GINAと共に

第213回(2024年3月) 性は「認める」ものではなく、性加害の"冤罪"は簡単に生まれる

 大阪の十三(じゅうそう)というディープな街に、通称「ナナゲイ」と呼ばれているミニシアターがあります。正式名は「第七藝術劇場」で、商店街のなかほどに位置する「サンポードシティ」という雑居ビルの6階にあります。一つ下の5階は「シアターセブン」と呼ばれるミニシアターで運営会社は同じ(だと思います)。ウェブサイトも同じです。(少なくとも私の周囲の)大阪人はこれら映画館を指すときには2つを区別せず「ナナゲイ」と呼んでいます。ナナゲイは歴史のある映画館で過去何度か閉館しているそうなのですが、現在はセンスのいい映画が連日上映されています。

 そのナナゲイ(正確にはシアターセブン)で現在リバイバル上映されているのが、京都のショーパブを舞台にしたコメディ映画『Moonlight Club』で、2人のドラァグクイーンとそば屋のおかみの3人が主役。3人は「はふひのか」という言わばミニ劇団のようなユニットです。ドラァグクイーンは当然ゲイですが、その2人のゲイを演じる「はふひのか」のメンバーは実生活ではゲイでない(つまりストレート)だそうです。私自身は、ストレートがセクシャルマイノリティを演じても構わないと思っているのですが、最近はそれに反対する意見が大きくなってきています。しかし、今回取り上げたいのはそのことではありません。順を追って説明していきましょう(尚、私はこの映画をまだみていません。気になる報道があったので取り上げることにしました)。

 『Moonlight Club』のナナゲイでの上映が決まったことは関西ローカルメディアでは報道されていました(例えば、毎日新聞の地方版)が、全国的に話題になったのは米国での上映が決まったからでしょう。3月28日にはニューヨークのコロンビア大学内で上映されるとDAILYSUN NEW YORKが報道しています。日本のメディアでは2月12日にFNNプライムオンライン(以下FNN)が記事を出しました。

 この記事、公開されたときには私は読んでいなかったのですが、後に能町みね子さんが週刊文春で痛烈に批判していたのでネット検索してみました。能町さんのこの連載は毎回有名人が放った問題のある発言をタイトルにしています。このときのタイトルは「世界平和につながっていくんちゃうかな」で、当事者でない(ゲイでない)ストレートの男性がこのような言葉を「のんきに言っている」と批判し、「偏見をコテンパンに批判されてほしいと思う」と厳たる言葉で酷評しています。

 FNNの記事を読んでみたところ、私自身は「世界平和に......」という言葉にそれほど違和感を覚えませんでした。「はふひのか」のメンバーがセクシャルマイノリティを批判しているようには思えないからです。(私は映画を観たわけではありませんが)FNNの記事を読む限り、映画のなかでマイノリティを差別しているわけでもなく、悪意がないことは明らかです。

 ですが、能町さんが批判しているもうひとつのことについては、私は能町さんに完全に同意します。「はふひのか」のメンバーの一人である原田博行氏のコメントです。原田氏は俳優の傍ら現在も京都市内のキリスト教系の高校(おそらく同志社高校)で30年近く教鞭をとっているそうです。ここからはFNNの記事をコピーします。

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原田さんは授業の中でLGBTQに対する意見を生徒に聞いてきたという。

「授業で認めるかどうか手を挙げさせるんですけど、今年認めないという生徒はほぼゼロでした。20年前は3割から4割くらいは認めないに手を挙げていました。もう今では認めないと言っちゃダメだというのが常識になったんだなと思いますし、生徒たちは自然に、素直に性の多様性を受け入れていますね」
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 目を疑わないでしょうか。「認める」ってどういうことでしょう。通常「認める」というのは上の立場の者が下の者に使う言葉です。「当社としては無断欠勤の多い社員の雇用継続を認めることはできない」とか「試験会場に従来の腕時計を持ち込むことは認めるが、スマートウォッチは認めない」などです。そもそも「認める」は人の「行為」に対する判断であって、人の「存在」に対して使う言葉ではありません。

