GINAと共に

第234回(2025年12月) 児童ポルノと芸術に明確な線引きはできない

 過去のコラム「買春がやめられない日本と韓国の男たち」で、元プロサッカー選手の影山雅永氏が、航空機内で児童ポルノ画像を閲覧しフランスで有罪判決を言い渡された事件を取り上げました。そのコラムで私は「影山氏は画像について『芸術作品である』と詭弁を呈し恥の上塗りをしました」という言葉を使い、氏を非難しました。

 しかし、「芸術作品である」というこの言い訳、詭弁だと片づけてしまっていいのかどうか、その後ずっと気になっていました。ダイヤモンドオンラインによると、影山氏は「AIによって生成された画像を見ていた」と主張し、仏国の裁判官から「たとえAI生成物であっても、児童ポルノに該当する」と一蹴されました。

 裁判官の発言が「絶対的に」正しいわけではありません。法律というのは時代や場所によって変わってきます。日本では江戸時代まで武家や公家では早ければ12歳で婚姻していました。現在は女性も18歳になるまで結婚できませんが、そのように民法が改正され施行されたのはつい最近、2022年4月1日です。また、18歳未満の高校生との性行為はおそらくほとんどの自治体の条例で違反とされているでしょうが、刑法は現在でも性的同意年齢は13歳とされています。要するに、何歳以下が性的な「児童」とされるかは地域や時代によって異なってくるわけです。

 影山氏が受けた有罪判決に対して反対する意見はほとんど聞かれませんから、現在の世界的な共通価値判断は「AIが生成した児童ポルノの機内での閲覧は違法」と考えて差し支えないでしょう。しかし「児童」とは何歳以下を指すのでしょう。その画像は公開されておらず、その"児童"が何歳だったのかが分かりませんが、その裁判官は「AIが生成したその画像は〇歳」と言い当てることができるのでしょうか。それに、実在する少女と対面したとして常に年齢を正確に言い当てられるはずがないでしょう。ということは、この判決には裁判官の恣意性が入り込んでいるわけです。

 もしも私が影山氏なら(私には児童への性的志向はありませんが)、「裁判官、何を言っているんですか。AIがつくったこの画像、18歳なんですよ。18歳の裸の合成写真を見ることが違法なんですか?」とダメ元で主張してみるかもしれません。もしも、影山氏が画像生成のプロンプトに「世界一幼くみえる18歳のターナー症候群の女性の裸を生成してください」とオーダーしていればどうなっていたでしょう。一般にターナー症候群の女性は発育が遅れ、身長が低く、顔立ちが幼く見えます。「世界一幼く見える」と条件をつければ児童に見える女性像が完成するに違いありません。この場合も件のフランスの裁判官は有罪判決を言い渡すのでしょうか。

 次に芸術とわいせつ物の違いについて考えてみましょう。芸術とわいせつ物の境界があいまいな国といえばフランスを置いて他にはありません(と、私は考えています)。「サディズム」という言葉からも有名なマルキ・ド・サドには『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』という未完の小説があります。この小説、私は以前読み初めて途中でやめましたが、性的暴力や性的倒錯のシーンが随所に出てきます。おそらくこれを芸術ではなく単なるポルノとみなす人もいるでしょう。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』はどうでしょう。この作品も万人が芸術とはみなさないのではないでしょうか。けれども私はマルキ・ド・サドやジョルジュ・バタイユを非難しているわけではありません。特に、ジョルジュ・バタイユは私が社会学を学んでいた頃に没頭し、バタイユの思想から人間の本質を学べたと今も思っています。

 では、ピカソから「二十世紀最後の巨匠」と称えられたバルテュスはどのように考えればいいでしょうか。妻がいる中、東京で知り合った日本人の画家で自身より34歳年下の出田節子と恋に落ち、やがて妻を捨てて入籍したことでもよく知られ、日本にもファンが多いバルテュスの作品の数々、これを芸術と呼んでいいのか否か、私にはよく分かりません。「あんたには芸術を見る目がない」と言われればそれまでですが、率直に言って、バルテュスの作品とポルノの線引きが私には付けられないのです。

