GINAと共に

第99回 薬物密輸の罠と罪 2014年9月号

  イスタンブール、バンコク、マルティニーク。これら3つの街の共通点は何?、と問われれば何と答えればいいでしょうか。

 いずれも異文化が混ざり合った魅力的な街、というのは正しいでしょうがこれでは面白みに欠けますし、そのような街なら他にもいくらでもあります。この設問の答えは「空港で薬物所持で逮捕された悲劇を描いた映画に登場する街」です。もっとも、この設問は「私が知っている映画で」、という条件つきで、他にも同じような映画やドラマがあるかもしれませんから、あまりいい設問ではありません。

 有数の傑作とまでは言えず何度も観たいとは思わないものの、なんとなく心にひっかかっていて忘れられない映画、というのは誰にでもあると思いますが、私にとってそんな映画のひとつが『ブロークダウン・パレス』です。

 この映画は卒業旅行にバンコクに出かけたアメリカの女子高生2人が、現地で知り合った(たしか)オーストラリア人の男性に騙されてヘロインをスーツケースの中に入れられて空港で逮捕、終身刑(だったと思います)を言い渡されるというストーリーです。途中から敏腕弁護士が登場していいところまでいくのですが、最終的には後味の悪い映画でした。

 なぜこの映画が私の心の中でひっかかっているのかというと、この映画が公開された90年代後半に、似たような話を実世界でしばしば耳にしていたからです。実は私もこのような話を持ちかけられたことがあります。当時の私は医学部の学生であり、とにかくお金がなくて教科書を買うのにも苦労をしていました。そんな私に目をつけたのか、ある知人が「いいバイトがあるんだけど・・・」と近づいてきたのです。

 その知人がいうバイトとは、「香港に行ってある人物から荷物を受け取ってほしい。それを持って帰ってくるだけで10万円もらえる。もちろん旅費は負担しなくていい」というものでした。当時の私の身分は医学部の一学生に過ぎませんでしたが、医学部入学前には社会人の経験もありますし、さらにその前の大学生時代には水商売も含めて様々なアルバイトの経験がありましたから、いろんな世界の人からこういう話はすでに聞いて知っていました。

 それが「偽ブランド物」か「違法薬物」の運び屋のバイトであることがすぐに分った私は、その話を断り、その知人に「違法だと思うよ」と言うと、その知人は意外そうな顔をして、「そうだったのか。誰でもいいから香港に1泊で行ける人間を探してほしいってある人に言われたんだけど、そういうことだったのか・・・」と驚いていました。

 また、当時はこのようなバイトで稼いでいる輩が少なくない、という話もしばしば耳にしていました。そんななか、この映画『ブロークダウン・パレス』が公開されたものですから妙に説得力があったのです。

『ミッドナイト・エクスプレス』というのは1970年代のアカデミー賞受賞作です。イスタンブールでハシシ(大麻樹脂)を身体に巻き付けて持ち帰ろうとしたアメリカ人男性が空港で逮捕され長期間牢獄に入れられるというストーリーで、実話に基づいているとされています。ヘロインや覚醒剤ならともかく、なんでハシシで長期間?、と思われますが、これは当時のトルコとアメリカの二国間関係が険悪であったことが原因とされています。この映画では無事脱獄(脱獄の隠語が「ミッドナイト・エクスプレス」だそうです)を果たします。

『ブロークダウン・パレス』は、私自身は有数の傑作とまでは言えないと感じていますし、アカデミー賞受賞の『ミッドナイト・エクスプレス』も何度も観たいとは思いません。しかし、多くの人にすすめたい「絶対に見逃せない名作」として『マルティニークからの祈り』をあげたいと思います。

 韓国映画の良さが今ひとつ分からない私もこの映画には胸を打たれました。実話に基づいたストーリー、キャスティング、音楽、いずれを取り上げてもほぼ完璧な映画です。これほどの名作はめったにないと思います。

 この映画は現在公開中ですから、ストーリーを詳述すると「ネタバレ」になってしまいますので、触りだけを紹介しておきます。ソウル在住の海外旅行の経験のない主婦が夫の友人から「アフリカから金の原石をフランスに運ぶバイトがある」、という話を持ちかけられます。少し怪しいとは感じたものの、まさかそれがコカインであるとは思いもしなかったその主婦は儲け話に乗ります。お金に困っていたのは夫の事業(車の修理屋)が上手くいかず家賃も滞納しており、ひとり娘にも苦労させていたからです。

 フランスのオルリー空港で大量のコカインがスーツケースの中から見つかり、この主婦は言葉も通じないまま連行され、初めはフランス国内の刑務所に、その後カリブ海のマルティニーク島(仏領)の施設にうつされます。この映画が最高傑作と言える理由のひとつはキャスティングにあります。主演の女優チョン・ドヨンの演技はパーフェクトといっていいでしょう。娘と離れ離れにさせられた苦悩がよく伝わってきますし、フランス語どころか英語もほとんどできないこの主婦は「I... go.... Korea...」などと拙い表現で必死に訴えます。

 夫役のコ・スの演技も抜群です。娘を思いやる姿も印象的ですが、最も圧巻されるのは、冤罪でマルティニーク島の収容所に投獄されている妻に対して何も行動しない役人たちの前で灯油をかぶり自殺を図ろうとするシーンです。ときどき報道される反日感情から焼身自殺をする韓国人の心理は私には理解できませんが、この映画のこのシーンを私は忘れることができません。

