GINAと共に
第56回 HIVの検査を普及させるための2つの案(2011年2月)
2008年をピークに、世間のHIVに対する関心が低下していることがしばしば指摘されます。
詳しい数字は省略しますが(下記注参照)、2010年は検査数・相談数が大幅に減少し、いきなりエイズが過去最多を記録しています。これは世間のHIVに対する関心がいかに低下しているかということを示しています。HIVの検査というのは、自主的におこなうべきものですから(強制されるべきものではありません)、世間の関心が低下すれば、当然検査数は減少します。
では、世間の関心が低下しているのは誰の責任なのかというと、これは大変むつかしい問題です。HIV検査のPR活動を小さくした行政の責任なのかと言えば、そうも言えないと思います。たしかに、2007~2008年あたりは行政がお金をかけて、テレビCMやポスターを作成したり、電車内の広告をおこなったりして、HIV検査を促し、その結果検査を受ける人が増えましたから、これは評価されるべきです。しかし、こういったPRにはお金がかかり、そのお金は税金でまかなわれていることを考えると、いつまでも派手な啓発活動を続けるわけにはいきません。
では、すでに感染している人が知人や地域社会に働きかけて検査を促すべきなのでしょうか。偏見や差別が蔓延している社会を考えれば、感染者がカムアウトすることは簡単ではありませんから、こんなことは不可能です。
HIV感染が判明するのは、自主的に保健所で検査を受けて・・・、というケースもありますが、当然、医療機関で発覚、というケースもあります。HIVというのは感染症ですから、他の感染症と同様に本来医療機関で診断をつけるものであるはずです。
しかし、実際には、その患者さんは同じ医療機関に長年通院していたのにHIV感染が発覚したのはエイズを発症してから・・・、というケースが珍しくありません。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。医師に診断能力がないのでしょうか。もちろんそのような可能性も否定はしませんが、実は医師にはHIVの診断に関する大きなジレンマがあります。
それは、HIVの検査をしても保険診療が認められない、ということなのですが、これを説明するのに、日本の医療保険制度をおさえておきたいと思います。
例をあげましょう。例えば、あなたが37.5度の発熱が2日続いたためにAクリニックを受診したとしましょう。ちょうどインフルエンザが流行っているために医師はインフルエンザの検査をおこないました。結果は陰性で、単なる風邪と診断され、医師は解熱鎮痛薬のみ処方しました。このとき、あなたはかかった医療費の3割のみを負担し、7割についてはAクリニックが健康保険の審査機関に請求します。このとき健康保険の審査機関は、書類(レセプトといいます)を見てその診療行為が妥当かどうかを審査します。そして、その診療行為が適切であると判断されれば、Aクリニックが請求したとおり7割が支払われるという仕組みです。このケースでは、診療行為が認められないということはまずないでしょう。
では、あなたが今回の発熱に対してHIVを疑っているとすればどうでしょう。発熱は危険な性交渉の約2週間後に起こりました。しかも、その性交渉が原因で10日前には淋病にかかっていたとしましょう。さらに、半年前には別の性交渉で梅毒感染していたとします。今のところ発熱は2日だけですし、他には症状はありません。あなたは思い切ってHIVを心配していると医師に告げたとします。医師も、その状況ならHIV感染は否定できないと判断しました。では、保険を使ってHIVの検査をすればいいではないか、と"常識的には"考えられますが、これが認められないのです。
実際私は、患者さんの話からHIVを疑って保険診療でHIV検査をおこなったことが過去に何度もありますが、ほとんど認められた試しがありません。ひどいときなど、HIV陽性であったのにもかかわらず検査自体が認められなかったのです。認められないとはどういうことかというと、診察時には検査代の3割を患者さんから徴収しますが、残りの7割が支払われないために医療機関の赤字となってしまうのです。
発熱という症状がある場合でさえ検査が認められないわけですから、単に危険な性交渉がある、というだけでは、保険を使っての検査など到底できません。HIV感染が判明する多くのケースではまったく症状がないのに、です。
おそらく行政の言い分としては、「そのために保健所で無料検査が受けられるではないか」となるのでしょうが、保健所だと、検査を受けられる時間が限定されている、とか、すぐに結果が出ずに1週間も待たされる、などの問題もありますし、患者さんの気持ちとしては、「なんで病気のことが心配で病院に来ているのに検査してもらえないの?」となります。
それに、患者さん自身がHIV感染を気にしているときは、まだ納得してもらいやすいのですが、患者さんは疑っていないけれども診察をした医師がHIV感染を否定できないと考えたときに、「HIVの可能性がありますから保健所に行ってください」とは言いにくいものです。なぜなら、患者さんからすれば「HIVの可能性があるならここで検査してくださいよ!」となるからです。
我々医師の立場からみても、早く検査を受けるべきなのに、「保健所に行ってください」と言うのは、実は大変心苦しいのです。ですから、私の場合、目の前の患者さんがHIV陽性である可能性が高いと考えれば、保険が認められなくても患者さんには3割負担だけで検査をおこなうこともあります。あるいは、感染間もない時期であることが予想されれば、抗体検査では不正確ですから遺伝子検査(NATと言います)を、患者さんの負担ゼロでおこなうこともあります。あまり多くの患者さんにこのようなことをおこなうと医療機関の赤字が膨らみますから限度はありますが、我々医師は感染の蔓延を防ぐために早期発見に努めたいのです。(特に感染初期は他人に感染させるリスクが高いのです)
このように医師からみてHIV感染の疑いがあると感じたときは、医療機関の赤字になったとしても検査をおこなうことがあり、実際こういったケースでHIV感染がしばしば見つかります。(私が院長をつとめる太融寺町谷口医院では、2010年にHIV感染が判明した症例の半分以上が、「患者さんはHIVを疑っておらずこちらから検査をすすめたケース」です)
ですから、厚生労働省がHIVの早期発見に努めたい、と本気で考えるなら、医療機関でのHIV検査を保険診療で認めればいいのです。そんなことを認めてしまえば医療費がかさむではないか、という人がいますが、そんなことはありません。保健所でおこなっている検査は全額が行政負担、医療機関での保険診療ならば3割は患者さん負担ですから、医療機関での検査の方が公費負担は少なくてすみます。
さらに、医師が患者さんに保健所に行くことを促し同意を得るのに相当な時間と手間がかかりますから、医療機関で検査ができるようになれば医師の人件費の節約につながります。また、患者さんが実際に保健所に行ってくれる保証がないことを考えると、医療機関にて保険診療で検査をする方が賢明なのは明らかです。(正確に言うと、保健所で発生する費用と医療保険で必要となる費用は出所が異なりますが、どちらも広い意味での「公的なお金」であることには変わりません)
もうひとつ、HIV検査を普及させるために不可欠なことがあります。それは、社会にはびこるHIVへの偏見を取り除くということです。この偏見のために患者さんの何割かは検査を受けることを躊躇します。実際、HIV感染の可能性があると考えた患者さんに検査をすすめても、「検査を受ける決心がつきません」と言って検査を断る人も珍しくはありません。2007~2008年にかけて、HIVの検査を受けよう、というキャンペーンが多数おこなわれましたが、これは検査を促すものであり、HIVの誤解・偏見を取り除くことを目的とはしていませんでした。
40歳を超えたし一度人間ドックを受けてみるか、という感覚で、過去に危険な性交渉がないわけじゃないし一度HIV検査を受けてみようか、と考えられるようになるには、社会の偏見を取り除かなければなりません。
もしも厚生労働省が中心となり、①医療機関で保険診療でのHIV検査を認め、②誤解・偏見を取り除くような啓発をおこなう、この2つが行われればHIVの早期発見は飛躍的に増えることを私は確信しています。
注:詳しい数字は、(医)太融寺町谷口医院ウェブサイトで紹介しています。
(医療ニュース2011年2月14日 「新規エイズ患者がまたもや過去最多」 )
詳しい数字は省略しますが(下記注参照)、2010年は検査数・相談数が大幅に減少し、いきなりエイズが過去最多を記録しています。これは世間のHIVに対する関心がいかに低下しているかということを示しています。HIVの検査というのは、自主的におこなうべきものですから(強制されるべきものではありません)、世間の関心が低下すれば、当然検査数は減少します。
では、世間の関心が低下しているのは誰の責任なのかというと、これは大変むつかしい問題です。HIV検査のPR活動を小さくした行政の責任なのかと言えば、そうも言えないと思います。たしかに、2007~2008年あたりは行政がお金をかけて、テレビCMやポスターを作成したり、電車内の広告をおこなったりして、HIV検査を促し、その結果検査を受ける人が増えましたから、これは評価されるべきです。しかし、こういったPRにはお金がかかり、そのお金は税金でまかなわれていることを考えると、いつまでも派手な啓発活動を続けるわけにはいきません。
では、すでに感染している人が知人や地域社会に働きかけて検査を促すべきなのでしょうか。偏見や差別が蔓延している社会を考えれば、感染者がカムアウトすることは簡単ではありませんから、こんなことは不可能です。
HIV感染が判明するのは、自主的に保健所で検査を受けて・・・、というケースもありますが、当然、医療機関で発覚、というケースもあります。HIVというのは感染症ですから、他の感染症と同様に本来医療機関で診断をつけるものであるはずです。
しかし、実際には、その患者さんは同じ医療機関に長年通院していたのにHIV感染が発覚したのはエイズを発症してから・・・、というケースが珍しくありません。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。医師に診断能力がないのでしょうか。もちろんそのような可能性も否定はしませんが、実は医師にはHIVの診断に関する大きなジレンマがあります。
