GINAと共に

第80回 HIV陽性者に対する就職差別 その2(2013年2月)

 このコラムの第65回(2011年11月)で、HIV陽性者が日本の職場で働き続けるのは困難であることを述べました。私は、HIVに関する講演をおこなうときには、HIVが理由で職場を去らなければならないことがいかに馬鹿げたことかを主張するようにしています。また、日々の臨床では、HIVの患者さんに対して、「HIVは別に恥ずかしいことでも何でもないのは事実だけれど、今の日本では職場には言うべきでない」、と伝えるようにしています。けれども、HIV陽性者に対する職場での差別は依然存在している、というか、まったく変わっていないように思われます。

 最近も、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院でHIVが発覚した患者さん(Bさんとしておきます)が、「会社を辞めることになりました。大阪を離れることにしたので今日はお別れの挨拶もかねて伺いました・・・」、と言って受診されました。

 30代半ばのBさんは、元々は不眠や喘息症状などで私のところにかかっていて、あるときHIV感染が発覚しました(注1)。Bさんは中堅の広告代理店で営業をされています。労働時間が長く、付き合いでの飲酒も多いため、免疫状態が悪化しないかを私は懸念していたのですが、元来頑張り屋のBさんは「仕事は減らさなくても大丈夫」と話していました。

 私が会社のことを尋ねると、「人間関係には恵まれている」と話していました。実際Bさんの会社は、人間関係がギスギスしておらず、同僚とも先輩、後輩とも気兼ねなく話せるような環境のようです。しかし、そのような会社だからこそ、私はBさんに、「HIVのことは職場に話さないように」何度も助言していました。

 ある日のこと、元気がないBさんを見かけた会社の同僚と先輩がBさんを飲みにさそったそうです。元気がない社員がいると飲みに連れていくような慣習がこの会社にはあるそうで、Bさんも「そういうところがうちのいい会社」と話していました。これまでも何度かBさんはこの同僚や先輩と飲みにいって仕事の悩みなどを聞いてもらっていたそうです。

 しかし、この日のこの飲み会がBさんの運命を変えてしまうことになります。Bさんは同僚と先輩に自分がHIVに感染していることを告げてしまったのです。このときBさんは、このことは誰にも言わないでほしいとお願いし、それを聞いた二人は「約束する」と言ったそうです。

 しかし部長からの呼び出しがあったのはその翌日だったそうです。「君はうちの会社で長く働けないからすぐに辞めてほしい。1週間後には出て行ってもらうからそれまでに引き継ぎを済ませるように」、と言われたというのです。

 その数日後、Bさんは私の元にやってきて冒頭で紹介した言葉を話されました。これまでもHIVが原因の不当解雇の話は患者さんたちから何度も聞いていましたが、これはひどすぎます。私はBさんに、「このケースはあなたが訴えれば100%勝ちますよ。戦いませんか」、と言ってみたのですが、Bさんの気持ちはすでに決まっていたようで、次のように話されました。「もういいんです。来週には大阪を離れて実家のある四国に帰ります。子供の頃によく遊んだ砂浜で海を眺めてみたいんです・・。あっ、心配しないでくださいね。当分の間、HIVのことは家族にも言いませんから・・・」

 その後Bさんからの連絡はありません。実家のある町で無事に仕事を見つけ元気にしてくれているといいのですが・・・。

 HIV陽性者に対する就職差別は日本に限ったことではありません。このコラムの第74回(2012年8月)「変わりつつある北タイのエイズ事情」で、私は、「現在の北タイのエイズ関連の最大の特徴は、感染者に対する差別やスティグマが著しく減少した、ということ」と述べました。しかし、それは家族内や病院での差別が減少している、ということであって、職場で堂々とHIV陽性であることをカムアウトしている人はほとんどいません。