 触りだけ、を紹介するつもりが少し踏み込んでしまいました。映画を離れて、現実的な話にうつりたいと思います。

 日本人が薬物所持で空港で逮捕された最も有名な事件は「メルボルン事件」でしょう。1992年、メルボルンに観光目的で入国しようとした日本人の男女5人がヘロイン所持で逮捕され懲役15~20年の実刑判決が下されました。彼(女)らは、トランジット先のクアラルンプールでスーツケースが盗まれるというアクシデントに見舞われ、ガイドが用意した新しいスーツケースを持っていたのですが、そのスーツケースの底にヘロインが隠されていたのです。この事件ではスーツケースを用意したこのガイドが怪しそうですが、裁判にはそのガイドはなぜか出廷されず、また通訳が不充分で被疑者の日本人たちの言葉がうまく伝わらずに裁判が不利に運ばれたと言われています。

 メルボルン事件はマスコミの報道などから冤罪であることは間違いなさそうですが、この男女5人のなかに元暴力団員で前科のある男性がいたことなどから裁判官の心証がよくなかったのかもしれません。

 メルボルン事件ほど大きくは取り上げられていませんが、薬物所持で海外の空港で逮捕という事件は国内外の新聞でときどき報道されています。私が注目しているのは2009年10月にドバイからクアラルンプールに覚醒剤3.5kgを運んだとされている日本人の30代T看護師です。一審の判決は「死刑」、2013年3月に下された二審の判決も「死刑」でした。今後三審で覆るかどうかは分りません。T看護師は「頼まれて運んだだけで中身を知らなかった」と主張しているそうですが、30代の看護師ということはそれなりの知識や経験があるとみなされるでしょうから「知らなかった」は通用しないかもしれません。

 一般にアジア諸国は死刑を科している国が多く、欧米諸国では死刑を廃止する傾向にあり、アジア諸国との間に齟齬がでてきます。分りやすい例を挙げれば、数年前にUKの女性がタイでタイ人男性に強姦・殺害され、タイの司法で死刑が命じられたもののUKの当局が減刑を申し出たという事例がありました。これはタイ人にしてみれば、自国の若い女性が弄ばれて殺されたというのにタイ人の犯人をなぜかばうのか、と不可解だったようです。

 薬物の例でいえば、2008年8月にUKの女性がラオスでヘロイン所持で逮捕されました。この女性は妊娠しており、人道的に解放すべきでないかという議論が起こりましたが、私が知る限り結局そのときは釈放されませんでした。(その後、ラオスで無事出産できたのかどうか、司法判決がどのようなものになったのかなどは不明です)

 先に述べたように、90年代後半に私はこのような密輸の話をよく聞いたわけですが、当時の私の知人(男性)から、「コンドームに大麻を入れて飲み込んで運べば安心らしいね。僕の知人は一度関西空港で不審に思われて腹のレントゲン撮影をされたけどスルーできたようだ。レントゲンでコンドームはうつらないんだね」という話を聞いたことがあります。

 この知人は、私が医学生だから、レントゲンにうつるうつらないの話をしたかったのでしょう。確かにこの男性が言うようにコンドーム自体はレントゲンにうつりませんが、腸管の通過障害などが起こればレントゲンで異常所見がでますし、もしも機内でコンドームが破れれば危険な状態になります。大麻では「立ち上がれない」くらいですむかもしれませんが、覚醒剤やコカイン、ヘロインなどなら命に直結する可能性もあります。

 薬物の危険性についてはこのサイトで繰り返し訴えていますが、その重要性に気付いていない日本人は残念ながら少なくありません。なかには「自分は薬物はやらない。運ぶだけ」などとうそぶく者もいるようですが、上に述べた数々の事件を思い出してみるとこのような「アルバイト」が割に合わないことは自明です。ちなみに、外務省はこのような日本人を助けることはありません。メルボルン事件のときも冤罪であったのにもかかわらず内政干渉になるという理由で日本政府は何もしませんでしたし、現在クアラルンプールで勾留されているT看護師にも政府からの支援は何もないそうです。

 私はこれまで違法薬物が原因でHIVに感染した人をたくさんみてきましたし、違法薬物で人生を棒に振った日本人の患者さんも多数みてきました。もしも薬物やあやしい高額バイトの誘惑に駆られたら・・・、そのときは、まず『マルティニークからの祈り』を観てみてください。きっと人生観が変わるでしょう・・・。



GINAと共に
第97回(2014年7月)「これからの「大麻」の話をしよう」
第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」
第49回(2010年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その2)」 
第73回(2012年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その3)」

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第98回 エイズ差別だけではない差別の実情 2014年8月号

   私がエイズという疾患を初めてみたのが2002年、研修医1年目の頃です。かねてからエイズという病に関心があったため、夏休みを利用してタイのエイズホスピスであるパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)を訪問し、そこで初めてエイズを患った人たちを診ることになったのです。

 まだ抗HIV薬が普及していなかった当時のタイのエイズの現場は壮絶なもので、毎日数人が他界していました。命はまだ残されているもののやせ細り呼吸をするのも辛そうにしている寝たきりの人、全身が皮膚の炎症におかされどす黒く腫れ上がっている人、脳症を発症し夜間に徘徊する人なども少なくなく、改めてエイズという病の困難さを知るに至りました。

 当時のパバナプ寺には、親戚を名乗る人がエイズの子どもを連れてきて逃げるように帰っていったり、病院から追い出され行き場をなくしてやってきた人がいたり(当時のタイではHIVに感染していることが判ると病院から放り出されていたのです)、敷地の外に赤ちゃんが置き去りにされていたり(おそらくエイズの親が捨てていったのでしょう)、といった見るも聞くも無惨な現実が至るところにありました。

