タイのHIV/AIDS事情(総論)

谷口 恭    2006年1月(追記:2006年8月)
目  次

1 現在どれだけの人がHIV/AIDSに苦しんでいるか
2 タイにおけるHIV/AIDSの歴史
3 タイにおけるHIV/AIDSの感染源
3-1 タトゥー
3-2 薬物の静脈注射
3-3 性感染(同性愛)
3-4 性感染(異性愛)
3-5 家庭内感染・母子感染
4 2006年のUNAIDSの報告(追加:2006年8月7日)


1 どれだけの人がHIV/AIDSに苦しんでいるか


 タイの厚生省の発表では、これまでにおよそ110万人の人がHIVに感染し、50万人以上の人がAIDSで亡くなったとされています。そして現在もHIVに感染し生きておられる方がおよそ60万人もおられます。タイの人口はおよそ6000万人ですから、人口のおよそ1%がHIV感染者ということになります。

 さらに、タイで実際にHIV/AIDSに携わっている人のなかには、この数字は疑わしいと答える人が少なくありません。なかには、実際はこの3~4倍はいるのではないかと言う人もいます。例えば、タイ北部の田舎の方に行くと、小さな村に何十人もの感染者の方がおられ、たしかにその実態をみると、とても人口の1%程度とは思えません。

 数字からも、潜在的な感染者の多さを伺うことができます。例えば、2004年に新たに見つかったAIDS発症者が49500人なのに対し、AIDSを発症していないがHIVに感染していることが分かった人は19500人です。

 HIVに関心が高い国では、この数字は逆になります。つまり早期発見の重要性を認識している国では、リスクの高い人が積極的に検査をおこなうことにより、まだAIDSを発症する前に感染が分かるのです。日本でも、大阪などの検査を積極的に進めている地域ではAIDS発症者の数は、AIDSを発症していないHIV陽性者の数よりも大きく下回っていますが、それほど早期発見の重要性を認識していない地域ではAIDS発症者の報告数の方が多くなっています。

 タイでは、AIDS発症者の報告の方が圧倒的に多く、また、まだAIDSを発症していないHIV感染者も、そのほとんどはリンパ節が腫れている、熱が下がらない、発疹が出ている、など、なんらかの症状のある人が大半なのです。

 タイでは、一部のマッサージパーラーやゴーゴーバーでは従業員(セックスワーカー)に対し、HIVの検査が義務付けられていますが、その他大半のセックスワーカーや一般市民の間には、積極的に検査を受ける習慣がまだないのです。

 ということは、発見されていないだけで、実際はHIVに感染している人がかなりの数に昇ることが予想されるのです。


2 タイにおけるHIV/AIDSの歴史


 タイで一人目の患者さんが確認されたのは1984年の9月で、この患者さんはゲイだったと言われています。その後次々と感染者が報告され、その大半はゲイでした。ちょうど少し前の日本と同様に、当初はゲイの方々の間で一気に広まったのです。

 1987年から88年ごろには、ゲイの方々に加えて、ドラッグユーザーの間で感染が一気に広がりました。これはもちろん、注射針の使いまわしによるものです。

 1989年から90年ごろに、セックスワーカーとその顧客の間で感染が広がるようになりました。同性愛者や薬物常用者に比べると、売春行為をおこなう人は圧倒的に多いと言えます。そのためこの頃から感染者が加速度的に増加しだします。

 セックスワーカーに感染すると、母子感染も起こりえます。実際、1990年から91年ごろには、母子感染が急激に増え社会問題となりました。

 ここで、タイ政府が思い切った方策を打ち立てます。ときの厚生大臣が「100%コンドーム・キャンペーン」を開始したのです。これは、マッサージパーラー(日本で言うソープランドのこと)や売春宿に対して、コンドームを無料配布したのです。また、一部のレストランやバーなどにも無料に配布し、誰でも無料で持ち帰ることができるようにしたのです。

 この「100%コンドーム・キャンペーン」が功を奏し、それまで増加の一途をたどっていた感染者は頭打ちになりました。実際、1993年には軍人の4%がHIV陽性だったのが、2003年には0.5%にまで下がったのです。「100%コンドーム・キャンペーン」は、AIDS撲滅に大きな貢献をしたとされ、世界的にも評価されています。

 ところが、です。実際にフィールドワークをしてみれば、今後も減少していくとは到底思えないのです。最近のデータでは、少なくとも感染者は減ってはいませんし、2005年秋には、感染者の増加を危惧した内容の発表を厚生省がおこないました。

 最近では、都心部の若い世代、それも貧困層ではなく中流階級の間での感染が問題になっていますし、タイで感染する外国人も急増しています(詳しくは「なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか」参照)。


