GINAと共に

第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~

 「豊かな青春、惨めな老後」

 これは、私がGINAの関連でタイに頻繁に渡航していた2000年代半ばに、日本人の長期滞在者から繰り返し聞いた言葉です。この言葉の作者は不明ですが、今はなき伝説の安宿「楽宮ホテル」のトイレに書かれていた落書きがオリジナルではないか、という話を何度か聞いたことがあります。

 バンコクの安宿に"沈没"し、日常生活に戻れなくなってしまった人々が、言わば自分たちを自嘲するときによく引き合いに出すのがこの言葉です。初めからバンコクにやって来る人もいれば、バックパッカーとして世界各地を旅行して、最終的に最も居心地の良いバンコクにハマってしまった人もいます。

 楽宮ホテルはバンコクのヤワラーと呼ばれる中華街にあり、このホテルに滞在していた日本人の若者の生活を描いた小説『バンコク楽宮ホテル』は今でも読み継がれていると聞きます。楽宮ホテルは、1970年代から80年代にかけてお金のない日本人が集まってくるホテルとして有名だったのです。次第に日本人の長期滞在者が増え、空き部屋がなくなるようになり、あふれた日本人が次に利用しだしたのが同じくヤワラー地区にあった「ジュライホテル」と言われています。そして楽宮ホテルは閉館することになります。

 ジュライホテルは1980年代後半あたりから日本人に注目されるようになり、90年代に入ってからは宿泊者のほとんどが日本人だったそうです。しかし、売買春と違法薬物があまりにも氾濫したこともあり、1995年に閉館することになります。

 私がタイに頻繁に渡航していた頃、売買春の実態を知りたくて、タイに長期滞在している日本人何人かに話を聞いたことがあります。当時30~50代の彼らは、興味深いことにほとんど全員がジュライホテルに泊まったことがあると言います。ジュライホテルを知らない日本人などいなかったと言うのです。それだけではありません。ジュライホテルを住処にしていた伝説のセックスワーカー「ポン」(ポームと呼ぶ人もいました)の話が必ず出てくるのです。そして、実際にポンと関係を持ったと証言した日本人男性もいました。

 ポン(ポンさん?ポン氏? ここでは他界されていることもあり「ポン」とします)の死因はエイズです。そのためポンからHIVに感染した日本人男性も大勢いることが予想されますが、私が聞き取りをした範囲では実際にポンから感染した日本人男性はひとりもいませんでした。

 ジュライホテルが閉館した後、このような日本人の定宿となったのはやはり同じくヤワラー地区にある「台北ホテル(台北旅社)」です。台北ホテルには私も一度宿泊したことがあります。ジュライホテルをよく知る者に聞くと、「ジュライホテルと雰囲気はよく似ている。何人もの売春婦が住んでいるのも同じ」だそうです。台北ホテルを私に紹介してくれた日本人は「医者のあんたが泊まるようなとこじゃないよ」と言っていましたが、意外にも(?)私はこのホテルが気に入りました。もっとも、お金のない私は窓のある部屋でホットシャワーがあればそれで満足できるのですが。

 ちなみに、私は宿泊代をいつも節約しますが、窓だけはどうしても譲れません。日本ではいくら安い宿に泊まっても窓がないということはあり得ませんが、アジア諸国では香港やシンガポールでさえもよくあります。窓のない部屋で寝なければならないというあの圧迫感は私には耐えられません。こんな私は贅沢なのでしょうか。ネット上でホテルを探すときの検索条件に「窓あり」というのを入れてほしいのですが、なぜかこのような設定はありません。他の人は窓にこだわらないのでしょうか。

 私が泊まった台北ホテルの部屋は冷房の有無は覚えていませんが、たしか1泊250バーツ(約750円)だったと記憶しています。幸運だったのは、おそらくその部屋に以前長期滞在していた宿泊者が自分で電気式の湯が出る装置をシャワーに付けていてくれていたことです。250バーツの部屋でホットシャワーが装備されていることは普通はありません(注1)。

 話を戻します。台北ホテルの1階に置かれている椅子に座り、今にも故障しそうなボロボロのエレベータの前で日本人と思わしき男性を見かけると声をかけていたのですが、このような方法だと怪しまれるのか、ほとんどの人が「しゃべりかけないでくれ・・・」という感じで去って行きました。やはり、こういうインタビューは人から人を紹介してもらうのが最適です。