 また、比較的元気な患者さんから話を聞くと、村を追い出された、バスに乗ろうとすると住民から石を投げられた、食堂から追い出された、学校を退学させられた、など許しがたい差別の数々を思い知るに至りました。

 こういった差別の現状を知ると、単に抗HIV薬を処方するのが医師の仕事ではなく、抗HIV薬で改善しない日頃の痛みや痒み、他の苦痛を取り除き、さらに心理的・社会的な観点からも患者さんに貢献しなければならない、と感じるようになりました。

 そこで私はタイの貧困問題、薬物問題、売買春の問題、少数民族の問題などにも関心をもつようになり、タイに渡航する度に、多くの人から話を聞くことに努め、一種のフィールドワークを重ねていきました。

 タイ人といってもいろんな人がいます。例えば医療者であれば、特に医師のほとんどは、バンコクなど都会で生まれ、高等教育を受けていて、比較的色が白い中華系タイ人が多く、エイズ患者に多い北タイや東北のタイ(イサーン人)とは"人種"が異なります。また、一般にバンコク生まれの都会人は比較的裕福であり、東北地方とは同じ国と思えないほどの所得格差がありますし、高校進学率には雲泥の差があります。タイ人には「平等」という観念が日本ほどはなく(というより、日本人ほど「平等」という言葉に敏感な国民はいないのではないかと私は思っています)、タイ国内での「人種差別」や「貧困者に対する差別」、「学歴差別」などがあるのは歴然としています(注1)。

 当時のタイでHIVに感染し、エイズを発症していた人は、バンコク人よりも北タイや東北タイ(イサーン地方)に圧倒的に多く、エイズという病気による差別に「地域差別」というかバンコク人からみた北部や東北部への差別がオーバーラップしているような印象を次第に持つようになっていきました。
 
 もう少し正確に言うと、北部と東北部でも異なります。北部と東北部を比べると、圧倒的に東北部の方が差別を受けているのは間違いありません。これは、当時首相だったタクシン氏が北部のチェンマイ出身だったこと、さらにチェンマイが外資系企業の誘致などで驚異的なスピードで発展していたこと、北部の人たちの多くは色が白く東北人とは"人種"が異なること、などがその理由です。ちなみに東北人(イサーン人)の容貌は色が黒く鼻が低いのが特徴で、ラオス人によく似ています。

 私が興味を持ったことはまだあります。では、東北人たちは差別されるだけなのか、といえばそういうわけではなく、露骨に口にすることは少ないですが、ラオス人やミャンマー人、あるいは国境付近に在住しどこの国にも属さない山岳民族などを下にみているきらいがあります。また、タイ人のなかには(バンコク人もイサーン人も)白人には羨望のような感情がある一方で黒人のことはあまりよく思っていない人が少なくありません。

 では、タイ人は欧米人が大好きなのかと言えばそういうわけでもなく、例えばタイのある施設で働くタイ人のベテラン看護師は「欧米人は我が強すぎてタイ人には合わない。あたしは欧米人の医者の指示を聞きたくないから、日本人のあんたの指示に従う」と言っていました。このサイトでも述べたことがありますが、タイ人の多くは日本人が大好きで日本を憧れの国と思っています。(とはいえ、最近は素行の悪い日本人が増えたからなのか日本が嫌いというタイ人が増えてきているような気がします。また、私個人の体験を言えば、ある施設で働いていた薬剤師が日本人大嫌いと公言しており、ついに私は一度も口をきいてもらえませんでした)

 当時の私はタイ渡航時、時間に余裕があれば夜の繁華街にも繰り出していました。そこで欧米人の男性(ときには女性も)と仲良くなり話をするわけですが、「差別」という観点から話しを振り返ってみると、彼(女)らは、日本人がタブーとしているような差別的な発言をけっこう平気でおこないます。彼(女)らは、同性愛についてはおそらく日本人よりも偏見がありませんし、エイズを含めて病気に対する差別感もほとんどありません。しかし、人種、民族、国民などについては平気で悪口を言うのです。

 誤解を恐れずに言えば、私は日本ほど人種差別・民族差別のない国はない、と思っています。このサイトで何度もお伝えしているようにこの国のHIV陽性者に対する社会的な差別は一向に改善されていません。男女差別もないとはいいきれないでしょう。地域差別(被差別部落やアイヌ、サンカなどへの差別)は随分と解消されてきているのは事実ですが今もまったくないとは言えません。しかし、人種差別・民族差別は、少なくとも他国と比べると非常に少ないように思えます。日本人で黒人やヒスパニックに差別的な感情を持っている人を私はほとんど知りませんし、在日韓国人や中国人に対する「在日差別」があることには同意しますが、数十年前に比べると随分改善されてきていますし、他国のものとはレベルが異なります。

 一方、欧米人は平気で、例えば、「俺は黒人やヒスパニックが大嫌いだ」と言います。これを発言した白人男性に「日本人も有色だよ」と言うと、「日本人は好きだ」とその男性は言っていましたが、これが本心であったとしても日本人を差別する白人がいるのも事実です。私自身は経験がありませんがヨーロッパに留学経験などのある日本人の多くは男女とも差別的な扱いを受けたことがある、と言います。

 欧米人からもアジア人からも最も嫌われているのは私の印象でいえばユダヤ人です。我々日本人がユダヤ人と聞けば、『アンネの日記』にあるようなナチスに迫害された悲惨な姿を思い出し同情の感情が出てきますが、世界の目は冷たいようです。なぜユダヤ人が嫌われるのかと言えば、多くの人が口をそろえていうのは「理屈っぽい」と「ケチ」です。アジアの安食堂や安宿などでも、難癖をつけて金を値切ろうとする輩が多いという話をよく聞きます。私は直接見たことはありませんが、アジアのゲストハウスのなかには、入り口に「ユダヤ人お断り」と書いてあるところもあるそうです(注2)。

