GINAと共に

第200回(2023年2月) HIV陽性者が海外で働くことは可能か

 私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)は都心部に位置しており、若い患者さんが多く、そのため「海外で働きたいのですが......」という質問をしばしば受けます。短期間の海外旅行とは異なり、長期間海外で働くとなると、言語、文化の問題の他、「日本と同等の治療を受けられるか」という点を考えなければなりません。今回は、「日本人が海外でHIV治療を受けられるか」について述べたいと思います。

 まず押さえておかなければならないのは、その海外勤務は「駐在員」か「現地採用」かによって変わってきます。まずは、この「前提」について確認しておきましょう。

 「駐在員」というのは、日本の商社やメーカーに勤務している人が、その企業から海外勤務の辞令が発令されて現地の支社や現地法人、あるいは関連会社で勤務する被雇用者を指します。他方、「現地採用」は日本の企業に所属するのではなく、現地の企業と直接雇用を結ぶ契約です。ここでいう現地の企業とは、その国の会社のこともあれば、日本の会社のこともあります。

 現地採用で仕事を見つけるには、自身でその企業に直接問い合わせて申し込む込む方法もありますが、たいていの国では「紹介会社」に自身のプロフィールや希望を登録しておいて、候補となる企業を紹介してもらうことになります。多くの人は、現地に旅行に行ったときなどに探しますが、日本にいながらウェブサイトで情報を収集し申し込むこともできます。なかには、その国に一度も訪れたことがなくても応募する人もいるようです。

 駐在員と現地採用の違いはいくつもあります。国にもよりますが、一般に現地採用の給料は駐在員に比べて低く、福利厚生にも差があります。海外にある日本の会社に就職した場合、駐在員とまったく同じ仕事をしていても、給料は駐在員の半分、あるいは3分の1ということもあります。

 実際、現地採用者の"身分"あるいは"ヒエラルキー"は駐在員より低く、現地採用者は自分たちのことを自虐的に「ゲンサイ」などと呼び、「どうせゲンサイは......」「ゲンサイだから......」といった表現を好む人もいます。

 ただし、ではそのゲンサイが自身の立場に満足していないかというと、そういうわけでもなく、「駐在員より現地採用の方がいい」と本音では思っている人も少なくありません。その最大の理由は「その国にずっと滞在できる」からです。駐在員の場合、現地採用よりも高い給与を受け取り、"身分"も上なのかもしれませんが、いずれ辞令によりその国を去らねばならなくなります。したがって、「その国が好きだから現地採用を希望した」という人は、自虐的なことを言っていたとしても本音では満足していることが多いのです。

 ここで中国駐在の辞令が出て、HIV陽性のせいで左遷に甘んじた人の話を紹介しましょう。

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【事例1】40代男性

ある日本の大手商社勤務。特に希望をしていたわけではないが中国駐在を命じられた。中国は就労ビザを取得する場合、HIV抗体検査が必要なため谷口医院で実施すると「陽性」だった。HIV陽性であれば就労ビザが取得できないために中国駐在の辞令を断らざるを得ない。しかし会社の辞令を拒否すれば左遷されることになる。「退職か左遷か」で悩んだ結果、左遷を選択し、現在は日本のある辺鄙な地方で勤務している。自身がHIV陽性である旨は今も会社に伝えていない。
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 HIV陽性者には就労ビザが下りないなどというルールは我々の視点からは非常識ですが、このような国は中国だけではありません。日本人に比較的馴染みのある国でいえば、中国以外にはシンガポールとロシアが該当します。また、中東の国々ではほとんど絶望的です。中東のなかで最もリベラルなイスラエルでさえ外国人のHIV陽性者は勤務できないと聞きます。

 では、中国に駐在員としてではなく現地採用で勤務することは可能なのでしょうか。これについて現地の情報を入手すると「不可能」という説も多いのですが、「可能な方法もある」という情報もあります。業種や仕事の内容にもよるでしょうが、可能性がないわけではなさそうです。

