GINAと共に

第52回 自分の娘を売るということ(2010年10月)

寝転んだ母親(23)の上で裸のまま卑わいなポーズを取らされ、無邪気に笑顔を浮かべる2歳の少女の姿。左手でデジタルカメラを操る母親の右手は我が子の小さな足を広げ、画像の端にわずかに映る母親の口元は表情を示さず、一文字に結ばれたままだった。

 これは2010年10月5日の日経新聞夕刊に掲載された、「児童ポルノを断つ」という特集記事に掲載された一部です。

 母親が自分の娘を売り飛ばすという話は、タイでエイズ問題を語るときには避けては通れない話題です。以前、このサイトで紹介した映画『闇の子供たち』では、冒頭で、幼い娘を斡旋する女衒(ピンプ)が、タイ北部の貧困な家庭を訪れて、娘が売られていくシーンがありました。これは映画ですが、タイではこのような話は(最近は以前に比べると少なくなりましたが)珍しくはありません。

 タイの文化、というか風習は、日本人を含む外国からは理解しにくいことがいろいろとあります。子供のことで言えば、小学校に行かずに農作業などの仕事を強いられている子供が少なくないこと、真夜中に街中を裸足で駆けずり回り外国人に花を売っている幼い子供がいること、腕や足のない子供が歩道に座って金銭を乞うていること、などが相当するでしょう。

 これらは、倫理的に小さくない問題がありますが、それを見たひとりの外国人が「これはおかしい」と思ったところでどうにもできませんし、理不尽だとは思いながらも「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出し、異国の地で非現実的な正義感を振りかざすことを諦めます。

 しかし、いくら、よその国にはよその国なりの価値観や考え方があると言われ、「郷に入っては・・・」の意味を考えたとしても、「自分の娘を売り飛ばす」という行為については、なかなか受け入れることができないのが大半の人の感覚ではないでしょうか。

 実際、私もかつてはそう感じていました。「自分の命を差し出してでも子供を守るのが大人の使命ではないのか・・・」、おそらく日本人の大半はそのように思うのではないでしょうか。けれども、タイの一部の地域がいかに貧困にあえいでいるかを知るようになり、私のこの考えは少しずつ変わっていきました。タイでは、母親に売られた娘が春を鬻いで稼いだお金で両親を養い、成人し娘が生まれるとその娘も・・・、と「娘の商品化」が世代を超えて引き継がれていくことすら珍しくありません。本当の貧困のなかに身をおけば、「自分の命を差し出してでも子供を守る・・・」などというのはキレイごとにすぎないのです。少し考えれば、親が命を絶てばそのうち子供も飢え死にするのが自明であることが分かります。

 けれども、<もしも親がそれほど貧困でないなら>話はまったく変わってきます。そして、大変残念なことに、こういったことが最近のタイではあるのです。

 例えば、北タイのある県のある地域は、土壌が貧弱な赤土に覆われており、農作物がろくに育たず、住民は大変貧しい生活を強いられているのですが、ときどき"場違いな"豪邸が建っています。この地域を横断する広い道を車で進めば、ポツリ、ポツリ、とこのような豪邸を目にします。この地域をよく知る者が言うには、そのような豪邸に住む者のほとんどは娘を売ったお金で贅沢をしている、とのことです。なかには、(男ではなく)女の子が生まれたことで将来は安泰、と考える者すらいるそうです。

 もうひとつ、例をあげましょう。これは、タイのあるエイズ施設で働いていたボランティアから聞いた話です。そのボランティアはその施設でHIV陽性のある女性のケアを数年にわたりおこなってきました。何かと"問題"のある女性だったそうですが、ここ1年くらいは社会に適応できるようになり、体調もよくなってきたため、その施設には居住ではなく通所というかたちにして、普段は一人娘とふたりで住むようになったそうです。

 ところがその矢先、そのHIV陽性の女性は、大切なはずの一人娘を女衒に売ってしまったというのです。しかも3千バーツ(約9千円)で、です。値段の問題ではありませんが、自分の娘を3千バーツで売り飛ばした、という事実がそのボランティアを大きく落胆させました。このHIV陽性の女性が貧しかったのは事実ですが、これまでもそのエイズ施設を含めて周囲からケアしてもらっていたのですから、娘を売る前に頼るべきところがあったはずです。

 <もしも親がそれほど貧困でないなら>という仮定を厳密に定義するのはむつかしいとは思います。しかし、娘を売るなどというのは、貧困が極まり、もう誰にもどこにも頼れない、といった段階にならなければ考えてはいけないことであるはずです。

 冒頭で紹介した23歳の母親は日本人です。デジタルカメラを所有しているくらいですから、その日に食べる物がないほどには生活には困っていないはずです。私は、自分の娘を売るという行為が現代の日本で起こっている、などとは考えてみたことがありませんでした。それだけにこの新聞記事を見たときには愕然としました。

 たしかに、日本でも「虐待」というものは珍しくありません。最近では身体的虐待だけでなくネグレクト(子供に食事を与えないなど)によって子供の成長障害やひどい場合は死亡したという事件もありますし、また、性的虐待に関しては、表に出てこないだけで、世間で思われているよりもずっと多いということが医師をしているとよく分かります。

 しかしながら、他国に比べ大人から子供への性的虐待が多いことは認識していても、自分の娘を売り飛ばす親がこの日本にいる、ということが私には信じられなかったのです。

 この日本人の母親は娘の裸を他人に見せただけで<売り飛ばす>とまでは言えないのでは?、という意見もあるかもしれませんが、この記事の後半には、次のような文章もあります。

わいせつな画像を自ら撮影して売ったり、愛好者の男に引き合わせて淫行(いんこう)までさせたり。一連の捜査は1都2府8県に及び、愛好者の男3人と誘い役の女に加え、20~30代の実の母親9人と姉1人を摘発するに至った。被害者の中には、わずか1歳の子もいた。

 それほど切羽詰った状況でもないのに、自分勝手な欲望のために自分の娘を売り飛ばすタイ人と、この新聞記事で報道されている自分の娘を"商品"とした日本人の、どこに違いがあるのでしょうか。私に言わせれば<同じ穴のムジナ>です。 

 さて、ここからが問題です。自分の娘を"商品"とする親とその"商品"を買う輩は誰からみても非難の対象となります。しかし、単なる「非難」だけでは再発を防げません。今回取り上げているタイの話も日本の話も、単なる売春の話ではありません。売春自体にも問題はありますが、対象が子供であることが一番の問題なのです。

 以前もこのサイトで述べたことがありますが、幼児愛(pedophilia)は絶対に許されるものではありません。幼児愛者(pedophiliac)に対しては、衝動を抑えられないなら社会から"隔離"されるしかないと私は考えています。

 "商品"の取引は、需要と供給があるから成立します。まずは「需要」を徹底的に社会から抹消すべきでしょう。要するに、幼児愛に対する罪を可能な限り重くするのです。

 「供給」側に対してはどうすべきでしょうか。必ずしも適切な方法ではないかもしれませんが、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらう」、という方法がいいのではないかと私は考えています。

 つまり、「自分の子供を売る以外に、子供も自分たちも死から逃れる方法はなかった。子供が大人に弄ばれたとしてもご飯は食べさせてもらえるだろう。しかしこのままでは子供が飢え死にするのも時間の問題だ・・・」、と考えるしかなかった人が、(少なくなったとはいえ)まだタイを含む諸外国には存在し、さらにもっと言えば、かつての日本にもそのような事情があったということを多くの人に理解してもらう必要があるのではないか、と私は感じています。

参考:GINAと共に第27回 「幼児買春と臓器移植」 (2008年9月)