GINAと共に

第188回(2022年2月) マジックマッシュルームは精神疾患の治療薬となるか

 第155回(2019年5月)の「GINAと共に」「デンバーでマジックマッシュルームが合法化」で、タイトル通り、米国コロラド州デンバーでマジックマッシュルームが合法化されたことを紹介しました。

 その後、米国の他の地域でも動きがあり、世界各地でマジックマッシュルームの臨床応用に期待する声が上がっています。果たして、うつ病や不安症、あるいは他の精神または身体症状にマジックマッシュルームが使える日が来るのでしょうか。今回は、米国の動きを中心に今後の展開についてまとめてみたいと思います。

 デンバーが全米初のマジックマッシュルーム合法の市となった2019年5月8日からおよそ1か月後の年6月4日、今度はカリフォルニア州のオークランドで事実上合法化されることが報道されました。

 翌年の2020年2月4日、カリフォルニア州のサンタクルーズ市でも事実上の合法化が決まりました。CNNは「(マジックマッシュルームが合法化された)3番目の都市」と報道しています。

 さらに、2020年9月21日、今度はミシガン州のアナーバー市がマジックマッシュルームを事実上合法化することを決めました。AP通信は、合法化支持者が「マジックマッシュルームは麻薬中毒の治療薬となる」と主張していると報じています。

 そして、2020年11月4日、オレゴン州が州としては全米で初となるマジックマッシュルームの合法化を発表しました。地元メディアによると、同州では精神疾患の治療目的のみならず、マジックマッシュルームが「自己啓発(personal development)」の目的でも使用されることになりそうです。

 2021年3月15日にはワシントンDCが非合法化しました。地元メディアは、マジックマッシュルームがうつ病やPTSDの治療になる可能性を指摘しています。

 2021年10月4日、米シアトル市議会がマジックマッシュルームなどの幻覚剤の非商業目的での使用許可を全会一致で決定したことを地元メディアが伝えました。もっとも、シアトルではこれまでも個人使用でなら逮捕されない政策があったようで、今回の市議会の決定は、宗教や医療が堂々とおこなえるようになることを目的としたものと言われています。

 大麻と比べれば地域が限られているとはいえ、ここまでくればマジックマッシュルームがごく簡単に使用できるようになったといえるでしょう。当面の間、医療目的に限定されることが多いでしょうが、上述したようにオレゴン州では「自己啓発」での使用もOKとされたわけです。米国のなかでも流行の先端とみなされているオレゴン州でのこの決定は全米に、そして全世界に影響を与えるのは間違いありません。

 では、マジックマッシュルームは医薬品としてどの程度有効なのでしょうか。

 上記のニュースが報道される前、つまりまだ世界のどこでも合法化されていなかった2018年10月29日、オランダのメディアが、マジックマッシュルームを「微量摂取(microdosing)」することにより、幻覚をみるのではなく、気分の改善や集中力の向上に使用できるとする研究についての報道をおこないました。ただし、研究は発展途上であり、マジックマッシュルームが抑うつ状態や不安症状の改善効果があることを確認するには、さらなる調査が必要だとも述べています。

 では、米国ではマジックマッシュルームの臨床効果が確認できたから合法化されたのでしょうか。各紙の報道を読む限り、そうではなさそうです。先に紹介したオレゴン州での合法化を報じたメディアによれば、正式なマジックマッシュルームによる精神疾患の治療が開始されるまでには少なくとも2年間は待つ必要があり、大麻やアルコールのように流通するわけではありません。しかしその一方で、治療だけでなく自己啓発にも使用されると述べられていることが興味深いと言えます。

 論文も紹介しておきましょう。医学誌「Journal of Psychopharmacology」2016年12月号に「サイロシビンは生命を脅かすがん患者のうつと不安を実質的かつ持続的に減少させる:無作為二重盲検試験 (Psilocybin produces substantial and sustained decreases in depression and anxiety in patients with life-threatening cancer: A randomized double-blind trial)」というタイトルの論文が掲載されました。「サイロシビン(psilocybin)」というのはマジックマッシュルームの主成分で幻覚作用がある物質です。

 この研究の対象者は51人のがん患者で、超低用量群(プラセボ群)(サイロシビン投与量は1または3mg/70kg)と高用量(22または30mg/70 kg)のグループに分けられました。高用量のグループでは、生活の質の向上や死の不安の減少などが認められ、抑うつ気分および不安感が大幅に減少しました。 6か月後も効果は持続しており、対象者の8割は、抑うつ状態と不安感の減少が維持されていました。

 医学誌「JAMA Psychiatry」2020年11月4日号に「うつ病に対するサイロシビン療法の効果(Effects of Psilocybin-Assisted Therapy on Major Depressive Disorder)」というタイトルの論文が掲載されました。この研究の対象者は合計27人の米国在住者で、調査期間は2017年8月から2019年7月です。こちらも研究の対象者が多くないとはいえ、うつ病に対する有効性が認められています。

