GINAと共に
第69回 南京虐殺と集団買春(2012年3月)
河村たかし名古屋市長の南京虐殺に関する発言が物議をかもし日中友好関係に影を落としています。2012年2月20日、中国・南京市から表敬訪問のために名古屋市に訪れた共産党市委員会の常務委員と会談した際に、河村市長が「南京虐殺など存在せず中国が過剰反応した」という内容のことを発言した、と報道されています。
もっとも、河村市長が実際にどのような言葉を使ったのかはよくわからず、報道によっては、河村市長が「南京虐殺などまったく存在しない」と言った、とするものもあれば、「南京虐殺があったことは認めるものの中国側が主張するような30万人の死者というのは多すぎる」と言った、とするものまであり、事の真相はよく分かりません。
ただ、日中関係に少なからず影響を与えているのは事実です。南京のある江蘇省では、省政府職員に対し名古屋への渡航禁止通達が出されたようですし、サッカー前日本代表監督の岡田武史氏が率いる中国リーグ「杭州緑城」は、当初予定していた東日本大震災発生1年に当たる3月11日の開幕戦での黙とうを取りやめたそうです。
30万人という数字は当事の南京の人口からみて多すぎるというのは、これまでも多くの識者から指摘されていることで、検証が可能なのであればすべきだとは思います。しかし、南京虐殺がまったくなかったかと言えば、「虐殺」という表現の妥当性は別にして、犠牲になった市民がひとりもいない、とは言えないのではないでしょうか。私は、あるドキュメンタリー映画で、元日本軍の男性が「シナの市民にひどいことをした・・・」といった発言をするのを聞いたことがあります。
私は日中の歴史に詳しいわけではなく、南京虐殺について語る資格はありませんが、これまでこの件について見聞きしてきたことから推測して、南京の一般市民に対する暴行・殺戮、女性に対する強姦がまったくなかったとは言い切れないのではないかと感じています。個人的には、いくらなんでも30万人は多すぎるだろう・・・、とは思いますが、じゃあそれが3万人ならいいのかと問われればいいはずもなく、数字の信憑性を議論することにはそれほど意味がないような気がします。「南京虐殺は異論もあるものの存在した可能性があり、人数は不明であるが最大30万人とする見方もある」というくらいが客観的な記述になるのではないかと思います。
南京虐殺の真実は私には分かりませんが、現代の日本において中国に買春にいく中年(中年とは限らないかもしれませんが)男性がいるのは事実です。
数年前、日本のある会社が社内旅行で広東省珠海市を訪れ、そこで集団買春がおこなわれていたことが発覚し問題となりました。この問題について、名古屋の河村市長と同様、(あるいはそれ以上に)現在最も注目されている大阪市の橋下徹市長が当事、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」とテレビ番組で発言し大変な批判をあびました。
当事の橋下氏は市長ではなく、テレビによく出るタレント弁護士だったそうです。私は、その橋下氏の発言をめぐる事件をインターネット上のニュースで知り、そのときに初めて橋下弁護士の存在を知ったのですが、これには大変驚きました。驚いた、というより、あきれた、といった方が正確かもしれません。
その後、(これもインターネットのニュースで知ったのですが)橋下氏は、翌週のその番組の生放送中に突然マイクの前に立ち、涙を浮かべながら番組を降板することを宣言し、そのままスタジオから出て行ったそうです。いくら失言をしたからといって、テレビの生放送中にここまでできる潔さに(今度はいい意味で)驚きました。
その後、橋下氏は大阪府知事に立候補し見事当選し全国的に有名になります。(実際はその前からタレント弁護士として有名だったのだと思いますが、あまりテレビを見ない私には馴染みがありませんでした) さらに、市長となった橋下氏は物議をかもす発言を次々とおこない、議会では驚くような条例を提案し話題を呼んでいます。最近、私は毎朝、朝刊の地方面を見るのがひとつの楽しみになっています。橋下市長関連の記事が大変興味深いからです。橋下市長は道州制にも賛成していると聞いたことがあります。私自身も個人的に道州制を支持しており、日本を再生させるためには道州制が不可欠であると考えています。
そんなわけで、すべてにおいて賛成、というわけではありませんが、私は今後の橋下市長の活躍に期待しています。
しかしながら、潔く生放送で謝罪の見解を発表したからといって、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」という過去の発言がまったく消えてしまうわけではありません。もしも橋下市長が市長や府知事でなくひとりのタレント弁護士のままであれば、この発言が忘れ去られてもそれほど大きな問題ではないかもしれません。(それでも弁護士という立場上、発言はなかったことにする、というわけにもいかないでしょうが)
日本を代表する自治体のひとつである大阪市の市長が、過去に「日本人による買春はODA」といった発言をしていたということは、やはり看過できないのではないでしょうか。もしも例えば、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーが、「戦後日本に駐在していた米国の軍人がパンパン(街娼)を買ってやってたのは日本に対するODAだ」、とテレビで発言したとすれば、我々日本人はどのように感じるでしょうか。
日本人によるアジア人女性の買春でHIVを含む性感染症に罹患する人がいるのが現実です。前回のこのコラムで、私はかつて日本に存在していた「からゆきさん」について述べました。現在の中国では、当事の日本のからゆきさんと同様、貧困から売春せざるを得ない女性が大勢いるのです。そのような女性たちを弄ぶ日本人がODA、つまり「公的な開発の援助」をしている、などという発言は到底許されるものではありません。
橋下氏の発言のきっかけとなった社内旅行で集団買春をおこなった日本の会社は世界の恥さらしとなりましたが、タイでもこのような話、つまり日本人の団体客が集団買春をしているという話を何度か聞いたことがあります。しかし、タイの売買春についてかなりつっこんだ調査をおこなったことのある私の経験からみても、欧米諸国の会社や団体が集団買春をしているなどという話は聞いたことがありません。
集団買春などということをおこなってそれを恥と感じない日本人がいるということを我々は同胞としてもう一度よく考えてみるべきではないでしょうか。さらに、それを肯定する発言をテレビで堂々と弁護士がおこない、その弁護士が知事になり市長になっている、というこの現実を考えたとき、「日本人は紳士ですから南京虐殺などありえません」などと言われて納得する中国人がいるでしょうか。
歴史を正確に検証することももちろん大切ですが、現在の日本人が中国人に対して恥ずかしいことをしていないかどうかを河村市長に再考してもらいたいと私は感じています。橋下市長に対しては、過去の発言に対してこれ以上言及したり謝罪したりする必要はないと思いますが、問題発言をしてしまったことを忘れることなく国際都市大阪のリーダーとして活躍されることを期待したいと思います。
GINAとしては、世間に対し、集団買春を恥ずべきことと感じていないような人たちが考えているよりもHIVを含む性感染症がその後の人生に大きな影響を与えるということ、そしてそれだけのリスクを抱えてまでも生き残るために春を鬻がなければならない女性たちが存在しているということをこれからも訴えていきたいと考えています。
もっとも、河村市長が実際にどのような言葉を使ったのかはよくわからず、報道によっては、河村市長が「南京虐殺などまったく存在しない」と言った、とするものもあれば、「南京虐殺があったことは認めるものの中国側が主張するような30万人の死者というのは多すぎる」と言った、とするものまであり、事の真相はよく分かりません。
ただ、日中関係に少なからず影響を与えているのは事実です。南京のある江蘇省では、省政府職員に対し名古屋への渡航禁止通達が出されたようですし、サッカー前日本代表監督の岡田武史氏が率いる中国リーグ「杭州緑城」は、当初予定していた東日本大震災発生1年に当たる3月11日の開幕戦での黙とうを取りやめたそうです。
30万人という数字は当事の南京の人口からみて多すぎるというのは、これまでも多くの識者から指摘されていることで、検証が可能なのであればすべきだとは思います。しかし、南京虐殺がまったくなかったかと言えば、「虐殺」という表現の妥当性は別にして、犠牲になった市民がひとりもいない、とは言えないのではないでしょうか。私は、あるドキュメンタリー映画で、元日本軍の男性が「シナの市民にひどいことをした・・・」といった発言をするのを聞いたことがあります。
私は日中の歴史に詳しいわけではなく、南京虐殺について語る資格はありませんが、これまでこの件について見聞きしてきたことから推測して、南京の一般市民に対する暴行・殺戮、女性に対する強姦がまったくなかったとは言い切れないのではないかと感じています。個人的には、いくらなんでも30万人は多すぎるだろう・・・、とは思いますが、じゃあそれが3万人ならいいのかと問われればいいはずもなく、数字の信憑性を議論することにはそれほど意味がないような気がします。「南京虐殺は異論もあるものの存在した可能性があり、人数は不明であるが最大30万人とする見方もある」というくらいが客観的な記述になるのではないかと思います。
南京虐殺の真実は私には分かりませんが、現代の日本において中国に買春にいく中年(中年とは限らないかもしれませんが)男性がいるのは事実です。
数年前、日本のある会社が社内旅行で広東省珠海市を訪れ、そこで集団買春がおこなわれていたことが発覚し問題となりました。この問題について、名古屋の河村市長と同様、(あるいはそれ以上に)現在最も注目されている大阪市の橋下徹市長が当事、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」とテレビ番組で発言し大変な批判をあびました。
