GINAと共に

第72回 セントラルドグマと逆転写酵素(2012年6月)

 私が本格的にエイズの諸問題に取り組みたいと思ったのは、2002年にタイ国ロッブリー県のエイズ施設であるパバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)に訪問してからですが、施設を訪れる前からもエイズには強い関心を持っていました。

 HIVは、同性愛者や薬物常用者、あるいはセックスワーカーといった人たちに感染することが多く、彼(女)らは感染の可能性を考えて医療機関を受診しても差別的な扱いを受けている、ということを医学部の学生の頃に何度か聞いていたため、医師になる前から何らかのかたちでHIV/AIDSの医療に関わりたいという気持ちを持っていたのです。

 しかし、実は私はそのかなり前からHIVには多大なる興味をもっていました。その「興味」とは、差別されている人の力になりたい、という「社会的」なものではなく、また治療を施したいという「医学的」なものでもなく、HIVというウイルスの性質に惹かれた、という、純粋に「生物学的」なものだったのです。

 それは私が大学で社会学を学んでいたときですから1989年か1990年頃だったと思います。ある本(注1)を読んでいると「セントラルドグマ」という言葉が私の目に飛び込んできて大変驚きました。なぜ驚いたかというと、その本は、誰にでも分かりやすく書かれているとはいえ、その章は生物学(生命科学)について述べられていたからです。

 「ドグマ」という言葉は、社会科学というよりも人文科学、あるいは宗教学でよく出てくる単語で、「(宗教の)教義」という感じの意味ですが、文脈によっては否定的な意味あいで用いられることが多いものです。つまり、独断的で一般的には社会から支持されないような宗教的教義、というニュアンスです。

 しかし「セントラルドグマ」という言葉を提唱したのは、あのクリック博士というではないですか。クリック博士と言えば、ワトソン博士と共に、DNAの二重らせん構造を証明した、文科系の学生でも名前は知っているノーベル(生理学)賞受賞者です。

 そのノーベル賞を受賞したクリック博士が、「ドグマ」などという不気味な単語を用いた理論を提唱した、ということに驚かずにはいられなかったのです(注2)。

 ここで「セントラルドグマ」とはどのようなものなのかを説明しておきましょう。

 遺伝情報は(ヒトの場合)すべてDNAに刻まれていて、それがRNAというものに転写(DNAの情報が写される)されて、RNAの情報をもとにタンパク質が生成されます。つまり、情報の流れは、DNA→RNA→タンパク質、となるわけで、セントラルドグマとは、この遺伝情報の流れ、を指しています。

 ここで「ドグマ」という言葉が使われていることが、社会学や宗教学を学んだ人間にとっては"不気味"なのです。クリック博士は、遺伝情報の流れを証明したわけですから、それが絶対的に正しいのであれば、セントラルドグマなどと言わずに、セントラルセオリー(基本的定理)とか、セントラルファクト(基本的事実)、セントラルフォーミュラ(基本的公式)などにすればいいわけです。

 それを"あえて"「ドグマ」という単語を持ってきている、ということは、セントラルドグマはいつかは覆されることをクリック博士は予感していたのではないか、そう考えたくなります。いえ、しかしもしそうだとするなら、ドグマなどという「いわくつき」の単語ではなく、例えば、セントラルハイポセシスとかセントラルアサンプション(hypothesisもassumptionも仮説という意味)と言えばいいわけです。では、なぜドグマなどという意味あり気な言葉をあえて用いたのでしょうか。

 おそらくクリック博士はこの時点で、「いずれDNA→RNA→タンパク質という遺伝情報に従わない<例外>がでてくる。そしてその<例外>は教科書の隅に記載されるようなものではなく、生物学の世界のみならずこの世の中を大きく混乱させるような"何か"であるに違いない。だからあえてインパクトの強い「ドグマ」という言葉を使おう」、と考えたのではないかと勘ぐりたくなるのです。

 クリック博士がDNAの二重らせん構造について科学誌『Nature』に論文を発表したのは1953年、セントラルドグマという言葉を提唱したのは1958年です。その四半世紀後、世界を震撼させることになるHIVが発見されました。そして、そのHIVこそが、セントラルドグマに従わない病原体なのです!

 How dramatic!、と感じるのは私だけでしょうか。セントラルドグマが提唱された1958年当時、ドグマという名称とは裏腹に、誰もがこの遺伝情報の流れを絶対的な真実だと思っていたのです。しかし提唱者であるクリック博士は、この理論が破られる日がいずれやってくる、そしてそれは社会を震撼させるような出来事と共にやってくるのではないかと感じていたわけです。そして四半世紀後にHIVが発見されたのです!

