GINAと共に

第67回 谷口巳三郎先生が残したもの(2011年1月)

 2011年12月31日未明、タイ国パヤオ県で21世紀農場を営む谷口巳三郎先生が享年88歳で他界されました。

 谷口巳三郎先生(以下、巳三郎先生)については、このサイトで過去に何度か紹介していますが、あらためてどのような先生だったのかを振り返っておきたいと思います。(尚、巳三郎先生も私も苗字は同じ「谷口」ですが血縁関係があるわけではありません)

 巳三郎先生は1923年に熊本で誕生されています。戦中は学徒動員でジャワ戦線にも参加されたそうです。戦後は鹿児島大学農学部を卒業され、県庁や熊本県立農業大学校などで農業に従事し定年退職を迎えられました。定年後、単身でタイに渡られ北部のパヤオ県で、現地の人々に農業の指導をおこなってこられました。

 巳三郎先生がエイズという病と関わりを持ち出したのは、パヤオ県というこの地域に80年代後半からHIV感染が急速に広がりだしたからです。タイ全国で最も貧しいと言われているパヤオ県は、実際に県民ひとりあたりのGDPが全国一低い県で、その額は日本円にして10万円にも満たないものです。

 そんなパヤオ県にHIVが蔓延したのは必然であったといえるでしょう。地面は赤土で農作物が育たないこの地域では産業と呼べるものがほとんどありません。このような環境でまともな教育を受けていない若者が日銭を稼げる仕事とは・・・。男性なら薬物の売買、女性なら売春に向かわざるを得ないことは容易に想像できます。

 巳三郎先生が始められた、パヤオ県に根を下ろして農業の指導をおこなう、ということは地域の住民の生活に深くかかわるということに他ならず、それはすなわちエイズという病への取り組みが必然であったのです。

 巳三郎先生はパヤオの奥地に「21世紀農場」という農場をつくり、そこで様々な農作物を作り始めました。現地の人に栽培方法を覚えてもらわなければなりませんから、農場内には家屋もつくりそこにタイ人を住まわせて指導にあたりました。巳三郎先生の目的は、農場で利益を出すことではありませんから、栽培した野菜や米はHIVに罹患して働けない人へ供給するようになりました。

 しかし、HIVに罹患していて働けないから(当事は今よりもはるかに差別がありました)という理由でいつまでも食べ物を恵むだけでは患者さんたちの自立につながりません。そこで巳三郎先生は、HIVに罹患した人たちにも農業を教え、家畜の育て方を教え、また、日本から古いミシンを大量に購入し、女性には裁縫の指導もおこないました。

 2005年あたりからは、タイではHIVがかつてほど増加しておらずむしろ減少傾向にあると報道されることが増えていますが、巳三郎先生はそのような見方をしていませんでした。2009年に大阪でお会いしたときにも、農作物を無償で渡しているHIV陽性者は増える一方で・・・、という話をされていました。

 巳三郎先生は、医療従事者でないのにもかかわらず、農業指導を通して地域に溶け込むなかでHIVという問題を看過することができず、いつのまにか地域社会でHIV対策の中心的な役割を担うようになったのです。

 私が巳三郎先生と初めてお会いしたとき、HIVについて熱く語られていたことは印象的でしたが、21世紀農場を訪問したときにもうひとつ大変感銘を受けたことがあります。

 それは、21世紀農場で働くタイ人の現地スタッフがあまりにも礼儀正しいことでした。これは他のタイ人が礼儀正しくないという意味ではありません。タイに行ったことがある人ならわかるでしょうが、タイ人は目上の者には「ワイ」と呼ばれる独特の挨拶(両手を合わせて頭を下げる)をおこないます。21世紀農場で働くタイ人も私に対してワイをしてくれたのですが、私が感銘を受けたのはワイではありません。

 タイ人と仕事をしたことがある人ならわかると思いますが、日本人に対するのと同じような感覚でタイ人に接すると必ずといっていいほどトラブルになります。例えば、一般的なタイ人の多くは、日本人のように時間を守りませんし、言ったことをすべてやってくれません。一を聞いて十を知る、どころか、十を伝えて五をしてくれれば満足しなければならない、というのが一般的タイ人の現実なわけです。もちろん、日本人のすべてが、一を聞いて十を知る、ができるわけではありませんが、我々日本人はそのような気遣いや心配りを美徳と感じています。

 食事の仕方にも違いがあります。(今はそうでもないかもしれませんが)日本人は食事の際、全員がそろうまで待って、いただきます、と言って食べ始めます。一方、タイ人はバラバラにやってきて食べ終わった者から退席する、といった感じです。もちろんこのような習慣は文化によって異なるものですから、どちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。しかし、全員がそろうまで待って、一緒に食べて、一緒に後片付けをおこなう日本式の方が協調性と責任感が育まれやすいのではないでしょうか。

 私が21世紀農場で受けた感銘というのは、巳三郎先生の元で働いているタイ人の現地スタッフが、まるで古き善き時代の日本人のようだったこと、です。彼(女)らは、挨拶を大切にし、農作業をするときのみならず、食事をつくるときも掃除をするときにも強調性と責任感を発揮して効率よくおこなっていました。食事は全員そろうまで待ち、日本語で「いただきます」を言って(タイ語には「いただきます」に相当する言葉がありません)、一緒に食べ始めます。一度私が所用でテーブルにつくのが10分ほど遅れたことがあったのですが、約20人いたスタッフ全員が食事に手をつけずに私を待ってくれていました。

 巳三郎先生は、パヤオ県の奥地で農業指導をおこなうと同時に古き善き日本の伝統も伝えられたのです。日本式の農業技術をマスターするためには日本の文化や慣習を覚えてもらう必要があったために必然的に日常の行動にも指導がいきわたったのかもしれませんし、もしかすると初めから農業だけでなく日本の善き慣習を広めようと考えられていたのかもしれません。

 しかし巳三郎先生は、日本の良さだけではなくタイの良さについても実感されていました。私に対して優秀な現地スタッフの話をされていましたし、日本にはないタイの農作物の利点についても語られていました。実際、巳三郎先生は日本にいる間、難治性の高血圧に悩まされていたそうなのですが、タイに来て現地の野菜を食べるようになってから嘘のように血圧が下がった、と話されていました。

 巳三郎先生が残したものは農業技術だけではありません。勤勉に働くこと、協調性を持ち仲間を大切にすること、責任を持って仕事に取り組むこと、困っている人を助けること、そういった精神を現地に残されました。また現地のタイ人に対してだけではありません。21世紀農場には毎年大勢の日本人が訪れていました。はるばるやってきた日本人もまた巳三郎先生の精神に感動し、古き善き日本の伝統をタイの奥地で体験したのではないでしょうか。

 巳三郎先生の娘さんである谷口とも子さんからいただいた手紙によりますと、巳三郎先生が21世紀農場のなかで住まわれていた部屋は「記念館」となりこれからも残されるそうです。我々は、巳三郎先生のタイでの貢献に改めて思いをめぐらせて、これからも巳三郎先生から学んでいくことを続けるべきでしょう。

 最後に巳三郎先生の奥様の谷口恭子さんからいただいた手紙にあった一文を紹介したいと思います。

  夫は常に個人の為でなく、世の中の人の為に精一杯頑張っておりました

参考:GINAと共に第33回(2009年3月) 「私に余生はない・・・」