GINAと共に

第166回(2020年4月) もう以前のタイには戻らない

 新型コロナ(以下「Covid-19」)が猛威を振るい、3月26日から外国人はタイに入国できなくなっています。GINAのサイトを長年見てくれている人のみならず、私が院長を務める太融寺町谷口医院の患者さんのなかにも「タイ好き」は多く、ゴールデンウィークや夏季休暇の度にタイを訪れるという人も少なくありません。

 しかし今年のゴールデンウィークに入国できないのはほぼ確実ですし、夏休みもどうなるか分かりません。では、いずれ昔のように(と言っても、つい最近のことですが)気軽に訪タイし、タイを楽しむ、あるいはタイに癒されることができるようになるのでしょうか。

 私の考えは悲観的です。もう以前のタイには戻らないと思います。これはタイがCovid-19の被害を大きく受けて国家が衰退するからではありません。むしろその逆で、タイは日本よりも上手くCovid-19をコントロールし、「日常」を早く取り戻すでしょう。日本の中途半端な緊急事態宣言とは異なり、タイの非常事態宣言(英語では日タイともに新聞上ではstate of emergencyですが、日本では緊急事態宣言、タイでは非常事態宣言とされます)の方がはるかに厳しく、また効果的だからです。ただしその「日常」は、私たちがつい最近まで知っていたタイのあの日常とは異なるはずです。今回はこの新しい日常について私見をふんだんに取り入れながら話したいと思います。

 私がタイに関わりだしたのは2002年です。このときのHIV/AIDSの状況は極めて悲惨なもので、まだ抗HIV薬も使われておらず「HIV感染=死」でした。その絶筆に尽くしがたい状態を見聞きし、家族からも村からも追い出され、そして医療機関からも差別を受けていた人たちの力になりたいという気持ちがその後のGINA設立へとつながりました。2004年から本格的にタイを往復するようになり、HIV関連で大勢の人から話を聞きました。タイ人のみならず欧米人や日本人からもインタビューを重ねました。

 そのときに気づいたのが、タイという国に人気があるのは文化・歴史・風俗(性風俗ではない元々の意味の風俗)よりも「色」と「薬物」が魅力的だからだ、ということです。特に日本人の男性は、私と話し始めた最初のうちは「タイが好きな理由は、文化とか食べ物とか、それに物価が安いでしょ」などと言うのですが、そのうちにタイの女性(あるいは男性)の虜になっていることを教えてくれます。欧米人も同じですし、女性も大多数とまでは言いませんが、ロマンスやセックスを求めて訪タイしている人がいかに多いか。

 ごく稀にそういうわけではなく純粋にタイの文化や歴史に興味を持っている人もいましたが、非常に少数です(特に男性は)。ただ、私はそれを悪いことと言っているわけではなく、直接、あるいは間接的に聞くロマンスには感動を覚えるものも少なくありません。結婚に至った例も珍しくはありません。もっとも、私の知る範囲で言えば、たいていは数年後には離婚しているのですが。

 はじめはそういうつもりがなくても、日本にいた頃が嘘みたいに「よくモテる」という声も何度も聞きました。日本人というだけでモテるというのです。最初こういう話を聞いたときは、日本人はお金があるからだろう、と思っていたのですが、どうもそういうわけではなく、たしかにお金は日本人が出すことがほとんどですが、決して「お金があるから」というわけでもないことを何人もの日本人の男女から聞いて納得しました。

 さて、新型コロナです。現在のタイで発令されている非常事態宣言は日本よりも厳しいのですが、私のもとに届く情報では動乱や混乱はなく国民の大半がおだやかに秩序を保っているようです。外出禁止令には罰金を伴いますし、屋台はテイクアウトのみで、ほとんどの人が外出時にはマスクをしています。マスクや消毒液などは不足していますが、日本のような殺伐とした雰囲気にはなっていないようです。これがタイの良き文化なのか、非常時にはみんなが協力しあうという空気が自然に生まれているのかもしれません。

