GINAと共に

第87回 HIV陽性の医療従事者は仕事を続けられるか

 少し古い話になりますが、福岡県のある病院で働く看護師がHIV感染を理由に職場を解雇された、という事件がありました。今回は、HIV陽性の医療者が勤務を続けることができるか、ということを考えていきたいと思います。まずは、この「福岡看護師解雇事件」を振り返ってみましょう。

 2011年8月、福岡県の総合病院(A病院とします)に勤務していた看護師が目に異常を感じ勤務先のA病院を患者として受診し、その後大学病院(B病院とします)を受診しHIV感染が判明しました。

 報道によりますと、看護師を診察したB病院の担当医は「患者への感染リスクは小さく、上司に報告する必要もない」と伝えました。(2012年1月13日共同通信)

 ところが、B病院の別の医師が看護師の許可をとらずに(担当医の許可をとったのかどうかは報道からは不明)、看護師の勤務先のA病院の医師にHIV感染をメールで通知しました。

 看護師はその後A病院の上司から「患者に感染させるリスクがあるので休んでほしい。90日以上休職すると退職扱いになるがやむを得ない」と告げられ、休職後の2011年11月末に退職させられました。

 2012年1月11日、看護師は「診療情報が患者の同意なく伝えられたのは医師の守秘義務に違反する。休職の強要も働く権利を侵害するものだ」という理由で、A病院、B病院の双方を提訴しました。

 2013年4月19日、福岡県の地裁支部にて原告(看護師)とB病院の間で和解が成立しました。守秘義務違反で提訴していた原告の主張をB病院が認め、「検査結果を紹介元(勤務先の病院)に提供するにあたり、原告の意思確認が不十分だったことを認め、真摯(しんし)に謝罪する」としたうえで、「診療情報を紹介元に提供する際は、患者本人の意思確認を徹底することを約束する」との再発防止策も盛り込んだそうです。(2013年4月19日の毎日新聞)

 一方、看護師が勤務していたA病院は「退職を強要したわけではない。患者への感染リスクはある」などとして、請求棄却を求めているそうです(注4)。

 さて、この事件を聞いてあなたはどう思われるでしょうか。「HIV感染を理由に解雇だなんでひどすぎる! この看護師を応援してA病院を糾弾すべき!」と感じられるでしょうか。

 では、あなた(もしくはあなたの家族)がA病院に入院して担当看護師がこのHIV陽性の看護師だったらどのように思われるでしょうか・・・。例えばあなたの子供が入院したとしましょう。やんちゃで力の強いあなたの子供は採血や点滴を嫌がってあばれます。そんなときにこの看護師が誤って自分の腕に針を刺してしまい、その血液があなたの子供に触れたとしたら・・・。慌ててその血液を手でぬぐったあなたの子供がその手で目をこすり、結果的に看護師の血液があなたの子供の目に入ったとしたら・・・。

 実はこの問題はそれほど簡単でなく、単純に「職場でのHIV差別はやめましょう」などという言葉で解決する類いのものではありません。

 2002年4月に発生した「佐賀保育所B型肝炎ウイルス(HBV)集団発生事件」をご存じでしょうか。この事件は、園児19名、職員6名の合計25名がHBVに集団感染したもので、感染源は元職員であったと推定されています(注1)。

 HBVはHIVと異なり、汗や唾液からもウイルスが検出されることがあります。ですから、保育所で園児と接触する程度でも感染が成立するのです。HBV陽性の職員が保育所で働いていた、ということがそもそもの問題であったことは自明でしょう。この職員から感染させられた園児や親御さんは大変悔しい思いをしているに違いありません。

 HIVはHBVとは異なり、感染力はさほど強くなく、保育所で園児と接触するくらいで感染することは考えにくいと言えます。しかし、医療機関ではどうでしょうか。先に述べた「点滴であばれて・・・」という例は極端かもしれませんが、このようなことがないとは言い切れません。HIV陽性の看護師が手術室勤務で、執刀医に針やメスを手渡す業務についていれば、誤って自分の指を刺して血液が患者さんの体内に入る・・・、ということも絶対にないとは言えません。

 しがたって、A病院が「患者への感染リスクはある」と主張しているのも、あながち間違いとは言えないのです。実際、海外でもHIV陽性の医療者の業務を規制している国はあります。

 例えばオーストラリアでは、2006年8月、HIV陽性であることが発覚したクイーンズランド州の女性歯科医が感染の事実を行政に報告し、患者に直接的な処置をすることのない保健関係の仕事が州から与えられたことが現地のマスコミ(NEWS.COM.AU)に報道されました。報道では、感染の事実を報告したこの歯科医を称賛するような書き方をしていましたが、私が称賛されるべきと思ったのは行政の対応です。まず正直に申告した歯科医を評価し、身分を保障し仕事を与えた対応は見事でした。

 その後のオーストラリアの情報はなかなか入ってこないのですが、現在は規則が変わっているかもしれません。というのは、優れた抗HIV薬の普及で、ウイルス量をほとんどゼロに押さえ込むことが現在では可能ですから、歯科的な処置も可能とみなされているかもしれないからです。実際、現在(2013年9月現在)でも、HIV陽性の医療従事者による外科的処置は、スウェーデン、カナダ、フランス、イギリス(後述)などでは認められています。

