GINAと共に

第31回(2009年1月) バンコク人 対 イサーン人

 年末年始にタイに行っていたのですが、半年も前に予約を入れてあった便が急遽なくなったかと思うと、また復活となったりして、直前までどの便でいけるのかどうかが分かりませんでした。これは、PAD(The Peoples' Alliance for Democracy)が12月初旬にスワンナプーム空港を占拠したことが原因で、空港閉鎖が解除された後も治安の不安定さを懸念する動きもあり、旅行者が減ったことにより各航空会社が便を減らしていたからです。

 結局私は、当初の便を変更することとなり、12月29日の午前に関西国際空港を発ちました。行きの機内のなかでBangkok Post(タイの英字新聞)を手に取ると、一面にはUDD(United Front of Democracy against Dictatorship)が国会議事堂の前で座り込みをしているというニュースが大々的に取り上げられていました。

 ここで、PADとUDDについて説明しておきます。

 分かりやすく説明すれば、PADとは反タクシン派の市民団体のことです。そして、UDDとは親タクシン派の市民団体です。

 タクシンについて少し解説をしておきます。タクシン・シナワット(チナワット)はタイ愛国党の党首で2001年に首相となりました。それまでの首相とは異なり、北タイ及びイサーン地方(東北地方)の生活レベルの向上を実現させました。生活レベルの向上、というと何やら高尚なことをおこなったように聞こえますが、分かりやすく言えば大量の公的資金を北タイとイサーン地方に投入したのです。もっと端的に言えば北タイとイサーンにお金をばらまいたわけです。北タイはタクシンの出身地で当然といえば当然かもしれませんが、イサーンを手厚くしたのは画期的だったといえます。

 タイに渡航する日本人は年間100万人を超えますが、多くはバンコク、チェンマイなどの北タイ、プーケットやクラビーなどの南タイを訪問する人が多いと思います。一方、観光地と言えるところがそれほど多くないイサーン地方に好んで訪れる人はそう多くはないでしょう。しかし、人口比率でみるとイサーンの人口はタイ人全体のおよそ3分の1に相当します。北タイが約2割ですから、北タイとイサーンで支持を得れば国民の過半数の支持が得られることになります。北タイとイサーンで絶対的な支持を得たタクシン政権は選挙では圧倒的な力をもつことになりました。

 ところが、タクシンはバンコク人からはあまり好意的には見られていませんでした。その最たる理由が脱税です。タクシン一族の所有する携帯電話の会社(シン・コーポレーション)をシンガポールの政府系企業に売却した際、税金を不当に低くしたとのことで批判をあびました。このことがきっかけでタクシン一族は、様々な脱税をおこなっていることを疑われ、これが原因となり、2006年9月19日にクーデターが起こりタクシンは失脚することになります。

 タクシンを嫌うのはバンコク人だけではありません。タイに在住する西洋人からも好意的には思われていませんでした。実際私は親タクシン派の西洋人とは出会ったことがありません。これは、不正を悪と考える西洋資本主義的発想を持ち合わせている人からみれば当然なのかもしれません。

 ここで私自身の考えを述べておくと、私は多くのバンコク人や西洋人とは異なり、タクシンをどちらかといえば好意的に思っています。その最たる理由は、売春施設の取り締まりやナイトスポットの深夜営業禁止をおこない、さらに違法薬物の取り締まりを徹底的におこなったことです。違法薬物の取り締まりは冤罪で射殺された人が数千人にも上るとの噂もあり、もちろんこれは問題ではありますが、それでも、これらの政策によりタイは随分クリーンな国になりました。違法薬物に依存しているジャンキーたちはタイを去り、児童買春目当ての西洋人(日本人も)は他国に移動したと言われています。

 北タイやイサーンに手厚い政策を施したことも、私がタクシンを好意的に感じている理由のひとつです。特に北タイでは生活水準が大きく上昇し、タクシン政権以前には小学校しか卒業していない若者が大勢いましたが、タクシンの政策のおかげで、今では高校に通うことが当たり前になりつつあります。