それは、HIVの検査をしても保険診療が認められない、ということなのですが、これを説明するのに、日本の医療保険制度をおさえておきたいと思います。
例をあげましょう。例えば、あなたが37.5度の発熱が2日続いたためにAクリニックを受診したとしましょう。ちょうどインフルエンザが流行っているために医師はインフルエンザの検査をおこないました。結果は陰性で、単なる風邪と診断され、医師は解熱鎮痛薬のみ処方しました。このとき、あなたはかかった医療費の3割のみを負担し、7割についてはAクリニックが健康保険の審査機関に請求します。このとき健康保険の審査機関は、書類(レセプトといいます)を見てその診療行為が妥当かどうかを審査します。そして、その診療行為が適切であると判断されれば、Aクリニックが請求したとおり7割が支払われるという仕組みです。このケースでは、診療行為が認められないということはまずないでしょう。
では、あなたが今回の発熱に対してHIVを疑っているとすればどうでしょう。発熱は危険な性交渉の約2週間後に起こりました。しかも、その性交渉が原因で10日前には淋病にかかっていたとしましょう。さらに、半年前には別の性交渉で梅毒感染していたとします。今のところ発熱は2日だけですし、他には症状はありません。あなたは思い切ってHIVを心配していると医師に告げたとします。医師も、その状況ならHIV感染は否定できないと判断しました。では、保険を使ってHIVの検査をすればいいではないか、と"常識的には"考えられますが、これが認められないのです。
実際私は、患者さんの話からHIVを疑って保険診療でHIV検査をおこなったことが過去に何度もありますが、ほとんど認められた試しがありません。ひどいときなど、HIV陽性であったのにもかかわらず検査自体が認められなかったのです。認められないとはどういうことかというと、診察時には検査代の3割を患者さんから徴収しますが、残りの7割が支払われないために医療機関の赤字となってしまうのです。
発熱という症状がある場合でさえ検査が認められないわけですから、単に危険な性交渉がある、というだけでは、保険を使っての検査など到底できません。HIV感染が判明する多くのケースではまったく症状がないのに、です。
おそらく行政の言い分としては、「そのために保健所で無料検査が受けられるではないか」となるのでしょうが、保健所だと、検査を受けられる時間が限定されている、とか、すぐに結果が出ずに1週間も待たされる、などの問題もありますし、患者さんの気持ちとしては、「なんで病気のことが心配で病院に来ているのに検査してもらえないの?」となります。
それに、患者さん自身がHIV感染を気にしているときは、まだ納得してもらいやすいのですが、患者さんは疑っていないけれども診察をした医師がHIV感染を否定できないと考えたときに、「HIVの可能性がありますから保健所に行ってください」とは言いにくいものです。なぜなら、患者さんからすれば「HIVの可能性があるならここで検査してくださいよ!」となるからです。
我々医師の立場からみても、早く検査を受けるべきなのに、「保健所に行ってください」と言うのは、実は大変心苦しいのです。ですから、私の場合、目の前の患者さんがHIV陽性である可能性が高いと考えれば、保険が認められなくても患者さんには3割負担だけで検査をおこなうこともあります。あるいは、感染間もない時期であることが予想されれば、抗体検査では不正確ですから遺伝子検査(NATと言います)を、患者さんの負担ゼロでおこなうこともあります。あまり多くの患者さんにこのようなことをおこなうと医療機関の赤字が膨らみますから限度はありますが、我々医師は感染の蔓延を防ぐために早期発見に努めたいのです。(特に感染初期は他人に感染させるリスクが高いのです)
このように医師からみてHIV感染の疑いがあると感じたときは、医療機関の赤字になったとしても検査をおこなうことがあり、実際こういったケースでHIV感染がしばしば見つかります。(私が院長をつとめる太融寺町谷口医院では、2010年にHIV感染が判明した症例の半分以上が、「患者さんはHIVを疑っておらずこちらから検査をすすめたケース」です)
ですから、厚生労働省がHIVの早期発見に努めたい、と本気で考えるなら、医療機関でのHIV検査を保険診療で認めればいいのです。そんなことを認めてしまえば医療費がかさむではないか、という人がいますが、そんなことはありません。保健所でおこなっている検査は全額が行政負担、医療機関での保険診療ならば3割は患者さん負担ですから、医療機関での検査の方が公費負担は少なくてすみます。
さらに、医師が患者さんに保健所に行くことを促し同意を得るのに相当な時間と手間がかかりますから、医療機関で検査ができるようになれば医師の人件費の節約につながります。また、患者さんが実際に保健所に行ってくれる保証がないことを考えると、医療機関にて保険診療で検査をする方が賢明なのは明らかです。(正確に言うと、保健所で発生する費用と医療保険で必要となる費用は出所が異なりますが、どちらも広い意味での「公的なお金」であることには変わりません)
もうひとつ、HIV検査を普及させるために不可欠なことがあります。それは、社会にはびこるHIVへの偏見を取り除くということです。この偏見のために患者さんの何割かは検査を受けることを躊躇します。実際、HIV感染の可能性があると考えた患者さんに検査をすすめても、「検査を受ける決心がつきません」と言って検査を断る人も珍しくはありません。2007~2008年にかけて、HIVの検査を受けよう、というキャンペーンが多数おこなわれましたが、これは検査を促すものであり、HIVの誤解・偏見を取り除くことを目的とはしていませんでした。
40歳を超えたし一度人間ドックを受けてみるか、という感覚で、過去に危険な性交渉がないわけじゃないし一度HIV検査を受けてみようか、と考えられるようになるには、社会の偏見を取り除かなければなりません。
もしも厚生労働省が中心となり、①医療機関で保険診療でのHIV検査を認め、②誤解・偏見を取り除くような啓発をおこなう、この2つが行われればHIVの早期発見は飛躍的に増えることを私は確信しています。
注:詳しい数字は、(医)太融寺町谷口医院ウェブサイトで紹介しています。
(医療ニュース2011年2月14日 「新規エイズ患者がまたもや過去最多」 )
第55回 目の前の困っている人を助ける意義(2011年1月)
このコラムの第39回(2009年9月)「ひとりのHIV陽性者を支援するということ」で、GINAがたったひとりのHIV陽性者に小さくない寄付金の支援をおこなったということを述べました。
この経緯を簡単に振り返っておきます。タイ国パヤオ県在住のある少数民族の40代女性(以下ヌンさん(仮名)とします)が、体調がすぐれずに病院を受診してHIV陽性であることがわかりました。ヌンさんは少数民族の生徒たちが生活している寮の寮母をして生計をたてていましたが、HIV感染のため寮母の仕事を続けることができなくなり、寮を出なければならなくなりました。彼女には小学生の息子がいて、その息子もまた少数民族の生徒としてある寮に入っています。収入が絶たれ、家を失い、子供の養育費のあてもなくなってしまったヌンさんは、以前から知り合いだったパヤオで「21世紀農場」を営む日本人の谷口巳三郎先生に相談し、巳三郎先生がGINAに寄附を依頼されたのです。
ヌンさんが寮をでて、新しい家を建てて、生活費の他、息子の養育費と自分の医療費を捻出しなければならないわけですから、相当なお金が必要となります。
ここで少し説明を加えておきます。まず、なぜ「新しい家」が必要なのかについてですが、身寄りのない彼女は他に行き場がありません。また、パヤオ県のこの地域は相当な田舎でアパートというものは存在しません。日本の大昔の農村地域をイメージしてもらえればいいかと思います。医療費がどうして必要なの?と思う人もいるでしょう。タイの現在の医療制度では、抗HIV薬も含めて無料で治療を受けることができるからです。しかし、無料医療の恩恵に預かれるのは「タイ人」だけです。少数民族のヌンさんはタイ国籍を持っておらず治療費はすべて自費となるのです。
もうひとつ、なぜHIV感染がわかったくらいで寮母の仕事を辞めて、住居にしていた寮を出なければならないのか、という疑問が沸きます。これは、「HIVに対する偏見」がこの地域に根強く存在するから、と言わざるを得ません。寮母として生徒と接することで、HIVを感染させることなどあり得ないと考えていいのですが、そういった啓蒙活動を例えばGINAがこの地域で積極的にやったとしても成果が出るのはまだまだ先になります。大変残念なことではありますが、正しい知識が社会に浸透していないせいで、ヌンさんは寮を出なければならなくなったのです。
GINAがこの女性を支援することについては慎重に議論をおこないました。なぜこの女性だけに特別高額な支援をするのか、という問いに対する明確な答えがないからです。では、翌月に同じ境遇の人から依頼を受けたとき、もう寄附金を捻出する余裕のないGINAはどうすればいいのか、という問題が残りますし、次々に同じような依頼がきたときに、結果としてヌンさんだけを支援したということになれば不公平ではないか、という意見もでてくるでしょう。
しかし、結局GINAがヌンさんを支援することを決めたのは目の前の困っている人をどうしても放っておけなかったからです。ヌンさんはGINAが支援をしない限りは、おそらく路頭にさまようことになったでしょう。ヌンさんの一人息子も寮を追い出され・・・、となったかもしれません。
GINAがヌンさんを支援することを決めた後は、直ちに寄附金の募集を開始しました。非常にありがたいことに多くの方が賛同くださり、早々と予定の金額を達成し、ヌンさんに無事届けることができました。
その後のヌンさんについて簡単に紹介しておくと、場所はかなり辺鄙なところですが小さな家を建て、治療も開始して現在は元気にされているようです。ヌンさんは裁縫が得意で、ポーチやランチョンマットなどの小物をつくって生計をたてています(注1)。最近、近況について手紙をくれました(注2)。
ところで、ここ数年で随分と支援活動や社会貢献、ボランティアなどが注目されてきているように思われます。就職先として考える企業に「どれだけ社会貢献しているか」を重視する学生も多いと聞きます。
