GINAと共に

第64回 増加する「いきなりHIV」(2011年10月)

 「いきなりエイズ」という言葉は次第に市民権を得てきているような印象があります。HIVとエイズの言葉の違いを聞かれることも減ってきていますし、「いきなりエイズ」とはエイズを発症して初めてHIVに感染していることが発覚したケース、という説明をすることも最近はあまりありません。しかしこれは話す相手がHIVに関心を持っている人だからでしょう。

 2011年10月1~2日、京都市で「第1回AIDS文化フォーラムin京都」というエイズ関連のフォーラムが開催されました。私自身も「プライマリケア医が出会うHIV/AIDS」というタイトルで講演を依頼され、10月2日におこないました。

 私の講演の主題、というか、もっとも強く主張したのは、「いきなりHIV」が増加している、というものです。

 「いきなりHIV」などという言葉は実際には存在せずに、私が勝手につくって勝手にしゃべっているものなのですが、意味は、「エイズを発症していない段階で、発熱や下痢、皮疹などの症状から、本人が気づいておらず医療機関でHIV感染が発覚する症例」となります。

 これについて説明するには、もう一度エイズの定義をおさらいしておいた方がよさそうです。エイズの定義は「HIVに感染しており、なおかつ特定23疾患のいずれかを発症している症例」となります。「特定23疾患」というのは、結核やトキソプラズマ脳症、イソスポラ症など、免疫不全に陥ったときに発症するような疾患です。23疾患のなかには単純ヘルペスウイルス感染症というよくある感染症も含まれていますが、これは、「1か月以上持続する粘膜、皮膚の潰瘍」という注釈がついています。(ですから「HIV感染+1週間で治った口唇ヘルペス」であればエイズとは呼びません)

 私が勝手に提唱している「いきなりHIV」は、エイズを発症していないものの、何らかの症状が出現し、そこからHIVの診断がついた、そして、本人はHIVなどとは夢にも思っていなかった、というケースで、このような症例が2009年以降増加している、というのが講演で述べた主題です。

 私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(開院当初は「すてらめいとクリニック」)は2007年1月にオープンしました。2007年と2008年は、HIV感染が発覚した症例の大半(およそ8割)は患者さん自身がHIVに感染した可能性がある、と考えていた症例でした。「症状は何もないけれども危険な行為があったから・・・」というのが検査を受ける理由であることが大半でした。こういった場合、検査は保健所などの無料検査もありますから、あえて医療機関で受けなくてもいいようなケースが多かったわけです。

 ところが、2009年あたりからこの傾向が大きく変わりました。まず、「症状はないけれども危険な行為があるから・・・」という理由で検査を希望する人が大きく減少したのです。代わりに保健所での検査が増えれば問題ないのですが、残念ながら2009年からは保健所で検査を受ける人も大幅に減少しています。これは、HIVに対する関心が全国的に低下したことを示しています。

 2009年は新型インフルエンザが流行したからそのせいで一時的にHIVへの関心が低下したんだろう・・・、そのような声もありましたが、残念ながら2010年は検査を受ける人がさらに減少しました。2011年の現在もその傾向に変わりはありません。

 一方、厚生労働省が定期的に発表する報告では「いきなりエイズ」が増加しています。2010年は、いきなりエイズが469人に昇り、これは過去最高を記録しています。そして2011年9月に公表された2011年4月~6月の第2四半期のいきなりエイズは、136人となり、これは四半期ごとの数字では過去最高となります。

 さて、「症状はないけれども危険な行為があるから・・・」という理由で検査を受ける人は全国的に減少し、いきなりエイズが増加しているということは厚労省の報告で明らかなわけですが、私が講演で述べたのは、「いきなりHIV」の増加です。

 2007年と2008年には、「いきなりHIV」の患者さんは、クリニックでHIV感染が判った人の2割程度だったのが、2009年には約半数となり、2010年にはさらに割合が増え、2011年(8月まで)は、ついに6割以上の新規HIV感染発覚者が、「まさかHIVなんて考えてもみなかった・・・」という人だったのです。

 では、どのような患者さんを診たときに我々医師はHIV感染を疑うのでしょうか。

 頻度として多いのは「急性HIV感染症」です(注1)。発熱、倦怠感、リンパ節腫脹、皮疹などからHIV感染が発覚するというケースです。ただし、こういった症状をみてすぐにHIV感染を疑うわけではありません。「この症状があれば必ず急性HIV感染症を疑うべき」という指標はひとつもありません。最初は頻度の高い感染症、例えばインフルエンザとかそのときに流行っている感染症(2011年であれば手足口病、マイコプラズマ肺炎、リンゴ病など)をまずは疑います。リンパ節腫脹が顕著なら、伝染性単核球症やサイトメガロウイルス感染なども鑑別にいれます。もちろん溶連菌による咽頭感染や、下痢を伴っている場合であれば病原性大腸菌やサルモネラによる消化器感染症も考えます。そして、こういったよくある感染症(common infectious disease)を否定したときにHIVも鑑別に入れることになります。

 もしも患者さんの方から、「実は薬物の針の使いまわしがあって・・・」とか、「危険な性交渉があって・・・」といった申告があれば、初めからHIVも疑うことになりますが、通常このようなカムアウトを自ら診察室でおこなう患者さんというのは自分でもHIV感染を疑っていますから、こういうケースは「いきなりHIV」には含めません。

