GINAと共に

第84回 橋下市長の発言に対して誰も言わないこと(前編)(2013年6月)

 2013年5月13日、大阪市の橋下市長が記者団の取材に応じ慰安婦問題などについておこなった発言は、日本国内のみならず世界中で物議を醸し、これまで多くのマスコミや知識人などがコメントを発しています。

 当たり障りのないコメントから、橋下市長を(全面的にではないにせよ)擁護するような意見まで多くの議論が飛び交っていますが、一連の橋下市長のコメントで私が最も強く疑問を感じた2つの点についてはなぜか誰もコメントしていないので、今回(と次回)はそれについて述べたいと思います。

 従軍慰安婦に関する橋下市長の一連の発言は、部分的には筋が通っているのではないかと私は感じています。話を都合のいいようにすり替えている、などと指摘されることもあるようですが、少し贔屓目にみれば、橋下市長の発言には頷けるところもあります。

 例えば、「歴史をひもといたら、いろんな戦争で、勝った側が負けた側をレイプするだのなんだのっていうのは、山ほどある。弾丸が飛び交う中で命をかけて走っているとき、どこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」、というコメントがあったようです。この発言に対し、ヒステリックに反応した人も少なくないようですが、このこと自体は全面的に誤りとは言えないと思います。

 あまり堂々と語られることはありませんが、戦後米兵にレイプされた日本人女性は少なくないという指摘があり、現在でもときおり強姦事件が報道されていることからもこれは自明でしょう。1955年に沖縄で起こった「由美子ちゃん誘拐強姦惨殺事件」はあまりにも悲惨であり、その後その地域では「由美子」という名前を付ける親がいなくなったほどです(下記コラムも参照ください)。

 1995年におきた黒人米兵3人による小6少女レイプ事件は多くの人にとってまだ記憶に新しいでしょう。この事件の直後に当時のアメリカ太平洋軍司令官は「レンタカーを借りる金で女が買えた」と発言しました。

 今回の橋下市長の発言のなかに、米軍普天間飛行場の司令官に対して「もっと風俗業を活用してほしい」と進言した、というものがありますが、この発言も1995年の当時の司令官のコメントの直後なら、世論の批判はここまで大きくなかったかもしれません。「あなたがたが性欲をおさえられない異常集団だということはよく分かりました。次からはお金を払って合意を得た女性を相手にしてくださいね。小学生はお願いだから勘弁してくださいね」と言っているようなものですから、米兵、さらに米国民に対して痛烈な皮肉になったはずです(ただし、沖縄県民に対しては失礼極まりない発言です)。 

 ちなみに、橋下市長の発言がまだ覚めていない2013年5月21日、米海軍佐世保基地の米兵2人が日本人女性に対する性的暴行の疑いで取り調べを受けていることを一部のマスコミが報じています。

 軍人が一般女性をレイプするのはアメリカ人だけではありません。例えばベトナムには「ライタイハン」という言葉がありますが、この言葉の意味は「ライ」が雑種、「タイハン」は韓国です。つまり、ライタイハンとは、ベトナム戦争で米国を支援するためにベトナムに派遣された韓国兵と現地女性との間にできた子供のことです。ライタイハンのなかには、現地女性と韓国兵との間に恋愛が芽生えてその結果生まれてきたというケースもあったでしょう。しかし、レイプで孕まされたベトナム人女性が多かったことが指摘されていますし、レイプでなくても、お金を払って現地女性を買っていた韓国兵がいたことを否定する人はいないと思います。

 タイのパタヤでは、今でも米海軍が寄港すると数千人の米兵が女性を買っているのは誰もが認める事実です。世界中にこのような例はいくらでもあり、橋下市長の言うように、軍人のなかには買春に及んだり、あるいはレイプの加害者になったりするケースがあるのは間違いありません。ですから、橋下市長の発言に対し、ヒステリックに「女性の権利を踏みにじる許せない発言」と言ってみたり、従軍慰安婦の保証問題に議論を持っていったりすると話が噛み合わなくなるわけです。

 ただし、私は橋下市長の従軍慰安婦に関する発言に対して看過できない部分があります。

 橋下氏は市長に就任する前(2003年)に、テレビ番組で「日本人による集団買春は中国へのODAみたいなもの」と発言し、そしてその言葉の責任をとり、涙を浮かべながら番組を降板することを宣言しそのままスタジオから出て行った、というエピソードがあります。

 私はこれをテレビで見ていたわけではなく後で知ったのですが、いくら問題発言をしたからといって、生放送中に謝罪をし自ら降板したというその行動に潔さを感じました。そして、集団買春が断じて許されるべきでないことをきちんと認識されたのだろうと信じていました。

 しかし、今回の一連の発言のなかに、「精神的に高ぶる集団には慰安婦制度が必要」「もっと風俗業を活用してほしい」などという発言があったということは、橋下市長の本心では、今でも「集団買春はODAみたいなもの」という考えが変わっていないのではないかと疑わざるを得ません。橋下市長は「集団買春」というものはあって当然で「みんながおこなう正常な行為」とみなしているのではないでしょうか。

