なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか

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谷口 恭     2006年1月

目 次

1 外国人にとってタイは最大のHIV感染国
2 最大100万人のセックスワーカー
3 どこにでもいるセックスワーカー
4 狂乱のリゾート地パタヤ
5 バンコクの夜の実態
6 北タイの売春事情
7 恋愛、結婚、叶わぬ恋


1 外国人にとってタイは最大のHIV感染国


 性行為を介したHIV感染を考えたとき、コンドームを適切に使用していればほぼ完全に感染は防げるはずです。この知識は日本を含めた先進国の国民であれば知らない人はまずいないでしょう。そして、タイでHIVが蔓延していることを知らない人も、少なくともタイ国に渡航する人たちの間にはいないでしょう。

 にもかかわらず、性行為を介してタイでHIVに感染する人は後を絶ちません。

 例えば、British Medical Journalという医学専門誌の2004年3月号に掲載された「Sex, Sun, Sea, and STIs」というタイトルの論文によりますと、2000年から2002年の間で、UKの国籍を持つ異性愛者でHIVに感染した男性の69%は海外で感染しているそうです。そして、海外ではタイが最も多く全体の22%に相当するそうです。(女性については24%が海外でHIVに感染しているそうです。)

 では、コンドームを使用していれば感染を防げるという知識を持っているはずの英国人が、なぜタイ国でHIVに感染してしまうのでしょうか。

 この論文には、性行為を目的としてタイ国を訪れる西洋人(データはドイツ人)のタイ国でのコンドーム使用率が紹介されています。なんと、コンドーム使用率はわずか3~4割しかないそうなのです。この論文では「sex tourism」という言葉が使われており、そもそもセックスワーカーにHIV陽性者が多いことが自明な国に性行為を目的に渡航すること自体がおかしいのですが、それにしても、コンドーム使用率が3~4割というのは少なすぎます。タイでセックスワーカー相手に対して、コンドームを使用せずに性行為をするなどというのはキケン極まりない行動なのです。

 では、知識がありながら、なぜコンドームを使用しない性行為がおこなわれるのでしょうか。

 その鍵がこの論文に掲載されています。タイを性行為目的で訪れる外国人の多くは、セックスワーカーをセックスワーカーとは見ないそうなのです。セックスワーカーではなく「親密な友達」(原文はintimate friends)と見るそうなのです。

 しかしながら、果たしてこのようなことが実際にあるのでしょうか。いわゆる風俗店に行って、その女性をセックスワーカーではなく、「親密な友達」とみなすなどということは理解しがたいことです。また、風俗店ではなく、個人売春であったとしても金銭が介入する以上はそれがセックスワーカー相手の売春であることは自明です。

 タイのセックスワーカーが、セックスワーカーでなく「親密な友達」とみなされるのは、何か理由があるに違いありません。


2 最大100万人のセックスワーカー


 「タイのHIV/AIDS事情(総論)」でもご紹介しましたが、ここでタイにおけるHIV感染者の職業別の割合をみてみましょう。第1位は一般の被雇用者、第2位は無職、第3位は僧侶、そして第4位が主婦であるということは総論で述べました。第5位以降は、商人、小児、経営者、公務員、と続きます。
 
 実際にタイで患者さんと接すると分かりますが、女性の患者さんは、主婦を除けば大半が(元)セックスワーカーです。この表(詳しくは「タイのHIV/AIDS事情(総論)」を参照してください)では、セックスワーカーは「その他」に含まれておりわずかな人数しかいないことになっています。 

 なぜこのような差異が生じるのでしょうか。

 それを考えるために、タイのセックスワーカーの実態をみていきましょう。まずは、人数、つまり、いったいタイではどれくらいの女性が売春行為をしているのかをみてみましょう。

 表は、『ゴーゴーバーの経営人類学』市野沢 潤平著(めこん社)から引用したものです。この表から、タイのセックスワーカーの人数は出展によって随分と異なることが分かります。例えば、厚生省(Public Health Ministry)の調査では、63,941人のセックスワーカーが存在するとしているのに対して、Mueckeという学者の調査によると、最大で100万人にもなるのです。

 6万人と100万人は大きな違いです。なぜ、同じ目的の調査をしてこれほどの違いが生じるのでしょうか。そして、本当はタイにはどれくらいのセックスワーカーが存在するのでしょうか。




