GINAと共に

第158回(2019年8月) 麻薬依存を矯正する2つのタイの施設

 私が初めてタイのエイズ問題に関わった2002年と比較すると、2019年現在の状況には隔世の感があります。治療薬がほとんど誰にでも使えるようになったことに加え、「死なない病気」「空気感染しない病気」ということが世間に認知されたことが大きく、医療者の間でも正確な知識が浸透し、「病院での門前払い」はほぼ皆無となりました。

 本格的にボランティアをおこなった2004年以降も私はほぼ毎年タイに渡航し現地の状況を調査しています。2010年頃から「HIV陽性という理由で医療機関に拒否された」という話はほぼなくなっています。誰にでもカムアウトできる地域というのは今もそう多くはなく、感染を隠して生きている人が多いのは事実ですが、病院で拒否されないという点においてはタイの方が日本よりも遥かに進んでいます。というより、日本の現状がひどすぎるわけですが......。

 ひとつ、最近あった例を紹介しておきましょう。私が院長を務める太融寺町谷口医院で診ているHIV陽性の患者さんのことです。歯科医院受診が必要になったために紹介しようといくつかの歯科医院に電話をしてみました。ほとんどに断られ(これ自体がもちろん問題ですが)、ある歯科医院では「HIVは診ません! うちは妊娠している歯科衛生士がいるんです!」と強い剣幕でこちらが怒られてしまいました。歯科衛生士が妊娠しているから患者を診られない??、いったいこの歯科医院は何を考えているのでしょうか。

 話を戻します。GINAは、一時は支援先をタイから他国にうつすことも検討しましたが、現在の考えとしては「やはりタイを中心に」です。たしかに治療がおこなわれるようになり母子感染がほぼ皆無となり、タイのエイズ関連のNGOなどはどんどん減っています。しかし、タイで新たに感染する者は今も6千人以上いますし、今も50万人近くのHIV陽性者が生活しており、毎年2万人近くが死亡しています(参考:Global information and education on HIV and AIDS)。そして、医療機関での差別はほぼなくなったとはいえ、依然困窮している感染者が少なくないのは事実です。

 その「困窮している感染者」のなかで最も深刻な問題は「薬物依存症」、なかでも「麻薬依存症」です。

 このサイトで何度も指摘しているように、タイではタクシン政権の頃は強固な政策で「薬物大国」の汚名を返上しましたが、政権交代以降は再び薬物が簡単に入手できる国となっています。現在はいわゆる軍事政権ですから薬物には厳しいイメージをもちたくなりますが実際はそうではありません。大麻はもちろん、覚醒剤(アンフェタミン/メタンフェタミン)も入手は簡単です。なにしろ、2016年6月には法務大臣が「覚醒剤の依存性はアルコールやタバコよりも低いから合法にすべき」と発言するくらいですから敷居がものすごく低いのです(参照:GINAと共に第126回(2016年12月)「これからの「大麻」の話をしよう~その2~」の注3)。ただし、タイ在住の薬物に詳しい日本人によると「それでも覚醒剤は日本の方が簡単に手に入る」そうです。

 (大麻はともかく)覚醒剤については「絶対に初めから手を出してはいけない」というのが私の考えですが、実際には覚醒剤とうまく"付き合っている"人もいます。一方、私は「麻薬とうまく付き合っている人」をほとんど見たことがありません(医療用麻薬を除く)。これは昔から指摘されていることですが、麻薬こそが最も依存症から抜け出しにくい違法薬物です。

 では、いったん麻薬依存症になると死を待つしかないのでしょうか。今回はタイにある2つの麻薬矯正施設を紹介します。

 ひとつはメサドン療法を実施しているクリニックです。メサドン療法とは、違法の麻薬を止めてもらう代わりに、メサドンと呼ばれる合法の麻薬を使用してもらい、そして、メサドンの使用量を少しずつ減らしていくという方法です。タイ全国に、メサドン療法専門のクリニックがあります。では、メサドン療法とはそんなに効果が高いものなのでしょうか。有効と主張する意見は多いものの、長期的に成功率を検討した研究は見当たりません。ただし、HIV陽性者の麻薬常用者がメサドン療法を実施すると抗HIV薬をきちんと内服しやすいという研究はあります。

 メサドン療法で麻薬を断ち切れる成功率はどれくらいなのでしょう。データがないなら麻薬使用者をよく知っている人に尋ねるのがいい方法です。このサイトでも紹介している「バーン・サイターン」の代表者である早川文野さんに尋ねてみました。早川氏によると、メサドン療法の成功率はそれほど高くないようです。過去約20年にわたり大勢の薬物依存症の者と関わってきた早川氏の言葉ですから、やはりメサドン療法でも麻薬依存は簡単には治らないと考えるべきでしょう。メサドン療法を実施しているクリニックの医師にも話を聞いてみたいところですが、残念ながらこれはまだ実現化していません。