当事の橋下氏は市長ではなく、テレビによく出るタレント弁護士だったそうです。私は、その橋下氏の発言をめぐる事件をインターネット上のニュースで知り、そのときに初めて橋下弁護士の存在を知ったのですが、これには大変驚きました。驚いた、というより、あきれた、といった方が正確かもしれません。
その後、(これもインターネットのニュースで知ったのですが)橋下氏は、翌週のその番組の生放送中に突然マイクの前に立ち、涙を浮かべながら番組を降板することを宣言し、そのままスタジオから出て行ったそうです。いくら失言をしたからといって、テレビの生放送中にここまでできる潔さに(今度はいい意味で)驚きました。
その後、橋下氏は大阪府知事に立候補し見事当選し全国的に有名になります。(実際はその前からタレント弁護士として有名だったのだと思いますが、あまりテレビを見ない私には馴染みがありませんでした) さらに、市長となった橋下氏は物議をかもす発言を次々とおこない、議会では驚くような条例を提案し話題を呼んでいます。最近、私は毎朝、朝刊の地方面を見るのがひとつの楽しみになっています。橋下市長関連の記事が大変興味深いからです。橋下市長は道州制にも賛成していると聞いたことがあります。私自身も個人的に道州制を支持しており、日本を再生させるためには道州制が不可欠であると考えています。
そんなわけで、すべてにおいて賛成、というわけではありませんが、私は今後の橋下市長の活躍に期待しています。
しかしながら、潔く生放送で謝罪の見解を発表したからといって、「日本人による買春は中国へのODAみたいなもの」という過去の発言がまったく消えてしまうわけではありません。もしも橋下市長が市長や府知事でなくひとりのタレント弁護士のままであれば、この発言が忘れ去られてもそれほど大きな問題ではないかもしれません。(それでも弁護士という立場上、発言はなかったことにする、というわけにもいかないでしょうが)
日本を代表する自治体のひとつである大阪市の市長が、過去に「日本人による買春はODA」といった発言をしていたということは、やはり看過できないのではないでしょうか。もしも例えば、元カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーが、「戦後日本に駐在していた米国の軍人がパンパン(街娼)を買ってやってたのは日本に対するODAだ」、とテレビで発言したとすれば、我々日本人はどのように感じるでしょうか。
日本人によるアジア人女性の買春でHIVを含む性感染症に罹患する人がいるのが現実です。前回のこのコラムで、私はかつて日本に存在していた「からゆきさん」について述べました。現在の中国では、当事の日本のからゆきさんと同様、貧困から売春せざるを得ない女性が大勢いるのです。そのような女性たちを弄ぶ日本人がODA、つまり「公的な開発の援助」をしている、などという発言は到底許されるものではありません。
橋下氏の発言のきっかけとなった社内旅行で集団買春をおこなった日本の会社は世界の恥さらしとなりましたが、タイでもこのような話、つまり日本人の団体客が集団買春をしているという話を何度か聞いたことがあります。しかし、タイの売買春についてかなりつっこんだ調査をおこなったことのある私の経験からみても、欧米諸国の会社や団体が集団買春をしているなどという話は聞いたことがありません。
集団買春などということをおこなってそれを恥と感じない日本人がいるということを我々は同胞としてもう一度よく考えてみるべきではないでしょうか。さらに、それを肯定する発言をテレビで堂々と弁護士がおこない、その弁護士が知事になり市長になっている、というこの現実を考えたとき、「日本人は紳士ですから南京虐殺などありえません」などと言われて納得する中国人がいるでしょうか。
歴史を正確に検証することももちろん大切ですが、現在の日本人が中国人に対して恥ずかしいことをしていないかどうかを河村市長に再考してもらいたいと私は感じています。橋下市長に対しては、過去の発言に対してこれ以上言及したり謝罪したりする必要はないと思いますが、問題発言をしてしまったことを忘れることなく国際都市大阪のリーダーとして活躍されることを期待したいと思います。
GINAとしては、世間に対し、集団買春を恥ずべきことと感じていないような人たちが考えているよりもHIVを含む性感染症がその後の人生に大きな影響を与えるということ、そしてそれだけのリスクを抱えてまでも生き残るために春を鬻がなければならない女性たちが存在しているということをこれからも訴えていきたいと考えています。
第68回2012年2月 からゆきさんを忘るべからず
私が中学生だった頃ですから1980年代の前半、「じゃぱゆきさん」という言葉が流行りました。フィリピンやタイをはじめとする東南アジアの国々から日本に出稼ぎにやってきた若い女性たちのことを指した言葉です。当事発展途上国と呼ばれていた東南アジアの国々から若い女性たちが経済大国である日本にやってきて、たどりつく仕事と言えば「売春」につながるものであることは中学生の私にも分かりました。当事の私は、「発展途上国に女性として生まれると気の毒・・・。日本はいい国だ・・・」、と単純に感じていました。
その数年後、大学生になった私は(当事は社会学部に在籍していました)、近代社会について書かれた書物を読んでいるとき、私が中学生のときに抱いたじゃぱゆきさんに対する感想が、なんてのんきなものだったのか、と痛感することになりました。じゃぱゆきさんという言葉が「からゆきさん」から生まれたのだということを私は大学生になって初めて知ったのです。
さらにそれから十数年がたち、タイのエイズ問題に関わるようになり、あらためて「からゆきさん」に思いを巡らし、いくつかの文献をあたることになりました。
からゆきさんとは、19世紀後半から20世紀初頭に、東南アジアやソ連、中国などに渡って娼婦として働いた日本人女性のことを言います。なかには、ハワイやカリフォルニア、南米、ヨーロッパ、アフリカ(注1)などにも渡った女性がいるそうで、ほとんど世界全域に出向いていたことになります。正確な統計はありませんが、からゆきさんとして世界各国に渡った日本人女性は20万人とも30万人とも言われています。
なぜ当事の若い女性たちは、からゆきさんという道を選択しなければならなかったのかというと、それはもちろん「貧困」に他なりません。つまり、1970年代後半から1980年代にかけてフィリピンやタイからはるばると日本に出稼ぎにやってきた女性たちと事の本質は同じなわけです。
日本という国は、太平洋戦争の敗北後、努力を重ねたことで世界第2位の経済大国となったんだ、ということを子供のときはよく聞かされていました。戦前の日本が貧しかったということは何度も聞かされましたが、それでも、海外に娼婦として出稼ぎにいかなければならない若い女性が大勢いたということに私は驚きました。
ただし、30万人もいたとされるからゆきさんについては、歴史上「日本の恥」とも言えるわけで、「からゆきさん」という言葉は戦前も戦後も公の場で聞くことはそれほどなかったそうです。
そんなからゆきさんが一躍有名になったのは、1972年に出版された、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』だと言われています。この本は、著者の山崎氏が、熊本の天草に渡り、「元からゆきさん」の女性を探し当て、自分の身分を偽りその女性と同居させてもらい、からゆきさんの当事の様子を聞きだしてまとめたものです。この本は、身分を偽って取材をしたこと、取材のなかで他人の写真を勝手に拝借していること、プライバシーに配慮しているとはいえ結果として天草のイメージを損ねたことなどから、批判的な意見も多いのですが、内容・表現ともかなり読み応えのある良書だと私は感じています。
この本は、後に『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで映画化され、高い評価を受けています。1974年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を獲り、監督・女優賞も受賞しています。海外でも高い評価を受けたようで、主役のからゆきさんを演じた田中絹代はベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞しています。
『サンダカン八番娼館』以降も、からゆきさんに関する書物は出ており、21世紀になってから出版されたものもあります。そのなかの何冊かを読んでみたのですが、(どこまで正確に取材されているかという問題はありますが)からゆきさんたちは、相当過酷な環境で酷使されていたのは間違いないようです。
まず、海外に渡ること自体がかなりの苦労を伴います。からゆきさんの仕事自体は1920年に廃娼令が施行されるまでははっきりと禁じられていなかったようですが(注2)、渡航自体は不法入国となりますから簡単にはいきません。ですから、大型船の貨物室の荷物に隠れたり、使っていない給水タンクの中に隠れたりして密入国していたそうです。
ひとつ有名なエピソードを紹介しておくと、ある船に乗っていた船員が水道の蛇口をひねると異臭がすることに気付いたそうです。そしてその原因を調べると、給水タンクで溺死していた複数の若い女性が見つかったそうです。これは当初、日本を出航したときには使われない予定だった予備タンクに、数人のからゆきさん(になる予定の女性たち)が隠れており、途中立ち寄った港で当初の予定が変更され水が入れられたことで、そのなかに潜んでいた女性たちが溺死してしまったというわけです。
ここまで無残な事件までいかなくても、貨物室や地下室に潜んでいるとそのうちに全身が糞尿まみれになります。このような状態が数十日も続くわけですから、おそらく相当な数の若き日本女子が外国にたどりつくまでに命を落としていたことが想像できます。小さな船で密入国を試みた女性たちのいくらかは転覆で命を失くしていたことでしょう。
