GINAと共に

第146回(2018年8月) タイの医療機関~ワクチン・HIVのPEPを中心に~

 GINAのウェブサイトをみて、「タイではどこの病院に行けばいいですか」という問い合わせをしてくる人が大勢います。受診理由として最も多いのが「HIVのPEPはどこで受けられますか」というものです。また、HIV陽性の人から、「タイでHIVの治療を受けるならどこがお勧めですか」、という質問もときどき届きます。

 HIV関連以外では、「タイで病気や怪我をしたときにお勧めの病院はありますか」、というものはよくあります。最近は、「タイでワクチンをうつと日本とは比較にならないほど安いって聞いたんですけど......」という問い合わせも増えています。

 そこで今回は、タイで医療機関を受診するならどこがいいのかについて目的別に紹介していきたいと思います。まず、総論として次のポイントを押さえておきましょう。

・タイの社会保険を持っていないなら基本的には自費診療。突然の病気や怪我の場合は海外旅行保険が使えることが多い。

・タイで働いている人は(working permitを取得していれば)社会保険が使える。ただし、受診先は勤務先が指定する場合が多く、指定病院は(ときに設備が充分でない)公立病院となる。そういった病院では、日本語は通じず、医師以外の医療者は英語ができないこともある。

・「豪華な病院」にはたいてい日本語の通訳がいる。費用は高く救急車を呼べば数万円のことも。海外旅行保険が使えることが多いが、保険会社が認めなければ救急車の費用などは適用されないこともある。

・クリニックはたいてい自費診療。ただし日本と異なり病院とは費用に差があり、一般に病院よりも安い。タイ語ができれば問題なく受診できる。英語だけでも医師との対話はまずOK。

・夜間などクリニックが開いていない時間帯で「豪華な病院」を避けたい時は、タイ人が利用する公立病院受診を検討すればよい。クリニックと同様、タイ語ができれば問題なし。英語だけでも医師との対話はOK。

 だいたいこんなところです。ではバンコクの情報をお伝えします。チェンマイは後半に記します。今回は他の地域の情報はありません。

〇突然の病気や怪我が起こったとき

 バンコク近郊にいるときに「軽症」なら次の2つのクリニックは検討してもいいでしょう。日本人御用達のクリニックで日本語の通訳が常駐しています。下記URLも日本語です。

DYM+ Clinic
BLEZ Clinic

 「重症」の場合や上記クリニックが閉まっている時間であれば下記の3つのいずれかの「豪華な病院」が適しています。いずれも日本語の通訳がいます。下記URLも日本語です。

Bumrungrad International Hospital 
Samitivej Hospital  
Bangkok Hospital 

〇HIVのPEP/PrEPを希望するとき 

 最もお勧めなのはタイ赤十字が運営する「Anonymous Clinic」。タイではPEPは日本とは異なった使い方をします。(参照:Thailand National Guidelines on HIV/AIDS Treatment and Prevention 2017)

#1 テノホビルジソプロキシルフマル酸塩(Tenofovir disoproxil fumarate, TDF)300mg + エムトリシタビン(emtricitabine, FTC)200mg(ツルバダ)
#2 リルピビリン(Rilpivirine, RPV)25mg(エジュラント)
#3 ラルテグラビル(Raltegravir、RAL)400mg(アイセントレス)
(参考:Anonymous Clinicのprice list)

 日本では#1を1日1錠と#3を1日2錠飲み、1日あたり約10,000円もかかります。タイの標準的な飲み方は#1と#2を1日1錠ずつです。費用はAnonymous Clinicを利用した場合、#1は一番安いジェネリック薬品を用いれば1錠12.25バーツ(約37円)、#2は1錠6.25バーツ(約19円)(いずれも2018年8月現在)です。合計で1日あたり18.75バーツ(60円未満)、なんと日本の170分の1の値段です。

 1日あたり60円なら、日本で感染の機会があったとしても翌日にLCCなどを利用してバンコクに渡航する価値が充分にあるでしょう。ちなみに、タイのLCCノックスクートは2018年10月30日から関空→バンコクを開始し、そのセール価格は8,900円です。

 タイで日本と同様#1と#3の組み合わせにするのは、感染したかもしれないウイルスが耐性ウイルスである可能性を考えたときです。#3はタイでも高価ですが、それでもAnonymous Clinicでは1錠128バーツ(2018年8月現在)です。これを1日2錠のみますから、1日あたりのPEPは#1の12.25バーツ+#3の128x2(=256バーツ)で合計268.25バーツ(約810円)となります。

