのもやはり「自然なこと」です。
ちなみに、私が初めて黒人をみたのは18歳の夏、1987年の沖縄のコザ(現・沖縄市)でした。当時の私はアルバイトで沖縄に駐在しており、ある日の日が暮れかけた時間帯にコザの細い道をひとりで歩いていると、いきなり黒人がその道に面した店から出てきました。生まれて初めて見た黒人は米兵で、身長は190cm以上、体重も優に100kgを超えていました。その黒人に至近距離で睨みつけられた私は恐怖で足がすくみました。さて、女子トイレの女性が「差別」をしたのなら、このとき私も「差別」をしたのでしょうか。
西田氏が完全に勘違いをしているのは(もしくは分かっていて詭弁を宣っているのは)「差別は言動・行動にうつして初めて差別になるわけで、人が何を感じるかはその人の自由」という基本を無視していることです。
例えば、憎らしいと感じる同僚がいたとして、「憎らしい」と感じるのも「辞めてほしい」と考えるのも、あるいは「殺したい」と思ったとしてもこれは罪にはならないどころか、他人が干渉できない「自由」です。殺す計画を立てるのも自由ですし、殺すための包丁を買っても行動にうつさなければ罪にはなりません。
もう一例挙げましょう。ペドフィリアの小学校教師がいたとして、生徒の更衣を覗くのは犯罪ですが、自宅で生徒の裸を想像して自慰行為に耽るのは罪にはなりません(やめてほしいですが)。
国会議員の先生方にはまず「差別」の定義からおさらいしていただきたいと思います。細部については辞書を見てもらうこととして、ここでは最重要事項を確認しておきます。「差別」とは「思うこと」ではありません。そうではなく「差別」とは「行為」を指します。セクシャルマイノリティが嫌いであったとしてもそれは差別ではありません。セクシャルマイノリティであることを理由に、平等に付与されなければならない権利を奪う行動が差別になるわけです。
最後に一点補足しておきます。週刊新潮の記事で、西田議員は故・西部邁氏の言葉を引き合いに出し、自身の説を正当化しようとしています。私自身も西部氏の影響を大きく受けていますが、私の場合は氏の思想に共鳴するからこそセクシャルマイノリティの人権を擁護せねばならないと考えています。
参考:(医)太融寺町谷口医院マンスリーレポート2018年3月「無意味な「保守」vs「リベラル」」
その理由として、「差別は許されない」という表現が自民党保守派の人たちに受け入れられなかったから、と報じられています。報道を何度読んでも私にはこの内容がよく理解できません。
「差別は許されない」が許されないなら、「差別は許される」のでしょうか。もちろん、そういうわけではないでしょう。例えば、被差別部落出身者には大学受験の資格がない、などといった差別が許されるはずがありません。
では、自民党保守派の人たちからみて「差別は許されない」の何がいけないのでしょうか。各紙の報道をよく読むと、「行き過ぎた差別禁止の政治運動につながる」から「差別は許されない」そうです。「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
私には、皆目見当がつきません。差別は禁止しなければならないものであり、許されないものです。おっと(この言葉、文章のなかでは使いたくなかったのですが他に適当な表現がみあたりませんでした......)、思わず「差別は許されない」と言ってしまいました。
「差別は許されない」が許されないとは何を意味するのかを理解するには、まずは自民党保守派の人たちの立場に立つのがいいでしょう。「差別が許されない」という表現を認めないということは、自民党保守派にとっては「許される差別」があるはずです。まず、それについて考えてみましょう。
ん?(この言葉も使いたくなかったのですが......、以下同文)「許される差別」とはどのようなものなのでしょう。「許された差別」なら分かります。男女雇用機会均等法の前の男女差別、黒人に選挙権がなかった頃の人種差別、あるいは江戸時代の身分差別なども該当するでしょう。しかし、それらは現在の基本的な人権の視点からみて「あってはならない差別」であり、過去には「許された」のだとしても、現在では許されません。
2021年のこの時代においても「許される差別」にはどのようなものがあるのでしょう。そして、「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
これは皮肉で言っているのではなく、いったいどんな「差別」が「許される差別」になるのか私にはまるで見当がつきません。そこで、ネット検索してみました。しかし、どれだけ調べても「許される差別」が何なのかがまったく分からず、ただひとつの例も見つかりません。
「許される差別」の定義がはっきりしない以上は、「許されない差別」の定義も定めることができません。「差別=すべて許されない」なら筋が通りますが、論理的に「許されない差別」の存在を認めるには「許される差別」の存在を証明しなければならないからです。
「許される差別」......、いったいそんな差別がどこにあるのでしょうか。もしかすると自民党保守派の人たちが読むメディアを読めば分かるかも。そう考えて調べてみると、見つかりました!
