GINAと共に

第71回 オバマの同性婚支持とオランドのPACS (2012年5月)

 2012年5月9日、米国オバマ米大統領は、米放送局ABCのテレビ番組のインタビューで、I think same-sex couples should be able to get married.(私は同性のカップルが結婚できるようになるべきだと考えている)と発言しました。するとその直後からオバマ大統領の再選を支持する団体に寄附金が大量に寄せられ、報道によりますと、90分で100万ドル(約8,000万円)が集まったそうです。

 このニュースをどう読むか、ですが、素直に読めば、オバマ大統領は同性婚を支持しており、大勢の同性婚が認められることを望む人が同大統領に共感している、となるでしょう。同性婚が認められることを望む人たち、というのは同性愛者の人たちはもちろんですが、多様性を認める社会が望ましいと考えている異性愛者の人たちも含まれます。

 私個人としては、同性婚に賛成?反対?、と問われれば「賛成」と答えますが、今回のオバマ大統領の発言にはどうもすっきりしないところがあります。穿った見方をすれば、本当にオバマは同性婚を支持しているのか?、と疑問に思えてくるのです。

 なぜなら、アメリカのすべての州で同性婚が認められるようになる、などということをオバマ大統領が本気で考えているとは私には到底思えないからです。最近の世論調査では同性婚に賛成の者が増えていますが、おそらく州ごとにきちんとした調査をおこなえば反対意見の方が多くなるはずです。

 私はアメリカ人の知人がそれほど多いわけではありませんが、アメリカ人というのはかなり保守的な考えを持っているように感じています。私はこれを批判しているわけではありません。協会の活動や家族を大切にするところなどは善き保守の考えです。神を信じ、進化論を否定し、中絶を認めない、というところまでくると、さすがに首をかしげたくなりますが、保守のすべてが悪いと言っているわけではありません。

 保守的な考えには共感できることもあればできないこともあります。保守を自認する人のすべてが・・・、というわけではもちろんありませんが、アメリカで人種差別が完全になくなっていないのは自明です。そして同性婚についても、どれだけの人が心から認めているのか、疑問に感じずにはいられません。カリフォルニアは世界で最も人種差別の少ないところ、ということを世界中を旅している人たちから過去に何度か聞いたことがあります。ヨーロッパの多くの国では、長期間滞在していると、日本人が蔑視されている、と感じることがあるのに対して、カリフォルニアではそういったことがほとんどない、と聞きます。

 しかし、そのカリフォルニアでさえも、同性婚はいまだにきちんとしたかたちでは認められておらず裁判所の判決が二転三転しているのです。ニューヨーク州やワシントンD.C.などいくつかの州では確かに合法化されていますが、州によってはカリフォルニアのように、いったん認められた後にそれが覆される、ということが起こっているのが現実なわけです。

 このような現実を踏まえたときに、同性婚は認められなければならない、などと大統領が発言することが賢明だとは私にはどうしても思えないのです。予定通りに(あるいは予定以上に)集まった大量の寄附金が目的だったのではないか・・・、という疑問が私には払拭できないのです。周知のようにアメリカの大統領選挙ではお金がないと勝負になりません。同性婚支持という大変インパクトのある言葉を公表することで世間の注目を引き寄せ寄附を集めたのではないか、と思えてくるのです。

 もしも、オバマ大統領が本当に同性愛者の立場にたって、彼(女)らの権利を守りたい、と考えるならもっと現実的な「別の方法」を提案すべきです。

 その「別の方法」を自ら実践しているのが、2012年5月6日、フランスの大統領に就任したオランドです。オランドは同性愛者ではなくパートナーは女性です。しかし結婚ではなく「PACS」というかたちでパートナーシップを結んでいます。

 PACS(パックス)とは、Le pacte civil de solidariteの略で、無理やり日本語にすると「連帯市民協約」となります。PACSは、成人どうしであれば性別に関係なく結ぶことができるパートナーシップで、結婚したときと同じように税控除や社会保障などの権利が与えられます。二人で契約書のような書類を作成し、それを当局に提出すれば協約完了となります。相手は同性でも異性でもかまいませんが、相手が結婚している場合は結べません。すでに相手が他の誰かとPACSを結んでいる場合もNGです。また、親族(いとこを含む)や後見人がいる場合も関係を結ぶことはできません。

 オランド大統領がPACSを結んでいるパートナーのバレリー・トリルベレール女史は、世界初の未婚のファーストレディとなるそうです。(ちなみに、タイのインラック女史は、ファーストレディでなく首相ですが、パートナーと子供がいますから、世界初の事実婚の首相となります)

 ここで結婚とPACSの違いを考えてみたいと思います。結婚であってもPACSであっても同じような権利が与えられるのであれば何が異なるのでしょうか。それは、結婚は「イエ」と「イエ」のものであるのに対し、PACSは「個」と「個」のものであるということです。

