GINAと共に

第25回 ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(2008年7月)

「日本に帰ると、またドラッグに手をだしてしまうと思うんだ。だから私はタイに住み続けるんだよ・・・」

 これは、私が以前GINAの取材で知り合った日本人男性から聞いた言葉です。

 この男性は、昔ドラッグにどっぷりと浸かった生活をしていて覚醒剤の静脈注射まで経験したと言います。その頃は、日本とタイの往復を繰り返しており、どちらにいてもドラッグを手放せなかったそうです。

 ドラッグユーザーがドラッグを断ち切ろうと思ったときに、もしそこにドラッグがあればどれだけ強い意志を持っていたとしてもドラッグの魅力に負けてしまうものです。

 この男性もそれに気づいていて次第に日本には帰らなくなっていったそうです。彼がドラッグを断ち切りたいと考えた2003年当時、タイではタクシン前政権がかなり強引な薬物対策をとっており、薬物ディーラーやユーザーが次々に政府に射殺されていました。ほんの1年前までは、いとも簡単に入手できていた薬物が(少なくとも"普通の"外国人には)実質入手不可能になったのです。

 多くのドラッグユーザーがこれを哀しんだのとは逆に(2002年頃まではタイは世界でも有数のドラッグ天国とされていました)、この男性はこの事態を喜びました。日本では、(少なくとも日本人であれば)覚醒剤を含めた違法薬物などごく簡単に手に入りますし、警察はそれなりの対策を立てているのでしょうが、実際には薬物の流通量はそれほど減っていません。

 日本に帰らずにタイでのみ生活をする・・・。これが、この男性がドラッグを断ち切るために出した決断です。

 タクシン前政権のとった強引な薬物対策は、かなりの冤罪者をだし(無実で射殺された人が一説には数千人になるとも言われています)、政府内や世論から大きな反発を受けましたが、結果としては「ドラッグ天国」の名を返上し、一気にクリーンな国に生まれ変わりました。

 ところが、です。クーデターによりタクシン政権が崩壊した2006年後半以降、じわりじわりと、そしてある時(私の調査では2007年の夏)からは急速にドラッグが再び普及しだしました。タクシン崩壊後の政府はかつてのような強引な対策をとることもできず、ドラッグに汚染されていく社会を見て見ぬふりといった状態です。

 2008年7月2日のBangkok Postにタイの刑務所の実情が紹介されています。同紙によりますと、タイ国内の受刑者は合計約17万人で、そのうち薬物関連の服役者がなんと9万人です。実に服役者の半数以上が薬物関連なのです!

 そのタイの刑務所で現在最も問題になっているのが、服役者に対する薬物の"差し入れ"です。これまで、外部から受刑者に差し入れされた歯磨き粉やカレーなどから薬物が見つかっています。また、外から刑務所の敷地内に投げ込まれたカエルの死体に薬物が隠されていたこともあったそうです。

 こういった事態に対し、内務省矯正局は、「郵送を含めて刑務所内の受刑者に差し入れすることを全面的に禁止する」という通達をだしました。当局によりますと、「薬物密売で服役している受刑者が全国で2万人いて、その一部は刑務所内で薬物の販売をしている」そうです。

 一部のジャンキーからは、日本も「世界有数のドラッグ天国」と呼ばれていますが、いくらなんでも刑務所内の受刑者の半数以上が薬物関連ということはないでしょう。

 もうひとつ、タイがドラッグ天国に舞い戻ってしまったことを象徴するようなニュースがあります。

 7月14日のBangkok Postによりますと、タイ北部でケシの栽培量が急増しています。

 ケシとはもちろんアヘンの原料植物で、これを加工したものが麻薬(ヘロインやモルヒネ)です。

 タイ北部は、麻薬王クンサーが暗躍したゴールデントライアングルの一角をなす地域で、かつては世界で最も有名な麻薬産生地でした。麻薬は90年代の終わりごろまではタイ北部(特に山岳民族)の主要な収入源だったのですが、政府の対策(ケシから農産物の栽培への転換)が徐々に浸透しだし、さらにタクシン前政権の薬物対策がこれを加速することになりました。その結果、ケシ畑は激減し、「もはやタイ北部は麻薬の産地ではない」と言われるようになりました。

