GINAと共に

第49回 ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その2) (2010年7月)

 GINAと共に第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」で、いったん覚醒剤が入手しにくいクリーンな国になったタイが、再び<ドラッグ天国>になりつつある、ということを述べました。

 現地から伝わってくる情報によりますと、この傾向は2009年に増悪し、さらに今年(2010年)に入り覚醒剤の入手がいっそう簡単になり、新たに始める若者が急増しているそうです。

 いったい、どの程度の若者が薬物に手を染め出しているのか・・・。そのようなことを考えていたところ、偶然にもタイの覚醒剤に関する学術的なデータが発表されました。

 タイのチュラロンコン大学(Chulalongkorn University)の心理学部、タンヤラック研究所(Thanyarak Institute)、米国エール大学(Yale University)神経生物学部の共同調査により、タイでは特に若者の間で覚醒剤が乱用されていることが明らかとなりました。2010年7月15日のBangkok PostとThe Nation(共にタイの英字新聞)が報道しています。(下記注参照)

 報道によりますと、タイ全域で2009年に覚醒剤で摘発されたのはおよそ12万人で、今年は既に10万人を越えているそうです。2008年、2009年、2010年と加速度的に覚醒剤が流通しているというのは、私の元に現地から届く情報と一致しています。

 特筆すべきは、新たに覚醒剤を始めた者の65%が10代、もしくは大学などに通う若い世代ということです。また、覚醒剤を新たに始めた3人に1人は15歳から19歳だそうです。(言い換えると、新たに覚醒剤に手をだした3分の1が15~19歳、3分の1が20歳以上の学生、残りの3分の1が学生以外ということになります)

 ここで、タイの覚醒剤はどのようなタイプのものが流行しているかについて述べておきます。

 タイでは、以前からそれほど純度の高くないメタンフェタミンの錠剤が主流です。これをタイ語で「ヤー・バー」と言います。ヤーは「薬」、バーは「バカ」という意味です。つまり「ヤー・バー」とは「バカの薬」という意味で、なかなか上手いネーミングです。

 この「ヤー・バー」という言い方は、特定の人たちが使うスラングというよりも広く一般に知れ渡っている市民権を得た言葉です。少なくとも日本人が覚醒剤のことを「エス」とか「スピード」とか言うよりも広く使われています。実際、今回取り上げているBangkok Postの新聞記事のタイトルは、「Researchers puzzle over high rate of 'yaba' abuse」(「ヤー・バー」の乱用で研究者らが当惑)となっています。

 ヤー・バーがそれほど純度が高くなくマイルドな(?)覚醒剤であるのに対し、ここ数年間若い世代に、特に少しお金に余裕のある若い世代に人気があるのが、メタンフェタミンの透明の結晶で、俗に「アイス」と呼ばれているものです。「アイス」は見た感じが透明で氷のようであることと、溶かしたものを静脈注射すると、あたかも氷が体内に溶け込んだかのような冷たい感覚が全身を駆け巡ることから、ピッタリのネーミングであり、日本人も含めて世界中のジャンキーからこのように呼ばれています。(GINAと共に第5回「アイスの恐怖」も参照ください)

 ただし、タイ人はアイスのことを「アイ」と言います。(少なくとも私にはそのように聞こえます) これは、タイ語独特の末子音を発音しない言語学的な理由からです。タイ人と少し話せば分かりますが、彼(女)らは、ハウス(家)のことを「ハウ」、ポリス(警察)のことを「ポリ」と言いますが、「アイ」もこれらと同様の理由です。

 話を戻しましょう。ヤー・バーが比較的安価で流通しているのに対し、純度の高いアイスはそれなりの値段がついているため、一部の金持ちにしか出回っていないと言われています。今回の共同調査では、報道記事の文脈からヤー・バーのみについて調べられているような印象を受けますが、流通量はヤー・バー>>アイスであることが予想されますからある程度は正確なのではないかと思われます。