 2013年8月15日、イギリスの保健省は、HIV陽性の医師や歯科医師、看護師およびその他の医療者が一定の歯科および外科処置を実施できるようになることを発表しました。ただし、対象者(HIV陽性の医療者)は、公衆衛生当局への登録が義務付けられ、抗HIV薬を内服していること、3ヶ月ごとの定期検査でウイルス量が検出限界以下であることなどの一定の条件を満たしていなければなりません(注2)。

 日本ではどうかというと、1995年に「職場におけるエイズ問題に関するガイドラインについて」という通達が当時の厚生省から発表されました。この通達では、「本ガイドラインは、労働者が通常の勤務において業務上HIVを含む血液等に接触する危険性が高い医療機関等の職場は想定していない」とされています。つまり、HIV陽性の医療者は想定していない、ということです。しかし、2010年4月にこの部分が改正され、「医療機関等の職場については、(中略)、別途配慮が必要で、(中略)「医療機関における院内感染対策マニュアル作成のための手引き(案)」等(中略)を参考にして適切に対応することが望ましい」、とされました(注3)。つまり、厚労省では規則はつくらないから各医療機関で判断しなさい、ということです。

 こんな通達、役人の責任逃れではないか! このように感じるのは私だけではないでしょう。医療者というのは、少なくとも保険診療をおこなっている医療機関で働く医療者は、国民から徴収している保険料や税金から給料をもらっているわけですから「公的な存在」であるはずです。その公的な業務に携わる医療者の勤務の是非を判定するのは厚労省でなければなりません。この問題を各医療機関の判断に委ねる、とするなら、X病院ではHIV陽性の医療者は勤務OKで、Y病院ではNG、などということもおこりえます。そうすると、医療者からみてもそうですが、患者さんの側からみたときに混乱を招くのは必至です。

 はっきり言うと、厚労省(厚生省の時代から)はこの問題から逃げようとしています。先に佐賀県の保育所の事件を例にとりましたが、HBV陽性者は保育所勤務などの教育者だけでなく医療者にもいることは間違いありません。そもそもHBV陽性の日本人は約120万人もいると言われています。最近は有効な薬剤も登場していますが、HBV陽性の医療者全員が、ウイルス量が検出限界以下になっているという保証はありません。 

 C型肝炎ウイルス(HCV)は、HBVほど感染力は強くありませんが、米国では医療技師が44人の患者に感染させたという事件もあります。2013年8月14日、米国ニューハンプシャー州コンコードの連邦地裁で元医療技師の公判が開かれ被告は罪状を認めました。これまで複数の病院で、手術室から麻酔薬を盗んで自ら注射し、その注射器に生理食塩水などを入れ気づかれないよう細工し、その注射器が患者に用いられ、結果として合計44人にHCVが感染したそうです。もっともこの例は極めて特殊なものであり、通常の医療行為でHCVを医療者から患者にうつす可能性は極めて低いといえます。

 ではHIV陽性の医療者はどうすべきなのでしょう。イギリスの保健省が述べているように、これまで世界中でHIV陽性の医療者から患者に感染した例は4例のみです。同省が規定しているように抗HIV薬の内服や定期的な検査を実施すれば医療者から患者に感染させる可能性はほぼゼロになるはずです。

 HIV、HBV、HCV、(今回は述べませんでしたが)梅毒及びHTLV-1の5つの感染症について、医療者が陽性の場合の勤務の可否について、誰からみてもわかりやすいきっちりとしたガイドラインを日本では厚生労働省がつくるべきです。さもなければ、福岡の解雇された看護師とA病院のような問題がこれからも次々と出てくることになるでしょう。


注1:「佐賀保育所B型肝炎ウイルス(HBV)集団発生事件」について、詳しくは佐賀県の下記ホームページを参照ください。
http://kansen.pref.saga.jp/kisya/kisya/hb/houkoku160805.htm

注2:イギリス政府のウェブサイトに「Modernisation of HIV rules to better protect public」というタイトルで詳しく発表されています。下記URLを参照ください。
https://www.gov.uk/government/news/modernisation-of-hiv-rules-to-better-protect-public

注3:改訂後の「職場におけるエイズ問題に関するガイドラインについて」は厚労省の下記のページで閲覧することができます。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/05/s0527-3b.html

https://www.jaish.gr.jp/anzen/hor/hombun/hor1-51/hor1-51-11-1-0.htm

注4(2015年2月付記):その後判決が出ました。2014年8月8日、福岡地裁福岡地裁久留米支部はA病院の就労制限を違法と認め、A病院に対し約115万円の支払いを命じました。(日経新聞2014年8月8日) さらにその続きがあります。2015年1月29日、福岡高裁で控訴審判決が下されました。結果は、賠償命令が出たことには変わりがありませんが、支払額が約61万円に減額されました。この理由は「元看護師は勤務先の病院が検査結果を職員間で共有することについて事後承諾していた」とされています。(日経新聞2015年1月29日)

参考:GINAと共に
第65回(2011年11月)「HIV陽性者に対する就職差別」
第80回(2013年2月)「HIV陽性者に対する就職差別 その2」