 医学誌「pharmaceuticals」2021年9月28日号には「抗うつ治療戦略としてのサイロシビンの再発見 (Rediscovering Psilocybin as an Antidepressive Treatment Strategy )」というタイトルの論文が掲載されました。この論文は、これまで発表されたサイロシビンに関する研究を総括しなおしたもので、「抗うつ薬としてのサイロシビンの治療効果は高い」としています。

 サイロシビン(マジックマッシュルーム)は抑うつや不安感のみならず、薬物依存に有効とする研究もあります。医学誌「The American Journal of Drug and Alcohol Abuse」2016年8月24日号に掲載された論文「薬物依存症の治療法として、サイロシビンを検討すべき時が来た (It's time to take psilocybin seriously as a possible treatment for substance use disorders)」にまとめられています。

 マジックマッシュルームの臨床について、2022年1月12日のThe New York timesが興味深い記事を掲載しています。同紙によると、起業家らはオレゴン州での合法化を受けてサイロシビンの研究にすでに数千万ドル(tens of millions)も費やしているそうです。あと5年もすれば、サイロシビンの錠剤が一部の依存症の治療薬としてFDAの承認を得るに充分なエビデンスが集まると言及しています。

 The New York timesはもうひとつ興味深い指摘をしています。標準量(standard dose)とマイクロドージングを区別しなければならないと強調しているのです。「マイクロドージングは標準量の1割で、(バッドトリップなどの)副作用を大きく減らして精神症状を改善させる」としています。

 今後、ますますマジックマッシュルームの有効性が検証され、やがて医薬品として使用される日が来るのはほぼ確実のように思えます。しかし、安全性が担保されているとは言えません。都市や州が合法化したことと安全性には何ら関係がないのです。

 その証拠を示すこともできます。先に紹介したオレゴン州の地元メディアによると、マジックマッシュルームが合法化された2020年11月4日、同州は、同時にヘロイン、コカイン、メタンフェタミン、エクスタシー、LSD、メサドン(麻薬)、オキシコドン(麻薬)も合法化しているのです。この法改正によりこれら依存性薬物に対する依存症患者が増え、その結果HIV陽性者が増加することを懸念する声がなぜ上がらないのか、私には不思議でなりません。

記事URL

第187回(2022年1月) 性別適合手術は日本では普及しない

 私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではトランスジェンダーへの性別適合手術もホルモン治療も実施していません。しかし、GINAのサイトをみた人達から、これらに関する問い合わせがしばしば入ります。タイでの性別適合手術に興味があるという人が少なくないからです。
 
 周知のように、タイでは美容外科と並び性別適合手術が世界的に有名であり、全世界から希望者が集まっています。新型コロナ流行後はタイ渡航が極めて困難になり、現地駐在員やその家族(現地採用者は困難なようです)、エリートカードを持っている人などを除けばタイへの入国がほぼできません。にもかかわらずタイ政府は性別適合手術が目的の外国人に対しては比較的簡単にビザを発行しています。国自体が奨励している「ビジネス」と呼べるかもしれません。

 今回は日本でのトランスジェンダーの性別適合手術の「歴史」を振り返り、最終的に「日本では普及しない」と私が考えている理由を述べたいと思います。

 その前に言葉を整理しておきましょう。出生時の性とは異なる性への外科手術のことを以前は「性転換手術」と呼ぶことが多かったのですが、現在は「性別適合手術」という表現が一般的です。これは「転換」(元々のものを換える)のではなく、元々"異なっていた"身体の外見を本来の「性」に"適合"させる手術だから、という考えに基づいています。では性別適合術の歴史を振り返ってみましょう。

 性別適合手術の歴史は意外に古く、1930年に実施されたデンマークの画家リリー・エルベに対するM→F(男性→女性)の手術が世界初だと言われています。陰茎切断のみならず、複数回に渡り卵巣及び子宮の移植もおこなわれたのですが、免疫抑制のコントロールがうまくいかず、リリーは1931年に他界しました。2015年の映画『リリーのすべて』はリリー・エルベの生涯を描いた名作です。

 実は日本の歴史も意外に古く、1950年には日本医科大学付属病院などでM→Fの手術がおこなわれ成功しています。ところがその後、性別適合手術のイメージ悪化につながる「ブルーボーイ事件」が起こりました。「ブルーボーイ」とは男娼のことです。

 1964年、東京都のある診療所の産婦人科医が性別判定の十分な診断をしないまま男娼に対する性別適合手術をおこない、これが優生保護法違反とされ、1969年に有罪判決を受けたのです。