3 タイにおけるHIV/AIDSの感染源

まずは、上の表をご覧ください。これは1984年から2004年までのタイにおける感染者の感染源を示しています。圧倒的に多いのが、sexual contact、要するに性感染です。次に多いのがIDU、すなわち薬物の静脈注射、つまり針の使いまわしです。そして、母子感染、輸血と続きます。

 実際に何人かの患者さんと話をすれば分かりますが、この統計は、特に性感染と薬物の静脈注射に関しては、ほとんどあてにならないと言った方がいいように思われます。

 なぜなら、患者さんの多くは、それが男性でも女性でも、「自分はどうして感染したか分からない」と答えるからです。つまり、性感染に思い当たることはあるけども、覚醒剤や麻薬の静脈注射の経験もあるし、さらにタトゥーで感染したかもしれない、という人が非常に多いのです。

 では、それぞれの感染源について詳しくみていきましょう。


3-1 タトゥー


 タイでは正確な統計はありませんが、タトゥーを入れることによって感染する症例は決して少なくないと多くの医療従事者は言います。患者さんも、「確信はできないがタトゥーで感染したかもしれない」と答える人は少なくありません。

 では、なぜタトゥーを入れることによってHIVに感染するのでしょうか。

 それはタトゥーショップを見れば一目瞭然です。タイの繁華街では、フルーツ屋や焼鳥屋の屋台と同じように、屋台のようなタトゥーショップが乱立しています。この屋台のショップで、タトゥーを入れることに同意すると、近くの小屋のようなところで施術をおこないます。この小屋が決して(医学的な意味で)清潔と呼べるようなところではなく、感染予防が適切になされているとは思われないのです。

 かつて、日本ではタトゥー(刺青)を入れることによってC型肝炎ウイルスに感染した人が大勢います。それと同じことが、今タイで起こっているのです。感染する病原体がC型肝炎ウイルスだけでなくHIVが加わったというわけです。

 ただ、ここで忘れてはならないのは、タイではタトゥーとは神聖で宗教的な意味があり、タトゥー自体を非難することはできない、ということです。タイでは、政治家や役人、あるいは軍人のなかにもタトゥーを入れる人は少なくありません。タイの寺のなかには彫り師として有名な僧侶もおられます。パトゥムタニ県在住の有名な「カリスマ彫り師(僧侶)」は、アンジェリーナ・ジョリーの背中の「虎」を彫ったことで有名です。

街に乱立するタトゥーショップ。


パバナプ寺の患者さんのほとんどがタトゥーを入れています。


3-2 薬物の静脈注射


 日本で大量に流通している覚醒剤はメタンフェタミンで、輸入先は北朝鮮ではないかと言われています。北朝鮮製かどうかは別にして、日本で流通しているものは品質がよく静脈注射ではなく「アブリ」で使用するユーザーが多いようです。「アブリ」とは、メタンフェタミンをアルミ箔の上で気化させ、それを鼻から吸入するという方法です。(最初は「アブリ」で満足できても、そのうちに耐性ができていずれ静脈注射に移行するという例は少なくありません。)

 それに対し、タイでは、初めから「アブリ」ではなく静脈注射をおこなう人が多いようです。これは日本で流通している良質のメタンフェタミンに対し、タイではそれほど純度の高くないアンフェタミンが使用されるからだという説があります。

 また、覚醒剤だけでなく、麻薬(タイ北部のいわゆるゴールデン・トライアングルは阿片の産地として有名)を静脈注射する人も少なくないようです。

 タイでは、男性どうしが集まって覚醒剤を回しうちする習慣(?)があるそうで、これにより一気にHIV感染が広がったのではないかと言われています。そしてその後みんなで売春宿に行くことも多いそうです。こういったことを繰り返していれば、自分が注射針で感染したのか売春で感染したのか分からなくなるのも無理はありません。

 ただ、ここ数年間は、注射針で感染した人は激減しているのではないかと思われます。タクシン首相が政権を取って以来、薬物に対する取締りが極端に厳しくなったからです。これまでに5000人以上の人が覚醒剤所持の理由で射殺されており、そのなかには冤罪の人も少なくないと言われています。

薬物の静脈注射の跡。何度も針をさしたせいで血管に沿って皮膚が固くなっている。

3-3 性感染(同性愛)


 アメリカでも日本でも、そしてタイでも、HIV感染が最初に蔓延したのは主に男性同性愛者の間でした。まだHIVについて詳しいことが分かっていなかった時代には、AIDSとはゲイの病気ではないか、と思われていたこともあります。
 