貧困な家庭に生まれた当事10代(10歳未満の少女も少なくなかったそうです)の女性たちは、こんなに苦労して外国にたどりつき、売春をさせられていたのです。戦後の占領統治下で、在日米軍将兵を顧客としていた日本人の娼婦がいたという歴史も恥ずべきものですが、その少し前まで、世界中で、欧米人だけでなくアジア人、アフリカ人を含む多くの男性から日本人の女子が弄ばれていた、という歴史を、忘れたいですが、忘れてはいけないのではないか、と私は思います。
以前、このコラムの「自分の娘を売るということ」で、自分や自分の娘を売る前に、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらうべき」、ということを述べました。
進歩的な考えを持つ人たちのなかには「セックスワークの自由」を主張する人がいて、そのような考え方に対して、私は個人的にはあまり好きにはなれませんが、そういった自由が一部の領域では認められるべきではないか、とも思います(例えば身体障害者に対する性的サービスの供給)。しかし、(そのようなことを"安易に"する人はいないと思いますが)、自分の体を売ることを決意する前に、かつての日本に数多く存在したからゆきさんのことについて思いを巡らせるべきだと思うのです。
残念ながら、少なくなってきたとはいえ、今でもタイの東北部(イサーン地方)や北部の一部の地域では、貧困から自分の娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない人たちもいます。以前このコラムの第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」で述べましたが、映画『闇の子供たち』の冒頭シーンにあるような人身売買のブローカーが女子を親から買っているのは事実です。
私がタイのエイズ問題に関わり始めたとき、自分の娘を売る親がいるということを知り、まず驚き、それが怒りや悲しみにかわり、その後現実を知り理解するようになりましたが、改めて考えてみると、当初私が感じた「タイ人はなんて非道なんだ」という印象は完全に誤りであり、かつての日本にも同じことをせざるを得ない時代があったのです。
売春の問題が語られるとき、倫理観や道徳観が持ち出されることが多く、また、「後悔することになりますよ・・・」とか「性感染症のリスクが・・」と言った話になり、これらは間違ってはいないわけですが、<貧困>という差し迫った現実が立ちはだかれば、このような理屈は一切意味をなさなくなることもまた事実です。
我々は、そのことをかつての日本に存在していた「からゆきさん」から学ぶべきではないでしょうか。
注1:(からゆきさんを美化することに個人的には抵抗があるのですが)からゆきさんの美談として、「アフリカのマダカスカル島に渡っていたからゆきさんが、バルチック艦隊の情報を日本に知らせ、これにより日本軍が情報をつかみ日露戦争勝利につながった」、とするものがあります。
注2:かつての日本は、世界的にみて売買春に対する規則が相当緩やかだったようです。本文で述べたように廃娼令が施行されたのは1920年になってからですし、公娼廃止を謳った芸娼妓解放令が1872年に出されたのは"外圧"を受けてのことです。この"外圧"は「マリア・ルーズ号事件」と命名されています。簡単に紹介しておくと、1872年横浜港に寄港していたペルーのマリア・ルーズ号の船内で中国人の労働者が奴隷のように扱われていたことに対し「虐待事件」として日本の外務省管下で裁判がおこなわれました。その裁判で、被告となった船長が「日本ではもっとひどい奴隷契約があるではないか。それは政府が公認している遊女である」といったようなことを述べ、これを受けて同年に芸娼妓解放令が発令されたそうです。
参考:GINAと共に
第52回(2010年10月) 「自分の娘を売るということ」
第27回(2008年9月) 「幼児買春と臓器移植」
『サンダカン八番娼館』(文春文庫) 山崎朋子
『からゆきさん物語』(不知火書房)宮崎康平
『北のからゆきさん』( 共栄書房)倉橋正直
その数年後、大学生になった私は(当事は社会学部に在籍していました)、近代社会について書かれた書物を読んでいるとき、私が中学生のときに抱いたじゃぱゆきさんに対する感想が、なんてのんきなものだったのか、と痛感することになりました。じゃぱゆきさんという言葉が「からゆきさん」から生まれたのだということを私は大学生になって初めて知ったのです。
さらにそれから十数年がたち、タイのエイズ問題に関わるようになり、あらためて「からゆきさん」に思いを巡らし、いくつかの文献をあたることになりました。
からゆきさんとは、19世紀後半から20世紀初頭に、東南アジアやソ連、中国などに渡って娼婦として働いた日本人女性のことを言います。なかには、ハワイやカリフォルニア、南米、ヨーロッパ、アフリカ(注1)などにも渡った女性がいるそうで、ほとんど世界全域に出向いていたことになります。正確な統計はありませんが、からゆきさんとして世界各国に渡った日本人女性は20万人とも30万人とも言われています。
なぜ当事の若い女性たちは、からゆきさんという道を選択しなければならなかったのかというと、それはもちろん「貧困」に他なりません。つまり、1970年代後半から1980年代にかけてフィリピンやタイからはるばると日本に出稼ぎにやってきた女性たちと事の本質は同じなわけです。
日本という国は、太平洋戦争の敗北後、努力を重ねたことで世界第2位の経済大国となったんだ、ということを子供のときはよく聞かされていました。戦前の日本が貧しかったということは何度も聞かされましたが、それでも、海外に娼婦として出稼ぎにいかなければならない若い女性が大勢いたということに私は驚きました。
ただし、30万人もいたとされるからゆきさんについては、歴史上「日本の恥」とも言えるわけで、「からゆきさん」という言葉は戦前も戦後も公の場で聞くことはそれほどなかったそうです。
そんなからゆきさんが一躍有名になったのは、1972年に出版された、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』だと言われています。この本は、著者の山崎氏が、熊本の天草に渡り、「元からゆきさん」の女性を探し当て、自分の身分を偽りその女性と同居させてもらい、からゆきさんの当事の様子を聞きだしてまとめたものです。この本は、身分を偽って取材をしたこと、取材のなかで他人の写真を勝手に拝借していること、プライバシーに配慮しているとはいえ結果として天草のイメージを損ねたことなどから、批判的な意見も多いのですが、内容・表現ともかなり読み応えのある良書だと私は感じています。
この本は、後に『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで映画化され、高い評価を受けています。1974年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を獲り、監督・女優賞も受賞しています。海外でも高い評価を受けたようで、主役のからゆきさんを演じた田中絹代はベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞しています。
『サンダカン八番娼館』以降も、からゆきさんに関する書物は出ており、21世紀になってから出版されたものもあります。そのなかの何冊かを読んでみたのですが、(どこまで正確に取材されているかという問題はありますが)からゆきさんたちは、相当過酷な環境で酷使されていたのは間違いないようです。
まず、海外に渡ること自体がかなりの苦労を伴います。からゆきさんの仕事自体は1920年に廃娼令が施行されるまでははっきりと禁じられていなかったようですが(注2)、渡航自体は不法入国となりますから簡単にはいきません。ですから、大型船の貨物室の荷物に隠れたり、使っていない給水タンクの中に隠れたりして密入国していたそうです。
ひとつ有名なエピソードを紹介しておくと、ある船に乗っていた船員が水道の蛇口をひねると異臭がすることに気付いたそうです。そしてその原因を調べると、給水タンクで溺死していた複数の若い女性が見つかったそうです。これは当初、日本を出航したときには使われない予定だった予備タンクに、数人のからゆきさん(になる予定の女性たち)が隠れており、途中立ち寄った港で当初の予定が変更され水が入れられたことで、そのなかに潜んでいた女性たちが溺死してしまったというわけです。
ここまで無残な事件までいかなくても、貨物室や地下室に潜んでいるとそのうちに全身が糞尿まみれになります。このような状態が数十日も続くわけですから、おそらく相当な数の若き日本女子が外国にたどりつくまでに命を落としていたことが想像できます。小さな船で密入国を試みた女性たちのいくらかは転覆で命を失くしていたことでしょう。
貧困な家庭に生まれた当事10代(10歳未満の少女も少なくなかったそうです)の女性たちは、こんなに苦労して外国にたどりつき、売春をさせられていたのです。戦後の占領統治下で、在日米軍将兵を顧客としていた日本人の娼婦がいたという歴史も恥ずべきものですが、その少し前まで、世界中で、欧米人だけでなくアジア人、アフリカ人を含む多くの男性から日本人の女子が弄ばれていた、という歴史を、忘れたいですが、忘れてはいけないのではないか、と私は思います。
以前、このコラムの「自分の娘を売るということ」で、自分や自分の娘を売る前に、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらうべき」、ということを述べました。
