GINAと共に

第46回 ある慈善団体の無意味な施策(2010年4月)

 「せんせー、また眠れなくなっちゃった・・・」

 診察室に入ってくるなり、少し甘えたような声で不眠を訴えるのは相良美香(仮名)である。美香がこのクリニックに初めて来たのは3年前の春、そのときはまだ30代だった。たしか「風邪が治らない」というのが最初の受診目的だったはずだ。

 その後、あるときは便秘、あるときは円形脱毛症、またあるときは「オリモノの臭いがおかしい」と言ってやって来た。毎週のように受診するようになったかと思えば、3ヶ月くらいばったり来なくなることもあった。

 「せんせい、実はね、あたしフーゾクの仕事をしているの・・・」

 美香がそう言ったのは、最初に受診してからおよそ1年が過ぎる頃だった。医師と患者の信頼関係というのは比較的すぐにできることもあれば、何年たっても壁を壊さない患者もいる。美香が僕にフーゾクの仕事をしていることを打ち明けるまでには何度も葛藤を繰り返していたのかもしれない。

 「そうなんですか。いろいろと大変そうですね・・・」

 僕がそう言うと、自分がフーゾクの仕事を打ち明けても一向に驚かない僕に対し美香は意外そうな顔をした。当たり前のことだが病気は患者の属性を選ばない。どのような仕事をしていようが、どのような趣味をもっていようが、お金があろうがなかろうが、病気は誰にでも訪れる可能性がある。だから医療機関にはどのような人もやってくる。有名人も来れば政治家も来る。パスポートを持っているかさえ疑わしい外国人もやって来れば、凶悪犯罪者だって来ることもある。だから、医師は目の前の患者がどんな仕事をしていてもどんな経歴があっても診療とは関係がないと考える。医療行為はあらゆる患者に平等におこなわれなければならないからだ。

 僕は患者である美香に感情移入をしたわけではないし、したように見せかけたわけでもないのだが、思い切って自分の秘密を打ち明けたことで僕との距離が近づいたと感じたのであろう。これまでの生い立ちを話し出した。

 美香は現在42歳。今は他人に言えないような暮らしをしているが、30代の初めあたりまでは順風満帆の人生を歩んでいたようだ。関西ではかなりの難関とされている有名私立大学を4年で卒業し、その後は都市銀行に就職。職場の同僚との社内恋愛の末、27歳で結婚。結婚後は銀行を退職し専業主婦になった。しかしタイミングが悪くその頃から景気が悪化。美香が勤務していた都市銀行も合併を余儀なくされ、美香の旦那はリストラの対象に。なんとかリストラは免れたものの社内での立場が悪くなり、そのストレスが酒と女に向かったようだ。ついに美香に暴力をふるうようになり離婚・・・。美香が33歳のときである。

 その後美香は転職を繰り返したが市場は厳しかった。有名大学を卒業しているとはいえ、特に技術があるわけでもなく銀行時代にしていた仕事は実社会で役に立たない。そのうち30代後半になり、面接にさえたどり着けなくなった。そして、フーゾクの世界へ・・・。

 「あれほどほしかった子供ができなかったことが今となってはせめてもの救いよ・・・」

 たしかに、今小さな子供がいれば身動きがとれなくなるだろう。鹿児島の母親は5年前に父が他界してから元気をなくし、現在は寝たきりの状態だそうだ。田舎に残った妹が面倒をみてくれているのは安心できるが、近況を詳しく話せない美香は最近妹とも連絡を取らないようにしているという。離婚後は新しい恋愛相手もみつからず、心を開いて話せる友人もいない。もしかすると主治医である僕が最もホンネをさらけだせる相手なのかもしれない。

 「先生、やっぱりハワイはいいよ~。先生も仕事ばっかりしてないで、たまにはハワイでのんびりしてきたら~」

 2週間前にやってきた美香はこう言っていた。日本ではイヤなことばかりだけど、ハワイに行って本来の元気な自分を取り戻せた、この次ハワイに行くことを考えれば、日常で少々の辛いことがあってもお金をかせぐためにがんばれる・・・。笑顔で美香はそう話していたのだ。

 しかし、2週間がたった今日、「眠れない」と言ってやってきた美香は、なんとか笑顔をつくろうとはするものの、不安と疲れが蓄積したその表情はSOSのサインを発しているようだ。

 現在の美香にはそれなりのお金がある。着ている服も使っている化粧品もそれなりの高級品のようだし、実際にひとりでハワイ旅行にも行っているのだ。しかし、美香の表情からは不安が隠せない。なぜか・・・。

 それは、このような生活が、お金があったとしても幸せでないことに気づいている、という話だけではない。最大の原因は、このような生活が長続きしないことを美香はよく知っているということだ。フーゾクという仕事がそれほど続けられないことにはすでに気づいているし、この仕事を隠し通したとしてもこれから恋愛や結婚ができる保証はない。今からやりがいと高収入を約束された仕事が舞い込んでくることなどあり得ない。お金がない、頼れる人がいない、将来への希望がまったくない・・・。このような現実に目を向けると眠れないのも当然なのかもしれない・・・。


 長くなりましたが、これは私が過去に診察した複数の患者さんをヒントにつくりあげた架空のストーリーです。

 登場人物の「美香」を不安にしているのは、現在恋人や友達がいないということもありますが、最たる原因は「将来の希望がない」ということです。将来の希望があれば少々のことではへこたれない、それが人間ではないでしょうか。

 2010年4月20日のSydney Morning Herald(オーストラリアの英字新聞)に興味深い記事が掲載されました。国際的な慈善団体の「サン・ヴァンサン・ドゥ・ポール・ソサイエティ」のオーストラリア支部が、ホームレス問題を理解してもらうために、企業のトップらに6月の真冬の路上で寝てもらう企画をたてているというのです。昨年も同じ企画をおこない213人の企業のトップが集まったそうです。

 この記事を読んで違和感を覚えるのは私だけでしょうか。この慈善団体はこのようなことをおこなって、企画に参加する企業のトップたちがホームレスの苦しみが理解できると考えているのでしょうか。企業のトップたちが実際に路上で寝るのは一晩だけです。朝になりその企画が終われば、暖かいマイホームに帰れることが保証されているのです。しかも、報道によりますと企画に参加する人たちは睡眠薬を準備しているそうです。睡眠薬を飲んで、わずか一泊路上で寝て、それでホームレスの人たちの気持ちが理解できると本気で考えているのでしょうか。

 ホームレスの人たちは、なかには陽気な人もいるかもしれませんが、大半は苦悩と共に生きています。ある調査によればホームレスの約6割はうつ病などの精神疾患を抱えているそうです。そして、ホームレスが苦悩を抱える最大の理由は、「その日に路上で寝なければならない」ではなく「将来の希望がない」ということです。もしも、翌朝には暖かい家に帰れることが分かっているなら、どんな寒さにも絶えてその夜を"喜んで"過ごすことでしょう。

 この慈善団体がこの企画をおこなうのは、「ホームレスになるのは個人ではなく社会全体の問題」と考えているからだといいます。であるならば、このような企画ではなく、「将来の希望がまったく見出せない状況に置かれたとしたら・・・」という状況を大勢の人に考えてもらう機会をつくるべきではないでしょうか。

注:上に述べた「美香」と「僕」のストーリーはフィクションであり、もしも身近に似ている境遇の人がいたとしてもそれは単なる偶然であるということをお断りしておきます。