 「タイは覚醒剤に関して世界で最も深刻な状況にある・・・」

 Bangkok Postは、ある学者のこのようなコメントを紹介しています。実際、2010年には既に10万人が摘発されていることを考えると、これは間違ってはいないでしょう。

 私自身の実感としては、タイよりも日本の方が少なくとも覚醒剤に関しては深刻度が高いように感じているのですが(そもそも、覚醒剤(ヒロポン)が歴史上一時的にでも合法だったのは日本だけなのです!)、データはタイの方がより深刻であることを物語っています。

 国立精神神経センター精神保健研究所が実施している「薬物使用に関する全国調査」(2007年)によりますと、日本人の覚醒剤の生涯経験率はわずか0.44%となっています。日本人の人口が1億2千万人として、0.44%は約53万人となります。一方、タイ人は2009年だけで13万人、今年はすでに10万人突破というのですから、(生涯経験率と年間摘発者を単純に比較するのは無理がありますが)タイ人の方が覚醒剤に汚染されている割合は高いということになるでしょう。(参考までに、タイの人口は約6千万人で日本のおよそ半分です)

 GINAと共に第25回でも述べたように、実際には「日本に帰ると覚醒剤に手を出してしまいそうだから(日本よりも入手しにくい)タイに滞在している」という元ジャンキーもいますし、私の医師としての実感でも、日本の覚醒剤依存症の患者は決して少なくありません。ちなみに、2007年に発表されたオーストラリア国民薬物委員会(Australian National Council on Drugs)のデータでは、オーストラリア人の1割は覚醒剤を経験したことがあるそうです。これらを踏まえると、国立精神神経センターの日本人を対象とした調査は、果たして実態を反映しているのか・・・、と正直に言えば、私はこの調査の信憑性を疑っています。

 話を戻しましょう。日本の実情はともかく、現在タイが覚醒剤に関して相当深刻な状況にきているのは間違いなさそうです。「日本に帰ると・・・」と言ってタイに滞在していた日本人の元ジャンキーも、もしかするとタイは危険と考えて第3国に移動しているかもしれません。(あるいは再びジャンキーに舞い戻ってしまったのでしょうか・・・)

 それから、私がタイの薬物に関して「マズイな・・・」と思うことがもうひとつあります。それは、隣国であるラオスやミャンマーでの薬物入手が簡単になっているということです。特にラオスではそれが顕著で、首都のビエンチャンやいくつかの地方都市ではごく簡単にそれも相当安価で入手できるそうなのです。そして、ラオスからタイに持ち込むこともそれほどむつかしくないと聞きます。

 このサイトで何度も取り上げているように、タクシン政権は薬物に関しては「疑わしき者は殺せ」というポリシーをとっていました。このため、一説によると、冤罪で警察に射殺された人が数千人に上るとも言われています。タクシン政権の頃は、素人が違法薬物を隣国から持ち帰るなどということは事実上不可能だったわけです。それが、今では普通の若者がおこなっているそうなのです。

 覚醒剤は本当に恐ろしいものです。最初は遊びでアブリ(吸入)だけのつもり、しかし耐性ができアブリでは効果が半減し静脈注射へ、針が入手しにくいため使いまわし、そして・・・。私はこのような経路でHIVに感染したタイ人をこれまで何人もみてきました。

 覚醒剤の犠牲者をこれ以上だしてはいけません・・・。


注:上記調査の報道は下記を参照ください。
Bangkok Post 2010年7月15日「Researchers puzzle over high rate of 'yaba' abuse」
The Nation 2010年7月15日「Methplagued Thailand assists study on addiction, genetics」

参考:
GINAと共に第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」
GINAと共に第5回(2006年11月)「アイスの恐怖」
GINAと共に第13回(2007年7月)「恐怖のCM」
GINAニュース2007年2月6日「オーストラリア、10人に1人が"アイス"を経験」