進歩的な考えを持つ人たちのなかには「セックスワークの自由」を主張する人がいて、そのような考え方に対して、私は個人的にはあまり好きにはなれませんが、そういった自由が一部の領域では認められるべきではないか、とも思います(例えば身体障害者に対する性的サービスの供給)。しかし、(そのようなことを"安易に"する人はいないと思いますが)、自分の体を売ることを決意する前に、かつての日本に数多く存在したからゆきさんのことについて思いを巡らせるべきだと思うのです。
残念ながら、少なくなってきたとはいえ、今でもタイの東北部(イサーン地方)や北部の一部の地域では、貧困から自分の娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない人たちもいます。以前このコラムの第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」で述べましたが、映画『闇の子供たち』の冒頭シーンにあるような人身売買のブローカーが女子を親から買っているのは事実です。
私がタイのエイズ問題に関わり始めたとき、自分の娘を売る親がいるということを知り、まず驚き、それが怒りや悲しみにかわり、その後現実を知り理解するようになりましたが、改めて考えてみると、当初私が感じた「タイ人はなんて非道なんだ」という印象は完全に誤りであり、かつての日本にも同じことをせざるを得ない時代があったのです。
売春の問題が語られるとき、倫理観や道徳観が持ち出されることが多く、また、「後悔することになりますよ・・・」とか「性感染症のリスクが・・」と言った話になり、これらは間違ってはいないわけですが、<貧困>という差し迫った現実が立ちはだかれば、このような理屈は一切意味をなさなくなることもまた事実です。
我々は、そのことをかつての日本に存在していた「からゆきさん」から学ぶべきではないでしょうか。
注1:(からゆきさんを美化することに個人的には抵抗があるのですが)からゆきさんの美談として、「アフリカのマダカスカル島に渡っていたからゆきさんが、バルチック艦隊の情報を日本に知らせ、これにより日本軍が情報をつかみ日露戦争勝利につながった」、とするものがあります。
注2:かつての日本は、世界的にみて売買春に対する規則が相当緩やかだったようです。本文で述べたように廃娼令が施行されたのは1920年になってからですし、公娼廃止を謳った芸娼妓解放令が1872年に出されたのは"外圧"を受けてのことです。この"外圧"は「マリア・ルーズ号事件」と命名されています。簡単に紹介しておくと、1872年横浜港に寄港していたペルーのマリア・ルーズ号の船内で中国人の労働者が奴隷のように扱われていたことに対し「虐待事件」として日本の外務省管下で裁判がおこなわれました。その裁判で、被告となった船長が「日本ではもっとひどい奴隷契約があるではないか。それは政府が公認している遊女である」といったようなことを述べ、これを受けて同年に芸娼妓解放令が発令されたそうです。
参考:GINAと共に
第52回(2010年10月) 「自分の娘を売るということ」
第27回(2008年9月) 「幼児買春と臓器移植」
『サンダカン八番娼館』(文春文庫) 山崎朋子
『からゆきさん物語』(不知火書房)宮崎康平
『北のからゆきさん』( 共栄書房)倉橋正直
第67回(2011年1月) 谷口巳三郎先生が残したもの
2011年12月31日未明、タイ国パヤオ県で21世紀農場を営む谷口巳三郎先生が享年88歳で他界されました。
谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)については、このサイトで過去に何度か紹介していますが、あらためてどのような先生だったのかを振り返っておきたいと思います。(尚、巳三郎先生も私も苗字は同じ「谷口」ですが血縁関係があるわけではありません)
巳三郎先生は1923年に熊本で誕生されました。戦中は学徒動員でジャワ戦線にも参加されたそうです。戦後は鹿児島大学農学部を卒業され、県庁や熊本県立農業大学校などで農業に従事し定年退職を迎えられました。定年後、単身でタイに渡られ北部のパヤオ県で、現地の人々に農業の指導をおこなってこられました。
巳三郎先生がエイズという病と関わりを持ち出したのは、パヤオ県というこの地域に80年代後半からHIV感染が急速に広がりだしたからです。タイ全国で最も貧しいと言われているパヤオ県は、実際に県民ひとりあたりのGDPが全国一低い県で、その額は日本円にして10万円にも満たないものです。
そんなパヤオ県にHIVが蔓延したのは必然であったといえるでしょう。地面は赤土で農作物が育たないこの地域では産業と呼べるものがほとんどありません。このような環境でまともな教育を受けていない若者が日銭を稼げる仕事とは・・・。男性なら薬物の売買、女性なら売春に向かわざるを得ないことは容易に想像できます。
巳三郎先生が始められた、パヤオ県に根を下ろして農業の指導をおこなう、ということは地域の住民の生活に深くかかわるということに他ならず、それはすなわちエイズという病への取り組みが必然であったのです。
巳三郎先生はパヤオの奥地に「21世紀農場」という農場をつくり、そこで様々な農作物を作り始めました。現地の人に栽培方法を覚えてもらわなければなりませんから、農場内には家屋もつくりそこにタイ人を住まわせて指導にあたりました。巳三郎先生の目的は、農場で利益を出すことではありませんから、栽培した野菜や米はHIVに罹患して働けない人へ供給するようになりました。
しかし、HIVに罹患していて働けないから(当事は今よりもはるかに差別がありました)という理由でいつまでも食べ物を恵むだけでは患者さんたちの自立につながりません。そこで巳三郎先生は、HIVに罹患した人たちにも農業を教え、家畜の育て方を教え、また、日本から古いミシンを大量に購入し、女性には裁縫の指導もおこないました。
2005年あたりからは、タイではHIVがかつてほど増加しておらずむしろ減少傾向にあると報道されることが増えていますが、巳三郎先生はそのような見方をしていませんでした。2009年に大阪でお会いしたときにも、農作物を無償で渡しているHIV陽性者は増える一方で・・・、という話をされていました。
巳三郎先生は、医療従事者でないのにもかかわらず、農業指導を通して地域に溶け込むなかでHIVという問題を看過することができず、いつのまにか地域社会でHIV対策の中心的な役割を担うようになったのです。
私が巳三郎先生と初めてお会いしたとき、HIVについて熱く語られていたことは印象的でしたが、21世紀農場を訪問したときにもうひとつ大変感銘を受けたことがあります。
それは、21世紀農場で働くタイ人の現地スタッフがあまりにも礼儀正しいことでした。これは他のタイ人が礼儀正しくないという意味ではありません。タイに行ったことがある人ならわかるでしょうが、タイ人は目上の者には「ワイ」と呼ばれる独特の挨拶(両手を合わせて頭を下げる)をおこないます。21世紀農場で働くタイ人も私に対してワイをしてくれたのですが、私が感銘を受けたのはワイではありません。
タイ人と仕事をしたことがある人ならわかると思いますが、日本人に対するのと同じような感覚でタイ人に接すると必ずといっていいほどトラブルになります。例えば、一般的なタイ人の多くは、日本人のように時間を守りませんし、言ったことをすべてやってくれません。一を聞いて十を知る、どころか、十を伝えて五をしてくれれば満足しなければならない、というのが一般的タイ人の現実なわけです。もちろん、日本人のすべてが、一を聞いて十を知る、ができるわけではありませんが、我々日本人はそのような気遣いや心配りを美徳と感じています。
食事の仕方にも違いがあります。(今はそうでもないかもしれませんが)日本人は食事の際、全員がそろうまで待って、いただきます、と言って食べ始めます。一方、タイ人はバラバラにやってきて食べ終わった者から退席する、といった感じです。もちろんこのような習慣は文化によって異なるものですから、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。しかし、全員がそろうまで待って、一緒に食べて、一緒に後片付けをおこなう日本式の方が協調性と責任感が育まれやすいのではないでしょうか。
私が21世紀農場で受けた感銘というのは、巳三郎先生の元で働いているタイ人の現地スタッフが、まるで古き善き時代の日本人のようだったこと、です。彼(女)らは、挨拶を大切にし、農作業をするときのみならず、食事をつくるときも掃除をするときにも強調性と責任感を発揮して効率よくおこなっていました。食事は全員そろうまで待ち、日本語で「いただきます」を言って(タイ語には「いただきます」に相当する言葉がありません)、一緒に食べ始めます。一度私が所用でテーブルにつくのが10分ほど遅れたことがあったのですが、約20人いたスタッフ全員が食事に手をつけずに私を待ってくれていました。
巳三郎先生は、パヤオ県の奥地で農業指導をおこなうと同時に古き善き日本の伝統も伝えられたのです。日本式の農業技術をマスターするためには日本の文化や慣習を覚えてもらう必要があったために必然的に日常の行動にも指導がいきわたったのかもしれませんし、もしかすると初めから農業だけでなく日本の善き慣習を広めようと考えられていたのかもしれません。
しかし巳三郎先生は、日本の良さだけではなくタイの良さについても実感されていました。私に対して優秀な現地スタッフの話をされていましたし、日本にはないタイの農作物の利点についても語られていました。巳三郎先生は日本にいる間、難治性の高血圧に悩まされていたそうなのですが、タイに来てしばらくすると身体が動かしやすくなり頭痛が解放されたといいます。日本在住時には手放せなかった3種類の血圧の薬はとうの昔に切れているというのに。巳三郎先生によると、タイの野菜のおかげだとのこと。