そして、最近のはやりというか流れとしては、「一方的な援助ではなく援助される側が自立できるような支援をすべき」というものがあるように私は感じています。もちろん、これは正しい考え方であり、いつまでも無条件の援助をしていると、支援される側の自立が促されませんし、そのうち支援される側に"甘え"が出てきます。
もうひとつ、私が感じているのは「支援は平等に」というものです。これも当たり前の話で、例えば、寄附金を集めて学校を建てる、とか、地域に図書館をつくる、といったものは誰の目からみても健全で平等・公正な支援の仕方だと思われます。ここ数年間で大きく広がったマイクロファイナンスにしても、「誰にでも平等に小口の資金を融資しましょう」、というものでこれも平等かつ公正なものです。
しかしながら、実際には、困っている人を目の前にしたとき、その人に感情移入してしまうのが人間というものです。その困っている人のみを優遇するとみなされることもあり、そのときに寄附金を与えたとしても自立につながらない可能性があることを承知していても、です。
支援というのは、される側の自立を促すものでなければならず、また平等で公正なものでなければならないということは自明ではありますが、人間が他人を助けたいという本能としての欲求は、それだけで説明できるわけではないのです。
山口組三代目組長の田岡一雄氏の娘さんであり、現在は心理カウンセラーやエッセイストして活躍されている田岡由伎さんは、作家宮崎学氏との共著『ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学』のなかで、次のように述べられています。
(前略)困った人がいた時に、「これ持っていき」、ってあげることのできるお金が欲しい。目の前の、縁のある人が助けられたらいいと思うんです。
私は田岡由伎さんのこの言葉に真実があるように思います。支援活動も個人と団体では分けて考えるべきで、縁のある人を助けるのは個人としてすべきであり、団体としておこなうときはそのような"私情"をはさんではいけないのかもしれません。
しかし、医師のパワーの源は目の前の苦しんでいる患者さんを何とか助けたいという理屈を超えた感情ですし、自分のクラスの生徒がいじめられているのを知ったとき学校の先生は理屈ではない感情からその生徒を救おうとするでしょう。医師も学校の先生も、ある意味では"公人"です。
同じように、HIV陽性であることが理由で住居をなくした人を目の前にしたとき、GINAは理屈を超えた支援を考えるのです。これはGINAが大きな組織でなく、小回りの効く小さなNPOだからできることでもあります。GINAのミッション・ステイトメントには「草の根レベルで支援し・・・」とあります。
この言葉がGINAのミッション・ステイトメントから消えることはありません。
注1:ヌンさんが作成したポーチやランチョンマットは、現在(医)太融寺町谷口医院で販売しております。
注2:この手紙については近日中にこのサイトで公開する予定です。→公開しました
この経緯を簡単に振り返っておきます。タイ国パヤオ県在住のある少数民族の40代女性(以下ヌンさん(仮名)とします)が、体調がすぐれずに病院を受診してHIV陽性であることがわかりました。ヌンさんは少数民族の生徒たちが生活している寮の寮母をして生計をたてていましたが、HIV感染のため寮母の仕事を続けることができなくなり、寮を出なければならなくなりました。彼女には小学生の息子がいて、その息子もまた少数民族の生徒としてある寮に入っています。収入が絶たれ、家を失い、子供の養育費のあてもなくなってしまったヌンさんは、以前から知り合いだったパヤオで「21世紀農場」を営む日本人の谷口巳三郎先生に相談し、巳三郎先生がGINAに寄附を依頼されたのです。
ヌンさんが寮をでて、新しい家を建てて、生活費の他、息子の養育費と自分の医療費を捻出しなければならないわけですから、相当なお金が必要となります。
ここで少し説明を加えておきます。まず、なぜ「新しい家」が必要なのかについてですが、身寄りのない彼女は他に行き場がありません。また、パヤオ県のこの地域は相当な田舎でアパートというものは存在しません。日本の大昔の農村地域をイメージしてもらえればいいかと思います。医療費がどうして必要なの?と思う人もいるでしょう。タイの現在の医療制度では、抗HIV薬も含めて無料で治療を受けることができるからです。しかし、無料医療の恩恵に預かれるのは「タイ人」だけです。少数民族のヌンさんはタイ国籍を持っておらず治療費はすべて自費となるのです。
もうひとつ、なぜHIV感染がわかったくらいで寮母の仕事を辞めて、住居にしていた寮を出なければならないのか、という疑問が沸きます。これは、「HIVに対する偏見」がこの地域に根強く存在するから、と言わざるを得ません。寮母として生徒と接することで、HIVを感染させることなどあり得ないと考えていいのですが、そういった啓蒙活動を例えばGINAがこの地域で積極的にやったとしても成果が出るのはまだまだ先になります。大変残念なことではありますが、正しい知識が社会に浸透していないせいで、ヌンさんは寮を出なければならなくなったのです。
GINAがこの女性を支援することについては慎重に議論をおこないました。なぜこの女性だけに特別高額な支援をするのか、という問いに対する明確な答えがないからです。では、翌月に同じ境遇の人から依頼を受けたとき、もう寄附金を捻出する余裕のないGINAはどうすればいいのか、という問題が残りますし、次々に同じような依頼がきたときに、結果としてヌンさんだけを支援したということになれば不公平ではないか、という意見もでてくるでしょう。
しかし、結局GINAがヌンさんを支援することを決めたのは目の前の困っている人をどうしても放っておけなかったからです。ヌンさんはGINAが支援をしない限りは、おそらく路頭にさまようことになったでしょう。ヌンさんの一人息子も寮を追い出され・・・、となったかもしれません。
GINAがヌンさんを支援することを決めた後は、直ちに寄附金の募集を開始しました。非常にありがたいことに多くの方が賛同くださり、早々と予定の金額を達成し、ヌンさんに無事届けることができました。
その後のヌンさんについて簡単に紹介しておくと、場所はかなり辺鄙なところですが小さな家を建て、治療も開始して現在は元気にされているようです。ヌンさんは裁縫が得意で、ポーチやランチョンマットなどの小物をつくって生計をたてています(注1)。最近、近況について手紙をくれました(注2)。
ところで、ここ数年で随分と支援活動や社会貢献、ボランティアなどが注目されてきているように思われます。就職先として考える企業に「どれだけ社会貢献しているか」を重視する学生も多いと聞きます。
そして、最近のはやりというか流れとしては、「一方的な援助ではなく援助される側が自立できるような支援をすべき」というものがあるように私は感じています。もちろん、これは正しい考え方であり、いつまでも無条件の援助をしていると、支援される側の自立が促されませんし、そのうち支援される側に"甘え"が出てきます。
もうひとつ、私が感じているのは「支援は平等に」というものです。これも当たり前の話で、例えば、寄附金を集めて学校を建てる、とか、地域に図書館をつくる、といったものは誰の目からみても健全で平等・公正な支援の仕方だと思われます。ここ数年間で大きく広がったマイクロファイナンスにしても、「誰にでも平等に小口の資金を融資しましょう」、というものでこれも平等かつ公正なものです。
しかしながら、実際には、困っている人を目の前にしたとき、その人に感情移入してしまうのが人間というものです。その困っている人のみを優遇するとみなされることもあり、そのときに寄附金を与えたとしても自立につながらない可能性があることを承知していても、です。
支援というのは、される側の自立を促すものでなければならず、また平等で公正なものでなければならないということは自明ではありますが、人間が他人を助けたいという本能としての欲求は、それだけで説明できるわけではないのです。
山口組三代目組長の田岡一雄氏の娘さんであり、現在は心理カウンセラーやエッセイストして活躍されている田岡由伎さんは、作家宮崎学氏との共著『ラスト・ファミリー 激論 田岡由伎×宮崎学』のなかで、次のように述べられています。
(前略)困った人がいた時に、「これ持っていき」、ってあげることのできるお金が欲しい。目の前の、縁のある人が助けられたらいいと思うんです。
私は田岡由伎さんのこの言葉に真実があるように思います。支援活動も個人と団体では分けて考えるべきで、縁のある人を助けるのは個人としてすべきであり、団体としておこなうときはそのような"私情"をはさんではいけないのかもしれません。
しかし、医師のパワーの源は目の前の苦しんでいる患者さんを何とか助けたいという理屈を超えた感情ですし、自分のクラスの生徒がいじめられているのを知ったとき学校の先生は理屈ではない感情からその生徒を救おうとするでしょう。医師も学校の先生も、ある意味では"公人"です。
同じように、HIV陽性であることが理由で住居をなくした人を目の前にしたとき、GINAは理屈を超えた支援を考えるのです。これはGINAが大きな組織でなく、小回りの効く小さなNPOだからできることでもあります。GINAのミッション・ステイトメントには「草の根レベルで支援し・・・」とあります。
この言葉がGINAのミッション・ステイトメントから消えることはありません。
注1:ヌンさんが作成したポーチやランチョンマットは、現在(医)太融寺町谷口医院で販売しております。
注2:この手紙については近日中にこのサイトで公開する予定です。→公開しました
第54回 骨髄移植はHIVの治療となるか(2010年12月)
2010年12月15日、感染していたHIVが体内から消えた、という非常に珍しい症例がドイツで報告されたことがロイター通信で報道されました(注1)。また世界中の多くのメディアがこのニュースを一斉に取り上げ、先を急ぎたがるマスコミのなかには、HIV完治への治療・・・、のような捉え方をしているようなものもあり、科学者や医療従事者だけでなく、一般の人々にもこのニュースは注目されているようです。
ところが、なぜか日本のマスコミはこのニュースを取り上げず、最初は「私が見逃しただけかもしれない」と考え、日経、読売、朝日、毎日のウェブサイトを検索しましたがヒットしませんでした。もう少し調べると共同通信が12月16日に取り上げていることが分かりましたが、ごく短い文章のみ・・・。やはり、日本ではHIVに対する関心が低下しているのでしょうか・・・。