 戦中のことを知る手がかりは限られていて従軍慰安婦のことについてはっきりしたことはわかりません。従軍慰安婦がなかったと主張する日本人は多いですが、一般に「あったこと」よりも「なかったこと」を証明するのは困難です。しかし、戦中のことは分からなくても現在のことは分かります。私は、橋下市長や橋下市長の主張を全面的に支持する人に聞いてみたいことがあります。

 それは「集団買春をしている国民が日本以外にあるか?」というものです。私はGINAの関連でタイの売買春について取材をしたことがあり、中国で問題になったような集団買春をタイでおこなった日本の組織があることを知っています。しかしいくら取材を重ねても日本人以外が集団買春をおこなったという話は聞けませんでした。(ただし、金払いの良さや女性に対して暴力を振るわないなど最も"紳士的"なのも日本人という声もありましたが・・・)

 21世紀になってから日本を訪れる韓国人や中国人が増え、例えば九州のゴルフ場などでは日本人客の方が少ない日もあると聞きます。しかし、ではその韓国人や中国人の中年の男性の集団が日本人女性を集団買春しているかというと、そのようなことは(私が知らないだけかもしれませんが)まったく聞きません。

 では、なぜ日本人以外の国民は集団買春をしないのでしょうか。それは、そういった行為が恥ずかしいという羞恥心を持っているからではないでしょうか。その逆に、ODAみたいなもの、風俗業を活用してほしい、などと発言する橋下市長にはその羞恥心がないように感じられるのです。

 赤信号みんなで渡れば・・・、などという言葉があることからも分かるように、日本人というのは集団になれば信じられないような行為を簡単にしてしまう民族なのかもしれません。しかし政治家はそうであってはなりません。まともな羞恥心を持ち、上品な言動をこころがけるべきです。

 まとめていきましょう。橋下市長の発言に対する私の疑問のひとつは、「集団でおこなう破廉恥な行為をあまりにも当然のことのように考えていないか」ということです。個人行動として戦地でレイプをする米国人や韓国人の方が正しい、と私は言っているわけではありません。「誰だって・・」という表現に私は同意しませんが、性の衝動を抑えられない軍人がいるのは間違いないでしょうし、旅行先で性的衝動が抑えられなくなる人がいるのも事実でしょう。どれだけ道徳教育をしようが、モラルに逸脱した人間を皆無にするのは現実的には不可能だと思います。しかし、集団行動を是認するというのはあまりにも飛躍しすぎですし、それを政治家が公言するなどというのはあってはならないことだと私は思います。
 
 それからもうひとつ指摘しておきたいのは、橋下市長は性感染症のリスクを知っているのか、ということです。ガンやリウマチなどの疾患であれば、病気と戦っている人や克服した人がマスコミに登場したり、本を出したりしますが、「性風俗に行ってHIVになりました」、とか、「風俗でB型肝炎ウイルスをうつされ入院して妻と子供は逃げていきました・・・」、などといったことを堂々と公表する人はほとんどいません。しかし現実には「性風俗を利用してその後の人生が大きく変わってしまった」、という人は枚挙に暇がありません。橋下市長がそのような現実を知っているとは到底思えない、というか、知っていたらあのような発言はしないと思うのです。

 政治家というのは大変強い影響力を持っています。橋下市長の発言を聞いて、「性風俗って意外に敷居が低いんだな・・」と感じる青少年が出てくるのではないか、私はそのことを危惧します。

 そして、一連の橋下市長の発言で、もうひとつ私が看過することのできないものがあり、そのことの方が今回述べたことよりも重要なのですが、それについては次回お話したいと思います。


参考:GINAと共に
第81回(2013年3月)「レイプに関する3つの問題」
第69回(2012年3月)「南京虐殺と集団買春」

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第83回 歯科医院でのHIV感染とキンバリー事件(後編)(2013年5月)

 前回は1991年に米国で起こったセンセーショナルな「キンバリー事件」を紹介し、キンバリーさんのHIV感染は、歯科医師が故意に感染させたという当初の見方は誤りではないか、ということを述べました。

 では、なぜ歯科医師と同じ遺伝子のHIVがキンバリーさんに感染したのか・・・。仮説の域を出ませんが、今回はまずはこのことについて話を進めていきたいと思います。

 キンバリーさんに歯の治療をおこなったアーサー歯科医師(男性)が同性愛者であったことは判っています。そして、アーサー歯科医師は性行為を介してHIVに感染したであろうことはほぼ間違いありません。そして、ここからは噂になりますが、どうもアーサー歯科医師には複数のパートナーがいて、さらに相当奔放な性交渉の趣味があったのではないかと言われています。

 ということは、アーサー歯科医師の性交渉の相手のひとりが、あるいは複数人が、性交渉の相手というだけでなく、アーサー歯科医師の患者でもあった可能性もないわけではないと考えられます。

 もちろん、このような調査は当時の地方警察もしくはFBIによっておこなわれています。そしてアーサー歯科医師の性交渉の相手が、アーサー歯科医師の治療を受けていた、という証拠は出なかったそうです。