 ユダヤ人とエイズは関係ありませんが、私がタイのエイズの現状をみて、まずエイズという病に対する差別を見聞きし、次いで貧困やタイのなかの人種差別を知るようになり、同性愛に対する差別を目の当たりにし(タイでは同性愛への差別が日本と比べれば少ないのは事実ですが、ないわけではありません)、世界中の人々から人種差別や民族差別の発言を聞くと、人類から差別はなくなることはないのでないか、と思わずにはいられません。

 最近私が特に気になるのが黒人に対する差別です。ネルソン・マンデラ氏らの貢献により1990年代にはアパルトヘイトが撤廃され、21世紀には南北戦争という暗い歴史を持つアメリカでついに黒人の大統領が登場したのです。にも関わらず、黒人差別は、事件の件数は減っているのかもしれませんが、悪質度においては何も改善していません。つい先日(2014年8月9日)も米国ミズーリ州で18歳の黒人青年が白人の警官に射殺されたことが報道されました。

 これと同じような事件がアメリカでは過去にもありました。2009年の元日、米国サンフランシスコのフルートベール駅のホームで22歳の黒人青年が警官に射殺されたのです。この現場はその場にいた乗客らがスマホなどで撮影しており、この事件は後に『フルートベール駅で』というタイトルの映画(注3)にもなりました。

 話をエイズに戻します。日本ではHIV陽性者に対する差別が厳然と存在しますし(タイやアメリカでも日本よりはマシという程度で差別はあります)、ハンセン病(注4)に対しては日本には恥ずべき歴史があります。私はまず医師として病気の差別をなくしたいと考え、次に、GINAとしてHIV/エイズに伴う社会的な差別(同性愛差別、セックスワーカーへの差別など)に取り組みたいと考えるようになりました。そして、なくすことは無理だとしても、この「差別」という、わかりやすいようで実は根が深く複雑な「人間の性」と言えなくもない現象について生涯を通して取り組んでいきたいと考えています。



注1:バンコク人とイサーン人の対立については下記コラムも参照ください。
GINAと共に第31回(2009年1月)「バンコク人 対 イサーン人」

注2:ユダヤ人に対する差別は「人種差別」でなく「民族差別」です。ユダヤ人は人種としては他国の白人と同様「コーカサイド」です。「人種差別」と「民族差別」は言葉の意味としては異なりますが、私自身は同じように考えていいのではないかと思っています。つまり、ヨーロッパ人からユダヤ人が差別的な扱いを受けるのと、アメリカで黒人が白人から受けている差別との間に本質的な差というものはないのではないかと現在の私は考えています。

注3:『フルートベール駅で』は2014年に日本でも公開されました。映画には乗客がスマホで撮影したと思われる映像も使われており、黒人に対する差別・偏見の実情がわかりやすく描かれています。白人警察に殺される主人公の黒人が少し美化されすぎていないか、という印象も持ちましたが、一見の価値ある映画だと私は思いました。

注4:タイのハンセン病に関するGINAのレポートは「タイのハンセン病とエイズ」として公開しています。
http://www.npo-gina.org/hansenbyou/

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第97回(2014年7月) これからの「大麻」の話をしよう

 このコラムの2008年7月号のタイトルは「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」、2年後の2010年7月号は同じタイトルの「その2」、その2年後の2012年7月号は同じタイトルの「その3」でした。ちょうど2年ごとにタイの薬物汚染のことを取り上げているのは、特にそれを狙って書いたわけではなく、たまたま違法薬物の事件などがマスコミで取り上げられたからです。そしてさらに2年後となる今回も取り上げるのはドラッグについてです。

 今回はタイの事情ではなく日本のことを述べたいと思います。しかしその前にタイの事情を確認しておきましょう。その後のタイの薬物事情はほとんど改善しておらず、最近ではよほどの大きな事件でもない限りマスコミは取り上げることすらしていません。軍事クーデターによりインラック政権が崩壊しましたから、今後ますますタイで違法薬物を入手するのは簡単になることが予想されます。

 以前何度か述べましたが、インラックの実兄のタクシン元首相は、北部や東北部の貧困層にバラマキ政策を実施したことなどで高い人気をほこる一方で、特にバンコクの富裕層や中間層あたりからはよく思われておらず、また軍との関係もよくなかったことから軍によるクーデターにより失脚しました。妹のインラック首相も、タクシン氏と同じように軍のクーデターにより退陣させられたわけです。

 なぜ、インラック政権が崩壊すると違法薬物が流通しやすくなるのかといえば、タクシン政権時代に、かなり強固な薬物対策が実施されたからです。一時はタイは薬物に対してかなりクリーンな国になり、それまでドラッグ目的でタイに渡航していた外国人は一斉にタイを去りました。ただし、この政策はかなり強引であり、一説によりますと無実で射殺された人が数千人になるとも言われています。インラック元首相は、タクシン首相時代ほどは強引な薬物対策はおこないませんでしたが、タクシン時代の強引なやり方を知っているジャンキーたちはそれなりに警戒していたようです。

 軍によるクーデターが起こり、現在タイの政権は安定していません。欧米諸国は、民主化とは正反対の軍によるクーデターに反対の意向を示していますが、この国のクーデターというのは"普通"ではなく、例えばお隣のミャンマーの軍事クーデターとはわけが違います。実際、タイ在住の日本人や最近タイに渡航した日本人に聞いてみても、ごく一部の地域を除けば普段どおりのんびりとした空気が流れているだけ、という答えが返ってきます。