 イエは個人を多かれ少なかれ束縛します。個の自由を最小限におさえたイエのかたちは、戦前の日本にみることができます。結婚するまで相手の顔もみたことがないということもあったわけで、これは欧米人から大変驚かれたそうです。(現在の日本人が聞いても驚きますが・・) ただし、イエは日本にしかないわけではなく、欧米諸国にも存在します。家柄が違うという理由で結婚ができなかった悲劇が描かれているヨーロッパの芸術からもそれがわかります。

 我々現代人はイエを否定的なものとみなしがちです。個人の自由がイエに縛られるべきでない、という考えです。しかし結婚はイエとイエのものです。これに反論する人もいるかもしれませんが、親や親戚をまったく無視した結婚というものにはどこか暗さや後ろめたさが残存するものです。一方、PACSは個と個のものですからイエに縛られる煩わしさはありません。

 さて、同性愛者のパートナーシップは結婚とPACSのどちらが現実的でしょうか。言うまでもなくPACSです。私は同性婚に反対しているわけでは決してありません。しかし、現実的な観点から同性愛者の自由と権利を確保するには「同性婚を認めよう」などという発言をしたり運動をしたりするよりも、フランスがやっているようにPACSを法的なかたちで認める方がはるかに賢明です。そして、こんなことはオバマ大統領にも分かっているはずです。であるから、あくまでも「結婚(get married)」という言葉にこだわっているオバマが不思議に思えてくるのです。

 残念ながら日本では、同性婚どころか、同性愛者の権利についてすら国会で取り上げられたことはありませんし、住民投票をしようという声もあがってきません。これは、国会議員だけでなく、一般市民が、同性婚なんて考えられない、と暗黙に思っているからに他なりません。仮に住民投票がおこなわれたとしても賛成が反対を上回ることはないでしょう。個人の自由が昔に比べると随分と広がった現代でも、いまだに結婚にはイエの存在があるからです。当事者である同性愛者の人たちも、双方の親戚を集めてパーティを開きたいと考えている者はそれほど多くないでしょう。

 しかし、日本の同性愛者たちも結婚できないが故の不利益を被っているのは事実です。税控除や社会保障の点で差別的な扱いを受けており、保険の受取人になれず、手術の同意書にサインできない、ということもあるでしょう。

 また、異性愛者でも、イエの煩わしさから解放されてふたりだけで協約を結びたいと考える者も大勢いるに違いありません。実際、結婚してから「親戚づきあいがうっとうしい」「姑とそりが合わない」などと感じている若いカップルは少なくないでしょう。私はイエのすべてが悪いと考えているわけではありませんが、結婚に伴う諸問題の煩わしさを避けたいという理由で社会保障のない状態で事実婚を続けるカップルが、PACSという選択肢を選べるようにすべきだと思うのです。

 PACSという言葉はすでに世界中で広がっています。アメリカのことはアメリカ人が考えればいいと思いますが、日本でもPACSという言葉と概念が普及し、異性愛者、同性愛者とも、事実婚で権利が保障される時代の到来を歓迎すべきではないでしょうか。


参考:GINAと共に
第60回(2011年6月) 「同性愛者の社会保障」
第3回(2006年9月) 「美しき同性愛」

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第70回 セックスワーカーと恋をするということ(2012年4月)

 私がタイのエイズ問題に関わりだしたとき、最も衝撃的だったことのひとつが、まだ10代の女子が親に身を売られて売春をさせられエイズを発症し死んでいく、という現実でした。

 こういった事実を知ったとき、やり場のない悲しみがこみ上げてきて、自分の子供を売り飛ばす親に怒りの気持ちを感じ、そしていたいけな女子を弄ぶ男たちに対して憎しみの感情を抱きました。

 その後、タイの貧困の様子を見聞きし、東北地方(イサーン地方)や北タイの山岳民族では貧困から自分の娘を売らざるを得ない現実があることを知り、親だけに責任があるわけではない、と感じるようになっていきました。

 しかし、女性をカネで買いHIVを感染させるような男たちを許せない、という気持ちは変わりません。なかには、日本に出稼ぎにきたタイ人女性が日本で売春をさせられHIVに感染した、というケースもあります。

 売買春が古今東西どこの社会にも存在することは認めますし、罪を重くしたところでそのようなビジネスは地下に潜るだけでかえって危険性が増す、ということも理解しているつもりです。しかし、なんとかして売買春に伴う悲劇を少しでも減らさなければなりません。そのためには何をすればいいのか・・・。この問題を考えれば考えるほど、女性をモノのようにしか扱えない男性に対する否定的な感情が強くなっていきました。

 そんななか、2005年あたりから少しずつ、タイの売買春に関する調査をおこないだし、当事のGINAのタイ人スタッフが中心となり、タイでセックスワークをしているタイ女性とその顧客(日本人を含む)に対し聞き取り調査をおこないました。

