GINAと共に

第26回 HIV感染夫婦の体外受精は中止すべきか(2008年8月)

 2007年1月に「GINAニュース」で、東京の荻窪病院で共にHIVに感染している夫婦に対する体外受精が倫理委員会で承認されたというニュースをお届けしました。

 しかしながら、この承認に対し、厚生労働省から「社会的な議論と倫理的な検討が必要」との理由でストップがかけられ現在中断していることが先月わかりました。(2007年7月20日の毎日新聞)

 まずはこの経緯を振り返りたいと思います。

 荻窪病院では、精子からHIVを取り除く方法を開発し、夫のみが感染している夫婦に対し体外受精をおこない、これまでに65人の子供が誕生しています。母子ともにHIVが感染した例は1例もありません。

 同病院では、厚生労働省研究班の研究事業として、この方法を共にHIVに感染している2組の夫婦にも適用することを検討してきました。同院の倫理委員会でこの2組に体外受精を実施することが決定されたのですが、厚生労働省が中断を要請してきました。その最大の理由は、「子供が成長する前に両親が亡くなる可能性があるから」というものでしょう。 

 薬害エイズ被害者らでつくられている「はばたき福祉事業団」は、この件に関して、「一番大切なことは新たな悲劇を作らないこと。感染した場合の責任についての議論が必要。また、社会的援護も必要になる。もし実施するとしても広くコンセンサスを得ながら進めるべきだ」と述べています。

 また、2004年に欧州連合などの専門医らで構成される特別委員会は、「少なくとも片方の親が子供の成人まで養育すべきだ」との見解を発表し、生殖補助医療(体外受精)は片方の親が感染している場合のみに限るように勧告しています。

 しかし、この勧告に対しては、英国の研究者が、「感染者の予後は同じではない。(認めないことは)希望するカップルの生活の質を低下させる」と反論し、海外でも一定のコンセンサスは得られていません。

 これらをまとめると、HIV感染夫婦の体外受精について、賛成派は「子供を欲する権利は厚生労働省らの勧告で踏みにじられるべきではない」という考えで、反対派は「万一両親が死亡した場合、その子供は誰が育て支援していくのか」と主張しています。

 日本ではHIVの母子感染はそれほど多くないものの、海外では珍しいことではなく、タイでは現在でも母子感染でHIVに感染する子供は少なくありません。

 そもそも、タイ(特に北部)では、夫婦がどちらかの(あるいは双方の)HIV感染に気付いていない例が少なくなく、そのため県によっては夫婦が籍を入れるときにHIV検査を義務付けているところもあります。しかし、タイ(特に北部や東北部)では、正式に籍を入れずに事実上の結婚生活をおこない、子供が産まれて初めて籍を入れるという夫婦もいまだに少なくありません。(いわゆる日本の「できちゃった婚」と同じようなものです)

 そういった場合、妊娠中に初めて妊婦のHIV感染が分かったということもあって、帝王切開に切り替えるなどの対策をとったとしてもHIV陽性の子供が誕生するケースもあります。そして、得てしてこういうケースでは父親もHIVに感染している場合が多いのです。(このウェブサイトで何度もお伝えしているように、タイでは最大のハイリスクグループは、薬物常用者でもセックスワーカーでもなく「主婦」なのです)

 さて、母親からHIVに感染して誕生した子供たちは、誰が支援することになるのでしょうか。もちろん、両親、もしくはどちらかの親が健在であれば、親が子供の面倒をみることになりますが、タイでは治療開始が遅れるケースが多く(感染発見が遅れることが多いのです)、子供が誕生してしばらくすると両親の容態が悪化し死亡することも多々あります。

 北部のパヤオ県では、こういう子供たちがかなりの数に昇り、いわゆる「エイズ孤児」が珍しくありません。(大半は両親をエイズで亡くしたものの自身はHIV陰性というケースですが、母子感染でHIV陽性の子供もおそらく1割程度はいます)

 では、自らはHIVに感染していてもしていなくても両親がエイズで死んでしまった場合、その子供たちは誰に育てられているのでしょうか。

 GINAが支援をしているパヤオ県の地域にも、こういう子供たちは大勢います。その子供の祖父や祖母が健在の場合は、祖父母に育てられます。しかしながら、祖父母だけでは肉体的にも経済的にも孫を育てる余裕がない場合がほとんどです。たとえ、祖父母と同居することができたとしても何らかの社会的支援がなければ子供は生活することができません。

 また、祖父母が他界しているなどの場合は、親戚が子供の世話をすることになりますが、やはり限界があります。

 ではエイズ孤児が入れる施設があるかというと、チェンマイやチェンライまで行けばないことはないのですが、施設の数は多くなく、まったく身内のいない遠くに行くことにも問題があります。

 実は、パヤオ県のこの地域では、数年前にエイズ孤児が入所できる施設をつくろうとする動きもあったのですが、最終的には「施設をつくるのではなく地域社会全体でエイズ孤児の支援をしよう」ということになりました。

 この地域では、エイズ孤児が生まれた場合、両親だけで育てられなければ地域社会全体で支援しているのです。学校までの送迎や、食事の面倒まで地域社会が支援しています。そして、その中心的な役割を担っているのが「HIV陽性者の団体」なのです。

 この地域では、HIV陽性者がHIV陽性者を支援しており、それが実に見事に機能しています。(この詳細は、第20回日本エイズ学会(2006年)で「HIV陽性者によるHIV陽性者の支援」というタイトルで発表しました)

 日本では、現時点では、エイズ孤児を含めたHIV陽性者を地域社会で支援していこうという動きは私の知る限りありません。

 もしも、日本国内に上に紹介したパヤオ県のような地域社会があれば、荻窪病院に対して厚生労働省がストップを要請するようなことはなかったかもしれません・・・。

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