「週刊新潮」2021年6月10日号に「マイノリティ擁護のあまり「不寛容」を招く「LGBT法案」」というタイトルの記事がありました。執筆したのは自民党保守派の西田昌司氏です。この記事で西田氏は「許される差別」について2つの例を挙げて示しています。それらを紹介しましょう。
1例目:ある男性国会議員の話
学生の頃、同姓の同級生から「好きだ」と恋愛感情を打ち明けられた男性。彼は戸惑って、その同級生と少し距離ができた。「差別は許されない」と法律で縛ると、この違和感を覚えたことがダメとなりかねない。(違和感を覚えるのは「許される差別」だ)
2例目:女性トイレに先に入っていた女性の話
見た目が男性の(トランスジェンダー女性の)人が女性トイレに入って来たとき、先にトイレに入っていた女性はその人を見て「えっ」を不安に感じるかもしれない。もしも「差別は許されない」という法律ができたら、この「不安」が許されないことになる恐れが出てくる。(不安を感じるのは「許される差別」だ)
「週刊新潮」という週刊誌、歴史のある超一流の雑誌だと私は思っています。私は、この雑誌の記事自体はあまり読まないのですが、いくつかの連載コラムや小説を楽しみにしています。いくつかのコラムは超一流のコラムニストたちによるものでとても読み応えがあります。ちなみに、知人のジャーナリストによると、週刊誌の読者は大きく2つの層に分かれるそうです。私のように連載コラムを中心に読む層と、特集記事を楽しみにしている層です。
話を戻しましょう。日本を代表する週刊誌にこんな記事が載せられたことが私には残念でなりません。この文章、少し読めば理論的におかしいことがすぐに分かります。
西田議員が言っている「差別」とは、その人が「何を感じたか」に過ぎません。1例目の男性が男性から告白されて違和感を覚えるのはその男性にとって「自然なこと」です。同じようにトイレに先に入っていた女性がトランスジェンダーの人をみて「不安」に思うのもやはり「自然なこと」です。
ちなみに、私が初めて黒人をみたのは18歳の夏、1987年の沖縄のコザ(現・沖縄市)でした。当時の私はアルバイトで沖縄に駐在しており、ある日の日が暮れかけた時間帯にコザの細い道をひとりで歩いていると、いきなり黒人がその道に面した店から出てきました。生まれて初めて見た黒人は米兵で、身長は190cm以上、体重も優に100kgを超えていました。その黒人に至近距離で睨みつけられた私は恐怖で足がすくみました。さて、女子トイレの女性が「差別」をしたのなら、このとき私も「差別」をしたのでしょうか。
西田氏が完全に勘違いをしているのは(もしくは分かっていて詭弁を宣っているのは)「差別は言動・行動にうつして初めて差別になるわけで、人が何を感じるかはその人の自由」という基本を無視していることです。
例えば、憎らしいと感じる同僚がいたとして、「憎らしい」と感じるのも「辞めてほしい」と考えるのも、あるいは「殺したい」と思ったとしてもこれは罪にはならないどころか、他人が干渉できない「自由」です。殺す計画を立てるのも自由ですし、殺すための包丁を買っても行動にうつさなければ罪にはなりません。
もう一例挙げましょう。ペドフィリアの小学校教師がいたとして、生徒の更衣を覗くのは犯罪ですが、自宅で生徒の裸を想像して自慰行為に耽るのは罪にはなりません(やめてほしいですが)。
国会議員の先生方にはまず「差別」の定義からおさらいしていただきたいと思います。細部については辞書を見てもらうこととして、ここでは最重要事項を確認しておきます。「差別」とは「思うこと」ではありません。そうではなく「差別」とは「行為」を指します。セクシャルマイノリティが嫌いであったとしてもそれは差別ではありません。セクシャルマイノリティであることを理由に、平等に付与されなければならない権利を奪う行動が差別になるわけです。
最後に一点補足しておきます。週刊新潮の記事で、西田議員は故・西部邁氏の言葉を引き合いに出し、自身の説を正当化しようとしています。私自身も西部氏の影響を大きく受けていますが、私の場合は氏の思想に共鳴するからこそセクシャルマイノリティの人権を擁護せねばならないと考えています。
参考:(医)太融寺町谷口医院マンスリーレポート2018年3月「無意味な「保守」vs「リベラル」」
第179回(2021年5月) コンドームを外せば強姦罪、レイプ後の結婚で無罪
GINAのサイトでは「レイプ(性暴力)」に伴う諸問題を何度も取り上げてきました。「GINAと共に」第173回(2020年11月)「「性暴力」が日本でこれだけ蔓延るのはなぜか」では、加害者側に罪の意識がないことを指摘しました。また、日本では(おそらく他国でも)知らない間に「セカンドレイプ」の加害者になってしまう問題も2013年のコラム「レイプに関する3つの問題」で指摘しました。