巳三郎先生が残したものは農業技術だけではありません。勤勉に働くこと、協調性を持ち仲間を大切にすること、責任を持って仕事に取り組むこと、困っている人を助けること、そういった精神を現地に残されました。また現地のタイ人に対してだけではありません。21世紀農場には毎年大勢の日本人が訪れていました。はるばるやってきた日本人もまた巳三郎先生の精神に感動し、古き善き日本の伝統をタイの奥地で体験したのではないでしょうか。
巳三郎先生の娘さんである谷口とも子さんからいただいた手紙によりますと、巳三郎先生が21世紀農場のなかで住まわれていた部屋は「記念館」となりこれからも残されるそうです。我々は、巳三郎先生のタイでの貢献に改めて思いをめぐらせて、これからも巳三郎先生から学んでいくことを続けるべきでしょう。
最後に巳三郎先生の奥様の谷口恭子さんからいただいた手紙にあった一文を紹介したいと思います。
夫は常に個人の為でなく、世の中の人の為に精一杯頑張っておりました
参考:GINAと共に第33回(2009年3月) 「私に余生はない・・・」
谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)については、このサイトで過去に何度か紹介していますが、あらためてどのような先生だったのかを振り返っておきたいと思います。(尚、巳三郎先生も私も苗字は同じ「谷口」ですが血縁関係があるわけではありません)
巳三郎先生は1923年に熊本で誕生されました。戦中は学徒動員でジャワ戦線にも参加されたそうです。戦後は鹿児島大学農学部を卒業され、県庁や熊本県立農業大学校などで農業に従事し定年退職を迎えられました。定年後、単身でタイに渡られ北部のパヤオ県で、現地の人々に農業の指導をおこなってこられました。
巳三郎先生がエイズという病と関わりを持ち出したのは、パヤオ県というこの地域に80年代後半からHIV感染が急速に広がりだしたからです。タイ全国で最も貧しいと言われているパヤオ県は、実際に県民ひとりあたりのGDPが全国一低い県で、その額は日本円にして10万円にも満たないものです。
そんなパヤオ県にHIVが蔓延したのは必然であったといえるでしょう。地面は赤土で農作物が育たないこの地域では産業と呼べるものがほとんどありません。このような環境でまともな教育を受けていない若者が日銭を稼げる仕事とは・・・。男性なら薬物の売買、女性なら売春に向かわざるを得ないことは容易に想像できます。
巳三郎先生が始められた、パヤオ県に根を下ろして農業の指導をおこなう、ということは地域の住民の生活に深くかかわるということに他ならず、それはすなわちエイズという病への取り組みが必然であったのです。
巳三郎先生はパヤオの奥地に「21世紀農場」という農場をつくり、そこで様々な農作物を作り始めました。現地の人に栽培方法を覚えてもらわなければなりませんから、農場内には家屋もつくりそこにタイ人を住まわせて指導にあたりました。巳三郎先生の目的は、農場で利益を出すことではありませんから、栽培した野菜や米はHIVに罹患して働けない人へ供給するようになりました。
しかし、HIVに罹患していて働けないから(当事は今よりもはるかに差別がありました)という理由でいつまでも食べ物を恵むだけでは患者さんたちの自立につながりません。そこで巳三郎先生は、HIVに罹患した人たちにも農業を教え、家畜の育て方を教え、また、日本から古いミシンを大量に購入し、女性には裁縫の指導もおこないました。
2005年あたりからは、タイではHIVがかつてほど増加しておらずむしろ減少傾向にあると報道されることが増えていますが、巳三郎先生はそのような見方をしていませんでした。2009年に大阪でお会いしたときにも、農作物を無償で渡しているHIV陽性者は増える一方で・・・、という話をされていました。
巳三郎先生は、医療従事者でないのにもかかわらず、農業指導を通して地域に溶け込むなかでHIVという問題を看過することができず、いつのまにか地域社会でHIV対策の中心的な役割を担うようになったのです。
私が巳三郎先生と初めてお会いしたとき、HIVについて熱く語られていたことは印象的でしたが、21世紀農場を訪問したときにもうひとつ大変感銘を受けたことがあります。
それは、21世紀農場で働くタイ人の現地スタッフがあまりにも礼儀正しいことでした。これは他のタイ人が礼儀正しくないという意味ではありません。タイに行ったことがある人ならわかるでしょうが、タイ人は目上の者には「ワイ」と呼ばれる独特の挨拶(両手を合わせて頭を下げる)をおこないます。21世紀農場で働くタイ人も私に対してワイをしてくれたのですが、私が感銘を受けたのはワイではありません。
タイ人と仕事をしたことがある人ならわかると思いますが、日本人に対するのと同じような感覚でタイ人に接すると必ずといっていいほどトラブルになります。例えば、一般的なタイ人の多くは、日本人のように時間を守りませんし、言ったことをすべてやってくれません。一を聞いて十を知る、どころか、十を伝えて五をしてくれれば満足しなければならない、というのが一般的タイ人の現実なわけです。もちろん、日本人のすべてが、一を聞いて十を知る、ができるわけではありませんが、我々日本人はそのような気遣いや心配りを美徳と感じています。
食事の仕方にも違いがあります。(今はそうでもないかもしれませんが)日本人は食事の際、全員がそろうまで待って、いただきます、と言って食べ始めます。一方、タイ人はバラバラにやってきて食べ終わった者から退席する、といった感じです。もちろんこのような習慣は文化によって異なるものですから、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。しかし、全員がそろうまで待って、一緒に食べて、一緒に後片付けをおこなう日本式の方が協調性と責任感が育まれやすいのではないでしょうか。
私が21世紀農場で受けた感銘というのは、巳三郎先生の元で働いているタイ人の現地スタッフが、まるで古き善き時代の日本人のようだったこと、です。彼(女)らは、挨拶を大切にし、農作業をするときのみならず、食事をつくるときも掃除をするときにも強調性と責任感を発揮して効率よくおこなっていました。食事は全員そろうまで待ち、日本語で「いただきます」を言って(タイ語には「いただきます」に相当する言葉がありません)、一緒に食べ始めます。一度私が所用でテーブルにつくのが10分ほど遅れたことがあったのですが、約20人いたスタッフ全員が食事に手をつけずに私を待ってくれていました。
巳三郎先生は、パヤオ県の奥地で農業指導をおこなうと同時に古き善き日本の伝統も伝えられたのです。日本式の農業技術をマスターするためには日本の文化や慣習を覚えてもらう必要があったために必然的に日常の行動にも指導がいきわたったのかもしれませんし、もしかすると初めから農業だけでなく日本の善き慣習を広めようと考えられていたのかもしれません。
しかし巳三郎先生は、日本の良さだけではなくタイの良さについても実感されていました。私に対して優秀な現地スタッフの話をされていましたし、日本にはないタイの農作物の利点についても語られていました。巳三郎先生は日本にいる間、難治性の高血圧に悩まされていたそうなのですが、タイに来てしばらくすると身体が動かしやすくなり頭痛が解放されたといいます。日本在住時には手放せなかった3種類の血圧の薬はとうの昔に切れているというのに。巳三郎先生によると、タイの野菜のおかげだとのこと。
巳三郎先生が残したものは農業技術だけではありません。勤勉に働くこと、協調性を持ち仲間を大切にすること、責任を持って仕事に取り組むこと、困っている人を助けること、そういった精神を現地に残されました。また現地のタイ人に対してだけではありません。21世紀農場には毎年大勢の日本人が訪れていました。はるばるやってきた日本人もまた巳三郎先生の精神に感動し、古き善き日本の伝統をタイの奥地で体験したのではないでしょうか。
巳三郎先生の娘さんである谷口とも子さんからいただいた手紙によりますと、巳三郎先生が21世紀農場のなかで住まわれていた部屋は「記念館」となりこれからも残されるそうです。我々は、巳三郎先生のタイでの貢献に改めて思いをめぐらせて、これからも巳三郎先生から学んでいくことを続けるべきでしょう。
最後に巳三郎先生の奥様の谷口恭子さんからいただいた手紙にあった一文を紹介したいと思います。
夫は常に個人の為でなく、世の中の人の為に精一杯頑張っておりました
参考:GINAと共に第33回(2009年3月) 「私に余生はない・・・」
第66回 性教育が上手くいかない本当の理由(2011年12月)
若者の性感染症が増えていると言われて久しくなります。数字の上ではここ数年はやや減少傾向にあるのですが、数字がどれだけ実態を反映しているかという問題がありますし、大幅に増えているということはないにしても依然危機的なレベルで性感染症が若者の間で蔓延しているのは間違いありません。
若者の性感染症をいかに減らすか、この議論になったときに必ず出てくるのが「性教育をしっかりおこなおう」という意見です。この考えはもちろん間違ってはおらず、実際、中高で保健を担当する教師のなかにはかなり熱心に取り組んでいる人もいますし、性感染症に携わる医療者のなかにも性教育を徹底させるべき、という考えを持っている人は少なくありません。
学校で性教育をおこなうというのは簡単なことではなく、内容や表現には細心の注意を払わなければなりませんし、注意をしていても右翼系の団体などから抗議を受けることもあります。そんななかで、熱心に生徒たちに性教育をおこなっている人たちは本当に大変だと思います。
しかしながら、性教育にがんばっている人たちには敬意を払いたいと思いますが、その性教育にどれだけ効果がでているのか、ということを考えたときに私はどうしても疑問をぬぐえません。
私は、教育者や医療者が生徒たちにおこなっている性教育の方法に問題があると言いいたいわけではありません。そうではなく、せっかく熱心におこなっている教育がどこかで空回りしているのではないか、と感じずにはいられないのです。