話を戻しましょう。世界中のメディアで報道されたこのニュースは、1本の論文が元になっています。医学誌『Blood』2010年12月8日(オンライン版)に掲載されたもので、この症例の経緯が詳しく報告されています(注2)。
少し詳しくみていくと、まずこの症例は40歳の男性で10年前にHIV陽性が判明し、抗HIV薬の投与を受けていました。2007年2月に白血病(注3)に罹患していることが判り、一般的な白血病の治療薬(抗がん剤)を受け、いったんよくなりましたが再発し、骨髄移植(注4)を受けることになりました。
そして、このとき選ばれたドナー(骨髄を提供する人)に「CCR5△32」という遺伝子をホモ接合で持つ人が選ばれました。
いきなり、CCR5△32とかホモ接合とか言われても、???、となってしまうかもしれませんので、少し詳しく説明します。
HIVは人の体内に侵入しただけでは感染が成立しません。感染するには人の細胞に侵入していく必要があります。この細胞のひとつが有名なCD4陽性リンパ球です。そしてHIVが巧みにCD4陽性リンパ球に侵入するにはCCR5と呼ばれるケモカイン受容体が重要な鍵を握っています。(ケモカイン受容体というよく分からない言葉がでてきましたが、HIVが侵入するのに必要なリンパ球表面にあるものだと思ってもらえればいいかと思います)
CCR5と呼ばれるケモカイン受容体はタンパク質でできています。タンパク質はアミノ酸が結合したもので、どのようなアミノ酸がどのように並ぶかは遺伝子(DNA)にコードされています。人間の遺伝子はDNAで形成されていて、DNAは対になった2本の鎖からなります。そしてCCR5をコードする遺伝子の鎖の32番目の塩基対が突然変異で欠損した遺伝子を、ホモ接合で持った場合(つまり、相同染色体上で同じ位置にある対立遺伝子が共にこの遺伝子を持った場合)、HIVに感染しない(HIV感染が成立しない)ことが知られているのです。
DNA、ホモ接合、対立遺伝子、相同染色体、・・・、と生物学をキライにさせるようなキーワードがたくさんでてきましたから、このあたりを理解するのは簡単ではないかもしれません。分かりにくい場合は、「CCR5△32という遺伝子をホモ接合で持つ人はHIVに感染しない」、あるいはもっと簡単に、「CCR5が遺伝的にきちんとつくられない人はHIVに感染しない」、と覚えてしまって差し支えないと思います。
この症例の男性は、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植を受けたわけですが、この移植をおこなうに際し、医療者も「白血病の治療だけでなくHIVが消えるかもしれない」と考えていたはずです。そして、何度か移植を繰り返し、抗HIV薬を中止し、およそ4年が経過した現在も、白血病細胞が消失しただけでなく、HIVも検出されていないそうです。これをもって、担当医は「HIVが"完治"した」、と宣言したのです。(注1のロイター通信の記事のタイトルを参照ください)
よく知られているように、現在はすぐれた抗HIV薬がいくつもありますが、これらは生涯にわたり内服を継続しなければなりません。薬を毎日飲まなければならない病気が山ほどあることを考えればHIVも特別な病気ではない、と言われることがしばしばあり、これは正しいのですが、それでも副作用のリスク、飲み忘れれば薬が効かなくなるかもしれないという問題、場合によっては費用の問題、などもあり、実際に薬を毎日飲むというのは思いのほか大変です。
もしも、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植が一般化されれば、多くのHIV陽性者たちに歓迎されるかもしれません。
しかし、ことはそう単純なものではありません。
まず、CCR5△32をホモ接合で持つ人がどれだけいるのかはよく分かっていませんが、おそらくそう多くはないでしょう。地域的な偏りがあり、白人全体でみれば1%程度いるのではないかと言われていますが、他の人種(日本人も含めて)についてはデータがありません。では調べればいいではないか、という意見がでてくるかもしれませんが、遺伝子を調べるというのは倫理上の問題が小さくありません。
もしもあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、HIV陽性の人に骨髄を供給しよう、と考えたとしても、いったいどのHIV陽性者が選ばれるべきなのか、という問題があります。
B級SFドラマのようなシナリオを考えれば、仮にあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、何らかの理由でそれが他人に知られてしまえば、あなたは、HIV陽性者に骨髄を売ろうとしている闇のシンジケートにさらわれ、人格を奪われた上で「骨髄製造器」として存在させられ、闇の施設から抜け出せなくなるかもしれません。
それに、骨髄移植というのは成功すれば「夢の治療」のように思われますが、相当なリスクが伴います。まず、レシピエント(この場合移植を受けるHIV陽性者)は、移植前に自分の骨髄を死滅させるため強力な抗がん剤と放射線照射を受けなければなりません。この時点で、男女とも生殖機能が失われますし、抗がん剤や放射線照射の一般的なリスクを負うことになります。
骨髄移植で最もやっかいな合併症(副作用)がGVHD(移植片対宿主病、graft versus host disease)と呼ばれるもので、ドナー(骨髄提供者)の血液がレシピエントの組織を攻撃(注5)することによって、肝機能障害、下血、皮疹などが出現し、こうなれば有効な治療法があるとは言えず死に至ることも少なくありません。
それに、ドナー側のリスクもないわけではありません。末梢血幹細胞の採取は、古典的な骨髄採取とは異なり、通常の採血のようなかたちでおこないますから、麻酔も必要ありませんし痛みもごくわずかです。しかし、採取前に末梢血の骨髄細胞を増やすためにG-CSFという薬を投与しなければなりません。この薬は完全に安全か、という問題があります。
以上のような理由から、「HIVの治療にCCR5△32をホモ接合で持つ人からの骨髄移植」というのは現時点では現実的な治療法ではありません。むしろ研究が急速にすすめば危険性すらあります。
しかしながら、今回のドイツの症例がきっかけとなり、いつの日かこの遺伝子に着眼した安全な治療法が確立されることを願いたいと思います。
注1:ロイター通信は、「German doctors declare "cure" in HIV patient(ドイツの医師がHIV完治を宣言)」というタイトルで報道しており、下記URLで読むことができます。
http://www.reuters.com/article/idUSTRE6BE68220101215
注2:この論文のタイトルは「Evidence for the cure of HIV infection by CCR5{Delta}32/{Delta}32 stem cell
transplantation」で、下記のURLで全文を読むことができます。http://bloodjournal.hematologylibrary.org/content/117/10/2791.full.pdf+html?sid=9c861b00-a524-4bef-a49f-6b8745e011aa
注3:白血病にもいろいろなものがあり、この症例ではAML(骨髄単球性白血病)と呼ばれるものですが、今回は白血病について詳しく取り上げることはしないでおきます。
注4:骨髄移植というと、全身麻酔の下、太い針で腰の骨(腸骨)などから骨髄を採取する大変痛そうな場面がイメージされがちですが、今回おこなわれたのは末梢血幹細胞移植と呼ばれる普通の採血や献血となんら変わらないドナーの負担が少ない方法です。ただし移植をおこなう前に特殊な薬剤(G-CSF)を投与されるため完全に安全とは言えないかもしれません。(本文も参照ください)
注5:通常、移植後の拒絶反応というと、レシピエントの免疫がドナーから受けた臓器を攻撃するのが一般的ですが、GVHDはドナーの臓器(骨髄)がレシピエントを攻撃するわけですから、まったく逆の反応ということになります。
ところが、なぜか日本のマスコミはこのニュースを取り上げず、最初は「私が見逃しただけかもしれない」と考え、日経、読売、朝日、毎日のウェブサイトを検索しましたがヒットしませんでした。もう少し調べると共同通信が12月16日に取り上げていることが分かりましたが、ごく短い文章のみ・・・。やはり、日本ではHIVに対する関心が低下しているのでしょうか・・・。
話を戻しましょう。世界中のメディアで報道されたこのニュースは、1本の論文が元になっています。医学誌『Blood』2010年12月8日(オンライン版)に掲載されたもので、この症例の経緯が詳しく報告されています(注2)。
少し詳しくみていくと、まずこの症例は40歳の男性で10年前にHIV陽性が判明し、抗HIV薬の投与を受けていました。2007年2月に白血病(注3)に罹患していることが判り、一般的な白血病の治療薬(抗がん剤)を受け、いったんよくなりましたが再発し、骨髄移植(注4)を受けることになりました。
そして、このとき選ばれたドナー(骨髄を提供する人)に「CCR5△32」という遺伝子をホモ接合で持つ人が選ばれました。
いきなり、CCR5△32とかホモ接合とか言われても、???、となってしまうかもしれませんので、少し詳しく説明します。
HIVは人の体内に侵入しただけでは感染が成立しません。感染するには人の細胞に侵入していく必要があります。この細胞のひとつが有名なCD4陽性リンパ球です。そしてHIVが巧みにCD4陽性リンパ球に侵入するにはCCR5と呼ばれるケモカイン受容体が重要な鍵を握っています。(ケモカイン受容体というよく分からない言葉がでてきましたが、HIVが侵入するのに必要なリンパ球表面にあるものだと思ってもらえればいいかと思います)
CCR5と呼ばれるケモカイン受容体はタンパク質でできています。タンパク質はアミノ酸が結合したもので、どのようなアミノ酸がどのように並ぶかは遺伝子(DNA)にコードされています。人間の遺伝子はDNAで形成されていて、DNAは対になった2本の鎖からなります。そしてCCR5をコードする遺伝子の鎖の32番目の塩基対が突然変異で欠損した遺伝子を、ホモ接合で持った場合(つまり、相同染色体上で同じ位置にある対立遺伝子が共にこの遺伝子を持った場合)、HIVに感染しない(HIV感染が成立しない)ことが知られているのです。