 その内容の主旨は当サイトに掲載している「タイのフリーの売春婦(Independent Sex Workers)について」で述べていますし、いくつかの学会でも発表しましたが、最も重要な結論のひとつは、「組織に属するのではなく、バーやカフェなどで自由に"営業"をしているセックスワーカー(independent sex worker(注1))とその顧客は容易に恋愛関係になりやすい」、というものです。なかには、当初はセックスワーカーと顧客の関係だった二人が結婚にいたった、というケースもあります。

 私はこのことをいくつかの学会などで報告し、「タイで外国人のHIV感染が多いのは、independent sex workerが多く、実際に顧客との恋愛や結婚にいたるケースが少なくないから」とまとめました。今でもこの考えは正しいと思っていますし、実際、日本人男性とタイの(元)independent sex workerのカップルは次々に誕生しています。そして、不幸なことに、HIVを含む性感染症に罹患する日本人も増えてきています。このような日本人男性は20代から(私の知る限り)80代までいます。

 若い男性のなかにも、3日間の休みができると足繁くタイに通うような人もいます。彼らは、日本では相当きりつめた生活をしてタイ渡航のための貯金に励んでいます。高齢者の場合は、ロングステイ中に相手を見つけて同棲にいたるケースもありますし、なかには初めから若い女性の配偶者を探す目的でリタイヤメントビザを取得するような人もいます。彼らのパートナーのすべてが(元)independent sex workerというわけではありませんが、けっこうな割合なのは間違いありません。

 もちろん、このような恋愛のすべてが上手くいくわけではありません。恋人だと思っていたタイ人女性に実はタイ人男性の旦那がいた、というのはよくある話で、ここで「はい、さよなら」と割り切れればいいのですが、なかにはショックのあまり自ら命を絶つ若い日本人男性もいます。高齢者の場合は、保険金をかけられてから謎の変死体で発見、という話も聞きますし、そこまでいかなくても、退職金の3千万円を、彼女だと思っていたタイ人女性とその親戚に騙されて奪われた、などという話はタイには掃いて捨てるほどあります。

 このように、タイ人女性、特に(independent)sex workerのタイ人女性との恋愛は充分慎重になるべきですし、この逆のパターン、つまりタイ人男性に夢中になり貢いでいる日本人女性もまた少なくありません。日本人の女性が外国人の男性に貢ぐのはバリ島の男性が有名ですが、タイでも決して珍しくありません。実際、もしもあなたが夢中になっているタイ人がいて交際を考えているなら、周りの人は「注意した方がいいよ」と忠告してくれているのではないでしょうか。

 現在の私はタイに渡航できるのはせいぜい年に一度程度で、普段は大阪で診療所の医師をしています。GINAのサイトをみて受診される患者さんもなかにはいて、そんな患者さんのなかには日本で性風俗産業に従事している女性もいますし、そういった女性の性サービスを受けた(そしてなんらかの性感染症に罹患した)男性もいます。そんな彼(女)らから学んだことがあります。それは、「彼(女)らも、最初は顧客とセックスワーカーの関係だったとしても、いずれ恋愛関係に、さらには結婚に至るケースも珍しくない」、ということでした。

 私が当初考えていたのは、タイのindependent sex workerは"特殊な"存在であり、初めから恋愛関係になることもある程度は想定しており、それは顧客もそのつもりであり、売買春ではなく「擬似恋愛」がスタートラインになっているのかもしれない、というものでした。しかし、日本人の男女からもこのような恋愛が成熟したという話を聞くと、タイのindependent sex workerが特殊な存在であることには変わりはないとしても、日本の風俗店で働く日本人のセックスワ-カーとて、まったく別の世界の話ではなく、境界を引くことができないのではないのか、という気がします。

 日本の風俗店でセックスワーカーと顧客として知り合った二人は、その馴れ初めを親や友達に堂々と語ることはしないでしょう。しかし、幸せな二人を非難することは誰にもできません。たまたま知り合った場所がそういうとこだった、というのはあまりにも陳腐な言い方ですし、おそらく彼(女)らの心のどこかには後ろめたさや何らかのわだかまりがあるに違いありません。しかし、そのわだかまりを抱えながらやっていこう、という意思があるなら、他人からとやかく言われる筋合いはありません。

 話をタイに戻すと、私がこれまで知り合った、タイ人の元independent sex workerのガールフレンドや妻を持つ日本人男性は、おしなべて言えばみんな楽しそうで、パートナーの過去のことは気にならない、と言います。

 数年前にバンコク行きの機内で隣の席に居合わせた70代の男性はナコンラチャシマ県(バンコクに次いで大きな県)に住む恋人に会いに行くところだ、と話していました。この男性は関西のある市でかつては市会議員に当選したこともあるほどの有名人だそうですが(ただし旅先で聞く話は嘘が多いので真偽はわかりません)、奥さんを亡くしてからすっかりふさぎこんでいたそうです。しかし一年前にバンコクで(おそらく客とsex workerの関係で)知り合った女性と恋に落ち、今回は女性の両親に挨拶に行くそうです。おそらく両親はその男性より一回り以上(二回り以上かもしれません)年下でしょう。私がそのことを指摘すると、「マイペンライ(気にしない)」と言って笑っていました・・・。