 その後、性別適合手術には否定的なイメージがつきまとい、いわばタブーとみなされ、国内での手術はいくつかの特殊なクリニックでおこなわれるのみとなりました。しかし、ブルーボーイ事件からおよそ30年後の1998年、歴史に残る性別適合手術が埼玉医科大学総合医療センターの原科孝雄教授の手によって施されました。それまでは良い印象を持たれていなかった性別適合手術がようやく陽の目を見るようになったのです。そして、今後は全国的に広がるのでは?と期待されました。

 ところが、そうはなりませんでした。その理由のひとつが、海外、特にタイでの手術の普及です。1990年代後半、アジア通貨危機の影響を受け、タイの医療機関が性別適合手術を外国人向けに提供するようになりました。高い技術に加え安いバーツで世界各国から手術を希望するトランスジェンダーを集め、また、これがビジネスになると考えたいくつかの企業や個人があっせん業に乗り出し集客に勤しむようになったのです。

 そんな時代からおよそ10年が経過した2007年、日本国内で2つの大きな「出来事/事件」が起こりました。

 ひとつは先述の原科孝雄教授が埼玉医科大学総合医療センターを2007年3月に定年退職したことです。引き継ぐ医師がほとんどおらず、同センターでの手術件数は大きく減少し、現在ではほとんど実施されていないと聞きます。

 もうひとつの事件は大阪で5月に起こりました。大阪市北区で「わだ形成クリニック」を開業し性別適合手術を積極的におこなっていた和田耕治医師が院内で突然死したのです(死因は不明)。

 ガイドラインに従わず、独自の考えで90年代から性別適合手術を手掛けていた和田医師は、多くの形成外科医から異端児扱いを受け、同院の手術は「非正規ルートの手術」「ウラの手術」などと呼ばれていました。しかし、谷口医院のトランスジェンダーの患者さんの話によれば(ちなみに谷口医院はわだ形成クリニックの近くにあります)、和田医師のトランスジェンダー達からの評判は軒並み良くて、一部の人たちからは神のように崇められていました。和田医師の死後も「あたしはあの伝説の和田先生に手術をしてもらったの」と診察室で自慢げに語るトランス女性もいるほどです。

 国内の性別適合手術は2007年以降も一部の病院やクリニックなどでおこなわれていましたが、症例はさほど多くなく、タイを筆頭とする海外での手術件数には遠く及びませんでした。

 そんななか転帰が訪れます。2018年4月、保険診療制度が改定され性別適合手術が保険適用となったのです。私がこの情報を聞いたとき、これで日本人トランスジェンダーのタイでの性別適合手術は激減するかな、と一瞬考えたのですが、その後すぐに日本では普及しないと結論するに至りました(当時の「GINAと共に」でもこの件は取り上げませんでした)。

 その最大の理由は「ホルモン治療には保険適用がなく、手術を保険でおこなうのは混合診療に該当する」からです。日本では混合診療は認められておらず、ホルモン治療を自費診療で受ければ手術も自費になってしまいます。当初はホルモン治療を自費のクリニックでおこない、手術を病院で保険診療でおこなうことができるのでは?、と楽観視する意見もあったのですが、この考えは早々に打ち消されました。

2018年3月7日、厚労省が「性別適合手術の保険適用について」というタイトルの通知をし、「性別適合手術とホルモン製剤の投与を一連の治療において実施する場合は、原則、混合診療となる」という文章を"わざわざ"公表したのです(この通知は「日本性同一性障害と共に生きる人々の会」のウェブサイトに掲載されています)。要するに厚労省は「ホルモン製剤を使った患者には手術の保険適用を認めない」をルールにしたのです。

 ここで、当事者以外の人からよくある質問「ホルモン治療なしでいきなり手術はできないの?」に答えておきましょう。トランスジェンダーの診断は、原則としてホルモン剤をまず用いて、それで不都合がないことを確認せねばなりません。乳房切除のみの手術ならばホルモン治療なしで実施することもあると聞きますが、外性器の場合は原則としてホルモン治療を一定期間先におこなわなければならないのです。そのホルモン治療の保険適用を認めないということは、「厚労省は本当は性別適合手術を保険で認めたくないのでは?」と訝りたくなります。

 さて、ここで性別適合手術に関する非常に重要なポイントを指摘しておきましょう。当事者以外の人たちのなかには「トランスジェンダーは全員が性別適合手術を望んでいる」と考えている人がいます。ですが、私がGINAの活動を通じ、それなりの数の日本人、タイ人、それ以外の国籍のトランスジェンダーに話を聞いてきた経験で言えば、必ずしもそういうわけではありません。「手術を受けない今のままの姿でわたしの性自認を認めてほしい」というトランス男性(女性)も少なくないのです。