 イサーンでは、まだ高校進学は一般的ではありませんが、家族を助けるために売春をしなければならない10代の女子は大きく減少していますし、違法薬物の売買で生計をたてざるを得ないような男子もかなり減っています。(とはいえ、今でも仕事がなく貧困にあえいでいる人たちが大勢いますが・・・)

 さて、タクシンが失脚することとなったクーデター以降、タイの首相は、スラユット、サマック、ソムチャイと続きますがいずれも親タクシン派(タイ愛国党派)です。いくら反タクシン派の運動が首都バンコクで起こったとしても、ほとんどが親タクシン派で占める北タイとイサーンの支持が得られないわけですから当然と言えば当然でしょう。

 これに業を煮やしたPADは、ついにスワンナプーム空港占拠という暴挙にでます。このため、行政側としてもPADの要求を認めざるを得ず、2008年12月15日、反タクシン派のアピシットが首相となります。

 ところが、親タクシン派はこれに黙っていませんでした。UDDを結成し、今度は国会議事堂前の座り込みなどをおこないアピシット政権に抗議活動をおこなうこととなりました。

 以上、PADとUDDの行動の流れを簡単におさらいしましたが、タイ人と話をすると、PAD対UDDは、そのままバンコク人対イサーン人の構図であるように思われます。実際、バンコク人とイサーン人が仲良くしている光景を私はほとんど見たことがありません。少し仲良くなると話してくれますが、バンコク人はイサーン人を「キーギアット(怠け者)」と言い、イサーン人はバンコク人のことを「ニサイ・マイ・ディー(性格が悪い)」と、互いを中傷するようなことを言います。また、バンコク人とイサーン人では民族の系統が違い、イサーン人は肌の色が黒く鼻が低いため、白い肌に価値が置かれるタイではあまり美しいとされません。このためイサーン人のなかにはバンコク人にコンプレックスを持っている人も少なくありません。

 私自身は、タイという国に対してはHIV/AIDSの問題で深く関わっていますから、イサーン人の立場に立って物事を考えることがよくあります。貧困だから売春や違法薬物の売買をせざるを得ず、結果としてHIVに感染した人たちは大勢いますが、彼(彼女)らは、私には怠け者(キー・ギアット)とは思えません。土地が貧しくて農作物もろくに育たないところで育ち小学校さえ卒業するのがむつかしい彼(彼女)たちにはまともな仕事がないのです。これは、先進国の若者が「不況で仕事がない」というのとはレベルが違うのです。

 私はときどきタイ人と政治の話をしますが(タイ人は比較的政治の話が好きです)、タクシンの話になると口調を荒くして、いかにタクシンがすばらしいかを熱弁するイサーン人にときどき出会います。彼(彼女)らは理性をなくしているというか、狂信的にタクシンを擁護します。こういう状態になると、もはやまともな会話にはなりませんから私は黙ってうなずくしかないのですが、彼(彼女)らの気持ちが分からないでもありません。反タクシン派に政治をやらせれば以前のような貧困が待っているかもしれないのですから。

 PADとUDDの対立は、自民党と民主党の対立とはわけが違います。どちらが勢力をもつかで彼(彼女)らの生活に天と地ほどの差ができるかもしれないのです。


注:イサーンはタイ語の発音では「イーサーン」とする方が正しいと思われますが、なぜか出版物の多くは「イサーン」となっていますので、ここでも「イサーン」としています。

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第30回 2008年のGINA(2008年12月)

私はGINAの代表を務める傍ら、2006年12月からはクリニックの院長を務めています。クリニックを開院させてからタイに渡航できる機会がめっきり減ってしまいました。

 これはクリニック開院前から想像していたとおりではあるのですが、やはりタイに渡航できず、エイズ患者さんや、患者さんを日ごろケアしている施設のスタッフに長期間会えないのはさみしい気持ちになります。

 クリニック開院の前の1年間は、トータルで60日くらいタイに滞在できましたから、多くの患者さんやスタッフに何度も会うことができていました。2005年から2006年にかけては、タイのindependent sex workerの意識調査をおこない、これはかなり大変だったのですが今ではいい思い出です。(この結果は、2007年の第21回日本エイズ学会、及び第15回国際女性心身医療学会で学会発表しています) 