 そして、当然のことながら夜の街は壊滅状態のようです。タニヤもパッポンもナナもソイカウボーイもほとんど人がいないと聞きます。パタヤの情報は直接は入ってきませんが、ネット上の情報では閑散としているようです。我々外国人がついこの間までよく知っていたタイではなく、多くの外国人が生気を失っているかのようだそうです。

 では、やがて非常事態宣言が解除され新型コロナの感染者が大きく減少すれば「元のタイ」に戻るのでしょうか。私の答えは「ノー」です。その理由は2つあります。1つは「タイはすでにそれなりに裕福になったこと」です。これはCovid-19が流行する前から、しばしば聞いていたことですが、以前のように、親に売られて春を鬻ぐといった女子はもはや皆無で、イサーンや北部の田舎に行っても中学生がスマホを持っていると言います。中学に行かせてもらえず農作業を手伝う男女もほとんどいないと聞きます。

 つまり、お金を持っているという理由で(日本人を含む)外国人に憧れるような空気はすでにないわけです。それどころか、Covid-19は外国から入ってくるわけですから、これからは外国人というだけでむしろ避けられる可能性すらあると思います。昔のように、日本人というだけで「コボリ、コボリ」と言ってタイ人に囲まれるといったことはないでしょう(2000年代中頃、日本人がほとんど訪れたことのないイサーン地方のへき地などに行くとこういうことがしばしばありました。参照:GINAと共に第75回「恥ずべき北タイのロングステイヤー達」)。

 もうひとつの「元のタイには戻らない」と考える理由は、Covid-19の影響で人々の考えがドラスティックに変わる可能性があるからです。ここで過去のコラム「エロティシズムを克服する方法」でも取り上げた「マズローの欲求段階説」を再び考えてみましょう。マズローによれば、人間の欲求には「順番」があり、先に生じるものから並べると、①生理的欲求、②安全の欲求、③社会的欲求(友達や恋人がほしい)、④承認欲求、⑤自己実現の欲求です。

 先述したように、タイの非常事態宣言は日本よりも厳しく、しかもそれを不満に感じている人もおらずみんなが政府の指導に従っていると聞きます。罰則が厳しいからというのも理由のひとつでしょうが、他の違反(例えば交通違反)のように「違反をしても警官に賄賂を渡せばいい」と考える人もほとんどいないと聞きます。おそらく非常事態宣言を厳密に守っている最大の理由は「Covid-19への恐怖」ではないでしょうか。

 周知のように、Covid-19は発症している人からのみならず、発症前の無症状の時期に感染しやすいことが分かっています。例えばある研究によれば家族内感染などの二次感染の44%は、感染者が発症する前の数日間に感染していることが分かりました。これが意味することは小さくありません。なぜなら、数日後に風邪をひくかどうかはその時点では誰にも分からないからです。

 目の前の男性(女性)がどれだけ魅力的で、もちろん風邪症状がなかったとしても、数日後にその人が風邪をひかない保証はどこにもありません。ということは、他人と緊密な距離(それはもちろんキスや性行為のことを指すわけですが)をとるのならばCovid-19に自分自身が感染するかもしれないリスクを抱えなければならない、ということを意味します。

 もちろんこれはタイに限ったことではなく世界中の誰もが考えなければならないとてもむつかしい問題です。いくらかの人は「そんなこと気にしない」と言うでしょうが、世界中で若年者も含めて重症化したり死亡したりする例が報告されているわけです。新型コロナ流行以前とは他人との距離の取り方を大きく変える人が増えるのは間違いありません。

 私はセックスツーリズムに批判的な立場で、単純にセックスを求めてタイを訪れる外国人には好意が持てません。ですが、その結果、タイに活気があふれ、さらにその活気がタイの経済を発展させ、また単純なセックス以外のロマンスが数多く生まれているのは事実です。マズローの欲求段階説が正しいとすれば、②安全の欲求、を確保するためにセックスやロマンスはかつてのような勢いにはならないはずです。タイだけが変わるわけではありませんが、世界のなかでも特にセックス・ロマンスで活気づいていた国のひとつがタイであることに異論はないでしょう。

 もはやタイは昔の状態には戻りません。そして、個人的にはその新しいタイを早く見てみたいと思っています。