 「保険治療」というのはそもそも病気を治す治療に適用とされるものです。ということは、トランスジェンダーの手術前の状態は"病気"なのか、という疑問がでてきます。「性別適合手術は保険適用」があまりにも強調されると、事情を知らない他人は「(病気を治すために)早く手術を受けられるといいのにね」という当事者が傷つく言葉を善意から口にすることになるかもしれません。

 もちろん、一方では「一日も早く性別適合手術を受けたい。タイでの手術は不安だから日本で受けたい」と考えている人もいますから、そういった人たちのためには、ホルモン治療にも保険適用を認めた上で日本での性別適合手術を普及させるべきです。

 現時点では、「性には多様性がある。トランスジェンダーのなかにも多様性がある」ことを世間に周知させるのが先決で重要だと私は考えています。



記事URL

第186回(2021年12月) 薄れていくHIVへの世間の関心

 私の実感で言えば、HIVに対する世間の関心が最も高かったのは2008年です。そして、その後は一定のスピードでゆっくりとその度合いが低下しています。GINAへのメールでの問い合わせは依然たくさんありますが、それでもピーク時に比べると半分以下に減っています。新型コロナウイルスの影響もあるでしょうが、タイでボランティアをしたいという人はほぼ皆無となりました。

 最近はHIVに関するイベントを企画しても人が集まらないと聞きます。2010年頃までは、大学の学園祭でもHIV関連のイベントが多数開催され、私もその関連で講演をするために呼ばれたことが何度かあります。最近はHIV関連の講演で依頼を受けるのは、医療関係か教育関係(学生にではなく教師向けのもの)ばかりです。

 では、なぜ世間の関心が減ったのでしょうか。今回はこの理由を私見を織り交ぜながら明らかにしていきたいと思います。

 例えば、現在も世界各国で猛威を振るい歴史に残る感染症となった新型コロナを考えてみましょう。現在のワクチンは高い効果が期待できますが、それでも感染して死亡する人は少なくありませんし、安全性にも懸念があります。ですが、ワクチンが改良され、感染をほぼ100%防ぐことができて、副作用がほとんどなくなり、さらに安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬ができたとしましょう。こうなれば1年もしないうちに新型コロナは話題に上がることすらなくなるでしょう。

 HIVも、もしも有効で安全なワクチンができて、安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬が登場すれば、しかも飲み薬を数日間内服すれば完全に治るようになったとすれば、関心が低くなって当然であり、HIV関連のイベントなど誰も企画しようと思いません。

 では、そこまでは到達していないとしてもHIVはもはや恐れるに足りない感染症になったのでしょうか。ワクチンはなく、薬は「よく効いて副作用が少ない」、までは達成しましたが「安い」わけではありませんし「数日間で治る」わけではありません。依然として費用は高く(そのため障がい扱いとなり公費で自己負担を減らす手続きが必要)、生涯飲み続けなければならないことに変わりはありません。「飲み忘れれば耐性ができて薬が効かなくなり、エイズを発生するかもしれない」、というのは感染者にとって依然恐怖です。

 また、きちんと薬を内服しウイルス量をおさえられたとしても、少しずつ腎臓の機能が悪くなってきたり、骨がもろくなってきたりする人がいます。これらは抗HIV薬を変更したり、別の薬を足したりして凌ぐことはできます。ですが、HANDと呼ばれる認知機能が低下する現象を完全に予防することは現時点ではできません。「きちんと薬を飲んでいれば日和見感染を予防しエイズを発症しません」と言われても、「HANDを発症し認知症になるかもしれません」と言われればやはりこれは恐怖です。

 つまり、HIV感染は依然「何としてでも感染しないように努めなければならない感染症」なのです。

 社会的な観点からみていきましょう。GINAを立ち上げた2006年の時点では、HIV感染告知は、ある意味で「社会的な絶望」を意味していました。差別が蔓延し、学校でも会社でも感染していることを告げられず、家族へのカミングアウトも多くの人ができず、生涯パートナーができないと思い込んでいた人が多かったのです。エイズ拠点病院以外の医療機関はかなり多くのところが診療拒否をしていました。

 現在は少しずつ変わってきています。障がい者枠で就職することができるようになりましたし、家族へカミングアウトする人も今では珍しくなくなりました。会社や学校で全員にカミングアウトしている人はほとんどいませんが、それでも「仲の良い友達だけには伝えている」という声を聞く機会が増えてきました。では、着実にHIV陽性者が住みやすい社会になってきているのでしょうか。

 私見を述べれば、日本の実情は「以前より少しマシ」という程度であり、例えばタイとは大きな差があります。このサイトを立ち上げた頃に伝えていたように、2000年代前半まではタイは日本よりもひどい実情がありました。食堂に入ればフォークを投げつけられ、バスに乗ろうとすると引きずりおろされ、街を歩けば石を投げられ、家族からも地域社会からも追い出されていたのです。さらにほとんどの医療機関では門前払いをくらっていました。