 ここでHIVはどのようにセントラルドグマに従わないのかをみていきましょう。HIVは生物学的にはレトロウイルス(注3)に分類されます。レトロウイルスとは、「RNAウイルス(注4)の中で逆転写酵素を持つもの」を指します。ドグマほどのインパクトはありませんが、この「逆転写酵素」という言葉も、一度聞いたら忘れない、なにやら不気味な響きを持ちます。

 HIVはヒトの体内に侵入すると、特定の細胞に入って行き、自分の情報(RNA)をヒトの遺伝子(DNA)に植えつけることができます。たとえて言えば、他人の家に勝手に上がりこんでそこに居座るようなものですが、このときに必要なのが逆転写酵素というわけです(注5)。

 つまり、一部のRNA型ウイルスがヒトの体内に侵入すると逆転写がおこなわれるということは、DNA→RNAという流れ(セントラルドグマ)に従わない、RNA→DNAという流れが存在することになります。そして、これが逆転写酵素の存在が証明されたことによって判明したのです(注6)。

 しかし逆転写酵素が世界で初めて発見された1970年で、この頃はまだエイズという疾患は知られていませんでした。逆転写酵素は、動物にガンを引き起こす一部の腫瘍ウイルスを用いての研究で発見されたのです。(これは私の推測ですが)そのため、1970年当時はこの画期的な発見は科学者の間ではかなり注目されたでしょうが、一般社会ではそれほど大きなニュースとはならなかったのではないかと思われます。

 それから十数年がたち、世の中を震撼させたエイズの正体がHIVであることが判り、そしてそのHIVがレトロウイルスであり、逆転写酵素を用いて、自分のRNAの情報をヒトのDNAに植えつけていることが判ったわけです。

 まだ私が社会学を学んでいた頃は1980年代後半でしたから、有効な薬剤は皆無で、エイズとは「死に至る病」でした。当時は、これからエイズは世界中で急速に広まりやがて人類を滅亡させるのではないか、とも言われていました。

 そのエイズの正体がHIVで、HIVはレトロウイルスの1種であり、逆転写酵素を巧みに用いてヒトの遺伝子にもぐりこむ、そして遺伝情報の流れはRNA→DNAですから、クリック博士の唱えた「セントラルドグマ」を崩壊させるものだったのです。(正確に言えばセントラルドグマに例外があることが判ったのは逆転写酵素が発見されたのは1970年ということになりますが、逆転写酵素が一躍有名になったのはHIVの発見によるものです)

 生物学を学ぶと、生命の神秘に感動させられることが多々ありますが、私にとっては、この「セントラルドグマは逆転写酵素の発見により終焉を迎えた」という事象がいまだに最もドラマティックなものであり続けているのです(注7)。


注1:「ある本」とは栗本慎一郎氏の『パンツを捨てるサル』です。それまでも栗本氏の著書は何冊か読んでいたのですが、私にとってこの本は衝撃的でした。内容は決して科学一色とは言えず、批判されることも多い本でしたが、その後の私の進路に影響を与えた一冊と言ってもいいと思います。この原稿を書くために約20年ぶりに読み返してみようと思ったのですがどこかに行ってしまっていることが判り、早速Amazon.comで注文しました。

注2:私はそれから6年ほどして医学部に入学することになるのですが、私の医学部時代に、分子生物学を含むすべての授業で「セントラルドクマ」という言葉を聞くことは一度もありませんでした。ということは今では「死語」になっているのかもしれません。もしも授業でこの言葉がでてきたら「先生はクリック博士が"ドグマ"という言葉を用いたことをどう思いますか?」と質問したかったのですが、結局その質問はできずじまいでした。

注3:レトロウイルスではHIVが最も有名ですが、HTLV-1(ヒトT細胞白血病ウイルス)もこの仲間です。

注4:ヒトを含めてすべての動植物は遺伝情報をDNAで持っていますが、ウイルスのなかにはRNAで遺伝情報を有しているものがいます。HIV以外にも、麻疹(はしか)、風疹、インフルエンザなどのウイルスはRNA型ウイルスです。

注5:逆転写酵素はレトロウイルスの専売特許というわけではなく、DNA型のウイルスでもこれを持っているものがいます。そのウイルスとはB型肝炎ウイルスで、HIVだけでなくB型肝炎の治療に逆転写酵素阻害薬を用いるのはそのためです。

注6:ちなみに逆転写酵素は1970年にボルティモア博士に発見されました。ボルティモア博士は、ワトソン博士に比べると知名度は高くないかもしれませんが、逆転写酵素の発見により1975年にノーベル生理学賞を受賞しています。

注7:私は医学部に入学したときには、医師になるつもりはなく医学の研究をしたいと考えていました。その後、いろんな経験を経て医師の道を選択したのですが、今でも研究に対する未練のようなものがないわけではありません。しかし、「自分には研究者になる素質も能力もない」ということを医学部時代の間に何度も痛感し諦めがつきました。逆に、医学部入学時にはエイズの問題に「社会的に」取り組むつもりはなかったのにGINAを設立することになったわけで、人生とは奇妙なものです・・・。