 このように、最初はお金の関係だったけれども後に恋愛に進展した男女のことを考えると、私が2002年にタイのエイズ施設で抱いた感情、こんないたいけな少女を弄んだ男性を許せない・・・、という気持ちが消えることはないにしても、はじめの関係がsex workerと顧客だったとしてもそんなことはどうでもいいことだから幸せになってほしい、という気持ちが強くなってきます。

 女性を弄びHIVを含む性感染症を感染させる男たちは(感染させなかったとしても)許せませんが、真剣に恋愛している男女に対しては、障害を乗り越えて頑張っているカップルのように思えてきて、応援したくなる気持ちすら沸いてきます。
 
 けれども、恋愛に溺れ「盲目」になる前にHIVを含む性感染症のリスクはくれぐれもお忘れなく・・・。

注1:「independent sex worker」という単語について補足しておきます。いわゆるマッサージパーラー(ソープランド)や日本の風俗店のような組織(店舗)に所属しているセックスワーカーをdependent sex workerというのに対して、バーやカフェなどで"自由に"顧客を探すセックスワーカーをindependent sex workerと呼びます。日本語風に言えば、「フリーのセックスワーカー」と言えるかもしれません。しかし、「freeのsex worker」という言い方は、性的サービスを無料でおこなうセックスワーカーという意味にも解釈できますので、independent sex workerという表現の方が適切です。また、independent sex worker, dependent sex workerをそれぞれ、indirect sex worker, direct sex workerと表現することもあります。

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第69回 南京虐殺と集団買春(2012年3月)

 河村たかし名古屋市長の南京虐殺に関する発言が物議をかもし日中友好関係に影を落としています。2012年2月20日、中国・南京市から表敬訪問のために名古屋市に訪れた共産党市委員会の常務委員と会談した際に、河村市長が「南京虐殺など存在せず中国が過剰反応した」という内容のことを発言した、と報道されています。

 もっとも、河村市長が実際にどのような言葉を使ったのかはよくわからず、報道によっては、河村市長が「南京虐殺などまったく存在しない」と言った、とするものもあれば、「南京虐殺があったことは認めるものの中国側が主張するような30万人の死者というのは多すぎる」と言った、とするものまであり、事の真相はよく分かりません。

 ただ、日中関係に少なからず影響を与えているのは事実です。南京のある江蘇省では、省政府職員に対し名古屋への渡航禁止通達が出されたようですし、サッカー前日本代表監督の岡田武史氏が率いる中国リーグ「杭州緑城」は、当初予定していた東日本大震災発生1年に当たる3月11日の開幕戦での黙とうを取りやめたそうです。

 30万人という数字は当事の南京の人口からみて多すぎるというのは、これまでも多くの識者から指摘されていることで、検証が可能なのであればすべきだとは思います。しかし、南京虐殺がまったくなかったかと言えば、「虐殺」という表現の妥当性は別にして、犠牲になった市民がひとりもいない、とは言えないのではないでしょうか。私は、あるドキュメンタリー映画で、元日本軍の男性が「シナの市民にひどいことをした・・・」といった発言をするのを聞いたことがあります。

 私は日中の歴史に詳しいわけではなく、南京虐殺について語る資格はありませんが、これまでこの件について見聞きしてきたことから推測して、南京の一般市民に対する暴行・殺戮、女性に対する強姦がまったくなかったとは言い切れないのではないかと感じています。個人的には、いくらなんでも30万人は多すぎるだろう・・・、とは思いますが、じゃあそれが3万人ならいいのかと問われればいいはずもなく、数字の信憑性を議論することにはそれほど意味がないような気がします。「南京虐殺は異論もあるものの存在した可能性があり、人数は不明であるが最大30万人とする見方もある」というくらいが客観的な記述になるのではないかと思います。

 南京虐殺の真実は私には分かりませんが、現代の日本において中国に買春にいく中年(中年とは限らないかもしれませんが)男性がいるのは事実です。

 数年前、日本のある会社が社内旅行で広東省珠海市を訪れ、そこで集団買春がおこなわれていたことが発覚し問題となりました。この問題について、名古屋の河村市長と同様、(あるいはそれ以上に)現在最も注目されている大阪市の橋下徹市長が当事、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」とテレビ番組で発言し大変な批判をあびました。

 当事の橋下氏は市長ではなく、テレビによく出るタレント弁護士だったそうです。私は、その橋下氏の発言をめぐる事件をインターネット上のニュースで知り、そのときに初めて橋下弁護士の存在を知ったのですが、これには大変驚きました。驚いた、というより、あきれた、といった方が正確かもしれません。

 その後、(これもインターネットのニュースで知ったのですが)橋下氏は、翌週のその番組の生放送中に突然マイクの前に立ち、涙を浮かべながら番組を降板することを宣言し、そのままスタジオから出て行ったそうです。いくら失言をしたからといって、テレビの生放送中にここまでできる潔さに(今度はいい意味で)驚きました。