 PrEPは日本でもタイでも#1を1日1錠が基本です。日本では一月あたり10万円以上かかりますがタイではわずか1,200円程度です。

 当然のことながら治療を受けるときも日本とは比較にならないくらい安くつきます。薬の組み合わせによっては日本で3割負担の治療を受けるよりもはるかに安くなるというわけです(もっとも、日本では所得にもよりますが厚生医療の適応になりますから本人負担はさほど高くありません)。

 タイではHIVは日本よりもはるかに感染者が多くコモン・ディジーズとなっていますから、基本的に多くの病院/クリニックで治療が受けられます。GINAが調べた範囲ではAnonymous Clinicが最も安い費用で提供しています。

〇ワクチンを接種するとき

 ワクチンは次の2つのいずれかがおそらくタイで最も安いでしょう。ただし双方とも日本語は通じません。タイ語か英語がある程度できなければ受診は困難でしょう。

Thai Travel Clinic
  マヒドン大学の熱帯医学病院の中にあります。ワクチンのプライスリストはウェブサイトで閲覧できます。

・タイ赤十字のImmunization and Travel Clinic 
  先述のAnonymous Clinicと同じ敷地にあります。このクリニックのすぐ隣には「ヘビ園(snake farm)」があり観光名所となっています。ワクチンのプライスリストは公開されておらずクリニック内に掲示されているだけです。

 例えば狂犬病ワクチンは日本では1本15,000円ほどしますが、上記クリニックではいずれも1,100円ほどです。麻疹・風疹混合ワクチンは日本では10,000円以上しますが(さらにすぐに在庫切れになる)、上記クリニックではMMR(麻疹・風疹・おたふく)ワクチンが600円ほどです。

〇チェンマイの医療機関

 クリニックについては情報不足でよくわかりません。基本的にはタイ語か英語ができないと受診は困難です。メサドン療法(麻薬依存症の治療)を実施しているクリニックもあります。

 日本人が受診しやすいのは次の5つの病院です。

Chiangmai Ram Hospital
トータルでみれば一番お勧めです。救急車は無料ですし日本人スタッフが丁寧に対応してくれます。

Rajavej Chiangmai Hospital 
タイで働いている人なら社会保険も使えることがあるそうです(受診前に確認してください)。日本語の通訳がいます。

Lanna Hospital  
Rajavej Chiangmai Hospitalと同様、社会保険が使えることがあるそうです(やはり受診前に確認してください)。日本語の通訳がいます。

Bangkok Hospital Chiang Mai
費用が最も高いと言われています。救急車要請は数万円かかることもあるようです。日本語の通訳がいます。

McCormick Hospital
これら5つの病院で最も費用が安いと言われています。ただし日本語の通訳はいませんから、タイ語か英語での診察となります。

 その他下記の病院があります。いずれも旅行者向けではありません。

Nakornping Hospital 
国立病院です。

Maharaj Nakorn Chiang Mai Hospital
通称Suandok(スワンドーク) Hospital。チェンマイ大学医学部附属病院で国立です。

Chiang Mai Neurological Hospital 
神経疾患の専門病院でチェンマイ市立病院です。

〇最後に

 上記情報はいずれも2018年8月現在のものです。受診前には直接医療機関に問い合わせられることを勧めます。医師と患者には"相性"がありますが、タイの医療機関を受診した人たちの話によると通訳との相性も重要のようです。「あそこの病院は通訳がイヤだから二度と行きたくない」という声も何度も聞きました。個人的には、タイが好きな人やタイに繰り返し渡航する人はタイ語か英語を勉強して通訳なしで受診することを勧めます。






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第145回(2018年7月) ロシアでHIV感染は増えるか

 2018年はロシアでワールドカップが開催されるという話を聞いて、まず私が感じたのが、各国は「観戦ツアーでHIV感染に注意」という勧告を出すべきではないのか、ということでした。

 私はロシアに渡航したことはなく、また、現地の事情に詳しい知人もそういないのですが、私がタイのエイズ問題に関わりだした2000年代前半にはすでにロシアでの感染者増加が問題になっていました。

 セックスワーカーが街に氾濫し、ロシア国内のみならず、タイのパタヤなどにも出稼ぎにやってきているという話をよく聞きました。ロシアは旧ソ連のなかではさほど貧困ではないというイメージがあるからなのか、「パタヤにいる自称ロシア人のセックスワーカーの本当の出身地は〇〇スタンと付く旧ソ連の貧しい国だ」、という話もありましたが、GINAが調査したところによると、ロシア出身でタイに出稼ぎにきているセックスワーカー達も少なくありませんでした。

 タイでセックスワークとなると、当然考えなければならないのがHIV感染です。こういった問題には信頼できるデータがなく「噂」の域を超えない情報が多いのですが、「ロシアのセックスワーカーにはHIV陽性者が多い」という話も何度か聞きました。

