GINAと共に
第109回(2015年7月) 日本のおじさんが同性愛者を嫌う理由
『GINAと共に』はこのところ同性愛についての内容が増えていて、別の分野で書きたいこともいろいろとあるのですが、同性愛関連で最近新たに書き留めておきたいことがいくつか報道されたこともあり、今回も同性愛の話題とすることにしました。
LGBTという言葉がここ数年メジャーになってきたという話を以前したことがあります。この言葉は今や立派な市民権を得ていると言っていいと思いますが、最近は若い世代から「セクマイ」という言葉が聞かれるようになってきました。
さすがは日本の若者たち・・・。言葉を略すのは彼(女)らの得意とするところですが、セクマイというこの言葉、単にセクシャル・マイノリティを略しただけではありません。「LGBT」よりも単語の響きがいいというかリズムがあるというか、何よりも「LGBT」よりも「セクマイ」の方が覚えやすく心に残りやすい感じがします。あと数年もするとセクマイの方が一般的な表現になるのではないかと私はみています(ただし現時点ではこのサイトでは「LGBT」で統一したいと思います)。
LGBTを積極的に採用する企業が増えてきています。外資系の企業が多いようですが、日本の企業でも増加傾向にあるのは間違いありません。LGBTを支援するNPO法人「Re:Bit」は「LGBT就活」というウェブサイトを立ち上げ、LGBTの人たちの就職支援をしています(注1)。就職を希望しているLGBTの人たちも、LGBTを募集している企業も利用しやすくなっています。
世界に目を向けてみましょう。ヨーロッパでは、2015年5月15日、ルクセンブルクのグザヴィエ・ベッテル首相が男性パートナーと結婚し世界中で報道されました。ルクセンブルクではこれまでは法的には同性婚が認められておらず、2015年1月にようやく合法化されました。ベッテル首相は首相の前は市長をしていましたが、そのときから同性愛者であることをカムアウトしていました。
ちなみに、ヨーロッパでは、アイスランドの元首相ヨハンナ・シグルザルドッティル氏(女性)が、首相だった2010年6月27日に女性パートナーと入籍しました。この日はアイスランドで同性婚が合法化された記念すべき日です(尚、シグルザルドッティル氏は政権交代により2013年5月に首相を退陣しています)。
アメリカでも大きな動きがありました。2015年6月26日、米連邦最高裁は、全米のすべての州で同性婚を合法化するという判決を下しました。米国では、2014年10月に、同性婚を禁じるユタ州などの法律を「無効」とした高裁判決を支持するとの判決を下しており、これで事実上は同性婚が合法化されたとみなされましたが、一部の州では結婚証明書の発行がおこなわれていませんでした。今回の最高裁の判決で同性婚が合法であると"はっきりと"断言されましたから、一部の州で例外があるといったようなことが今後はなくなります。
一部の共和党などの保守派の政治家は最高裁のこの判決に不服を漏らしているようで、次回の大統領選の際にも争点のひとつになるかもしれません。しかし、現職のオバマ大統領や次期大統領候補のクリントン氏も同性婚に賛成であることを表明していますし、世論が同性愛に賛成するようになってきています。次期大統領選で共和党が勝ったとしても同性愛合法化が白紙に戻される可能性は極めて低いと思われます。
政治的な観点からみると、欧米ではこのように政治レベルでLGBTの人権を擁護するような動きが広がっています。
翻って日本の政治をみてみると、またもや時代錯誤な発言が市議会で飛び出しました。しかも何の因縁なのか、今回も兵庫県です。
2015年6月24日、兵庫県宝塚市議会でLGBTの支援についての検討がおこなわれていたとき、自民党の大河内茂太市議会議員が一般質問に立ち、「宝塚に同性愛者が集まり、HIV感染の中心になったらどうするのか、という議論が市民から出る」と発言したそうです。さすがに、この発言はその場の空気を凍らせたようで、2015年6月25日の朝日新聞デジタルによると、議事を一時中断したそうです。
兵庫県といえば、2014年5月に県議会常任委員会で県議会議員が「行政がホモの指導をする必要がない」という発言をおこない物議を醸しました。
また、2005年11月には、神戸市長田区の市立中学校で区役所の職員(医師)が非常識な発言をおこない問題となりました。2006年4月1日の毎日新聞は、この職員が「エイズになれば、自覚症状がないまま他人にうつす恐れがあるので、(患者は)早く死んでしまえばいい」、と授業で生徒に話した、と報じました。
私がこのニュースを見たとき、「いくらなんでもこんなことを言う職員はいない。ましてこの職員は医師であるわけで、こんなことは考えられない。これは毎日新聞の誤報だ」、と思いました。しかしこの職員は生徒にショックを与えたという理由で3ヶ月間減給(10分の1)にされています。これは公表された事実ですから、誤解があったにせよ、この職員の発言には問題があったと言わざるを得ません。
話を宝塚の市議会議員の発言に戻します。朝日新聞デジタルによりますと、この市議会議員は次のように発言しているそうです。
「女子校や男子校などでは同性カップルが多い。環境によって後天的に同性愛者になる。(中略)差別する意図はなく、発言を取り消すつもりはない。LGBTへの支援は必要だが、同性婚容認につながる条例制定に反対する立場から発言した」
「環境によって後天的に同性愛者になる」というのは医学的に問題のある発言ですが、これについては今回の趣旨と異なるために言及を避けます。今回取り上げたいのは「同性婚容認につながる条例制定に反対する」ということです。
なぜこのような意見がでてくるのでしょうか。欧米で同性婚に反対する意見が出るのは理解できることです。なぜならキリスト教もユダヤ教もイスラム教も教義で同性婚を禁じているからです。敬虔な信者であればあるほど同性婚を認められない気持ちになるのです。ですから、キリスト教、ユダヤ教の信者が多い欧米の国々で同性婚が合法化されるというのは大変意味深いことなのです。尚、イスラム教徒がマジョリティの国では同性婚は依然禁止で、なかには死刑となる国すらあります。
翻って日本をみてみましょう。日本人には敬虔なクリスチャンはそう多くありませんし、伝統的に日本では男娼が公然と存在していました。つまり宗教的にも歴史的にも同性愛を日本で禁じる理屈が見当たらないのです。
渋谷区の区議会での採決の際もパートナーシップ制度に反対したのは自民党を中心とした保守派の議員と報じられています。保守=国粋主義とはいえないかもしれませんが、日本の最も著名な国粋主義者のひとりに三島由紀夫がいます。そして三島由紀夫が同性愛者であったことは公然とした事実と言っていいでしょう。
ではなぜ日本の保守派は同性愛を認めないのでしょう。ここで私の仮説を紹介したいと思います。同性愛に反対する日本人は中年以降の男性が大半を占めると思われます。女性で「同性愛断固反対」と言っている人はあまり見たことがありませんし(自民党の女性議員に意見を聞いてみたいものです)、若い世代にもあまり見当たりません。先に紹介した「LGBT就活」に反対する若者の話など聞いたことがありません。
では、なぜ同性愛反対者は中年以降のおじさんに限定されるのか。誤解を恐れずに言えば、「このようなおじさんたちは本当は同性愛者がうらやましい」のではないかと私には思えるのです。
同性愛者がすべて性愛に満足しているとは言いません。むしろ同性愛者に対してもカムアウトできないLGBTの人たちも少なくなく、生涯にわたり性愛のことで悩み続けているという人も大勢います。しかしその一方で性を満喫している人もいます。ストレートの男性で(特に同性愛に反対するおじさんたちで)「セックスに困ったことがない」という人はそう多くはないのではないでしょうか。一方、LGBT、特にゲイの一部の人たちは、次々に新しいパートナーが現れ、過去に千人以上と経験がある、などという人も珍しくありません(人数が多ければ幸せというわけではありませんが)。
つまり性を満喫している(ようにみえる)ゲイたちがうらやましいが故に、LGBTが求めている同性婚やパートナーシップの制度に反対しているのではないか。これが私の仮説です。穿った見方のように聞こえるかもしれませんが、今のところ、同性婚に反対する理由で合理的なものは他に思いつきません。
注1:「LGBT就活」は下記URLを参照ください。
http://www.lgbtcareer.org/
参考:GINAと共に
第106回(2015年4月)「LGBTに対する日米の動き」
第102回(2014年12月)「2015年はLGBTが一気にメジャーに」
など
LGBTという言葉がここ数年メジャーになってきたという話を以前したことがあります。この言葉は今や立派な市民権を得ていると言っていいと思いますが、最近は若い世代から「セクマイ」という言葉が聞かれるようになってきました。
さすがは日本の若者たち・・・。言葉を略すのは彼(女)らの得意とするところですが、セクマイというこの言葉、単にセクシャル・マイノリティを略しただけではありません。「LGBT」よりも単語の響きがいいというかリズムがあるというか、何よりも「LGBT」よりも「セクマイ」の方が覚えやすく心に残りやすい感じがします。あと数年もするとセクマイの方が一般的な表現になるのではないかと私はみています(ただし現時点ではこのサイトでは「LGBT」で統一したいと思います)。
LGBTを積極的に採用する企業が増えてきています。外資系の企業が多いようですが、日本の企業でも増加傾向にあるのは間違いありません。LGBTを支援するNPO法人「Re:Bit」は「LGBT就活」というウェブサイトを立ち上げ、LGBTの人たちの就職支援をしています(注1)。就職を希望しているLGBTの人たちも、LGBTを募集している企業も利用しやすくなっています。
世界に目を向けてみましょう。ヨーロッパでは、2015年5月15日、ルクセンブルクのグザヴィエ・ベッテル首相が男性パートナーと結婚し世界中で報道されました。ルクセンブルクではこれまでは法的には同性婚が認められておらず、2015年1月にようやく合法化されました。ベッテル首相は首相の前は市長をしていましたが、そのときから同性愛者であることをカムアウトしていました。
ちなみに、ヨーロッパでは、アイスランドの元首相ヨハンナ・シグルザルドッティル氏(女性)が、首相だった2010年6月27日に女性パートナーと入籍しました。この日はアイスランドで同性婚が合法化された記念すべき日です(尚、シグルザルドッティル氏は政権交代により2013年5月に首相を退陣しています)。