 タイのクーデターの話をしだすときりがないので、そろそろ本題に入りたいと思います。

 今回の本題は日本です。『週刊文春』の取材がきっかけで、日本の大物デュオのA氏が覚醒剤取締法違反で逮捕され、これは全国紙にも大きく報じられました。日本は諸外国に比べ、覚醒剤に対する敷居が極めて低いということはこのサイトで何度かお伝えした通りです。例えば、日本では「ヒロポン」という名前で覚醒剤が薬局で販売されていた時代があり誰もが簡単に購入できましたし、終戦間近の神風特攻隊では出撃に出る前に覚醒剤を使用していたと言われています。『サザエさん』の初期にはタラちゃんが覚醒剤を飲んでしまうシーンがあります。近所の家に預けられたタラちゃんは、その家に置いてあった覚醒剤を飲んで元気になり、タラちゃんを迎えにきたサザエさんは、「はじめてですワ。(タラちゃんが)こんなにはしゃいだこと! ありがとうございました」とお礼を言い、帰り道ではタラちゃんに「ほんとによかったネ」と言っているのです。

 日本では覚醒剤は今も簡単に入手できますから、日本の元覚醒剤中毒者の中には「日本に帰ると手を出してしまいそうで怖いから・・・」という理由で帰国を躊躇しているような人すらいます。

 有名人が覚醒剤を使用というのは大きなニュースになりますから、マスコミは積極的に取材をおこないます。『週刊文春』は独自の取材でA氏を逮捕にまで追い込んだわけですが、同誌は2012年には女優S(.E)氏がスペインで大麻を吸入していたことを報じました。また、2009年に女優S(.N)氏が覚醒剤取締法違反で逮捕されたときも積極的に報じていました。同誌は現在も元プロ野球選手のK氏に覚醒剤使用疑惑があることを報道しています。最近では東北地方のある大学医学部のW教授が、なんと外国人のホステスと一緒に覚醒剤を使用していたと報道しています。

 『週刊文春』のこの取材力は素晴らしいと思いますが、私にはどうしても見過ごせない点があります。それは、どの薬物も同じように報じているということです。先に述べた例でいえば、女優S(.E)氏が使用していたのは大麻であって覚醒剤ではありません。このあたりを同じように報道すると大きな誤解が生まれることになります。

 大麻は21世紀になってから多くの国で合法化されてきています。女優S(.E)氏が使用していたのはスペインであり、スペインでは大麻はすでに個人使用は合法です。ヨーロッパではスペインだけでなく、個人使用であればイギリスやポルトガルなどでも合法です。オランダでは前世紀から合法であったのは有名な話です。(ただし所持している量によっては何らかの罪に問われる可能性もあります)

 中南米でも大麻を合法化する国が増えてきていますし、アメリカ(合衆国)でもワシントン州とコロラド州ではすでに合法化されています。もっとも、アメリカでは以前からカリフォルニアなどいくつかの州では「医療用大麻」は合法であり、医療機関を受診して、例えば「眠れないから大麻を処方してください」と言えば、ごく簡単に大麻が入手できていましたが。

 コロラド州周辺の州では合法化されていませんから、大麻目的でコロラドを訪れる人が増加し、一種の"観光"になっているそうです。日本人を含む外国人も大麻目的で同州を訪問するようになり、一気に外国人が増えたという話も聞きます。ただし、コロラドでは屋外では禁煙であり、またホテルの部屋も禁煙であることが多く、吸う場所に困るそうです。そこで、ホテルによっては「大麻吸入ルーム」を設けているとか。

 大麻は(異論もありますが)アルコールやタバコよりも依存性が少なく有害性も少ないと言われています。私のある知人(外国人)は、「覚醒剤はもちろん、アルコールやタバコは身体に悪いからやらないけど、大麻は安全だしリラックスさせてくれるからときどき楽しんでいる」と話しています。

 誤解を避けるためにここで述べておきますが、私は大麻解禁推進派というわけではありません。大麻を使用すると数時間あるいは翌日まで平和的な気分になり(これはいいのですが)、身体が言うことをきかなくなることもあります。元気になり寝なくても平気な覚醒剤とは正反対というわけです。私の個人的な意見をいえば、大麻を日本人が日常的に使用すると、勤勉さが失われ生産性が低下するのではないかと思うのです。それでもいいではないか、という意見もあるでしょうが、外国人が日本人の誠実さや勤勉さをほめてくれたことを思い出す度に、やはり私個人としては、それが日本人のいいところだ、と思わずにはいられないのです。

 大麻を日本で合法化するとなると運転の問題もあります。大麻はアルコールと同様(あるいはそれ以上に)運転するのは危険です。アルコールなら検問で呼気アルコール濃度を簡単に測定することができますが、大麻はそういうわけにはいきません。尿検査では調べられますが、検問の場で尿を採取するのは現実的ではないでしょう。大麻合法化を推進する意見は日本でもでてくるべきだと思うのですが、検討しなければならない事案はたくさんあるというわけです。

 私は大麻解禁主義者ではありませんが、大麻と覚醒剤、あるいはそれ以外の違法薬物の危険性はまったく異なることをしっかりと国民全員が認識すべき、ということは強く主張したいと思います。日本で覚醒剤や脱法ドラッグがこれだけ簡単に蔓延する理由のひとつが、大麻との垣根がないに等しい、というものです。大麻は多くの国が合法化していることからも分かるように有害性は強くありません。一方、覚醒剤やほとんどの脱法ドラッグはいずれ身を滅ぼすことになります。ここをきちんと理解しておかないと、「日本では違法の大麻」から「日本でも違法の覚醒剤」へ一気に進むことになりかねないのです。