 ところがです。Bangkok Postの報道によりますと、2004年に700ライだったケシ畑の面積が(「ライ」はタイで土地の広さを表す単位で、1ライは400メートル四方)、2008年には1,200ライまで急増しています。

 私は以前、タイ北部を取材したとき、あまりにも多くの人が麻薬や覚醒剤を使用(それも静脈注射で!)しているという話を聞いて驚いたことがあります。そしてその結果がHIV感染なのです。

 違法薬物を少なくするには、徹底的に法律を厳しくすることが必要です。タクシン前政権のとった数千人を射殺したような強攻策がよくないのは自明ですが、逆に「薬物はいけませんよ~」といった生ぬるい忠告では何の効果もありません。

 ドラッグを断ち切りたいと考えている人、あるいは過去にドラッグをやっていた人からみたときには、たとえどれだけ強固な意志を持っていたとしても、目の前にドラッグを置かれたら、そんな意思など一瞬で吹き飛んでしまいます。ドラッグとはそれほど恐ろしいものなのです。決して安易な気持ちで手をだしてはいけないのです。

 ドラッグ天国に舞い戻ってしまったタイ・・・。冒頭で紹介した男性について、私は本名も連絡先も知りませんが、今では日本でもタイでもない別の国に移動しているかもしれません・・・。再びドラッグに手をだした、なんてことだけはないことを願いたいと思います・・・。

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第24回 6月20日は何の日か知っていますか? 2008年度版(2008年6月)

 6月20日が何の日か知っている人はどれくらいいるでしょうか。

 正解は、「世界難民の日」です。

 私はこのことを以前別のところで述べたことがあります。(すてらめいとクリニックのウェブサイト『谷口恭のメディカル・エッセィ』2005年7月「6月20日は何の日か知っていますか?」)

 今回のコラムのタイトルに「2008年度版」と加えているのは、繰り返しこの疑問符(?)付きのタイトルで、6月20日が世界難民の日であることを訴えていきたいからです。

 さて、これを読まれている皆さんは、世界中に「難民」と呼ばれている人がどれくらいいるのかご存知でしょうか。また、その難民は増えているのか減っているのかを知っていますでしょうか。

 その前に、「難民」とはどういった人たちのことを指すのかについておさらいしておきましょう。

 1951年の「難民の地位に関する条約」では、難民は、「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々と定義されています。今日、難民とは、政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々を指すようになっています。(UNHCRのウェブサイトより要約)

 この定義にあてはまる難民は、UNHCRが支援対象とする人数でみると、2007年末の時点で1,140万人です。また、国際移動に関するモニタリング・センター(International Displacement Monitoring Center)によれば、紛争によって影響を受け、国内避難民となった人の数は2,440万人から2,600万人へと増加しています。

 実は難民の人数はこの2年間は増加傾向にあります。2001年から2005年は5年連続で減少していたことを考えると現在は危機的な状況にあるといえるでしょう。

 私はこういった情報をUNHCR、ユニセフ、WFPなどのウェブサイトや定期的に送られてくる情報誌から得ていますが、"普通の"日本の新聞や雑誌にはこういった情報はほとんど掲載されていないのが現状だと思われます。

 実際、今年の6月20日に「世界難民の日」について報じた新聞は私の知る限りありませんでしたし、テレビのニュースや報道番組でも取り上げられることはありませんでした。

 たしかに、「人種、宗教などで迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」などと言われても、そのような可能性がほとんどない日本人にはピンとこないかもしれません。

 しかし、自然災害で家族や家を失った人たちのことを想像するのはむつかしくないでしょう。

 今年は現時点で、アジアで非常な大きな天災がふたつもおこっています。

 ひとつは、5月上旬にミャンマーで発生したサイクロン「ナルギス」です。6月中旬に発表された国連の予測では、東南アジアで77,000名以上が死亡、さらに、55,000人が行方不明と報告されています。