アメリカでも大きな動きがありました。2015年6月26日、米連邦最高裁は、全米のすべての州で同性婚を合法化するという判決を下しました。米国では、2014年10月に、同性婚を禁じるユタ州などの法律を「無効」とした高裁判決を支持するとの判決を下しており、これで事実上は同性婚が合法化されたとみなされましたが、一部の州では結婚証明書の発行がおこなわれていませんでした。今回の最高裁の判決で同性婚が合法であると"はっきりと"断言されましたから、一部の州で例外があるといったようなことが今後はなくなります。
一部の共和党などの保守派の政治家は最高裁のこの判決に不服を漏らしているようで、次回の大統領選の際にも争点のひとつになるかもしれません。しかし、現職のオバマ大統領や次期大統領候補のクリントン氏も同性婚に賛成であることを表明していますし、世論が同性愛に賛成するようになってきています。次期大統領選で共和党が勝ったとしても同性愛合法化が白紙に戻される可能性は極めて低いと思われます。
政治的な観点からみると、欧米ではこのように政治レベルでLGBTの人権を擁護するような動きが広がっています。
翻って日本の政治をみてみると、またもや時代錯誤な発言が市議会で飛び出しました。しかも何の因縁なのか、今回も兵庫県です。
2015年6月24日、兵庫県宝塚市議会でLGBTの支援についての検討がおこなわれていたとき、自民党の大河内茂太市議会議員が一般質問に立ち、「宝塚に同性愛者が集まり、HIV感染の中心になったらどうするのか、という議論が市民から出る」と発言したそうです。さすがに、この発言はその場の空気を凍らせたようで、2015年6月25日の朝日新聞デジタルによると、議事を一時中断したそうです。
兵庫県といえば、2014年5月に県議会常任委員会で県議会議員が「行政がホモの指導をする必要がない」という発言をおこない物議を醸しました。
また、2005年11月には、神戸市長田区の市立中学校で区役所の職員(医師)が非常識な発言をおこない問題となりました。2006年4月1日の毎日新聞は、この職員が「エイズになれば、自覚症状がないまま他人にうつす恐れがあるので、(患者は)早く死んでしまえばいい」、と授業で生徒に話した、と報じました。
私がこのニュースを見たとき、「いくらなんでもこんなことを言う職員はいない。ましてこの職員は医師であるわけで、こんなことは考えられない。これは毎日新聞の誤報だ」、と思いました。しかしこの職員は生徒にショックを与えたという理由で3ヶ月間減給(10分の1)にされています。これは公表された事実ですから、誤解があったにせよ、この職員の発言には問題があったと言わざるを得ません。
話を宝塚の市議会議員の発言に戻します。朝日新聞デジタルによりますと、この市議会議員は次のように発言しているそうです。
「女子校や男子校などでは同性カップルが多い。環境によって後天的に同性愛者になる。(中略)差別する意図はなく、発言を取り消すつもりはない。LGBTへの支援は必要だが、同性婚容認につながる条例制定に反対する立場から発言した」
「環境によって後天的に同性愛者になる」というのは医学的に問題のある発言ですが、これについては今回の趣旨と異なるために言及を避けます。今回取り上げたいのは「同性婚容認につながる条例制定に反対する」ということです。
なぜこのような意見がでてくるのでしょうか。欧米で同性婚に反対する意見が出るのは理解できることです。なぜならキリスト教もユダヤ教もイスラム教も教義で同性婚を禁じているからです。敬虔な信者であればあるほど同性婚を認められない気持ちになるのです。ですから、キリスト教、ユダヤ教の信者が多い欧米の国々で同性婚が合法化されるというのは大変意味深いことなのです。尚、イスラム教徒がマジョリティの国では同性婚は依然禁止で、なかには死刑となる国すらあります。
翻って日本をみてみましょう。日本人には敬虔なクリスチャンはそう多くありませんし、伝統的に日本では男娼が公然と存在していました。つまり宗教的にも歴史的にも同性愛を日本で禁じる理屈が見当たらないのです。
渋谷区の区議会での採決の際もパートナーシップ制度に反対したのは自民党を中心とした保守派の議員と報じられています。保守=国粋主義とはいえないかもしれませんが、日本の最も著名な国粋主義者のひとりに三島由紀夫がいます。そして三島由紀夫が同性愛者であったことは公然とした事実と言っていいでしょう。
ではなぜ日本の保守派は同性愛を認めないのでしょう。ここで私の仮説を紹介したいと思います。同性愛に反対する日本人は中年以降の男性が大半を占めると思われます。女性で「同性愛断固反対」と言っている人はあまり見たことがありませんし(自民党の女性議員に意見を聞いてみたいものです)、若い世代にもあまり見当たりません。先に紹介した「LGBT就活」に反対する若者の話など聞いたことがありません。
では、なぜ同性愛反対者は中年以降のおじさんに限定されるのか。誤解を恐れずに言えば、「このようなおじさんたちは本当は同性愛者がうらやましい」のではないかと私には思えるのです。
同性愛者がすべて性愛に満足しているとは言いません。むしろ同性愛者に対してもカムアウトできないLGBTの人たちも少なくなく、生涯にわたり性愛のことで悩み続けているという人も大勢います。しかしその一方で性を満喫している人もいます。ストレートの男性で(特に同性愛に反対するおじさんたちで)「セックスに困ったことがない」という人はそう多くはないのではないでしょうか。一方、LGBT、特にゲイの一部の人たちは、次々に新しいパートナーが現れ、過去に千人以上と経験がある、などという人も珍しくありません(人数が多ければ幸せというわけではありませんが)。
つまり性を満喫している(ようにみえる)ゲイたちがうらやましいが故に、LGBTが求めている同性婚やパートナーシップの制度に反対しているのではないか。これが私の仮説です。穿った見方のように聞こえるかもしれませんが、今のところ、同性婚に反対する理由で合理的なものは他に思いつきません。
注1:「LGBT就活」は下記URLを参照ください。
http://www.lgbtcareer.org/
参考:GINAと共に
第106回(2015年4月)「LGBTに対する日米の動き」
第102回(2014年12月)「2015年はLGBTが一気にメジャーに」
など
第108回(2015年6月) 依存症の治療(後編)
私が参加させてもらった依存症治療の公開セミナーでは、最初にその団体がおこなっているセッションについて、簡単な内容と、どのような依存症の人が参加しているのか、そしてどの程度の人が依存症を克服できているのかなどについての説明がありました。
こういったグループに参加してどれくらいの人が依存症を克服できるのか、といったデータを私はこれまでみたことがありませんでしたし、前回も述べたようにニコチン依存症以外の依存症に対して、私は医師としてほとんど"無力"ですから、大変興味のある内容です。
最も驚いたのは、そのグループに参加した人の68%が1年後も「クリーン」な状態、つまり依存症に戻らずに克服できている、というデータでした。先にも述べたように、私は医師でありながら、依存症を患っているほとんどの患者さんに対して有効な治療ができたためしがありません。
患者さんに「治したい」という希望があれば精神科専門医を紹介することもありますが、私の経験上うまくいかないことの方が多いのです。ですから、こういった依存症の団体がおこなうグループセッションでの成功率が68%という数字に大変驚かされたのです。
参加者がどのような依存症を患っているのかというデータについては、アルコール依存症が最多で約6割、他には(違法)薬物やギャンブル、買い物依存なども多く、性依存症も10%に上るそうです。
講義では具体的な話に入っていくのですが、私にとって最も印象的だった言葉は、アルコール依存症の患者にとってアルコールは「アレルギー」というものです。ここでいう「アレルギー」というのは一般的なアレルギーとは異なるものです。一般的なアレルギーというのは、その物質が体内に入ってくると身体の免疫機能が応答し拒絶反応を示すことをいいますが、ここでいう「アレルギー」はそうではなく、アルコール依存症がアルコールに対して(本当の)アレルギーがあるわけではありません。
むしろアルコール依存症の者にとっては、次から次へとアルコールを体内に入れたくなりますから(本当の)アレルギーとはまったく異なるものです。アルコール依存症の人は、お酒をわずか一口飲んだだけで、身体が豹変し次の一口がどうしても欲しくなります、そして次の一口を口にすると、身体はさらにアルコールを渇望するようになり、さらに次の一口に・・・、と止まらなくなっていくのです。そして身体が蝕まれ身体も精神もぼろぼろにされていきます。
つまり、わずかな量でも口にすると身体が崩壊することになるのです。(本当の)アレルギー、例えばコムギアレルギーの人は、パン一切れを口にしただけでアナフィラキシーショックを起し救急搬送されますが、そういう意味で、つまり依存症の「アレルギー」も(本当の)アレルギーも、最初の一口が取り返しの付かないことになる、ということが共通しています。
これら2種類の"アレルギー"には共通点がまだあります。それは、「最初は"アレルギー"ではなかった」ということです。
成人のアレルギーには、ピーナッツやソバの食物アレルギーのように幼少児からアレルギー、というタイプもありますが、成人になってから発症するアレルギーの方が頻度は多いといえます。花粉症は成人してから発症することの方が多いですし、カニ・エビや牛肉のアレルギー、アニサキスアレルギーなどの大半は成人してから発症するものです。つまり、以前は問題なく食べられていたものが、次第に食べられなくなる、あるいはある日突然食べられなくなるのです。
アルコール依存症の人たちも、アルコールを初めて飲んだ日から依存症になる人はいません。それどころか最初はお酒が苦手で、飲むとすぐに吐いていた、という人も少なくないのです。実際、公開セッションで体験談を語られた一人の男性は、最初は飲みに行ったときによく吐いていたという話をされていました。
苦手だったアルコールがそのうちに不可欠なものとなりついにはアルコール依存症に・・・。好きだったエビを食べ続けているうちにエビアレルギーになり一切食べられなくなった・・・。このように考えるとこれら2つの"アレルギー"は似ています。
依存症の「アレルギー」のポイントは2つです。1つは、誰にでも「アレルギー」になる、つまり依存症になる可能性があるということ、もうひとつは、(本当の)アレルギーと同様、依存症になればわずか一口の摂取もおこなってはならない、ということです。