 実際、ロシア国内の調査では「サンクトペテルブルグで週に20人以上の顧客がいるセックスワーカーの3人に2人はHIV陽性」というものもあります。これについては、このウェブサイトでも報告したことがあります。「なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか」でグラフを示しています。

 では、最近のロシアではどうなっているのでしょうか。当時(2000年代前半)に比べると、私自身がタイに渡航する機会も減り、パタヤのセックスワーカーに対する情報もあまり入ってこないのですが、どうも以前に比べるとロシア人のセックスワーカーは激減しているようです。代わりに(というわけではありませんが)ロシア人の観光客が激増していると聞きます。つまり、これはロシアが裕福になったということを意味します。

 裕福さとHIV陽性率に関連があるとは言い切れないとは思いますが、やはり国民が豊かになりセックスワークをせざるを得ない人たちが減ると感染率は下がるはずです。ならば、ロシア国内でのHIV感染者は減っているのでしょうか。

 最も信頼できるHIV感染に関する国別のデータはUNAIDSのものです。ロシアをみてみると、なんと「空欄」になっています...。つまり、公式データがない、もしくはあったとしてもロシアが公表していないということです。カザフスタンやキルギス(キルギスタン)など他の旧ソ連の国々はきちんとデータを公表しているのに、です。

 とりあえず信ぴょう性に高くないかもしれませんが存在するデータをみてみましょう。wikipediaによると現在のロシアのHIV陽性者は85万人から150万人、2015年の1年間で95,000人が新たにHIVに感染したとのことです。全体の1/10が1年間で感染しているということは、急激に感染者が増えていることになります。

 「Russia」「HIV」で検索してみると、いくつかの英字新聞がヒットします。過去1~2年のものにざっと目を通してみると、軒並み「HIV増加が止まらない」といったことが書かれています。ロシアに滞在する外国人が最もよく読む英字新聞と言われている「The Moscow Times」には、保健大臣(Health Minister)のVeronika Skvortsova氏が現在のHIV状況は危機的であると発言したとの記事もあります。しかし、一方ではロシア政府はそれを認めていないとする報道もあります。

 政府が認めていないからといって、ロシア当局のコメントを信用するわけにはいきません。UNAIDSによれば、世界中のHIV新規感染者の約半数は5つの国で感染しており、そのひとつがロシアです。The New York Timesが報道しています。ちなみに他の4か国は、南アフリカ共和国、ナイジェリア、インド、ウガンダです。

 さて、話を冒頭のワールドカップ観戦に戻しましょう。私が調べた限り「ワールドカップ観戦でHIV感染が広がるのでは?」といった切り口で報道しているメディアはありませんでした。そういうときは、信頼性は高くないにしても実際に渡航した人に尋ねるしかありません。私が収集した情報によれば、セックスワーカーが街にあふれている、という感じはまったくなかったそうです。「セックスワーカーのいない国や地域はない」と言われますから、おそらく行くべきところに行けばそういう人たちもいるのでしょう。ですが、サンプトペテルブルグからの情報によると、街を見渡した限り、上に紹介したような「週に20人以上の顧客をとっているセックスワーカーがそこらじゅうにいる街」にはとうてい思えないそうです。

 それどころか、渡航した人たちのほとんどが「ロシアがこんなに進んだ国とは思ってなかった」と言います。確かに、近年のロシアの経済発展は好調で2000年代初頭に比べると、ひとりあたりのGDP(GDP per capita)は右肩上がりでおよそ2倍になっています。

 ここまでをまとめると、▽ロシアは裕福になりひとりあたりの所得が増加した、▽海外(パタヤ)のみならずロシア国内のセックスワーカーも激減した、▽しかしHIV陽性者は急増している、ということになります。ロシアでも違法薬物の静脈注射やタトゥーでHIVに感染する者は多いと聞きますが、これらは国民が裕福になると減少するはずです。となると、なぜロシアでHIV感染が増えているのかの説明がつきません。考えられるのは、「すでにある程度まで蔓延していて、現在では通常の(売買春でない)自由恋愛で広がっている」ということでしょうか。

 ならば、ワールドカップ観戦で突然生まれたロシア人とのロマンスで(日本人を含む)外国人がHIV感染、ということも充分にあり得るのではないでしょうか。私が入手したロシア渡航者からの情報によれば、ロシア人(の特に女性)は日本人が抱くステレオタイプ的なイメージ、つまり「冷たくてとっつきにくい」ではなく、実際にはその真逆で、明るくてフレンドリーだそうです。お互い英語がうまくないためにかえってコミュニケーションが盛り上がったという話も...。