 その後、橋下氏は大阪府知事に立候補し見事当選し全国的に有名になります。(実際はその前からタレント弁護士として有名だったのだと思いますが、あまりテレビを見ない私には馴染みがありませんでした) さらに、市長となった橋下氏は物議をかもす発言を次々とおこない、議会では驚くような条例を提案し話題を呼んでいます。最近、私は毎朝、朝刊の地方面を見るのがひとつの楽しみになっています。橋下市長関連の記事が大変興味深いからです。橋下市長は道州制にも賛成していると聞いたことがあります。私自身も個人的に道州制を支持しており、日本を再生させるためには道州制が不可欠であると考えています。

 そんなわけで、すべてにおいて賛成、というわけではありませんが、私は今後の橋下市長の活躍に期待しています。

 しかしながら、潔く生放送で謝罪の見解を発表したからといって、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」という過去の発言がまったく消えてしまうわけではありません。もしも橋下市長が市長や府知事でなくひとりのタレント弁護士のままであれば、この発言が忘れ去られてもそれほど大きな問題ではないかもしれません。(それでも弁護士という立場上、発言はなかったことにする、というわけにもいかないでしょうが)

 日本を代表する自治体のひとつである大阪市の市長が、過去に「日本人による買春はODA」といった発言をしていたということは、やはり看過できないのではないでしょうか。もしも例えば、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーが、「戦後日本に駐在していた米国の軍人がパンパン(街娼)を買ってやってたのは日本に対するODAだ」、とテレビで発言したとすれば、我々日本人はどのように感じるでしょうか。

 日本人によるアジア人女性の買春でHIVを含む性感染症に罹患する人がいるのが現実です。前回のこのコラムで、私はかつて日本に存在していた「からゆきさん」について述べました。現在の中国では、当事の日本のからゆきさんと同様、貧困から売春せざるを得ない女性が大勢いるのです。そのような女性たちを弄ぶ日本人がODA、つまり「公的な開発の援助」をしている、などという発言は到底許されるものではありません。

 橋下氏の発言のきっかけとなった社内旅行で集団買春をおこなった日本の会社は世界の恥さらしとなりましたが、タイでもこのような話、つまり日本人の団体客が集団買春をしているという話を何度か聞いたことがあります。しかし、タイの売買春についてかなりつっこんだ調査をおこなったことのある私の経験からみても、欧米諸国の会社や団体が集団買春をしているなどという話は聞いたことがありません。

 集団買春などということをおこなってそれを恥と感じない日本人がいるということを我々は同胞としてもう一度よく考えてみるべきではないでしょうか。さらに、それを肯定する発言をテレビで堂々と弁護士がおこない、その弁護士が知事になり市長になっている、というこの現実を考えたとき、「日本人は紳士ですから南京虐殺などありえません」などと言われて納得する中国人がいるでしょうか。

 歴史を正確に検証することももちろん大切ですが、現在の日本人が中国人に対して恥ずかしいことをしていないかどうかを河村市長に再考してもらいたいと私は感じています。橋下市長に対しては、過去の発言に対してこれ以上言及したり謝罪したりする必要はないと思いますが、問題発言をしてしまったことを忘れることなく国際都市大阪のリーダーとして活躍されることを期待したいと思います。

 GINAとしては、世間に対し、集団買春を恥ずべきことと感じていないような人たちが考えているよりもHIVを含む性感染症がその後の人生に大きな影響を与えるということ、そしてそれだけのリスクを抱えてまでも生き残るために春を鬻がなければならない女性たちが存在しているということをこれからも訴えていきたいと考えています。

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第68回2012年2月 からゆきさんを忘るべからず

 私が中学生だった頃ですから1980年代の前半、「じゃぱゆきさん」という言葉が流行りました。フィリピンやタイをはじめとする東南アジアの国々から日本に出稼ぎにやってきた若い女性たちのことを指した言葉です。当事発展途上国と呼ばれていた東南アジアの国々から若い女性たちが経済大国である日本にやってきて、たどりつく仕事と言えば「売春」につながるものであることは中学生の私にも分かりました。当事の私は、「発展途上国に女性として生まれると気の毒・・・。日本はいい国だ・・・」、と単純に感じていました。

 その数年後、大学生になった私は(当事は社会学部に在籍していました)、近代社会について書かれた書物を読んでいるとき、私が中学生のときに抱いたじゃぱゆきさんに対する感想が、なんてのんきなものだったのか、と痛感することになりました。じゃぱゆきさんという言葉が「からゆきさん」から生まれたのだということを私は大学生になって初めて知ったのです。