 では、なぜゲイの間でHIV感染が広がったのでしょうか。

 その最大の理由は、ゲイの性行為では、コンドームを使わないことが多い(多かった)というものです。妊娠の心配のない男性同性愛者同士の性行為では、以前はコンドームを使用するという意識がそれほどなかったのです。このため、精液を介したHIV感染が広がりやすかったのです。

 次に、男性同性愛者の性行為では肛門を使うことが多いという理由があげられます。腟壁に比べると、肛門粘膜はペニスの挿入によって粘膜からの出血が起こりやすいと言えます。このため血液を介した感染も容易に起こりえるのです。

 さて、タイの同性愛感染ですが、タイという国は、おそらく世界一ゲイに寛容な国といえます。普通の中学や高校でも、クラスの5から10%程度の男性は、自分がゲイであることをカミング・アウトして化粧をして登校しているくらいです。そして、そんなゲイたちは差別されることなく、クラスの男性や女性の友達と仲良くしています。ゲイの人に話を聞くと、ゲイであることが理由で就職差別を受けることもないと言います。(もっとも、この意見には反対する、要するに差別は存在すると言うゲイの人もいます。)

 それだけゲイに寛容な文化がありますから、世界中からゲイが集まってくるのがタイなのです。実際、バンコクやパタヤには「ゲイ・ストリート」と呼ばれる一画があり、この区域では、西洋人とタイ人、日本人とタイ人、なかには日本人と西洋人のゲイどうしのカップルが歩いています。

 もちろん、ゲイであることで差別をうけるようなことがあってはなりません。日本も含めてゲイ同士の結婚を認めない国はたくさんありますし、ゲイであることで不利益を被っている人たちが世界中にたくさんおられるのが現状です。

 ゲイの人たちにとって、タイとは最も住みやすい国なのです。だからこそ、タイのゲイの間でHIVが蔓延するようなことがあってはなりません。ゲイの人たちが社会で差別されることなく平穏に暮らしていけるようになるためにも、正しい知識を普及させセーフティ・セックスを推奨する必要があるのです。

パタヤのゲイ・ストリート。
世界中からゲイが集まってきている。


3-4 性感染(異性愛)


 「100%コンドーム・キャンペーン」が施行されて以来、異性間の性交渉によるHIV感染は激減されたとされています。先に紹介した軍人の罹患率のように、きちんと数字で結果が出ているものもあります。

 しかしながら、全体でみれば感染者が劇的に減少したわけではありませんし、最近では再び感染者が上昇していると言われることも多くなってきました。

 その理由をみていきましょう。

 まずは、都心部(バンコク)での若年層の感染です。もともと貞操観念が強いと言われていたタイですが、最近その善き伝統が崩れつつあるようです。大学生の間では、複数の性パートナーを持つ者が増えてきているという報道がありますし、売春をおこなう学生も少なくないとの報道もあります。

 例えば、2004年9月3日のBangkok Postでは、わずか12歳で売春する生徒が増えているという記事が紹介されています。しかも1回の売春価格がわずか1500バーツ(約4500円)だというのです。

 次に、タイでHIVに感染する外国人が急増しているという事実があります。コンドームを使用していればほぼ確実に防げるHIV感染が、なぜ知識のあるはずの西洋人(や日本人)の間に広まるのでしょう。この答えは、タイの複雑な売春事情にあります。(詳しくは「なぜ西洋人や日本人はタイでHIVに感染するのか」参照)

 また、100%コンドーム・キャンペーンがどれほど浸透しているかについて考えてみましょう。たしかに、都心部の大きなマッサージ・パーラーや売春宿ではコンドーム着用が義務付けられています。

 しかしながら、これが地方の小さな売春宿に行けばどうでしょうか。1回の売春価格が数百円の売春宿で、3個入りおよそ100円のコンドームがどれほど使われているでしょうか。政府から支給があるといっても、そもそもタイでは売春は違法行為なのです。(売春禁止法がきちんと制定されたのは1996年ですが。)売春宿でのHIV感染を防ぐために、行政の協力が必要だけれども、コンドームを配布すれば売春を認めてしまうことになるのです。ここに、コンドーム・キャンペーンの限界があります。

 また、マッサージ・パーラーや売春宿ではなく、フリーで客をとっている売春婦はどうでしょうか。コンドームを購入するほど金銭的な余裕がない女性もいるでしょうし、客がいつもコンドームを持ち合わせているとは限りません。

 次に、どのような職業の人がHIVに感染しているかをみてみましょう。

これは、タイにおけるHIVの職業別感染者の割合を表したものです。第1位はgeneral hiring、つまり一般の会社員やOLということになります。第2位がunemployment(失業者)でここまではいいでしょう。