 ところで、ロシアのHIVを語る上で避けて通れない話があります。それは(種類にもよりますが)「ビザ取得時にHIVに感染していないことを証明しなければならない」という規則です。もちろんこんな規則は「人権侵害」そのものですから世界中から批判されています。ですが、実際にはロシアのみならず、シンガポールや中東諸国などでも同様の規則があり、そのために渡航できない人もいます。

 ワールドカップ渡航時にはHIV陰性証明は不要だったと聞きました。もしもあなたがワールドカップ観戦でロシアが気に入り、ロシア語を勉強し、留学もしくは仕事でロシアに行けることになったとしましょう。しかしワールドカップ観戦ツアー中に生まれたロマンスでHIVに感染していて夢が絶たれた...、などということになっていなければいいのですが......。

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第144回(2018年6月) 米国の梅毒増加は日本にも波及するか

 1年ほど前からジャーナリストの人たちから「梅毒は中国人が持ち込んだというのは本当か」という質問をよく受けるようになりました。おそらくその理由のひとつは毎日新聞ウェブサイト版「医療プレミア」で私が連載している「実践!感染症講義 -命を救う5分の知識」で梅毒を取り上げたことだと思います。

 この連載では連続5週にわたり梅毒を解説しました。そのなかで私が主張したことのひとつは「統計上は梅毒が増えていることになっているが、実際は増えているわけではなく昔から多かった」ということです。そのコラムでも述べたように、例えば2007年にHIV新規発覚が約1,500例なのに対し、梅毒はわずか750例です。キスやささいなスキンシップでも感染する梅毒がHIVの半分なんてこと、あるはずがないわけです。HIVだけでなく、クラミジアや性器ヘルペスといった性感染症の届出が10年以上ずっと横ばいなのに対し、梅毒だけが数字の上で急上昇しているのですから、これにはトリックがあると考えなければなりません。

 しかし、世間ではそうは解釈されておらず、梅毒が上昇している「原因」があるに違いないと考え、なかにはそれを自分の都合のいいように"利用"する人もいるようです。あるジャーナリストに教えてもらった情報によると、東京都のある右派の区議会議員が、訪日中国人が梅毒を日本に持ち込んでいると主張しているとか。そのジャーナリストは「その区議会議員の考えをどう思うか」、と私に取材に来たわけです。もちろん、「訪日中国人のせいで梅毒が増えているわけではない」というのが私の回答です。

 訪日外国人が増加しているのは事実で、たしかに中国人の比率が最も多いわけですが、例えばタイから日本を訪れる人たちも過去数年で急増しています。そして、私が本格的にタイでHIVに関連する活動をしていた2000年前半にも、タイでは梅毒はよくある感染症でした。HIVとは感染者数も感染力もレベルがまったく違います。そして、今でもタイで梅毒に感染している人は外国人も含めて大勢います。タイ人が日本を訪れる人数が年々増えているわけですから、この区議会議員の考えに従うとするなら、タイ人も批判されないと辻褄が合わないわけです。

 そもそも少し科学的に考えると、①梅毒罹患者のグラフが右肩上がり、②訪日中国人の数も右肩上がり、③よって中国人が梅毒を持ち込んでいる、と単純に考えるのはナンセンス極まりない話で、これが区議会議員の発言というのが信じられません。

 それならば、例えば、①景気がよくなり求人が増え就職率が上昇し賃金も増えた、②そして若者に恋愛する余裕がでてきた、③その結果、梅毒の罹患者が増えた、とする方がまだ説得力があるのではないでしょうか。ただし、区議会議員の説も、私が今述べた「好景気原因説」も、なぜ他の性感染症の感染者数が増えていないのか、という点を説明できません。

 さて、これから国内での梅毒の感染者数は増えていくのでしょうか。そして、他の性感染症はどうなのでしょうか。私は梅毒も含めて、国内での性感染症は増加していく可能性があるとみています。その理由を述べます。

 米国では梅毒を含む性感染症が急激に増えています。カリフォルニア当局の発表によると、カリフォルニア州では、2013年に報告された先天性梅毒(死産含む)が58例、その後一貫して上昇傾向にあり、2017年には278例にもなっています。まるで、日本の梅毒「の報告」と同じようなグラフです。

 注目すべきは他の性感染症です。人口10万人あたりの同州での淋病罹患者数は2013年が99.9なのに対し2017年は190.5と1.9倍上昇しています。同様に、クラミジアの人口10万人あたりの罹患者数は2013年が437.5、2017年が552.1と1.26倍に増加しています。

 ここでもう一度日本の梅毒が「増加している本当の理由」について考えてみましょう。先述の毎日新聞のコラムにも書いたように、私は日本の梅毒が急増している主な理由として次のことを考えています。

