GINAと共に
第240回(2026年6月) 「固定」か「流動」かで対立するセクシャルマイノリティ
「プライド(Pride)」は世界中で開催されているセクシャルマイノリティのイベントで、6月は 「プライド月間(Pride Month)」 とされています。米国では以前から6月にイベントが開催され、日本では以前は(なぜか)4月でしたが、現在は米国と同様6月にイベントがおこなわれます。今年(2026年)は昨年同様、参加者が27万人を超えました。2012の初開催時はわずか4,500人でしたから、過去約15年でいかに社会の関心が高まってきたかが分かります。
しかしながら、世界ではその反対方向に進んでいる国や地域も少なくありません。特に米国の衰退度は顕著で、政治的背景に加え、多数の企業が「プライド」のスポンサーから外れたことが報道されました。他方、タイでは日本以上に盛り上がり度が上昇し、最近はバンコクだけでなく他の地域でもイベントが開催されています。この理由のひとつは2025年1月23日に、ついにタイでも同性婚が合法化されたことにあるでしょう。
このように、国や地域によって社会のセクシャルマイノリティの受容度は大きく異なってきていますが、ここ数年、セクシャルマイノリティどうしの"対立"が増えてきているように私は感じています。
といっても、もともとセクシャルマイノリティはみんな"仲良し"というわけでは決してありません。これはL、G、B、Tのそれぞれが対立しているという意味ではありません。当然のことではありますが、ゲイがすべてのゲイと仲が良いはずがなく、それどころか「ゲイが嫌いなゲイ」もいます。さらに興味深いことに、私の経験上、セクシャルマイノリティをサポートする団体が他の同じようなミッションを掲げている団体と仲が悪い、あるいは活動家どうしが敬遠の仲、ということも珍しくありません。
しかし、社会的マイノリティの団体や個人が、いつも当事者どうし一致団結しているかというと、そんなはずがなく、フェミニストの団体でも、レイシズムに抵抗する団体でも、日本の被差別部落の団体でも対立構造は存在します。あるいは、左翼活動家どうしの対立も日常茶飯事であり、あさま山荘事件を引き合いに出すまでもないでしょう。社会的マイノリティの当事者が一致団結しないのはむしろ当然であり、途中から仲違いすることは何ら珍しくないのです。
しかしながら、私の経験上、セクシャルマイノリティには他の社会的マイノリティとは決定的に異なる構造があります。それは「SOGIが固定されているか、変動するかについての共通見解がない」ことです。SOGIとは「sexual orientation and gender identity」のことで、要するに「自分の性自認は男か女か、自分の性の対象は男か女か」ということです。
例えば、被差別部落の団体が擁護するのは基本的には「被差別部落で生まれた人」で、米国のNAACPは「黒人」のために存在します。「被差別部落で生まれた人」は「被差別部落以外で生まれた人」になることは絶対にできません。「黒人」で生まれた人はいくらコスメティック手術を重ねても「白人」になることはできません。
他方、セクシャルマイノリティはこの点が不明瞭で、男性から女性になることも、女性から男性に変わることもできます。そして、ここに対立が生まれます。例を挙げましょう。
私がセクシャルマイノリティの人たちと本格的に関わり始めたのは2004年、タイでした。タイは言わずと知れた世界中からセクシャルマイノリティが集まってくる国で、タイ人のみならず大勢の西洋人、あるいは日本人のセクシャルマイノリティと知り合うようになっていきました。彼(女)らのほとんどは、「自分のジェンダーアイデンティティ(性自認)もセクシャルオリエンテーション(性志向)も決まっていて、自分で選択したわけではない。これが自然だ」と言います。
彼(女)らの多くが指摘するように、この点をストレートの男女は分かっていないことがあります。ストレートの男女(シス男性、シス女性)も自身のSOGIを「選択」したわけではなく、自然に決まっていたわけです。だから、ゲイの人たちは「男性を好きになり、男性とセックスしたくなるのは、ストレートのあんたと同じで"自然"なんだよ」と主張します。これは非常に理に適った理屈で説得力があります。
当時の私はこの考えを全面的に支持していました。自身のジェンダーアイデンティティとセクシャルオリエンテーション、つまりSOGIは「自然に」決められたものであり、結果、ストレート、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーなどが自ずと決定され、それは他人から変更を促されるようなものではないという考えです。
しかしながら、いったんは私も全面的に支持したこの考えが変わっていくのにそう時間はかかりませんでした。自身のSOGIがあいまい、つまり、自分のジェンダーアイデンティティあるいはセクシャルオリエンテーションがよく分かっておらず、「流動」する人も少なくないのです。
過去のコラム「トランスジェンダーは"流動的"と理解すべき」で紹介したノック(仮名)のように、このような人たちはトランスジェンダーに少なくありません。私の日本人の知人に、ストレートの女性→トランス男性→レズビアン→ノンバイナリー→ストレートの女性と変遷した人がいます。この女性は自身がトランス男性だと思い込んだときにホルモン治療を受け、その影響で低くなった声が今も続いています。これは生涯治ることはありません。