 急性HIV感染症以外で、いきなりHIVが発覚するケースは大きく2つに分類できます。1つは、"特殊な"感染症があるときです。どのようなものがあてはまるかというと、梅毒、(難治性の)尖圭コンジローマ、帯状疱疹、B型肝炎などです。梅毒や尖圭コンジローマは珍しい感染症ではありませんが、我々の経験上、HIVを合併していることがときおりあるのです。

 帯状疱疹は、最近では若い人にもよくみられますが(過労や睡眠不足で出現します)、複数回発症している人や、初発であったとしても高熱や倦怠感を伴う重症の場合はHIVを鑑別に入れることになります(注2)。

 B型肝炎は、感染力が強く性的接触などがあれば誰にでも起こりうるものですが、成人になってから感染したケースで慢性化している場合は、HIVも疑うべきだと思われます。特に自覚症状はないけれども健診で肝機能低下を指摘されたからという理由で受診され、B型肝炎ウイルスに感染していることが判り、そのウイルスが慢性化するタイプのものであることが判り、それが危険な性交渉による可能性があることが判って、HIVの検査をして発覚、というケースがときどきあります。(従来、成人になってからB型肝炎ウイルスに感染するケースは、症状を発症しても自然に治ることが多く、劇症肝炎に移行しなければ後遺症もなく完治することがほとんどでした(注3)。しかし2000年代になってから慢性化するタイプのウイルスが増加し問題となっています)

 もうひとつ急性HIV感染症以外で、HIV感染を疑うのは、発熱やリンパ節腫脹、皮疹、下痢といった非特異的な症状が重なって長期で出現している場合です。例えば、単なる脂漏性皮膚炎でHIVを疑うことは通常はありませんが、脂漏性皮膚炎+長引く微熱、や、脂漏性皮膚炎+半年前から続く下痢、などでは場合によっては疑うこともあります。リンパ節腫脹も、疲れたときに出現すること(特に女性の鼡径部リンパ節)は珍しくありませんが、それが強い痛みを伴ったり、倦怠感や微熱も有していたりするような場合はHIVを疑うこともあります(注4)。

 急性HIV感染症が疑われる場合であっても、長引く慢性症状からHIVが疑われた場合でも、「いきなりHIV」は、患者さんにとっては「青天の霹靂」なわけですから、まず大変驚かれますし、これを伝えるのがとても大変なことがあります。(検査の同意を得るときも、HIV陽性であることを伝えるときも大変なのですが、ここが医師の"腕の見せ所"なのかもしれません)

 あまり不安を煽るような報道などは避けるべきですが、これほどまでにHIVに対する社会の関心が低下していることに我々は危機感を持っています。保健所や医療機関でHIVの検査を受ける人が減ったことで問題となるのは、「感染の発覚が遅れること」だけではありません。HIVの関心の低下は、危険な行為(危険な性交渉や針の使いまわし、安易なタトゥーやアートメイクなど)につながることが問題なのです。


注1:急性HIV感染症はHIVに感染するとすべての人に起こるわけではありません。報告によって異なるのですが、だいたい半数程度はなんらかの急性症状が出現するとされています。当院でHIV感染が発覚した患者さんについても、だいたい半数くらいに何らかの症状(軽症から重症まであります)がでています。そして残りの半数の患者さんは、まったく症状がなかったと言います。

注2:帯状疱疹を2回以上発症すればHIVだけが強く疑われる、という意味ではありません。特に女性の場合は、このようなケースではHIVよりも膠原病の可能性をまず鑑別に加えるべきだと思われます。また、特に基礎疾患がないのだけれど帯状疱疹を2回発症したことがある、と言う人もなかにはいます。

注3:これは厳密に言えば少し注意が必要です。最近は、リウマチの新しい治療薬(生物学的製剤)や様々な疾患に対する優れた免疫抑制剤が使われることが増えてきており、こういった薬剤を使用すると自然治癒したはずのB型肝炎ウイルス(以下HBV)が再び活性化することがあります。なぜこのようなことが起こるのかというと、HBVが逆転写酵素を持っているからです。逆転写酵素というものがあると、自分の遺伝子をヒトの遺伝子に植えつけることができるのです。ヒトの免疫で駆逐されたはずのHBVは完全に死滅したのではなく、実はヒトの遺伝子のなかに潜り込んで生きていたというわけです。ですから、従来は、「抗体(HBs抗体)が形成されれば二度とB型肝炎の心配をする必要はありませんよ」、という説明でよかったのですが、最近では、免疫を抑える薬を使用する際には、過去のHBV感染についても考慮しなければならないことになっています。尚、逆転写酵素をもつウイルスは他にHIVとHTLV-1が有名です。

注4:患者さんがどのような症状を呈していても、医師が患者さんの同意を得ることなくHIVの検査をおこなうことはありません。実際、HIV感染を強く疑っても患者さんが検査に同意されなければ、「いずれどこかで検査を受けておいてくださいね」とは言いますがそれ以上のことはおこないません。尚、これは他の感染症についても同様です。ただし、例えば救急外来などに意識消失で運ばれてきて、(例えばエイズ特定23疾患の進行性多巣性白質脳症やHIV脳症が疑われ)HIV感染の可能性があると考えられれば、同意なしで検査をされることもないわけではありません。

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第63回 暴力団排除条例に対する疑問(2011年9月)

 以前、タイのあるエイズ施設で患者さんたちと一緒に記念写真を撮ったことがあります。そのときはたまたま男性患者さんばかりが10人ほど集まって私が真ん中に位置しました。その写真を日本に帰ってからある知人に見せたときの第一声は、「ガラ悪そう・・・」というものでした。