実際、よく指摘されるように性行動の低年齢化がおこっているのは事実であり、少し古いデータですが、平成12年に発表された厚労省の「日本人のHIV/STD関連知識、性行動、性意識についての全国調査」によると、現在45~54歳の人が16~19歳に性経験があった割合が16.2%なのに対して、現在18歳~24歳の層では79.2%にも上ります。
ただし、初交年齢が低下することと性感染症の罹患率との間には、たとえ数字の上で相関がみられたとしても、あまり関連付けるべきではないと私は考えています。初交年齢が低くても性感染症を防いでいる若いカップルはいくらでもいますし、そもそも私個人としては、初交年齢の低下を問題にすることに疑問であり、愛し合う10代の性行動を抑制する権限は親にも教師にもなく、むしろ抑制することが有害であると考えています。(例えば、愛し合う若いカップルには、性行動を抑制させるのではなく、避妊の方法が理解できているかどうかを確認すべきです)
私が問題だと思うのは、若い世代の間で性感染症が蔓延しているという事実、さらに誠実さに欠けた性行為がはびこっているということです。
では、なぜ熱心な教育者や医療者がいるのにもかかわらず、若い男女は安易に性交渉をもち、簡単に性感染症に罹患してしまうのでしょうか。
私はこの原因のひとつが情報化社会にあるとみています。インターネットや携帯電話がこれだけ普及している社会では情報を隠すことはできません。学校で教師がいくら性道徳について熱心に語ろうが、携帯のサイトに「昨日ウリをした相手は隣町の中学の教頭だった・・・」などという書き込みをしている女子高生がいるのも事実なわけで、すでに10代の若者たちは、大人たちがいかにいい加減でずるくて無責任かということを知っているわけです。
これが1980年代前半までならまだ説得力はありました。なぜなら、思春期の子供たちに入ってくる情報は、親や教師の話、家族と一緒にみるテレビ、同じ学校の同級生や先輩からの口コミ情報などに限られていたからです。この頃は、インターネットや携帯だけではなく、レディコミもコンビニもなく自分専用のテレビがある子供もほとんどいませんでした。夜中にこっそり部屋を抜け出してコンビニでレディコミを立ち読みして、大人の醜い実態を知る・・・、ということもなかったわけです。
ですから、「気軽に性交渉を持つのはやめましょう」「ウリをして傷つくのはあなたたちですよ」などと言ってみても、すでに大人の実態を知っている10代の生徒たちにはまるで説得力がないわけです。
また、性感染症の怖さを強調しすぎるのも問題です。例えば進行した梅毒やエイズの写真をスライドで見せて「性感染症とはこんなに怖いんですよ~」と視覚に訴えるのは止めるべきです。(そんなことをすれば感染者に対する差別・偏見につながりかねません) それに、性感染症の細かい知識を生徒に教えることにどれだけ意味があるのかも疑問です。
一方で、知識がないまま気軽な性交渉をおこない、取り返しのつかない性感染症に罹患する若者がいるのも事実であり、このようなことは避けなければなりません。では、どうすればいいのかというと、実は簡単な話で、若者に覚えてほしいポイントはたった3つだけです。
ひとつめは「不誠実な性交渉をしない」ということです。性感染症の各論についてはここでは述べませんが、コンドームがあれば大丈夫、というのも誤りです。性器ヘルペスやB型肝炎といった、その後の人生を大きく変えることもある性感染症にコンドームは無力です。
2つめは、交際相手ができれば「初めて性交渉を持つ前にお互いの性感染症のチェックをする」、ということです。性感染症のやっかいなところは感染していることに本人が気づいていない、ということです。これはHIVや梅毒を含むほとんどの性感染症にあてはまります。
そして3つめは、(特にHIVに対して)すでに感染している人に対する偏見を持つことはおかしい、ということです。
これら3つを遵守していれば、性感染症の心配はもはや不要であり、性教育についても(避妊の問題を除けば)おこなう必要はありません。では、なぜこんなにも簡単なことが生徒たちに伝わらないのでしょうか。
それは、「大人たちが守っていないから」に他なりません。今述べた3つのポイントをよくみてもらえれば分かりますが、これらは別段、生徒たちをターゲットにしているわけではなく誰にでもあてはまることばかりです。
性教育に従事する人のなかにはいないでしょうが、世間には<不誠実な性交渉>をしている大人たちが少なくありません。そして、性感染症に罹患する10代の若者がいるのは問題ですが、罹患する大人がいるのはある意味ではもっと問題です。性感染症が原因で破局した(大人の)カップルは枚挙に暇がありませんし、なかには離婚にいたった夫婦、さらに裁判へと進み悲惨な顛末をたどったケースもあります。
最も効果的な性教育、それは、生徒に対する教育ではなく、周りの大人たちに対する性教育ではないかと私は考えています。親が子供にいくら「勉強しなさい」と言っても、その親が勉強嫌いであれば子供はしません。その逆に、「勉強しなさい」などと言わなくても、親が当たり前の習慣として日々何らかの勉強をしていれば、子供は自然に勉強するようになります。
性教育に従事する人たちは、生徒たちに対してではなく、まずは周囲の大人に目を向けるべきです。教育者においてさえ<不誠実な性交渉>をしている者がまったくいないとは言い切れないでしょう。教育者によるわいせつ犯罪がときおり報道されていますし、犯罪ではないにせよ不貞行為をおこなっている教育者は探せばみつかるに違いありません。
周りの教育者の次は、生徒の両親、さらに地域社会と広げていき、「特定の相手とのみの誠実さを伴う性交渉が最も幸せであること」を社会に浸透させ若者に伝えていくことが、我々大人の義務ではないでしょうか。私のこの意見が「つまらない正論」に聞こえる人もいるでしょう。しかし、それでも私はこのことを言い続けていくつもりです。
若者に誠実になってもらいたいのであれば、まずは大人たちが誠実にならなければならないのです。
若者の性感染症をいかに減らすか、この議論になったときに必ず出てくるのが「性教育をしっかりおこなおう」という意見です。この考えはもちろん間違ってはおらず、実際、中高で保健を担当する教師のなかにはかなり熱心に取り組んでいる人もいますし、性感染症に携わる医療者のなかにも性教育を徹底させるべき、という考えを持っている人は少なくありません。
学校で性教育をおこなうというのは簡単なことではなく、内容や表現には細心の注意を払わなければなりませんし、注意をしていても右翼系の団体などから抗議を受けることもあります。そんななかで、熱心に生徒たちに性教育をおこなっている人たちは本当に大変だと思います。
しかしながら、性教育にがんばっている人たちには敬意を払いたいと思いますが、その性教育にどれだけ効果がでているのか、ということを考えたときに私はどうしても疑問をぬぐえません。
私は、教育者や医療者が生徒たちにおこなっている性教育の方法に問題があると言いいたいわけではありません。そうではなく、せっかく熱心におこなっている教育がどこかで空回りしているのではないか、と感じずにはいられないのです。
実際、よく指摘されるように性行動の低年齢化がおこっているのは事実であり、少し古いデータですが、平成12年に発表された厚労省の「日本人のHIV/STD関連知識、性行動、性意識についての全国調査」によると、現在45~54歳の人が16~19歳に性経験があった割合が16.2%なのに対して、現在18歳~24歳の層では79.2%にも上ります。
ただし、初交年齢が低下することと性感染症の罹患率との間には、たとえ数字の上で相関がみられたとしても、あまり関連付けるべきではないと私は考えています。初交年齢が低くても性感染症を防いでいる若いカップルはいくらでもいますし、そもそも私個人としては、初交年齢の低下を問題にすることに疑問であり、愛し合う10代の性行動を抑制する権限は親にも教師にもなく、むしろ抑制することが有害であると考えています。(例えば、愛し合う若いカップルには、性行動を抑制させるのではなく、避妊の方法が理解できているかどうかを確認すべきです)
私が問題だと思うのは、若い世代の間で性感染症が蔓延しているという事実、さらに誠実さに欠けた性行為がはびこっているということです。
では、なぜ熱心な教育者や医療者がいるのにもかかわらず、若い男女は安易に性交渉をもち、簡単に性感染症に罹患してしまうのでしょうか。
私はこの原因のひとつが情報化社会にあるとみています。インターネットや携帯電話がこれだけ普及している社会では情報を隠すことはできません。学校で教師がいくら性道徳について熱心に語ろうが、携帯のサイトに「昨日ウリをした相手は隣町の中学の教頭だった・・・」などという書き込みをしている女子高生がいるのも事実なわけで、すでに10代の若者たちは、大人たちがいかにいい加減でずるくて無責任かということを知っているわけです。
これが1980年代前半までならまだ説得力はありました。なぜなら、思春期の子供たちに入ってくる情報は、親や教師の話、家族と一緒にみるテレビ、同じ学校の同級生や先輩からの口コミ情報などに限られていたからです。この頃は、インターネットや携帯だけではなく、レディコミもコンビニもなく自分専用のテレビがある子供もほとんどいませんでした。夜中にこっそり部屋を抜け出してコンビニでレディコミを立ち読みして、大人の醜い実態を知る・・・、ということもなかったわけです。
ですから、「気軽に性交渉を持つのはやめましょう」「ウリをして傷つくのはあなたたちですよ」などと言ってみても、すでに大人の実態を知っている10代の生徒たちにはまるで説得力がないわけです。
また、性感染症の怖さを強調しすぎるのも問題です。例えば進行した梅毒やエイズの写真をスライドで見せて「性感染症とはこんなに怖いんですよ~」と視覚に訴えるのは止めるべきです。(そんなことをすれば感染者に対する差別・偏見につながりかねません) それに、性感染症の細かい知識を生徒に教えることにどれだけ意味があるのかも疑問です。