アルコール依存症のみならず依存症のほぼ全員はその物質(買い物やギャンブル、セックスなども含む)がその人にとって幸せをもたらしていた時期があったはずです。アルコールを楽しく害なく飲めていた時代、自分でやりくりできる範囲で買い物ができていた時代、幸せにセックスができていた時代などがあったはずです。しかし、もうその時代(蜜月時代)には戻れないのです。
この点が理解できない限りはおそらく依存症の克服は困難でしょう。そしてこの克服のためにはグループで話をすることが非常に有効ではないかと感じました。依存症の苦しみが最も理解できるのは、同じ依存症の苦しみを味わった人です。(私を含めて)医療者が依存症にときに無力なのはこの"苦しみ"に共感できないからではないかと思います。私自身はニコチン依存に随分苦しみましたが、アルコール、薬物、買い物、性依存などはおそらくその比ではないのでしょう。
公開セッションで講師をされていた人たちのみならず、聴講者の多くは通称『ビッグ・ブック』と呼ばれるなにやらバイブルのような本を持っていました。その本はペーパーバッグなのに、なぜ『ビッグ・ブック』と呼ばれているのか分からないのですが、早速私も購入することにしました。しかしAmazonには、ペーパーバックのタイプはなくハードカバーの大きなサイズしかなくそれを注文しました(注1)。
なるほど、大きなサイズでつくられているから『ビッグ・ブック』か、と感じたのですが、読んでみるとその内容に圧倒されました・・・。もしかすると、依存症から脱却させてくれる"偉大な"書籍であるがゆえに『ビッグ・ブック』と呼ばれているのかもしれません。内容はやや宗教的な色が強い部分もあるのですが、すでに依存症になっている人のみならず、すべての人にすすめたい良書です。
公開セッションでは先に述べたような講義も興味深かったのですが、最も感銘を受けたのは、依存症から脱却した体験者の話でした。合計4人の元依存症の人たちが自身の体験を話されたのですが、いずれの人の話にも最初から最後まで引き込まれました。当事者の苦痛がよくわかりましたし、その苦痛を感じるまでのそれぞれのエピソードも大変興味深く、依存症から抜け出すのも一筋縄ではいかず、その苦労もよく伝わってきました。さらに、今は自分の苦しかった体験を現在悩んでいる人に伝えることによって依存症の人たちに貢献したい、という気持ちを感じました。
現在依存症で悩んでいる人がいるとすれば、まず『ビッグ・ブック』をすすめたいのですが、やはり体験者の話を聞くべきだと思います。私が参加させてもらったような公開セッションに足を運んでみるのがいいでしょう。公開セッションはあまりないかと思いますが、このような団体は全国にあるようですので問い合わせてみるのがいいかと思います(注2)。
「依存症なんか自分には縁がない」と考えている人も、関心があれば『ビッグ・ブック』を読んでみたり、周囲に依存症の人がいるという人は公開セッションに参加してみたりするのもいいでしょう。依存症になるのは特別な人ではなく、誰もが依存症となる可能性がある、ということは繰り返しておきたいと思います。
私は公開セッションに参加して以来、お酒を飲むときにはいつも、壇上で自らの体験を話されていた人たちの姿がまぶたに浮かびます・・・。
注1:『ビッグ・ブック』の正式なタイトルは『アルコホーリクス・アノニマス』です。下記を参照ください。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC/dp/4990228308/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1435274714&sr=1-3
注2:私が参加させてもらった公開セミナーは下記です。
http://rd-daycare.icurus.jp/archives/321
下記のURLが参考になるかと思います。
http://www.japanmac.or.jp/
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zen-mac/
http://www.yakkaren.com/zenkoku.html
こういったグループに参加してどれくらいの人が依存症を克服できるのか、といったデータを私はこれまでみたことがありませんでしたし、前回も述べたようにニコチン依存症以外の依存症に対して、私は医師としてほとんど"無力"ですから、大変興味のある内容です。
最も驚いたのは、そのグループに参加した人の68%が1年後も「クリーン」な状態、つまり依存症に戻らずに克服できている、というデータでした。先にも述べたように、私は医師でありながら、依存症を患っているほとんどの患者さんに対して有効な治療ができたためしがありません。
患者さんに「治したい」という希望があれば精神科専門医を紹介することもありますが、私の経験上うまくいかないことの方が多いのです。ですから、こういった依存症の団体がおこなうグループセッションでの成功率が68%という数字に大変驚かされたのです。
参加者がどのような依存症を患っているのかというデータについては、アルコール依存症が最多で約6割、他には(違法)薬物やギャンブル、買い物依存なども多く、性依存症も10%に上るそうです。
講義では具体的な話に入っていくのですが、私にとって最も印象的だった言葉は、アルコール依存症の患者にとってアルコールは「アレルギー」というものです。ここでいう「アレルギー」というのは一般的なアレルギーとは異なるものです。一般的なアレルギーというのは、その物質が体内に入ってくると身体の免疫機能が応答し拒絶反応を示すことをいいますが、ここでいう「アレルギー」はそうではなく、アルコール依存症がアルコールに対して(本当の)アレルギーがあるわけではありません。
むしろアルコール依存症の者にとっては、次から次へとアルコールを体内に入れたくなりますから(本当の)アレルギーとはまったく異なるものです。アルコール依存症の人は、お酒をわずか一口飲んだだけで、身体が豹変し次の一口がどうしても欲しくなります、そして次の一口を口にすると、身体はさらにアルコールを渇望するようになり、さらに次の一口に・・・、と止まらなくなっていくのです。そして身体が蝕まれ身体も精神もぼろぼろにされていきます。
つまり、わずかな量でも口にすると身体が崩壊することになるのです。(本当の)アレルギー、例えばコムギアレルギーの人は、パン一切れを口にしただけでアナフィラキシーショックを起し救急搬送されますが、そういう意味で、つまり依存症の「アレルギー」も(本当の)アレルギーも、最初の一口が取り返しの付かないことになる、ということが共通しています。
これら2種類の"アレルギー"には共通点がまだあります。それは、「最初は"アレルギー"ではなかった」ということです。
成人のアレルギーには、ピーナッツやソバの食物アレルギーのように幼少児からアレルギー、というタイプもありますが、成人になってから発症するアレルギーの方が頻度は多いといえます。花粉症は成人してから発症することの方が多いですし、カニ・エビや牛肉のアレルギー、アニサキスアレルギーなどの大半は成人してから発症するものです。つまり、以前は問題なく食べられていたものが、次第に食べられなくなる、あるいはある日突然食べられなくなるのです。
アルコール依存症の人たちも、アルコールを初めて飲んだ日から依存症になる人はいません。それどころか最初はお酒が苦手で、飲むとすぐに吐いていた、という人も少なくないのです。実際、公開セッションで体験談を語られた一人の男性は、最初は飲みに行ったときによく吐いていたという話をされていました。
苦手だったアルコールがそのうちに不可欠なものとなりついにはアルコール依存症に・・・。好きだったエビを食べ続けているうちにエビアレルギーになり一切食べられなくなった・・・。このように考えるとこれら2つの"アレルギー"は似ています。
依存症の「アレルギー」のポイントは2つです。1つは、誰にでも「アレルギー」になる、つまり依存症になる可能性があるということ、もうひとつは、(本当の)アレルギーと同様、依存症になればわずか一口の摂取もおこなってはならない、ということです。
アルコール依存症のみならず依存症のほぼ全員はその物質(買い物やギャンブル、セックスなども含む)がその人にとって幸せをもたらしていた時期があったはずです。アルコールを楽しく害なく飲めていた時代、自分でやりくりできる範囲で買い物ができていた時代、幸せにセックスができていた時代などがあったはずです。しかし、もうその時代(蜜月時代)には戻れないのです。
この点が理解できない限りはおそらく依存症の克服は困難でしょう。そしてこの克服のためにはグループで話をすることが非常に有効ではないかと感じました。依存症の苦しみが最も理解できるのは、同じ依存症の苦しみを味わった人です。(私を含めて)医療者が依存症にときに無力なのはこの"苦しみ"に共感できないからではないかと思います。私自身はニコチン依存に随分苦しみましたが、アルコール、薬物、買い物、性依存などはおそらくその比ではないのでしょう。
公開セッションで講師をされていた人たちのみならず、聴講者の多くは通称『ビッグ・ブック』と呼ばれるなにやらバイブルのような本を持っていました。その本はペーパーバッグなのに、なぜ『ビッグ・ブック』と呼ばれているのか分からないのですが、早速私も購入することにしました。しかしAmazonには、ペーパーバックのタイプはなくハードカバーの大きなサイズしかなくそれを注文しました(注1)。
なるほど、大きなサイズでつくられているから『ビッグ・ブック』か、と感じたのですが、読んでみるとその内容に圧倒されました・・・。もしかすると、依存症から脱却させてくれる"偉大な"書籍であるがゆえに『ビッグ・ブック』と呼ばれているのかもしれません。内容はやや宗教的な色が強い部分もあるのですが、すでに依存症になっている人のみならず、すべての人にすすめたい良書です。
公開セッションでは先に述べたような講義も興味深かったのですが、最も感銘を受けたのは、依存症から脱却した体験者の話でした。合計4人の元依存症の人たちが自身の体験を話されたのですが、いずれの人の話にも最初から最後まで引き込まれました。当事者の苦痛がよくわかりましたし、その苦痛を感じるまでのそれぞれのエピソードも大変興味深く、依存症から抜け出すのも一筋縄ではいかず、その苦労もよく伝わってきました。さらに、今は自分の苦しかった体験を現在悩んでいる人に伝えることによって依存症の人たちに貢献したい、という気持ちを感じました。
現在依存症で悩んでいる人がいるとすれば、まず『ビッグ・ブック』をすすめたいのですが、やはり体験者の話を聞くべきだと思います。私が参加させてもらったような公開セッションに足を運んでみるのがいいでしょう。公開セッションはあまりないかと思いますが、このような団体は全国にあるようですので問い合わせてみるのがいいかと思います(注2)。