 しかし、です。奔放な性生活を送っていたアーサー歯科医師の性交渉の相手が何人いたのかを正確に把握することは相当困難なはずです。恋人のように何度も逢引を重ねていた関係ならわかるでしょうが、一度だけの性交渉の相手となると、捜査に限界があると考えるべきでしょう。特に、いわゆる「ハッテンバ」で、お互いの名前も知らないような関係で、暗がりのなかただ一度の性交渉をもった、という関係では、相手がアーサー歯科医師と知らないで、性交渉を持っている可能性がでてきます。

 「ハッテンバ」では、自分の本名や職業を言わないこともあります。というより、初めからは言わないのが普通でしょう。まして職業が歯科医師とくれば、それを隠そうとするのは当然です。

 つまり、地方警察やFBIが把握できていないだけで、アーサー歯科医師と関係を持った男性が患者として、アーサー歯科医師の治療を受けていた可能性があるというわけです。そして、場合によっては、アーサー歯科医師も、この患者もお互いに性交渉を持った関係だということに気づいていないまま治療を施し治療を受けていた、ということだってないとは言えません。このような関係であれば捜査線に上がってこないのも無理もありません。

 また、こういうことも考えられます。アーサー歯科医師と関係を持っていた男性がいたとして、アーサー歯科医師のクリニックが休診日の日に、アーサー歯科医師の治療を受けていた可能性です。アーサー歯科医師が、彼にとって「特別な人」を自分の歯科医院に呼んで治療を施した。お金を受け取らず無料で治療をおこなったこともあり、あえてカルテを書かなかった、ということもないとは言えません。

 しかし、ここでひとつの疑問がでてきます。仮に、アーサー歯科医師と性的関係をもった男性がアーサー歯科医師の治療を受けていたとしても、歯科医院であれば当然器具の滅菌をおこなっているはずです。HIVはそれほど生命力が強いわけではありませんから、通常の滅菌をおこなっていれば、患者→医療器具→患者、というルートでの感染などあるはずがないではないか、という疑問です。

 では、この疑問にお答えしましょう。たしかにHIVはB型肝炎ウイルス(HBV)などと比べると、感染力は非常に弱いと言えます。しかし、例えば歯牙を削るのに使うハンドピースや研磨器の奥にウイルスが侵入し、ある程度湿度があれば丸1日くらいは生き延びることは理論的にはありえます。もちろん適切な滅菌をしていればこのようなことは防げます。

 問題は、本当に"適切な"滅菌ができていたかどうかです。前回私は、当時サラリーマンをしており、米国の歯学部の学者と共に仕事をしていた、と述べました。当時の私はある商社に努めており、歯科医療で用いる滅菌システムの販売促進に携わっていました。今でこそ、歯科医院でのトータルな滅菌処置は常識になっていますが、当時は、日本ではまだ煮沸消毒で済ませているところもあったくらいで、完全な滅菌ができていたとは言い難い状況でした。米国では日本よりは進んでいましたが、すべての歯科医院が21世紀におこなわれているのと同じレベルで滅菌がおこなわれていたかどうかは疑問です。実際、それらが不充分であったからこそ、米国で滅菌に関する商品やシステムが開発されたわけです。

 私の仮説は、①アーサー歯科医師と関係をもったHIV陽性の男性患者がアーサー歯科医師のクリニックで治療を受けた、②その男性患者は捜査線上に上がってこなかった。場合によってはその患者もアーサー歯科医師も過去に性的接触をもったことに互いに気づいていなかった、③歯科医院での滅菌が不充分であった、というものです。

 ここで、私の仮説を裏付ける・・・、とは言えませんが、歯科医院でのHIV感染が実は少なくないのではないかと考えたくなる「ある事実」を紹介したいと思います。それは、当時のアメリカでは、感染ルートがまったく不明のHIV感染が少なくなかった、ということです。

 つまり、性交渉の経験が一度もなく(あっても特定の相手とだけでその相手はHIV陰性で)、薬物の針の使い回しなどの経験もなく、もちろん母子感染もありえないというHIV陽性者が少なからずいたのです。違法薬物のことは他人に言いたくありませんし、性交渉にしてもそれが特定の相手とのものでなければ隠したいものですから、「感染ルート不明のHIV感染」は、単に自分の過去を偽っているだけ、という場合もあるでしょう。しかし、例えばまだ中学生で、あきらかにリスク行為のないような感染者も当時のアメリカでは少なくなかったそうです。

 話を現在に戻しましょう。前回紹介したように、米国オクラホマの歯科医院で治療を受けてHIVとC型肝炎ウイルスに感染した人が21世紀のこの時代に実際にいるわけです。そして2013年3月、保健当局はさらに感染者がいる可能性を考え7千人もの(元)患者に検査を呼びかけたのです。

 さて、この院内感染が<極めて特殊な例>と言い切ることができるでしょうか。院内感染については楽観視をしてはいけません。医療先進国のアメリカで実際にこのようなことが起こっているわけです。ちなみに、アメリカでは、「2004年3月から2008年1月の間に、南ネヴァダの内視鏡センターで麻酔の注射をした人はHIVなどに院内感染した可能性がある」という発表が2008年2月にラスベガス当局によりおこなわれました。

 日本ではどうでしょう。2007年12月に、神奈川県茅ヶ崎市のある病院で、心臓カテーテル検査を受けた患者5人が相次いでC型肝炎を発症したという事件が報道されています。医療器具の使い回しなど、医療者からみれば考えられないことなのですが、このように実際に現代の日本でもあるのが現実なのです。

