GINAと共に

第164回(2020年2月) エロティシズムを克服する方法

 抑えられない性欲はどうすればいいのか。つまり身体の奥から湧き出てくるエロティシズムにはどう向き合うべきなのか。まず初めに、前回述べたことをまとめておきましょう。

・特定のパートナーとの間に「愛情」は長く続いたとしても「エロティシズム」はやがて色あせていく

・エロティシズムの強度は「非日常度」の強度に比例する

・非日常の極限は「死」である。よって澁澤龍彦が指摘したように「情死」は最高のエロティシズムである。

・非日常的な体験のなかで最も現実的なもののひとつが「不倫」である。不倫の初期は極めて高度なエロティシズムが体験できる。しかし、やがて色あせていく。

 同じ刺激でエロティシズムが長続きしないのは分子生物学的にもある程度あきらかになっています。恋愛初期のドキドキ感を自覚しているときには脳内にドーパミンやノルアドレナリンといった「興奮系」の神経伝達物質の分泌量が増えます。数か月たてばこういった物質が減少しますが、代わってオキシトシンを中心としたいわば「安心系」の物質が多量に分泌されるようになります。こういうとき人は穏やかで平和的な気持ちになり幸福感に包まれます。まだこの時期においては多少の"誘惑"があったとしてもその幸福感の強度の方が大きいために「浮気」へ進行する可能性が低いのです。

 初めてこういった「恋愛の分子生物学」をまとめ上げたのが米国の人類学者ヘレン・フィッシャーで、1993年の著書『Anatomy of Love』(邦題『愛はなぜ終わるのか』)は世界中でベストセラーとなりました。世界の多くの地域で「人間は4年で離婚する」という共通点があることを明らかにし、さらに分子生物学的な観点から神経伝達物質の分泌との関連に言及したこの著作は世界中の大勢の人々を魅了しました。

 前回からのテーマは「抑えられない性欲=エロティシズムにはどう対処すればいいのか」ということでした。今までの議論では不倫も含めた恋愛の初期、あるいは恋愛ではなくとも異性(または同性)と出会ったばかりの時点で感じるエロティシズムについて述べてきました。では、人は自分の好みの異性(または同性)と出会えばいつもエロティシズムを感じるのでしょうか。

 2019年12月、中国の武漢市で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に日本を含む世界中に広がりました。SARSやMERSほどではないにせよ、中国では若い医師が犠牲になっていることからも分かるように、決してあなどってはいけない感染症です。実際、新型コロナウイルスのせいで入国制限、入国拒否、各種イベントの中止などが起こり、現在も終息する様子はありません。

 さて、このような情勢のなか、出会ったばかりの他人と性行為が持てるでしょうか。新型コロナウイルスは軽症者からも重症者と同じ程度の量のウイルスが検出されることがわかっています。つまり、キスをしただけでも無症状の相手からあなたにこの病原体が感染する可能性があるわけです。

 運命と出会えるような人と出会ったならば気にならない、という人もいるかもしれません。では、感染力が新型コロナウイルスと同様で、やはり軽症もしくは無症状の人もいて、しかし致死率がMERSと同様30%にもなる感染症が仮に流行していたとしましょう。それでも、あなたは出会ったばかりの他人と性交渉を持つでしょうか。

 現在新型コロナウイルス対策として、出勤を禁止しテレワークのみとしている企業が増えてきています。電車に乗ること自体がリスクになるからです。すでに出会ってしまったのならともかく、このような時期に新たなセックスの相手を探そうと街に繰り出す人はほとんどいないのではないでしょうか。つまり、私が言いたいのは「エロティシズムは安全が担保された状態でなければ生まれない」ということです。

 マズローの欲求段階説によると、新型コロナウイルスから身を守りたいという欲求は第2段階の「安全への欲求」に相当します。エロティシズムがどの欲求にカテゴライズされるかは議論が分かれるかもしれません。第1段階の「生理的欲求」に入るとする意見があるかもしれませんが、私はこれを否定します。マズローの言う生理的欲求というのは、食欲や睡眠欲、排尿・排便の欲求といったもっと原始的なものであり、パートナーと別れるつもりはないのに他人にエロティシズムを見出すのは、少なくとも「安全」が確保されていることが前提となります。よってエロティシズムは第2段階の安全への欲求よりは後に生じる欲求ということになります。

