GINAと共に

第62回 インラック政権でタイのHIV事情は変わるか(2011年8月)

 2011年8月中旬、私はGINA関連の業務のためにタイに渡航していたのですが、ちょうどインラック新政権が誕生した直後であったため、タイの報道番組では朝から晩までインラック首相の映像が流されているといった感じでした。

 インラック首相(「イ」の音は「i」ではなく「yi」、「ラ」は「r」ではなく「l(エル)」です)はタイで初めての女性首相、なおかつ現在海外に亡命中のタクシン元首相の実の妹であることから、世界中のメディアで注目されています。

 現地の新聞をみてみると、世論調査では軒並み7~8割の支持率を有しており、これは7月3日に実施された選挙直前のタイ貢献党の支持率よりも高いようですから、元々タイ貢献党を支持していなかった層からの支持も得ているということになるのかもしれません。

 インラック首相が正式に首相に就任したのは8月7日なのですが、ちょうどその頃タイは北部と東北部を中心に洪水の被害に合っていました。インラック首相は被害にあったいくつかの地域を訪問し、それは私がタイに渡航していたときにも続けられていました。北部と東北部というのは、元々タイ貢献党の支持者が大半を占めているということもありますが、インラック首相来訪に対する歓迎ぶりは相当なもので「お祭り騒ぎ」と言ってもいいほどでした。テレビ中継されるその様子は、国民的スターを住民全員で歓迎する、といった感じでした。

 インラック首相は就任したばかりで、政策に関してはまだほとんど何もおこなっていませんが、タイ国外でもインラック首相に対する注目度は高く、日本ではタクシン元首相の来日とも合わせて報道されています。(しかし、日本でのインラック首相の取り上げられ方は、政治的・経済的なことよりもその「美貌」に関することばかり、といった感じです。インラック首相の写真を集めたサイトも複数あるようです)

 さて、今回私は8月11日から渡タイしたのですが、翌日の12日は「母の日」とも呼ばれている日で、タイ皇后の誕生日で国民の祝日にもなっています。この日は、皇后の演説がおこなわれ、私もニュース番組でその演説を見ていたのですが、皇后がインラック首相に何やら箴言をなさっていたシーンが印象に残りました。ニュースでのタイ語が聞き取れなかった私は翌日新聞でその様子を確認することにしました。

 私はその記事を読んで大変驚いたのですが、皇后がインラック首相に「現在最も重要な課題」として話されたのは、「違法薬物の蔓延に対する危惧」だったのです。

 なぜ私が驚いたかを説明したいと思います。このサイトでも何度も取り上げているように、タイは2000年代前半にいったん薬物の入手しにくい「クリーンな国」になりましたが、タクシン政権崩壊後は一気に薬物が蔓延し、再び「ドラッグ天国」に舞い戻りました。もちろんこれはタイにとって好ましいことではありませんが、では「クリーンな国」であった時代を手放しで喜べたか、と言えば決してそういうわけではありません。

 タクシン元首相が政権についた2001年以降、タイ政府は「疑わしきは殺せ」と言わんばかりに徹底的に薬物に対する取締りを強化しました。一説では、冤罪で射殺された一般人が2,500人とも5,000人とも言われています。なかには、宝くじが当たって喜んでいる若い男性を、尋問した警官が違法薬物の販売で入手した大金と間違えてその場で射殺したという事件も報道されました。

 タクシン元首相が薬物に対する取り締まりを徹底しすぎたことで、国民からだけでなく王室からも「ちょっとやりすぎではないか・・・」という声が上がっていたと言われています。そのことだけが理由ではありませんが、王室はタクシン政権に対して好意をもっていなかったのではないかとみられています。(これは噂ですが、軍の反タクシン派が中心となりタクシンを失脚させたクーデターは王室の承認もあったのではないかと言われているほどです)

 王室はタクシンのやり方に好意を持っていなかった、そしてその政策のなかでも最も不評だったもののひとつが「いきすぎた薬物対策」であったわけです。にもかかわらず皇后はタクシンの実の妹のインラック首相に「現在のタイの最重要課題が薬物対策」と言及されたわけです。もちろん、これは皇后が「疑わしきは殺しなさい」と言っているわけではありません。しかし、母の日の演説でタクシンの実の妹のインラック首相に「最重要事項」と言わなければならないほど現在のタイの薬物の蔓延状況は切羽詰っているということです。

 実際、タイの新聞では最近は薬物がらみの報道を見ない日が珍しいくらいです。しかも、新聞で取り上げられているのは、末端価格が日本円で数千万円規模の薬物押収、というものが大半ですから、小規模での薬物の取引が現在のタイで日常的におこなわれているのは自明です。タイでは、薬物の蔓延はHIVの蔓延に直結しますから、GINAとしてもインラック首相の薬物対策には注目しています。

 もうひとつ、GINAがインラック首相の政策で注目していることがあります。それは、セックスワーカーに対してどのような方針をとるかということです。タクシン政権では、少なくとも未成年が働く置屋は徹底的に取り締まられ、ミャンマーやラオスからのトラフィッキングに対してもかなり厳重な対処をしていました。しかし、現在では、売買春に対する取り締まりは弱まり、未成年や隣国から連れてこられた少女がタイ国内で弄ばれているのが現実です。

 インラック首相はタイ国初めての女性首相ですから、国内外のフェミニストや活動家からも注目されています。例えば、タイの英字新聞The Nationは8月10日の社説で「Will first Woman PM Be Lucky For Women?(タイ国初の女性首相は世の女性たちを救えるか?)」というタイトルでいくつかの意見を載せています。女性問題に関する意見をみてみると、「まったく期待していない」という声はないものの、インラック首相の経歴に女性の権利を意識したようなものがないことや、しょせんタクシン元首相のクローンではないかと考えられていることから、「フェミニストの救世主」とはなりえないだろうという意見が目立ちます。一部には、インラック首相の母性に期待して(インラック氏には籍を入れていない内縁の夫と子供がひとりいます)、少なくとも児童虐待と児童のトラフィッキング対策には期待したい、という声もあがっています。

 タイにはHIV陽性のセックスワーカーが大勢います。以前GINAが現地の公衆衛生学者と共同で調査した売春宿にもHIV陽性のセックスワーカーがいて、現地の保健師が健康相談に乗っていました。タイでは売買春は非合法ですし、HIV陽性者がセックスワークをするということにはもちろん問題がありますが、きれいごとだけでは何も解決しないというのが現実なのです。

 売買春をいかにコントロールできるか、というのはHIVが蔓延するのを防げるかどうかという課題に直結します。しかし、やみくもに厳しくすれば、売買春ビジネスが地下にもぐるだけで、こうなるとかえってHIV感染の危険性が高くなりますし、未成年売買を含むいくつもの犯罪が増えることにもなりかねません。子供や女性の安全を確保し権利を保障し、なおかつHIVを含む性感染症を蔓延させないようにするのは決してやさしいことではないのです。

 現在インラック首相の政策については、経済界では「一日あたりの最低賃金300バーツ」が最も話題になっていますが、GINAとしては薬物対策と売買春対策がどのようにおこなわれるのかという点に注目していきたいと思います。