 格安のレーシック手術を手がけ、100人近い患者に院内感染で感染症を発症させた東京のG眼科のM医師が逮捕された事件はまだ記憶に新しいと思います。この事件では、角膜感染で視力を失った事例などが報道されましたが、具体的な病原体については発表されていません。このなかにHIV感染がなかったのかが気になります。(HIVが角膜や結膜から感染したとしてもすぐには症状がでませんから今後発覚するかもしれません)

  私は、院内感染の恐怖をいたずらに煽りたくはありません。なぜならほとんどの医療機関では適切な滅菌がおこなわれており(あるいは使い捨てのものが使われており)、院内感染が、特にHIVに関しては、起こるとは思えないからです。

 しかし、実際にオクラホマの事件や茅ヶ崎市の病院やG眼科のことを考えると、医療機関を受診し、何らかの施術を受ける度に、「院内感染、大丈夫ですよね」と尋ねざるを得ないかもしれません。尋ねたところで、事実に関係なく「大丈夫です」と言われるだけでしょうが・・・。


参考:GINAと共に第21回(2008年3月)「院内感染のリスク」

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第82回 歯科医院でのHIV感染とキンバリー事件(前編)(2013年4月)

 米国オクラホマ州で、歯科医院での治療を受けた患者がHIVとC型肝炎ウイルス(以下、HCV)に院内感染していたことが明らかとなりました。

 2013年3月28日、同州の保健当局は、同州タルサにあるこの歯科医院で治療を受けたおよそ7千人にHIVとHCVの検査を呼び掛けました(注1)。

 HIVとHCVに感染したその人が、その歯科医院の治療で感染したことを証明するのは簡単ではないと思いますが、報道からはその詳細までは分からないものの、保健当局の綿密な調査により院内感染であることが「確定」したそうです。

 報道によれば、この歯科医院では医療器具を複数の患者に使い回ししており、滅菌処置を怠っていたことが調査により明らかになっています。

 世界に目を向けてみると、過去にはリビアでの集団HIV院内感染事件や、カザフスタンでの院内感染が報告されたことがあります。しかし、アメリカでの院内感染、それもその理由が「医療器具の使い回し」であることが判明したわけですから、この事件はアメリカ人にとって大変ショッキングなものでしょう。

 では日本ではありえない話なのか、ということを考えたいのですが、その前に、アメリカの歯科医院でHIV感染、となると、どうしても触れないわけにはいかない事件について述べていきたいと思います。

 「キンバリー事件」という事件を聞いたことがあるでしょうか。

 1991年9月、キンバリー・バーガリスという名の20代前半の米国人女性が車椅子で米国連邦議会の公聴会に出席し証言しました。この女性は、敬虔なクリスチャンであり、性交渉の経験がなく、違法薬物の針の使い回しなどHIVに感染する要因がまったくないのにもかかわらずHIVに感染しエイズを発症しました。調査の結果、キンバリーさんが通院していた歯科医院でHIVに感染したことが明らかとなったのです。

当時のマスコミは、車椅子に座り必死で証言するキンバリーさんの様子を中継し、全米で(あるいは全世界で)かなりセンセーショナルな事件と捉えられました。

 1987年12月、当時19歳だった彼女は近所の歯科医院で治療を受け、歯科医師デイビット・アーサーから感染させられたのです。この時期、すでにこの歯科医師はエイズを発症していたらしく、1990年9月に死亡しています。

 1991年当時、HIVには有効な薬剤が存在していませんでした。車椅子の生活を余儀なくされていたキンバリーさんは、HIV感染により神経系にも障害をきたしていたのでしょう。この時点でエイズが相当進行した状態であったと言えます。1991年12月8日、キンバリーさんは23歳という若さで他界されました。

 90年代前半、私自身が何をしていたかというと、大阪でサラリーマンをしていました。大阪のある商社の海外事業部に所属していた私は、アメリカ人の歯学部の学者と仕事を共にする機会がありました。その学者は米国で歯科衛生士に教育をする立場にあり、日本の衛生士にも知識と技術を伝えるために来日していたのです。

 当時はまさか将来自分が医師になりHIVに関する活動をするなどとは考えたこともなかったのですが、キンバリー事件が気になっていた私は、この学者に、「感染力がさほど強くないHIVが、歯科医師から患者に感染するなどということが本当にあるのか」、という質問をしてみました。

 この学者の返答は、「HIVは感染力が大変弱く、通常の診療行為であれば治療者から患者に感染するとは考えられない。キンバリー事件は、歯科医師が"故意に"感染させたとしか思えない」、というものでした。さらに彼女(この学者)は、「これは私だけの考えではなく、米国の医療関係者の間で一致している意見である」、と言っていました。

 なぜ、歯科医師が自分の患者に自分のHIVを故意にうつす、などという理解不能な行為に出たのかはわかりませんが、「これは極めて特殊なケースであり、歯科治療でHIVの院内感染が起こるなんてありえない」、と当時の私は納得しました。