 そろそろ大麻解禁について日本でも議論を進める時期にきています。


GINAと共に
第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」
第49回(2010年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その2)」 
第73回(2012年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その3)」
(医)太融寺町谷口医院 
マンスリーレポート2012年6月号「酒とハーブと覚醒剤」

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第96回 「行政がホモの指導の必要ない」という発言 2014年6月号

   「社会的に認めるべきじゃないといいますか、行政がホモの指導をする必要があるのか」「この人たちは、啓発しても、好きでやっている話だから放っておいてくれ、という世界だ」

 2014年5月16日、兵庫県の県議会常任委員会で、井上英之議員(加古川市)がこのような発言をおこない、翌日の神戸新聞と朝日新聞が取り上げました。

 この日の議会では、HIVの予防に向けての兵庫県の啓発活動についての議論がおこなわれていたそうです。その議論のなかで、井上議員がこのような発言をおこない、他の議員から批判の声が相次ぎ、マスコミが報道しました。

 朝日新聞によると、井上議員は「発言の撤回などは考えていない」そうです。

 さて、この報道を受けて複数の団体が抗議を表明し、井上議員に対して謝罪を要求しています。激しく抗議をおこなっている団体から、話し合いをして同性愛者に関する正確な知識を持ってもらうのにいい機会ではないか、と考える穏健な団体まであるようです。

 また公衆衛生に携わる医師や役人たちからは、「男性同性愛者がHIVのハイリスクグループであり、行政がそのグループに対する予防啓発をおこなわなければ医療費が抑制できずに大変なことになるのにこの議員はそんなことも知らないのか」、という意見が出ています。

 たしかに、公衆衛生学的にはこの点は大変重要です。HIV感染が発覚すればいずれ抗HIV薬を服用しなければならなくなります。そして、HIV陽性者ひとりが生涯に必要とする医療費は1億~2億円と言われています。これだけの費用がかかるわけですから、財政的なことを考えれば、最善なのが「予防啓発」であるのは明らかなのです。井上議員はそんな常識的なことも理解せずに発言していることを自ら暴露したわけです。

 同性愛者に対する啓発をしなければ医療費が高騰し続けるという自明の事実を無視して、いったい井上議員はその財源をどうするつもりなのでしょうか。まさか、同性愛者には医療保険を使う資格がない、とでも考えているのでしょうか・・・。

 また時代錯誤の「ホモ」という言葉にもあきれます。今どき、議会という公の場でこのような言葉を使うこと自体がにわかには信じられません。無神経であり、勉強不足であるのは自明であり、どう考えてもこの議員がHIVに関する議論に参加する資格はありません。

 政治家に求められる資質、というのはいろいろとあるでしょう。強いリーダーシップは不可欠でしょうし、交渉力や決断力、また明晰な頭脳、強靱な体力や精神力も求められるでしょう。政治家は世論の意向を知り、期待に応える義務を背負っています。しかし、マイノリティの声に耳を傾けることも必要です。

 そもそも何かを決めるときには、相手がどのようなことを考えているかを理解しない限りは議論が前に進みません。自分の常識は他人の常識ではないのです。日本は(一応は)単一民族とされていますから、議員の先生方もあまり気にならないのかもしれませんが、他民族からなる国家であれば様々な意見や考えがありますから、それらを理解しないことには議論が成り立ちません。(もっとも、日本の人類学や民俗学などの世界では、日本も単一民族ではない、という考えが主流になっていますが)

 このサイトで何度も述べていますが、現在の日本の同性愛者は社会保障を充分に享受できていません。同性のパートナーは、入籍できないだけでなく手術や入院の保証人にさえなれないのです。遺産を相続することもできません。これは明らかな差別だと私には思えますが、井上議員はどのように考えているのでしょう。「ホモ」などという言葉を使うくらいですから、おそらく考えたこともないのでしょう。

 それに、果たして同性愛者が「マイノリティ」と言えるでしょうか。最近はLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)という言葉も随分と普及してきていますが、LGBTは実際には日本の人口のどれくらいに相当するのでしょう。いくつもの研究がありますが、日本ではだいたい4~5%程度が相当するのではないかとみられています。40人のクラスに2人くらいいる計算になります。クラスで2人は無視できるようなマイノリティと言えるでしょうか。

 ちなみにタイに行けば、集団によってはマイノリティが逆転しています。例えば、文化系の優秀な大学であれば男子生徒のほとんどがゲイです。私は以前、タマサート大学(日本でいえば京都大学のようなところ)の外国語学部の女子学生から、「あたしのクラスの男子生徒は9割がゲイで、残りの1割はすでに(男性から女性に)性転換をしているか、恋愛ができないようなブサイクな男」という話を聞いたことがあります。(ブサイクな男、などとよくそんなひどいことが言えるな、と感じますが、タイ人は日本人なら言わないような身体的な欠点をわりと平気で口にします)

 タイでは、優秀な、というか偏差値の高い大学になればなるほど文化系の学部の男子学生のゲイの割合が増えるという話はこの女子学生以外からも何度か聞いたことがあります。(ちなみにタイは日本では考えられないくらいの偏差値社会です) これが不思議なことに理科系になれば、なぜかゲイの学生は一気に減ります。しかしこれまた不思議なことに理系であっても医歯薬系はゲイが多いようです。