 さらにそれから十数年がたち、タイのエイズ問題に関わるようになり、あらためて「からゆきさん」に思いを巡らし、いくつかの文献をあたることになりました。

 からゆきさんとは、19世紀後半から20世紀初頭に、東南アジアやソ連、中国などに渡って娼婦として働いた日本人女性のことを言います。なかには、ハワイやカリフォルニア、南米、ヨーロッパ、アフリカ(注1)などにも渡った女性がいるそうで、ほとんど世界全域に出向いていたことになります。正確な統計はありませんが、からゆきさんとして世界各国に渡った日本人女性は20万人とも30万人とも言われています。

 なぜ当事の若い女性たちは、からゆきさんという道を選択しなければならなかったのかというと、それはもちろん「貧困」に他なりません。つまり、1970年代後半から1980年代にかけてフィリピンやタイからはるばると日本に出稼ぎにやってきた女性たちと事の本質は同じなわけです。

 日本という国は、太平洋戦争の敗北後、努力を重ねたことで世界第2位の経済大国となったんだ、ということを子供のときはよく聞かされていました。戦前の日本が貧しかったということは何度も聞かされましたが、それでも、海外に娼婦として出稼ぎにいかなければならない若い女性が大勢いたということに私は驚きました。

 ただし、30万人もいたとされるからゆきさんについては、歴史上「日本の恥」とも言えるわけで、「からゆきさん」という言葉は戦前も戦後も公の場で聞くことはそれほどなかったそうです。

 そんなからゆきさんが一躍有名になったのは、1972年に出版された、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』だと言われています。この本は、著者の山崎氏が、熊本の天草に渡り、「元からゆきさん」の女性を探し当て、自分の身分を偽りその女性と同居させてもらい、からゆきさんの当事の様子を聞きだしてまとめたものです。この本は、身分を偽って取材をしたこと、取材のなかで他人の写真を勝手に拝借していること、プライバシーに配慮しているとはいえ結果として天草のイメージを損ねたことなどから、批判的な意見も多いのですが、内容・表現ともかなり読み応えのある良書だと私は感じています。

 この本は、後に『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで映画化され、高い評価を受けています。1974年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を獲り、監督・女優賞も受賞しています。海外でも高い評価を受けたようで、主役のからゆきさんを演じた田中絹代はベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞しています。

 『サンダカン八番娼館』以降も、からゆきさんに関する書物は出ており、21世紀になってから出版されたものもあります。そのなかの何冊かを読んでみたのですが、(どこまで正確に取材されているかという問題はありますが)からゆきさんたちは、相当過酷な環境で酷使されていたのは間違いないようです。

 まず、海外に渡ること自体がかなりの苦労を伴います。からゆきさんの仕事自体は1920年に廃娼令が施行されるまでははっきりと禁じられていなかったようですが(注2)、渡航自体は不法入国となりますから簡単にはいきません。ですから、大型船の貨物室の荷物に隠れたり、使っていない給水タンクの中に隠れたりして密入国していたそうです。

 ひとつ有名なエピソードを紹介しておくと、ある船に乗っていた船員が水道の蛇口をひねると異臭がすることに気付いたそうです。そしてその原因を調べると、給水タンクで溺死していた複数の若い女性が見つかったそうです。これは当初、日本を出航したときには使われない予定だった予備タンクに、数人のからゆきさん(になる予定の女性たち)が隠れており、途中立ち寄った港で当初の予定が変更され水が入れられたことで、そのなかに潜んでいた女性たちが溺死してしまったというわけです。

 ここまで無残な事件までいかなくても、貨物室や地下室に潜んでいるとそのうちに全身が糞尿まみれになります。このような状態が数十日も続くわけですから、おそらく相当な数の若き日本女子が外国にたどりつくまでに命を落としていたことが想像できます。小さな船で密入国を試みた女性たちのいくらかは転覆で命を失くしていたことでしょう。

 貧困な家庭に生まれた当事10代(10歳未満の少女も少なくなかったそうです)の女性たちは、こんなに苦労して外国にたどりつき、売春をさせられていたのです。戦後の占領統治下で、在日米軍将兵を顧客としていた日本人の娼婦がいたという歴史も恥ずべきものですが、その少し前まで、世界中で、欧米人だけでなくアジア人、アフリカ人を含む多くの男性から日本人の女子が弄ばれていた、という歴史を、忘れたいですが、忘れてはいけないのではないか、と私は思います。

 以前、このコラムの「自分の娘を売るということ」で、自分や自分の娘を売る前に、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらうべき」、ということを述べました。

 進歩的な考えを持つ人たちのなかには「セックスワークの自由」を主張する人がいて、そのような考え方に対して、私は個人的にはあまり好きにはなれませんが、そういった自由が一部の領域では認められるべきではないか、とも思います(例えば身体障害者に対する性的サービスの供給)。しかし、(そのようなことを"安易に"する人はいないと思いますが)、自分の体を売ることを決意する前に、かつての日本に数多く存在したからゆきさんのことについて思いを巡らせるべきだと思うのです。

 残念ながら、少なくなってきたとはいえ、今でもタイの東北部(イサーン地方)や北部の一部の地域では、貧困から自分の娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない人たちもいます。以前このコラムの第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」で述べましたが、映画『闇の子供たち』の冒頭シーンにあるような人身売買のブローカーが女子を親から買っているのは事実です。