 治療中はあまりそのようなことを意識していなかったのですが、確かに患者さんたちを写真でよくみると、全身にタトゥーがあったり、目つきに凄みがあったり、いかにもそのスジの人・・・、という感じがしてきます。

 タイでは(タイだけではありませんが)エイズは特に珍しい病気ではなく、もう20年以上も前から「誰にでも感染しうる病気」となっています。現在のタイにおけるHIVの三大ハイリスクグループは、男性同性愛者、主婦、セックスワーカーです。主婦が入っているくらいですから、エイズ(HIV感染)は、コモンディジーズ(common disease)とすら言うことができます。

 しかし、HIV感染の発見が遅れ、ある程度重症化してしまい施設に収容され、なおかつ家族に引き取ってもらえずに長期間施設に滞在せざるを得ない人たちだけをみてみると、社会からドロップアウトした人たちや犯罪歴のある人たちが少なくないのは事実です。そんなわけで、私がボランティアとして滞在していたその施設にもアウトローの患者さんが少なくなかったのです。

 当たり前の話ですが、病気は人を選びません。いかなる病気もいかなる人にもかかる可能性があります。したがって、医療者というのは、その人の属性(職業、社会的立場、国籍、宗教など)にかかわらずどのような患者さんも診なければなりません。医療というのはすべての人に平等になされなければならないのです。

 2010年4月1日、福岡県は全国に先駆けて暴力団排除条例を施行しました。その後この条例は瞬く間に全国に広がり、未施行だった東京都と沖縄県が2011年10月1日に施行されることによりすべての都道府県でそろうことになります。

 2011年8月にはタレントの島田紳助さんが暴力団と親密な関係があることを理由に芸能界から引退されることが大きく報道され(注1)、これにより暴力団排除条例が大きくクローズアップされているように思われます。
 
 例えば『週刊新潮』は2011年9月15日号で、「ケーススタディー「暴力団排除条例」」というタイトルで特集を組んでいます。この記事では、一般人がどのようなことをすれば条例に触れるか、という問いに弁護士が答えるかたちをとっています。取り上げられている例をみてみると、暴力団に葬儀場や結婚式場を貸したらダメ、お揃いのスーツを仕立てたテーラーもダメ、さらに暴力団員への電気・ガス・水道の供給もダメ、とされています。この記事によると、これらの行為はいずれも暴力団員との「密接交際者」とみなされる可能性があるそうです。

 今のところ、この暴力団排除条例に対して「断固反対する」という意見をあまり聞きませんから世間には広く受け入れられているのでしょう。しかし、私自身は、この条例に対して決して小さくない違和感を覚えます。

 1992年に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」という名前の法律(いわゆる「暴対法」)が施行されました。このときに故・遠藤誠弁護士は、この法律が憲法違反であることを主張し、山口組からの12億円余の資金提供の申出を断って、無償で弁護したことは有名です。私はこの法律の是非はよく分からなかったのですが、当時感じた率直な感想は、「暴力団員が反社会的行為をとったなら、暴対法などというよく分からない法律ではなく、刑法など既存の法律で取り締まればそれでいいではないか」、というものでした。

 暴対法に対しても疑問を感じていた私ですが、その19年後に全国あまたで施行されようとしている暴力団排除条例に関しては、はっきりと違和感を覚えます。この条例の目的は、暴力団をこの社会から完全に排除することのように思えるのです。誤解のないように言っておくと、私は暴力団が社会に必要である、と言っているわけではありません。暴力団やマフィアがまったくいない社会はたしかにユートピアではあるでしょう。しかし実際にはそのような社会は古今東西存在していませんし、これからも存在することはないのが現実というものです。(以前、作家の宮崎学氏が、「暴力団やマフィアがまったくない社会というのは今の北朝鮮くらい。日本がヤクザを消滅させたいと考えるのは北朝鮮を目指したいということなのか」という内容をどこかで書かれていましたが、私もその通りだと思います)

 現在私は個人的な暴力団員との付き合いは一切ありませんが、これまでの人生でヤクザの世界と接触しかけたことはないわけではありません。例えば、小学校には親がヤクザの同級生がいました。その同級生は私と家が近所ということもあって、よく家に遊びに行っていました。彼は小学校卒業と同時に引越しし、今はどこで何をしているのか知りませんが、もし引越ししていなかったなら同級生として今も付き合いがあったかもしれません。

 大学生の頃、あるアルバイト先に、親がヤクザで自身もいずれはその道に進むとみられていた先輩がいました。その先輩はその頃からそういう雰囲気を持ち貫禄があったのは事実ですが、後輩としての私にとっては、他の先輩たちと根本的な違いがあるわけではありませんでした。今は付き合いがありませんが、何らかの機会があれば顔を合わせることがあるかもしれません。

 暴力団排除条例などという条例を考え付く人たち(官僚や政治家)というのは、おそらく小学生時代から"優秀"であり、同じく"優秀"な生徒に囲まれており、ヤクザなどという人種とはおそらく接することなく過ごしてきたのでしょう。だから、「ヤクザ=社会の悪 → 社会から駆逐されなければならない」という図式が頭の中でできあがっているのではないでしょうか。