 今回紹介したいもうひとつの施設は「ワット・タムクラボーク(Wat Thamkrabok)」(「ク」は日本語にない音で実際には「グ」に近い。ここからは「タムクラボ-ク寺」とします)という寺です。メサドン療法を実施しているクリニックはタイ全国に多数ありますが、麻薬を断ち切る"治療"をしている寺はここだけです。

 タムクラボーク寺はタイ中部のサラブリ県にありバンコクから車で2時間程度です。元々はタイ全国の僧侶の修行の場であったそうですが、1970年代から麻薬依存症患者を受け入れるようになり、現在はタイ全国、さらに一部は海外から麻薬を断ちたい人が集まってきています。依存症患者を受け入れた僧侶(Parnchand氏)の功績が評価され、フィリピンのマグサイサイ賞を1975年に受賞しています。マグサイサイ賞をwikipediaで調べてみると日本語版には記載がありませんでしたが、英語版にはPhra Parnchandと記載されています(「Phra」は僧侶という意味です)。

 医療者でない僧侶がどのような"治療"をしているのかというと、まず麻薬を断ち切りたいという人を入所させ集団生活を送ってもらいます。宿舎は一部屋を複数人で使用しトイレは共用、エアコンもない過酷な環境です。毎日規定の時間になると(その時間は毎日替わるそうです)"治療"がおこなわれます。その治療とは薬草からつくった「薬液」(注)を飲み、さらに大量の水を飲んでそれを一気に吐くという方法です。これで「不要な物」を体外に排出し、その結果、麻薬が断ち切れるという考えだそうです。見学した人の話によれば、"患者"に一生懸命吐いてもらおうと、ボランティアなど周りの人間が笛や太鼓を駆使し、大量に嘔吐すれば歓声が沸き上がるそうです。勢いよく吐いているその姿はマーライオンを彷彿させるとか。

 私が訪問したときにはちょうどその"治療"が終わった直後で、残念ながらその光景を見学することはできませんでした。しかし、制服のような赤い衣類に身をまとった"患者"たちが寺の中を集団でジョギングしていました。複数の巨大な仏像の近くを走り抜けていく彼らの顔はキラキラと輝いており、写真を撮らせてもらおうと思っていた私の気持ちがなぜか消えていきました。

 さて、果たしてこの"治療"は有効なのでしょうか。データがないので、いろんな人の話を聞くしかありません。残念ながら厳しい"治療"に耐え切れず途中で断念する人もいるそうです。しかし一方で麻薬と断ち切ることに成功した人も少なくないと聞きます。もちろん麻薬依存はそんなに簡単に治りませんから、いったん断ち切れても再び手を出してしまう人もいます。

 それから、理由はよく分からなかったのですが、タムクラボ-ク寺のルールは「入所は1回限り」だそうです。生涯最後の"治療"に望みをかけて入所しなければならないというわけです。また、対象となるのは麻薬だけではなく、覚醒剤でもアルコールでも、あるいは過食症でも受け入れてくれるようです。入所の日数の規定は、一応は15日ですが融通が利くようです。日本人も受け入れてくれるそうなので、何らかの依存症で悩んでいる人は検討してみてはどうでしょうか。

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注:この「薬液」をつくっている僧侶に話しかけ、私も少しわけてもらって飲んでみました。まず勧められたのが麻薬依存症の"治療"に使うものではなく健康ドリンクとして飲めるもので、こちらは青汁のようにきれいな色をしており、美味しいとはいえないもののなんとなく身体によさそうな感じでした。一方、"治療"に用いるものは見た目が泥水のようで、いかにも不味そうです。しかし、少量なら健康にいいとのこと。恐る恐る飲んでみると、酸味が効いていて飲めない味ではありません。私はこの酸味は発酵によるものかと感じたのですが、僧侶に聞いてみるとマナオ(タイのライム)によるとのこと。こんなもので吐けるのかなぁ......とそのときは感じていたのですが、悲劇が訪れたのはその半時間後。バンコクに戻る車のなかで嘔気を催した私は、ガソリンスタンドにとめてもらい身体をひきずるようにトイレに直行。およそ20年ぶりに嘔吐しました。しかし、その後は少し苦しかったものの、しばらくすると身体が爽快に。プラセボ効果かもしれませんが、私の体内から"毒素"が抜けてデトックスできたような気分になりました。