 第3位はpriestとなっています。タイは仏教国ですから、priestとは牧師ではなく僧侶です。タイは小乗仏教の国ですから、僧侶は結婚や性交渉はもちろん、女性に触れることも禁止されています。にもかかわらず第3位なのです。

 これは何を意味するのでしょうか。おそらくこのなかには同性愛による性感染も含まれているでしょう。しかしながら、それだけではないはずです。タイの新聞ではときおり、僧侶が少女にイタズラなどといった記事が掲載されていますし、最近も、ある僧侶が売春婦を殺害したという事件があるマスコミに報道されました。この僧侶は、自分が性的不能で満足いく性行為ができなかったことで売春価格を値切ろうとしたのですが、売春婦がそれを拒絶したために、逆上してこの売春婦を殺害したそうなのです。そしてこの売春婦はこの僧侶の常連の相手であり、HIV陽性だったのです。

 タイの仏教は世界的に有名であり、タイの僧侶はほぼすべての国民から崇拝されていますが、なかには性交渉によりHIVに感染するものもいるという事実は注目すべきでしょう。


3-5 家庭内感染・母子感染


 職業別感染者の第1位から第3位までをみてきましたが、では第4位はどのような職業なのでしょうか。

 それは、housewives、つまり「主婦」です。タイでは主婦が自分の夫から感染するというケースが非常に多いのです。(最近の日本でも主婦の感染が増えてきているという報告があります。)

 これは予防という観点から、非常に重要な意味を持ちます。なぜなら、コンドームがほとんど役に立たないからです。当然、夫婦間では生殖目的の性行為もおこなわれます。したがって、コンドームなしの性行為が夫婦間の間では普通になるのです。「HIV感染はコンドームで防ぎましょう」などというフレーズは、こと夫婦間の感染に対してはまるで無効になります。「100%コンドーム・キャンペーン」の限界はここにもあるのです。

 夫から夫婦間感染した主婦が妊娠すれば、母子感染の危険性がでてきます。たしかに、最新の技術をもってすれば、母親がHIV陽性であったとしてもかなりの確率で母子感染を防ぐことは可能です。しかし、それは母親が自分のHIV感染に気づいていれば、の話です。タイでは、特に地方では、妊婦全員にHIVの検査をしているわけではありません。自分の夫がどこかでHIVに感染していることなどつゆ知らず、いつの間にか自分にも感染していて、さらに自分の子供にも感染させた、ということが起こっているのです。


4 2006年のUNAIDSの報告


 UNAIDSが発表した2006年度の報告によりますと、人口に対するHIV陽性率は1.4%です(2005年現在)。

 1990年代後半に比べると、HIVも他の性感染症も感染者は減少傾向にあります。ところが、新たな問題が出現してきています。

 タイ厚生省の発表によりますと、2005年に新たに発見されたHIV陽性者の、3分の1以上が特定のパートナーと長いつきあいをしている女性であり、およそ5分の1がMSM(男性と性交渉をもつ男性)です。

 もともと貞操観念の強いタイ女性ですが、最近は婚前交渉が増えてきています。これ自体の良し悪しは別にして、コンドームをいつも使っている女性は、20-30%に過ぎないというデータがあります。
 また、金銭の絡んだ性交渉(売春)においてもコンドーム使用率は減少してきているという報告もあります。バンコク、チェンマイ、メーホンソンで実施されたセックスワーカーを対象とした調査では、セックスワーカー全体の、実に51%しかコンドームを使用していないという結果が出ました。また、北タイでおこなわれた国勢調査では、売春行為でコンドームを使うと答えた男性は3分の1にも満たないことが分かりました。

 結局、全体でみればHIV感染は減少傾向にありますが、セックスワーカー、ドラッグユーザー、MSMの間では依然として高い傾向にあるのです。2003年に実施された調査によれば、置屋で働くセックスワーカーの10%以上がHIV陽性だそうです。
 また、なんらかの治療を受けるために病院を受診したドラッグユーザーの45%がHIV陽性であったというデータもあります。
 バンコク在住のMSMは、2003年にHIV陽性率が17%だったのに対し、2005年には28%にまで上昇しています。特に21歳以下の場合、この2年間で感染率は3倍に跳ね上がっています。

 タイでは、最先端のHIV治療が受けられるようになってきている一方で、safer sex campaignだけでなく、MSMやドラッグユーザーに対する啓発運動も充分に機能していないということになります。

 公式な統計では、およそ8万人が2005年の終わりまでにHIVの治療を受けています。この結果、AIDSによる死亡者は2004年の5020人から2005年の1640人に減少しています。

参考:「2006 Report on the Global AIDS Epidemic」reported by UNAIDS

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