GINAと共に

第112回(2015年10月) HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~前編

 HIVに感染しても薬をすぐに飲む必要はない・・。

 これは最近までHIVに感染して間もない人に伝えていた言葉です。今ではこの言葉はもはや「過去の考え」となりました。

 2015年9月30日、WHO(世界保健機関)は、HIV感染の治療と予防に関する新しいガイドラインの一部を発表しました(注1)。そこには、「小児から成人まですべての人のHIVの治療を免疫状態にかかわらず可及的速やかに開始する」と記載されています。

 つまり、HIVに感染すると、年齢がいくつであっても、また血液検査の結果に関係なく全員が薬を飲みなさい、ということです。これは画期的なことです。

 HIVの薬をいつ開始するか。これまではCD4(正確には「CD4陽性リンパ球」)の数が指標にされていました。HIV感染が持続し、免疫状態が悪化するとCD4が下がってきます。(正確にはCD4が下がるから免疫状態が悪化するのですが) ですからCD4の数をみて、「そろそろ免疫力が低下してきた。薬をはじめなければ・・」と従来は考えられてきたのです。

 2000年代半ば頃まではその基準が200/uLでした。つまり血液検査でCD4が200/uLになって初めて「では薬をはじめましょうか」となっていたわけです。2000年代半ば頃から、その基準を350/uL程度にするようになってきました。より早い段階で薬を開始することになったのです。さらにその後は500/uL程度であっても開始しようということになり、数に関わらず本人が希望する場合や、体調が悪いのであれば500/uL以上であっても薬を開始してもかまわない、という流れになってきていました。

 今回のWHOの改定は、CD4の数にも他の検査値にも関係なく、年齢がいくつであっても、まったく無症状で体調不良がなくても、全員が薬を直ちに開始しなさい、ということですからHIV治療の歴史に残る大きな転換点になります。

 ところで、普通は何らかの病気に罹患すれば早く薬を飲むのが基本です。「早期治療」というやつです。そういう観点で考えると、ずっと昔から、HIV感染が判った時点で薬を開始すべきではなかったの?という疑問がでてきます。

 少し前まで、HIVの患者さんの多くは「できることなら治療開始を遅らせたい」という人がほとんどでした。「早期治療」のまったく反対のことを希望されるのです。これはなぜなのでしょう。

 その理由は5つほどあります。ひとつめが「副作用」です。HIVの薬は、もちろんその種類にもよりますが、古くに登場した薬であれば、吐き気、下痢、だるさなどが比較的高頻度に起こっていました。自覚症状がなくても肝機能、腎機能が悪化することもありますし、貧血が生じることもあります。そんなに副作用のリスクがあるなら、できるなら飲みたくない、あるいは飲むにしても少しでも遅らせたいと感じるのは理解できることです。

 2つめの理由として「面倒くさい」というのがあります。今でこそHIVの薬は1日1回でよくなりましたが、以前は数種類もの薬を、たとえば「これは食後に飲んで、これは食事に関係なく12時間ごとに飲まなければならない・・・」といった感じで毎日薬をきちんと飲むのが大変なのです。ずっと家にいる高齢者であればできないことはないでしょうが、HIV陽性の人の多くは仕事を持っていますし、忙しい生活のなかで薬の管理は困難なのです。

 3つめの理由は「他人にみつかるリスク」です。先に述べたように12時間毎とか食後とか言われると、職場に持って行かなければならないこともあるわけです。そして、HIVの薬というのはたいてい普通の薬よりも大きくてなぜかけばけばしい色をしています。珍しい色と形の薬がみつかれば、当然「その薬何?」と同僚から問われるリスクがあります。

 4つめの理由は「飲み合わせ」です。HIVの薬は飲み合わせが非常にむつかしく、比較的よく使われる鎮痛剤、抗菌薬、睡眠薬、あるいは低容量ピルなどとの相性が悪いのです。このため近くのクリニックや診療所を受診したときに処方される薬、あるいは薬局の薬を気軽に飲めなくなるという問題があります(注2)。もちろん、HIV陽性であり薬を飲んでいることをきちんと医師に伝えれば問題ないわけですが、なかには思い切ってそれを伝えたとたんに医師の態度が豹変し「来ないでくれ」と言われたという人もいます(注3)。