 もうひとつは、5月12日に中国四川省で発生した四川大地震で、こちらは6月中旬の時点で、死者およそ7万人、怪我人37万人以上と発表されています。

 今年は日本でも岩手・宮城内陸地震がおこりました。6月14日午前8時43分に岩手県内陸南部でマグニチュード 7.2の地震が発生し、死者12人、行方不明12人(6月24日現在)と報告されています。

 岩手・宮城内陸地震は、ちょうど梅雨の季節と重なったこともあり、土砂崩れなどの災害が続いており、連日マスコミは被害の状況を伝えています。支援活動もおこなわれ、寄附金も集まってきているようです。

 日本国内でこのような被害が起きているわけですから、海外の事情よりもまずは日本の被災者の人たちに何ができるかを各自考えることは大切なことだと思います。

 そして、同時に、岩手・宮城内陸地震の数万倍の被害者をだしたミャンマーのサイクロンと中国の地震について考えてみるのも大切なことだと思うのです。

 私は、日本のマスコミにミャンマーや四川省の現状を積極的に伝えてほしいと感じていますが、被害から1ヶ月以上たった今ではほとんど何も報じられていません。一方、海外のメディア、例えばBBCやCNNでは現在も現地の状況をレポートしており、日本のメディアとは対照的です。

 日本のメディアが報道しないなら、情報は自分でとりにいくしかありません。BBCやCNNは日本でも見れますから、こういった番組をチェックするのもひとつの方法ですし、UNHCRやユニセフのウェブサイトからもいろんな情報が入ってきます。

 「難民」という言葉を聞くと、「彼(女)らに何ができるか」ということを考える人も多いと思いますが、私はまずは、「彼(女)らのことをもっと知るべき」と考えています。実際に、難民や被災者が喜ぶのは、例えば現地に赴いてボランティア活動をおこなったり、寄附金を送ったりすることだとは思いますが、それ以前に、彼(女)らの現況を知ることが大切だと思うのです。


 私はGINAの関連で講演をしたりインタビューを受けたりするときに、「寄附金をお願いします」と言ったことがありません。これは、「寄附金を集めること」よりも「(主にタイの)エイズの現状を知ってもらうこと」が重要だと考えているからです。

 タイのエイズ関連のある施設に働く人が私に話してくれたことがあります。その施設には多くの見学者が訪れるそうですが、なかには「貧しくて寄附ができなくて申し訳ない」と言う人がいるそうです。しかし、その施設で働く人は、「寄附を求めているわけではない」と答えるそうです。そうではなくて、「エイズを患った人の現状を知ってもらえたらそれでいい」そうです。

「お金がなかったら何もできないじゃないか。現状を知ってもらえたら満足なんてのはきれいごとじゃないの・・・」、そのように感じる人もいるでしょう。

 しかし、そうではないのです。お金がなかったら施設の運営はできませんし、GINAも存続できなくなるかもしれませんが、まずは「現状を知ってもらう」ことがGINAを含めて支援活動をしている側の"想い"なのです。

 6月20日は世界難民の日。これを知ってもらうことが今回の「GINAと共に」の"想い"です。

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第23回 「HIV恐怖症」という病(2008年5月)

これから述べる訴えはすべて実際の患者さんからのものです。あなたはどう思いますか。

【症例1】 32歳男性
先日コンビニで買い物をしてレジでお釣りをもらうときに店員がくしゃみをした。そのくしゃみが自分の身体にかかったような気がする。HIVに感染していないか心配・・・


【症例2】 28歳女性
先日駅の公衆トイレを利用した。用を足した後、便器が濡れていることに気付いた。HIVに感染していないか心配・・・


【症例3】 42歳男性 インド人
先日道に落ちていたハンカチを拾った。広げると体液のようなものがついていたような気がする。後から自分の指に「さかむけ」があったことが分かった。HIVに感染していないか心配・・・