 しかし、ずっと後になってから、歯科医院が故意にHIVをうつした、のではなく、この事件は医療器具の使い回しによる院内感染ではないか、とみる意見が有力視されるようになってきたことを知りました。

 なぜ、歯科医師からキンバリーさんにHIVが感染したことが確実とみなされたかというと、その歯科医師に感染していたウイルスとキンバリーさんに感染していたウイルスの遺伝子が一致したからです。このことから、他にリスクのないキンバリーさんは、歯科医院でその歯科医から感染したことが間違いないと見なされたわけです。

 その後の調査で、この歯科医院でHIVに感染したのはキンバリーさんだけでないことが判りました。他に5人の患者がこの歯科医院でHIVに感染したことが遺伝子の解析から明らかとなったのです。

 さて、仮にこの歯科医師が"狂っている"としても、合計6人もの患者に故意にHIVを感染させる、などということができるでしょうか。もしそのようなことを計画したとしても、いったいどのようにすれば感染させることができるのでしょう。HIVはB型肝炎ウイルス(HBV)とは異なり、ウイルスが唾液や汗に含まれているわけではありません。仮に手袋とマスクをせずに、自分の汗や唾液が患者の口腔内に入ったとしても感染は考えられません。

 まさか自分の精液を患者の口腔内に注入するなどということはありえないでしょうから、感染させるには、自分の血液を患者の歯肉や抜歯後の組織に付着させるという方法をとらなければなりません。しかし、たとえこの歯科医師の手に傷があったとしても、流血があるような状態でなければ感染させることはほぼ不可能です。もしも流血があるほどの手で治療をしようと思えば、周囲のスタッフや患者が気づくはずです。

 自分の血液を採取しておいて、それを麻酔薬に加えて患者の歯肉に注射すれば感染させることは可能です。しかし通常麻酔薬は透明ですから、血液を加えれば色が付き、歯科衛生士や歯科助手にばれてしまいます。自分の血液を遠心分離機にかけて上澄み液(血漿)を採取し、麻酔薬に加えれば可能かもしれませんが、この場合も多少は色がつくはずです。それに通常、麻酔薬をシリンジ(注射器)に吸い取る行為は歯科衛生士や歯科助手がおこないますから、いつもと違うことに気付かれるはずです。故意に自分のHIVを他人に感染させる、などということが発覚すれば、歯科医師生命は終わりますから、そのようなバレやすい方法をとるとも思えません。

 100%断定することはできませんが、現在では、このキンバリー事件の真相は、アーサー歯科医師が故意に自分のHIVを患者に感染させたのではなく、医療器具の滅菌が不充分であり、患者から患者に感染したのではないか、という意見の方が説得力があります。

 では、なぜ歯科医師のHIVと患者のHIVが遺伝子レベルで一致したのか。仮説の域を出ませんが、一応は納得ができる説があります。

 次回はその「説」を紹介し、今後このようなことがアメリカで、そして日本を含む他の国でもおこりうるのか。歯科医院だけでなく一般の医療機関ではどうなのか。そしてこのような悲劇を防ぐために、医療機関は、行政は、そして患者は何をすべきなのか、などについて検討していきたいと思います。


注1:米国ではほとんどのマスコミがこの事件を報道しています。Reuterでは「Oklahoma warns 7,000 dental patients of HIV, hepatitis risk」というタイトルで詳しく報じています。下記URLを参照ください。
http://www.reuters.com/article/2013/03/29/us-usa-health-oklahoma-idUSBRE92S0DN20130329 


参考:GINAと共に第21回(2008年3月)「院内感染のリスク」

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第81回 レイプに関する3つの問題(2013年3月)

 タイに行くとレイプの話をよく聞きます。「聞く」というのは、まず新聞の片隅にそのような記事を見かけることは珍しくありませんし、新聞に載らなくてもタイの知人からそういった話はよく聞きます。新聞に掲載されるのは、<単なるレイプ>ではなく<レイプ+殺人>のようなときですから、<単なるレイプ>ではマスコミに取り上げられることもなく実際に発生しているレイプ事件が日々どれくらいになるのかは想像できません。

 日本人の女性がタイでレイプの被害に合った、という話も過去に何度か聞いたことがあります。欧米人との会話でこのような話になると必ず出てくる意見があります。それは、「日本人の女性は無防備すぎる」ということです。彼らが言うには、「ミニスカートで夜道をひとりで歩いて平気でいる日本人女性がおかしい」、そうです。

 タイ在住の欧米人だけでなく、日本在住の外国人のなかにもこのようなことを言う人は少なくありません。「日本に来て、日本人の女性があまりにも無防備なことに驚いた」と私に語った外国人は過去何人もいます。彼(女)らによると、派手な服を身に纏い高級ブランド品のバッグを見せつけるように夜の街を歩いている女性は<娼婦>にしかみえないそうです。

 では、そのような"無防備な"格好で夜道を歩いてもレイプの被害に合わないんだから日本はとても平和な国なんですよ、ということが言えるでしょうか。答えは次の数字をみれば明らかです。

 日本人の全女性の7.7%がレイプ被害の経験があり、性暴力救援センター受診の1割以上が妊娠していた・・・。

 詳しく説明しましょう。内閣府男女共同参画局が「男女間における暴力に関する調査」というタイトルで実施した2011年の調査によりますと、全女性の7.7%がレイプの被害に合っているそうです(注1)。