 次に実際に海外で働いているHIV陽性の日本人の事例を紹介します。

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【事例2】30代男性

タイが大好きでタイに長期間住みたいと考えていた。日本の企業に就職しタイ駐在を希望することも考えたが、いつ日本帰国の辞令が出るか分からない状況では働きたくないと考え自身で現地採用を募集しているタイの企業を探すことにした。タイの会社や外資系の会社で働くには語学に自信がないために、日本の企業を選択した。福利厚生は充実した会社で、外国人用の豪華な病院を無料で受診できるという。しかし、会社にHIV陽性であることを知られたくない。GINAに相談し「自費診療」でHIVの治療を受けることにした。
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 解説しましょう。まず、この会社の待遇は格別であり、タイに進出している日系企業で現地採用者に駐在員と同様の医療サービスを供給することは稀です。この男性はタイに渡航後、他の疾患で受診が必要な場合は外国人用の大きな病院を無料で利用しているそうです。しかし、その内容は会社に通知がいきます。

 よってHIVの治療についてはこういった病院で受けないことにしました。他の選択として、タイの保険を使って病院を受診するという方法があります。この場合、指定された公立病院を受診することになります(参考:第146回(2018年8月)「タイの医療機関~ワクチン・HIVのPEPを中心に~」)。ただし、この場合、当局から保険の使用状況の詳細が会社に連絡される可能性があり、そのリスクを避けるためにこの男性はこの方法も選択しませんでした。

 公立病院で治療を受けた場合、本当にその詳細が勤務先に知らされるのかについては、はっきりしないのですが、何人かのタイ滞在歴が長い日本人によれば「その可能性がある」そうです。GINAに相談があったとき、私がそれを伝えると男性は「自費診療」を選択しました。

 HIVの治療薬は日本では1日あたり1万円近くします。こんな薬を自費で購入することはできないわけですが、タイでは安価な後発品を購入することができるために、自費であっても1日あたりの薬代は安いものを選べば100円程度です。これなら現地採用の給料でも充分にやっていけます。

 尚、タイの安定した供給とこの安さは日本人以外にも魅力的ですから、アジア周辺の国に住むその国の保険が使えない外国人は定期的にタイに処方を求めてやってきます。先日、台湾の関係者から聞いた情報によると、台湾在住の外国人もこの方法を使うことがあるそうです。ちなみに、台湾は中国とは異なり、HIV陽性で就職できないなどということはありません。というより、入国時にもビザ取得時にも検査を求められません。ただし、2年間居住していなければHIVの治療費は安くならないそうです。

 日頃は米国、豪州、欧州などに住んでいるHIV陽性の患者さんが帰国時に谷口医院を受診したとき、私の個人的興味から抗HIV薬の入手で苦労しないかを聞いています。彼(女)らは「特に苦労もない」と言います。国と保険の種類によってはほとんど無料で処方してもらえるそうです。もちろん、勤務先にHIV陽性が知られることはありません。また、私自身は該当者を一人も知りませんが、関係者によると韓国でも問題なく治療は受けられるそうです。

 HIV陽性者の海外勤務についてまとめてみましょう。まず大まかな情報は「The Global Database on HIV-specific Travel & Residence Restrictions」が有用です。ただし、必ずしもアップデイトできているとは限りませんので、最新のルールを知るには自身で領事館などに問い合わせることが必要です。

 いわゆる先進国の場合は(イスラエルなど例外となる国もありますが)、HIV陽性を理由に就労ビザを取得できないなどということはなく、治療は公的保険でまかなえ、さらに治療の情報を職場に知られることは(まず)ありません。タイ、フィリピン、ベトナム、インドネシアなどのアジア諸国の場合、就労ビザ取得時に検査は求められませんが、先述したタイの事例のように治療内容が会社に連絡されるリスクがあります。このリスクがどの程度のものなのかは様々な噂が飛び交っています。また、台湾のように、国によっては直ちに治療費が安くならない場合もあります。

 ただし、アジア諸国在住者の場合、上述した台湾在住の外国人のように、安い抗HIV薬を求めて定期的にタイに渡航するという方法があります。もちろん、事例2の男性のように居住先にタイを選ぶのであれば何の問題もありません。

 NPO法人GINAを立ち上げて17年になります。この間、大勢のHIV陽性者の人から相談を受けました。GINAがタイのHIV陽性者を支援しているわけですから当然といえば当然なのですが、それでも私の率直な印象は「HIV陽性者は老若男女問わずタイ好きが多い」というものです。日本に閉塞感を感じているHIV陽性の方に「タイで働く」という選択はお勧めです。