DNA、ホモ接合、対立遺伝子、相同染色体、・・・、と生物学をキライにさせるようなキーワードがたくさんでてきましたから、このあたりを理解するのは簡単ではないかもしれません。分かりにくい場合は、「CCR5△32という遺伝子をホモ接合で持つ人はHIVに感染しない」、あるいはもっと簡単に、「CCR5が遺伝的にきちんとつくられない人はHIVに感染しない」、と覚えてしまって差し支えないと思います。
この症例の男性は、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植を受けたわけですが、この移植をおこなうに際し、医療者も「白血病の治療だけでなくHIVが消えるかもしれない」と考えていたはずです。そして、何度か移植を繰り返し、抗HIV薬を中止し、およそ4年が経過した現在も、白血病細胞が消失しただけでなく、HIVも検出されていないそうです。これをもって、担当医は「HIVが"完治"した」、と宣言したのです。(注1のロイター通信の記事のタイトルを参照ください)
よく知られているように、現在はすぐれた抗HIV薬がいくつもありますが、これらは生涯にわたり内服を継続しなければなりません。薬を毎日飲まなければならない病気が山ほどあることを考えればHIVも特別な病気ではない、と言われることがしばしばあり、これは正しいのですが、それでも副作用のリスク、飲み忘れれば薬が効かなくなるかもしれないという問題、場合によっては費用の問題、などもあり、実際に薬を毎日飲むというのは思いのほか大変です。
もしも、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植が一般化されれば、多くのHIV陽性者たちに歓迎されるかもしれません。
しかし、ことはそう単純なものではありません。
まず、CCR5△32をホモ接合で持つ人がどれだけいるのかはよく分かっていませんが、おそらくそう多くはないでしょう。地域的な偏りがあり、白人全体でみれば1%程度いるのではないかと言われていますが、他の人種(日本人も含めて)についてはデータがありません。では調べればいいではないか、という意見がでてくるかもしれませんが、遺伝子を調べるというのは倫理上の問題が小さくありません。
もしもあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、HIV陽性の人に骨髄を供給しよう、と考えたとしても、いったいどのHIV陽性者が選ばれるべきなのか、という問題があります。
B級SFドラマのようなシナリオを考えれば、仮にあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、何らかの理由でそれが他人に知られてしまえば、あなたは、HIV陽性者に骨髄を売ろうとしている闇のシンジケートにさらわれ、人格を奪われた上で「骨髄製造器」として存在させられ、闇の施設から抜け出せなくなるかもしれません。
それに、骨髄移植というのは成功すれば「夢の治療」のように思われますが、相当なリスクが伴います。まず、レシピエント(この場合移植を受けるHIV陽性者)は、移植前に自分の骨髄を死滅させるため強力な抗がん剤と放射線照射を受けなければなりません。この時点で、男女とも生殖機能が失われますし、抗がん剤や放射線照射の一般的なリスクを負うことになります。
骨髄移植で最もやっかいな合併症(副作用)がGVHD(移植片対宿主病、graft versus host disease)と呼ばれるもので、ドナー(骨髄提供者)の血液がレシピエントの組織を攻撃(注5)することによって、肝機能障害、下血、皮疹などが出現し、こうなれば有効な治療法があるとは言えず死に至ることも少なくありません。
それに、ドナー側のリスクもないわけではありません。末梢血幹細胞の採取は、古典的な骨髄採取とは異なり、通常の採血のようなかたちでおこないますから、麻酔も必要ありませんし痛みもごくわずかです。しかし、採取前に末梢血の骨髄細胞を増やすためにG-CSFという薬を投与しなければなりません。この薬は完全に安全か、という問題があります。
以上のような理由から、「HIVの治療にCCR5△32をホモ接合で持つ人からの骨髄移植」というのは現時点では現実的な治療法ではありません。むしろ研究が急速にすすめば危険性すらあります。
しかしながら、今回のドイツの症例がきっかけとなり、いつの日かこの遺伝子に着眼した安全な治療法が確立されることを願いたいと思います。
注1:ロイター通信は、「German doctors declare "cure" in HIV patient(ドイツの医師がHIV完治を宣言)」というタイトルで報道しており、下記URLで読むことができます。
http://www.reuters.com/article/idUSTRE6BE68220101215
注2:この論文のタイトルは「Evidence for the cure of HIV infection by CCR5{Delta}32/{Delta}32 stem cell
transplantation」で、下記のURLで全文を読むことができます。http://bloodjournal.hematologylibrary.org/content/117/10/2791.full.pdf+html?sid=9c861b00-a524-4bef-a49f-6b8745e011aa
注3:白血病にもいろいろなものがあり、この症例ではAML(骨髄単球性白血病)と呼ばれるものですが、今回は白血病について詳しく取り上げることはしないでおきます。
注4:骨髄移植というと、全身麻酔の下、太い針で腰の骨(腸骨)などから骨髄を採取する大変痛そうな場面がイメージされがちですが、今回おこなわれたのは末梢血幹細胞移植と呼ばれる普通の採血や献血となんら変わらないドナーの負担が少ない方法です。ただし移植をおこなう前に特殊な薬剤(G-CSF)を投与されるため完全に安全とは言えないかもしれません。(本文も参照ください)
注5:通常、移植後の拒絶反応というと、レシピエントの免疫がドナーから受けた臓器を攻撃するのが一般的ですが、GVHDはドナーの臓器(骨髄)がレシピエントを攻撃するわけですから、まったく逆の反応ということになります。
第53回 大麻合法化を巡る米国と覚醒剤に甘すぎる日本(2010年11月)
正確なデータを見たことはありませんが、アメリカのイラク帰還兵がHIVに感染する事例が増加しているという話を何度か聞いたことがあります。
戦場で想像を絶するほどの強いストレスを受けたことにより、PTSD(外傷後ストレス障害)となり、その苦しさからヘロインに手を出し、針の使いまわしによりHIVに感染するそうです。
帰還兵は、最初からヘロインに手を出すのではなく、まずはアルコール依存になることが多いそうです。一般的に、薬物は簡単に手に入るものから始められますから、これは容易に想像できます。心の苦しみから逃れるためにアルコールに手を出す→日夜問わずのアルコールへの耽溺→ヘロインの吸入(あぶり)→ヘロインの静脈注射→針の使いまわし→HIV感染となるのです。
アルコールは日本を含む多くの国と地域で成人であれば合法的に手に入りますから、他の薬物に比べて危険性が小さいように思われていますが、実際はそういうわけではありません。アルコールは依存性の大変強い薬物で、ときに人生を破綻させることもあります。また、HIVに感染したイラク帰還兵のように、他のハードドラッグに移行することも少なくありません。
現在アメリカでは、大学生が急性アルコール中毒で救急搬送されるケースが増加しているそうです。FDA(米国食品医薬品局)によりますと、カフェイン入りアルコール飲料が原因となるケースが増加傾向にあり、ついに「商品は違法」とする警告文をカフェイン入りアルコール飲料の製造元に通達したそうです。(報道は2010年11月22日の読売新聞)
2010年11月2日、米国カリフォルニア州ではマリファナ使用の合法化を巡る住民投票がおこなわれました。結果は、合法化反対派が賛成派を制し、マリファナ合法化は見送られることになりました。
住民投票で合法化が見送られたということは、住民の過半数がマリファナを禁止すべきと考えているということですが、少し見方を変えると、「過半数には及ばないものの大勢の人がマリファナを合法化すべきと考えている」ということになります。もしも、大半の人が違法で当然と考えていれば、そもそも住民投票がおこなわれることはないからです。
GINAと共に第34回(下記参照)で述べましたが、カリフォルニア州ではすでに医療用大麻は合法です。しかも、エイズやガンの末期でのみ使える、のではなく、「眠れない」「背中が痛い」「食欲がない」などの症状があれば医師に大麻の処方せんを書いてもらえるそうです。ということは、実質希望すれば誰でも大麻を合法的に入手することがすでに可能なのです。
ですから、大麻合法化に賛成する人たちの多くは、「現在の状況では入手しにくい大麻をなんとか手に入れたいから賛成」なのではなく、「大麻使用が医療に限定されることがおかしい」、と考えているのです。ある雑誌のインタビューに答えていた大麻合法化に向けて活動している人は、「大麻が違法なら、なぜ大麻よりも依存性の強いアルコールが合法なのか・・・」とコメントしていました。
たしかに、「大麻が違法でアルコールが合法」の理由を理論的に説明することは困難です。私にはその理由が見つけられません。
使用時に理性をなくしやすいのはアルコールでしょう。(大麻を吸って車の運転は危険すぎますが、アルコールはもっと危険です) 依存性がより強いのもアルコールです。アルコール依存を断ち切るのは並大抵の努力では無理です。コカインや覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)はアルコール以上に依存性が強く、いったん依存してしまえば、離脱するのは極めて困難ですが、大麻に関してはこういった薬物で起こるようなこれほど強い依存性はありません。むしろ、タバコの依存性の方が大麻よりも強いのです。
なぜ大麻(マリファナやハシシ)はいけないのですか?