 私が大学病院(大阪市立大学医学部附属病院)で外来をしていた頃、地域がらもあり、患者さんのなかには暴力団構成員ではないかと思われる人がいました。あからさまにそれを言う人はいませんが、問診をしているうちに分かることがありますし、分かる人は診察室に入ってきた瞬間から分かります。大学病院の近くに位置したある救急病院で夜間当直をしているときは、あきらかにそれと分かる人が、「指つめたから出血とめてくれ~」と言って切断したばかりの小指に手ぬぐいを当ててやってきたこともありました。

 現在私が院長をつとめる太融寺町谷口医院には、あきらかにそのスジの人というのはまだ受診していませんが、これまでの受診者のなかにはひとりくらいはいたかもしれません。(実は一度だけ目つきから「そうかな」と感じたことがあるのですが、後で保険証をチェックするとその患者さんは警察官でした)

 医療者というのは、患者さんの属性で医療行為に差をつけるということはできません。ヤクザや暴力団構成員だからといって診療に手を抜くことなどは、やれと言われてもできないのです。(もちろんその逆に他の患者さんより手厚い診療をおこなうこともできません)

 電気やガスを暴力団に供給した事業者が条例違反になるなら、暴力団構成員を治療した医師も違反になるのでしょうか。私は暴力団やヤクザを美化するつもりは一切ありませんが、まもなく全国でくまなく施行されようとしている暴力団排除条例は臭い物に蓋をしようとしているように思えてならないのです。「臭い物に蓋」的政策では、いずれそのひずみがでてきます。すでにヤクザがマフィア化して犯罪が地下に潜っていることや、外国人のマフィアが台頭してきていることなどが指摘されていますが、今後新たな社会問題が生じてこないかを心配します。

 冒頭で述べたような多くのアウトローをタイで治療してきた私の立場から言えば(注2)、このような条例のせいで、アウトローの患者さんが受診するのを躊躇して診断が遅れることを危惧します。


注1 私は島田紳助さんの一連の報道についてとやかく言う立場にありませんが、素朴な疑問として、芸能人がヤクザと交流があるのは公認された事実ではなかったのか、と感じています。芸能人の地方の興行には地元のヤクザが関与するものだと思っていましたし、もっと分かりやすい例を挙げれば、美空ひばりと山口組三代目・田岡一雄組長との関係は誰もとやかく言わなかったはずです。(これを確認しようと思って田岡組長についてwikipediaを調べると、コメディアンの榎本健一が田岡組長に酒の席でキスをしている写真が公開されていました)

注2 ちなみにタイでも日本のヤクザは有名で、強くて怖いというイメージがあるそうです。「ヤクサ~」という単語はタイ語にもなっています。ただし発音は、サ(タイ語にはザの音がないため)にアクセントがあり(正確に言えば声調があります)、語尾をのばして発音するので、少し間の抜けた感じがします。

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第62回 インラック政権でタイのHIV事情は変わるか(2011年8月)

 2011年8月中旬、私はGINA関連の業務のためにタイに渡航していたのですが、ちょうどインラック新政権が誕生した直後であったため、タイの報道番組では朝から晩までインラック首相の映像が流されているといった感じでした。

 インラック首相(「イ」の音は「i」ではなく「yi」、「ラ」は「r」ではなく「l(エル)」です)はタイで初めての女性首相、なおかつ現在海外に亡命中のタクシン元首相の実の妹であることから、世界中のメディアで注目されています。

 現地の新聞をみてみると、世論調査では軒並み7~8割の支持率を有しており、これは7月3日に実施された選挙直前のタイ貢献党の支持率よりも高いようですから、元々タイ貢献党を支持していなかった層からの支持も得ているということになるのかもしれません。

 インラック首相が正式に首相に就任したのは8月7日なのですが、ちょうどその頃タイは北部と東北部を中心に洪水の被害に合っていました。インラック首相は被害にあったいくつかの地域を訪問し、それは私がタイに渡航していたときにも続けられていました。北部と東北部というのは、元々タイ貢献党の支持者が大半を占めているということもありますが、インラック首相来訪に対する歓迎ぶりは相当なもので「お祭り騒ぎ」と言ってもいいほどでした。テレビ中継されるその様子は、国民的スターを住民全員で歓迎する、といった感じでした。

 インラック首相は就任したばかりで、政策に関してはまだほとんど何もおこなっていませんが、タイ国外でもインラック首相に対する注目度は高く、日本ではタクシン元首相の来日とも合わせて報道されています。(しかし、日本でのインラック首相の取り上げられ方は、政治的・経済的なことよりもその「美貌」に関することばかり、といった感じです。インラック首相の写真を集めたサイトも複数あるようです)

 さて、今回私は8月11日から渡タイしたのですが、翌日の12日は「母の日」とも呼ばれている日で、タイ皇后の誕生日で国民の祝日にもなっています。この日は、皇后の演説がおこなわれ、私もニュース番組でその演説を見ていたのですが、皇后がインラック首相に何やら箴言をなさっていたシーンが印象に残りました。ニュースでのタイ語が聞き取れなかった私は翌日新聞でその様子を確認することにしました。

 私はその記事を読んで大変驚いたのですが、皇后がインラック首相に「現在最も重要な課題」として話されたのは、「違法薬物の蔓延に対する危惧」だったのです。

 なぜ私が驚いたかを説明したいと思います。このサイトでも何度も取り上げているように、タイは2000年代前半にいったん薬物の入手しにくい「クリーンな国」になりましたが、タクシン政権崩壊後は一気に薬物が蔓延し、再び「ドラッグ天国」に舞い戻りました。もちろんこれはタイにとって好ましいことではありませんが、では「クリーンな国」であった時代を手放しで喜べたか、と言えば決してそういうわけではありません。