 また、大阪阪南中央病院産婦人科の加藤治子医師が主催している「性暴力救援センター・大阪(SACHICO)」によれば、2年間で受け入れた初診患者317人のうち34人(10.7%)が妊娠していたそうです。被害者317人の内訳は、レイプ・強制ワイセツが197人、性虐待(実父、義父、兄など保護的な立場にあるものからの性的行為)が82人、DV(ドメスティック・バイオレンス)が16人、その他22人とされています(注2)。

 実は私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)でもレイプの被害者を診察することがしばしばあります。谷口医院では産婦人科を標榜していませんが、私がGINA代表をつとめていることもあり、レイプによる性感染症を懸念されている女性が受診されるのです。そして、レイプでHIVをうつされた例は谷口医院ではまだありませんが、クラミジアや淋病といった性感染症をうつされた被害者の方は過去何人かおられました。

 レイプの被害にあった女性が心配するのは性感染症だけではありません。妊娠を心配している人もいて、実際にレイプで妊娠していたケースも過去に何例かありました。また、最初の受診時には、不眠や抑うつ状態、あるいは胃痛や頭痛といった症状を話されて、数ヶ月間治療を続けてようやく「実はレイプにあって・・・」と話される人もいます。こういった人のなかには、それまで誰にも話すことができなくて・・・、というケースも少なくありません。

 ちなみに、レイプの被害に合った男性もときどき受診されます。このケースはほとんどが、男性が男性に襲われた、というケースで、女性にレイプされた男性患者というのはあまりありません。しかし、パートナーの女性(つまり、恋人や妻)から身体的暴力や言葉の暴力、ネグレクト(無視される)の被害に合っているという男性の相談はときどき聞くことがあります。

 話をレイプに戻します。しばしばレイプの被害者から話を聞いている私からみて、レイプというのは充分に社会に理解されておらずいくつかの問題があります。今回は3つの点を指摘したいと思います。

 まず1つめにレイプに対する罪が軽すぎることを指摘したいと思います。マスコミで報道されたレイプ事件は過去にいくつもありますが、そのなかでも最も許しがたい事件のひとつが1955年に沖縄県石川市(現・うるま市)でおきた白人軍曹による、市内の幼稚園に通っていた当時6歳の由美子ちゃん誘拐強姦惨殺事件です。レイプされ殺害され草むらに放置された由美子ちゃんの顔面は崩れ、両手は生えた草をしっかりと握っていたそうです。この米兵は軍法会議でいったん死刑判決が出たものの、なんとその後45年の重労働に減刑されています。この事件以降、石川市で生まれた赤ちゃんに由美子と名付ける親はいなくなったと言われています(注3)。

 沖縄の米兵によるレイプ事件で有名なものに、1995年におきた黒人米兵3人による小6少女レイプ事件があります。沖縄県中部地区に住む当時小学6年生の女子が自宅から3分ほどの文具屋で150円のノートを買って店を出たあと、3人の黒人海兵隊員にレンタカーに押し込められ、目と口を粘着テープでふさがれ1.5キロメートル離れたサトウキビ畑でレイプされたという事件です(注4)。このような事件を起こしておきながら、検察の求刑はわずか10年、そして那覇地裁の判決は2人に7年、もうひとりには6年6ヶ月の懲役刑しか下していません。ちなみに、6年6ヶ月の判決を受けた海兵隊員は日本で5年間服役しアメリカに帰国し、20006年にジョージア州のアパートで知り合いの女子大生を暴行殺害し自らも自分の腕を切って自殺しています。

 これだけの事件を起こしたならば、極刑以外にないと感じるのは私だけではないでしょう。現在の日本のレイプに対する罪が軽すぎるのは自明です。おそらくこれがタイなら前者の加害者は死刑、後者の事件は3人とも終身刑となっているはずです。(しかし、日本よりも罪が重いタイでもレイプ事件が少なくないことを考えると、単純に罪を重くすればレイプが減るというわけではないのかもしれません)

 レイプに関する2つめの問題は「デートレイプ」に関する認識の乏しさです。デートレイプとは顔見知りによるレイプのことを言いますがデートレイプの多くは女性も同意していたはずなのに後になって女性が「レイプされた」と文句を言っているだけ、と考えている男性がいまだにいます。私は決してフェミニストではありませんし、確かに男性にフラれた腹いせに「あのときレイプされたから訴える」と随分後になってから言い出す女性がいることも知っていますが、デートレイプを軽視してはいけません。特に信頼されていた友達や上司が豹変してレイプされたというようなケースでは、その後かなりの長期間に渡りPTSD様の症状に苦しむこともあります(注5)。

 2012年8月に米国ミネソタ州の共和党の下院議員が「女性はレイプされた場合なら妊娠することはない」などと発言して問題になったことがありましたが、このような言葉がどれだけ被害者を傷つけるかということが、犯罪には厳しく人権と平等では世界トップであるはずのアメリカの下院議員にも理解されていないのが現実というわけです。