 また、タイのエイズ研究者と合同で調査をおこなったこともありましたし、エイズ問題に取り組むタイの大学院生と日タイの違いを語り合ったこともありました。その頃の活動に比べると、今年のGINAの活動はずいぶんと間接的なものになっています。

 実際、私自身はタイに渡航してGINA関連の仕事をすることがまったくできませんでした。別のスタッフは何度か渡航し、北タイのエイズ事情について新しい情報も仕入れ、その一部は11月におこなわれた日本エイズ学会でも発表しています。(私自身は昨年は日本エイズ学会で発表をおこないましたが、今年はクリニックの都合で学会に参加することすらできませんでした)

 私自身はタイに渡航できなかったのですが、タイへの支援はもちろん継続しています。今年は、特に北タイの支援に力を入れました。パヤオ県で、「21世紀農場」を運営し、同地区のエイズ患者さんのために力を注いでおられる谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)の活動に対しては特に積極的に支援するかたちとなりました。

 21世紀農場」では、パヤオの貧しい人たちに農業を伝えて、自立できるような支援がおこなわれています。パヤオ県は土地が貧しく、定期的な収入が得られる農作物がほとんどありません。80年代初頭にこのパヤオ県にやってきた巳三郎先生は、そんな土地でも栽培することのできる農作物を見つけ、日本式の農作業の方式を伝授することによって、パヤオ県のこの地域に住む人たちが自立できるように支援をおこなっているのです。

 巳三郎先生は、北タイの山岳民族の支援にも力を入れています。

 山岳民族の子供たちは、学校に通うことができません。なぜなら山岳部には学校がないからです。

 ですから、山岳地帯に生まれた山岳民族の子供たちが文字を覚えて勉強するには、パヤオ県やチェンライ県、チェンマイ県といった、タイ北部の町の学校に通わなくてはならないのです。そして、山岳地帯から通うことはできませんから寮に入らなければならないのですが、タイという国は福祉に乏しいですから、行政が寮を用意してくれるわけではありません。寮がないならつくるしかない! というわけで巳三郎先生が中心となり、日本から寄附金を集めていくつかの寮がつくられ運営されているのです。

 パヤオ県というところは、人口あたりのHIV陽性者の数がタイのすべての県のなかで群を抜いてトップです。2006年のデータで言えば、人口10万人あたりのHIV陽性者が32.8人です。2位はペチャブーン県の14.5人ですからいかにパヤオ県でのHIV感染が蔓延しているかが分かります。参考までに、首都バンコクは人口10万人あたり10.4人です。

 これだけ、HIV陽性者が多い最大の理由が「貧困」です。農作物がろくに育たずに特に産業もないパヤオ県では、若い女性は都会に出稼ぎにいきます。そしてその何割かは「売春」でお金を稼ぎます。売春でHIVに感染し、故郷のパヤオに帰ってきて、故郷の恋人に感染させて、さらに母子感染で・・・、というケースがこの地域では多いのです。

 山岳民族の場合は、アヘンを中心とした違法薬物の栽培・売買で生活をしている人が少なくありません。一時はタクシン政権の強力な薬物対策の下で、薬物に手を出す者が減りましたが、最近になって山岳民族の薬物生産量が増えていることが判ってきました。そして、薬物に関与するようになると静脈注射に手を出すようになり、HIV感染のリスクが増えます。

 巳三郎先生は、パヤオ県に20年以上も住んでこの地域のHIV感染の広がりを見てきています。このパヤオ県になんとか産業を繁栄させて、新たなHIV感染者を防ぎ、すでに感染している人々についても自立・自活ができるように日々努めています。