・単に医師が届けていなかっただけ
・梅毒と診断されず抗菌薬が処方され結果として治っていたケースが多い
・診断がつく前に自然治癒していた

 私は米国の医療事情にさほど詳しいわけではなく、しっかりとした根拠があるわけではありませんが、これまでの米国の医師との会話から受ける印象として、感染症に関しては米国の医師の方が日本の医師よりも診断能力が高く、また届け出義務を遵守していると感じています。その米国で、クラミジアや淋病と同じように梅毒が増加してきているわけです。

 文化や社会現象と同じように、米国で流行しているものはいずれ日本で流行る可能性があります。梅毒のほとんどは性感染です。米国人と日本人が恋愛関係になることももちろんありますから、やがて梅毒を含む性感染症が日本でも増加することになる可能性はあると思います。

 そして性感染症が増えているのは米国だけではありません。ある論文によると、中国でも梅毒は増えています。米国人と同様、日本人が中国人と恋に落ちることもあるでしょう。ならば、先述した区議会議員の言うように、訪日中国人が増えているから梅毒も増えるのでは?と感じる人がいるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、日本人が米国や中国に渡航して、そこで関係をもった米国人や中国人から感染することが少なくないからです。実際、私が院長を務める太融寺町谷口医院ではこのパターンで梅毒に感染している人がたくさんいます。先述したようにタイでの感染はよくありますし、韓国、台湾、べトナム...、と特にアジア各地で感染して帰国している人は少なくありません。

 もちろん、日本にやってきた外国人が日本人に梅毒を感染させることもあるでしょう。また、イヤな病気は外国から伝わってきたと思いたいという気持ちが生じることは歴史がすでに証明しています。米国の原住民からコロンブスが欧州に持ち込んだと考えられている梅毒は当時、ポルトガルではカスチリア病(カスチリアはスペインの一部)、イタリアではスペイン病、フランスではナポリ病、イギリスではフランス病、ロシアではポーランド病、琉球では南蛮病、日本では琉球病などと呼ばれていたと言われています。

 重要なのは「誰と恋に落ちようが梅毒を含む性感染症のリスクはあること」を理解することです。そして、HIVはコンドームで防げ、B型肝炎ウイルスはワクチンで防ぐことができますが、「梅毒にはワクチンが存在せず、コンドームで完全に防ぐことはできないこと」をしっかりと認識しなければなりません。

 梅毒は治るとはいえ治療に時間がかかることがありますから、やはり感染しないのが最善です。ではどうすればいいか。毎日新聞「医療プレミア」でも述べたように、「新しいパートナーができれば、体が触れ合うあらゆる機会の前に2人で検査を受ける」ことを実践することです。これができないなら、「感染すれば割り切って治す」と考えるしかありません。

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第143回(2018年5月) これからの「大麻」の話をしよう~その3~

 前回、大麻について取り上げたのは2016年12月(これからの「大麻」の話をしよう~その2~)でした。そのときに、嗜好大麻も含めて完全合法の国はウルグアイだけだが、2017年にはカナダでも「完全合法化」されるだろう、と述べました。結果として2017年中には実現しませんでしたが、この夏(2018年7月)にはついに実行されそうです。

 一方、大麻が日本で合法化される見込みはほとんどありません。しかし、それでいいのでしょうか。少なくとも「医療用大麻」としてはいくつかの疾患に有用(しかも極めて有用)の可能性があり、もしもあなたが「該当する疾患」に罹患したとすれば、治療の選択肢のひとつに考えてもいいと思います。今回はそういった話をしたいと思いますが、まずは基本的事項をおさらいしておきましょう。

 前回の大麻のコラムでも述べたように、大麻には多くの化学物質が含まれており、総称を「カンナビノイド」と呼びます。カンナビノイドのうち重要なのがTHC(テトラヒドロカンナビノール)とCBD(カンナビジオール)で、嗜好物質がTHC、医薬品として用いられているのがCBDです。嗜好物質というのは要するに、摂取すれば穏やかで平和的な気分になる物質です。大麻は「ハイ」になると言われることがありますが(英語でもproduce a highと表現されることがあります)、覚醒剤やコカインとは異なり、多幸感から明るく陽気になることはあるものの、身体がだらんとして、動きづらくなり、白い壁がピンクや紫に見えたり、例えば雲のかたちが動物などに見えたりします。

 CBDは医薬品として海外のいくつかの国や地域で認められており、最も進んでいるのがイギリスです。大麻というと、アメリカのいくつかの州で合法化、ウルグアイは完全合法、オランダでは昔から「コーヒーショップ」で外国人も吸入できる、インドは格安で楽しめて一応違法だがまず捕まらない、...、などいろいろと言われますが、医療大麻で言えば最も進んでいるのはイギリスです。