 これはバンコクでも同様です。バンコクで仕事をしているHIV陽性者で、それがタイ人であっても日本人であっても、職場でカムアウトしている人を私はひとりも知りません。

 いったいHIV陽性者はどうやって仕事を見つければいいのでしょうか。

 ここであるひとりのタイ人女性を紹介したいと思います。40代のその女性はソムジャイさんと言います(注2)。夫がよそで遊んできて(他の女性と性交渉をもって)HIVに感染し、ソムジャイさんは夫から性交渉で感染しました。その夫はエイズを発症して他界していますが、ソムジャイさんは抗HIV薬がよく利いているようで元気です。

 ソムジャイさんは、HIV以外にも糖尿病や高血圧などを患っており、毎日飲まなければならない薬が大量にあります。しかし働くことはできます。ソムジャイさんはカットフルーツの屋台を開き、それで生計をたてていました。(タイに行ったことのある人なら分かると思いますが、マンゴーやパパイア、あるいはドリアンなどをその場でカットして売っている屋台はタイではどこに行ってもよく目にします)

 ソムジャイさんの住んでいた町はそれほど大きくありません。若くして亡くなった夫の死因がエイズであることが住民に知れ渡るのにそう時間はかかりませんでした。夫がエイズで死んだのならソムジャイさんもHIVに感染しているに違いない・・・、そのような噂(それは真実でありますが)が一気に町中に知れ渡り、やがてソムジャイさんの屋台には誰もフルーツを買いに来なくなりました。それだけではありません。誹謗中傷やあからさまな嫌がらせも増えてきました。そんなとき、それは2011年の夏ですが、あの大洪水がやってきました。自宅が屋根までつかって行き場のなくなったソムジャイさんは、ロッブリー県のエイズホスピス、パバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)にやってきました。

 HIVや糖尿病、高血圧などがあるからといってソムジャイさんは社会から引退するつもりはありません。元来手先の器用なソムジャイさんは、パバナプ寺で工芸品を作り出しました。ブレスレットやネックレスなどのアクセサリー、ぬいぐるみや花のモチーフなど、つくってみると市場で売られているものと同等、あるいはそれ以上のできばえです。ソムジャイさんの工芸品は次第に有名になり、寺を訪れる人たちが買っていくようになりました。

 施設内にいれば、住居や食事を与えてくれるだけでなく薬も無料でもらえます。身体の調子が悪くなるとボランティアが相談に乗ってくれてケアまでしてもらえます。つまり、最低限、あるいはそれ以上の生活ができます。しかしソムジャイさんはそれに満足していません。働けるんだから働きたい・・・。そのような気持ちが強いのです。そして、働くことは単にお金を稼ぐことを目的にしているわけではありません。日々の生活のなかでやりがいを見つけることができ、そして工芸品を買っていく人から「ありがとう」と感謝の言葉をもらうこともできます。

 日本でもタイでも、HIV陽性という理由で会社で働くのが困難であるならば、ソムジャイさんのように自ら何かをつくって売る、というのはひとつの方法かもしれません。もちろんこのようなことは誰にでもできるわけではありませんし、HIV陽性者が差別されない社会をつくることが最重要であることには変わりありません。

 しかし、社会が変わることを待っていても何も解決しません。GINAではこれまで以上にHIV陽性の人がつくった工芸品などの紹介をしていきたいと考えています(注3)


注1:Bさんは、実際の症例数例をヒントにつくりあげた架空の人物です。もしもあなたにこの症例と似た知り合いがいたとしても、それは偶然であることをお断りしておきます。

注2:ソムジャイさんという名前は本名であり、ここで紹介したエピソードもすべて事実です。ソムジャイさんは、実名、写真、経歴などすべてGINAのサイトに公開してもらってかまわないと話されています。

注3:ソムジャイさんらのつくった工芸品は、太融寺町谷口医院の待合室で販売しています。GINAのサイトからでも購入できるように現在ページを作成しているところです。

参考:GINAと共に第65回(2011年11月) 「HIV陽性者に対する就職差別」