こういう事例があるが故に、特に保守派の人たちが性別適合手術に反対します。米国では20以上の州が未成年への性別肯定医療(ホルモン・手術)を禁止または制限し、治療に関わった医師が刑事罰に問われることもあります。英国でも未成年に対する治療が中止されました。このような政策は「性の"自由"を認めない」という意味で「保守的な思考」だと言えます。保守的な思考では、「生物学的な性とジェンダーアイデンティティは一致していなければならない。生物学的男性が『本当の自分は女性だ』などと考えるのは一時的な気の迷いでそれは間違っている」となります。
他方、リベラル派は「ジェンダーアイデンティティは流動することもある」という立場をとります。「生物学的に男性に生まれても本当は女性ということはよくあるし、それがはっきりと分からない段階もある。生物学的性と異なるジェンダーアイデンティティが確立すれば治療を受ける権利がある」と考えるのです。この考えは特に若いノンバイナリーの人から支持されているような印象があります。彼(女)らは「性は流動することもあり、自由に選べるものだ」と考えています。
興味深いことに、ゲイやレズビアンの人たちのいくらかはこの考えに反対します。上述したように、彼(女)らは「自然に」SOGIが決まっていたのです。彼(女)らの主張は「性自認(ジェンダーアイデンティティ)も性志向(セクシャルオリエンテーション)も"選択"するものではなく、各自が決める"自由"なんてものはない。すべて自然に決まっているのだから」というものです。
過去のコラム「『ゲイは無料』のHIV検査は不平等ではないのか」で述べたように、大阪府が毎年実施しているこの無料検査は、ゲイ以外のセクシャルマイノリティの人たちからは非常に不評です(もちろんストレートの男女からも大不評です)。特定のセクシャリティを有していれば無料というこの差別的な検査がおかしいのは自明であり、「では嘘でもゲイと言えば無料になるのか」という苦情は私が院長を務める谷口医院にも多く寄せられています。ノンバイナリーの人たちは「自分がゲイであるかどうか分からない。ゲイと言えば無料になると言われればそう言いたいけれど自分に嘘をつくことになる......」と考えます。
他方、ゲイであることに迷いのないゲイの人たちは何の抵抗もなくこの検査を無料で受けていきます。そういうゲイの人たちからみれば「ゲイかどうかなんて初めから決まっているだろ」となるわけです。
私がこれまで大勢の患者さんやGINA関連で知り合った知人をみてきた経験からいって、「性が流動すること」はたしかにあります。しかしその一方で、「自身のセクシャリティは初めから決まっている」とする考えもよく分かります。この相反する事象を共に受け止めることができなければ、この問題には(特に医療者としては)関われない、と考えています。
しかしながら、世界ではその反対方向に進んでいる国や地域も少なくありません。特に米国の衰退度は顕著で、政治的背景に加え、多数の企業が「プライド」のスポンサーから外れたことが報道されました。他方、タイでは日本以上に盛り上がり度が上昇し、最近はバンコクだけでなく他の地域でもイベントが開催されています。この理由のひとつは2025年1月23日に、ついにタイでも同性婚が合法化されたことにあるでしょう。
このように、国や地域によって社会のセクシャルマイノリティの受容度は大きく異なってきていますが、ここ数年、セクシャルマイノリティどうしの"対立"が増えてきているように私は感じています。
といっても、もともとセクシャルマイノリティはみんな"仲良し"というわけでは決してありません。これはL、G、B、Tのそれぞれが対立しているという意味ではありません。当然のことではありますが、ゲイがすべてのゲイと仲が良いはずがなく、それどころか「ゲイが嫌いなゲイ」もいます。さらに興味深いことに、私の経験上、セクシャルマイノリティをサポートする団体が他の同じようなミッションを掲げている団体と仲が悪い、あるいは活動家どうしが敬遠の仲、ということも珍しくありません。
しかし、社会的マイノリティの団体や個人が、いつも当事者どうし一致団結しているかというと、そんなはずがなく、フェミニストの団体でも、レイシズムに抵抗する団体でも、日本の被差別部落の団体でも対立構造は存在します。あるいは、左翼活動家どうしの対立も日常茶飯事であり、あさま山荘事件を引き合いに出すまでもないでしょう。社会的マイノリティの当事者が一致団結しないのはむしろ当然であり、途中から仲違いすることは何ら珍しくないのです。
しかしながら、私の経験上、セクシャルマイノリティには他の社会的マイノリティとは決定的に異なる構造があります。それは「SOGIが固定されているか、変動するかについての共通見解がない」ことです。SOGIとは「sexual orientation and gender identity」のことで、要するに「自分の性自認は男か女か、自分の性の対象は男か女か」ということです。
例えば、被差別部落の団体が擁護するのは基本的には「被差別部落で生まれた人」で、米国のNAACPは「黒人」のために存在します。「被差別部落で生まれた人」は「被差別部落以外で生まれた人」になることは絶対にできません。「黒人」で生まれた人はいくらコスメティック手術を重ねても「白人」になることはできません。