3 どこにでもいるセックスワーカー


 タイのセックスワーカーを正しく把握するために、彼女ら(一部は彼ら)がどのような場所で働いているのかをみてみましょう。

 表は、『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』谷口恭著(文芸社)に掲載されたものです。(この表はもともと『ゴーゴーバーの経営人類学』に掲載されていたものを構成しなおしたものです。)

 表の1行目から5行目、すなわち、置屋、冷気茶屋(中国式置屋のこと)、マッサージパーラー(ソープランドのこと)、街娼、コールガールは、誰がみてもセックスワーカーの勤務地です。ここまでは問題ないでしょう。

 次に、表の6行目から16行目に注目してください。ゴーゴーバー、会員制クラブ、ビアバー、ナイトクラブ、ゲイバー、ラムウォンバー、パブ、カクテルラウンジ、カフェ、ディスコ、となっていますが、日本的な感覚で言えば、これらはいずれも女性を買いにいく場所ではありません。単にお酒を飲みにいったり、音楽やダンスを楽しみにいったりするところのはずです。こういった店にも女性(あるいは男性)がいて、日本でも、場合によっては客に身体を許すようなことがあるかもしれませんが、身体を売ることを目的に働いている従業員はほとんどいないでしょう。また、ナンパが目的であったとしても、初めから身体を買うことを目的としてこういった店に出向く客もほとんどいないと思われます。

 ところが、タイではこういった店の従業員の大半が売春行為をおこなうセックスワーカーだというのです。さらに、このグループの人数をみてみると、およそ8万5千人で、最初のグループ(1行目から5行目)までの人数4万5千人の2倍近くにもなります。

 次に残りのセグメントをみてみましょう。これらは、女性(男性)を目的とするどころか、お酒を中心に提供する場所でもありません。17行目のガーデンレストランに注目してください。人数が4万1千人と、この表のなかで最も高い数字です。

 ただし、この4万1千人のすべてが従業員ではないと思われます。タイのガーデンレストランの多くは、チャージを取られませんし、飲み食いした分だけを支払うようなかたちのところが多いといえます。おそらくこの4万1千人になかには、(レストランの)客として店に入り、(自分の)客を探しているフリーのセックスワーカーが多分に含まれているものと思われます。次の行のコーヒーショップやサウナも同じことが言えるでしょう。

 古式マッサージの人数が多いことも注目すべきです。観光客の多くは、タイ古式マッサージが売春宿であるなどとは微塵も思いません。ところが、実際には売春宿を兼ねているマッサージ屋は少なくないのです。なかには、売春をしているなどとはつゆしらず、マッサージを受けている最中にマッサージ嬢から売春の話をもちかけられ、半ば強引に性行為となり、その結果、急性B型肝炎で1ヶ月以上の入院をしたという日本人観光客もいます。(詳しくは『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』参照)

 理容師や美容師にセックスワーカーが多いという現状も知っておいた方がよいでしょう。髪を切ってもらっている最中に「営業行為」をされることが少なくないからです。

 ホテルのセックスワーカーとはどういう意味でしょうか。これはおそらくホテルの従業員という意味ではなく、観光客、とりわけ外国人の観光客を目当てに「営業」をしにきている女性(男性)だと思われます。

 下の写真は、バンコク中心部のあるホテルのロビー、時刻は午前2時です。突然スコールのような雨が降ってきて、多くの女性が雨を逃れるためにホテルのロビーに集まってきました。写真はロビー内の喫茶コーナーから撮影していますが、彼女たちのなかには、喫茶コーナーまでやってきて「営業」を始めるものもいます。おそらく彼女らの多くは街で「営業」をしていて、雨を逃れるためにホテルのロビーに非難し、そこでも「営業」を開始したというわけです。とすると、表にあてはめると、彼女らのセグメントは、「街娼」から「ホテル」に変わったということになります。ということは、この表のなかでもかなりの流動性があると考えるべきでしょう。

 それにしても、ホテル側が彼女らに対して何も言わないことに驚きます。

バンコクの繁華街にあるロビーの風景。午前2時。彼女らの「営業」のパワーに圧倒されます。

 ところで、セックスワーカーのなかでどれくらいの者がHIVを含めて性感染症に罹患しているのでしょうか。 

 残念ながら、それを示すデータは見当たりません。そもそも、セックスワーカーの数自体が正確に把握できないのですから、それも無理はないでしょう。

 下に示すのは、サンクトペテルブルクのセックスワーカーのHIVに対する罹患率を示したものです。このグラフによりますと、顧客の多いセックスワーカーほどHIVの罹患率が高く、1週間に20人以上顧客を取るセックスワーカーの67%がHIV陽性ということになります。性交渉の回数が増えれば増えるほどリスクが増加するのですから、これは当然でしょう。