 ちなみに、大麻全体でみれば今後生産量が急増するのは中国ではないかと私はみています。現在中国では医療用も含めて大麻は非合法ですが、輸出用の産業用大麻(後述するようにこれがCBDの原料になります)の栽培が急増していると聞きます。元々「麻」はどのような環境でも(日本も含めて)育ちますから、中国の土地が肥沃でない貧しい地域の産業にうってつけです。また、これは私が過去にタイで知り合った日本人から聞いた話ですが、中国の雲南省では(THCを多く含む)大麻草が自然に生えているそうです。

 話をイギリスに戻します。イギリスの製薬会社「GWファーマシューティカルズ社」が発売している「サティベックス(Sativex)」はカンナビノイド口腔スプレーで、THCとCBDが1:1で配合されています。そして本国イギリスのみならず、世界のいくつかの国で多発性硬化症(難治性の神経疾患)やがんの症状緩和に対して使われています。副作用の報告もほとんどないそうです。実はこの薬品、日本の大塚製薬も米国で販売に乗り出そうとしたことがあります。同社のウェブサイトに米国でのライセンス契約についての記事があります。ですが、現在この製品は米国では認可されていません。

 サティベックスにはTHCも含まれていますが、同社が発売している「エピディオレックス(Epidiolex)」はCBDのみの製剤です。そして難治性のてんかん「レノックス・ガストー症候群」に対しての有効性が実証されています。サティベックスとは異なり、こちらは米国でも近日中に承認される見込みとなってきました。CNNもそのように報道しています。

 過去にも述べたように、私は嗜好品としての大麻(THC)の全面解禁には反対です。アルコールやタバコよりも害が少ないのは認めるとしても、やる気が起こらなくなり、勤勉さが失われるからです。また、大麻摂取後の運転には絶対反対です。

 ですが、現在の日本のように、THCとCBDの違いを議論することなく、「大麻合法化などとにかく俎上にも上げない」という態度がすごくナンセンスなように思えます。官僚のみならずほとんどの政治家や学者も同じです。医療者でさえも、医療大麻を語る者はほとんどいません。なにしろ、日本では1948年に制定された大麻取締法で、医療への使用が研究も含めて厳しく禁止されているのです。同法第4条には禁止事項として「大麻から製造された医薬品を施用し、又は施用のため交付すること」「大麻から製造された医薬品の施用を受けること」が挙げられています。

 さて、嗜好用大麻と医療用大麻、これから世界中でより使用者が増えるのはどちらでしょうか。該当する人口から考えて、難治性疾患を患っている人が「治療」に用いるよりも健康な人が気分よくなるために使用することの方が多いのではないか、と思えますが、そうでもないようです。

 興味深い記事を紹介しましょう。「The New York Times」2018年5月14日の記事「Marijuana Growers Turning to Hemp as CBD Extract Explodes」(マリファナ栽培者、CBD目的で麻に転換)では、オレゴン州の大麻栽培者は嗜好用大麻(マリファナ)から医療用大麻へ切り替えているそうです。医療用大麻はTHCがほとんど含まれていない「麻(hemp)」から精製します。一方、嗜好用大麻は別の大麻草から精製されます。報道によれば、オレゴン州では、嗜好用大麻用に栽培していた大麻草を「破棄」して、CBD目的に麻を植え替えている農家が急増しています。嗜好用大麻の価格は大幅に下落しており、2015年にはマリファナ1グラムが14ドルだったのが、現在(2018年)7ドルにまで下がっているというのです。

 そして、その逆にCBDの需要が増加しています。もっとも、CBDは狭い意味の医薬品としてだけでなく、化粧品や健康食品としても製品化されています。先述した米国でのエピディオレックスの承認もあいまって、今後米国ではTHCよりもCBDがますます注目されていくでしょう。この夏からカナダでは嗜好用も含めて大麻が全面解禁となるわけですから、日本は大きく取り残されていくことになります。

 さて、そんななか日本人は何をすればいいのでしょうか。私としては、日本で(医療大麻も含めて)大麻解禁の運動を起こすつもりはありません。いずれ日本でも医療大麻が使われる時代が来るかもしれませんが待ってられません。大麻取締法を改訂するのに相当の年月を要するのは自明だからです。