一方で、知識がないまま気軽な性交渉をおこない、取り返しのつかない性感染症に罹患する若者がいるのも事実であり、このようなことは避けなければなりません。では、どうすればいいのかというと、実は簡単な話で、若者に覚えてほしいポイントはたった3つだけです。
ひとつめは「不誠実な性交渉をしない」ということです。性感染症の各論についてはここでは述べませんが、コンドームがあれば大丈夫、というのも誤りです。性器ヘルペスやB型肝炎といった、その後の人生を大きく変えることもある性感染症にコンドームは無力です。
2つめは、交際相手ができれば「初めて性交渉を持つ前にお互いの性感染症のチェックをする」、ということです。性感染症のやっかいなところは感染していることに本人が気づいていない、ということです。これはHIVや梅毒を含むほとんどの性感染症にあてはまります。
そして3つめは、(特にHIVに対して)すでに感染している人に対する偏見を持つことはおかしい、ということです。
これら3つを遵守していれば、性感染症の心配はもはや不要であり、性教育についても(避妊の問題を除けば)おこなう必要はありません。では、なぜこんなにも簡単なことが生徒たちに伝わらないのでしょうか。
それは、「大人たちが守っていないから」に他なりません。今述べた3つのポイントをよくみてもらえれば分かりますが、これらは別段、生徒たちをターゲットにしているわけではなく誰にでもあてはまることばかりです。
性教育に従事する人のなかにはいないでしょうが、世間には<不誠実な性交渉>をしている大人たちが少なくありません。そして、性感染症に罹患する10代の若者がいるのは問題ですが、罹患する大人がいるのはある意味ではもっと問題です。性感染症が原因で破局した(大人の)カップルは枚挙に暇がありませんし、なかには離婚にいたった夫婦、さらに裁判へと進み悲惨な顛末をたどったケースもあります。
最も効果的な性教育、それは、生徒に対する教育ではなく、周りの大人たちに対する性教育ではないかと私は考えています。親が子供にいくら「勉強しなさい」と言っても、その親が勉強嫌いであれば子供はしません。その逆に、「勉強しなさい」などと言わなくても、親が当たり前の習慣として日々何らかの勉強をしていれば、子供は自然に勉強するようになります。
性教育に従事する人たちは、生徒たちに対してではなく、まずは周囲の大人に目を向けるべきです。教育者においてさえ<不誠実な性交渉>をしている者がまったくいないとは言い切れないでしょう。教育者によるわいせつ犯罪がときおり報道されていますし、犯罪ではないにせよ不貞行為をおこなっている教育者は探せばみつかるに違いありません。
周りの教育者の次は、生徒の両親、さらに地域社会と広げていき、「特定の相手とのみの誠実さを伴う性交渉が最も幸せであること」を社会に浸透させ若者に伝えていくことが、我々大人の義務ではないでしょうか。私のこの意見が「つまらない正論」に聞こえる人もいるでしょう。しかし、それでも私はこのことを言い続けていくつもりです。
若者に誠実になってもらいたいのであれば、まずは大人たちが誠実にならなければならないのです。
第65回 HIV陽性者に対する就職差別(2011年11月)
「先生、もう疲れました。先週正式に退職しました。明日実家のある宮崎に帰ります・・・」
これはあるHIV陽性の30代男性の患者さん(仮にAさんとしておきます)が診察室で私に話された言葉です(注1)。Aさんは、元々じんましんや風邪などのプライマリケアで、ときどき私のもとを受診していましたが、あるとき、1週間も下痢と発熱が続いている、と言って来られました。診察の結果、Aさんの診断は「急性HIV感染症」。HIVに感染し、2週間ほどたったときに下痢や発熱などが生じた、というわけです。
後から振り返ってみれば、思い当たることがないわけではありませんでしたが、Aさんにしてみると、「まさかそんなことでHIVに感染するなんて・・・」という気持ちだったようです。Aさんは、感染当初、自分がHIVに感染したという事実を受け入れることができませんでした。診察室でのAさんの様子は、ときには泣き崩れ、ときにはうつ状態となりため息をつくばかり、またときにやり場がなく矛先をどこに向けていいか分からない怒りに苦しんでいる、といったような感じでした。
感染が判って2ヶ月ほどたった頃、私がすすめたこともありAさんは抗うつ薬を飲みだしました。この薬がAさんには合ったようで、特に副作用もなく、多少のアップダウンはあるものの、何とか日常生活は問題なく営めるようになりました。
AさんにHIV感染を伝えたとき、私はひとつのことを約束してもらっていました。それは、「HIVに感染していることを職場には言わない」ということです。残念ながら、現在の日本ではHIVに対する偏見が根強く、HIV陽性であることをカムアウトすれば不利益を被ることが少なくありません。これまで、職場でHIV陽性であることを伝えて退職を余儀なくされた患者さんを何人もみてきている私は、Aさんに同じ体験をしてほしくなかったのです。
ところがある日、Aさんは職場でHIV陽性であることを伝えてしまったのです。Aさんは最後まで「職場に伝えたことを後悔していない」と言っていましたが、主治医である私は非常に複雑な気持ちです。
HIV感染がわかると、Aさんがそうであったように、悲しみや怒り、抑うつ気分が出現しますが、ときに躁(そう)状態となりハイテンションになることもあります。そして、このときに他人にHIV陽性であることをカムアウトする人がいるのです。しかし、Aさんの場合はそうではありませんでした。抗うつ薬の効果もあったのかもしれませんが、Aさんの精神状態は安定しており、一次的な躁気分から職場にカムアウトしたわけではありません。
Aさんの職場は中規模の工場で、Aさんがフォークリフトを操縦することもあります。Aさんが所属している班でフォークリフトの免許を持っているのはAさんだけ、ということもあり、Aさんがその班では要となる存在です。実は1ヶ月程前に、その工場で事故があり、従業員のひとりが怪我を負いました。怪我自体はたいしたことがなくてかすり傷程度だったそうなのですが、それを見たAさんは、「自分も同じように怪我をすれば、心配して駆けつけてくれた同僚に自分の血液を触れさせてしまうことになるかもしれない。そうなる前に持ち場を代えてもらうべきだ・・・」と考えました。
数日間考えた末、Aさんは人事部長に直接話し合いすることを申し入れました。Aさんには勝算がありました。入社時からその人事部長には目をかけてもらっていますし、二人で飲みにいったことも何度かあります。親子ほど年齢は離れていますが話しにくい相手ではありません。いえ、それ以前にAさんは誰の目からみても職場では厚い信頼を得ています。上司から気に入られ部下からも慕われ、誰からも仕事ができると認められています。同期で係長の役職が付いているのはAさんだけです。「事情を話して配置転換を申し入れればきっと受け入れてくれるだろう・・・」、Aさんはそのように考えていました。
Aさんが人事部長に直接希望を伝えたとき、人事部長はしばらく黙った後、「検討する」とだけ言ってその場を立ち去りました。そして1週間後、人事部長から呼び出しがかかり、言われた言葉が「現在どこの部署も新たな人員の募集はしておらず、君が今の職場を離れたいなら辞めてもらうしかない。今の職場もね~、これから度々休まれるようなことがあるとうちも困るんでね~」、というものでした。
HIV陽性を告げられたときよりも大きなショックだった、とAさんは言います。その会社は新たな人員を募集していないどころか、人手不足が慢性化しているのです。「キツイ・キタナイ・キケンに給料が安いとくれば誰も来てくれんわなぁ」と口癖のように人事部長が話していたことをAさんはこれからも忘れることはないでしょう。
結局Aさんはその日のうちに荷物をまとめ会社を去りました。送別会もなく、13年間勤めた会社だというのにとてもあっけなかったそうです。何人かの同僚や後輩からその日の夜に電話がありましたがAさんは誰の電話も取らなかったそうです。そして翌日、受診というよりも挨拶に私の元を訪れて、話した言葉が冒頭のものだったのです。
***
少し古いデータですが、2008年8月から2009年1月にかけて、薬害エイズの被害者団体「はばたき福祉事業団」が実施した調査によりますと、HIV陽性者のおよそ4人に1人が、感染を理由に離職した経験があるそうです。「4人に1人」と聞くと、たったそれだけ?、と感じますが、これはおそらく「HIV陽性であることをカムアウトしていない人も含めて」の数字だと思います。私の知る限りで言えば、HIV陽性であることを堂々と話して仕事をしている人はほとんどいません。(特に、大企業や官公庁では皆無です)
また、Aさんとは逆のケース、つまりHIV陽性者が就職活動をおこなうのも極めて困難です。現在の医療保険システムでは抗HIV薬の服薬が開始となれば、障がい者の扱いとなり障がい者手帳が交付されます。HIVは他の障がいと少し異なる点があります。それは精神的にも肉体的にも健常者とほぼ変わらない、ということです。それでも障がい者雇用の対象(注2)になるわけですから、企業にとってみれば、むしろHIV陽性者というのは「採用しやすい障がい者」であるように思えるのですが、実際は正反対なのです。
なぜこのような現実があるのか、それはひとつには、事業主が無知だから、というものですが、それだけではありません。おそらく事業主が「鶴の一声」で、HIV陽性者を雇うな!クビにしろ!、と言っているわけではないでしょう。その企業で働く人たちの全体としての考えが「HIV陽性者と一緒に働きたくない」というものだからではないでしょうか。HIVに対する社会の関心が低下すると、検査を受ける人数が減って発見が遅れるという問題がよくクローズアップされますが、それと同じように問題なのが、関心の低下は無知を助長しその結果HIVに対する偏見が強くなる、ということです。