 レイプに関する3つめの問題は「周囲の無神経な発言によって被害者がさらに傷つく」ということです。これは「セカンドレイプ」と呼ばれており、被害状況を聴取する際に「あなたにもスキがあったのでは」などと発言する警察官が加害者と言われることが多いのですが、実際は、教育者や医師によるものもありますし、周囲の家族や知人による場合もあります。例えば、「どうしてもっと早く言わなかったの」とか「あなたはしっかりしているから大丈夫」などと言ってしまえば、それが気遣った言葉のつもりであっても結果として被害者を苦しめることになります(注6)。

 レイプによる被害者は世界中にたくさんいるということ、そして日本国内にも少なくなく、社会からは諸問題が充分に理解されていないことを多くの人に知ってもらいたいと思います。


注1:この調査結果は日本産婦人科医会のウェブサイトで詳しくみることができます。下記URLを参照ください。

http://www.jaog.or.jp/all/document/60_121212.pdf

注2:このデータも上記URLで閲覧できる資料の後半にでてきます。

注3:沖縄のレイプ問題に関しては、佐野眞一著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史<下>』(集英社文庫)に詳しく取り上げられています。

注4:この事件を契機として沖縄在住の高里鈴代氏が「強姦救援センター沖縄(REICO)」を立ち上げられています。

http://www.space-yui.com/reico10years.htm

注5:注1に記した日本産婦人科医会のデータによりますと、レイプされた相手の1位は配偶者・元配偶者で、2位が「まったく知らない人」の9.8%とされています。3位は「職場・アルバイトの関係者」となっています。

アメリカにも似たような報告があります。2011年12月にCDC(米国疾病対策センター)が公表したデータによりますと、レイプの被害に合ったことのある女性は全体の18.3%で、加害者は1位が「交際相手などのパートナー」51.1%、2位が「知り合い」40.8%で、「まったく知らない人」はそれら以外ということになりますから8.1%となります。つまり、日本の方が「まったく知らない人」からレイプに合っている割合が高いことになります。

注6:注1に記した資料にセカンドレイプに相当する用語がまとめられていますので下記に引用しておきます。

・大丈夫、よくなりますよ
・こんなひどい被害にあった人もいる
・つらいのはあなただけじゃない
・時にあることですよ、気にしないで
・がんばって!しっかり
・早く忘れた方がいいよ
・思ったより元気そうだね
・しっかりしているから大丈夫
・私だったら気が狂ってしまう
・こうすればよかったのに・・・・・・
・なぜ、もっと早くに話さなかったの
・何をやっていたの
・これくらいで済んでよかった
・~よりまだましですよ
・どうして逃げなかったの
・なぜ、助けを呼ばなかったの
・なぜ、○○したの

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第80回 HIV陽性者に対する就職差別 その2(2013年2月)

 このコラムの第65回(2011年11月)で、HIV陽性者が日本の職場で働き続けるのは困難であることを述べました。私は、HIVに関する講演をおこなうときには、HIVが理由で職場を去らなければならないことがいかに馬鹿げたことかを主張するようにしています。また、日々の臨床では、HIVの患者さんに対して、「HIVは別に恥ずかしいことでも何でもないのは事実だけれど、今の日本では職場には言うべきでない」、と伝えるようにしています。けれども、HIV陽性者に対する職場での差別は依然存在している、というか、まったく変わっていないように思われます。

 最近も、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院でHIVが発覚した患者さん(Bさんとしておきます)が、「会社を辞めることになりました。大阪を離れることにしたので今日はお別れの挨拶もかねて伺いました・・・」、と言って受診されました。

 30代半ばのBさんは、元々は不眠や喘息症状などで私のところにかかっていて、あるときHIV感染が発覚しました(注1)。Bさんは中堅の広告代理店で営業をされています。労働時間が長く、付き合いでの飲酒も多いため、免疫状態が悪化しないかを私は懸念していたのですが、元来頑張り屋のBさんは「仕事は減らさなくても大丈夫」と話していました。

 私が会社のことを尋ねると、「人間関係には恵まれている」と話していました。実際Bさんの会社は、人間関係がギスギスしておらず、同僚とも先輩、後輩とも気兼ねなく話せるような環境のようです。しかし、そのような会社だからこそ、私はBさんに、「HIVのことは職場に話さないように」何度も助言していました。

 ある日のこと、元気がないBさんを見かけた会社の同僚と先輩がBさんを飲みにさそったそうです。元気がない社員がいると飲みに連れていくような慣習がこの会社にはあるそうで、Bさんも「そういうところがうちのいい会社」と話していました。これまでも何度かBさんはこの同僚や先輩と飲みにいって仕事の悩みなどを聞いてもらっていたそうです。

 しかし、この日のこの飲み会がBさんの運命を変えてしまうことになります。Bさんは同僚と先輩に自分がHIVに感染していることを告げてしまったのです。このときBさんは、このことは誰にも言わないでほしいとお願いし、それを聞いた二人は「約束する」と言ったそうです。

 しかし部長からの呼び出しがあったのはその翌日だったそうです。「君はうちの会社で長く働けないからすぐに辞めてほしい。1週間後には出て行ってもらうからそれまでに引き継ぎを済ませるように」、と言われたというのです。