 今年、GINAはパヤオ県に森林をつくるプロジェクトにも参加しました。

 パヤオ県は、農作物はもちろん、他の草木も育ちにくい赤土が広がる荒地といった感じの土地で、日本の森林のような美しい情景がほとんどありません。

 その貧しい土地に木を植えてきれいな森をつくるプロジェクトが巳三郎先生の下で発足し、GINAも協力したというわけです。

 森がつくられるのは美しい情景が得られるだけではありません。

 水害が減り、農作物を栽培しやすくなり、また動物が住みやすい環境ができます。その結果、パヤオ県の人々の生活が安定するというわけです。GINAが協力してできる森は「GINAの森」という名前が付けられる予定です。「GINAの森」は近いうちにこのウェブサイトで紹介したいと思います。

 GINAの活動はタイへの支援活動だけではありません。日本国内で講演などを通してHIVやAIDSに関する正しい知識を伝え、依然として存在する偏見やスティグマと戦っていくこともGINAのミッションであります。

 この点では、2008年のGINAは大きく飛躍したといえるかもしれません。私自身は、学校や市民団体から何度か講演の依頼を受け、HIVの知識を伝えてきました。私以外にも、たとえばちょふは、いくつもの学校で講演をおこないましたし、マスコミの取材も積極的に受けています。現在はラジオやテレビ出演も検討しているところです。

 2009年になっても、私自身がタイに行くことはできない可能性が強いのですが、それならば日本国内での活動を広げていきたいと思います。

 というわけで、皆様、来年もよろしくお願いいたします。

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第30回 2008年のGINA(2008年12月)

私はGINAの代表を務める傍ら、2006年12月からはクリニックの院長を務めています。クリニックを開院させてからタイに渡航できる機会がめっきり減ってしまいました。

 これはクリニック開院前から想像していたとおりではあるのですが、やはりタイに渡航できず、エイズ患者さんや、患者さんを日ごろケアしている施設のスタッフに長期間会えないのはさみしい気持ちになります。

 クリニック開院の前の1年間は、トータルで60日くらいタイに滞在できましたから、多くの患者さんやスタッフに何度も会うことができていました。2005年から2006年にかけては、タイのindependent sex workerの意識調査をおこない、これはかなり大変だったのですが今ではいい思い出です。(この結果は、2007年の第21回日本エイズ学会、及び第15回国際女性心身医療学会で学会発表しています) 

 また、タイのエイズ研究者と合同で調査をおこなったこともありましたし、エイズ問題に取り組むタイの大学院生と日タイの違いを語り合ったこともありました。その頃の活動に比べると、今年のGINAの活動はずいぶんと間接的なものになっています。

 実際、私自身はタイに渡航してGINA関連の仕事をすることがまったくできませんでした。別のスタッフは何度か渡航し、北タイのエイズ事情について新しい情報も仕入れ、その一部は11月におこなわれた日本エイズ学会でも発表しています。(私自身は昨年は日本エイズ学会で発表をおこないましたが、今年はクリニックの都合で学会に参加することすらできませんでした)

 私自身はタイに渡航できなかったのですが、タイへの支援はもちろん継続しています。今年は、特に北タイの支援に力を入れました。パヤオ県で、「21世紀農場」を運営し、同地区のエイズ患者さんのために力を注いでおられる谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)の活動に対しては特に積極的に支援するかたちとなりました。

 21世紀農場」では、パヤオの貧しい人たちに農業を伝えて、自立できるような支援がおこなわれています。パヤオ県は土地が貧しく、定期的な収入が得られる農作物がほとんどありません。80年代初頭にこのパヤオ県にやってきた巳三郎先生は、そんな土地でも栽培することのできる農作物を見つけ、日本式の農作業の方式を伝授することによって、パヤオ県のこの地域に住む人たちが自立できるように支援をおこなっているのです。

 巳三郎先生は、北タイの山岳民族の支援にも力を入れています。

 山岳民族の子供たちは、学校に通うことができません。なぜなら山岳部には学校がないからです。

 ですから、山岳地帯に生まれた山岳民族の子供たちが文字を覚えて勉強するには、パヤオ県やチェンライ県、チェンマイ県といった、タイ北部の町の学校に通わなくてはならないのです。そして、山岳地帯から通うことはできませんから寮に入らなければならないのですが、タイという国は福祉に乏しいですから、行政が寮を用意してくれるわけではありません。寮がないならつくるしかない! というわけで巳三郎先生が中心となり、日本から寄附金を集めていくつかの寮がつくられ運営されているのです。