 ところが、その後正しい知識が伝わることで激変します。一部の地域では地域住民全員で感染者を支えています。私が個人的に知るあるHIV陽性のタイ人は、大学時代も就職活動でも堂々と感染をカミングアウトしており、現在銀行員をしています。職場の誰もが彼がHIV陽性であることを知っています。

 翻って日本をみてみましょう。下記は、今年つまり2021年に私が直接HIVの患者さんから聞いたエピソードです。

・ある大手財閥グループの会社に「障がい者枠」で就職を希望した。面接時に「うちの会社は障がい者は積極的に雇用しているが、あなたの病気はすべて断っている。〇〇系のグループ会社すべてで同じ方針だ」と言われた。

・視力が低下してきたためにある大手チェーンの眼科クリニックを受診した。問診票にHIVと書くと、別室に呼び出され「あなたの病気があると診られない。これは当グループのすべてのクリニックで同じ方針だ」と言われた。

 たしかに、一部の外資系グループや、一部の大手建設会社のグループでは積極的にHIV陽性者を障がい者枠で雇用しています。ですが、上記の大手財閥グループの企業では一律に拒否しているというのです。医療機関は、10年前に比べれば随分と改善されてきましたが、受診拒否は今も珍しくありません。特にひどいのが眼科、耳鼻咽喉科、婦人科、それに歯科です。

 ところで、HIVの社会活動に関わりイベントの開催などを積極的におこなっている人たちはどのようなことを目的としているのでしょうか。これは大きくわけて2つあります。1つはリスクのある人に関心を持ってもらい早期発見のために検査を促し(無料検査の実施など)、そして予防(コンドームの使用の啓発、PrEP/PEPの広報など)をしてもらうことです。そして、もうひとつが正しい知識の普及につとめ感染者への差別・偏見をなくすことです。

 世間がHIVに対する関心を失えば、正しい知識が伝わらず差別や偏見がなくなりません。先述の大手財閥グループや医療機関で辛い思いをすることがなくならないわけです。そして、関心の低下は予防への意識低下とつながり、感染者が増加する可能性もあります。実際、私が院長を務める太融寺町谷口医院を受診する患者さんで、「危険な性行為があったので性感染症が心配」という人から「梅毒は気になるけど、HIVは大丈夫」と言われることがあり驚かされます。

 誤解を恐れずに言えば、梅毒など恐れる必要がまったくない感染症です。早期発見して治療をすれば完治するのですから。ワクチンがなくコンドームでも防げませんが、何度かかっても治療をすれば治ります。実際、「今回で梅毒は5回目で~す」などという患者さんもざらにいます。一方、HIVは感染すると生涯薬を飲み続けなければならず、飲み続けたとしてもHANDのリスクが残り、就職や医療機関受診でとても辛い思いをすることもあるわけです。

 恐怖心を煽るようなことはしたくありませんが、世間の関心が再び高くなることを願いながら2021年最後の「GINAと共に」を締めたいと思います。

記事URL

第185回(2021年11月) 米国の新しい違法薬物対策

 米国の違法薬物汚染が進行しているという話はこのサイトで過去に何度かおこないました(例えば、第161回(2019年11月)「パーデュー社の破産と医師の責任」、第137回(2017年11月)「痛み止めから始まるHIV」)。今回はまず、その「続編」と呼べる動きを紹介し、その後米国の新しい対策について述べたいと思います。

 2021年11月17日のWashington Postの記事「10万人の米国人がコロナ禍の12か月間に薬物過剰摂取で死亡 (100,000 Americans died of drug overdoses in 12 months during the pandemic)」によると、2020年4月から2021年4月の一年間で、薬物の過剰摂取で死亡した米国人は10万人以上に上ります。米国の人口は日本の約3倍となる約3億3千万人ですから、薬物による死亡者の割合が同程度だとすると、日本では約3万3千人となります。1998年から2011年まで日本の年間自殺者が3万人を超えていましたから、当時の自殺者全員が薬物により死亡したと考えれば米国の10万人がいかに異常な数字かが分かると思います。

 もう少し国際比較をしてみましょう。Washington Postの同記事に欧州諸国との比較が掲載されています。15歳~64歳の人口10万人あたりの薬物による死亡者は、米国が第1位で21人。2位との差を大きく引き離してダントツです。2位以下はノルウェー(5人)、スウエーデン(4.8人)、アイルランド(4.6人)、フィンランド(4.1人)と続きます。米国以外はすべてヨーロッパ北部であることも興味深いと言えます。