HIV陽性者の雇用という点については、外資系企業の方が正しい理解をしていると言えます。障がい者の就職を支援するゼネラルパートナーズによりますと、HIV陽性者を偏見なく採用するのは外資系企業に圧倒的に多いそうです(2009年10月24日の日経新聞より)。 私の知る範囲でも、外資系企業はHIV陽性者に対して偏見がなく、むしろHIV・AIDSの支援活動をおこなっていたり、社内教育にHIVのことを取り上げていたりすることもあります。
HIV陽性者が不当な解雇にさらされたり、就職活動に苦労したりすることがないようにまず社会がすべきことは何でしょう。ひとつには、一部の外資系企業と同じように、日本の企業もHIV陽性者に対する偏見をなくすことです。
しかし、その前にすることがあります。それは、わたしたちひとりひとりがHIVに対する正しい知識を持つことです。「自分の横に座って仕事をしている人がHIV陽性だったら・・・」ということから考えてみてはいかがでしょうか。
注1:「Aさん」は、私が診察した複数の患者さんからヒントを得てつくりあげた架空の人物です。もしもあなたの周りにAさんと似た境遇の人がいたとしても、それは単なる偶然であるということをお断りしておきたいと思います。
注2:障がい者の雇用は、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」(障害者雇用促進法)で定められています。一定規模以上(56人以上)の事業主は、障がい者を一定割合以上雇用しなければなりません。障がい者を雇用していない場合は、法定雇用障がい者数に応じて1人につき50,000円の「障害者雇用納付金」を納付しなければなりません。
これはあるHIV陽性の30代男性の患者さん(仮にAさんとしておきます)が診察室で私に話された言葉です(注1)。Aさんは、元々じんましんや風邪などのプライマリケアで、ときどき私のもとを受診していましたが、あるとき、1週間も下痢と発熱が続いている、と言って来られました。診察の結果、Aさんの診断は「急性HIV感染症」。HIVに感染し、2週間ほどたったときに下痢や発熱などが生じた、というわけです。
後から振り返ってみれば、思い当たることがないわけではありませんでしたが、Aさんにしてみると、「まさかそんなことでHIVに感染するなんて・・・」という気持ちだったようです。Aさんは、感染当初、自分がHIVに感染したという事実を受け入れることができませんでした。診察室でのAさんの様子は、ときには泣き崩れ、ときにはうつ状態となりため息をつくばかり、またときにやり場がなく矛先をどこに向けていいか分からない怒りに苦しんでいる、といったような感じでした。
感染が判って2ヶ月ほどたった頃、私がすすめたこともありAさんは抗うつ薬を飲みだしました。この薬がAさんには合ったようで、特に副作用もなく、多少のアップダウンはあるものの、何とか日常生活は問題なく営めるようになりました。
AさんにHIV感染を伝えたとき、私はひとつのことを約束してもらっていました。それは、「HIVに感染していることを職場には言わない」ということです。残念ながら、現在の日本ではHIVに対する偏見が根強く、HIV陽性であることをカムアウトすれば不利益を被ることが少なくありません。これまで、職場でHIV陽性であることを伝えて退職を余儀なくされた患者さんを何人もみてきている私は、Aさんに同じ体験をしてほしくなかったのです。
ところがある日、Aさんは職場でHIV陽性であることを伝えてしまったのです。Aさんは最後まで「職場に伝えたことを後悔していない」と言っていましたが、主治医である私は非常に複雑な気持ちです。
HIV感染がわかると、Aさんがそうであったように、悲しみや怒り、抑うつ気分が出現しますが、ときに躁(そう)状態となりハイテンションになることもあります。そして、このときに他人にHIV陽性であることをカムアウトする人がいるのです。しかし、Aさんの場合はそうではありませんでした。抗うつ薬の効果もあったのかもしれませんが、Aさんの精神状態は安定しており、一次的な躁気分から職場にカムアウトしたわけではありません。
Aさんの職場は中規模の工場で、Aさんがフォークリフトを操縦することもあります。Aさんが所属している班でフォークリフトの免許を持っているのはAさんだけ、ということもあり、Aさんがその班では要となる存在です。実は1ヶ月程前に、その工場で事故があり、従業員のひとりが怪我を負いました。怪我自体はたいしたことがなくてかすり傷程度だったそうなのですが、それを見たAさんは、「自分も同じように怪我をすれば、心配して駆けつけてくれた同僚に自分の血液を触れさせてしまうことになるかもしれない。そうなる前に持ち場を代えてもらうべきだ・・・」と考えました。
数日間考えた末、Aさんは人事部長に直接話し合いすることを申し入れました。Aさんには勝算がありました。入社時からその人事部長には目をかけてもらっていますし、二人で飲みにいったことも何度かあります。親子ほど年齢は離れていますが話しにくい相手ではありません。いえ、それ以前にAさんは誰の目からみても職場では厚い信頼を得ています。上司から気に入られ部下からも慕われ、誰からも仕事ができると認められています。同期で係長の役職が付いているのはAさんだけです。「事情を話して配置転換を申し入れればきっと受け入れてくれるだろう・・・」、Aさんはそのように考えていました。
Aさんが人事部長に直接希望を伝えたとき、人事部長はしばらく黙った後、「検討する」とだけ言ってその場を立ち去りました。そして1週間後、人事部長から呼び出しがかかり、言われた言葉が「現在どこの部署も新たな人員の募集はしておらず、君が今の職場を離れたいなら辞めてもらうしかない。今の職場もね~、これから度々休まれるようなことがあるとうちも困るんでね~」、というものでした。
HIV陽性を告げられたときよりも大きなショックだった、とAさんは言います。その会社は新たな人員を募集していないどころか、人手不足が慢性化しているのです。「キツイ・キタナイ・キケンに給料が安いとくれば誰も来てくれんわなぁ」と口癖のように人事部長が話していたことをAさんはこれからも忘れることはないでしょう。
結局Aさんはその日のうちに荷物をまとめ会社を去りました。送別会もなく、13年間勤めた会社だというのにとてもあっけなかったそうです。何人かの同僚や後輩からその日の夜に電話がありましたがAさんは誰の電話も取らなかったそうです。そして翌日、受診というよりも挨拶に私の元を訪れて、話した言葉が冒頭のものだったのです。
***
少し古いデータですが、2008年8月から2009年1月にかけて、薬害エイズの被害者団体「はばたき福祉事業団」が実施した調査によりますと、HIV陽性者のおよそ4人に1人が、感染を理由に離職した経験があるそうです。「4人に1人」と聞くと、たったそれだけ?、と感じますが、これはおそらく「HIV陽性であることをカムアウトしていない人も含めて」の数字だと思います。私の知る限りで言えば、HIV陽性であることを堂々と話して仕事をしている人はほとんどいません。(特に、大企業や官公庁では皆無です)
また、Aさんとは逆のケース、つまりHIV陽性者が就職活動をおこなうのも極めて困難です。現在の医療保険システムでは抗HIV薬の服薬が開始となれば、障がい者の扱いとなり障がい者手帳が交付されます。HIVは他の障がいと少し異なる点があります。それは精神的にも肉体的にも健常者とほぼ変わらない、ということです。それでも障がい者雇用の対象(注2)になるわけですから、企業にとってみれば、むしろHIV陽性者というのは「採用しやすい障がい者」であるように思えるのですが、実際は正反対なのです。
なぜこのような現実があるのか、それはひとつには、事業主が無知だから、というものですが、それだけではありません。おそらく事業主が「鶴の一声」で、HIV陽性者を雇うな!クビにしろ!、と言っているわけではないでしょう。その企業で働く人たちの全体としての考えが「HIV陽性者と一緒に働きたくない」というものだからではないでしょうか。HIVに対する社会の関心が低下すると、検査を受ける人数が減って発見が遅れるという問題がよくクローズアップされますが、それと同じように問題なのが、関心の低下は無知を助長しその結果HIVに対する偏見が強くなる、ということです。
HIV陽性者の雇用という点については、外資系企業の方が正しい理解をしていると言えます。障がい者の就職を支援するゼネラルパートナーズによりますと、HIV陽性者を偏見なく採用するのは外資系企業に圧倒的に多いそうです(2009年10月24日の日経新聞より)。 私の知る範囲でも、外資系企業はHIV陽性者に対して偏見がなく、むしろHIV・AIDSの支援活動をおこなっていたり、社内教育にHIVのことを取り上げていたりすることもあります。
HIV陽性者が不当な解雇にさらされたり、就職活動に苦労したりすることがないようにまず社会がすべきことは何でしょう。ひとつには、一部の外資系企業と同じように、日本の企業もHIV陽性者に対する偏見をなくすことです。
しかし、その前にすることがあります。それは、わたしたちひとりひとりがHIVに対する正しい知識を持つことです。「自分の横に座って仕事をしている人がHIV陽性だったら・・・」ということから考えてみてはいかがでしょうか。
注1:「Aさん」は、私が診察した複数の患者さんからヒントを得てつくりあげた架空の人物です。もしもあなたの周りにAさんと似た境遇の人がいたとしても、それは単なる偶然であるということをお断りしておきたいと思います。
注2:障がい者の雇用は、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」(障害者雇用促進法)で定められています。一定規模以上(56人以上)の事業主は、障がい者を一定割合以上雇用しなければなりません。障がい者を雇用していない場合は、法定雇用障がい者数に応じて1人につき50,000円の「障害者雇用納付金」を納付しなければなりません。