 もしもバルテュスの作品を見たことがないという人がいれば、一度ネット検索で『ギター』を見てみてください。これを芸術作品だ、という人がいるのなら、この絵を自宅のリビングに掲げることができるでしょうか。芸術作品だから部屋に掲げなければならないわけではありませんが、この絵を堂々と「お気に入りの絵画」と言える人はどれだけいるでしょう。パンツを脱いで、いえ、おそらく脱がされて、陰部を露わにした(させられた)少女が中年女性にまるでギターを持ちあげるように抱えられ、弄ばれているように私には見えます。少女の眼を恍惚を覚えているとみる人もいるのかもしれませんが、私には芸術性が感じられません。中年女性の乳頭が上を向いていることや、少女の両ひざが出血しているように見えること、さらに床に投げ捨てられたかのように置かれているギターにも芸術的な意味があるのかもしれませんが、私には皆目理解できません。

 もしも影山雅永氏がフランス行きの機内で、このバルテュスの『ギター』を"鑑賞"していたとすれば、フランスの裁判官は無罪にするのでしょうか。

 では、もしも私が裁判官だとして、AIが生成した児童ポルノを見ていた影山氏を有罪にするか否かと聞かれれば「有罪」とします。なぜなら、機内という公共の場所で、他者も目にすることが予想される場において、他者が不快感を覚えるものを晒すことに問題があると思うからです。他方、例えばホテルの自室で同じ画像をみていたときにはまったく問題がないと考えます。誰にも迷惑をかけないからです。

 では私が裁判官だとして、もしも影山氏が機内で『ギター』を"鑑賞"していればどうするか。有罪にはできるはずがありません。なぜなら芸術を否定することになるからです。しかし、その場にいたフライトアテンダントはどのように感じるでしょうか。先述したダイヤモンドオンラインの記事によると、影山氏は「(自身が児童ポルノを見ているところを)複数の客室乗務員に目撃されて」逮捕されました。フライトアテンダントらは、そのような行為が公共の秩序を乱すと判断したのでしょう。では『ギター』ならどうか。私の推測としては不快感を覚えるフライトアテンダントもいると思います。私の感覚がずれている可能性もありますが、この"芸術"は万人から評価されるわけではありません。しかしフライトアテンダントも、たとえ不快感を覚えたとしても、さすがに自国の偉大な芸術家を否定することはできないでしょう。

 ということは、結局児童ポルノか否かは「それが芸術と呼べるか否か」という問題に収斂します。もしも私が児童ポルノに興味があったとすれば、本物のポルノは言うまでもなく、AIが生成したポルノを機内で見ることはしませんし、『ギター』を"鑑賞"するようなこともしません。しかし、ホテルの自室でなら『ギター』もAIの生成した児童ポルノも楽しむでしょう。では、本物の児童ポルノは? 誰にも見つからないのであればこっそりと"楽しむ"かもしれません。ただし、私がまだこの世の中に絶望しておらず、この社会で生きていたいと考えるなら、撮影など直接児童に関わるようなことはしません。しかし、そのような撮影を「空想」するようなことはあるかもしれません。

 2021年のコラム「『差別』についての初歩的な勘違い」でも述べたように、人はどのような想像をしようが、それがいかに反道徳的、反倫理的なことであったとしても、頭の中にとどめておく限りは罪にはなりません。日頃きれいごとばかり述べているような人たちでも、実際には他人に言えないような空想や妄想をしたことがあるはずです。人間とはそういう生き物です。しかし、この社会で生きていくのなら絶対に守らなければならない「ルール」あるいは「掟」があります。それは「児童を傷つける(可能性のある)ことには絶対に手を出してはいけない。そして児童を傷つけていると思わせるようなこともしてはいけない」というものです。影山氏がとった行動は「児童を傷つけていると思わせるようなこと」だったのです。

 バルテュスの『ギター』を芸術とすることには抵抗があります。世の中の秩序を維持するために、この作品は少なくとも「公共の場での閲覧はしてはいけない」という暗黙のルールを構築すべきではないでしょうか。しかし、仮にそれが実現化すると、ではマルキ・ド・サドの文学はどうなんだ?といった問題が浮上します。結局のところ、芸術と(児童)ポルノの線引きはできず、あいまいな部分はどうしても残ります。影山雅永氏はそのあいまいな部分で有罪とされてしまったと考えるべきでしょう。