「依存症なんか自分には縁がない」と考えている人も、関心があれば『ビッグ・ブック』を読んでみたり、周囲に依存症の人がいるという人は公開セッションに参加してみたりするのもいいでしょう。依存症になるのは特別な人ではなく、誰もが依存症となる可能性がある、ということは繰り返しておきたいと思います。
私は公開セッションに参加して以来、お酒を飲むときにはいつも、壇上で自らの体験を話されていた人たちの姿がまぶたに浮かびます・・・。
注1:『ビッグ・ブック』の正式なタイトルは『アルコホーリクス・アノニマス』です。下記を参照ください。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC/dp/4990228308/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1435274714&sr=1-3
注2:私が参加させてもらった公開セミナーは下記です。
http://rd-daycare.icurus.jp/archives/321
下記のURLが参考になるかと思います。
http://www.japanmac.or.jp/
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zen-mac/
http://www.yakkaren.com/zenkoku.html
第107回(2015年5月) 依存症の治療(前編)
HIV/AIDSに関わっていると、どうしても避けられない問題が「依存症」です。私はこれまで主にタイと日本で多くのHIV陽性者に会ってきましたが、依存症に苦しんでいる(後で述べるように必ずしも「苦しんでいる」わけではないのですが・・・)人たちを解放することができなければHIVの新規感染を減らすことはできないことを確信しています。
ほんの遊び心で始めた覚醒剤の吸入がそのうち静脈注射になり、針の使い回しが危険であることは充分に承知していたはずなのに他人の針を使ってHIVに感染した人、性依存症であるという自覚もないままに不特定多数の異性(同性)と危険な性交渉を繰り返しHIVに感染した人、なかには買い物依存やギャンブル依存からできた借金返済のために身体を売りHIVに感染したという人もいます。
依存症についてこのサイトでも取り上げ、私がいろんなところで繰り返し主張しているのが覚醒剤などの違法薬物についてです。私がこれまで述べてきたポイントは、①覚醒剤、コカイン、麻薬などは一度手を出すとやめられなくなる。初めから手を出さないのが最大の予防、②大麻については日本では違法だが国や地域によっては合法であり依存性は低い。しかし、日本では大麻が覚醒剤などの絶対やってはいけない薬物の「きっかけ」になっていることが多く、大麻と覚醒剤や麻薬との違いをしっかりと認識すべき、というものです。
これらは非常に大切なことで、違法薬物については依存性の恐ろしさを子供の頃から徹底的に教育していく必要がある、と私は考えています。
多くの違法薬物は身体を蝕み、やがて人生を終焉させていきますが、ある意味で依存症への対策は"簡単"です。なぜなら、「初めからやらない」のが最善策であり、手を出してしまった後は「完全に断ち切る」ことが不可欠で、これに異議を唱える人はいないからです。
では「初めからやらない」わけにはいかない依存症についてはどうでしょう。例えば、買い物依存症の人は、初めから買い物依存症になりたくて買い物を始めたわけではありません。買い物をせずには生活できないわけですから、「初めからやらない」という対策は後から振り返ってもできなかったわけです。一昔前なら「クレジットカードを持たない」という方法があったかもしれませんが、現代の生活でカードなしでは何かと不便です。それに買い物依存を克服するために「一切の買い物をやめる」というわけにもいきません。この点が薬物依存と異なる点です。
ギャンブル依存はどうでしょう。「初めからやらない」という方法は考えてもいいかもしれませんが、競馬やパチンコを絶対にやってはいけないとは言えませんし、上手にストレス解消のツールとして利用している人もいます。日本では違法ですが、例えば年に2~3度、マカオや済州島にバカラを楽しみに行くという人が、別段それをやめる必要もないと思います。
性依存についても同様です。以前このサイトで述べたことがありますが、性感染症のリスクを省みずにフーゾク通いをやめられない人や、タイガー・ウッズのように複数の女性との関係をもっている人は依存症ですが、「一度きりの浮気」を性依存とは呼べないでしょう。性交渉についても「初めからやらない」という選択肢はありません。これは恋愛依存についても同様です。
アルコールはどうでしょうか。「初めからやらない」という選択肢はないわけではありません。実際飲酒が禁じられているイスラム教徒にアルコール依存症は(ほとんど)ありません。しかし文化的・宗教的には日本も含めてアルコールが許されている社会が多いですし、また少量のアルコールはいくつもの疾患のリスクを下げると言われています。イスラム圏以外ではアルコールについても「初めからやらない」という方法は現実的ではありません。
私は医師として、依存症の前には無力であることをしばしば痛感させられます。ニコチン依存症は、今や有効な薬の登場のおかげで改善する疾患になっていますが「治癒」とはなかなか呼べません。私自身も現在は喫煙していませんが、自分のニコチン依存症が「治った」とは思っていません。アルコールについては抗酒薬と呼ばれる薬がいくつかあり、これで禁酒できる人もいますが、必ずしも成功するわけではありません。また、買い物依存、ギャンブル依存、性依存、薬物依存などについては患者さんやその家族からしばしば相談を受けますが、私自身が治せたことは実はほとんどありません。
では、私自身は医師として依存症を患っている人やその家族から相談されたときにどうしているのかというと、まずは本人がそれを依存症と認識し治したいという意志を本当に持っているかどうかを確認します。本人に治す意志がなければ絶対に上手くいかないからです。依存症とは縁のない人からすると、「治す意志がない」ってどういうことか?、と不可解に思うかもしれませんが、実際には治す意志がない、そもそも病気と思っていない人は少なくないのです。
日常の診療で最もよく見かける依存症のひとつ「摂食障害」は「吐いて何が悪いの?」という態度の人がいます(「摂食障害」を依存症に含めるかどうかには議論がありますが私は少なくとも広義には含めるべきだと考えています)。薬物依存症の人のなかには、病気と思っていないどころか優越感さえ覚え自慢気に語るような人すらいます。「こんなに幸せにしてくれるモノを世間の大勢は知らないけど自分は知っている。自分は他人よりも幸せなんだ」と本気で思っているのです。このような人に有効な治療法はありません。性依存も病識のない人が少なくありません。以前も述べましたが日本人の男性の何パーセントかは性フーゾクへの敷居が低いのです。
本人に依存症の自覚があり「治したい」という意志を持っている場合は、それが治療可能なものであれば精神科の専門外来を紹介することがあります。アルコール依存であれば必ずしも有効ではないものの抗酒薬がありますし、摂食障害を診てくれるところもあります(ただし、精神科によっては初めから「摂食障害はお断り」というところもありますし、診てくれると聞いていたのに受診すると門前払いされたと嘆く患者さんもいます)。薬物依存については診てもらえるところがないわけではありませんが、必ずしも上手くいくわけではありません。
精神科で診てもらえそうにないとき、または本人が精神科受診を嫌がる場合は、私自身は「自助グループ」を紹介するようにしています。自助グループというのは、同じ問題(依存症)を抱えている人たちが集まったグループで、苦しみや悩みを共有することによって困難を乗り越えていくことを目指しています。
自助グループの歴史は1930年代のアメリカから始まっています。アルコール依存症の人たちが集まり悩みや苦しみを共有しあうことで依存症を克服する人がでてきました。克服に成功した人がこういった活動を広げていくようになり、日本を含む多くの国でいくつもの団体が誕生しました。当初はアルコール依存だけでしたが、薬物、ギャンブル、性など、現在では多くの依存症の人たちが利用するようになってきています。
この世界では「AA」という言い方をよくしますが、これは「Alcoholics Anonymous」のことで直訳すると「匿名のアルコール依存者」となります(注1)。つまり、グループに参加するときは匿名でOKというのがひとつの特徴です。
さて、依存症の悩みを打ち明けてくれた患者さんに私は自助グループに参加することをすすめているのですが、私自身はそういったグループに参加したことはありません。実態を知らないのに患者さんに参加を勧めるのは無責任ではないのか・・・、というのは何年も感じていることなのですが、当事者でないと参加できない集いに入れてもらうことはできません。
しかし、です。ある有名な団体が公開セミナーをおこなっていることを知り、先日参加してきました。このセミナーは主に依存症の当事者を対象としていますが、その家族や支援者なども参加が許されており、私は医師であることを伝え許可を得た上でこのセミナーに参加させてもらいました。
感想は・・・、驚いたというか、これなら依存症を克服できる!と感じました。次回はなぜ私がそのように感じたかを述べたいと思います。
注1:AAの日本のサイトとアメリカのサイトを記しておきます。
http://aajapan.org/
http://old2.aa.org/
参考:『GINAと共に』
第97回(2014年7月)「これからの「大麻」の話をしよう」
第89回(2013年11月)「性依存症という病」
ほんの遊び心で始めた覚醒剤の吸入がそのうち静脈注射になり、針の使い回しが危険であることは充分に承知していたはずなのに他人の針を使ってHIVに感染した人、性依存症であるという自覚もないままに不特定多数の異性(同性)と危険な性交渉を繰り返しHIVに感染した人、なかには買い物依存やギャンブル依存からできた借金返済のために身体を売りHIVに感染したという人もいます。
依存症についてこのサイトでも取り上げ、私がいろんなところで繰り返し主張しているのが覚醒剤などの違法薬物についてです。私がこれまで述べてきたポイントは、①覚醒剤、コカイン、麻薬などは一度手を出すとやめられなくなる。初めから手を出さないのが最大の予防、②大麻については日本では違法だが国や地域によっては合法であり依存性は低い。しかし、日本では大麻が覚醒剤などの絶対やってはいけない薬物の「きっかけ」になっていることが多く、大麻と覚醒剤や麻薬との違いをしっかりと認識すべき、というものです。