 タクシン元首相が政権についた2001年以降、タイ政府は「疑わしきは殺せ」と言わんばかりに徹底的に薬物に対する取締りを強化しました。一説では、冤罪で射殺された一般人が2,500人とも5,000人とも言われています。なかには、宝くじが当たって喜んでいる若い男性を、尋問した警官が違法薬物の販売で入手した大金と間違えてその場で射殺したという事件も報道されました。

 タクシン元首相が薬物に対する取り締まりを徹底しすぎたことで、国民からだけでなく王室からも「ちょっとやりすぎではないか・・・」という声が上がっていたと言われています。そのことだけが理由ではありませんが、王室はタクシン政権に対して好意をもっていなかったのではないかとみられています。(これは噂ですが、軍の反タクシン派が中心となりタクシンを失脚させたクーデターは王室の承認もあったのではないかと言われているほどです)

 王室はタクシンのやり方に好意を持っていなかった、そしてその政策のなかでも最も不評だったもののひとつが「いきすぎた薬物対策」であったわけです。にもかかわらず皇后はタクシンの実の妹のインラック首相に「現在のタイの最重要課題が薬物対策」と言及されたわけです。もちろん、これは皇后が「疑わしきは殺しなさい」と言っているわけではありません。しかし、母の日の演説でタクシンの実の妹のインラック首相に「最重要事項」と言わなければならないほど現在のタイの薬物の蔓延状況は切羽詰っているということです。

 実際、タイの新聞では最近は薬物がらみの報道を見ない日が珍しいくらいです。しかも、新聞で取り上げられているのは、末端価格が日本円で数千万円規模の薬物押収、というものが大半ですから、小規模での薬物の取引が現在のタイで日常的におこなわれているのは自明です。タイでは、薬物の蔓延はHIVの蔓延に直結しますから、GINAとしてもインラック首相の薬物対策には注目しています。

 もうひとつ、GINAがインラック首相の政策で注目していることがあります。それは、セックスワーカーに対してどのような方針をとるかということです。タクシン政権では、少なくとも未成年が働く置屋は徹底的に取り締まられ、ミャンマーやラオスからのトラフィッキングに対してもかなり厳重な対処をしていました。しかし、現在では、売買春に対する取り締まりは弱まり、未成年や隣国から連れてこられた少女がタイ国内で弄ばれているのが現実です。

 インラック首相はタイ国初めての女性首相ですから、国内外のフェミニストや活動家からも注目されています。例えば、タイの英字新聞The Nationは8月10日の社説で「Will first Woman PM Be Lucky For Women?(タイ国初の女性首相は世の女性たちを救えるか?)」というタイトルでいくつかの意見を載せています。女性問題に関する意見をみてみると、「まったく期待していない」という声はないものの、インラック首相の経歴に女性の権利を意識したようなものがないことや、しょせんタクシン元首相のクローンではないかと考えられていることから、「フェミニストの救世主」とはなりえないだろうという意見が目立ちます。一部には、インラック首相の母性に期待して(インラック氏には籍を入れていない内縁の夫と子供がひとりいます)、少なくとも児童虐待と児童のトラフィッキング対策には期待したい、という声もあがっています。

 タイにはHIV陽性のセックスワーカーが大勢います。以前GINAが現地の公衆衛生学者と共同で調査した売春宿にもHIV陽性のセックスワーカーがいて、現地の保健師が健康相談に乗っていました。タイでは売買春は非合法ですし、HIV陽性者がセックスワークをするということにはもちろん問題がありますが、きれいごとだけでは何も解決しないというのが現実なのです。

 売買春をいかにコントロールできるか、というのはHIVが蔓延するのを防げるかどうかという課題に直結します。しかし、やみくもに厳しくすれば、売買春ビジネスが地下にもぐるだけで、こうなるとかえってHIV感染の危険性が高くなりますし、未成年売買を含むいくつもの犯罪が増えることにもなりかねません。子供や女性の安全を確保し権利を保障し、なおかつHIVを含む性感染症を蔓延させないようにするのは決してやさしいことではないのです。

 現在インラック首相の政策については、経済界では「一日あたりの最低賃金300バーツ」が最も話題になっていますが、GINAとしては薬物対策と売買春対策がどのようにおこなわれるのかという点に注目していきたいと思います。

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第61回(2011年7月) 緊急避妊と抗HIV薬予防投与

 2011年5月、日本でも1回飲み切り型の緊急避妊薬ノルレボ(一般名はレボノルゲストレル)が発売となり、マスコミで大きく取り上げられました。通常のピル(oral contraceptive、略してOCとも呼ばれる)が毎日服用しなければならないのに対し、緊急避妊薬というのは通称「モーニングアフターピル」とも呼ばれ、妊娠したかもしれない性交渉(unprotected vaginal sex)の後に内服する避妊薬のことです。

 このノルレボという緊急避妊薬は海外では数年前から一般的になってきており、国によってはごく簡単に購入することができます。インターネットでも買えるようで、日本からでも個人輸入というかたちで、非常に安くすごく簡単に入手することができるようです。(ただし、個人輸入ではニセモノをつかまされるリスクがあります)

 私が院長をつとめる太融寺町谷口医院にも、ときどき緊急避妊薬を求めて受診される方がいます。特に土曜日の午後は、開いているクリニックが少ないこともあり、他府県から車を飛ばしてやって来る人もいます。