こう聞かれたとき、私はいつも、「違法だから。そして大麻が覚醒剤などのハードドラッグの入口になるから」、と答えています。
しかし、もしも大麻が合法であれば、覚醒剤などの入口になりやすいとは言えなくなるのではないでしょうか。実際には大麻と覚醒剤はまったく異なるもので、危険性は天と地ほど違うのですが、「大麻も覚醒剤も同じ違法薬物」とくくられることで、大麻と覚醒剤の垣根がほとんどないような錯覚に陥ってしまうのです。ドラッグのディーラーは、「ほら、君はすでに違法である大麻の快楽を知ってしまったのだよ。ならば次はもっと気持ちよくなれる覚醒剤だよ・・・」と悪魔のささやきをおこなうのです。
けれども、実際には冒頭で述べたイラク帰還兵のように、ハードドラッグ(ヘロイン)の入口になりやすいのは大麻よりもアルコールなのです。なぜなら、アルコールの方が大麻よりも依存性が強く、耐性(同じ量を服用しても効かなくなること、要するに飲んでも酔いにくくなる)もできやすいからです。
以前にも指摘したことがありますが、日本ではこういう議論がほとんどおこなわれていません。マスコミの報道をみていても、大麻、覚醒剤、麻薬をひとくくりにしているようなものが目立ちます。これでは、一般市民が大麻と覚醒剤の危険性の違いを自覚できないのも無理もありません。
日本の違法薬物に関する最大の問題は、「覚醒剤に対する法律がゆるすぎる」ことだと私は考えています。日本は世界で唯一、覚醒剤が合法(ヒロポン)だった時代のある「恥ずべき国家」なのです。覚醒剤を合法化していたことをしっかり反省し、そして覚醒剤取締法を重くすべきです。違法薬物を蔓延させない最も合理的で現実的な方法は罪を重くすることなのです。
2008年11月に北九州門司港で密輸の現場を押さえられ逮捕された嶋田徳龍被告は、覚醒剤を合計で800キログラムも密輸していたことが捜査で明らかになりました。これは末端価格で500億円以上に相当するそうです。この男に対して2010年5月に福岡地裁で下された判決は無期懲役でしたが、2010年11月2日の福岡高裁の判決では、なんと懲役20年に減刑されたのです!
ちなみに覚醒剤を1キログラム保持していると中国では死刑だそうです。マレーシアやシンガポール、タイなどでも、1キログラム程度であれば極刑ということはないでしょうが、無期懲役は覚悟しなければなりません。(麻薬であれば死刑でしょう)
一方、日本の法律では、800キログラムの密輸をしていても懲役20年で済んでしまうのです。この摩訶不思議な判決のせいで、すでにドラッグ天国と呼ばれている日本にますます大量の違法薬物と密売人が入ってくることを私は危惧しています。
カリフォルニアの住民投票で大麻合法化反対の人たちの最大の懸念は、大麻を合法化すれば「治安が悪くなるから」だそうです。大麻の健康上の害よりも住みにくい社会になることを危惧しているというわけです。一方、すでにドラッグ天国と言われている日本では、犯罪者をのさばらせていることにあまりにも無関心です。
カリフォルニアの大麻合法化の住民投票と、800キログラムの覚醒剤を密輸した男が減刑される審判が下されたのが共に同じ日の2010年11月2日ということに、アイロニーを感じずにはいられません・・・。
参考:GINAと共に
第34回(2009年4月)「カリフォルニアは大麻天国?!」
第29回(2008年11月)「大麻の危険性とマスコミの責任」
第13回(2007年7月)「恐怖のCM」
戦場で想像を絶するほどの強いストレスを受けたことにより、PTSD(外傷後ストレス障害)となり、その苦しさからヘロインに手を出し、針の使いまわしによりHIVに感染するそうです。
帰還兵は、最初からヘロインに手を出すのではなく、まずはアルコール依存になることが多いそうです。一般的に、薬物は簡単に手に入るものから始められますから、これは容易に想像できます。心の苦しみから逃れるためにアルコールに手を出す→日夜問わずのアルコールへの耽溺→ヘロインの吸入(あぶり)→ヘロインの静脈注射→針の使いまわし→HIV感染となるのです。
アルコールは日本を含む多くの国と地域で成人であれば合法的に手に入りますから、他の薬物に比べて危険性が小さいように思われていますが、実際はそういうわけではありません。アルコールは依存性の大変強い薬物で、ときに人生を破綻させることもあります。また、HIVに感染したイラク帰還兵のように、他のハードドラッグに移行することも少なくありません。
現在アメリカでは、大学生が急性アルコール中毒で救急搬送されるケースが増加しているそうです。FDA(米国食品医薬品局)によりますと、カフェイン入りアルコール飲料が原因となるケースが増加傾向にあり、ついに「商品は違法」とする警告文をカフェイン入りアルコール飲料の製造元に通達したそうです。(報道は2010年11月22日の読売新聞)
2010年11月2日、米国カリフォルニア州ではマリファナ使用の合法化を巡る住民投票がおこなわれました。結果は、合法化反対派が賛成派を制し、マリファナ合法化は見送られることになりました。
住民投票で合法化が見送られたということは、住民の過半数がマリファナを禁止すべきと考えているということですが、少し見方を変えると、「過半数には及ばないものの大勢の人がマリファナを合法化すべきと考えている」ということになります。もしも、大半の人が違法で当然と考えていれば、そもそも住民投票がおこなわれることはないからです。
GINAと共に第34回(下記参照)で述べましたが、カリフォルニア州ではすでに医療用大麻は合法です。しかも、エイズやガンの末期でのみ使える、のではなく、「眠れない」「背中が痛い」「食欲がない」などの症状があれば医師に大麻の処方せんを書いてもらえるそうです。ということは、実質希望すれば誰でも大麻を合法的に入手することがすでに可能なのです。
ですから、大麻合法化に賛成する人たちの多くは、「現在の状況では入手しにくい大麻をなんとか手に入れたいから賛成」なのではなく、「大麻使用が医療に限定されることがおかしい」、と考えているのです。ある雑誌のインタビューに答えていた大麻合法化に向けて活動している人は、「大麻が違法なら、なぜ大麻よりも依存性の強いアルコールが合法なのか・・・」とコメントしていました。
たしかに、「大麻が違法でアルコールが合法」の理由を理論的に説明することは困難です。私にはその理由が見つけられません。
使用時に理性をなくしやすいのはアルコールでしょう。(大麻を吸って車の運転は危険すぎますが、アルコールはもっと危険です) 依存性がより強いのもアルコールです。アルコール依存を断ち切るのは並大抵の努力では無理です。コカインや覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)はアルコール以上に依存性が強く、いったん依存してしまえば、離脱するのは極めて困難ですが、大麻に関してはこういった薬物で起こるようなこれほど強い依存性はありません。むしろ、タバコの依存性の方が大麻よりも強いのです。
なぜ大麻(マリファナやハシシ)はいけないのですか?