 さて、彼(女)らがHIVに感染している可能性はあるでしょうか。
 もちろん答えは「可能性はない」です。
 しかし、彼(女)らはHIVに感染しているという可能性を"真剣に"考えてクリニックを受診しています。

 クリニックでHIVの検査をおこなうと有料になります。しかも、これらは到底感染しているとは思えないケースであり、特に自覚症状もないわけですから、HIVの検査には保険適用がありません。つまり、検査をするのは自費扱いとなります。

 にもかかわらず、こういったことでHIVを心配する患者さんは少なくありません。私が院長をつとめるすてらめいとクリニックでも、月に1~2名はこういったことでHIVの検査を希望される方が来られます。

 もちろん、診察をした上で、「その程度のことでHIVに感染していることはありえないから検査を受ける必要がない」ことを説明します。しかし、なかには「どうしても不安をぬぐいきれないから自費でもいいから検査を受けたい」という人もいます。

 私はこういったケースを「HIV恐怖症」と呼んでいます。(英語のできる外国人に説明するときは「HIV phobia」と言います)

 HIV恐怖症は、理屈の上で感染の可能性がないことは分かっていてもどうしても不安が払拭できないという特徴があります。

 HIVはそんなに簡単に感染する感染症ではありません。一方、HIVよりははるかに感染しやすいような感染症、例えばB型肝炎ウイルスや梅毒に対してはどうかというと、不思議なことに彼(女)らはあまり気にしていません。特に、B型肝炎は感染力が極めて強いですし(唾液から感染したという報告もあります)、感染すると命にかかわる状態になることもあるのに、なぜか「B型肝炎ウイルス恐怖症」という病は(私の知る限り)存在しません。

 HIV恐怖症に罹患する人の特徴を簡単に紹介します。男女比は、圧倒的に男性に多く、私の印象では、男性:女性=8:2くらいです。年齢は10代半ばから50歳くらいまでです。興味深いのは、比較的高学歴者に多いという点です。職業でいえば、学校教師、税理士、医師、など比較的高い地位と考えられている職種に多いのが特徴です。

 「医師がなぜ?」と思われるかもしれませんが、HIV恐怖症は「理屈の上では感染の可能性がないことは分かっていてもどうしても不安が払拭できない」のが特徴です。HIVについて知識のある医師でもそれは同じなのです。

 彼(女)らは、少しでも感染の可能性がないかを必死で考えています。例えば、症例1では、「コンビニの店員がその日に歯の治療を受けていたということはないだろうか。治療後間もないために口腔内に出血があり、くしゃみをして自分の皮膚にかかったとすればどうだろう。自分の皮膚に傷はないが、もしかして自分でも気付いていない目に見えない小さな傷があるのではないだろうか。そういえば昨日の晩、腕がかゆくてかいたかもしれない。そこからHIVが侵入した可能性は否定できない・・・」、といった感じです。

 私は、HIV恐怖症の人を診察したとき、感染の可能性はなく検査はお金の無駄であることを説明しますが、なかにはあえて検査を受けてもらう場合もあります。それは、検査の結果を示すことで不安が払拭できることを期待する場合です。しかし、なかには、検査の過程で他人の血液と入れ替わったのではないか・・・、など検査結果の信憑性に不安をもつ人もいます。

 HIV恐怖症の人を診察したときに、私が最も重要視していることは、「どうやって不安を取り除くか」です。ケースによっては、不眠や頭痛、胃痛、食欲不振などが伴っていることもありますから、こういった症状についてもケアが必要になってきます。頭痛薬や胃薬が有効なこともありますし、不安をやわらげるような薬が必要になることもあります。一時的に睡眠薬を処方することもあります。

 HIV恐怖症が重症化すると、ときにやっかいな事態になることがあります。それは、検査を受けてHIVが陰性であることが分かり、それを納得できるようになったとしても、今度は別のことで「不安」になるのです。HIV恐怖症という不安が別の不安に置き換わるのです。例えば、今まで思ってもみなかった仕事のことや家族のことに対する不安が出現してくるのです。