 ノルレボ発売によりようやく日本でも緊急避妊がおこなわれるようになったのか、と言えばそういうわけではなく、これまでも一部の中用量ピルを2回にわけて内服するという方法がありましたし、ノルレボが発売になってからもその方法を選択する人もいます。というのは、ノルレボは非常に高価であるからです(海外の5倍以上もします!)。しかし、ノルレボの方が従来の中用量ピルを2回内服するという方法よりも成功率が高いことが報告されており、値段と効果を天秤にかけて選ぶことになります。

 緊急避妊に関して私が最も主張したいことは、「緊急避妊は100%成功するわけではない!」ということです。この点を誤解している人がいて驚かされることがあります。なかには、「コンドームなしの性交渉をしてもその度に緊急避妊をしているから大丈夫」と言う若い女性もいます。

 ノルレボの販売元であるあすか製薬から入手したデータによりますと、ヤッペ法といって2回内服する方法での妊娠率は3.2%、ノルレボを使っても妊娠率は1.1%となっています。太融寺町谷口医院の症例でみても、2回内服する方法で妊娠してしまった人は過去に数人います。ノルレボではまだ妊娠した例がありませんが、使用者が増えてくればやがて避妊に失敗する人もでてくるでしょう。

 婦人科専門のクリニックでない太融寺町谷口医院にすら、大勢の患者さんが緊急避妊目的で受診されるわけですから、日本全国でみればかなりの日本人女性が緊急避妊を経験しているのは間違いないでしょう。年間でいったいどれくらいの日本人女性が緊急避妊を実施しているのかというのはデータがなく分からないのですが、興味深いことに、タイではそのデータがあります。

 2011年7月11日のタイの英字新聞「The Nation」によりますと、タイでは年間800万セットもの緊急避妊薬(おそらくノルレボだと思われます)が消費されているそうです。しかも、タイでは普通の薬局で医師の処方箋なしで買えてしまうのです。報道によりますと、緊急避妊薬を求める多くは10代の未成年で、なかには何度も購入する女子もいるそうです。当局としてはこの事態に危機感を抱いており、緊急避妊薬は低用量ピル(OC)よりも多くのホルモンが使われており身体に負担がかかること、安易に性交渉を持つべきでないことなどを女子生徒に教育していくことを検討しているそうです。

 私はエイズ関連の講演やセミナーをおこなうときには、「大切なパートナーができれば性交渉を持つ前にお互いがすべての性感染症について検査をすべきです」と話しています。そして、「お互いが性感染症に感染していないことを確かめれば(感染していれば治療して治ったことを確認すれば)、あなたはこれから性感染症にかかるリスクはゼロになります。ただしあなた自身もあなたのパートナーも誠実であることが必要ですが・・・」、と続けるようにしています。この私の主張は、エイズに携わる活動家からは不評なのですが(理想論に過ぎず現実的でないと言われるのです)、それでも真実には変わりないわけで、これからも主張し続けるつもりです。

 さて、私の主張を受け入れてもらって(かどうかは分かりませんが)、新しいパートナーができたとき性交渉を持つ前に二人そろってすべての性感染症の検査を受けるという人は着実に増えてきています。数年前までは、太融寺町谷口医院をこの目的で受診して検査を受けるカップルは、西洋人カップル、西洋人と日本人のカップル、日本人同士であれば男性同性愛者、にほぼ限られていたのですが、最近では、日本人の男女のカップルも増えてきています。日本人の男女のカップルに話を聞くと、性感染症の話をしたときに避妊はどうすべきか、という話にもなると言います。当然のことですが、このようにきちんと話をしているカップルの避妊に「危なくなったら緊急避妊に頼ればいいや」という考えはありません。(ただし、コンドームが破れるというアクシデントが起こったときは緊急避妊が必要となることもあります)

 失敗のリスクや身体に負担がかかるリスクなどを考えれば、「緊急避妊薬があるから大丈夫」などという考えが大間違いであることは自明ですが、患者さんからときどき言われるのが「危険な性交渉を持ってしまったから抗HIV薬を処方してほしい」というものです。

 たしかに我々医療従事者は、HIV陽性(かもしれないケースも含めて)の患者さんに対し針刺し事故を起こした場合、直ちに抗HIV薬を内服して感染を防いでいます(注1)。また、HIV陽性者(かもしれない人も含めて)からレイプをされた場合などには抗HIV薬を予防的に内服してもらうことが必要になる場合もあります。けれども、次のように考えている人がいて困ることがあります。それは、「危険な性交渉をしてもその後に抗HIV薬を飲めば問題ないんでしょ」、というものです。

 この考えは完全に誤りです。HIV以外の感染症に対してはどのように考えているのか、性交渉の後どうやって速やかに抗HIV薬を入手するのか、100%の確率で感染予防できるわけではないことが理解できているのか、コストのことは考えているのか、などといった問題があるからです。

 しかし、最近、「抗HIV薬の感染予防目的の服用が有効」という研究がそろってきているのは事実です。医学誌『THE LANCET』2011年7月18日号に掲載された論文(注2)で3つの研究が紹介されています。その3つの研究とは、いずれもHIV陽性者とHIVに感染していないカップルに対し、感染していない人に予防的に抗HIV薬を飲んでもらうことによって感染を予防できることが実証された、というものです。

 この論文で言いたいことは、抗HIV薬はHIV感染者に対してエイズ発症を防ぐことができる治療薬のみならず、HIVに感染することを防ぐ予防薬にもなる、というもので、この発表を受けて、今後のHIV感染予防対策が大きく変わるのではないか、とみる向きが増えてきています。