 能町さんは文春の記事のなかで「『黒人を認めるかどうか手を挙げさせる』がマズイのはふつう分かりますよね?」と分かりやすい例を挙げて批評しています。FNNの記事の内容が正しくて原田氏が本当にそんなことを生徒の前で言ったのだとしたら、原田氏自身がセクシャルマイノリティはストレートよりも"下"の存在だと考えていることを物語っています。さらに、「人(の存在)を認めるかどうか」という論調が人間の倫理に反していることに気付いていなことを晒しています。「人が人を裁いてはいけない」のは人類普遍の真理ではなかったでしょうか。私の理解が間違っていなければ、キリスト教では「人を裁くことができるのは、その人の心を熟知している神だけ」です。

 もうひとつ別の「事件」を取り上げたいと思います。今度はセクシャルマイノリティがストレートを"誤解"したと思われる事件です。

 浅沼智也さんというトランスジェンダー(FTM)がいます(念のために付記しておくと「FTM」とは生まれたときに生物学的に"女性"で、その後社会的に"男性"に転じたトランスジェンダーのこと)。私は浅沼氏と面識がありませんが、浅沼氏は看護師であることもあり、何度か名前を聞いたことがあります。たしか自助グループを主催し、ラジオのパーソナリティも務め、自ら映画を監督し出演したこともあったはずです。

 その浅沼氏が「強制わいせつ罪容疑で逮捕」というニュースが報道されました。報道によると、2023年2月、東京都内のホテルで、青森県内に住む40代の知人女性に、抱きつくなどのわいせつな行為をした疑いがあり、青森県警が2024年3月14日に強制わいせつの疑いで逮捕し、翌日に青森地検に送検しました。

 これだけを聞くと、さほど違和感を覚えない人の方が多いでしょう。現在は"男性"なんだから女性へのわいせつ行為はありうる、と考えられるからです。しかし、浅沼氏の性的指向は女性でなく男性です。つまりロマンスやセックスの対象は男性なのです。彼はそれを公言しています。中野区のウェブサイトに掲載された座談会で「自分は現在戸籍上は男性で、好きになるのも男性です」と発言していますからそれは間違いないでしょう。

 だからこの事件はいわゆる「冤罪」の可能性がでてきます。しかし、浅沼氏が「自分の性的指向は男性だ」と主張したところでそれを証明するものがありません。上述の中野区のウェブサイトはある程度の証拠として扱われるかもしれませんが、被害者から「浅沼氏はバイセクシャルだ」と言われればこれに反論するのは困難です。そう考えて検索してみると、浅沼氏は「僕がセクシュアリティの自覚が遅かったのは、今思えば性的指向が両方だったからなんですよ」とコメントしている記事がありました。これは浅沼氏にとって不利な証拠となります。

 おそらくこの裁判は長引くでしょう。そして冤罪の判決が下される可能性もあると思います(念のために補足しておくと私は浅沼氏に非がないと言っているわけではありません。あくまでもその可能性の話です)。

 この事件から言えることは「マイノリティの人は常に性加害者につるし上げられる可能性がある」ということです。ゲイ好きな女性のなかにはゲイの友達とかなり密なスキンシップをとる人がいます。例えば頬にキスしたりハグしたりです。そしてゲイの男性もそれに応えることがあります。仲が良いときは問題ないでしょうが、いったん何らかの理由で仲違いをしてしまうと、ゲイ男性は「あれは性加害だった」と女性から訴えられるかもしれません。

 ここからもう一歩話を進めると、ストレートの男性がストレートの男性に、それが冗談であったとしても過剰なスキンシップをとることで「性被害に遭った」と訴えられるようになるかもしれません。訴えられたとき「自分はストレートの男性で......」と反論しても、「ではバイセクシャルでないことを証明してください」と問われたときに答えるのは簡単ではありません。

 これからの時代、余計な心配をなくすためにも、相手の性自認・性指向に関わらず性的なスキンシップには充分に注意した方がいいでしょう。同時に、他人の存在を"認めない"ような発言は(心で思うのは自由ですが)、絶対に口にしてはいけません。