 私としては、難治性の疾患、それは先に述べた多発性硬化症やてんかんのみならず、慢性の疼痛があって日常生活が困難な人や、うつ病など精神疾患を有している人、あるいはHIVが重症化している人などに、今後「医療大麻目的の海外渡航」を検討してもらいたいと考えています。HIVは確かに抗HIV薬の普及でコントロールできる時代となりました。ですが、以前紹介したHAND(HIV-associated neurocognitive disorders、HIV関連神経認知障害)のように脳神経への障害は止められない可能性があり、一方では(現時点でのエビデンスは少ないですが)医療用大麻はこういった症状への効果も期待されています。

 もちろん海外で治療を受けるには「壁」がいくつもあります。医療用大麻が合法化されている国に渡航したとしても、外国人には処方が許されるか、という問題もあれば費用についても考えなければなりません。他の薬は日本で処方されるわけですから、日本との往復を頻繁にしなければなりません。

 私はGINAを設立する以前から大麻解禁に"反対"でした。このサイトで何度も述べたように大麻はハードドラッグの入り口になることがあり、そのハードドラッグの針の使いまわしでHIVに感染した人や人生を台無しにした人を何人もみてきたからです。ですが、現在は、進行したHIVに対してその大麻を治療に使えないかを思案しているというわけです。

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参考:GINAと共に
第126回(2016年12月)「これからの「大麻」の話をしよう~その2~」
第97回(2014年7月)「これからの「大麻」の話をしよう」
第29回(2008年11月)「大麻の危険性とマスコミの責任」


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第142回(2018年4月) 忘れられないおぞましい光景

 私がタイのエイズ事情に本格的に関わっていた2004年、複数のエイズ施設や病院のみならず、様々な関係者の"つて"をたどって、違法薬物のユーザーや売買春に詳しい人たちから積極的に話を聞いていました。違法薬物についても、ちょっとここには書けないような想像を絶する話もあるのですが、私がこうした「闇の世界」でみたシーンのなかで忘れたくても忘れられない光景は「売春」のものです。

 その光景を私が目にしたのはほんの1秒程度です。正確に言えば、直視ができずに瞬間的に目をそらしてしまいました。

 こみ上げてくる吐き気をこらえながら、案内してくれた日本人男性のK氏に何も言わず、私は上がったばかりの階段をそのまま降り、1階で何かわめいていた中年のタイ人女性も無視して外に出ました。後から出てきたK氏に「すみません」と詫びましたが、私にはそう言うのが精一杯でした......。

 2004年8月下旬のある日、私はチェンマイの安食堂で、知人から紹介してもらったK氏からタイの売買春事情について話を聞いていました。K氏は当時40代半ばの日本人。タイで何をやっているのかは最後までよく分からずK氏という名前も本名かどうか定かではありません。30代半ばに日本を離れ、世界を転々としているそうです。高校時代までは甲子園を目指す野球少年だったと話していましたが、その後何をしていたかについてはあまり語ろうとしません。おそらく話したくない理由があるのでしょう。

 その当時、タイのエイズ事情を調べているなかで私が混乱していたのは、「タイでは買春でHIVに感染する外国人が日本人も含めて非常に多い。しかし、日本を含む先進国の人間は、コンドームでHIV感染が防げることは知っている。にもかかわらず感染者が後をたたないのはなぜか」、ということでした。私はK氏と出会う前に、すでに複数のヨーロッパ人と日本人へのインタビューを終えていて、初めはセックスワーカーと顧客の関係であってもそのうちに本物の恋愛、そして結婚に至ることもあるという話を繰り返し聞いていました。

 しかしK氏は「そんな美談ばかりじゃない」と言います。そして、「明日、面白いところに連れて行ってあげよう」と言われ、私はどこに行くのかよく知らされないまま、翌日の昼過ぎ、待ち合わせ場所に指定されたチェンマイのバスターミナルを訪れました。K氏と共にバスで向かったのはチェンマイからバスで3時間ほどのある小さな町です。バスで山を越え、二人で安いゲストハウスに投宿し、軽い夕食を摂った後、向かったのは路地裏にある一見ただの"民家"です。

 しかし、入口に立った瞬間、そこが普通の民家とはまるで雰囲気が違うのが分かります。ドアをあけると殺風景な土間にテーブルとイスが何個か置いてあり、国籍もよく分からない怪しげな中年男性二人がビールを飲んでいます。その奥には50代と思われる少し太ったタイ人の女性がいます。

 K氏は早口のタイ語でその女性に話しかけ、私はK氏の後について2階に上がることになりました。階段を上った先にあったものは「牢屋」でした。私はそれまで牢屋というものをテレビや映画でしか見たことがありませんでしたが、その怪しげな家屋で見たものは鉄の縦の棒が10cm間隔くらいに取り付けられ、頑丈そうな大きな鍵がかけられている紛れもない牢屋です。