 「不安」というのはある程度のところで断ち切ってあげないと、次から次へと「不安の連鎖」が起こることがあります。これは、ちょうど「痛み」や「アレルギー」に対して、適切な治療をしないと、どんどん症状が悪化していくのと似ています。

 最後に、「リスクのある行為からどれくらい時間がたてば検査ができるか」について述べておきます。どのような検査をするかにもよりますが、不安が強い人は、「抗体検査」ではなく「抗原検査」を受けるべきかもしれません。

 「抗原」とはHIVそのもののことで、抗原検査にも様々なものがありますが、例えば、すてらめいとクリニックでおこなっている抗原検査は9~11日程度経過していれば検査が可能です。

 自分もHIV恐怖症かもしれない・・・。そのように思う方は医療機関を受診してみればいかがでしょうか。

 不安が大きすぎないうちに・・・

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第22回 タイのHIV陽性者の苦悩(2008年4月) 

 世界各国のエイズ状況を振り返ったとき、タイは比較的、感染者が過ごしやすい国ということになっています。抗HIV薬は無料で支給されることになっていますし、貧困層であっても必要な医療サービスは無料(2006年10月までは30バーツ)で受けられることになっています。

 しかし、実際は陽性者が満足しているかというとそういうわけではありません。

 まず、「適切な抗HIV薬が実際には支給されていない」という問題をとりあげてみたいと思います。

 現在チェンマイでUNAIDSの定例会議が開かれています。この会議で「Violet House」というゲイの団体が、抗HIV薬が適切に支給されていない現状を報告しました。

 タイでは、国内で製造されている「GPO-VIR」という抗HIV薬が広く普及しています。この薬は、HIV陽性者が抗HIV薬が必要になるとまず投与されることが多く、タイ国籍を有している者なら必要性があれば支給されないということはまずありません。

 しかしながら、現在はこの「GPO-VIR」でウイルスの増殖を抑えられないケースが増えてきており、そうなればもっと新しい抗HIV薬が必要になります。

 現在のタイのエイズ治療の原則は、「GPO-VIRなどの抗HIV薬(これらをファーストライン・ドラッグと言います)が効かないケースには、セカンドライン・ドラッグと呼ばれる新しい薬を使用する」ということになっています。

 しかし、「Violet House」によりますと、実際はファーストライン・ドラッグが効かず、セカンドライン・ドラッグが必要な者に対して、すみやかに適切な抗HIV薬が支給されるケースは決して多くないそうです。「Violet House」のメンバーのおよそ200人がHIV陽性ですが、この半数はすでにファーストライン・ドラッグが効かない状態なのにもかかわらず、セカンドライン・ドラッグが支給されていないといいます。
 「Violet House」の幹部は次のようにコメントしています。

 「ほとんどの病院はセカンドライン・ドラッグを必要な患者に支給すると言うんです。でも実際は支給されるまでにどれくらい待たないといけないかさえ分からないのです」

 タイでは、毎年約14,000人が新たにHIVに感染していますが、タイ保健省によりますと、ゲイの占める割合は全体の24%を占めます。これは、最大のハイリスクグループの主婦層に次いで2番目に大きなグループということになります。(何度かこのウェブサイトで紹介しましたが、タイでは自身の夫から性交渉で感染する主婦が最も多いという特徴があります)

 現在のタイではおよそ10万人が抗HIV薬を必要としています。タイ疾病管理局によれば、このうち約12%の感染者が「GPO-VIR」などのファーストライン・ドラッグに耐性ができて、セカンドライン・ドラッグを必要としています。

 適切な薬が支給されていないという問題は抗HIV薬に限りません。

 エイズという病は、進行すると様々な感染症を発症します。感染症といっても細菌感染、真菌感染、原虫の感染、ウイルス感染と様々です。エイズを発症している人には、抗HIVを投与するだけでは不充分です。現れている感染症の治療も同時におこなわなければなりません。