 以前も述べたことがありますが、私は以前ロンドンでとても洒落たカフェにたまたま入り、そこにいた男性がほぼ全員とてもハイセンスでかっこいいことに驚きました。そして、その後そこがゲイだけが集まるスポットであることに気付いたのです。こういう経験をしてみると、センスの悪い中年のオヤジ議員が議会で「ホモ」などと発言しているという話を聞くと、腹が立つというよりも哀れさを感じます。

 ゲイやレズビアンには、著名な学者、俳優、芸術家などが多いという話を以前しましたが、数年前から、私は同性愛者に対する差別問題のことを考えると、いつも頭の中で流れ出す音楽があります。それは、ジュディ・ガーランドの「Somewhere Over the Rainbow」(邦題は「虹の彼方に」)です。

 ジュディ・ガーランドといっても若い人は分からないかもしれませんが、『オズの魔法使い』という映画のタイトルは聞いたことがあるでしょう。ジュディ・ガーランドはこの映画の主役で「Somewhere Over the Rainbow」は主題歌です。この曲は大変有名で、旋律が大変美しく印象に残りますから、タイトルを知らなくても聞いたことがあるという人も多いはずです。実は、この曲は世界中の同性愛者のイベントなどでよく使われる定番なのですが、その理由はジュディ・ガーランド自身が同性愛者だからです。もしも可能なら、井上議員とこの曲を聴きながら、今回の問題発言について話をしてみたいものです。そしてこの曲の感想も聞いてみたいものです。

 井上議員に、というより同性愛に偏見のあるすべての人に、というよりは同性愛者に偏見のないすべての人にも観てほしい映画もあります。それは今年(2014年)の春に公開された『チョコレート・ドーナツ』です。実話に基づいたこの映画は観る人すべてを感動の渦に包みます。私はある学会に参加しているときに夕方少し早く抜け出してこれを観に行ったのですが、なんと「立ち見」でした。それほどの人気映画なのです。映画の後半には劇場の至るところから涙をすする音が聞こえてきました。ネタバレになるといけませんから詳しいストーリーはここでは述べませんが、これほど素晴らしい映画はめったにありません。まず実話に基づいたストーリーが完璧で、キャスティングが素晴らしい。ついでに言うと音楽も映像もパーフェクトです。

 もしも可能なら、次回の兵庫県議会は開始時間を2時間早めて、会議場でこの映画を上映し議員全員に観てもらいたいものです。その後、井上議員に、同性愛者についての意見を尋ねてみたいものです。

参考:GINAと共に
第3回(2006年9月)「美しき同性愛」
第93回(2014年3月)「同性愛者という理由で終身刑」
第86回(2013年8月)「なぜ日本では同性婚の議論が起こらないのか」
第71回(2012年5月)「オバマの同性婚支持とオランドのPACS」
第60回(2011年6月)「同性愛者の社会保障」

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第95回 HIVを拒否する歯科医院と滅菌を怠る歯科医院 2014年5月号

 2014年5月8日、高知新聞は、県内の歯科医院がHIV陽性者の診療を拒否したという事件を報道しました。同じ日には朝日新聞もこの事件を取り上げていますから、この事件は高知県内のみならず全国的に知れ渡ることになりました。

 まずはこの事件を高知新聞の報道から簡単にまとめてみましょう。

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 件のHIV陽性者(年齢・性別は不明)は数年前にHIV感染が判り、現在高知大学医学部附属病院に通院中。抗HIV薬が奏功し、現在は「感染前と同じように働いている」そうです。

 2013年のある日、HIV感染が判る前からかかっていた歯科医院を受診し、HIV陽性であることを伝えました。その歯科医師とは<長い付き合い>だったそうです。〈ごまかして治療を受けることは自分の責任として納得がいかない〉〈(歯科医師が)驚くとは思うが、どんな病気かは理解しているだろう〉。そう信じたそうです。

 ところが返ってきたのは、なんと「外に知れる可能性がある」という言葉・・・。

 高知新聞はこのときの患者さんの思いを次のように報道しています。

〈私の方向性も至らなかったのかもしれませんが、その場での露骨な話し方に正直、パニックになりました。自尊心をえぐられた気がしました。なぜ、別の部屋で話を聞いたり、高知大病院に問い合わせるなどしてくれなかったのか...〉

 高知新聞はこの事件を受けて、高知大学医学部附属病院のHIVを診療する医師にも取材をしています。取材に応じた医師のコメントは、〈県内での診療拒否は「把握している限り初めて」。「あってはならないこと」〉だったそうです。

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 この事件は、診療を拒否したことももちろん問題ですが、私が気になったのは「外に知れる可能性がある」というこの言葉です。この言葉が本当にこの歯科医師から発せられたのだとすると、相当いい加減な歯科医院ということになります。

 HIV陽性の患者さんがその歯科医院で治療を受けていることが判る、つまり「外に知れる」原因は次の3つしかありません。

①強盗が入りカルテが奪われて患者情報が流出する
②スタッフの誰かがこの歯科医院にHIV陽性者がいることを外部に吹聴する
③この患者さん自らがHIV感染をカムアウトし、かかりつけの歯科医院を公表する

 このなかで①はまあ考えにくいでしょう。③についてはどうでしょうか。私の知る限りHIV感染を堂々とカムアウトしてさらに歯科医院まで公表する人は聞いたことがありません。東京や大阪などの都心部ならまだしも、高知県で感染をカムアウトするとは到底考えられません。というわけで「外に知れる」のは②ということになります。つまり、この歯科医師はクリニックの職員が守秘義務を守らないおそれがあると考えている、ということになります。

