GINAと共に

第228回(2025年6月) 共感(エンパシー/empathy)してはいけないのか

 エンパシー(empathy)とシンパシー(sympathy)の違いがよく分かりません。私は過去に、英語に詳しい人(英語オタクの人)や語句にこだわる人(メディア関係の人など)に尋ねてみたことがあるのですが、きちんとした答えが返ってきたことはなく、今もこの区別がよく分かりません。英語がnativeの外国人にも何度か聞いてみたことがありますが、やはり「人によって言うことが異なる」あるいは「きちんと自信をもって区別を明言する人はいなかった」のです。

 私自身は2007年のコラム(「シンパシーとエンパシー」)で、「エンパシーは患者さんに共感すること」「シンパシーは患者さんに貢献したいと感じる思いを(同志と)共感すること」と自分なりの定義を紹介しました。しかし、この分類に自信があるわけではなく、どうやら間違っていたようです。

 ネット上の辞書「Dictionay.com」をみてみると、私の考えとは正反対のようなことが書かれています。この辞書によると、シンパシーは「不幸に見舞われている人への同情、哀れみ、悲しみの気持ちを伝えるために使われる」のに対し、エンパシーは「自分が他人の立場に立って想像し、その人の感情、考え、意見を経験する能力や能力を指すために使われる」とされています。何度読んでも分かりにくいのですが、シンパシーの方が「不幸に見舞われている人(場合によっては患者さん)に同情する」というニュアンスが強そうです。

 もう少し分かりやすい説明はないかと調べていると、医学生用のポータルサイト「The Medic Portal」に興味深いページがありました。同サイトによると「医療者が持つべきはエンパシーであって、シンパシーは持ってはいけない」ようです。つまり、エンパシーは「困っている人や患者さんの気持ちを理性的に理解すること」なのに対し、シンパシーは「個人的な視点から表面的な同情をすること」です。例えば「長年の喫煙から肺がんを発症した患者より、不当に苦しんでいる若者に思い入れすること」はシンパシーに該当するようです。

 2007年のコラムで述べたように私がタイのエイズ施設で感じたのはシンパシーではなくエンパシーのつもり、でした。「The Medic Portal」によれば、それで正しかったようですが、シンパシーとして私が抱いていた概念はまるで違っていました。そこで、ChatGPTに「(私が2007年のコラムに書いたような)同志に感じる共通の思いのようなものは英語で何と言いますか」と尋ねると、「solidarityではないですか」と返答されました。しかしsolidarityというと、「労働組合などで一致団結する」が私のイメージです。どうも私が2007年に抱いたシンパシーのイメージは英語に適した表現がなさそうです。

 随分前置きが長くなりましたが本題はここからです。米国のトランプ二次政権の初期のキーパーソンだった実業家のイーロン・マスク氏が先日「エンパシーはマイナスにしかならない」という発言をして物議を醸しました。CNNはこの出来事を「イーロン・マスクは西洋文明をエンパシーから救いたい(Elon Musk wants to save Western civilization from )」というタイトルで報じています。マスク氏は「リベラルが移民に寛容なのはエンパシーのせいだ」とし、「エンパシーが社会を破壊している」と自論を展開しています。

 ほとんどの日本人はマスク氏のこの発言に同意できないと思いますが、実はこのテーマ、哲学的には深い意味があります。これをうまくまとめているのが米紙The Conversationの記事「エンパシーは負担となることもあるが、強みとして捉えるべきであることを2人の哲学者が説明(Empathy can take a toll ? but 2 philosophers explain why we should see it as a strength )」です。

 タイトル通り、エンパシーを「強み(いいもの)」と捉える2人の哲学者の説が解説されているのですが、記事の前半にはエンパシーを「弱み(悪いもの)」と考える二人の哲学者の話がでてきますので先にそちらを紹介しましょう。

 ひとりめはストア派哲学者のエピクテトスです。彼は『語録(Discourses)』の中で、「他人を気の毒に思ったり、同情したりすることは、私たちの自由を侵害する。こうした否定的な感情は不快であり、(中略)、良き人生を送ることを妨げるのだ」として「エンパシーは持つべきでない」というようなことを述べています。

 もうひとりはニーチェです。The Conversationによると、ニーチェは「Mitleid」という「憐れみ」や「慈悲」という意味のドイツ語を用いて、これらが個人の重荷となり善き人生を送ることを妨げるとしました。著書『曙光』(注1)で、「そのような感情が、他者を助けようとする人々自身をも蝕む可能性がある」と警告しています。
 