 ですから、いまだにHIV陽性であることを医療機関を受診する際に隠している人もいるのが実情です。こういう人たちは、飲み合わせの関係からせっかく飲んでいるHIVの薬が効かなくなるというリスクを抱えているのです。

 HIVの薬を少しでも遅らせたいと感じる5つめの理由は「費用」です。HIVの薬はものすごく高く、生涯必要となる薬代は若いときに発覚したとすれば1億円を超えます。もちろんこのような費用を全額負担することはできませんから保険や他の公的扶助を用いることになります。実際には、日本に済んでいる限りお金がないからHIVの薬を飲めないということは(日本国籍があれば)ありません。日本はHIVの治療を受けるということにおいて恵まれた国といっていいでしょう。

 さて、WHOの今回のガイドラインの影響で、現在まだ薬を開始していないHIV陽性の人も投薬開始を検討することになります。すでに私が診ているHIV陽性の患者さんも今月(2015年10月)から投薬開始が決まった人が何人かいます。(私が院長をつとめる太融寺町谷口医院ではHIVの薬の処方ができないために、実際の処方はエイズ拠点病院でおこなってもらっています)

 では、これからHIVの薬を開始するとして、先にあげた5つの問題にはどのように対処すればいいのでしょうか。順にみていきましょう。

 まず1つめの「副作用」については、「副作用ゼロではないが以前に比べると大幅に減っている」というのが実情です。起こりうる副作用は一時的なものが多いですし、定期的に血液検査をおこなっていれば特に心配する必要はありません。

 HIVの薬には多数のものがあり、どのようなものをどのように飲み合わせるかはケースバイケースです。しかし、最近では1日1回2種類の薬を飲むだけというパターンが増えてきており、職場に持って行く必要もなくなっています。したがって先に挙げた「面倒くさい」と「他人にみつかるリスク」はかなり低くなっています。

 4つめの「飲み合わせ」についても、最近登場してよく使われるようになった薬は従来のものに比べて飲み合わせの制限が随分と少なくなっています。また、HIV陽性を診ない、という医療機関も随分減ってきています。私が大阪市北区にクリニックをオープンさせた2007年当時は、「この前受診した医療機関でHIV陽性の人は診られませんと言われた」、と私に訴えてくるHIV陽性の患者さんがけっこういました。しかし最近では、診てくれないところが皆無とは言いませんが、HIV陽性の人も他の患者さんと同じように診察する医療機関が"当たり前"になってきました。もはやHIV陽性を隠して医療機関を受診する必要が(皆無ではありませんが)なくなったのです。

 最後の「費用」の問題は、医療費自体は安くなっていませんが、先にも述べたように日本に住んでいる限り、薬代が高価すぎて治療を続けられない、ということはありません。

 HIVの薬は飲み忘れの回数が増えると効かなくなってくるというリスクがあります。そのため、決して「気軽に始めましょうよ」と言って処方するような薬ではありません。規則正しい生活をおこない、副作用に気をつけながら一生薬を飲んでいくという覚悟が必要です。しかし、副作用は大きく減り、飲み合わせの問題も減少し、HIV陽性であることを隠して医療機関を受診しなければならない時代は過去のものとなりました。

 2015年9月30日のWHOのガイドライン改訂の発表はHIVの歴史の大きな転換点になるはずです。次回は日本ではまだ馴染みのないPEPとPrEPの話をします。


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注1:この発表については下記のURLを参照ください。

http://www.who.int/hiv/en/

注2:ときどき受ける質問に「HIV陽性の人はHIV以外のことでエイズ拠点病院に相談できないの?」というものがあります。答えは「拠点病院ですべてに対応できない」です。エイズ拠点病院の仕事は「HIVのコントロール」が中心であり、単なる風邪や腹痛、不眠といったよくある疾患(コモンディジーズ)には対応できません。そもそも熱があるから仕事帰りに病院を受診しようと思っても大きな病院(拠点病院)は受診できません。したがってよくある疾患を診てくれるプライマリ・ケア(総合診療)のクリニックをかかりつけ医としてもつ必要があります。また、プライマリ・ケアのクリニック以外にも歯科、眼科など特殊な検査や治療が必要となる領域のクリニック受診も必要になります。

注3:HIV陽性者の診察拒否については下記コラムが参考になると思います。

GINAと共に第95回(2014年5月)「HIVを拒否する歯科医院と滅菌を怠る歯科医院」