GINAと共に

第59回 それでもボランティアに行こう!(2011年5月)

 このコラムの前々回では、ボランティアは長期で行くべきであることを伝え、前回はボランティアが忘れてはいけない2つのルールについて述べました。とらえようによっては、私は随分とボランティアに対して厳しい意見を持っているように思われたかもしれませんが、決してそうではありません。むしろ、経験したことのない人にはボランティアの醍醐味を知ってもらいたいと考えています。今回は、どのような状況にいる人がどのようなボランティアをすべきか、について私見を述べたいと思います。

 まず、東日本大震災の被害の現状を考えると、依然しなければならないことがたくさんあり、完全に慢性期に移行したとは言えない状態にあります。瓦礫の除去、泥掻き、炊出し、簡易トイレの掃除など、こういった仕事がまだまだ山積みであることが、被災地の状況が依然落ち着いていないことを示しています。

 このようなときに求められるボランティアの業務というのは、被災者とじっくり向き合ってそれぞれのニーズを聞き出すことよりも、安全な場所を確保し、被災者に最低限の衣食住を供給することです。被災者との密なコミュニケーションよりもむしろ、身体を使った業務をてきぱきとこなすことの方が求められるというわけです。

 そして、こういう業務が中心のボランティアであれば絶対に長期で行かなければならないわけではなく、むしろ短期の方がいいという面もあります。その理由は、まずひとつめは、短期のボランティアであれば、週末を利用するとか、1週間だけ会社を休むとかする程度で現地訪問が可能になるでしょうから、世間の関心がまだまだ高い今ならボランティアが集まりやすいというものです。3ヶ月間まるまるボランティアに行ける人をひとり探すよりも、1週間だけ参加できる人12人を探す方が現実的である、というわけです。

 次に、重労働が中心のボランティア業務であれば、長期になればなるほどボランティアの身がもたない、という問題があります。瓦礫の処理を朝から晩までおこなう作業は1週間ならできても、3ヶ月となると相当しんどくなります。

 3つめに、瓦礫処理や炊出しなどといった日常ではあまり体験しないようなこと(要するに「非日常」)のなかにいると、些細なことが原因で、ボランティア同士、あるいはボランティアと被災者の間に口論やいさかいがでてくることがあります。こういったトラブルは「非日常」が続いたときにうまれやすいのです。ですから、現在の東日本大震災の被災地のようにまだ現場が安定していない時期には、こういったトラブルを避けるためにも、あえて短期限定とする、というのはひとつの方法です。

 実際、阪神大震災のときにもこのような事態はしばしば起こっていましたし、NGOの「ピースボート」が現在募集しているボランティアは、仕事の内容を「泥掻きや炊き出し」とし「原則1週間」をルールにしていますが、これは現実的な考えだと思われます。

 しかしながら、ボランティアの内容を吟味すると、瓦礫処理や炊出しなどの他にも求められていることが多数あります。例えば、炊出しで配給されたご飯を自分で食べることのできない身体の不自由なお年寄りがいます。お年寄りでなくても身体的自由のきかない身体障害者もいます。そんな人たちに食事の介助をおこなうボランティアも必要です。また、トイレにひとりでいけない人や、おむつの交換が必要な被災者だって少なくないはずです。不安に苛まれている人に対しては、ときには手を握って話を聞くことも必要となるかもしれません。身体障害者に比べるとその苦悩が客観的にわかりにくいかもしれませんが、支援が必要な精神障害者も被災地にいます。このような支援については1週間程度では短すぎます。1週間ごとに新しいボランティアに食事介助を受けるとなると、介助される方は1週間ごとに新たなストレスを感じることになってしまいます。

 被災者に対しては医療者のボランティアも必要で、実際大勢の医師が現地にボランティアに駆けつけています。東日本大震災の被災者の大半は、津波の被害者であり、求められている医療の多くは慢性疾患のケアです。しかし、あまりにも頻繁に医師が交代することで、「次々に新しい先生がやってきてその度に薬が変更になって混乱している」と話している被災者の方もいたそうです。最近では、現地では医療者のボランティアに関して長期間を求める傾向にあります。宮城県では、被災地入りする前に活動期間の予定を尋ね、長く滞在できる医師を優先的に受け入れるようにしているそうです。

 被災者ひとりひとりのニーズを聞き出し、ひとりひとりに適した支援をおこなうには、ある程度長期で滞在することが不可欠となるのです。

 さて、問題は、いったい誰がそんなに長期間ボランティアができるんだ、ということです。ボランティア休暇を長期でとれる職場に勤務している人、休学制度が使える大学生、定年退職して時間のある元気な高齢者の方などはうってつけかもしれません。

 しかし、私が個人的にもっともすすめたいのは、現在失業中で就職の目処がたっていない人、現在の仕事に満足していない派遣社員、フリーター、あるいはニートと呼ばれている人、さらにひきこもっている人たちです。

 あまり報道されなかったと思いますが、実は阪神大震災のときにもこういった人たちが大変活躍しています。それも、関西だけでなく東京から来る人もかなりの人数に昇りました。彼(女)らの多くは、東京では満足いく生活をしておらず、阪神大震災の被災地にやって来てイキイキと輝きだしたのです。「やっと自分の居場所が見つかった」と話す人もいました。やがて、復興が進みボランティアの需要も減少し彼(女)らは、東京に帰っていきました。しかし、"日常"に帰った彼(女)らのなかには、再び"輝き"を求めて被災地に戻ってくることも少なからずあったのです。

 当時、こういった若者に対し世間の見方は好意的でありませんでした。「ボランティアと言っているが単なる自己満足じゃないか!」「他人を支援する前に自分が自立することを考えろ!」と言う意見が多かったのです。

 たしかにボランティアは自己満足かもしれません。けれども自分自身が満足できて、結果として被災者の方に喜んでもらえればいったい誰に迷惑をかけるというのでしょうか。もちろんボランティアが独りよがりのものになったり、常に感謝を求めるようなものになったりしてはいけませんが、支援する側とされる側のお互いが満足しているなら誰も非難できないはずです。

 私は、例えば社会との調和がうまくとれなくて結果としてひきこもっている人たちの多くが他人を支援したいと考えていることを確信しています。誤解している人が少なくありませんが、ひきこもっている人たちの大半は決して怠け者でもなくやる気がないわけでもありません。そうではなく、「社会のために役立ちたいのに何もできないことでフラストレーションを感じている」のです。

 実際に、東北地方のひきこもりを支援しているあるNPOでは、その施設に入っているひきこもりの人たちが積極的に避難所に行き、トイレ掃除などを一生懸命やっているそうです。

 人間が生きていることを実感できるのは「他人に必要とされていることを自覚するとき」です。これまでの就職活動で結果が出せなかった人たちも、被災地に行けばきっと他人の役に立てることが見つかるはずです。そこで「奉仕」や「貢献」という人間にとって最も大切な原理原則を思い起こすことができれば、これからの人生が大きく変わる、少なくともそのきっかけになるのではないかと私は考えています。