 米国の違法薬物の内訳をみてみましょう。先に紹介した過去のコラムでは「オキシコドン」(商品名はオキシコンチンが有名)が諸悪の根源であり、これらを販売していた製薬会社、なかでもパーデュー社に大きな責任があるという話をしました(ただし、そのコラムで述べたように、私自身は製薬会社よりも医師の責任が大きいと考えています)。

 ところが、現在では危険薬物の代名詞がオキシコドンから「フェンタニル」に変わっています。ここで麻薬の分類を確認しておきます。違法薬物にはたくさんのものがありますが、(狭義の)麻薬としてはコデイン、トラマドール、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルの5種類をおさえましょう(注)。このうち、コデイン(咳止めに入っています)とトラマドール(日本ではトラマール、トラムセットなどの商品名で処方されます)は「弱オピオイド」(弱い麻薬)、残りの3種、すなわち、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは「強オピオイド」(強い麻薬)と考えて差支えありません。

 ただし、誤解してはいけないのは弱オピオイドのコデイン、トラマドールでも依存性は充分にあることです。日本では、知らない間に薬局で売っている風邪薬や咳止め(ブロンが最も有名)でコデイン依存症になっている人も少なくありません。また、トラマドールは医師が充分な説明をしないまま患者さんが知らない間に依存症になってしまうこともあります。

 他方、強オピオイドのモルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは、医療に用いるのは日本では原則としてがんの疼痛緩和時のみです。しかし、米国では頭痛や関節痛、腰痛といった誰もが経験する慢性の痛みにも処方され続けてきました。そして、一気に広がったのが過去のコラムで紹介したオキシコドンです。オキシコドンはモルヒネに比べて作用が強力であるのみならず、副作用の便秘や嘔気・嘔吐が起こりにくいのです。

 ところが、2014年あたりからフェンタニルの消費量が増え始めその後急激な増加をみせます。Washington Postに掲載されたグラフによれば、2020年4月から1年間の全薬物での死亡者100,306人中、6割以上に相当する64,178人がフェンタニルが原因です。他方、日本では覚醒剤が第1位ですから、日米で大きな差があることになります。

 それにしてもフェンタニルを中心とした薬物で年間10万人以上が死んでいるというのは異常です。米国に比べれば、最近若者の間で大麻使用者が増えてきた......、などと騒いでいる日本はなんて呑気な国なのだろうと私には思えます。ちなみに、日本で大麻使用者が増えているという意見は正しくないと思っています。こんなもの、昔からちょっと手を伸ばせばいつでも簡単に入手できました(少なくとも関西では)。逮捕者が増えているのは、単にSNSなどで証拠を残す若者が多いからでしょう。

 では、米国ではこの異常事態に対してどのような対策を講じているのでしょうか。最近、バイデン大統領が興味深い発表をおこないました。米国のメディア「NPR」の10月27日の記事「薬物過剰摂取による死亡者多数のため、バイデン政権がかつてはタブーだった政策を取り入れる (Overdose deaths are so high that the Biden team is embracing ideas once seen as taboo)」から紹介します。

 同記事によると、バイデン政権はこれまで反対意見の多かったハーム・リダクションをついに開始しました。ハーム・リダクションとは分かりやすく一言で言えば「薬物を与え続けながら患者を見守ること」です。違法薬物だからと言って処罰を与えるのではなく、例えば、感染予防のために新しい注射器と針を支給したり、薬物の種類によってはより依存性の少ない別の薬物を与えたりする対策です。私が院長を務める太融寺町谷口医院でも、ベンゾジアゼピン依存症の人に対してはこの治療を取り入れています。

 麻薬のハーム・リダクションとしてはメサドン療法が有名で、タイではかなり普及しています。同記事にはメサドンの名前が出てきませんから、米国での具体的な方法は分かりませんが、注射器と麻薬を用意して、それを依存症の人に支給して医療者の目の前で摂取してもらいます。

 しかし、反対意見も小さくないようで、現在ニューヨーク市やフィラデルフィアではすでに開始されていますが、今後どこまで広がるかは不透明のようです。ハーム・リダクションには「なぜ、犯罪者の犯罪を助長するのだ」という声が必ず出てくるのです。

 カルフォルニアでは別の試みが始まろうとしています。2021年8月27日のAP通信の記事「薬物依存症の者への報酬支給を検討しているカリフォルニア(California looking to pay drug addicts to stay sober)」を紹介しましょう。

 タイトルからはカリフォルニア州が画期的な対策を考えだしたかのような印象を受けますが、記事を読むと、このような試みは連邦政府ですでにおこなわれていることが分かります。連邦政府は過去数年間、退役軍人のコカインや覚醒剤(メタンフェタミン)依存症者に報酬を払ってやめさせています。対象者は薬物検査を受け、結果が陰性であればいくらかの報酬を受け取れます。一定期間を過ぎれば数百ドルのギフトカードをもらうことができ、これを現金に換えることができます。