 その数日後、Bさんは私の元にやってきて冒頭で紹介した言葉を話されました。これまでもHIVが原因の不当解雇の話は患者さんたちから何度も聞いていましたが、これはひどすぎます。私はBさんに、「このケースはあなたが訴えれば100%勝ちますよ。戦いませんか」、と言ってみたのですが、Bさんの気持ちはすでに決まっていたようで、次のように話されました。「もういいんです。来週には大阪を離れて実家のある四国に帰ります。子供の頃によく遊んだ砂浜で海を眺めてみたいんです・・。あっ、心配しないでくださいね。当分の間、HIVのことは家族にも言いませんから・・・」

 その後Bさんからの連絡はありません。実家のある町で無事に仕事を見つけ元気にしてくれているといいのですが・・・。

 HIV陽性者に対する就職差別は日本に限ったことではありません。このコラムの第74回(2012年8月)「変わりつつある北タイのエイズ事情」で、私は、「現在の北タイのエイズ関連の最大の特徴は、感染者に対する差別やスティグマが著しく減少した、ということ」と述べました。しかし、それは家族内や病院での差別が減少している、ということであって、職場で堂々とHIV陽性であることをカムアウトしている人はほとんどいません。

 これはバンコクでも同様です。バンコクで仕事をしているHIV陽性者で、それがタイ人であっても日本人であっても、職場でカムアウトしている人を私はひとりも知りません。

 いったいHIV陽性者はどうやって仕事を見つければいいのでしょうか。

 ここであるひとりのタイ人女性を紹介したいと思います。40代のその女性はソムジャイさんと言います(注2)。夫がよそで遊んできて(他の女性と性交渉をもって)HIVに感染し、ソムジャイさんは夫から性交渉で感染しました。その夫はエイズを発症して他界していますが、ソムジャイさんは抗HIV薬がよく利いているようで元気です。

 ソムジャイさんは、HIV以外にも糖尿病や高血圧などを患っており、毎日飲まなければならない薬が大量にあります。しかし働くことはできます。ソムジャイさんはカットフルーツの屋台を開き、それで生計をたてていました。(タイに行ったことのある人なら分かると思いますが、マンゴーやパパイア、あるいはドリアンなどをその場でカットして売っている屋台はタイではどこに行ってもよく目にします)

 ソムジャイさんの住んでいた町はそれほど大きくありません。若くして亡くなった夫の死因がエイズであることが住民に知れ渡るのにそう時間はかかりませんでした。夫がエイズで死んだのならソムジャイさんもHIVに感染しているに違いない・・・、そのような噂(それは真実でありますが)が一気に町中に知れ渡り、やがてソムジャイさんの屋台には誰もフルーツを買いに来なくなりました。それだけではありません。誹謗中傷やあからさまな嫌がらせも増えてきました。そんなとき、それは2011年の夏ですが、あの大洪水がやってきました。自宅が屋根までつかって行き場のなくなったソムジャイさんは、ロッブリー県のエイズホスピス、パバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)にやってきました。

 HIVや糖尿病、高血圧などがあるからといってソムジャイさんは社会から引退するつもりはありません。元来手先の器用なソムジャイさんは、パバナプ寺で工芸品を作り出しました。ブレスレットやネックレスなどのアクセサリー、ぬいぐるみや花のモチーフなど、つくってみると市場で売られているものと同等、あるいはそれ以上のできばえです。ソムジャイさんの工芸品は次第に有名になり、寺を訪れる人たちが買っていくようになりました。

 施設内にいれば、住居や食事を与えてくれるだけでなく薬も無料でもらえます。身体の調子が悪くなるとボランティアが相談に乗ってくれてケアまでしてもらえます。つまり、最低限、あるいはそれ以上の生活ができます。しかしソムジャイさんはそれに満足していません。働けるんだから働きたい・・・。そのような気持ちが強いのです。そして、働くことは単にお金を稼ぐことを目的にしているわけではありません。日々の生活のなかでやりがいを見つけることができ、そして工芸品を買っていく人から「ありがとう」と感謝の言葉をもらうこともできます。

 日本でもタイでも、HIV陽性という理由で会社で働くのが困難であるならば、ソムジャイさんのように自ら何かをつくって売る、というのはひとつの方法かもしれません。もちろんこのようなことは誰にでもできるわけではありませんし、HIV陽性者が差別されない社会をつくることが最重要であることには変わりありません。

 しかし、社会が変わることを待っていても何も解決しません。GINAではこれまで以上にHIV陽性の人がつくった工芸品などの紹介をしていきたいと考えています(注3)


注1:Bさんは、実際の症例数例をヒントにつくりあげた架空の人物です。もしもあなたにこの症例と似た知り合いがいたとしても、それは偶然であることをお断りしておきます。

注2:ソムジャイさんという名前は本名であり、ここで紹介したエピソードもすべて事実です。ソムジャイさんは、実名、写真、経歴などすべてGINAのサイトに公開してもらってかまわないと話されています。

注3:ソムジャイさんらのつくった工芸品は、太融寺町谷口医院の待合室で販売しています。GINAのサイトからでも購入できるように現在ページを作成しているところです。

参考:GINAと共に第65回(2011年11月) 「HIV陽性者に対する就職差別」

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