 哲学者の言いたいことはいつもよく分からないのですが、少しでも理解するにはやや強引にでも短絡化してしまうのが得策です(20代前半にいったん哲学に挫折した私はその後そのように考えるようになりました)。私なりに解釈すれば、エピクテトスもニーチェも「不幸な人たちに深く関わりすぎると自分までもが不幸になる」と言っています。しかし、私自身は彼らの意見を支持しませんが、こういった考えに説得力がないわけではありません。例えば「共感疲労(empathy fatigue)」という現象があります。医療者に多い燃え尽き症候群は共感疲労が一因とする論文もあります。

 では、The Conversationが紹介している「エンパシーを肯定的に捉える二人の哲学者」を紹介しましょう。ひとりはオーストラリアのフランク・ジャクソンです。ジャクソンは「メアリーが知らなかったもの(What Mary Didn't Know)」という論文で有名です。メアリーという架空の学者は生まれてからずっと白黒で色のない部屋で過ごし赤色の研究を続けています。白黒の部屋から出たことはありませんから実際に赤色がどのようなものかを経験したことはありません。メアリーが白黒の部屋で懸命に赤色の研究を続けたとして赤色を理解することはできるでしょうか、という思考実験です。答えはもちろん「いくら赤色の研究を続けようが赤色を理解できることはない」です。

 The Conversationが「エンパシーを重要視している」とみているもうひとりの哲学者はバートランド・ラッセルです。ラッセルは当初ヘーゲルの形而上学に傾倒していましたが、その後考えを変え、いわゆる「経験主義」に移行し、「経験は事実の知識に還元できない特別な種類の知識をもたらす」と主張するようになりました。見ること、聞くこと、味わうこと、触れることなどが、単なる知識よりも(形而上学的な知識よりも)重要だという考えに至ったのです。

 フランク・ジャクソンとバートランド・ラッセルを「エンパシーを擁護する二人の哲学者」と呼ぶのはThe Conversationのちょっと強引な飛躍という気がしないでもないですが、「困窮している人を助けなければならない」という前提に立つのなら、イーロン・マスク氏の言説には同意できません。マスク氏の主張を端的に表せば「白人の米国人以外は放っておけ」となるからです。しかし、米国にはマスク氏に共感(これもエンパシー?)する人たちも少なくありません。

 そして、そのような米国人が大勢いることは不思議ではなく、それが一部の人たちの自然な姿なのでしょう。私は以前、タイのエイズ施設で困窮している人たちをみて「なぜこの人たちに共感して全力で支援しようとする人たちばかりでないのか」を不思議に思ったことがあります。私自身は「こんな現実を放っておけない。生涯にわたって支援しなければ......」と考え、そして実際それから20年以上に渡り支援を続けているわけです。以前は寄付すらしない人を「冷たい人」と感じたことがありましたが、今ではそんなことはまったく思わなくなりました。

 谷口医院では「他のどこでも話したことがない苦痛」を診察室で話す人が少なくありません。あるとき、他の医師とこのような話題になったとき、その医師(外科医)は「自分ならそんな話は1分たりとも聞きたくない」と言いました。そのときに、失礼ながら私はその医師を「あんたはサイコパスか」と心のなかで毒づきましたが、今ではそのような医師がいてもおかしくない(どころか、彼はとても優秀な外科医です)と分かるようになりました。

 米国にはマスク氏を支持する人もしない人もいます。診察室で患者さんの苦痛を聞くことを当然だと考える医師もいれば煩わしく感じる医師もいます。困窮する患者に感情移入しすぎて共感疲労を起こし燃え尽きる看護師もいます。誰が正しくて誰が間違っているという話ではありません。

 そういえば私は医学生の頃、ある"病"に悩まされていました。臨床実習で各科を回っていたとき、その臓器の"病"が起こっていたのです。消化器科の実習中には下痢に悩まされ、脳外科のときは頭痛が消えず、皮膚科実習のときは始終痒かったのです。「これはまずいな......」と感じ、「患者さんから話を聞くときに同情しすぎるのはよくない」と考えたことがありました。今思えばこの頃の私が感じていたのがエンパシーではなくシンパシーだったのかもしれません。

 しかし結局、私の診療スタイルは昔から本質的には変わっておらず、よく言われる「オンオフの切り替え」などもできず、常に患者さんのことを考えているような気がします。それは「令和の時代の医師の姿ではない」と批判されるでしょうが、現在56歳の私がこれから診療方針を変えることはできません。シンパシーとの違いは結局よく分からないままですが、私にはエンパシーが行動の源になっていることは間違いなさそうで、それは今後も続くでしょう。

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注1:The Conversationの記事では著書『Daybreak』とされていましたが、こんなニーチェの著書名は聞いたことがありません。そこでChatGPTに「Daybreak(夜明け)を表すドイツ語を複数挙げてください」と聞くと、そのなかのひとつに「Morgenrote」がありました。これは『曙光』の原タイトルです。