他方、セクシャルマイノリティはこの点が不明瞭で、男性から女性になることも、女性から男性に変わることもできます。そして、ここに対立が生まれます。例を挙げましょう。
私がセクシャルマイノリティの人たちと本格的に関わり始めたのは2004年、タイでした。タイは言わずと知れた世界中からセクシャルマイノリティが集まってくる国で、タイ人のみならず大勢の西洋人、あるいは日本人のセクシャルマイノリティと知り合うようになっていきました。彼(女)らのほとんどは、「自分のジェンダーアイデンティティ(性自認)もセクシャルオリエンテーション(性志向)も決まっていて、自分で選択したわけではない。これが自然だ」と言います。
彼(女)らの多くが指摘するように、この点をストレートの男女は分かっていないことがあります。ストレートの男女(シス男性、シス女性)も自身のSOGIを「選択」したわけではなく、自然に決まっていたわけです。だから、ゲイの人たちは「男性を好きになり、男性とセックスしたくなるのは、ストレートのあんたと同じで"自然"なんだよ」と主張します。これは非常に理に適った理屈で説得力があります。
当時の私はこの考えを全面的に支持していました。自身のジェンダーアイデンティティとセクシャルオリエンテーション、つまりSOGIは「自然に」決められたものであり、結果、ストレート、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーなどが自ずと決定され、それは他人から変更を促されるようなものではないという考えです。
しかしながら、いったんは私も全面的に支持したこの考えが変わっていくのにそう時間はかかりませんでした。自身のSOGIがあいまい、つまり、自分のジェンダーアイデンティティあるいはセクシャルオリエンテーションがよく分かっておらず、「流動」する人も少なくないのです。
過去のコラム「トランスジェンダーは"流動的"と理解すべき」で紹介したノック(仮名)のように、このような人たちはトランスジェンダーに少なくありません。私の日本人の知人に、ストレートの女性→トランス男性→レズビアン→ノンバイナリー→ストレートの女性と変遷した人がいます。この女性は自身がトランス男性だと思い込んだときにホルモン治療を受け、その影響で低くなった声が今も続いています。これは生涯治ることはありません。
こういう事例があるが故に、特に保守派の人たちが性別適合手術に反対します。米国では20以上の州が未成年への性別肯定医療(ホルモン・手術)を禁止または制限し、治療に関わった医師が刑事罰に問われることもあります。英国でも未成年に対する治療が中止されました。このような政策は「性の"自由"を認めない」という意味で「保守的な思考」だと言えます。保守的な思考では、「生物学的な性とジェンダーアイデンティティは一致していなければならない。生物学的男性が『本当の自分は女性だ』などと考えるのは一時的な気の迷いでそれは間違っている」となります。
他方、リベラル派は「ジェンダーアイデンティティは流動することもある」という立場をとります。「生物学的に男性に生まれても本当は女性ということはよくあるし、それがはっきりと分からない段階もある。生物学的性と異なるジェンダーアイデンティティが確立すれば治療を受ける権利がある」と考えるのです。この考えは特に若いノンバイナリーの人から支持されているような印象があります。彼(女)らは「性は流動することもあり、自由に選べるものだ」と考えています。
興味深いことに、ゲイやレズビアンの人たちのいくらかはこの考えに反対します。上述したように、彼(女)らは「自然に」SOGIが決まっていたのです。彼(女)らの主張は「性自認(ジェンダーアイデンティティ)も性志向(セクシャルオリエンテーション)も"選択"するものではなく、各自が決める"自由"なんてものはない。すべて自然に決まっているのだから」というものです。
過去のコラム「『ゲイは無料』のHIV検査は不平等ではないのか」で述べたように、大阪府が毎年実施しているこの無料検査は、ゲイ以外のセクシャルマイノリティの人たちからは非常に不評です(もちろんストレートの男女からも大不評です)。特定のセクシャリティを有していれば無料というこの差別的な検査がおかしいのは自明であり、「では嘘でもゲイと言えば無料になるのか」という苦情は私が院長を務める谷口医院にも多く寄せられています。ノンバイナリーの人たちは「自分がゲイであるかどうか分からない。ゲイと言えば無料になると言われればそう言いたいけれど自分に嘘をつくことになる......」と考えます。
他方、ゲイであることに迷いのないゲイの人たちは何の抵抗もなくこの検査を無料で受けていきます。そういうゲイの人たちからみれば「ゲイかどうかなんて初めから決まっているだろ」となるわけです。
私がこれまで大勢の患者さんやGINA関連で知り合った知人をみてきた経験からいって、「性が流動すること」はたしかにあります。しかしその一方で、「自身のセクシャリティは初めから決まっている」とする考えもよく分かります。この相反する事象を共に受け止めることができなければ、この問題には(特に医療者としては)関われない、と考えています。