これらは非常に大切なことで、違法薬物については依存性の恐ろしさを子供の頃から徹底的に教育していく必要がある、と私は考えています。
多くの違法薬物は身体を蝕み、やがて人生を終焉させていきますが、ある意味で依存症への対策は"簡単"です。なぜなら、「初めからやらない」のが最善策であり、手を出してしまった後は「完全に断ち切る」ことが不可欠で、これに異議を唱える人はいないからです。
では「初めからやらない」わけにはいかない依存症についてはどうでしょう。例えば、買い物依存症の人は、初めから買い物依存症になりたくて買い物を始めたわけではありません。買い物をせずには生活できないわけですから、「初めからやらない」という対策は後から振り返ってもできなかったわけです。一昔前なら「クレジットカードを持たない」という方法があったかもしれませんが、現代の生活でカードなしでは何かと不便です。それに買い物依存を克服するために「一切の買い物をやめる」というわけにもいきません。この点が薬物依存と異なる点です。
ギャンブル依存はどうでしょう。「初めからやらない」という方法は考えてもいいかもしれませんが、競馬やパチンコを絶対にやってはいけないとは言えませんし、上手にストレス解消のツールとして利用している人もいます。日本では違法ですが、例えば年に2~3度、マカオや済州島にバカラを楽しみに行くという人が、別段それをやめる必要もないと思います。
性依存についても同様です。以前このサイトで述べたことがありますが、性感染症のリスクを省みずにフーゾク通いをやめられない人や、タイガー・ウッズのように複数の女性との関係をもっている人は依存症ですが、「一度きりの浮気」を性依存とは呼べないでしょう。性交渉についても「初めからやらない」という選択肢はありません。これは恋愛依存についても同様です。
アルコールはどうでしょうか。「初めからやらない」という選択肢はないわけではありません。実際飲酒が禁じられているイスラム教徒にアルコール依存症は(ほとんど)ありません。しかし文化的・宗教的には日本も含めてアルコールが許されている社会が多いですし、また少量のアルコールはいくつもの疾患のリスクを下げると言われています。イスラム圏以外ではアルコールについても「初めからやらない」という方法は現実的ではありません。
私は医師として、依存症の前には無力であることをしばしば痛感させられます。ニコチン依存症は、今や有効な薬の登場のおかげで改善する疾患になっていますが「治癒」とはなかなか呼べません。私自身も現在は喫煙していませんが、自分のニコチン依存症が「治った」とは思っていません。アルコールについては抗酒薬と呼ばれる薬がいくつかあり、これで禁酒できる人もいますが、必ずしも成功するわけではありません。また、買い物依存、ギャンブル依存、性依存、薬物依存などについては患者さんやその家族からしばしば相談を受けますが、私自身が治せたことは実はほとんどありません。
では、私自身は医師として依存症を患っている人やその家族から相談されたときにどうしているのかというと、まずは本人がそれを依存症と認識し治したいという意志を本当に持っているかどうかを確認します。本人に治す意志がなければ絶対に上手くいかないからです。依存症とは縁のない人からすると、「治す意志がない」ってどういうことか?、と不可解に思うかもしれませんが、実際には治す意志がない、そもそも病気と思っていない人は少なくないのです。
日常の診療で最もよく見かける依存症のひとつ「摂食障害」は「吐いて何が悪いの?」という態度の人がいます(「摂食障害」を依存症に含めるかどうかには議論がありますが私は少なくとも広義には含めるべきだと考えています)。薬物依存症の人のなかには、病気と思っていないどころか優越感さえ覚え自慢気に語るような人すらいます。「こんなに幸せにしてくれるモノを世間の大勢は知らないけど自分は知っている。自分は他人よりも幸せなんだ」と本気で思っているのです。このような人に有効な治療法はありません。性依存も病識のない人が少なくありません。以前も述べましたが日本人の男性の何パーセントかは性フーゾクへの敷居が低いのです。
本人に依存症の自覚があり「治したい」という意志を持っている場合は、それが治療可能なものであれば精神科の専門外来を紹介することがあります。アルコール依存であれば必ずしも有効ではないものの抗酒薬がありますし、摂食障害を診てくれるところもあります(ただし、精神科によっては初めから「摂食障害はお断り」というところもありますし、診てくれると聞いていたのに受診すると門前払いされたと嘆く患者さんもいます)。薬物依存については診てもらえるところがないわけではありませんが、必ずしも上手くいくわけではありません。
精神科で診てもらえそうにないとき、または本人が精神科受診を嫌がる場合は、私自身は「自助グループ」を紹介するようにしています。自助グループというのは、同じ問題(依存症)を抱えている人たちが集まったグループで、苦しみや悩みを共有することによって困難を乗り越えていくことを目指しています。
自助グループの歴史は1930年代のアメリカから始まっています。アルコール依存症の人たちが集まり悩みや苦しみを共有しあうことで依存症を克服する人がでてきました。克服に成功した人がこういった活動を広げていくようになり、日本を含む多くの国でいくつもの団体が誕生しました。当初はアルコール依存だけでしたが、薬物、ギャンブル、性など、現在では多くの依存症の人たちが利用するようになってきています。
この世界では「AA」という言い方をよくしますが、これは「Alcoholics Anonymous」のことで直訳すると「匿名のアルコール依存者」となります(注1)。つまり、グループに参加するときは匿名でOKというのがひとつの特徴です。
さて、依存症の悩みを打ち明けてくれた患者さんに私は自助グループに参加することをすすめているのですが、私自身はそういったグループに参加したことはありません。実態を知らないのに患者さんに参加を勧めるのは無責任ではないのか・・・、というのは何年も感じていることなのですが、当事者でないと参加できない集いに入れてもらうことはできません。
しかし、です。ある有名な団体が公開セミナーをおこなっていることを知り、先日参加してきました。このセミナーは主に依存症の当事者を対象としていますが、その家族や支援者なども参加が許されており、私は医師であることを伝え許可を得た上でこのセミナーに参加させてもらいました。
感想は・・・、驚いたというか、これなら依存症を克服できる!と感じました。次回はなぜ私がそのように感じたかを述べたいと思います。
注1:AAの日本のサイトとアメリカのサイトを記しておきます。
http://aajapan.org/
http://old2.aa.org/
参考:『GINAと共に』
第97回(2014年7月)「これからの「大麻」の話をしよう」
第89回(2013年11月)「性依存症という病」
第106回 LGBTに対する日米の動き 2015年4月号
このコラム『GINAと共に』第102回(2014年12月)で「2015年はLGBTが一気にメジャーに」というタイトルで、私は、LGBTに対する差別が解消される方向に社会が向かうのではないか、という予測をたてました。
少々楽観的な予測ではありますが、日本でも欧米社会のように社会的地位のある人がLGBTであることをカムアウトしたり、同性カップルに法律上の夫婦と同じ権利を与える企業や自治体が増えたりすることを期待しています。
最近、具体的に起こったことをみていきたいと思います。まずは日本からです。
2015年3月31日、東京都渋谷区の区議会本会議で、同性カップルを結婚に相当する関係と認め<パートナー>として証明書を発行する条例が賛成多数で可決され、4月1日から施行されました。これは全国で初の条例です。
実際に証明書が発行され用いられるようになるには夏頃まで待たなければならないようですが、これにより、例えばアパートの保証人になれないとか、手術の同意書にサインできない、といった問題は解消されることが予想されます。家族向けの区営住宅にも入居できるようになるはずです。条例には、趣旨に反する行為があり、さらに是正勧告にも従わない企業などがあれば事業所名を公表するということも盛り込まれています。
ただし、証明書発行の対象となるのは、区内在住の20歳以上の同性カップルに限られますから、どちらかが未成年であれば証明書は発行されません。また、互いに後見人となる公正証書を作成していることも条件とされています。二人の関係がブレイクアップした場合は、その証明書も取り消されることになります。
今後このような条例が全国で広がるだろうという予測を立てたいのですが、ひとつ気になることがあります。それは区議会の採決で出席者合計31人のうち、10人が反対したということです。自民党及び保守系の無所属の議員が反対したそうですが、この理由は何なのでしょうか。
LGBTの人たちが、反対する議員や反対する議員の家族に迷惑をかけたわけではないでしょうし、証明書の発行が渋谷区民を困らせるわけでもありません。たしかに、世界では同性愛に反対する国も多く、なかには同性愛者というだけで終身刑や死刑が求刑される国もあります。
2012年11月7日、オバマ大統領が再選時のスピーチで「ゲイでもストレートでも・・」という発言をしてから、米国では加速度的にLGBTを擁護する声が強くなってきているように私は感じています。(このスピーチは、私個人としては「歴史に残るスピーチ」だと思っています。おそらくyoutubeなどでも見ることができると思いますので興味のある人は是非聞いてみて下さい)
米国ではアップル社のCEO(最高経営責任者)であるティム・クック氏が自らがゲイであることを公表し、多くの企業がLGBTに向けたメッセージを打ち出し、なかにはLGBT用のプランを用意する企業もでてきました。
2015年に入ってもこの傾向は止まらず、オバマ大統領は2015年4月8日、同性愛者を異性愛者に転向するよう仕向ける心理療法が有害でありやめなければならないという方針を明らかにしました(注1)。事実上同性婚が認められるようになった米国でまだこのような心理療法がおこなわれているということに驚かされますが、(後で述べるように)実は米国では一部の層が頑なにLGBTの存在に反対しています。
オバマ大統領がこのように治療方針の有害性を公式に発表したのには理由があります。それは、2014年12月、同性愛から異性愛へ転向するような心理療法を親に強制された17歳の若者が自殺をするという事件があったからです。このような悲劇を繰り返すことがないよう、オバマ大統領は医学領域にまで踏み込んだ発言をおこなったのでしょう。