 パヤオ県というところは、人口あたりのHIV陽性者の数がタイのすべての県のなかで群を抜いてトップです。2006年のデータで言えば、人口10万人あたりのHIV陽性者が32.8人です。2位はペチャブーン県の14.5人ですからいかにパヤオ県でのHIV感染が蔓延しているかが分かります。参考までに、首都バンコクは人口10万人あたり10.4人です。

 これだけ、HIV陽性者が多い最大の理由が「貧困」です。農作物がろくに育たずに特に産業もないパヤオ県では、若い女性は都会に出稼ぎにいきます。そしてその何割かは「売春」でお金を稼ぎます。売春でHIVに感染し、故郷のパヤオに帰ってきて、故郷の恋人に感染させて、さらに母子感染で・・・、というケースがこの地域では多いのです。

 山岳民族の場合は、アヘンを中心とした違法薬物の栽培・売買で生活をしている人が少なくありません。一時はタクシン政権の強力な薬物対策の下で、薬物に手を出す者が減りましたが、最近になって山岳民族の薬物生産量が増えていることが判ってきました。そして、薬物に関与するようになると静脈注射に手を出すようになり、HIV感染のリスクが増えます。

 巳三郎先生は、パヤオ県に20年以上も住んでこの地域のHIV感染の広がりを見てきています。このパヤオ県になんとか産業を繁栄させて、新たなHIV感染者を防ぎ、すでに感染している人々についても自立・自活ができるように日々努めています。


 今年、GINAはパヤオ県に森林をつくるプロジェクトにも参加しました。

 パヤオ県は、農作物はもちろん、他の草木も育ちにくい赤土が広がる荒地といった感じの土地で、日本の森林のような美しい情景がほとんどありません。

 その貧しい土地に木を植えてきれいな森をつくるプロジェクトが巳三郎先生の下で発足し、GINAも協力したというわけです。

 森がつくられるのは美しい情景が得られるだけではありません。

 水害が減り、農作物を栽培しやすくなり、また動物が住みやすい環境ができます。その結果、パヤオ県の人々の生活が安定するというわけです。GINAが協力してできる森は「GINAの森」という名前が付けられる予定です。「GINAの森」は近いうちにこのウェブサイトで紹介したいと思います。

 GINAの活動はタイへの支援活動だけではありません。日本国内で講演などを通してHIVやAIDSに関する正しい知識を伝え、依然として存在する偏見やスティグマと戦っていくこともGINAのミッションであります。

 この点では、2008年のGINAは大きく飛躍したといえるかもしれません。私自身は、学校や市民団体から何度か講演の依頼を受け、HIVの知識を伝えてきました。私以外にも、たとえばちょふは、いくつもの学校で講演をおこないましたし、マスコミの取材も積極的に受けています。現在はラジオやテレビ出演も検討しているところです。

 2009年になっても、私自身がタイに行くことはできない可能性が強いのですが、それならば日本国内での活動を広げていきたいと思います。

 というわけで、皆様、来年もよろしくお願いいたします。

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第29回(2008年11月) 大麻の危険性とマスコミの責任

 ここのところ「大麻取締法で逮捕」という新聞記事をよく目にします。

 同志社大学の女子学生、関西学院大学を中退した元学生が大麻取締法で逮捕され報道されだしたあたりから、次々と同じような事件がマスコミをにぎわせています。

 慶応大学ではキャンパス内で大麻の取引があったことが発覚し、鹿児島県では高2の男子生徒が自宅で大麻を栽培していたことが判りました。

 富山県では河川敷で大麻を栽培していた夫婦が逮捕されたかと思えば、佐賀県では17歳の男子が大麻保持で逮捕・・・、と新聞の隅の方まで読めばいくらでもでてきそうです。

 有名人でも逮捕者が相次いでいます。10月に加勢大周氏が大麻栽培で逮捕され(加勢氏は覚醒剤取締法でも逮捕されています)、その後プロの格闘家やプロテニスプレーヤーも逮捕されています。