 現在カリフォルニア州はこれを住民を対象に実施できるよう連邦政府に申請しています。興味深いことに、同州では刺激系薬物(覚醒剤やコカインのこと)の過剰摂取による死亡者が2010年から2019年の間に4倍に増え、さらに増加しています。

 麻薬はハーム・リダクション、覚醒剤は報酬支給、と単純に分類できるわけではないでしょうが(例えば、麻薬にも報酬支給を試みてみてもいいかもしれません)、米国のこういった試みは注目に値します。

 日本の最大の薬物問題は何といっても覚醒剤です。なかには上手に付き合っているという声も聞きますが、私の知る範囲で言えば人生を破滅させる人が大半です。「初めから手を出さない」が私が以前から提唱している最善策です。しかし、いったん依存症になってしまった人に対する治療も考えなければなりません。自助グループなどの集団療法は確かに有効性があるのですが、そういった場に行きたくないという人も少なくありません。

 最後に先述のWashington Postから興味深いデータを紹介しておきます。それは米国の医師の麻薬処方量です。何年も前から異常事態が生じていることを実際に処方している医師が気付かないはずがありません。2012年には2億5千万枚以上の麻薬の処方箋が発行されていましたが、そこから減少に転じ2020年は約1億4千万枚と半数近くにまで減っています。しかし、麻薬依存症者は一貫して右肩上がりです。闇で入手する者が多いからです。

************

注:もう少し麻薬の定義を広げると、文章に登場した合成麻薬のメサドンも含まれます。さらに広げると、日本の疼痛管理でよく使われるペンタゾシン(商品名ではソセゴン、ペンタジンなど)、ブプレノルフィン(商品名ではレペタン、ノルスパンテープなど)なども入ります。

記事URL

第184回(2021年10月) PrEPについての2つの誤解

 GINAと共に第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」で、「日本でも今後HIVのPrEPが急速に広がっていくであろう。その最大の理由は医療機関で後発品を輸入することが認められるようになったからだ」と述べました。

 実際、その通りとなり、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)でも、PrEP希望で受診(オンライン診療を含む)される人が次第に増えてきています。しかしながら、私が当初予想していなかった「誤解」をしている人が目立つようになってきました。今回はよくある2つの誤解について述べたいとと思いますが、まずはPrEPの概略を確認しておきましょう。

 PrEPとは曝露前予防(Pre-Exposure Prophylaxis)のことで、HIVが体内に侵入する前に抗HIV薬合計4錠のみを内服して感染を予防する方法です。「PrEP」という言葉はHIVの専売特許ではなく、他の感染症でも用います。代表的なものにマラリアがあります。マラリアにはまだ広く普及しているワクチンがなく、マラリア浸淫地を訪れる際は予防薬を飲まねばならないことがあり、予防薬を内服することをPrEPと呼びます。介護施設などでインフエンザが発生したときは職員や患者さんの家族への感染を防ぐために抗インフルエンザ薬を内服(または吸入)することがあり、これもPrEPです。

 感染症を予防するためのワクチンはすべてPrEPと言えます。実際、狂犬病のように曝露後(犬などに咬まれた後)にでも使えるワクチンは、曝露後に使うときはPEP(Post-Exposure prophylaxis)と呼び、曝露前に使うとき(要するに通常のワクチンとして使うとき)はPrEPといいます。(例えばインドなどで)狂犬病を頻繁に診ている医師であればPEP/PrEPと言えば、おそらくHIVよりも先に狂犬病を思い出すでしょう。

 冒頭のコラムでもHIVのPrEPに関してよくある誤解について言及しました。それらはC型肝炎ウイルス(HCV)に関することと、オンデマンドPrEPについてです(オンデマンドPrEPについては今回も後で述べます)。しかし、PrEPが普及した今、「もっと大きな誤解」があることがわかりました。

 そのコラムで私は「PrEPの相談をされる人は性感染症に詳しいことが多く、B型肝炎ウイルス(HBV)のワクチンはすでに接種し抗体形成を確認していることが多い」と述べました。実際、昨年(2020年)までにPrEPの問合せをされてきた人のほぼ全員(日本人も外国人も)が、HBVのワクチン接種を完了し抗体形成を確認しているか、ワクチン接種の途中、または先にワクチンを受けるので抗体ができたことを確認してからHIVのPrEPを開始したい、という人でした。

 これは当然と言えば当然で、HIVのPrEPはHIVを防ぐものであり、他の感染症を防ぐことはできません。ただ、ちょっとややこしいことに、実はHIVのPrEPで用いる抗HIV薬はHBVにも効果があります。しかし、このためにHBVに感染したことのある人はPrEPを気軽に始められないという問題もあり、たしかにこのあたりは複雑です(HBVに感染したことがある人のPrEPは少し専門的すぎるので今回は触れないでおきます)。今回は「HBVに感染したことがなくてワクチンを受けていない人」の場合に限っての話を進めます。