日本でレイプの被害が多く、加害者意識が低いことの理由として、先述のコラムでは女性の地位が低いから、すなわちジェンダーギャップが大きいからではないかという私見を述べました。そして、2020年のWorld Economic Forumのデータを紹介しました。世界ランキングでは、日本はジャンダーギャップが少ない国(つまり男女差別がない国)の第121位です。
男女差別がない国のトップ3はアイスランド、ノルウェー、フィンランドです。アジアで最高位にランクされているのはフィリピンで16位。タイは75位、中国106位、韓国108位、インド112位です。いくらなんでもレイプが日常茶飯時となっているインドに日本が負けているということはないと思うのですが、World Economic Forumのランキングでは、日本に厳しい評価が下されています。
もっとも、どのような視点から統計をとるかで結果は大きく異なってきます。タイを考えると、たしかに女性の方がよく働くのは間違いなく、役所や一般企業で役職の付いている女性は間違いなく日本よりも多いでしょう。そもそも一般のタイ人男性はあまり働きませんから(そんな失礼なこと言うな!という意見もあるでしょうが、タイをよく知る人なら同意してくれるのではないでしょうか。ただしもちろん勤勉なタイ人男性もいます)、昼間の世界では女性の地位が日本より高いのは間違いありません。
では、本当にタイは日本よりも女性差別が少ないのでしょうか。
英紙「The Guardian」2021年4月14日に興味深い記事が掲載されました。タイトルは「「レイプ犯と結婚法」は依然として20か国に存在('Marry your rapist' laws in 20 countries still allow perpetrators to escape justice)」です。タイトル通り、レイプの加害者がその女性と結婚すれば罪が帳消しになる国が世界に20か国もあるという話です。
その20か国のなかのひとつがタイです。タイでは、レイプの加害者が18歳以上、被害者が15歳以上の場合、女性が犯罪に「同意」し、裁判所が結婚の許可を与えれば、結婚はレイプの和解と見なされるのです。
私自身は実際にこのようにして"結婚"したタイ人の夫婦を見たことはありませんが、英国の一流紙に掲載されたわけですからこれは事実でしょう。ちなみに、記事によれば、タイ以外にこのような制度のある国はロシア、ベネズエラ、クウエート、マリ、ニジェール、セネガルなどです。
一方、かつては同様の法律があったモロッコでは、若い女性が自分を犯したレイプ犯との結婚を余儀なくされたことを苦痛に自殺し、これがきっかけとなりこの悪しき法律は廃止されました。ヨルダン、パレスチナ、レバノン、チュニジアもモロッコに続いて法改正をしたそうです。
レイプの加害者になったとしても、その被害者と結婚すれば罪が消えるなら、そもそも「罪」の意識が起こらないでしょう。加害者の男性の視点で言えば、気に入った女性が見つかれば「女性から気に入られること」ではなく「まずレイプ」となることが容易に想像できます。「あの女性、かわいいからライバルが出現する前にレイプしてしまって結婚しよう」と考える男性が出てくるかもしれません。こうなれば、女性の人権などまるでありません。
他方、2016年のコラム「レイプ事件にみる日本の男女不平等」で紹介したように、米国では性行為に合意がなければレイプと見なされる可能性があり、その「合意」を証明するためのアプリまで存在します。そのアプリの名は「YES to SEX」。パートナーが合意を示す音声を最大25秒間記録できて、セキリュティ管理された専用サーバーに1年間無料で保管してもらえます。
付き合い始めたパートナーと誰もいないところで見つめ合ったまま無口になり、そのまま自然な流れでキスを......、という流れが"レイプ"になる可能性があるというわけです。
もうひとつ、興味深い"レイプ"を紹介しましょう。ニュージーランドの日刊紙「The New Zealand Herald」に2021年4月13日に掲載された記事「セックスの途中でコンドームを外す「stealthing」で有罪判決を受けたウェリントンの男(Wellington man convicted of rape after 'stealthing' - removing the condom during sex)」です。