では、同性愛を法で禁じる国があり、(アメリカのように)同性愛を認めている国にもLGBTの存在を認めない人がいるのはなぜなのでしょうか。最も大きな理由は<宗教>です。世界三大宗教の2つであるイスラム教とキリスト教では同性愛を認めていません。ですから敬虔な信者であればあるほど、同性愛を認めることができないのです。しかし北米のみならず、ヨーロッパの多くの国や南アフリカ共和国、南米の一部の国々など、国の宗教がキリスト教で同性婚が認められている国も多数あります。厳密に言えば宗教の教えに反することになるかもしれませんが、現実的に柔軟性を持たせて対処しているわけです。
しかしながら、どうしても宗教の教えから逃れられない人もいます。そしてこれを逆手にとって、同性婚を認める動きにカウンターアタックを始めた州があります。
米国インディアナ州では、「行政が個人の<信仰の自由>を脅かすことはできない」という理由で州議会の賛成多数を得、2015年3月26日、同州のペンス知事が署名をおこない「宗教の自由回復法」が成立しました。<信仰の自由>と言えば聞こえがいいですが、「キリスト教徒は同性愛を認めない」という自分たちの主張を正当化したいがための法律にすぎません。
米国の中部から南部は保守層が多く、アーカンサス州でも同様の法律が可決され、さらに他の州でも検討されているようです。
しかし、このような「時代錯誤」の法律に世論は黙っていません。インディアナ州での法案成立後、全米で反対するムーブメントが起こりました。アップル社のCEOティム・クック氏も直ちにこの法律に反対する意見をワシントンポスト紙に寄稿しました(注2)。マイクロソフトやウォルマートといった大企業もこの法律に反対を表明しています。
この動きを受けて、いったん署名したインディアナ州のペンス知事は州議会に対して法律の内容を再検討するよう要求しました。アーカンサス州のハッチンソン知事は、可決された内容の法案には署名できないと発表しました。結局、これら2つの州では、「法律を理由とした差別は認められない」といった内容を盛り込んだ修正案を州議会が可決し、両知事が署名するというすっきりしないかたちとなりました。
翻って日本はどうでしょう。日本の政治家で敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒はほとんどいないでしょう。それに日本は政教分離が一応は憲法20条で定められていますから、表だって宗教的理由で同性のパートナーシップを反対することはできないはずです。
同性愛に反対する議員や知識人がよくいうセリフに「社会の同意を得られていない」「社会秩序が乱れる可能性がある」というものがありますが、こういう屁理屈を理論的に説明できる人はいません。
LGBTというだけで社会的な不利益を被っている人が実際に存在することの方がよほど「社会秩序が乱れている」わけで、本気で渋谷区の試みが社会秩序を乱すなどと思っている議員がいるとすれば、単なる"幻想"に振り回されているだけです。
社会の困っている人を救うのが議員の仕事のはずです。根拠のない"幻想"に囚われるのではなく、目の前の「困っている人たち」を助けることを考えてもらいたいものです。
このような議員の人たちは気付いていないでしょうが、彼(女)らと同じ職場にもLGBTの人たちはいるはずですし、自分の子供が、あるいは自分の親がLGBTである可能性だってなくはありません。先日報道された中国の調査では中国には同性愛者だけれども妻のいる男性が1,600万人いるという結果が報じられました(注3)。中国の人口は日本のおよそ11倍ですから、単純計算すると、日本にも150万人近くの同性愛者の男性が結婚しており、日本の150万人の女性が同性愛の男性と結婚していることになります。そのうちのほとんどがセックスレスであり、いくらかは虐待を受けている可能性もあります。
LGBTの問題を考えるときに、一番大事なのは「自分の周りにも多くのLGBTの人たちがいて自分は気付いていないだけ」ということです。このことを政治家の先生方によく考えていただきたいのと同時に、我々市民もこのことを忘れてはいけません。
注1:この記事のタイトルは「Obama's move to ban gay conversion therapy, explained」で、下記URLで読むことができます。
http://www.washingtonpost.com/blogs/the-fix/wp/2015/04/09/obamas-move-to-ban-gay-conversion-therapy-explained/
注2:この寄稿のタイトルは「Tim Cook: Pro-discrimination 'religious freedom' laws are dangerous」で、下記URLで読むことができます。
http://www.washingtonpost.com/opinions/pro-discrimination-religious-freedom-laws-are-dangerous-to-america/2015/03/29/bdb4ce9e-d66d-11e4-ba28-f2a685dc7f89_story.html
注3:これは『CHINA DAILY USA』に掲載されています。記事のタイトルは「Survey: Women who marry gay men suffer abuse」で、下記URLで読むことができます。
http://usa.chinadaily.com.cn/china/2015-04/18/content_20464630.htm
参考:GINAと共に第102回(2014年12月)「2015年はLGBTが一気にメジャーに」
少々楽観的な予測ではありますが、日本でも欧米社会のように社会的地位のある人がLGBTであることをカムアウトしたり、同性カップルに法律上の夫婦と同じ権利を与える企業や自治体が増えたりすることを期待しています。
最近、具体的に起こったことをみていきたいと思います。まずは日本からです。
2015年3月31日、東京都渋谷区の区議会本会議で、同性カップルを結婚に相当する関係と認め<パートナー>として証明書を発行する条例が賛成多数で可決され、4月1日から施行されました。これは全国で初の条例です。
実際に証明書が発行され用いられるようになるには夏頃まで待たなければならないようですが、これにより、例えばアパートの保証人になれないとか、手術の同意書にサインできない、といった問題は解消されることが予想されます。家族向けの区営住宅にも入居できるようになるはずです。条例には、趣旨に反する行為があり、さらに是正勧告にも従わない企業などがあれば事業所名を公表するということも盛り込まれています。
ただし、証明書発行の対象となるのは、区内在住の20歳以上の同性カップルに限られますから、どちらかが未成年であれば証明書は発行されません。また、互いに後見人となる公正証書を作成していることも条件とされています。二人の関係がブレイクアップした場合は、その証明書も取り消されることになります。
今後このような条例が全国で広がるだろうという予測を立てたいのですが、ひとつ気になることがあります。それは区議会の採決で出席者合計31人のうち、10人が反対したということです。自民党及び保守系の無所属の議員が反対したそうですが、この理由は何なのでしょうか。
LGBTの人たちが、反対する議員や反対する議員の家族に迷惑をかけたわけではないでしょうし、証明書の発行が渋谷区民を困らせるわけでもありません。たしかに、世界では同性愛に反対する国も多く、なかには同性愛者というだけで終身刑や死刑が求刑される国もあります。
2012年11月7日、オバマ大統領が再選時のスピーチで「ゲイでもストレートでも・・」という発言をしてから、米国では加速度的にLGBTを擁護する声が強くなってきているように私は感じています。(このスピーチは、私個人としては「歴史に残るスピーチ」だと思っています。おそらくyoutubeなどでも見ることができると思いますので興味のある人は是非聞いてみて下さい)
米国ではアップル社のCEO(最高経営責任者)であるティム・クック氏が自らがゲイであることを公表し、多くの企業がLGBTに向けたメッセージを打ち出し、なかにはLGBT用のプランを用意する企業もでてきました。
2015年に入ってもこの傾向は止まらず、オバマ大統領は2015年4月8日、同性愛者を異性愛者に転向するよう仕向ける心理療法が有害でありやめなければならないという方針を明らかにしました(注1)。事実上同性婚が認められるようになった米国でまだこのような心理療法がおこなわれているということに驚かされますが、(後で述べるように)実は米国では一部の層が頑なにLGBTの存在に反対しています。
オバマ大統領がこのように治療方針の有害性を公式に発表したのには理由があります。それは、2014年12月、同性愛から異性愛へ転向するような心理療法を親に強制された17歳の若者が自殺をするという事件があったからです。このような悲劇を繰り返すことがないよう、オバマ大統領は医学領域にまで踏み込んだ発言をおこなったのでしょう。
では、同性愛を法で禁じる国があり、(アメリカのように)同性愛を認めている国にもLGBTの存在を認めない人がいるのはなぜなのでしょうか。最も大きな理由は<宗教>です。世界三大宗教の2つであるイスラム教とキリスト教では同性愛を認めていません。ですから敬虔な信者であればあるほど、同性愛を認めることができないのです。しかし北米のみならず、ヨーロッパの多くの国や南アフリカ共和国、南米の一部の国々など、国の宗教がキリスト教で同性婚が認められている国も多数あります。厳密に言えば宗教の教えに反することになるかもしれませんが、現実的に柔軟性を持たせて対処しているわけです。
しかしながら、どうしても宗教の教えから逃れられない人もいます。そしてこれを逆手にとって、同性婚を認める動きにカウンターアタックを始めた州があります。
米国インディアナ州では、「行政が個人の<信仰の自由>を脅かすことはできない」という理由で州議会の賛成多数を得、2015年3月26日、同州のペンス知事が署名をおこない「宗教の自由回復法」が成立しました。<信仰の自由>と言えば聞こえがいいですが、「キリスト教徒は同性愛を認めない」という自分たちの主張を正当化したいがための法律にすぎません。
米国の中部から南部は保守層が多く、アーカンサス州でも同様の法律が可決され、さらに他の州でも検討されているようです。