 とすると、こんな歯科医院は信用できません。外に知られたくないのは、HIVだけではありません。他の感染症だってそうですし、例えば若くして総入れ歯の女性なども知られたくないと思っているでしょう。一般に、医療機関で受診者が話すことや疾患の内容などについては他人に知られたくないものが多いのです。守秘義務というのは何を差し置いても優先されなければなりません。この歯科医師は、自分のクリニックではその自信がないということを露呈しているようなものです。(ただし、守秘義務を徹底的に遵守する、ということは一般の方が想像するよりも大変なものです。興味のある方は下記コラムを参照ください)

 次に、この歯科医院はなぜ「(HIV陽性者が受診していることを)外に知れる」と困るのでしょうか。その理由は、きちんと感染予防対策をおこなっていないから、ではないかと私には思えます。

 HIVの院内感染は、きちんとした感染予防対策をおこなっていれば完全に防ぐことができます。HIVに限らず、どのような感染症の患者さんが受診してもきちんとした対策をしていれば何も問題はないわけです。推測の域を出ませんが、この歯科医院は感染予防対策をおざなりにしているのではないでしょうか。医療機関で働く者には患者情報に関する守秘義務はありますが、勤務先の不備についての守秘義務はありません。また、この歯科医院に出入りする業者(製薬会社や医療機器関連のメーカーや卸業者)にも歯科医院の不備に対する守秘義務はありません。

 つまり、この歯科医院のスタッフや出入りする業者が、この歯科医院が感染予防対策をいい加減にしていることを外部に漏らし、なおかつスタッフによりHIV陽性者が受診していることが外に知れたら大変なことになる、このようなことを懸念してこの歯科医師はHIV陽性者の診察を拒否したのではないかと私には思えるのです。

 感染予防対策をしていない歯科医院なんてあるの?と感じる人もいるでしょう。私は医学部入学前に歯科医療器具を取り扱う商社で働いていたのですが、ときどき歯科医院を訪問する機会がありました。滅菌器具を見せてもらいスタッフと話をすると、5分もあればきちんと感染予防対策ができているかどうかが判ります。そして、残念なことに当時は感染予防をいい加減にしていた歯科医院があったのです。しかし、これは90年代前半の話ですから、今はどこもきちんとしているだろう・・・。私はそのように漠然と考えていました。

 ところが、最近読売新聞(2014年5月19日オンライン版)に驚くべき記事が掲載されました。記事を抜粋してみます。
 
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歯削る機器 7割使い回し...院内感染懸念

歯を削る医療機器を滅菌せず使い回している歯科医療機関が約7割に上る可能性のあることが国立感染症研究所などの研究班の調査でわかった。(中略)調査は、特定の県の歯科医療機関3,152施設に対して実施した。2014年1月までに891施設(28%)から回答を得た。
(中略)
滅菌した機器に交換しているか聞いたところ、「患者ごとに必ず交換」との回答は34%だった。一方、「交換していない」は17%、「時々交換」は14%、「感染症にかかっている患者の場合は交換」は35%で、計66%で適切に交換しておらず、指針を逸脱していた。
(中略)
別の県でも同じ調査を2007~2013年に4回行い、使い回しは平均71%だった。
(中略)
感染症に詳しい浜松医療センターの矢野邦夫副院長は「簡単な消毒では、機器を介して患者に感染する恐れのあるウイルスもある。十分な院内感染対策を取ってほしい」と話している。
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 大変衝撃的な記事ですが、私が最も驚かされたのが「感染症にかかっている患者の場合は交換」と答えた歯科医院が35%にも昇るということです。HIVは世間で正しく認識されておらず偏見の目で見られることがあるために、感染の事実を隠して歯科医院を受診する人が多いですし、そもそも検査を受けておらず感染していることに気付いていない人が大勢います。先日公表された2013年の新規エイズ発症者(いきなりエイズ、つまりエイズを発症して初めてHIV感染が判る人)の人数が過去最高を記録しています。感染していることに気付いていない人が大勢いることを示しているわけです。

 どうも歯科医院の多くは、脳天気というかおめでたいというか、自分たちが診療している患者さんのなかには本人も気付いていないHIV陽性者がいる、という単純なことに気付いていないようです。あるいは、HIVの院内感染など起こしてもかまわない、と考えているのでしょうか。

 さて、HIV陽性者を拒否する歯科医院があるということ、日本の7割の歯科医院が感染予防をきちんとしていないこと、この2つを考えたときに、あなた自身やあなたの家族が、HIVに感染しているかどうかに関わりなく、どのような歯科医院を受診すればいいのでしょうか。

 答えは簡単です。HIV陽性者を拒否しない歯科医院を受診すればいいのです。つまり、HIVを拒否する歯科医院などはこちらから願い下げて、HIV陽性者もきちんと診療してくれる歯科医院を受診すればいいのです。HIV陽性者を拒否しないところであればきちんと感染予防対策をしていますし、スタッフは守秘義務を守っています。つまり、正確な医学の知識を持ち、HIVのみならず、HIVよりも強い感染力を持つ感染症に対しても適切な対策をおこなっており、あなたが話したことのすべてに対して守秘義務を遵守してくれるのです。

 実際、私自身が患者として通院している歯科医院は、感染予防対策をきちんとおこなっており、もちろんHIV陽性の患者さんも丁寧に診療されています。


参考
(医)太融寺町谷口医院マンスリーレポート2012年8月号「簡単でない守秘義務の遵守」
GINAと共に
第82回(2013年4月)「歯科医院でのHIV感染とキンバリー事件(前編)」
第83回(2013年5月)「歯科医院でのHIV感染とキンバリー事件(後編)」

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