 実は、大麻で逮捕される者のなかには医師や歯科医師もいます。医道審議会といって罪を犯した医師・歯科医師の処分を決定する行政機関があるのですが、その医道審議会が発表する「医師・歯科医師の処分リスト」のなかには、毎年必ず、大麻取締法で逮捕された医師・歯科医師が入っています。

 つい先日(11月20日)も、大阪歯科大学附属病院の歯科医師が車に大麻を隠し持っていたことが、パトロール中の警察官の職務質問で発覚しています。

 さらに驚くべき事件は、渋谷区の歯科クリニックで、クリニックの院長(48歳男性)が通院していた患者(20歳女性)と一緒に大麻を吸引していたというものです。実際にこんなことがあり得るのか・・・、大衆週刊誌のガセネタではないのか・・・、と思ってしまいますが警視庁が発表し共同通信が報道していますから事実なのでしょう。

 さて、大麻擁護者たちがよく言うセリフに、「大麻は身体に悪くない。タバコの方が依存性があってずっと害になる。実際、オランダやインドの一部の州では合法じゃないか」というものがあります。

 今回はこれについて検証していきたいと思います。まず、大麻は身体にどれくらいの害を与えるかについてですが、たしかに教科書的には大麻は「依存性は低い」とされています。タバコ(ニコチン)の方が、はるかに依存性が強いのは自明です。

 オランダやインドの一部の州で大麻が合法なのは有名で、大麻目的でこれらの地域に旅行する人も少なくないと言われています。(ただし、インドでは外国人が大麻を吸えば違法になるはずです。実際には、外国人が大麻で逮捕されることはほとんどないようですが・・・)

 また、カンボジアでは大麻が伝統料理に使われることもあり、吸引する大麻は大変安く、「タバコを買う金のない貧乏人が大麻を吸う」と言われることもあるそうです。

 伝統料理に使われるんだったら、一概に「大麻=悪」とは言えないんじゃないの・・・。そのように感じる人もいるでしょう。

 では、実際に大麻を吸うとどのような快楽が得られるのでしょうか。(もちろん私は経験がありませんが)、視覚や聴覚が鋭敏になるとされています。例えば、音楽が身体の奥に染み入るように聞こえ、雲のかたちが動物に見えたり天井のシミが虫に見えたり(これをパレイドリアと呼びます)、といった感じになります。80年代後半に公開された『レスザンゼロ』という映画では、白いはずの壁が、シーンによってはピンクや紫のモヤがかかったようになっていました。これは、実際に大麻を吸ったときに見えるような光景をつくっているそうです。

 アルコールは依存症になると社会生活が営めなくなることもありますし、ニコチン依存症は心筋梗塞や肺がんの原因になります。覚醒剤や麻薬が身を滅ぼすのは自明でしょう。

 では、なぜ大麻が「悪」なのでしょうか。実は、私自身もこの答えについては"本質的には"よく分かりません。大麻が悪なのは法律で禁じられているからです。では、なぜ法律で禁じられているかというと、おそらく国民の大半がこんなことをすれば、誰も働かなくなり国家が存続できなくなるからかな・・・、という推測くらいしか私にはできません。

 ただし、本質的には分からない私も、「大麻=悪」と言い切れる理由を知っています。それは、大麻が違法薬物の入り口になることがまったく珍しくない、というものです。「大麻はタバコよりも安全なんだよ」とか言われて大麻を吸いだしたという若い人がいますが、売人は初心者に対して、大麻の「敷居の低さ」を訴えかけます。ここで大麻だけで済めば、ある意味では"軽症"かもしれません。(ただしこの時点ですでに法律はおかしています)