 比較的安価な抗生物質で治癒するような細菌感染症もありますが、実際にはそうでないケースも多々あります。私がボランティア医師をつとめていたパバナプ寺では、薬が入手できなくて特に問題になっていたのが抗真菌薬とサイトメガロウイルスというウイルスに対する薬です。これらは、一人当たり月に数万円から10万円以上もするために、病院を受診しても保険診療の枠では処方されません。ボランティアがお金をだしあっても全員に行き渡りません。私は何度か日本から送付したり持ち込んだりもしましたがとてもひとりの力では追いつきません。(私ひとりの力が微々たるものであると感じた想いがGINA設立につながりました)

 このように、適切な抗HIV薬(セカンドライン・ドラッグ)や適切な感染症の薬が実際には必要とする人々に行き渡っていないのが現状なのです。

 さらに、もうひとつ、注目すべき現在のタイのエイズに関する問題があります。

 それは移民や少数民族は治療を受けられないということです。このウェブサイトでも何度か指摘していますが、無料の診療や無料の抗HIV薬が支給される対象となるのは「タイ国籍を有している人」です。

 北タイには多数の山岳民族(少数民族)が存在し、彼(女)らにはタイ国籍がありません。また、ラオス、ミャンマー、中国雲南省などから職を求めて不法に入国してくる人たちにもタイ国籍は与えられず医療は受けることができません。

 そして、少数民族や不法入国者は、リスクの高い仕事をすることが少なくありません。リスクの高い仕事、すなわち遺法薬物や売春に携わる仕事にはHIV感染というリスクも伴います。

 例えば、ミャンマーからタイに売春婦として出稼ぎに来て、タイ国内でHIVに感染、その後エイズを発症というケースがよくあります。こういう人たちは、自国に帰ることもできず(エイズを発症した状態で帰国すれば当局に抹殺されるという噂もあります)、タイ国内でも適切な治療を受けることができません。

 チェンマイで開かれているUNAIDSの定例会議では、200人を超える活動家や患者が会場の外に列をつくりました。少数民族や外国人にもエイズの治療が受けられるようにUNAIDSに訴えることを目的とした抗議の列です。

 供給されないセカンドライン・ドラッグ、抗真菌薬など入手困難な高価な薬剤、治療を受けられない少数民族や外国人、・・・、と、表向きはエイズ対策に成功しているとみられがちなタイでは、実際は問題が山積みです。

 現在、国連やWHOなどの公的機関や大きなNPOは、エイズ患者の支援先をタイではなく、他のアジアやアフリカ諸国にシフトしています。実際、北タイのエイズ関連施設は数年前に比べて減少傾向にあります。

 GINAのミッションは"草の根(grass roots)レベル"の活動です。現在のタイのHIV陽性者が直面している問題に積極的に取り組んでいきたいと思います。

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第21回(2008年3月) 院内感染のリスク

 病院でHIVに感染したかもしれない・・・

 こう言って、HIVの検査を受けに来られる方がいます。しかし、実際にこのようなことがあるのでしょうか。

 たしかに、このウェブサイトでも何度か紹介してきたように、リビアの病院での大規模HIV感染やカザフスタンでのHIV院内感染は世界中のマスコミで報道され、一部の国での不衛生な院内環境が浮き彫りになっていますが、日本を含めた先進国ではHIVの院内感染などは到底考えられないことです。

 しかしながら、最近、この「先進国では院内感染はありえない」という"神話"が崩れつつあります。

 まずは日本の話です。2007年12月、神奈川県茅ヶ崎市のある病院で、心臓カテーテル検査を受けた患者5人が相次いでC型肝炎を発症したことが明らかとなりました。2008年3月5日、茅ヶ崎市は、注射筒などの使いまわしが原因となった可能性があることを発表しました。

 この病院は、この5人と同じ日に心臓カテーテル検査を受けた18人、さらに過去に検査を受けた約600人を調べたところ、C型肝炎の感染はなかったことを発表しています。

 通常、注射筒はディスポーザブル(使い捨て)のものを使うか、患者ごとに新たに滅菌したものを使用しますから、もしも注射筒の使いまわしで感染させたのであれば病院の責任が厳しく追求されることになるでしょう。

