GINAと共に

第212回(2024年2月) 依存症に陥る人たちはなぜ魅力的なのか

 私がHIV/AIDSという疾患に深く関わりたいと初めて思ったのは2002年の夏、このサイトで何度も紹介しているタイのロッブリー県にあるエイズホスピス「Wat Phrabhatnamphu」を訪れたときでした。このときに、家族や地域社会、そして医療機関からも差別され、行き場を失くした人たちに接して、「こんなことが許されていいはずがない。誰からも見放されたとしても僕はこの人たちの力になろう」と誓ったのです。

 HIV感染の主なリスクは性交渉と(覚醒剤などの)注射針の使いまわしです。タイのHIV陽性者からは、「両親に売られてセックスワークを強制させられた(男女とも)」とか、「幼い子供を育てるにはセックスワークしかない(こちらは女性)」といった話をよく聞きました。今もそういう話はタイでは、そして日本でもあるのですが、必ずしも「セックスワークを強いられて......」というケースばかりではないことにそのうちに気付きました。

 セックスワーカーでいえば、稼いだ金で豪華なブランド品を買い漁るとか、ホストクラブに通って「推し」のホストに貢ぐとか、課金ゲームに有り金をはたいたとか、そういう話も日本では昔からよくありますし、タイでも最近はそういう話を聞きます。

 もちろんセックスを金のためでなくセックスそのものを目的とする人は大勢います。常に複数のパートナーを必要とする人、パートナーを求めているのではなく単に刹那的なセックスを欲する人もいます。行き過ぎると「性依存症」の診断がつけられますが、自身がセックスに依存しているなどとは思ってみたこともないという人も少なくありません。

 こうしてみてみると、人間はいかに何かに依存しやすいかということを思い知らされます。HIV/AIDSに直接関係する依存症は、性依存と薬物依存ということになるでしょうが、生涯にわたりこれらにまったく依存しないという人はどれくらいいるでしょう。

 性依存を広義で考えたとき、セックスあるいはロマンスに夢中になることは生涯のうちに一度くらいはほとんど誰にでもあるでしょう。薬物依存という言葉は重たく響きますが、アルコールやタバコ、あるいは大麻などを考えてみると、これらはHIVからはほど遠いとしても多くの人が何らかの薬物依存に生涯に一度くらいは陥ることが分かるでしょう。

 最近はHIV/AIDS関連で講演を頼まれることが随分と減りましたが、かつて大学生や一般の人たちにエイズについて話すとき、私は「この感染症は他人事と思ってはいけません。感染している人の多くは『まさか自分が感染することはない』と思っていたのです。ということは、今ここにいるあなた方も感染する可能性があると考えるべきです」と強調していました。今も講演の機会があれば同じことを訴えます。

 実際、私が院長をつとめる谷口医院に定期的に通院しているHIV陽性の患者さんのほとんどが「自分が感染することはないと思っていた」と話されます。

 では、なぜ自分は大丈夫と思っていた人たちが感染するのか。一般的には無防備な性行為や針の使いまわしと言われますが、私は問題の本質は別にあると思っています。ではHIV感染の本当のリスクは何なのか。それが「依存症」だと思うのです。

 リスクがあると分かっているのについついセックスの相手を求めて行動を起こしてしまう、ハイリスクなことは承知しているのにその場に針と"冷たいやつ"を置かれると手を出してしまう、という行動はときに理性では抑えられません。脳内の報酬系が爆走してしまっているからで、これが依存症の"正体"です。では、これらは理性が保てない劣った人が取る行動なのでしょうか。私にはそうは思えません。

 誤解を恐れずに言えば、依存症は誰にでも生じることに加え、依存の対象に夢中になっている人はどこか魅力的でさえあるのです。その反対に、常に理性的で冷静な優等生タイプには私は人間的な魅力を感じません。

 ホストクラブに大金をつぎこむ若い女性がいます。「儲かっている会社の社長などお金がある女性がホストクラブで遊ぶなら好きにすればいいけど、貧乏な若い女性がホストにはまり、挙句の果てにフーゾクで働くことになるなんて信じられない」というようなことを言う人がいます。そう感じる人はそれでいいと思いますが、私にはそんな常識的なことを言う人よりも、いずれ身を滅ぼすことがどこかで分かっていながらそれでもホストに大金を注ぎ泥沼にはまっていく女性の方が素敵に映ります。

 なぜか。そこに人間の本質があるからではないでしょうか。あとさきのことを考えずホストに夢中になっている女性、実は谷口医院にもこういう女性がときどき受診するのですが、彼女らからは美しい「生のオーラ」が出ていて、その瞳は輝いています。

 もうひとつ例を挙げましょう。大王製紙の前会長、井川意高氏がカジノで借金をつくり合計106億8000万円の負債を追った話は有名です。東大卒の頭脳を持ちながらこのような罪を犯し、会社法違反(特別背任)で執行猶予なしの実刑4年の判決を受けたことに対し呆れた人も多かったでしょうが、私には井川氏がとても魅力的にうつりました。

 氏は著作『熔ける』のなかで、次のように述べています。

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地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦げるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。脳内に特別な快感物質があふれ返っているせいだろう、バカラに興じていると食欲は消え失せ、丸一日半何も食事を口にしなくても腹が減らない。
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 バカラに大金を賭けているときの井川氏の瞳はきっとキラキラと輝いていたに違いありません。

 覚醒剤を摂取すると、生理的な反応で瞳孔は散大しテンションが上がるわけですが、覚醒剤を摂取していないときでも、覚醒剤に夢中になっている人から話を聞くと、いかに覚醒剤が人生を幸せにしてくれるかという話を瞳を輝かせながら延々と続けます。

 ホスト、バカラ、覚醒剤のいずれもまったく魅力が分からないという人もいるでしょう。では、「恋愛」、それも「初期の恋愛」いわゆる「ハネムーン期の恋愛」ならどうでしょう。「この人のためなら何もかも失ってもいい」「この人と一緒にいられるなら世界中を敵に回してもいい」と感じたことのある人も少なくないのではないでしょうか。

 ハネムーン期の脳内の様子がホストにハマる女性の脳内とほぼ同じであろうことは想像に難くありませんが、おそらくギャンブルに夢中になっている人の脳内も、覚醒剤を至上の喜びと考えている人の脳内も同じような状態になっているはずです。いわゆる脳内の報酬系が活性化している状態です。

 ということは、人間が生を渇望する活力となっているのは脳の報酬系であり、その報酬系を活性化させるのは何らかの依存を生み出す物質や行動ということになります。きれいごとを言いたい人は言えばいいですが、私には身を滅ぼすことが分かっていても、自らの欲望に逆らえず不合理な行動に走る人の方に好感が持てます。なぜって、それが人間の本質だからです。

 我々は社会を維持しなければなりませんから、その依存の対象が猟奇殺人、強姦、痴漢、盗撮、小児愛などに向いてしまった場合はこの社会では生きていくことができません。しかし、そういった行動を取らざるを得ないのは脳内の神経伝達物質の爆走であり、これらも広い意味での依存症だと考えればそういう行動も理解できなくはありません。

 いずれにしても人間とは何らかの物質や行動への依存から逃れられない、ある意味ではとても悲しい生き物ではないかと思います。しかし逃れられないのならその条件で生きていくしかありません。生きることへの欲求が脳内の報酬系に支配されているというこの人間の弱さと悲しさを理解することにより、人は人に優しくなれるのではないだろうか。長らくHIV/AIDSに関わってきた私は最近そのようなことを考えています。