 私がタイのエイズ問題に関わり始めたとき、自分の娘を売る親がいるということを知り、まず驚き、それが怒りや悲しみにかわり、その後現実を知り理解するようになりましたが、改めて考えてみると、当初私が感じた「タイ人はなんて非道なんだ」という印象は完全に誤りであり、かつての日本にも同じことをせざるを得ない時代があったのです。

 売春の問題が語られるとき、倫理観や道徳観が持ち出されることが多く、また、「後悔することになりますよ・・・」とか「性感染症のリスクが・・」と言った話になり、これらは間違ってはいないわけですが、<貧困>という差し迫った現実が立ちはだかれば、このような理屈は一切意味をなさなくなることもまた事実です。

 我々は、そのことをかつての日本に存在していた「からゆきさん」から学ぶべきではないでしょうか。


注1:(からゆきさんを美化することに個人的には抵抗があるのですが)からゆきさんの美談として、「アフリカのマダカスカル島に渡っていたからゆきさんが、バルチック艦隊の情報を日本に知らせ、これにより日本軍が情報をつかみ日露戦争勝利につながった」、とするものがあります。

注2:かつての日本は、世界的にみて売買春に対する規則が相当緩やかだったようです。本文で述べたように廃娼令が施行されたのは1920年になってからですし、公娼廃止を謳った芸娼妓解放令が1872年に出されたのは"外圧"を受けてのことです。この"外圧"は「マリア・ルーズ号事件」と命名されています。簡単に紹介しておくと、1872年横浜港に寄港していたペルーのマリア・ルーズ号の船内で中国人の労働者が奴隷のように扱われていたことに対し「虐待事件」として日本の外務省管下で裁判がおこなわれました。その裁判で、被告となった船長が「日本ではもっとひどい奴隷契約があるではないか。それは政府が公認している遊女である」といったようなことを述べ、これを受けて同年に芸娼妓解放令が発令されたそうです。


参考:GINAと共に
第52回(2010年10月) 「自分の娘を売るということ」
第27回(2008年9月) 「幼児買春と臓器移植」

『サンダカン八番娼館』(文春文庫) 山崎朋子
『からゆきさん物語』(不知火書房)宮崎康平
『北のからゆきさん』( 共栄書房)倉橋正直

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第67回(2011年1月) 谷口巳三郎先生が残したもの

 2011年12月31日未明、タイ国パヤオ県で21世紀農場を営む谷口巳三郎先生が享年88歳で他界されました。

 谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)については、このサイトで過去に何度か紹介していますが、あらためてどのような先生だったのかを振り返っておきたいと思います。(尚、巳三郎先生も私も苗字は同じ「谷口」ですが血縁関係があるわけではありません)

 巳三郎先生は1923年に熊本で誕生されました。戦中は学徒動員でジャワ戦線にも参加されたそうです。戦後は鹿児島大学農学部を卒業され、県庁や熊本県立農業大学校などで農業に従事し定年退職を迎えられました。定年後、単身でタイに渡られ北部のパヤオ県で、現地の人々に農業の指導をおこなってこられました。

 巳三郎先生がエイズという病と関わりを持ち出したのは、パヤオ県というこの地域に80年代後半からHIV感染が急速に広がりだしたからです。タイ全国で最も貧しいと言われているパヤオ県は、実際に県民ひとりあたりのGDPが全国一低い県で、その額は日本円にして10万円にも満たないものです。

 そんなパヤオ県にHIVが蔓延したのは必然であったといえるでしょう。地面は赤土で農作物が育たないこの地域では産業と呼べるものがほとんどありません。このような環境でまともな教育を受けていない若者が日銭を稼げる仕事とは・・・。男性なら薬物の売買、女性なら売春に向かわざるを得ないことは容易に想像できます。

 巳三郎先生が始められた、パヤオ県に根を下ろして農業の指導をおこなう、ということは地域の住民の生活に深くかかわるということに他ならず、それはすなわちエイズという病への取り組みが必然であったのです。

 巳三郎先生はパヤオの奥地に「21世紀農場」という農場をつくり、そこで様々な農作物を作り始めました。現地の人に栽培方法を覚えてもらわなければなりませんから、農場内には家屋もつくりそこにタイ人を住まわせて指導にあたりました。巳三郎先生の目的は、農場で利益を出すことではありませんから、栽培した野菜や米はHIVに罹患して働けない人へ供給するようになりました。

 しかし、HIVに罹患していて働けないから(当事は今よりもはるかに差別がありました)という理由でいつまでも食べ物を恵むだけでは患者さんたちの自立につながりません。そこで巳三郎先生は、HIVに罹患した人たちにも農業を教え、家畜の育て方を教え、また、日本から古いミシンを大量に購入し、女性には裁縫の指導もおこないました。