 もうひとつ、院内感染の例をみてみましょう。今度は、アメリカのラスベガスです。

 「2004年3月から2008年1月の間に、南ネヴァダの内視鏡センターで麻酔の注射を受けた人は全員、HIV、C型肝炎ウイルス、B型肝炎ウイルスの検査を受けてください」

 これは、ラスベガス当局が2008年2月に発表した市民への案内です。この病院(内視鏡センター)で、麻酔の注射を受けた患者6人がC型肝炎ウイルスに感染していることが発覚し、当局では他にも被害があるとみて、およそ4万人の該当者に検査を呼びかけています。

 この病院では、医師がバイアル(薬液の入っている小さなビン)から薬液を引き抜く際に、針を交換せずに作業をしていた可能性が強いそうです。その作業のせいでC型肝炎ウイルスの院内感染がおこったとみられています。

 医療先進国であるアメリカと、先進国とは言えないにしても安全対策はしっかりとしていると思われている日本で、立て続けにこのような事件が起こったのは、私にとって大変ショックでした。

 ところで、これら2つの事件をよくみたときに、内容は同じようなものですが、事件発覚後の対応は大きく異なっています。

 茅ヶ崎市のケースでは、感染の疑いがあるとみて過去に受診した約600人の患者に対してC型肝炎ウイルスの検査のみをおこなっています。一方、ラスベガスのケースでは、当局が約4万人の患者に検査を呼びかけ、検査項目には、C型肝炎ウイルスだけでなくB型肝炎ウイルスとHIVを加えています。

 まったく同じようなC型肝炎ウイルスの院内感染発覚に対し、アメリカと日本で対応が異なるのは興味深いと言えるでしょう。

 どちらの対応が適切か、という点については議論が分かれるでしょうが、私はアメリカの対応がすぐれている、言い換えれば、茅ヶ崎市の対応が不充分だと感じています。

 なぜなら、C型肝炎ウイルスを院内感染させてしまうような環境をつくっていた現場であれば、同じような感染ルートのB型肝炎ウイルスやHIVの院内感染が起こっていてもおかしくないからです。

 特にB型肝炎ウイルスについては、日本人のワクチン接種率は他の先進国に比べて驚くほど低いという事実があります。一方、アメリカではアメリカ生まれの人であれば成人するまでに通常はB型肝炎ウイルスのワクチンを接種していますから、一部の移民の人や、ワクチン接種が始まる前の世代の高齢者を除けばB型肝炎ウイルスに感染する可能性のある人はほとんどいないのです。ワクチン接種率が極めて低い日本だからこそ、院内感染の可能性があるときには、積極的にB型肝炎ウイルスの検査をすべきなのです。(もちろん検査よりも大切なことは、まだ接種していない人は早急にワクチンをうつということです)

 HIVについては、感染者の数はアメリカの方がはるかに多いですが、日本でも毎年増えているのは事実ですし、献血された血液のなかにもHIVがみつかることがあるのです。C型肝炎ウイルスの院内感染が発覚した以上は、HIVも合わせて調べるべきでしょう。(もちろん対象者の同意があってのことですが・・・)

 さて、問題は、今回院内感染が発覚した日米の2つの病院が特殊なのか、あるいはこれら2病院が「氷山の一角」なのかということです。心情的には、これら2病院が極めて特殊なケースであると信じたいのですが、これらの病院は地域からの信頼が厚い大病院であることを考えると、同じような事件をおこす可能性を孕んでいる医療機関は少なくないのかもしれません・・・。

 患者さんからときどき言われる冒頭の言葉、「病院でHIVに感染したかもしれない・・・」に対して、私はこれまで、「日本も含めて先進国ではそのようなことはあり得ないですよ。だから検査の必要はありませんよ」と説明してきました。

 しかし、これからは、検査結果をみるまでは患者さんを安心させることはできないと考えるべきなのかもしれません・・・。

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