こう聞かれたとき、私はいつも、「違法だから。そして大麻が覚醒剤などのハードドラッグの入口になるから」、と答えています。
しかし、もしも大麻が合法であれば、覚醒剤などの入口になりやすいとは言えなくなるのではないでしょうか。実際には大麻と覚醒剤はまったく異なるもので、危険性は天と地ほど違うのですが、「大麻も覚醒剤も同じ違法薬物」とくくられることで、大麻と覚醒剤の垣根がほとんどないような錯覚に陥ってしまうのです。ドラッグのディーラーは、「ほら、君はすでに違法である大麻の快楽を知ってしまったのだよ。ならば次はもっと気持ちよくなれる覚醒剤だよ・・・」と悪魔のささやきをおこなうのです。
けれども、実際には冒頭で述べたイラク帰還兵のように、ハードドラッグ(ヘロイン)の入口になりやすいのは大麻よりもアルコールなのです。なぜなら、アルコールの方が大麻よりも依存性が強く、耐性(同じ量を服用しても効かなくなること、要するに飲んでも酔いにくくなる)もできやすいからです。
以前にも指摘したことがありますが、日本ではこういう議論がほとんどおこなわれていません。マスコミの報道をみていても、大麻、覚醒剤、麻薬をひとくくりにしているようなものが目立ちます。これでは、一般市民が大麻と覚醒剤の危険性の違いを自覚できないのも無理もありません。
日本の違法薬物に関する最大の問題は、「覚醒剤に対する法律がゆるすぎる」ことだと私は考えています。日本は世界で唯一、覚醒剤が合法(ヒロポン)だった時代のある「恥ずべき国家」なのです。覚醒剤を合法化していたことをしっかり反省し、そして覚醒剤取締法を重くすべきです。違法薬物を蔓延させない最も合理的で現実的な方法は罪を重くすることなのです。
2008年11月に北九州門司港で密輸の現場を押さえられ逮捕された嶋田徳龍被告は、覚醒剤を合計で800キログラムも密輸していたことが捜査で明らかになりました。これは末端価格で500億円以上に相当するそうです。この男に対して2010年5月に福岡地裁で下された判決は無期懲役でしたが、2010年11月2日の福岡高裁の判決では、なんと懲役20年に減刑されたのです!
ちなみに覚醒剤を1キログラム保持していると中国では死刑だそうです。マレーシアやシンガポール、タイなどでも、1キログラム程度であれば極刑ということはないでしょうが、無期懲役は覚悟しなければなりません。(麻薬であれば死刑でしょう)
一方、日本の法律では、800キログラムの密輸をしていても懲役20年で済んでしまうのです。この摩訶不思議な判決のせいで、すでにドラッグ天国と呼ばれている日本にますます大量の違法薬物と密売人が入ってくることを私は危惧しています。
カリフォルニアの住民投票で大麻合法化反対の人たちの最大の懸念は、大麻を合法化すれば「治安が悪くなるから」だそうです。大麻の健康上の害よりも住みにくい社会になることを危惧しているというわけです。一方、すでにドラッグ天国と言われている日本では、犯罪者をのさばらせていることにあまりにも無関心です。
カリフォルニアの大麻合法化の住民投票と、800キログラムの覚醒剤を密輸した男が減刑される審判が下されたのが共に同じ日の2010年11月2日ということに、アイロニーを感じずにはいられません・・・。
参考:GINAと共に
第34回(2009年4月)「カリフォルニアは大麻天国?!」
第29回(2008年11月)「大麻の危険性とマスコミの責任」
第13回(2007年7月)「恐怖のCM」
第52回 自分の娘を売るということ(2010年10月)
寝転んだ母親(23)の上で裸のまま卑わいなポーズを取らされ、無邪気に笑顔を浮かべる2歳の少女の姿。左手でデジタルカメラを操る母親の右手は我が子の小さな足を広げ、画像の端にわずかに映る母親の口元は表情を示さず、一文字に結ばれたままだった。
これは2010年10月5日の日経新聞夕刊に掲載された、「児童ポルノを断つ」という特集記事に掲載された一部です。
母親が自分の娘を売り飛ばすという話は、タイでエイズ問題を語るときには避けては通れない話題です。以前、このサイトで紹介した映画『闇の子供たち』では、冒頭で、幼い娘を斡旋する女衒(ピンプ)が、タイ北部の貧困な家庭を訪れて、娘が売られていくシーンがありました。これは映画ですが、タイではこのような話は(最近は以前に比べると少なくなりましたが)珍しくはありません。
タイの文化、というか風習は、日本人を含む外国からは理解しにくいことがいろいろとあります。子供のことで言えば、小学校に行かずに農作業などの仕事を強いられている子供が少なくないこと、真夜中に街中を裸足で駆けずり回り外国人に花を売っている幼い子供がいること、腕や足のない子供が歩道に座って金銭を乞うていること、などが相当するでしょう。
これらは、倫理的に小さくない問題がありますが、それを見たひとりの外国人が「これはおかしい」と思ったところでどうにもできませんし、理不尽だとは思いながらも「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出し、異国の地で非現実的な正義感を振りかざすことを諦めます。
しかし、いくら、よその国にはよその国なりの価値観や考え方があると言われ、「郷に入っては・・・」の意味を考えたとしても、「自分の娘を売り飛ばす」という行為については、なかなか受け入れることができないのが大半の人の感覚ではないでしょうか。
実際、私もかつてはそう感じていました。「自分の命を差し出してでも子供を守るのが大人の使命ではないのか・・・」、おそらく日本人の大半はそのように思うのではないでしょうか。けれども、タイの一部の地域がいかに貧困にあえいでいるかを知るようになり、私のこの考えは少しずつ変わっていきました。タイでは、母親に売られた娘が春を鬻いで稼いだお金で両親を養い、成人し娘が生まれるとその娘も・・・、と「娘の商品化」が世代を超えて引き継がれていくことすら珍しくありません。本当の貧困のなかに身をおけば、「自分の命を差し出してでも子供を守る・・・」などというのはキレイごとにすぎないのです。少し考えれば、親が命を絶てばそのうち子供も飢え死にするのが自明であることが分かります。
けれども、<もしも親がそれほど貧困でないなら>話はまったく変わってきます。そして、大変残念なことに、こういったことが最近のタイではあるのです。
例えば、北タイのある県のある地域は、土壌が貧弱な赤土に覆われており、農作物がろくに育たず、住民は大変貧しい生活を強いられているのですが、ときどき"場違いな"豪邸が建っています。この地域を横断する広い道を車で進めば、ポツリ、ポツリ、とこのような豪邸を目にします。この地域をよく知る者が言うには、そのような豪邸に住む者のほとんどは娘を売ったお金で贅沢をしている、とのことです。なかには、(男ではなく)女の子が生まれたことで将来は安泰、と考える者すらいるそうです。
もうひとつ、例をあげましょう。これは、タイのあるエイズ施設で働いていたボランティアから聞いた話です。そのボランティアはその施設でHIV陽性のある女性のケアを数年にわたりおこなってきました。何かと"問題"のある女性だったそうですが、ここ1年くらいは社会に適応できるようになり、体調もよくなってきたため、その施設には居住ではなく通所というかたちにして、普段は一人娘とふたりで住むようになったそうです。
ところがその矢先、そのHIV陽性の女性は、大切なはずの一人娘を女衒に売ってしまったというのです。しかも3千バーツ(約9千円)で、です。値段の問題ではありませんが、自分の娘を3千バーツで売り飛ばした、という事実がそのボランティアを大きく落胆させました。このHIV陽性の女性が貧しかったのは事実ですが、これまでもそのエイズ施設を含めて周囲からケアしてもらっていたのですから、娘を売る前に頼るべきところがあったはずです。
<もしも親がそれほど貧困でないなら>という仮定を厳密に定義するのはむつかしいとは思います。しかし、娘を売るなどというのは、貧困が極まり、もう誰にもどこにも頼れない、といった段階にならなければ考えてはいけないことであるはずです。
冒頭で紹介した23歳の母親は日本人です。デジタルカメラを所有しているくらいですから、その日に食べる物がないほどには生活には困っていないはずです。私は、自分の娘を売るという行為が現代の日本で起こっている、などとは考えてみたことがありませんでした。それだけにこの新聞記事を見たときには愕然としました。
たしかに、日本でも「虐待」というものは珍しくありません。最近では身体的虐待だけでなくネグレクト(子供に食事を与えないなど)によって子供の成長障害やひどい場合は死亡したという事件もありますし、また、性的虐待に関しては、表に出てこないだけで、世間で思われているよりもずっと多いということが医師をしているとよく分かります。
しかしながら、他国に比べ大人から子供への性的虐待が多いことは認識していても、自分の娘を売り飛ばす親がこの日本にいる、ということが私には信じられなかったのです。
この日本人の母親は娘の裸を他人に見せただけで<売り飛ばす>とまでは言えないのでは?、という意見もあるかもしれませんが、この記事の後半には、次のような文章もあります。
わいせつな画像を自ら撮影して売ったり、愛好者の男に引き合わせて淫行(いんこう)までさせたり。一連の捜査は1都2府8県に及び、愛好者の男3人と誘い役の女に加え、20~30代の実の母親9人と姉1人を摘発するに至った。被害者の中には、わずか1歳の子もいた。