 ここからが"本質的に"問題です。違法薬物の「先輩たち」、あるいは売人は、大麻以上の薬物をすすめるようになります。覚醒剤やMDMA(エクスタシー)がメジャーなところですが、最近は実際には危険性の強い様々な「合法ドラッグ」が普及しています。ここまでくれば身を滅ぼす可能性が一気に上昇します。そして、ここまで来た人のいくらかは静脈注射に手を出します。こうなれば社会的に身を滅ぼす以外にも感染症の可能性がでてきます。(私はこのパターンでHIVに感染した多くのタイ人をみてきました)

 大麻は確かに吸ってはいけないものです。しかし、それ以上の薬物はもっともっと危険なのです。このことはもっともっと強調されなければならないと私は考えています。

 実際に大麻取締法と覚醒剤取締法、さらに麻薬取締法では罪の重さが違うのですが、なぜか一部のマスコミの報道はこのあたりが非常にあいまいになっています。例えば、最近放映されたある民法番組では、大麻の氾濫が取り上げられていましたが、テロップには、なんと「麻薬に汚染される若者たち」と書かれていたのです!

 これでは、大麻と麻薬が同じようなものというイメージを視聴者に与えかねません。もしも、心のどこかで大麻と麻薬、あるいは覚醒剤が同じようなカテゴリーに入ってしまっていると、大麻を吸ってしまったときに、覚醒剤や麻薬への敷居が低くなってしまうのではないかと思われます。

 しかし、そうではないのです。他人を殴るのは列記とした罪ですが、殴り殺せば罪のレベルがまったく異なります。大麻と麻薬・覚醒剤についても同じことが言えるのではないでしょうか。

 マスコミには、大麻の危険性を訴えるのと同時に、覚醒剤や麻薬が大麻とは比べ物にならないくらいに危険であることをしっかりと報道していもらいたいものです。

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第28回 「自分探し」はよくないことか(2008年10月)

 前回も取り上げた映画『闇の子供たち』のなかで、ジャーナリストの清水哲夫(豊原功補)が、タイのNGOで働く音羽恵子(宮崎あおい)に、「なぜタイなんだ。どうせ自分探しなんだろ」と、こけおろすように尋問するシーンがあります。音羽恵子は、「そんなんじゃありません!」とむきになって反論しますが、私がこのシーンを見たときは、「そうそう、こういう若者って自分探しのためにタイに来てるよなぁ・・・」というものでした。

 また、他人の目をみてしゃべることのできないカメラマン与田博明(妻夫木聡)に対しても、「こういう自分探しのヤツもいるよなぁ・・・」と感じました。

 私はこれまでタイの様々なところで、自分探しをしている若者と会ってきました。なかには好感のもてるタイプもいますが、そうでない若者もいます。好感のもてるタイプというのは、やはり音羽恵子のように、始めから目的を持ってタイに来ているような場合です。

 音羽恵子は東京の大学で福祉を学び、タイの大学に短期留学もしています。タイでは、社会福祉センターでもあるNGOの「バーンウンアイラック(愛あふれる家)」にボランティアとしてやってきて、学校に行けない子供たちの世話をしています。

 目的をもっているのに、なぜ自分探しをしているように見えるのか・・・。これは、おそらく音羽恵子のようにはっきりとした意思をもっている者は少数で、タイに来ている若者の多くが「なんとなくタイに来てしまって・・・」というような印象を(私に)与えるからだと思います。

 映画は進行するにつれて、音羽恵子が子供たちのために真剣に尽くすシーンが増えてきます。おそらく映画を最後まで見て、音羽恵子が「単なる自分探しの若者ではない」と感じない人はいないでしょう。

 一方で、タイには「単なる自分探し」としか思えないような日本人の若者がたくさんいます。なかには「自分探しのためにタイにやって来ました!」と答える者もいます。

『闇の子供たち』を見て、「自分探し」について思いを巡らせていて、ふと気がついたことがあります。それは、「もしかして私がタイのエイズ問題に関わったのも自分探しなのではなかったか・・・」ということです。