 このグラフから察するに、タイのセックスワーカーの正確なHIV罹患率は分からないとしても、たくさんの顧客を取る、要するに「売れっ子」のセックスワーカーであればあるほどHIV陽性率が高いことが予想されます。また、HIV陽性率が高いということは、他の性感染症に罹患している可能性も高いのです。

 セックスワーカーが美しければ美しいほど、それだけリスクが上昇すると言えるかもしれません。


4 狂乱のリゾート地パタヤ


 パタヤはバンコクからバスで東に3時間程度のところにあるタイ有数のリゾート地です。このリゾート地は、ベトナム戦争の際、アメリカ兵の娯楽地(これをR&R, Rest and Relaxationの略、と呼びます)として発展したという歴史があります。アメリカ兵を相手に身体を売る女性がタイ全土から集まり、終戦後も娯楽地として栄えているのです。

 パタヤには主に西洋人を対象としたオープンバーがたくさんあります。写真はパタヤの典型的なオープンバーで、カウンターの内側にホステスが立ち、外側に西洋人の客が座っています。この写真の左側にムエタイのリングがあり、客はムエタイ観戦と女性とのコミュニケーションを楽しめます。そして、「交渉」がまとまれば、ホステスは客と一緒に店を出るのです。


パタヤのオープンバー 

 オープンバーには西洋人が多く集まるのに対して、日本人は店舗型、さらに女性が制服を着用した店を好むようです。写真の店は、日本語、ハングル、中国語で案内がなされています。(「いらっしゃいませ」ではなく「いらっしゃませ」となっています。)


パタヤのパブ。
東洋人には制服が好まれるのでしょうか。


 オープンバーやパブばかりではありません。パタヤには街娼がたくさんいます。写真はパタヤビーチ沿いの海岸通で「営業」をおこなっている街娼です。彼女らの近くを歩くと、かたことの英語や日本語で話しかけられます。なかには、ニキビや皮疹の目立つ女性もいて、感染予防上の問題が示唆されます。

パタヤの街娼


5 バンコクの夜の実態

 バンコクの人口は公的にはおよそ800万人とされていますが、これには旅行者や中期滞在者の数が正確に反映されておらず、実際は1000万人を超えるのではないかと言われることもあります。

 そして、おそらくパタヤ以上に、タイ国全土からセックスワーカーが集まっているでしょう。先に示した、深夜の繁華街のホテルの一光景がそれを物語っています。

 バンコクには、ありとあらゆるタイプの売春施設があり、さらにフリーのセックスワーカーも相当な数に昇ると思われます。

 下の写真は日本人御用達のタニヤを撮影したものです。タニヤでも、そのほとんどの店で働く女性は、客に対して身体を売っていると言われています。派手なドレスを身にまとった美しきセックスワーカーたちは、日本人受けする容姿の者が多いと言えます。


タニヤの一光景。このエリアには日本人に好まれる容姿の女性が集められていると言われている。


6 北タイの売春事情


 90年代初頭に、北タイでのAIDS蔓延が大きな問題となりました。一部の報道では、北タイのセックスワーカーの4人に1人がHIVに感染しているとさえ言われていました。現在は、さすがにそこまで高い感染率があるとは思えませんが、それでもHIVに感染する者が跡を絶たない現状は続いています。

 北タイが、パタヤやバンコクと異なる点はいくつかあります。

 そのひとつが、一度の売春価格が圧倒的に安く、一部の売春宿ではわずか数百円で売春させられている女性もいるそうです。価格が安い店で問題なのは、コンドームが使用されているかが疑わしいからです。コンドームの価格と売春の価格がほとんど変わらない状況で、適切なコンドーム使用がなされているかはかなり疑問です。実際、北タイの売春宿でHIVに感染したであろうと思われる患者さんは珍しくありません。

 次に、セックスワーカーの年齢の低さです。現在のパタヤやバンコクでは、(最近はそうでもなくなってきたとは言え)、10代前半のセックスワーカーの割合はそれほど高くはありません。それに対して、北タイでは10代前半のセックスワーカーが当たり前のように存在するそうです。