 けれども、ことは慎重にすすめなければなりません。抗HIV薬は決して気軽に内服するようなものではありませんから、服用していいのは「HIV陽性者のパートナー」に限定されることにはなるでしょう。しかし、そのパートナーの定義はどうするのか、という問題があります。結婚していることを条件にすれば、同性愛者には認められなくなる国や地域は少なくありませんし、男女間のカップルにおいても「抗HIV薬を服用したいから結婚する」という考え方には違和感があります。

 さらに、抗HIV薬にはコストの問題、副作用の問題などがあります。特にコストについて考えると、予防的投与というのは現実的でなくなってきます。現在、日本ではひとりのHIV陽性者に必要な医療費が生涯で1億円は超えると言われています。若い時期に感染し生涯抗HIV薬を内服し続けると2億円になるとの試算もあります。予防的投与に使う抗HIV薬が1種類のみで安いものが選ばれたとしてもかなりの金額になるのは自明です。このコストを誰が負担するのだ、という問題があり、保険適用にはならないでしょうから、おそらく予防的投与が認められたとしても、そのコストはHIV陽性+HIV陰性のカップルが負担しなければならなくなるでしょう。すると「HIV陽性者と交際もしくは結婚できるのは金持ちだけ」という事態になってしまいます。

 今確実に言えることは、相手がHIV陽性であろうがなかろうが、性感染症のリスクを減らすために、また、望まない妊娠を防ぐためにも、カップル間でしっかり話をする、そしてお互いが誠実になり信頼し合う、ということだと私は考えています。


注1 どこの医療機関でも、というわけではありませんが、最近では多くの医療機関で医療者が針刺し事故などを起こしたときのために抗HIV薬を常備しています。針刺しをしてから何時間以内に飲むべき、ということには様々な議論がありましたが、現在は「できるだけ早く」というのが共通のコンセンサスとなっています。(太融寺町谷口医院にも針刺し事故を起こしたときのために抗HIV薬を置いています。しかし、「危険な性交渉があったから処方してほしい」という患者さんからの要望に対しては、レイプがあった、など特殊な状況を除いては応じていません)

注2 この論文のタイトルは、「Antiretroviral prophylaxis: a defining moment in HIV control」で、下記のURLで全文を読むことができます。全文を読むにはregistration(登録)が必要ですが無料でできます。

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2811%2961136-7/fulltext

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第60回 同性愛者の社会保障(2011年6月)

 来たる2011年7月3日はタイの総選挙の投票日で、目下バンコクのみならずタイ全域で選挙活動が大変盛り上がっています。今回の選挙は大変わかりやすい構造で、現与党党首(現首相)である民主党のアピシット氏と、タイ貢献党(Pheu Thai)のインラック・シナワット氏の事実上の一騎打ちとなります。インラック氏は、現在海外に亡命中のタクシン元首相の妹です(注1)。

 アピシット首相は現在46歳ですが、実年齢よりも若く見え、インテリ風の美男子ですが、対するインラック氏も43歳の美形であり、このあたりも選挙戦が盛り上がっている理由のひとつかもしれません。現在の世論調査ではインラック氏が一歩リードしているようですが、タイ貢献党の単独過半数は困難という見方も強く、タイのみならず全世界から注目されている選挙といえます。

 さて、今回お話したいのはタイの政治についてではありません。今回取り上げたいのは「同性婚」についてです。意外に思われるかもしれませんが、タイでは同性婚がいまだに認められていません。現在、同性愛を擁護する団体が、同性婚を認可するよう現与党の民主党及びタイ貢献党に公約を求めています。

 2011年5月31日のThe Nation(タイの英字新聞)によりますと、同性愛者の団体のリーダーであるナティー氏(Natee Teerarojjanapongs)と、性転換をしている歌手のジム・サラ氏(Jim Sarah)らが、5月30日、民主党とタイ貢献党の双方に「政権与党となれば、同性婚を認可してもらいたい。同性愛者は、有権者の10%に相当する約400万人に上る。我々にも法的保護、社会保障を受ける権利があるはずだ」と訴えたそうです。

 さて、多くの人が感じるものと思われますが、タイほど同性愛に寛容な国は他に見当たりません。なにしろ、中学生くらいから男子生徒の1~2割は、いかにもゲイ、という格好をしていますし、そのような生徒と普通の(ストレートの)女子生徒が普通に会話をしているシーンは電車や街の中でよく見かけます。

 日本では、学生はもちろん、社会人でも同性愛者であることをカムアウトしている人はそれほど多くはありません。私の知る限り、日本の大企業の社員や公務員で同性愛者であることを職場でカムアウトしている人はほぼ皆無ですし、(おそらく他の職種よりも同性愛者の比率が多いと思われる)医療者でさえ、勤務先でカムアウトしている人をほとんど知りません。患者として私の診察を受けている医療者に同性愛者は少なくありませんが、これまで私が勤務してきた医療機関で、つまり同僚として接する医療者のなかには、同性愛者であることを私にカムアウトした人はひとりもいません。外資系の航空会社の男性フライト・アテンダントにゲイが多いというのは多くの人が感じていることだと思いますが、日本ではあまり聞きません。

 私の知る限り、日本で同性愛者であることを職場でカムアウトしているのは、例えば社長がゲイであることを公言している比較的小さなデザイン会社とか、同性愛者が集まる飲食店の店員とか、あるいは同性愛者であることを売りにしている芸能人などに限られます。

