『“パヤオ”の高齢者の生活から見たHIV』

2010年秋 中島美樹

 “人の縁とは不思議なものやなぁ・・・”パヤオの村で出会った人々やパヤオで過ごした2年間という歳月が、このコラムを書きながら走馬灯のように頭の中を駆け巡っています。

 国際協力機構(JICA)のシニア海外ボランティアとしてタイのパヤオ県にある国立ボロマラジョナニ看護大学に高齢者福祉のソーシャルワーカーとして派遣されたのが2008年秋。それまでの私は阪神間で障害児施設の保育士や地域包括支援センターの主任ケアマネージャーとして約16年間仕事をしておりました。

 当時、現場で仕事をしながらも欧米の影響を色濃く受けたケースワークの方法や日本の窮屈な介護保険制度について何かと疑問を持ち始めていた私。その一方で、同じ稲作民族である東南アジアの高齢者にいつしか関心が向かっていました。

 “東南アジアの高齢者たちは私の疑問に答えてくれるかも知れない。会いに行くことは出来ないかなぁ”と秘かにチャンスをうかがっていたのですが、その機会は思いのほか早く訪れました。

 タイの高齢化率は7%と言われていますが、北タイの高齢化率は年々高くなってきており、パヤオ県においては12.6%と高い数値を表しています。これまで、パヤオではコミュニティにおける障害者、高齢者の問題に関しては看護師が担ってきました。しかし、今後の高齢社会の対応について日本の高齢者福祉の経験者が必要とされたのです。

 もちろん、派遣にあたってはいくつかのハードルをクリアしなければなりませんが、何と言っても“パヤオ県”というところがタイのどの場所にあるのか、どんなところなのかさえわかっていない当時の私。インターネットで検索しても高齢者に関する情報はほとんどなく、ヒットするのは“AIDS”に関する情報がほとんどでした。

 “私の活動は高齢者関係やから、AIDSやHIVは関係ないわ”というのが率直な感想。とりあえず、派遣が決定してからも高齢者福祉に関する資料をまとめたりして渡タイの準備を行っていました。

 しかし、実際パヤオへ行き村の高齢者宅への個別訪問を始めるとHIVの影響を受けている高齢者がたくさんいることに驚いてしまいました。少なくとも私が日本で仕事をした中で遭遇した事のないシチュエーションの連続でした。


 私の主な活動は、高齢者の実態を把握し配属先の先生たちと一緒に今後の高齢化社会の対応について研究するというものであり、具体的には配属先の先生や学生たちと村の高齢者宅への訪問活動をしながら聞き取りをおこなう一方で、地域に出向いての介護予防の啓蒙活動等を行うというものでした。
 
≪お寺で介護予防体操の指導。右の写真は服薬管理ができずに残ってしまっている薬≫

 タイではありがちな話しなのですが、外国からの視察団や見学者が訪れた時には、村をあげて歓迎してくれます。それはそれで有難いことなのですが、それでは“日常の暮らしぶり”というのがわかりません。しかし、私の場合は看護大学の一スタッフとして受け入れてくれていたので“普段の村の生活ぶりを普通に訪問できた”ということが大きな収穫でした。

 現在タイでは、高齢者に対する年金制度はまだまだ未整備であり、自営業や農家の人たちに対してはひと月約500バーツ(約1370円)の給付金があるだけです。病院の診察は無料で受けられますが、上限があるためにそれ以上の医療を希望する場合は100%実費になってしまいます。また、ある程度インフラが整った場所では生活を維持するために現金が必要になってくるために村の高齢者のほとんどは農作業や内職をして、生活費を稼ぐ毎日です。

 また、パヤオ県はタイの中でも貧困の県の1つとしてあげられ、産業が乏しいため、働き盛りの多くはチェンマイやバンコクへ出稼ぎに行っており、村には高齢者と親の帰りを待つ多くの子どもたちが残されています。

 
≪高齢者の内職。カゴは1個20バーツくらい(約60円)。右の写真は竹を細く割き、麦わら帽子を編んでいるところ。10mで7バーツ(約21円)が手に入る≫

 ある日、いつものように高齢者の家を訪問すると身体の調子の悪そうな老夫婦が黙々と内職を続けていました。給付金だけでは生活費をまかなえないことはわかっていますが、無理をしてはいけないことを伝えると、小学校に通う孫にお金がかかるという返事でした。

 孫の両親はHIVが原因で死亡。学校では給食費に一部助成金があてられたり、また、制服は卒業生たちの古着を再利用したりと工夫がなされていますが、それでもおやつ代や飲み水代などが必要であり、現金を得るために休んでいる暇はないとのことでした。

 しかし、この生活もあと1年頑張れば楽になるとの話し。合点がいかず同僚の先生に尋ねたところ、このあたりでは中学校に通えない子どもたちはお寺に入門して、お坊さんになるための修行を積むと同時に一般の中学生たちが習う勉強も教えてもらえるとのことでした。現在、小学5年生の孫は卒業後にお寺に入門することが決まっているのでそれまでの辛抱とのこと。

 タイでは今でもお寺に入門する子どもたちは特別な事ではなく、ごく自然な形でそのシステムが存在しており、お寺がセーフティーネットとしてその役割を担っています。しかし、これは男の子だけの話し。女の子の受け皿がなく、学校に通えない子どもたちはどこかに働きに行くしかない現実を目の当たりにしたのでした。