 そしてその牢屋の中に閉じ込められていたのは、年齢でいえば8~10歳くらいの少女たちです。K氏と私がその牢屋の前に立つと、少女たちはそれまでしていたままごとなどをやめて静かになり、我々の方を見つめます。"微笑み"はあるのですが、けなげなかわいい笑顔ではなく、どこか媚をうったような"女の笑み"です。私はその光景に耐えられず、K氏に無言で階段を下り、外に飛び出しました...。

 この光景は今もはっきりと脳裏に蘇ります。忘れようとしても忘れられないのです。その4年後、私は日本の映画館でフラッシュバックを起こしたような感覚に襲われました。梁石日氏原作で、阪本順治氏が監督の映画『闇の子供たち』です。映画では、たしか少女ではなく少年だったと思うのですが、似たようなシーンが出てきたのです。私は梁石日氏の原作も読みましたが、この牢屋のシーンは記憶にありません。私の推測ですが、監督の阪本氏が現地を調査するなかで、私が見たのと同じような売春をさせられる子供が閉じ込められた牢屋を目撃したのではないでしょうか。

 2004年のその日に話を戻します。その数日前まで私はタイのあるエイズ施設でボランティアをしていました。そして、収容されている患者さんのなかには何人かの少女たちもいました。私は、てっきり母子感染でHIVに感染したのだろうと思っていました。しかし、先ほどの「光景」と合わせて考えると、あの少女たちも、性感染、というよりも性的虐待で感染させられたのかもしれません。

 こんなことが許されていいのか。おぞましい光景をみてしばらくすると、私の感情はショックから怒りに変わりました。現実をもっと知らねばならない...。そう考えた私は、その日の夜、K氏から「タイの闇買春事情」について講義を受けることになりました。

 K氏によると、私が懸念したような少女たちが売春でHIVに感染させられる事例はそう珍しくないようです。そして、数日前まで私が施設でみていたような少女たちは「母子感染だろう」とK氏は言います。他方、牢屋に監禁されて体を弄ばれているような少女たちは客からHIVをうつされ、体調がおかしくなると施設には連れて行ってもらえず、そのうちに"闇"に葬られるというのです。そういえば、映画『闇の子供たち』では、エイズを発症した少女がゴミ袋に入れられて捨てられるシーンがあります。つまり、性感染でHIVをうつされる少女たちは始めから治療を受けることができないのです。

 今なら、HIVに対する偏見も大きく軽減されていますし、何よりも治療できるようになりましたから、このようなことはほぼありえません。ですが、2004年当時といえばタイではようやく抗HIV薬が普及し始めた頃で、ほとんどの病院はエイズ患者を門前払いしていました。ですから、K氏の推察はおそらく正しいだろうと感じました。

 K氏の話でもうひとつ驚かされたことがあります。なんと、さっきの「牢屋」で少女たちを買っているのはほとんどが日本人だというのです。もっとも、小児愛者(ペドファイル)は他国にもいるはずです。実際90年代に少女買春で有名になったカンボジアのスワイパー村では、世界中のNGOなどが介入し、買春をしていた大勢の大人たちが逮捕されました。彼らの多くは西洋人だったはずです。尚、「小児愛」は英語でpedophiliaと言い、カタカナにすると「ペドフィリア」が一番近いともいますが、「小児愛者」は英語で
pedophileで、これをカタカナにすると「ペドファイル(もしくはピドファイル)」が近いと思います。

 K氏によればスワイパー村の「壊滅」以降、小児愛者(ペドファイル)たちの"桃源郷"はなくなったものの、彼(女)らの「欲求」がおさまるわけではなく、アジア各地にそういった少女(少年)買春ができるところはあるそうです。たまたま、さきほど見た「牢屋」は日本人男性がよく訪れるスポットだというわけです。

 結局、K氏の「正体」は最後まで分かりませんでしたが、日本人からの"要望"に応えて「スポット」を紹介することでいくらかの報酬を得ているのかもしれません。だとすると、K氏も買春する日本人と「同じ穴のムジナ」ということになります。私は目の前のK氏を糾弾すべきなのでしょうか。

 私にはそのような気持ちになれませんでした。私が正義を振りかざしたところで何も解決しないからです。K氏に正論を説き、先ほどの「牢屋」に戻り、少女たちを解放するだけのお金をあの中年タイ人女性に渡して、私が少女たちのこれからの面倒をみればいいのでしょうか。そもそもそんなお金はありませんし、あったとしてもそれが私のとるべき行動とも思えません。

 あれから14年がたちました。タイも大きく変わりましたから、もはやあのようなおぞましい光景はなくなっているでしょう。ですが、あの日私が見た光景は脳裏から消えず、おそらく生涯苦しめられることになります...。

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参考:GINAと共に第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」


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