それほど切羽詰った状況でもないのに、自分勝手な欲望のために自分の娘を売り飛ばすタイ人と、この新聞記事で報道されている自分の娘を"商品"とした日本人の、どこに違いがあるのでしょうか。私に言わせれば<同じ穴のムジナ>です。
さて、ここからが問題です。自分の娘を"商品"とする親とその"商品"を買う輩は誰からみても非難の対象となります。しかし、単なる「非難」だけでは再発を防げません。今回取り上げているタイの話も日本の話も、単なる売春の話ではありません。売春自体にも問題はありますが、対象が子供であることが一番の問題なのです。
以前もこのサイトで述べたことがありますが、幼児愛(pedophilia)は絶対に許されるものではありません。幼児愛者(pedophiliac)に対しては、衝動を抑えられないなら社会から"隔離"されるしかないと私は考えています。
"商品"の取引は、需要と供給があるから成立します。まずは「需要」を徹底的に社会から抹消すべきでしょう。要するに、幼児愛に対する罪を可能な限り重くするのです。
「供給」側に対してはどうすべきでしょうか。必ずしも適切な方法ではないかもしれませんが、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらう」、という方法がいいのではないかと私は考えています。
つまり、「自分の子供を売る以外に、子供も自分たちも死から逃れる方法はなかった。子供が大人に弄ばれたとしてもご飯は食べさせてもらえるだろう。しかしこのままでは子供が飢え死にするのも時間の問題だ・・・」、と考えるしかなかった人が、(少なくなったとはいえ)まだタイを含む諸外国には存在し、さらにもっと言えば、かつての日本にもそのような事情があったということを多くの人に理解してもらう必要があるのではないか、と私は感じています。
参考:GINAと共に第27回 「幼児買春と臓器移植」 (2008年9月)
これは2010年10月5日の日経新聞夕刊に掲載された、「児童ポルノを断つ」という特集記事に掲載された一部です。
母親が自分の娘を売り飛ばすという話は、タイでエイズ問題を語るときには避けては通れない話題です。以前、このサイトで紹介した映画『闇の子供たち』では、冒頭で、幼い娘を斡旋する女衒(ピンプ)が、タイ北部の貧困な家庭を訪れて、娘が売られていくシーンがありました。これは映画ですが、タイではこのような話は(最近は以前に比べると少なくなりましたが)珍しくはありません。
タイの文化、というか風習は、日本人を含む外国からは理解しにくいことがいろいろとあります。子供のことで言えば、小学校に行かずに農作業などの仕事を強いられている子供が少なくないこと、真夜中に街中を裸足で駆けずり回り外国人に花を売っている幼い子供がいること、腕や足のない子供が歩道に座って金銭を乞うていること、などが相当するでしょう。
これらは、倫理的に小さくない問題がありますが、それを見たひとりの外国人が「これはおかしい」と思ったところでどうにもできませんし、理不尽だとは思いながらも「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出し、異国の地で非現実的な正義感を振りかざすことを諦めます。
しかし、いくら、よその国にはよその国なりの価値観や考え方があると言われ、「郷に入っては・・・」の意味を考えたとしても、「自分の娘を売り飛ばす」という行為については、なかなか受け入れることができないのが大半の人の感覚ではないでしょうか。
実際、私もかつてはそう感じていました。「自分の命を差し出してでも子供を守るのが大人の使命ではないのか・・・」、おそらく日本人の大半はそのように思うのではないでしょうか。けれども、タイの一部の地域がいかに貧困にあえいでいるかを知るようになり、私のこの考えは少しずつ変わっていきました。タイでは、母親に売られた娘が春を鬻いで稼いだお金で両親を養い、成人し娘が生まれるとその娘も・・・、と「娘の商品化」が世代を超えて引き継がれていくことすら珍しくありません。本当の貧困のなかに身をおけば、「自分の命を差し出してでも子供を守る・・・」などというのはキレイごとにすぎないのです。少し考えれば、親が命を絶てばそのうち子供も飢え死にするのが自明であることが分かります。
けれども、<もしも親がそれほど貧困でないなら>話はまったく変わってきます。そして、大変残念なことに、こういったことが最近のタイではあるのです。
例えば、北タイのある県のある地域は、土壌が貧弱な赤土に覆われており、農作物がろくに育たず、住民は大変貧しい生活を強いられているのですが、ときどき"場違いな"豪邸が建っています。この地域を横断する広い道を車で進めば、ポツリ、ポツリ、とこのような豪邸を目にします。この地域をよく知る者が言うには、そのような豪邸に住む者のほとんどは娘を売ったお金で贅沢をしている、とのことです。なかには、(男ではなく)女の子が生まれたことで将来は安泰、と考える者すらいるそうです。
もうひとつ、例をあげましょう。これは、タイのあるエイズ施設で働いていたボランティアから聞いた話です。そのボランティアはその施設でHIV陽性のある女性のケアを数年にわたりおこなってきました。何かと"問題"のある女性だったそうですが、ここ1年くらいは社会に適応できるようになり、体調もよくなってきたため、その施設には居住ではなく通所というかたちにして、普段は一人娘とふたりで住むようになったそうです。
ところがその矢先、そのHIV陽性の女性は、大切なはずの一人娘を女衒に売ってしまったというのです。しかも3千バーツ(約9千円)で、です。値段の問題ではありませんが、自分の娘を3千バーツで売り飛ばした、という事実がそのボランティアを大きく落胆させました。このHIV陽性の女性が貧しかったのは事実ですが、これまでもそのエイズ施設を含めて周囲からケアしてもらっていたのですから、娘を売る前に頼るべきところがあったはずです。
<もしも親がそれほど貧困でないなら>という仮定を厳密に定義するのはむつかしいとは思います。しかし、娘を売るなどというのは、貧困が極まり、もう誰にもどこにも頼れない、といった段階にならなければ考えてはいけないことであるはずです。
冒頭で紹介した23歳の母親は日本人です。デジタルカメラを所有しているくらいですから、その日に食べる物がないほどには生活には困っていないはずです。私は、自分の娘を売るという行為が現代の日本で起こっている、などとは考えてみたことがありませんでした。それだけにこの新聞記事を見たときには愕然としました。
たしかに、日本でも「虐待」というものは珍しくありません。最近では身体的虐待だけでなくネグレクト(子供に食事を与えないなど)によって子供の成長障害やひどい場合は死亡したという事件もありますし、また、性的虐待に関しては、表に出てこないだけで、世間で思われているよりもずっと多いということが医師をしているとよく分かります。
しかしながら、他国に比べ大人から子供への性的虐待が多いことは認識していても、自分の娘を売り飛ばす親がこの日本にいる、ということが私には信じられなかったのです。
この日本人の母親は娘の裸を他人に見せただけで<売り飛ばす>とまでは言えないのでは?、という意見もあるかもしれませんが、この記事の後半には、次のような文章もあります。
わいせつな画像を自ら撮影して売ったり、愛好者の男に引き合わせて淫行(いんこう)までさせたり。一連の捜査は1都2府8県に及び、愛好者の男3人と誘い役の女に加え、20~30代の実の母親9人と姉1人を摘発するに至った。被害者の中には、わずか1歳の子もいた。
それほど切羽詰った状況でもないのに、自分勝手な欲望のために自分の娘を売り飛ばすタイ人と、この新聞記事で報道されている自分の娘を"商品"とした日本人の、どこに違いがあるのでしょうか。私に言わせれば<同じ穴のムジナ>です。
さて、ここからが問題です。自分の娘を"商品"とする親とその"商品"を買う輩は誰からみても非難の対象となります。しかし、単なる「非難」だけでは再発を防げません。今回取り上げているタイの話も日本の話も、単なる売春の話ではありません。売春自体にも問題はありますが、対象が子供であることが一番の問題なのです。
以前もこのサイトで述べたことがありますが、幼児愛(pedophilia)は絶対に許されるものではありません。幼児愛者(pedophiliac)に対しては、衝動を抑えられないなら社会から"隔離"されるしかないと私は考えています。
"商品"の取引は、需要と供給があるから成立します。まずは「需要」を徹底的に社会から抹消すべきでしょう。要するに、幼児愛に対する罪を可能な限り重くするのです。
「供給」側に対してはどうすべきでしょうか。必ずしも適切な方法ではないかもしれませんが、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらう」、という方法がいいのではないかと私は考えています。
つまり、「自分の子供を売る以外に、子供も自分たちも死から逃れる方法はなかった。子供が大人に弄ばれたとしてもご飯は食べさせてもらえるだろう。しかしこのままでは子供が飢え死にするのも時間の問題だ・・・」、と考えるしかなかった人が、(少なくなったとはいえ)まだタイを含む諸外国には存在し、さらにもっと言えば、かつての日本にもそのような事情があったということを多くの人に理解してもらう必要があるのではないか、と私は感じています。
参考:GINAと共に第27回 「幼児買春と臓器移植」 (2008年9月)