HIV/AIDS関連情報

2006年10月31日(火) マレーシアのエイズ対策

 人口約2,500万人、マレー系中心の多民族国家、国教はイスラム教、ひとりあたりのGDPが約9,600ドル(約110万円)、HIV陽性者69,000人で成人のHIV陽性率0.5%(2005年UNAIDS)、といったあたりがマレーシアの基本情報です。

 そんなマレーシアのエイズ事情を一言で言うなら、「これまで適切なエイズ対策をとってこなかった」ということだと思われます。しかし、この国は隣国のタイなどと比べると、あまりにも異なった文化を持っているため他国と同じようにはいかないという背景もあります。そのあたりの事情を10月25日のロイター通信がまとめていますのでご紹介しておきます。

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 以前刑務所に入所していた経験のあるチャン氏は、マレーシアの不充分なエイズ対策が生んだ犠牲者と言えるかもしれません。

 1984年、チャン氏は窃盗罪で3年間の実刑をくらいました。彼は刑務所のなかで薬物中毒となり、その結果HIVに感染してしまったのです。

 「僕は薬物の静脈注射でHIVに感染したんだ。針を共有してたってわけさ。刑務所内にはたくさんのプッシャー(薬物密売人)がいるからね、安く入手できるんだよ」

 現在41歳のチャン氏はその後15年間、薬物中毒者を矯正させる施設への出入りを繰り返しています。現在も23人の同僚と一緒にその矯正施設で暮らしているそうです。

 イスラム教を国教とするマレーシアは非常に保守的な国家であり、薬物に対しては厳しい刑が科せられます。しかし、実際には違法薬物は浸透し、効果的な性教育がなされていないこともあり、HIV感染は徐々に広がりつつあります。HIV対策をこれまで充分におこなってこなかったマレーシア政府には批判の声が相次ぎ、昨年WHOは、「マレーシアはHIV蔓延の分岐点にいる」、と警告を発しました。

 2006年当初の時点で、当局はマレーシアのHIV陽性者を70,559人としています。そのうち10,663人がすでにエイズを発症しています。2005年にエイズを発症した人は1,221人で、これは1995年の233人と比べると大幅に増加していることになります。

 最近まで、マレーシアは、同じくイスラム教の国家であるイランやパキスタンなどがおこなっている注射針の無料供与などのHIV対策を取っていませんでした。注射針の無料供与は世界的に有効性が示されているのにもかかわらずです。

 昨年になってようやく注射針やコンドームの無料配布を開始しました。「(コンドームや注射針を配布すれば)フリーセックスや薬物の氾濫を助長しかねない」という反対意見が根強いためになかなか実行に移せなかったというわけです。

 現在では、注射針の無料供与を含めて5億リンギット(約1億3,600万ドル、約160億円)を投入しエイズ予防に力を入れています。

 マレーシアのHIV感染の原因で最多のものは薬物の静脈注射で、男女比は10対1となっています。HIV陽性者のおよそ6割はマレー人だと言われています。マレー人はマレーシアで最大数をほこる民族で、HIV陽性者の大半は無職です。

 エイズの活動家たちは、政府が薬物対策、さらには性教育を適切におこなってこなかったことを非難しています。

 特に若者の間でコンドームを用いない性行為が氾濫しHIVに対する知識が欠落している者が多いという調査を受けて、若者を対象とするHIVに関する教育が近日中に開始される予定です。政府のデータでは、1986年から2005年までにエイズを発症した者の4人に1人は13歳から29歳の若い世代であったそうです。

 「政府が充分な予算を組んでいることもあり、現在上昇し続けているHIV陽性者の数は2009年もしくは2010年までに頭打ちになるだろう」、マレーシアの保健大臣Chua Soi Lek氏はそのように述べています。

 マレーシアは高い経済成長率を続け、西洋の文化も浸透してきていますが、その割には性については容易に口にできない保守的な文化を保っています。

 クアラルンプールは19世紀半ばにスズの採掘拠点で栄えだしましたが、その頃は置屋、賭博場、アヘン吸引者のアジトなどがあふれた街であったと言われています。現在では、いくつかのクラブで薬物やアルコールが氾濫しています。一方、公園などでのキスやハグは厳しく禁じられているという一面もあります。

 学校では性の教育が一切おこなわれておらず、そのため、HIVは蚊やノミ、南京虫などの媒介で感染すると考えている若者もいるそうです。

 イスラム教の指導者たちは注射針やコンドームの配布に厳しく反対しています。

 「そんなことをすれば、人々はフリーセックスに走るようになる。我々は問題の根源を主張していかなければならない。(注射針やコンドームの配布の代わりに)政府は娯楽施設を統制し、若者の夜間の外出を禁止すべきだ」、マレーシア最大のイスラム教系宗教組織のスポークスマンはそのように述べています

 このような考えをもっているのはイスラム教徒だけではありません。マレーシアのキリスト教系の宗教団体の一員は次のようなコメントをしています。

 「この国では注射針やコンドームを配布するよりも、伝統的価値観を見直す方がエイズ抑制の効果があるだろう。我々が発展し続けるために最も大切なことは禁欲なのである」

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 最近の日本の世論は、性教育を広げてHIVに対する関心を高めようというものがあり、それに対する保守層からの反対意見は少なくありません。しかしながら、「日本の伝統を見直すことがHIV予防につながる」というコメントはあまり聞ききません。日本はマレーシアなどとは異なり、禁欲の文化はそれほどなく、昔から性に開放的な国であったのは事実でしょうが、それでも、現実的かどうかは別にして、そのような意見をあまり耳にしないのは少し寂しい気がします・・・。

(谷口 恭)