 マズローの欲求段階説の第3の欲求は「社会的欲求」(他人とつながっていたい欲求)、第4がいわゆる「承認欲求」(目立ちたい、認められたい)、そして第5が「自己実現の欲求」です。エロティシズムはどこにも該当しないように思えます。マズローの欲求段階説は半世紀以上に渡り支持されており、もはや「社会学の基本」のような扱いを受けていますが、誰もが襲われることのある抑えがたいエロティシズムはマズローの欲求段階説のいわば「圏外」にあるというのが私の考えです。

 話を戻しましょう。確認しておきたいのは、エロティシズムが生まれるのはマズローの欲求段階説で言えば、少なくとも生理的欲求と安全の欲求が満たされていなければならず、さらにたいていは社会的欲求の方が先にきます。エロティシズムを追求するよりも、パートナーや友達が欲しいと思う人の方が多いのではないでしょうか。いずれにしても私が主張したいことは、「エロティシズムを求めたくなるのは基本的な欲求が満たされているときのみ」ということです。したがって、そのエロティシズムを追求することで、"安全"を失うリスクがある可能性は初めから考えておくべきでしょう。例えば不倫で社会的地位や家族を失い、仕事もなくし......、といったことです。

 次に発想を180度転換してマズローの欲求段階説を逆からみてみましょう。マズローが最高とした自己実現の欲求が満たされている人もエロティシズムを追求するでしょうか。日本のエロティシズムの大家である澁澤龍彦は(少なくとも初期には)「イエス」と言ったでしょうし、自己実現を達成した人のなかには強烈なエロティシズムを求めている人もいるかもしれません。

 ですが、私個人の意見としては、マズロー説が正しいかどうかは別にして、自己実現の欲求(のようなもの)が満たされていれば強烈なエロティシズムは起こらない、つまり非生産的な性欲に捉われないことがあると考えています。実際、前回も述べたように、澁澤龍彦でさえも女性と結婚し"普通の"人生をまっとうされたわけです。では、なぜあれほどまでにエロティシズムにこだわった澁澤龍彦は、そのエロティシズムを追求し自らが「究極のエロティシズム」と称した情死を目指さなかったのでしょうか。

 この理由として私はこう考えています。澁澤龍彦の場合、エロティシズムに関する文献を集め、自身の著作を多数発表し、エロティシズムの第一人者と呼ばれることで自らのエロティシズムを満たしていたのではないか、と。

 私自身のことにも少し触れておきましょう。実は私自身もいつの頃からかエロティシズムというものにはほとんど興味が湧きません。おそらくその最大の理由がこのサイトをつくるきっかけにもなったタイでのエイズ施設でのボランティアの経験です。当時タイには治療薬がなく、HIVに感染すれば死を待つしかありませんでした。感染者はいわれなき差別を受け、死へのモラトリアムを静かに過ごしていました。感染経路は、薬物の静脈注射や売買春が多数です。親に売られて売春をさせられて感染した幼い男女もみてきました。何人もの元薬物常用者や元セックスワーカーの話を聞くことになりました。

 なぜ私はエロティシズムに興味が湧かないか。それはエロティシズム以上に非日常的な現実を経験したからではないかと思っています。エイズという病の奥深さ、悲惨さをみて、死がすぐそこにある世界に身を置いていたその頃の体験を振り返ると、エロティシズムがなんだかつまらないものに思えてくるのです。

 ところで、芸術家は性的に奔放だと言われることがあります。たしかにそのような人も大勢いるのでしょうし、性的な経験が作品につながるということもあるでしょう。ですが、私はすべての芸術家がそうではないと思っています。芸術の世界も非日常です。それがなくても生きていく上ではまったく困らないわけですから。その「非日常」に没頭している人のいくらかはエロティシズムに興味を持っていないのではないかと私には思えるのです。

 完全な私見であり説得力がないかもしれませんが、性欲がおさえられない=エロティシズムに心が奪われている、という人に私が助言するとすれば、「芸術や、私が体験したようなボランティアといった非日常的なもので、なおかつ他人に迷惑をかけないもの(社会に貢献できる可能性があるものであれば尚よい)を見つけてみませんか」、ということです。

 これが現時点で私が考えるエロティシズムを克服する方法です。ただし、エロティシズムの追求が病的なところまで進んでいる場合には今私が述べたことなどまったく役に立たないでしょう。近いうちにそのことを述べたいと思います。