GINAと共に

第169回(2020年7月) 差別をなくす2つの方法

 前回のコラムでは、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」が脅かされるときに起こると述べました。「差別はなくならない」は現実であったとしても、この差別のメカニズムを考えれば、差別をなくすには2つ方法があることが自ずと分かります。

 1つは「自分の世界との境界を変える」です。これを説明するために有名な心理学の実験を紹介しましょう。それは泥棒洞窟(ロバーズ・ケーブ)実験という1960年代に米国で行われた実験です。

 11歳から12歳の22名の少年を集め2つのグループに分け、それぞれのグループで社会生活をさせました。最初は別のグループがあることを隠しておき、1週間後、別のグループがいることをそれぞれに伝え、野球の試合をおこなわせました。すると自分たちのグループでの結束が固まり、相手のグループに対しては敵対心が生まれたのです。その後、グループ間で花火や食事などをさせましたが、相手グループのメンバーへの敵対心は変わりませんでした。しかし、2つのグループが共同して取り組まねば解決しない課題を与えると敵対心が友好関係に変わっていったのです。

 前回は白人の警官に踏みつぶされ窒息した米国の黒人ラッパー(ジョージ・フロイド氏)のことを取り上げました。米国の黒人差別は深刻と聞きますが、差別が絶対におこらない「組織」もあります。例えば、自分が所属するアメリカンフットボールのチームがリーグ優勝を狙っていたとして同じチームの黒人選手を差別することはありません。このチームのファンの心理も同様です。

 オリンピックに出場する米国の黒人選手を応援しない白人の米国人はほぼ皆無でしょう。泥棒洞窟実験から明らかなように、スポーツは最もわかりやい例のひとつであり、"敵"をつくれば同じ世界に所属するメンバーとは友好関係が築けるのです。

 泥棒洞窟実験の後半は差別解消のヒントを示しています。共に協力しなければならない課題が与えられたときに敵対心は友好関係へと変わります。これが現実社会で生じている例に科学の世界があります。例えば、現在新型コロナウイルスが猛威を振るい世界を大きく変えてしまいました。現時点で有効なワクチンや特効薬があるとは言えず、また後遺症を残すことも明らかになりつつあり、外出制限を強いられる国や地域もあります。

 このような状況で、例えば黒人の科学者が画期的なワクチンを開発したとして、「黒人のつくったワクチンはいらない」と言う白人は皆無でしょう。世界が一丸となって新しい感染症に立ち向かうシーンでは、その感染症が深刻であればあるほど人が人を差別することはなくなっていくわけです。
 
 ですから、すぐに世界中の差別をなくそうと思えば、例えば宇宙人に攻めて来てもらえばいいわけです。地球上に住む人間全員が協力しなければ皆殺しにされてしまう敵が攻めてくるなら、人種や国籍、性別に関係なく我々が一丸となれるのは間違いありません。そこに差別が生まれる余裕はないのです。

 ですが、実際にこんな方法で差別をなくすことはできません。新型コロナは脅威ですが、外出制限をして密なところに行かなければ自身は感染しません。この程度の脅威であれば差別がなくなるほどの影響はありません。何もしなければ地球に住む人間全員が殺されてしまうような状況にならなければ人間社会から差別はなくならないでしょう。

 そこで、差別が生まれるもうひとつの条件を考えてみましょう。「自分が他者より優位であることの確保」の方です。2つのグループがあったとして、自分たちがマジョリティであり、相手よりも偉いんだ、という気持ちが差別を生み出します。女性差別、人種差別、部落差別などを思い出せば明らかでしょう。ここには「相手よりも自分たちが優位となって当然だ」という気持ちがあります。

 では、なぜ自分たちが相手よりも優位とならなければならないのでしょう。これはおそらく動物的な"本能"だと思います。弱肉強食という言葉が示すように、動物の世界では貴重な食糧を得るには相手に勝たねばなりません。つまり、動物というのは元々見ず知らずの相手を警戒するものであり、常に自分が優位でいなければ殺される、食料にありつけない、あるいは伴侶に巡り合えないといったリスクがあるわけです。

 実際、人間社会でもこういった動物的な"競争"が存在しています。ビジネス界で生き残れなければ、失業し食べるものがなくなりパートナーを得られるチャンスは激減します。だから、他人よりも偉くなり優位に立たなければならないと考えるのには一理あります。もしもすべての人間がこのような考えに捉われて「人生は競争だ」と考えたとすれば、差別は永遠になくならないでしょう。

 ですが、人間は社会的動物です。競争しなくても生きていけるのです。競争社会に身を投じ身体をボロボロにするよりも、そんな競争社会から降りてしまって気楽に生きるという選択肢もあるのです。そして、そういう考えを持てば自然に「差別がばからしい」と思えるようになります。

 実は私自身は若い頃にはそれを意識していたわけではないのですが、初めから競争社会には興味がありませんでした。それをコラム(「競争しない、という生き方」)に書いたこともあります。私には、同じ会社の同期と競争するとか、店を経営してライバル店と競争するとか、そういったことがものすごく馬鹿らしいのです。そんなことを考える人たちこそを"差別"したくなってくるのです。

 そもそも他人と自分を比較することにどれほどの意味があるのでしょう。サバンナで生きる動物のようにライバルを殺さなければ自分が殺されるのでしょうか。そして、元々そういう考えを持っていた私が、他人と自分を比較することがまったく馬鹿げていることを確信するに至ったのがタイのエイズ施設での経験です。死期のせまったエイズの患者さんと接していると、次第に「なんで自分は医師で、彼(女)らは患者なんだろう」という気持ちが強くなってきました。

 このことは最近別のところ(「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」)にも書きました。私が日本に生まれ、恵まれた家庭ではなかったとしても大学までいかせてもらい、その後就職して貯金をつくり医学部受験ができたのは、仮に私の努力が報われた側面があったのだとしても、それはわずかなものであり、今の私がある最大の理由は「運」に他なりません。タイのイサーン地方の村で生まれ、小学校にも行かせてもらえず、大人たちから繰り返し性的虐待を受け、HIVに感染しエイズを発症した少年は努力を怠ったからそうなったわけではないのです。

 つまるところ、人生のほとんどは「運」で決まるのです。黒人として生まれるのも、性的嗜好がストレートでないのも、被差別地域で生まれるのも、震災の被害に遭うのも、あるいは新型コロナウイルスに感染するのも「運」なのです。それが理解できれば、自分及び自分たちのグループが相手のグループよりも優れているなどと考えること自体が馬鹿げていることに気付くのではないでしょうか。

 私はなぜ差別を許せないのか、これはGINA設立当時から考え続けていることです。今、その問いに答えを出すとすれば「差別する側の人間が運の有難みに気付いていないその無神経さに苛立たされるから」となります。