 
≪左の写真は朝の托鉢風景。少年僧です。右の写真は一般の学生とお寺に入門している子どもたちが一緒に勉強している学校。運営主体はお寺。少年僧たちはオレンジ色の袈裟を身にまとっています≫

 もちろん、お寺に入門せずに奨学金等を利用して学校に通う子どもたちもたくさんいますが、高齢者の経済的、精神的な負担が大きくなることは言うまでもありません。

 また、いつものように村の訪問をおこなっているとひとりの女性が駆け寄ってきました。手に持っているのは病院の診断書です。英語で書かれているために意味がわからないというのでした。内容は“HIV・Negative”。

 同僚の先生がタイ語で女性に説明。その女性は喜んで近くの家に飛び込んでいきました。よく見ると、前日に訪問したおばあさんの家。そのおばあさんには7人の子どもがいましたが、6人の子どもたちは交通事故やHIV感染が原因で死亡。ひとり残った娘さんも結婚できるかどうかわからないという話しをしたばかり。どうやら、検査の結果待ちの状態だったようです。3日後に同じ場所を訪れると、近所の人たちを集めての婚約式がささやかにおこなわれていました。もちろん、私も同僚や学生たちと参加させてもらいました。

 このカップルの場合、両方がそれぞれに検査を受けていたようでしたが、村ではこのように検査を受けることは特別な事ではないようでした。

 また、別の高齢者宅へ訪問すると30代の孫娘がすでにAIDSを発症し歩行も困難な状態でした。彼女は夫から感染したのですが、夫が亡くなった後も検査を受けることが怖く、結果的に治療が遅れてしまったケースでした。2人の幼い子どもがいますが、現在50代になる父親が幼い孫や高齢の母親、病気の娘の面倒を見ています。母親は海外に出稼ぎに行き仕送りをおこなっているとの事でした。

 近所の人たちは何かと気にかけながら、ご飯の差し入れをしたり、孫娘の体調のいい時には庭先でみんなとおしゃべりをしたりと助け合っている姿が非常に印象的でした。

 このように、訪問活動を通して高齢者とHIVの問題が日常の生活の中に深く影響していることにいろいろな事を考えさせられました。

 おそらくHIVの問題が表面化した頃は、病気に対する偏見やスティグマ、治療方法や薬の問題が取り立たされていたのではないかと思います。もちろん、今でもこれらについての取り組みはおこなわれているようですが、先にも書いたように、村の中では地域で支え合いながらの生活が営まれています。また、医療も無料で受けられるために薬の心配も少なくなりました。看護学生たちも自分たちが中心となり地域の中学校や高校に出向き、公衆衛生やHIV予防に関する啓蒙活動も積極的におこなっています。

 
≪左の写真は女の子たちにナプキンの使い方を指導。右の写真は山岳民族の子どもたちに歯磨きの方法を指導している学生たち≫

 しかし、国の支援は今以上に望むことができず、新たな問題に対しての取り組みについては何の期待も出来ないのが現状です。

 医療も無料で受けられるようになったとはいえ、国で決められている薬以外は有料になってしまうために、今飲んでいる薬が効かなくなってしまった場合の不安感はどの患者さんたちにも暗い影を落としています。薬の副作用も新たな問題です。

 多くの若い世代がHIVにより命を奪われた現実。それによって、老後の生活設計など考えることが出来なくなってしまった高齢者たち。孫世代との暮らしは、世代間のギャップを生み、双方がストレスを抱えてしまう状況。貧しさから非行に走ってしまう子どもたち。パヤオでは今でも様々な問題を抱えています。


 東南アジアの高齢者に関心が向かった私。そこには日本の抱える問題とは大きく異なる問題が横たわっていました。しかし、タイ・パヤオで出会った高齢者たちは、強く、明るく前向きであり、生きる希望に満ち溢れていました。よく“日本の古き良き時代の助け合い精神がタイの農村部には残っている”ということが言われますが、私自身が活動を通して感じたことは、日本とは異なるコミュニティが存在しているということでした。

 このあたりのことについては私自身、もう少し勉強していかなければならないのですが、ますます、東南アジアの高齢者について関心が高くなったことは言うまでもありません。

 また、今回の活動を通して大きな支えとなったのが、パヤオで支援活動をおこなっている日本のNGO、NPO団体の存在でした。チェンマイやチェンライと違い、日本人が少なく交通機関も不便なところでのひとりでの生活。いろいろな情報が乏しい中、関係者の方々とコンタクトをとることで情報交換ができ、自分の活動について冷静に考えることが出来たように思います。

 何より、村の人たちから“日本の団体から支援してもらっている”という言葉を直接聞いたり、また、配属先の看護大学にも日本の里親から奨学金を受け勉学に励んでいる学生がいたりすることに、草の根的な支援の役割がいかに大きいものかを教えてもらいました。

 JICAシニアボランティアの活動としても、最終的にいろいろな形で地域の貢献することが出来、配属先の先生方とも信頼関係を深めることができた2年間。パヤオについてはこれからも何らかの形で関わることができたらいいな、と思っています。

 最後まで読んで下さりありがとうございました。


中島美樹(なかしま・みき)

1963年生まれ。神戸市在住。重症心身障害者施設、在宅高齢者に対するソーシャルワーカーや主任ケアマネージャーを経て2008年9月~2010年9月、国際協力機構(JICA)のシニア海外ボランティアとして、タイ・パヤオ県の国立ボロマラジョナニ看護大学に配属。社会福祉士・介護支援専門員。

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