 さて、随分前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいことは、タイで惨めな老後を過ごし、帰国せずにタイで他界する日本人が増えていること。さらに死亡しても日本に残っている遺族が渡タイせず、「一切関わりたくない」といって遺骨の引き取りも拒否することが増えているという事実です。数年前からこのような話をちらほらと聞くようになり、タイ総領事館によれば統計上も増えてきているそうです。

 私はこのような話を聞く度に冒頭で紹介した「豊かな青春、惨めな老後」という言葉を思い出します。私が2000年代半ばにインタビューした人たちは大丈夫なのだろうか・・・、と思わずにはいられないのです。

 ところで、自虐的に「豊かな青春、惨めな老後」などとうそぶく人にはどのような人が多いのでしょうか。先に述べた『バンコク楽宮ホテル』という小説、実は私はあまり好きになれませんでした。それに、タイ人と恋愛をしている日本人男性の話は微笑ましく思えるのですが、買春を繰り返しているタイプの日本人にはやはり抵抗を持ってしまいます。では、彼ら全員が日本では働けないようなどうしようもない人たちなのかというと、そういうわけではありません。

 意外なことに、私が取材した範囲で言えば高学歴者も少なくないのです。元大手企業の社員や元教師という人もいました。学歴でいえば中卒高卒よりもむしろ大卒が多いのです。なかには、この人これではまともな社会生活はむつかしいかも・・・、と思える人もいましたが、これだけ人が良すぎると日本の社会のギスギスした雰囲気には馴染めないだろうな・・、と感じる人もいました。

 しかし、買春や違法薬物に耽溺する好意を持てない人たちにも、高学歴で人当たりのいい人たちにも共通する、私が「否定的」に感じたことがひとつあります。それは、「友達をつくろうとしない」ということです。友達をつくるのが苦手だからタイで引きこもっているのかもしれませんが、彼らの社交性というか閉鎖性には疑問を抱きました。なかには日本人どうし、毎日同じ食堂でダラダラと何時間もだべっている中高年男性のグループもいましたが、まず間違いなく外国人と交流を持とうとしません。タイ人と話すのも、ホテルや食堂の従業員を除けば、売春婦とドラッグの売人くらいなのです。

 西洋人はこの点で異なります。たしかにドイツ人が集まるバー、スウェーデン人が集まるバーなどはそれらの国出身の者が集まりますが、彼らは他国の西洋人とも話します。私はGINAの取材にかこつけて、彼らとも随分話をしましたが、日本人の私にもオープンに接してくれます。一方、安宿に長期滞在している日本人は日本人としか話をせず、しかも、日本人どうしでも交流が非常に狭い範囲なのです。西洋人どうしが仲良く話している光景が珍しくないのに対し、日本人は西洋人はもちろん、中国人や韓国人ともほとんど話をしません。

 最近、私が懸念していたこのことが内閣府の調査で明らかとなりました。日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの高齢者の国際比較がおこなわれ、「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」についての設問で、「いない」と答えた割合は、日本が25.9%と最多です。そして、近所の人と「病気のときに助け合う」割合は、最も高いドイツが31.9%だったのに対し、日本は最下位でわずか5.9%しかありません(注2)。

 この統計が正しいとすると、日本人は、もともと日本人どうしでさえも、親しい友人が少なく、病気のときに助け合うことをしないようです。「近所の人」が外国人になればますますその傾向が強くなるに違いありません。

 ということは、これからもタイで孤独死していく日本人高齢者が増えていくのではないでしょうか。買春を繰り返すような人はそのうちHIVに感染しエイズを発症し死に至るでしょう。そして、日本の遺族に「一切関わりたくない」と言われる・・・。まさに「惨めな老後」です。

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注1:ちなみに「台北ホテル」も2015年5月31日をもって閉館となりました。楽宮ホテル→ジュライホテル→台北ホテルと続いてきた「日本人御用達のドラッグと買春にまみれた伝説の安宿」もこれら三代で消滅したとみる向きが多いようです。では、こういった安宿を拠点に沈没していた人たちはどこへ行ったのでしょうか。私が知る限りでは、カンボジアがそのような地区になりつつあるようです。

注2:内閣府のこの調査は下記URLで閲覧することができます。本文で述べた「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」は図1-3-6に、近所の人と「病気のときに助け合う」は図1-3-5に載っています。

http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/gaiyou/pdf/1s3s.pdf