 2005年あたりからは、タイではHIVがかつてほど増加しておらずむしろ減少傾向にあると報道されることが増えていますが、巳三郎先生はそのような見方をしていませんでした。2009年に大阪でお会いしたときにも、農作物を無償で渡しているHIV陽性者は増える一方で・・・、という話をされていました。

 巳三郎先生は、医療従事者でないのにもかかわらず、農業指導を通して地域に溶け込むなかでHIVという問題を看過することができず、いつのまにか地域社会でHIV対策の中心的な役割を担うようになったのです。

 私が巳三郎先生と初めてお会いしたとき、HIVについて熱く語られていたことは印象的でしたが、21世紀農場を訪問したときにもうひとつ大変感銘を受けたことがあります。

 それは、21世紀農場で働くタイ人の現地スタッフがあまりにも礼儀正しいことでした。これは他のタイ人が礼儀正しくないという意味ではありません。タイに行ったことがある人ならわかるでしょうが、タイ人は目上の者には「ワイ」と呼ばれる独特の挨拶(両手を合わせて頭を下げる)をおこないます。21世紀農場で働くタイ人も私に対してワイをしてくれたのですが、私が感銘を受けたのはワイではありません。

 タイ人と仕事をしたことがある人ならわかると思いますが、日本人に対するのと同じような感覚でタイ人に接すると必ずといっていいほどトラブルになります。例えば、一般的なタイ人の多くは、日本人のように時間を守りませんし、言ったことをすべてやってくれません。一を聞いて十を知る、どころか、十を伝えて五をしてくれれば満足しなければならない、というのが一般的タイ人の現実なわけです。もちろん、日本人のすべてが、一を聞いて十を知る、ができるわけではありませんが、我々日本人はそのような気遣いや心配りを美徳と感じています。

 食事の仕方にも違いがあります。(今はそうでもないかもしれませんが)日本人は食事の際、全員がそろうまで待って、いただきます、と言って食べ始めます。一方、タイ人はバラバラにやってきて食べ終わった者から退席する、といった感じです。もちろんこのような習慣は文化によって異なるものですから、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。しかし、全員がそろうまで待って、一緒に食べて、一緒に後片付けをおこなう日本式の方が協調性と責任感が育まれやすいのではないでしょうか。

 私が21世紀農場で受けた感銘というのは、巳三郎先生の元で働いているタイ人の現地スタッフが、まるで古き善き時代の日本人のようだったこと、です。彼(女)らは、挨拶を大切にし、農作業をするときのみならず、食事をつくるときも掃除をするときにも強調性と責任感を発揮して効率よくおこなっていました。食事は全員そろうまで待ち、日本語で「いただきます」を言って(タイ語には「いただきます」に相当する言葉がありません)、一緒に食べ始めます。一度私が所用でテーブルにつくのが10分ほど遅れたことがあったのですが、約20人いたスタッフ全員が食事に手をつけずに私を待ってくれていました。

 巳三郎先生は、パヤオ県の奥地で農業指導をおこなうと同時に古き善き日本の伝統も伝えられたのです。日本式の農業技術をマスターするためには日本の文化や慣習を覚えてもらう必要があったために必然的に日常の行動にも指導がいきわたったのかもしれませんし、もしかすると初めから農業だけでなく日本の善き慣習を広めようと考えられていたのかもしれません。

 しかし巳三郎先生は、日本の良さだけではなくタイの良さについても実感されていました。私に対して優秀な現地スタッフの話をされていましたし、日本にはないタイの農作物の利点についても語られていました。巳三郎先生は日本にいる間、難治性の高血圧に悩まされていたそうなのですが、タイに来てしばらくすると身体が動かしやすくなり頭痛が解放されたといいます。日本在住時には手放せなかった3種類の血圧の薬はとうの昔に切れているというのに。巳三郎先生によると、タイの野菜のおかげだとのこと。

 巳三郎先生が残したものは農業技術だけではありません。勤勉に働くこと、協調性を持ち仲間を大切にすること、責任を持って仕事に取り組むこと、困っている人を助けること、そういった精神を現地に残されました。また現地のタイ人に対してだけではありません。21世紀農場には毎年大勢の日本人が訪れていました。はるばるやってきた日本人もまた巳三郎先生の精神に感動し、古き善き日本の伝統をタイの奥地で体験したのではないでしょうか。

 巳三郎先生の娘さんである谷口とも子さんからいただいた手紙によりますと、巳三郎先生が21世紀農場のなかで住まわれていた部屋は「記念館」となりこれからも残されるそうです。我々は、巳三郎先生のタイでの貢献に改めて思いをめぐらせて、これからも巳三郎先生から学んでいくことを続けるべきでしょう。

 最後に巳三郎先生の奥様の谷口恭子さんからいただいた手紙にあった一文を紹介したいと思います。

  夫は常に個人の為でなく、世の中の人の為に精一杯頑張っておりました

参考:GINAと共に第33回(2009年3月) 「私に余生はない・・・」

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