 本当は、同性愛者であることは恥ずかしいことでもなんでもないわけで、堂々としていればいいのですが、それができないところに日本社会の閉鎖性を見て取れるように感じます。

 話をタイに戻しましょう。タイでは、中学生くらいから同性愛者であることをカムアウトしている人は非常に多いですし、一般企業で働く人もごく普通にカムアウトしています。私も、タイ人の知り合いで男性同性愛者、女性同性愛者、両性愛者(バイセクシャアル)などがいますが、みんな普通に仕事をして普通に恋愛を楽しんでいます。最も驚かされるのは大学生でしょう。タイの大学では、それも一流であればあるほど、男性の同性愛者の比率が増えます。大学や学部によっては9割の男子学生が同性愛者なんてところもあります。(理系はそうでもありませんが、医療系はやはり同性愛者が多いようです)

 ただ、タイの同性愛者の全員が同性愛者であることのハンディを感じていないか、と言えばそういうわけではなく、なかには同性愛者であることを隠している人もいますし、同性愛者であることが周囲に知られて職場で差別的な扱いを受けるようになったという人がいるのも事実です。

 同性愛のかたちのひとつにレディボーイ(日本風に言えばニューハーフ)がありますが、彼女(彼?)らは、女装していないゲイに比べると幾分社会で生きにくさを感じているようです。(下記コラムも参照ください) しかし、特殊な例かもしれませんが、フライト・アテンダントにレディボーイを登用するという新興航空会社も登場しました。この会社は「PCエアー」といい(PCはPhuket Carrierの略)、当初の発表では、2011年2月から、バンコクと関西・成田、及びバンコクと(韓国の)仁川を結ぶ路線に就航する予定でした。しかし、現時点(2011年6月)でも就航決定の案内がされておらず、(タイのことですから・・・)このまま消えていくのかもしれません。(注2)

 先に述べたThe Nationの報道によりますと、2つの政党に嘆願に出向いたナティー氏は「パートナーとは17年間も夫婦同然に暮らしているが、男女の夫婦のように社会的保護を受けることができない。例えば、もし私に緊急手術が必要となったとしても、パートナーは手術同意書に署名することすらできない」とコメントしています。

 タイでは男女のカップルで子供が数人いたとしても、籍を入れていない、なんてこともよくありますし、元々社会保障が手厚い国ではありませんから、同性婚を認可する・しない、というのはそれほど問題にならないのかな、と私は感じていたのですが、たしかにナティー氏が主張するような問題は切実と言えるでしょう。

 タイという国は、東北地方(イサーン)に行けば、地域あたりの一人あたりのGDPが日本円で年間10万円程度であり、先進国との格差を強く感じますが、バンコクやパタヤ・プーケットなど一部のリゾート地をみていると、先進国との差はありません。特に、都心に住む同性愛者の人たちからみれば、同性婚が認可されなければ社会保障の観点からハンディを背負うことになるのかもしれません。

 同性婚は現在では多くの国や地域で認められています。また、「同性婚」そのものが認められなかったとしても従来の夫婦と同様の権利を認める「パートナーシップ法」が施行されている国や地域も多数あります。というより、イスラム社会を除けば、先進国で同性愛者が法的に擁護されない国は、シンガポール、ロシア、日本、韓国くらいに限定されます。ちなみに、中国は法律そのものはありませんが一度全国人民代表会議で同性婚が提案されたことがありますし、カンボジアでも、シアヌーク国王が同性婚を支持すると発表したことがあるそうです。日本では同性婚どころか、同性愛者の社会保障が国会で議論されたことすらほとんどないのではないでしょうか。(注3)

 最後に再びタイの話に戻します。マスコミの報道によりますと、ナティー氏らの「同性婚認可を公約に入れてほしい」という申し入れに対し、両政党とも「党内で検討する」という回答はしたものの、「同性婚を公約する」とは言及していないようです。

 しかし、あらためて考えてみると、有権者の10%に相当する約400万人が同性愛者であるということは、同性愛者の存在が政権維持に大きな影響を与えるのは間違いないでしょう。

 同性愛者におけるHIVの新規感染は、90年代ほどではないにせよ、下げ止まりの状態が続いており、タイでは「同性愛者」は「主婦」と並んでHIVの最たるハイリスクグループとなっています。同性愛者に対するHIV対策を効果的におこなうためにも、同性愛者の団体の意向を政府が尊重すべきではないかと思われます。

注1:インラックは名、シナワットが姓ですが、タイでは通常姓ではなく名が使われます。このためマスコミ報道などでも姓ではなく名が伝えられますし、長年連れ添っている友達同士でも互いに姓を知らないということがよくあります。

注2:PCエアーの今後の就航がどうなるかは現時点では未定ですが、興味のある方は同社のウェブサイトをチェックしてみてください。
http://www.pcairline.com/

注3:日本の興味深いところは、同性愛者のタレントが多く、テレビにもよく登場するということです。タイのテレビにも同性愛者はよく登場しますが、私の知る限りタイと日本を除く国では、これほどテレビに同性愛者が出演しません。そもそも西洋諸国で同性婚の議論が起こり、認められるようになったのは、実際には差別や偏見が根強く存在するからであり、現在でもテレビに堂々と同性愛者が登場するということはあまりありません。この点に関して、私は日本の同性愛事情のユニークさに関心を持っているのですが、今回の議論とは離れますのでこれ以上は述べないでおきます。

参考:GINAと共に第12回(2007年6月)「レディボーイの苦悩」 

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