しかし、このような「時代錯誤」の法律に世論は黙っていません。インディアナ州での法案成立後、全米で反対するムーブメントが起こりました。アップル社のCEOティム・クック氏も直ちにこの法律に反対する意見をワシントンポスト紙に寄稿しました(注2)。マイクロソフトやウォルマートといった大企業もこの法律に反対を表明しています。
この動きを受けて、いったん署名したインディアナ州のペンス知事は州議会に対して法律の内容を再検討するよう要求しました。アーカンサス州のハッチンソン知事は、可決された内容の法案には署名できないと発表しました。結局、これら2つの州では、「法律を理由とした差別は認められない」といった内容を盛り込んだ修正案を州議会が可決し、両知事が署名するというすっきりしないかたちとなりました。
翻って日本はどうでしょう。日本の政治家で敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒はほとんどいないでしょう。それに日本は政教分離が一応は憲法20条で定められていますから、表だって宗教的理由で同性のパートナーシップを反対することはできないはずです。
同性愛に反対する議員や知識人がよくいうセリフに「社会の同意を得られていない」「社会秩序が乱れる可能性がある」というものがありますが、こういう屁理屈を理論的に説明できる人はいません。
LGBTというだけで社会的な不利益を被っている人が実際に存在することの方がよほど「社会秩序が乱れている」わけで、本気で渋谷区の試みが社会秩序を乱すなどと思っている議員がいるとすれば、単なる"幻想"に振り回されているだけです。
社会の困っている人を救うのが議員の仕事のはずです。根拠のない"幻想"に囚われるのではなく、目の前の「困っている人たち」を助けることを考えてもらいたいものです。
このような議員の人たちは気付いていないでしょうが、彼(女)らと同じ職場にもLGBTの人たちはいるはずですし、自分の子供が、あるいは自分の親がLGBTである可能性だってなくはありません。先日報道された中国の調査では中国には同性愛者だけれども妻のいる男性が1,600万人いるという結果が報じられました(注3)。中国の人口は日本のおよそ11倍ですから、単純計算すると、日本にも150万人近くの同性愛者の男性が結婚しており、日本の150万人の女性が同性愛の男性と結婚していることになります。そのうちのほとんどがセックスレスであり、いくらかは虐待を受けている可能性もあります。
LGBTの問題を考えるときに、一番大事なのは「自分の周りにも多くのLGBTの人たちがいて自分は気付いていないだけ」ということです。このことを政治家の先生方によく考えていただきたいのと同時に、我々市民もこのことを忘れてはいけません。
注1:この記事のタイトルは「Obama's move to ban gay conversion therapy, explained」で、下記URLで読むことができます。
http://www.washingtonpost.com/blogs/the-fix/wp/2015/04/09/obamas-move-to-ban-gay-conversion-therapy-explained/
注2:この寄稿のタイトルは「Tim Cook: Pro-discrimination 'religious freedom' laws are dangerous」で、下記URLで読むことができます。
http://www.washingtonpost.com/opinions/pro-discrimination-religious-freedom-laws-are-dangerous-to-america/2015/03/29/bdb4ce9e-d66d-11e4-ba28-f2a685dc7f89_story.html
注3:これは『CHINA DAILY USA』に掲載されています。記事のタイトルは「Survey: Women who marry gay men suffer abuse」で、下記URLで読むことができます。
http://usa.chinadaily.com.cn/china/2015-04/18/content_20464630.htm
参考:GINAと共に第102回(2014年12月)「2015年はLGBTが一気にメジャーに」
第105回 ポリティカル・コレクトネスのつまらなさ 2015年3月号
2015年2月11日の産経新聞に掲載された曽野綾子さんのコラムが大変な物議をかもし国際問題にまで発展しました。
黒人を差別するのか!という怒りの声がネット上にあふれていますが、私はこのような意見を目にする度に辟易します。こういった"正論"を振りかざす人たちに一言いってやりたいのですが、まずはなぜこのような問題にまで発展したのか経過を振り返ってみたいと思います。
曽野さんのコラムは、日本の高齢者の介護のために外国人を受け入れる必要がある、というところから始まっています。現在、フィリピンやインドネシアから日本で介護の仕事をするために来日して研修を受けている人はいますが、語学の問題もあり資格を取得するのがむつかしいのが現状です。曽野さんはそういったバリアを取り除かなければならない、と主張されています。
一方後半では、仕事は外国人と一緒にすべきだが外国人と一緒に住むのは困難であることを自身の体験から話されています。この部分が問題になっているので、少し長くなりますが省略せずに紹介したいと思います。
************
南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げだし、住み続けているのは黒人だけになった。
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
************
これが後に国際問題にまで発展し、『Japan Times』や『New York Times』は黒人の居住地をわけろというのはアパルトヘイトではないかと問題提起をしました。その後、日本の(左寄りの)マスコミはこれに便乗し「黒人差別」と言いだしました。すると、やはり左寄りのネットユーザーたちが騒ぎ出し曽野さんを糾弾しはじめたのです。
ここまで騒ぎが大きくなれば、南アフリカ共和国の大使館は放っておくわけにはいきません。曽野さんが大使館を訪問し説明することになったそうです。一部で誤解されているようですが、これは曽野さんが謝罪に行くことを強要されたわけではなく、大使の方から曽野さんに会いに伺いたいという申し入れがあったそうです。
曽野さんはその申し入れを「それはいけません。大使閣下はそのお国を代表していらっしゃるのですから、私が参上するのが礼儀です」と言って自身から大使館を訪問されています(注1)。
南ア大使と曽野さんが話をするとすぐに誤解は解けたようです。これは私の推測ですが、南アの大使は、曽野さんがどのような人物であり、これまでどれほど南アを含むアフリカ諸国に貢献されてきたのかを知っていたに違いありません。ですから大使は初めから曽野さんに苦情を言うつもりなど一切なかったはずです。ただ、国内外のマスコミが騒ぎ出し収拾が付かなくなったために、話をしておく方がいいと考えた、あるいはこの機会を利用してこれまで南アにも貢献されている曽野さんにお礼が言いたかったのではないでしょうか。
曽野さんは、南アの大使との話し合いについて下記のように述べています(注2)。
*************
大使は実に見事な女性で、私と友情を築いてくださった。私は遠慮して、もしお望みなら「南アのことは以後書かないようにいたします」とも申し上げたのだが、南アのことは今後も書いて欲しい、とお手紙までくださった。
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曽野さんのアフリカでの活躍はここで述べるときりがありませんので省略しますが、南アのエイズホスピスにも多大なる貢献をされています。このホスピスに霊安室を建てられたのも曽野さんの功績です。
エイズ関連の活動をしているグループからも、マスコミの報道に便乗し曽野さんをバッシングする意見が出ており、私は大変残念に思いました。彼(女)らは曽野さんの南アのエイズに対する貢献を知っているのでしょうか。
若い学生の団体が、曽野さんのコラムを読んで「黒人差別だ!」と感じるのは自由ですし、意見を言えばいいと思います。しかし、反対意見を述べるなら、将来是非とも外国人との共存を体験すべきです。
という私自身も黒人と居住地を共にしたことはありません。しかし、同じような体験をタイでしたことがあり、私が曽野さんのコラムを読んだときにそのときのことを思い出しました。
あれはたしか2004年。私が定期的にタイのエイズ施設を訪問していた頃のことです。バンコクで仲良くなったタイ人の夫婦がいて、親戚が田舎から来てパーティをするから参加しないか、と誘われたのです。タイ人は男性でも女性でも少し仲良くなるとすぐに、親を紹介したい、親戚と一緒にご飯を食べよう、泊まりに来い、などと言ってきます。このような国民性に私はとても好感をもっていて、この夫婦に誘われたときも二つ返事で「伺います」と答えました。
その夫婦の住む地域は、スラム街とまではいいませんが、明らかに貧困層が住むエリアで、バンコク人ではなく東北地方(イサーン地方)から出稼ぎに来た人たちが大勢住んでいるところです。
お世辞にもきれいとはいえないアパートの2階にその夫婦の部屋はありました。階段で2階にあがって驚いたのが「やかましさ」です。このようなアパートでクーラーをもっている世帯はまずありませんから、暑さをしのぐためにどの部屋も扉を開けています。どこの部屋からも大声や笑い声が聞こえてきます。日本ではこのような光景はちょっと想像できません。
夫婦の部屋を訪れて驚いたのは人の多さです。6畳ほどのワンルームに、下は1歳くらいの赤ちゃんから上は70代くらいの高齢者まで合計10人が騒いでいるのです。私が顔を見せると「よく来た、よく来た」と言って歓迎してくれるのは嬉しいのですが、座る場所もありません。それに、たしかに床は丁寧に拭いてあるのですが、毛布や枕などはきれいには見えません。
「ご飯食べたか?(ギンカーオ・ルヤン・カー?)」と聞かれて「まだです(ヤンマイギン・クラップ)」と答えると、「食べろ食べろ」と言って食事を出してくれるのですが、アリの卵、いろんな昆虫が混ざった素揚げ、腐敗臭にしか感じられないソムタム(パパイヤサラダ)など、イサーン料理のオンパレードです。
「ソムタム」と言えばタイ料理を代表するパパイヤサラダですが、これは主にバンコク人の食べるもので正確には「ソムタム・タイ」と言います。一方、イサーン人の食べる「ソムタム・プララ」や「ソムタム・プー」というのは発酵させた魚やサワガニが入っていて、日本人からすれば発酵ではなく腐敗臭にしか感じられません。しかし、この体験も含めて何度かイサーン人と行動を共にしたおかげで、私は今ではほとんどのイサーン料理が食べられるようになりました。