 売春の是非というのは非常にむつかしい問題ですが、少なくとも10代前半で身体を売るという行為は絶対にあってはならないことです。セックスワーカーに対して、労働環境を整備し、きっちりと権利を付与するべき、ということが言われることがあり、それはたしかにその通りなのですが、こういったことができるのは、アイデンティティの確立した成人に限ってのことです。

 まだ、アイデンティティも性感染症に対する知識もままならない10代前半の女性がセックスワーカーとして働くなどというのは、どんな事情があれ、あってはならないことです。

 北タイ独自の問題はまだあります。それは、少数民族、さらには「トラフィッキング」と呼ばれる、ミャンマーを初めとする諸外国から不法に入国した者の売春行為です。特に、トラフィッキングで不法入国したミャンマー人がタイでHIVに感染した場合、AIDSを発症してもタイで治療を受けられず、またHIV感染が理由で母国に帰ることもできなくなる場合があるそうです。90年代半ばには、タイでHIVに感染したミャンマー人の女性がまとめて処刑されたという話もあります。 


7 恋愛、結婚、叶わぬ恋


 「売春はいいことですか、それとも悪いことですか」、と問われれば、おそらくほとんどの人は、「悪いこと」、もしくは「善くないこと」と答えるでしょう。もちろん、「いいこと」でないことは自明でしょうが、古今東西を問わず、人類の歴史とともに「売春婦=セックスワーカー」が存在してきたのは事実です。

 現在の日本でも、風俗店というのは存在しますし、成人どうしが金銭の介入の伴う性交渉をおこなっているのは事実です。

 では、売春は「必要悪」なのかと言うと、それほど単純には片付けられないように思われます。なぜなら、最初は、たしかにセックスワーカーと顧客の関係であったはずの二人が、後に恋愛関係を結び、さらには結婚にまでいたることも珍しくないからです。こういう話が、タイではごく当たり前のように存在します。

 タイのセックスワーカーのなかには、「誰にでも身体を許すわけではない」女性がいるということも、恋愛に帰着する要因のひとつでしょう。彼女らは、自分の気に入った男性に対してのみ身体を売り、なかにはしっかりと貞操を守る女性も少なくないそうです。

 『今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ』では実際のラブストーリーを紹介していますが、何もモテない男性がセックスワーカーと恋に落ちるわけではありません。

 たとえ、「売春」が「悪いこと」「善くないこと」あるいは「必要悪」であったとしても、結婚して幸せな家庭を築いている二人を誰が責めることができるでしょうか。

 100個の恋愛があるとすれば、それは100通りの恋愛であるはずです。セックスワーカーと顧客の恋愛であったとしても、その経過や転機は様々です。幸せな結婚生活を送っている夫婦もたくさんいますが、不幸な結末となるケースも少なくないようです。

 例えば、男性が恋愛だと思っていたのに、実は女性(セックスワーカー)に本当の恋人(タイ人であることが多い)がいたという話がよくあります。全財産をつぎこんだとたんに本当の恋人のところに逃げられた日本人男性の話などタイにはごまんとあります。

 また、自分の恋人と思っていた女性に、本当の恋人がいることを知り、自殺を図った若い日本人男性の話が、ときどきタイのマスコミで報道されています。

 不幸な転機をたどるのは若い男性だけではありません。最近、日本での仕事をリタイヤした後タイに長期滞在し、現地でタイ人女性と結婚する日本人男性が増えていますが(なかには初めから結婚目的で長期滞在する日本人も少なくないそうです)、結婚した(籍を入れた)とたんに謎の変死体で発見されたという事件が頻発しています。疑惑が大きいため警察が捜査をやり直すこともあるそうです。
 
 結局のところ、セックスワーカーと顧客の間に生じる恋愛というのは、他のかたちで始まる恋愛と本質的な意味では大差がないのではないかと思われます。

 しかしながら、セックスワーカーや買春を繰り返す顧客が、HIVを含めた性感染症のリスクが高いという現実はしっかりと認識する必要があります。

 恋愛の威力に足元を見失い「盲目」になる前に、正しい知識を持つ必要があるのです。もちろん、正しい知識を持たなければならないのは、施設のセックスワーカー、フリーのセックスワーカー、顧客、のいずれもが、です。

 つまるところ、性行為をおこなう以上は、すべての人が、正しい知識を持ちHIVや他の性感染症のリスクを把握することが必要なのです。こういった話をしたり聞いたりする機会はそれほど多くはないかもしれませんが、生活習慣病には予防が最大の治療であるのと同様、HIVや性感染症を防ぐには正しい知識をもつことが最善の対策なのです。


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