 HIVのPrEPで用いる薬がHBVにも効果があるのなら、別にHBVのワクチンをしなくてもいいのではないか、という疑問が当然でてきます。しかし、これはまずいのです。その最大の理由はそれを検証した研究がないからです。そして、この研究を欧米諸国で実施するのは困難なのです。なぜなら、欧米諸国では90年代中頃から、すべての国民が生まれてすぐにHBVワクチンを受けるようになり、その上の世代も受けている人が多いために、大半の人はHIVのPrEPを開始する時点で、HBVの心配をしなくていいからです。「HIVの前にHBVの予防を」というのは、ワクチンを受けていない人の話です。そして、残念ながら日本人でHBVワクチンを済ませて抗体形成を確認している人はそう多くはありません。

 もうひとつ、HIVのPrEPでHBVを予防するのが危険なのは、感染力の強さの違いです。HIVはHBVほど感染力が強くありません。他方、HBVの場合、感染者の血中ウイルス量にもよりますが、血中ウイルス量が多い場合、精液のみならず、唾液や他の体液にも含まれていることがあります。2002年には佐賀県の保育所で24人が集団感染しました。この事件だけでHBVの感染力の強さが分かるでしょう。HIVのPrEPで"理論上は"HBV感染を防げるのは事実ですが、この感染力の強さを考えるとやはりワクチンは必須となります。つまり、HBVのワクチン接種及び抗体形成確認をすることなく、HIVのPrEPを実施するのは特別な場合(例えば、パートナーがHIV未治療+HBV陰性の場合)を除いてあり得ないのです。尚、HBVのワクチンはせっかく接種しても抗体がつきにくい人がいますが、最終的には抗体形成できる人がほとんどです。

 もうひとつ、PrEPで多い誤解を紹介しましょう。それはオンデマンドPrEPに関するものです。冒頭のコラムでも、「オンデマンドPrEPは欧州では効果が高いと考えられているけれども、米国では必ずしも有効性が認められているわけではなくFDAはデイリーPrEPしか承認していない」ことを紹介しました。そして、これはゲイ男性に限ってのことです。女性やストレートの男性は初めからオンデマンドPrEPは推奨されていません。

 にもかかわらず、ストレートの男性からのオンデマンドPrEPに対する問い合わせが非常に多いのです。これだけ多いことには何か理由がありそうです。おそらく「ストレートでも有効」と書いてあるウェブサイトが存在するか(未確認ですが)、SNSを通してそういった情報が流れているのでしょう。20代から上は70代まで幅広い年齢層のストレート男性からの問い合わせがあります。

 改めて確認しておくと、ストレートの男性や女性(ストレートもレズビアンも)のオンデマンドPrEPの適応はありませんし、有効性を示したエビデンスレベルの高い研究もありません。「性交渉の前後で合計4錠飲むだけでHIVが予防できる」というのは大変魅力的ではありますが、これは仕方がありません。尚、なぜゲイ男性はオンデマンドPrEPが有効(FDAは承認していませんが)と考えられているかというと、肛門粘膜に分布する血管へは薬が移行しやすいからです。

 ここでよくある質問が「女性はオンデマンドPrEPが無効なのは分かるが、ストレートの男性は有効なのではないか。なぜならゲイのタチ(top)が防げるのなら、ストレートの男性も防げるはずだ」というものです。また、「膣を使わずに肛門しか使わない女性ならOKでは?」という質問もあります。たしかにこれらの理屈は一見正しそうです。そして、実際正しいかもしれません。ですが、これらを実証した研究がないのです。医学の世界では、理論と実際は必ずしも一致しません。なんらかの未知の理由によって、男性の肛門粘膜→陰茎は感染を防げるけれど、女性の膣壁(または肛門粘膜)→陰茎は防げない、といったことがあるかもしれません。

 ところで、HIVのPrEP目的で谷口医院を受診(オンライン診療含む)またはメール相談した人のどれくらいの割合の人が実際にPrEPを開始しているかというと、ゲイの男性で8~9割(オンデマンドPrEPを含む)、ストレートの男性で2~3割、女性で3~4割といったところです。

 やはり我々の経験でいうと、ストレートの男女よりゲイ男性の方が性感染症に関する知識は豊富です。ただし、知らないことは恥ずべきことではありません。こんなことどこでも習いませんから、むしろ知らないのが当然です。最近は、HIVのPrEPに詳しい医師や看護師も増えてきました。興味のある方は医療機関に相談し、分からないことは何でも尋ねるようにしてください。

記事URL