GINAと共に

第41回 HIVワクチンに無関心なタイ人(2009年11月)

 2009年9月24日、タイのウィタヤ・ケオパラダイ(Witthaya Kaewparadai)保健大臣が、HIVワクチンの臨床試験で、感染リスクの低減を示す結果が得られたことを発表しました。

 このニュースは翌日(9月25日)のBangkok Postで報道され、さらに世界中のマスコミで取り上げられています。日本のマスコミでも扱いはさほど大きくありませんでしたが、一部の報道機関で伝えられたようです。さらに、医学誌『New England Journal of Medicine』電子版の2009年10月20日号にはこのワクチンについての論文が掲載されています。

 このワクチンの臨床試験の結果について簡単にまとめておきましょう。

 2003年10月、タイ東部のチョンブリー県とラヨン県の16,402人を対象として臨床試験が開始されました。対象者を半分に分け、1つのグループにはワクチンを接種し、もう1つのグループには偽ワクチンを接種して、3年間にわたり追跡調査が実施されました。尚、対象者は調査開始時点でHIVに感染していない18~30歳の健康な男女で、多くが異性愛者とされています。

 追跡調査の結果、偽ワクチンを接種したグループでは74人がHIVに感染し、ワクチンを接種したグループで感染したのは51人でした。この数字を統計学的に分析すると、「感染率が31%軽減した」、という結果となっています。

 このワクチンは2種類のワクチンを混合し合計6回接種することになっています。ワクチンの副作用はほとんどなく安全なワクチンであるということは言えそうですが、有効率が3割というのは、他の感染症のワクチンと比較すると少し物足りない感じがします。

 実際、ウィタヤ保健大臣は、「ワクチンはまだ実用レベルには達していない」とコメントしています。しかしながら、HIVのワクチンはこれまでも多くの地域で研究されてきましたが、わずかとはいえ有効性が確認されたのは今回が初めてですから、今後のワクチン開発に希望を与えるものであるという言い方はできるでしょう。

 さて、上でも述べましたように、このHIVワクチンについてのニュースは一部の日本のマスコミでも報道されましたが、残念ながら日本人にはあまり関心のないことなのか、大きく報道されることは(私の知る限り)ありませんでした。

 現在、日本ではHIV感染が増加しているのにもかかわらず、無関心さは感染者の増大よりもはるかに大きな勢いで増してきているようで、検査を受ける人も減ってきているようです。先日、公衆衛生関係のある学者に尋ねたところ、大阪では去年に比べ、保健所にHIV検査に来る人が半数程度に落ち込んでいるそうです。

 日本人のHIVに対する無関心さは今に始まったことではありませんから、HIVのワクチン開発が話題にならないのは驚くに値することではないのかもしれません。

 ではタイではどうでしょう。タイは90年代半ばに感染者が急増し、一時はHIV感染症の抑制が国の最優先事項と考えられていましたが、現在では新規感染者は急減し、世界的にはタイは「エイズ撲滅に成功した国」とみられています。実際、大手のNPOなどの支援団体はタイからアフリカなどの他国に支援の矛先をシフトさせています。

 しかし、実際のところはこういった認識とは随分と異なります。タイで新規感染者が減ったといっても、今でも年間約1万8千人が新たに感染しておりここ数年は横ばいです。しかも感染者の層が低年齢化しており、さらに最大のハイリスクグループが主婦になっているため新たな対策が必要になってきています。エイズ患者やエイズ孤児は、今でも生活に苦労しており支援が必要でないわけではありません。GINAがタイから離れられないのもこのような現実を目の当たりにしているからです。

 さて、年間1万8千人が新たにHIVに感染しており(タイの人口は約6千万人です)、若い層での感染者の増加が問題になっているタイで、ワクチンが開発されたわけです。ウィタヤ保健大臣の発表の翌日には、Bangkok Postがこのニュースを大きく取り上げました。私としては、きっとタイ人の多くがこのワクチンのことを話題にし、大きな期待を持っているのではないか、と考えました。

 ところが、です。電話やメールでタイ人何人かに聞いてみても、まずこのニュースを知っているタイ人がほとんどいません。「タイでHIVのワクチンが開発されたよ。有効率は3割程度だけどすごいことだと思わない? もし実用化されて値段が安ければ接種する?」という質問をしてみたのですが、ほとんどの人が、「HIVのワクチン? 興味ないね・・・」という態度なのです。

 そこで私はタイ駐在のGINAのスタッフに調査を依頼することにしました。タイ人数十人に、ワクチンが自国で開発されたことを知っているか、ワクチンが実用化されれば接種したいか、などのアンケートをするように依頼しました。

 その結果は、結論から言えば「調査の価値なし」というものでした。本格的な調査を始める前に、そのスタッフは周りのタイ人何人かに意見を聞いたそうなのですが、ほとんどのタイ人は、私が電話などで直接タイ人と話したときのように、HIVそのものに無関心であり、ワクチンのことまで話が進まないそうなのです。

 そのスタッフによれば、もしも調査をするのであれば、タイ人のなかでも上層階級に入るような人に限定しなければまともな回答が得られないであろう、とのことでした。私が知りたいのはHIV感染のリスクがあると思われる一般的なタイ人を対象とした調査ですから、これでは意味がないと判断し、結局調査は中止することにしました。

 今回の臨床試験で対象となったのは、チョンブリー県とラヨン県というタイ東部です。これら2県は工業地域としても有名で日系の企業や工場もたくさん進出している地域です。実際、地域のひとりあたりのGDPは、バンコクを含むタイ中部よりもタイ東部の方が高くなっており、東部はタイの中でもかなり発展した地域なのです。チョンブリーにはタイ最大の歓楽街であるパタヤもあります。その地域で試験に参加したなかでワクチンを接種した人も含めて合計125人の若者がHIVに新たに感染しているのです。

 結局のところ、HIVに無関心なのは日本でもタイでも同じことなのではないか、と私は考えるようになりました。我々医療従事者やNPOのスタッフであれば、日々HIVに感染した患者さんがどれだけ肉体的、精神的、あるいは社会的に苦労しているかを目の当たりにしていますが、周囲に感染者がいない人にとっては、HIVとは自分とは関係のない別世界のことなのかもしれません。

 HIV検査の受検者が減っているのは、日本だけでなくタイでも同じような状況だそうです。ということは、我々GINAのようなNPOがもっともっとHIVのことを世間にアピールしなければならないのかもしれません。