stealthingという単語を私は初めて見ましたが、これは「steal」+「thing」の造語ではなく、「stealth」のing形でしょう。stealthとは、イメージとしては「こっそり何かをする」という感じで、例えばネコがゆっくりとネズミに近づくときなどに使います。しかし、stealthingという単語は、私が愛用している二つの辞書(「愛用」といってもどちらも無料のオンライン版ですが)「Longman」と「Oxford dictionary」には載っていません。しかし、「stealthing」というキーワードで論文を探すとみつかりました。
医学誌「PLoS ONE」2018年12月26日号に「メルボルンのセクシャルヘルスクリニックの患者から報告された合意に基づかないコンドームの除去 (Non-consensual condom removal, reported by patients at a sexual health clinic in Melbourne, Australia)」というタイトルの論文が掲載されています。やはりstealthingとは、論文のタイトルにある通り「合意に基づかないコンドームの除去」のことです。
論文によれば、このクリニックを訪れた女性の32%およびゲイの男性の19%は、stealthingの経験があるそうです。被害者の女性はセックスワーカーに多い傾向があり、ゲイの男性は不安またはうつ病を報告する可能性がstealthingのないゲイ男性に比べて2.13倍高いことが分かりました。
stealthingは罪であるけれども、性行為には同意があるのなら、コンドームなしでの性行為をするのにはその"同意"も必要ということになります。先述のアプリ「YES to SEX」では現時点ではそこまでの対応はしていないようですが、いずれ近いうちに、その"同意"はコンドームありかなしかを区別できるようになるのかもしれません。
おそらく、日本ではstealthingで加害者を有罪に問うことはかなり困難でしょう。ただし、先述の論文にあるようにゲイ男性が不安・うつを発症する可能性が高いことには注目すべきです。これはおそらくHIVや他の性感染症に罹患したのではないかという不安が原因ではないでしょうか。そして実際、stealthingによりHIVのリスクは急増するわけです。そう考えると、stealthingという犯罪がもっと注目されるべきということになります。
レイプをしても結婚で帳消しになる国でstealthingが議論される日は訪れるのでしょうか。
日本でレイプの被害が多く、加害者意識が低いことの理由として、先述のコラムでは女性の地位が低いから、すなわちジェンダーギャップが大きいからではないかという私見を述べました。そして、2020年のWorld Economic Forumのデータを紹介しました。世界ランキングでは、日本はジャンダーギャップが少ない国(つまり男女差別がない国)の第121位です。
男女差別がない国のトップ3はアイスランド、ノルウェー、フィンランドです。アジアで最高位にランクされているのはフィリピンで16位。タイは75位、中国106位、韓国108位、インド112位です。いくらなんでもレイプが日常茶飯時となっているインドに日本が負けているということはないと思うのですが、World Economic Forumのランキングでは、日本に厳しい評価が下されています。
もっとも、どのような視点から統計をとるかで結果は大きく異なってきます。タイを考えると、たしかに女性の方がよく働くのは間違いなく、役所や一般企業で役職の付いている女性は間違いなく日本よりも多いでしょう。そもそも一般のタイ人男性はあまり働きませんから(そんな失礼なこと言うな!という意見もあるでしょうが、タイをよく知る人なら同意してくれるのではないでしょうか。ただしもちろん勤勉なタイ人男性もいます)、昼間の世界では女性の地位が日本より高いのは間違いありません。
では、本当にタイは日本よりも女性差別が少ないのでしょうか。
英紙「The Guardian」2021年4月14日に興味深い記事が掲載されました。タイトルは「「レイプ犯と結婚法」は依然として20か国に存在('Marry your rapist' laws in 20 countries still allow perpetrators to escape justice)」です。タイトル通り、レイプの加害者がその女性と結婚すれば罪が帳消しになる国が世界に20か国もあるという話です。
その20か国のなかのひとつがタイです。タイでは、レイプの加害者が18歳以上、被害者が15歳以上の場合、女性が犯罪に「同意」し、裁判所が結婚の許可を与えれば、結婚はレイプの和解と見なされるのです。