 私は医学部の学生の頃、ある本で世界最大のエイズホスピスであるパバナプ寺のことを知り、いつか訪問したいという強い希望をもっていました。エイズには元々関心がありましたし、タイでは大勢の患者さんが差別に合い、行き場を失ってそのホスピスに収容されていると聞いていたからです。私が大好きな国タイで「そんな差別があってもいいのか・・・」という思いもありました。そしてパバナプ寺訪問が実現したのが2002年、医師1年目の夏休みです。

 当時のパバナプ寺(というかタイ全体)では、まだ抗HIV薬というものがなく、ホスピスに収容されている人たちは「死」を待つしかありませんでした。なにしろ1日に何人ものエイズ末期の人が亡くなるのです。

 2002年の夏、私はそのパバナプ寺でひとりの患者さんであるノイ(仮名)と出会いました。ノイは自分の夫からHIVをうつされ、その夫はすでに他界しています。ノイは家族からも地域社会からも追い出され、行き場を失ってパバナプ寺にたどりついたのです。

 ノイがパバナプ寺にやってきたときは、失望しかありませんでした。1、2年のうちに死ぬことはほぼ確実なのです。すでにノイの皮膚にはエイズ特有の皮疹がでていました。同じような皮膚症状のある人が毎日何人も死んでいくのを目の当たりにしているのです。このような状態で「生きる希望を持て!」などと言う方がおかしいのです。

 しかしノイは、食事ができなくなりやせ細り死を直前にしている患者さんに対して話をするようになりました。自分にできることは何もないけれど、死を待つしかない人の話し相手にくらいはなれると思ったのです。

 やがて、ノイは元気を取り戻しました。皮膚症状がすでに出現していますがまだ食欲はありますし、簡単な軽作業ならおこなえます。

 私がパバナプ寺を訪問したとき、ノイは米を袋に入れる作業をしていました。私が挨拶をするとノイはにっこりと笑って、生い立ちを聞かせてくれました。そして、今はこの作業ができて楽しいと言います。この仕事をするようになってこんなに力がついたのよ、と言って右腕の力こぶを見せてくれたのです。

 私はこのときのノイの笑顔を忘れることができません。力こぶをつくっているノイは、もうすぐ夫の元に旅立つことを知っているのです。

 2004年の夏、今度は長期の休暇をとって私は再びパバナプ寺にやってきました。そのときに私が真っ先にしたことは、あのノイの笑顔を探すことでした。しかし・・・、ノイはすでに帰らぬ人となっていました。

 2回目となる2004年の訪問の目的は、単なる見学ではなく、長期にわたりパバナプ寺で医師としてボランティアをおこなうことです。すでに私は2年間の研修医生活を終えていましたから、少しくらいは患者さんの役に立てるはずです。

 パバナプ寺にはアメリカ人のボランティア医師もいました。その医師はエイズ専門医ではなく、どんな疾患もみるプライマリ・ケア医だと言います。2002年に私がパバナプ寺を訪問したときに治療をしていたボランティア医師もプライマリ・ケア医でした。

 2人の西洋人のプライマリ・ケア医の活躍をみた私は、ひとつの決断をしました。それは、自分も本格的なプライマリ・ケア医を目指そう、という決断です。エイズ専門医のように、抗HIV薬の投薬を中心にケアする医師よりも、実際の現場でそれぞれの患者さんに耳を傾け、その患者さんの求めていることに応えられる医師になりたいと考えたのです。

 タイから帰国後、私は母校の大学病院の総合診療科の門をたたきました。そして、総合診療医(=プライマリ・ケア医=家庭医)を目指すことにしたのです。

 私が2002年に初めてパバナプ寺を訪問したときは、自分が「自分探し」をしているとはまったく思っていませんでした。しかし、後になって考えてみると、ノイとの出会い、2人のプライマリ・ケア医との出会いを通して、自分の道が決まったような気がします。私は、タイで「自分」を見つけてしまったのです!

 『闇の子供たち』を見て、こんなことを考えていると、それまであまり好感を持っていなかったタイによくいる「自分探し」の若者を突然応援したくなってきました。

 「自分探し」の旅にでてもかまわないのです! 始めから「自分」が分かっている人なんていないのですから...。

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