話を戻しましょう。苦労したのは食事だけではありません。この部屋には台所というものがありません。水道はトイレの便器の横にひとつあるだけです。ではどうやって調理をするのかというとその便器の横の水道で水をくむのです。タイでは水道水は飲めませんからペットボトルの水を使いますが、食器を洗うのも、トイレをした後にお尻を洗うのも、その後手を洗うのも、入浴(「水浴び」といった方が正確ですが)もすべてその1つの水道でおこなわなければなりません。この部屋には私をいれて11人がいるのです。11人全員がトイレでお尻を洗うのも手を洗うのも、身体や頭を洗うのもすべてその1本の水道で済まさねばならず、食器の洗浄も、もちろん衣服の洗濯も、その1つの水道だけが頼りなのです。
「遠慮するな、泊まっていけ」と皆が言いますが、この部屋で私はどうやって眠ればいいのでしょう。しかし、外国人の私はスペシャルゲストのようで一番いい毛布を渡してくれました・・・。
この家族は比較的早く全員が寝ましたが、アパートの住民のなかには朝まで騒いでいた者も大勢いたようで、いい睡眠がとれたとはとても言えませんでした・・・。
翌朝私は何度も礼を言い、その部屋を出るときには「またいつでも泊まりに来てね」と言われました。私はその後もその夫婦にバンコクで何度か会っていて、今もときどき連絡をとりますが、あの部屋にもう一度行こうとは思いません・・・。
黒人と一緒に住むことはできないだと! それは黒人差別じゃないか! そんな発言はけしからん! ・・・! たしかにこういう意見は間違ってはいないでしょう。政治的には"正しい"からです。「ポリティカル・コレクトネス」というやつです。
いくら正しくても、私はポリティカル・コレクトネスにはうんざりします・・・。
注1注2:『新潮45』2015年4月号に掲載されている曽野綾子さんのコラム「人間関係愚痴話」(第47回)に詳しく書かれています。
黒人を差別するのか!という怒りの声がネット上にあふれていますが、私はこのような意見を目にする度に辟易します。こういった"正論"を振りかざす人たちに一言いってやりたいのですが、まずはなぜこのような問題にまで発展したのか経過を振り返ってみたいと思います。
曽野さんのコラムは、日本の高齢者の介護のために外国人を受け入れる必要がある、というところから始まっています。現在、フィリピンやインドネシアから日本で介護の仕事をするために来日して研修を受けている人はいますが、語学の問題もあり資格を取得するのがむつかしいのが現状です。曽野さんはそういったバリアを取り除かなければならない、と主張されています。
一方後半では、仕事は外国人と一緒にすべきだが外国人と一緒に住むのは困難であることを自身の体験から話されています。この部分が問題になっているので、少し長くなりますが省略せずに紹介したいと思います。
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南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げだし、住み続けているのは黒人だけになった。
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
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これが後に国際問題にまで発展し、『Japan Times』や『New York Times』は黒人の居住地をわけろというのはアパルトヘイトではないかと問題提起をしました。その後、日本の(左寄りの)マスコミはこれに便乗し「黒人差別」と言いだしました。すると、やはり左寄りのネットユーザーたちが騒ぎ出し曽野さんを糾弾しはじめたのです。
ここまで騒ぎが大きくなれば、南アフリカ共和国の大使館は放っておくわけにはいきません。曽野さんが大使館を訪問し説明することになったそうです。一部で誤解されているようですが、これは曽野さんが謝罪に行くことを強要されたわけではなく、大使の方から曽野さんに会いに伺いたいという申し入れがあったそうです。
曽野さんはその申し入れを「それはいけません。大使閣下はそのお国を代表していらっしゃるのですから、私が参上するのが礼儀です」と言って自身から大使館を訪問されています(注1)。
南ア大使と曽野さんが話をするとすぐに誤解は解けたようです。これは私の推測ですが、南アの大使は、曽野さんがどのような人物であり、これまでどれほど南アを含むアフリカ諸国に貢献されてきたのかを知っていたに違いありません。ですから大使は初めから曽野さんに苦情を言うつもりなど一切なかったはずです。ただ、国内外のマスコミが騒ぎ出し収拾が付かなくなったために、話をしておく方がいいと考えた、あるいはこの機会を利用してこれまで南アにも貢献されている曽野さんにお礼が言いたかったのではないでしょうか。
曽野さんは、南アの大使との話し合いについて下記のように述べています(注2)。
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大使は実に見事な女性で、私と友情を築いてくださった。私は遠慮して、もしお望みなら「南アのことは以後書かないようにいたします」とも申し上げたのだが、南アのことは今後も書いて欲しい、とお手紙までくださった。
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曽野さんのアフリカでの活躍はここで述べるときりがありませんので省略しますが、南アのエイズホスピスにも多大なる貢献をされています。このホスピスに霊安室を建てられたのも曽野さんの功績です。
エイズ関連の活動をしているグループからも、マスコミの報道に便乗し曽野さんをバッシングする意見が出ており、私は大変残念に思いました。彼(女)らは曽野さんの南アのエイズに対する貢献を知っているのでしょうか。
若い学生の団体が、曽野さんのコラムを読んで「黒人差別だ!」と感じるのは自由ですし、意見を言えばいいと思います。しかし、反対意見を述べるなら、将来是非とも外国人との共存を体験すべきです。
という私自身も黒人と居住地を共にしたことはありません。しかし、同じような体験をタイでしたことがあり、私が曽野さんのコラムを読んだときにそのときのことを思い出しました。
あれはたしか2004年。私が定期的にタイのエイズ施設を訪問していた頃のことです。バンコクで仲良くなったタイ人の夫婦がいて、親戚が田舎から来てパーティをするから参加しないか、と誘われたのです。タイ人は男性でも女性でも少し仲良くなるとすぐに、親を紹介したい、親戚と一緒にご飯を食べよう、泊まりに来い、などと言ってきます。このような国民性に私はとても好感をもっていて、この夫婦に誘われたときも二つ返事で「伺います」と答えました。
その夫婦の住む地域は、スラム街とまではいいませんが、明らかに貧困層が住むエリアで、バンコク人ではなく東北地方(イサーン地方)から出稼ぎに来た人たちが大勢住んでいるところです。
お世辞にもきれいとはいえないアパートの2階にその夫婦の部屋はありました。階段で2階にあがって驚いたのが「やかましさ」です。このようなアパートでクーラーをもっている世帯はまずありませんから、暑さをしのぐためにどの部屋も扉を開けています。どこの部屋からも大声や笑い声が聞こえてきます。日本ではこのような光景はちょっと想像できません。
夫婦の部屋を訪れて驚いたのは人の多さです。6畳ほどのワンルームに、下は1歳くらいの赤ちゃんから上は70代くらいの高齢者まで合計10人が騒いでいるのです。私が顔を見せると「よく来た、よく来た」と言って歓迎してくれるのは嬉しいのですが、座る場所もありません。それに、たしかに床は丁寧に拭いてあるのですが、毛布や枕などはきれいには見えません。
「ご飯食べたか?(ギンカーオ・ルヤン・カー?)」と聞かれて「まだです(ヤンマイギン・クラップ)」と答えると、「食べろ食べろ」と言って食事を出してくれるのですが、アリの卵、いろんな昆虫が混ざった素揚げ、腐敗臭にしか感じられないソムタム(パパイヤサラダ)など、イサーン料理のオンパレードです。
「ソムタム」と言えばタイ料理を代表するパパイヤサラダですが、これは主にバンコク人の食べるもので正確には「ソムタム・タイ」と言います。一方、イサーン人の食べる「ソムタム・プララ」や「ソムタム・プー」というのは発酵させた魚やサワガニが入っていて、日本人からすれば発酵ではなく腐敗臭にしか感じられません。しかし、この体験も含めて何度かイサーン人と行動を共にしたおかげで、私は今ではほとんどのイサーン料理が食べられるようになりました。
話を戻しましょう。苦労したのは食事だけではありません。この部屋には台所というものがありません。水道はトイレの便器の横にひとつあるだけです。ではどうやって調理をするのかというとその便器の横の水道で水をくむのです。タイでは水道水は飲めませんからペットボトルの水を使いますが、食器を洗うのも、トイレをした後にお尻を洗うのも、その後手を洗うのも、入浴(「水浴び」といった方が正確ですが)もすべてその1つの水道でおこなわなければなりません。この部屋には私をいれて11人がいるのです。11人全員がトイレでお尻を洗うのも手を洗うのも、身体や頭を洗うのもすべてその1本の水道で済まさねばならず、食器の洗浄も、もちろん衣服の洗濯も、その1つの水道だけが頼りなのです。
「遠慮するな、泊まっていけ」と皆が言いますが、この部屋で私はどうやって眠ればいいのでしょう。しかし、外国人の私はスペシャルゲストのようで一番いい毛布を渡してくれました・・・。
この家族は比較的早く全員が寝ましたが、アパートの住民のなかには朝まで騒いでいた者も大勢いたようで、いい睡眠がとれたとはとても言えませんでした・・・。
翌朝私は何度も礼を言い、その部屋を出るときには「またいつでも泊まりに来てね」と言われました。私はその後もその夫婦にバンコクで何度か会っていて、今もときどき連絡をとりますが、あの部屋にもう一度行こうとは思いません・・・。
黒人と一緒に住むことはできないだと! それは黒人差別じゃないか! そんな発言はけしからん! ・・・! たしかにこういう意見は間違ってはいないでしょう。政治的には"正しい"からです。「ポリティカル・コレクトネス」というやつです。
いくら正しくても、私はポリティカル・コレクトネスにはうんざりします・・・。
注1注2:『新潮45』2015年4月号に掲載されている曽野綾子さんのコラム「人間関係愚痴話」(第47回)に詳しく書かれています。