私自身は実際にこのようにして"結婚"したタイ人の夫婦を見たことはありませんが、英国の一流紙に掲載されたわけですからこれは事実でしょう。ちなみに、記事によれば、タイ以外にこのような制度のある国はロシア、ベネズエラ、クウエート、マリ、ニジェール、セネガルなどです。
一方、かつては同様の法律があったモロッコでは、若い女性が自分を犯したレイプ犯との結婚を余儀なくされたことを苦痛に自殺し、これがきっかけとなりこの悪しき法律は廃止されました。ヨルダン、パレスチナ、レバノン、チュニジアもモロッコに続いて法改正をしたそうです。
レイプの加害者になったとしても、その被害者と結婚すれば罪が消えるなら、そもそも「罪」の意識が起こらないでしょう。加害者の男性の視点で言えば、気に入った女性が見つかれば「女性から気に入られること」ではなく「まずレイプ」となることが容易に想像できます。「あの女性、かわいいからライバルが出現する前にレイプしてしまって結婚しよう」と考える男性が出てくるかもしれません。こうなれば、女性の人権などまるでありません。
他方、2016年のコラム「レイプ事件にみる日本の男女不平等」で紹介したように、米国では性行為に合意がなければレイプと見なされる可能性があり、その「合意」を証明するためのアプリまで存在します。そのアプリの名は「YES to SEX」。パートナーが合意を示す音声を最大25秒間記録できて、セキリュティ管理された専用サーバーに1年間無料で保管してもらえます。
付き合い始めたパートナーと誰もいないところで見つめ合ったまま無口になり、そのまま自然な流れでキスを......、という流れが"レイプ"になる可能性があるというわけです。
もうひとつ、興味深い"レイプ"を紹介しましょう。ニュージーランドの日刊紙「The New Zealand Herald」に2021年4月13日に掲載された記事「セックスの途中でコンドームを外す「stealthing」で有罪判決を受けたウェリントンの男(Wellington man convicted of rape after 'stealthing' - removing the condom during sex)」です。
stealthingという単語を私は初めて見ましたが、これは「steal」+「thing」の造語ではなく、「stealth」のing形でしょう。stealthとは、イメージとしては「こっそり何かをする」という感じで、例えばネコがゆっくりとネズミに近づくときなどに使います。しかし、stealthingという単語は、私が愛用している二つの辞書(「愛用」といってもどちらも無料のオンライン版ですが)「Longman」と「Oxford dictionary」には載っていません。しかし、「stealthing」というキーワードで論文を探すとみつかりました。
医学誌「PLoS ONE」2018年12月26日号に「メルボルンのセクシャルヘルスクリニックの患者から報告された合意に基づかないコンドームの除去 (Non-consensual condom removal, reported by patients at a sexual health clinic in Melbourne, Australia)」というタイトルの論文が掲載されています。やはりstealthingとは、論文のタイトルにある通り「合意に基づかないコンドームの除去」のことです。
論文によれば、このクリニックを訪れた女性の32%およびゲイの男性の19%は、stealthingの経験があるそうです。被害者の女性はセックスワーカーに多い傾向があり、ゲイの男性は不安またはうつ病を報告する可能性がstealthingのないゲイ男性に比べて2.13倍高いことが分かりました。
stealthingは罪であるけれども、性行為には同意があるのなら、コンドームなしでの性行為をするのにはその"同意"も必要ということになります。先述のアプリ「YES to SEX」では現時点ではそこまでの対応はしていないようですが、いずれ近いうちに、その"同意"はコンドームありかなしかを区別できるようになるのかもしれません。
おそらく、日本ではstealthingで加害者を有罪に問うことはかなり困難でしょう。ただし、先述の論文にあるようにゲイ男性が不安・うつを発症する可能性が高いことには注目すべきです。これはおそらくHIVや他の性感染症に罹患したのではないかという不安が原因ではないでしょうか。そして実際、stealthingによりHIVのリスクは急増するわけです。そう考えると、stealthingという犯罪がもっと注目されるべきということになります。
レイプをしても結婚で帳消しになる国でstealthingが議論される日は訪れるのでしょうか。